Tuesday, June 30, 2009
「アマゾンの半漁人」が消した私の書評たち
これまでAmazonの書評コーナー「カスタマーレビュー」に書籍だけで60点以上、映画やDVDを加えると100点は下らない感想文を投稿してきましたが、最近確認したところ2009年4月10日に投稿したはずのT.E.ロレンス著「知恵の七柱 1 完全版 東洋文庫」などのデータがいつのまにやら消えうせています。最近書いた「高橋源一郎の「大人にはわからない日本文学史」も、2008年11月に投稿した雑賀恵子著「空腹について」と「エコ・ロゴス」の書評も同様に消去されていました。
これまで私は、書籍については同じ内容の書評をAmazonとbk1社に同じように投稿してきましたが、bk1社の延べ掲載点数が67、Amazonのそれが映画やDVDを含めてちょうど30点ということは、小生が投稿した総点数のおよそ半分をAmazonは没にしたということになります。
もとより浅学菲才の身ゆえ、悲しいかな削除された約30本は、おそらくはAmazon社の厳しい投稿基準を満たさない幼稚かつ過激な表現に満ち溢れていたのではないかと危惧した私が後学のためにAmazon 社の英明なる担当者に削除理由を尋ねたところ、それらは800字という文字制限を超えていたから削除されたという返事。あれらの作文とパソコン操作に費やされた膨大な手間暇をどうしてくれるんだと文句の一つも言いたくなりました。
そこで本日はアマゾンの半漁人によって無残にも消去されてしまった雑賀恵子著「空腹について」と「エコ・ロゴス 存在と食について」の書評を再掲載させていただくことといたしました。
◎雑賀恵子著「エコ・ロゴス 存在と食について」 存在を賭した精神の大旅行記
「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら私たちを未踏の領域に導いていく。「最初の食欲」では食べるということの本質が解き明かされ、「遥か故郷を離れて」ではカインとアベル以来私たちが殺してきたものを見つめ、「草の上の昼食」、「パニス・アンジェリクス」では大戦中の兵士や船長が直面した殺人と食人の現場における「倫理」のありかについて光を与え、「ふるさとに似た場所」では、私たちの生の本質は「骰子一擲」であり、その不断の歩みに回帰すべき場所はないこと、「嘔吐」では私たちが他者、他の存在とかかわる劇場の中で生きていること、「舌の戦き」では舌が他者との交通の歓びを味わい、その快楽の記憶を呼び起こす器官であること、「骸骨たちの食卓」では、私たちがたとえ檻の中に捕われたカフカの「断食芸人」であろうとも観客の眼差しとは無関係に愚鈍に生きるべきこと、「ざわめきの静寂」では私たちは瞬間毎に新たに立ち現れる存在であること、が叙事詩のように力強く、抒情詩のように美しく語られる。そして著者が終章において、まるでサッフォーのように、あるいはまた「星の海に魂の帆をかけた女」のように次のように語るとき、私たちはこの誠実で真摯な探究のひとまずの結論を、大いなる共感とともに受け止めないわけにはいかないだろう。「言語を持ったわれわれは、歴史を持つ―すなわち過去を振り返り、傷みを感じつつ検証することが出来るということでもある。わたしたちは死すべきものであるのだから、生は他者の死との連関の中で繋がれるものだから、だからなのだ、根源的な殺害の禁止は、絶対的なものであり、つまり他者の殺害ばかりではなく、自己の殺害の禁止をも含むものなのだ。」「生きるとは、ともに在ることであり、倫理とは、生きようとする意志のことだ。…言葉でもって、生きる場所の論理を語ること。確かに、それは、どれほどの試みを積み重ねても、失敗し続けるだろう。だが、言語によって、われわれは歴史をもったとともに、未来というものをわれわれの思考の中に導き入れたのだ、未来、希望というものを。」この本は、著者の存在を賭した精神の大旅行記というべきだろう。
◎雑賀恵子著「空腹について」 知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセー
新進気鋭の科学者にして社会思想家による構想雄大、真率にして繊細、知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセーである。「あらゆる人間の営為は、物質の動きによって表現される。たとえば、愛。触れ合う唇の湿り具合。絡み合う指の温度。鼓動の響き。肌の触感。あどけない笑顔からこぼれる生えかけの小さな歯。抱いた時の心地よい重み。日向くさい頬に透ける血管。留守番電話に残された「お休み、いい夢を」という囁きを反芻するせつなさ。熱で苦しんでいると、ひたとも動かず凝っと見守り、時々冷たい手の肉球を唇や頬にあててくれて鼻先を近づけそっと嘗める猫の潤んだ瞳。そういうものの積み重ねであり、個別の他者の持つ個別の記憶に支えられている」という文章に接した人は、もうどうあってもこのあまりにも魅力的な詩文ファンタジーの世界の扉を押さないわけにはいかないだろう。まず「なぜお腹が空くのか?」と考え始めた著者の夢想と空想は、次いで「なにが美味しいのか?」という考察に向かい、ここで突如「残飯をめぐる歴史的研究」に転身し、最低辺の貧民や女工がどのように悲惨な食生活を強いられていたかを一瞥し、さらに軍隊における軍用食の問題に潜入すると、ついに脚気と食物の因果関係を認めようとしなかった頑迷な陸軍軍医鴎外森林太郎が日露戦争で多くの脚気羅病者を出してしまったこと、「戦争をするために軍隊があるのではなく、膨れ上がり自国内部でもてあました空腹が他者を食いつぶすために戦争がある」と喝破するに至る。 餓島ガダルカナルにおける悲惨な戦闘と絶望的捕食に触れた著者は、さらに「食人」の問題に言及進み、我が国で古来幾多の大飢饉に際して食人が珍しくなかったにもかかわらず、わたしたちの現在の社会で食人が起こるとは想定されず、それを禁じる法律すらないという異常さを指摘する。そして「現在の地球人口と資源および生産形態から見れば、いずれ人体を食料資源として考慮に入れなければならないとする議論が確実に出てくる」とカッサンドラのように不吉な予言をするのである。 かつて学生時代のある時期に、動物実験で毎日のようにマウスやラットを数匹以上殺していたという著者は、養鶏場の近代的な工場で機械製品を作るように大量生産されるブロイラーや霜降り肉を生み出すために飼育されている大量の牛たちに対して、人間はいったいどのように向き合うべきか? 資本の論理に貫徹された食肉生産の現場において、人間が動物に対する優しさや残酷さとはいったい何か? と自問する。 最後に、飢餓をはじめとする「世界の貧困」について、その歴史的政治経済的分析を終えたあとで、著者は次のように述べる。「慎ましくも必要とされるのは、道徳ではなく、倫理である。正義の軸を設定し神殿に納め、それに礼拝跪して異教審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続けること。システム内に繋留された倫理=道徳から身をひきはがし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理から想像を他者に投げかけること。そうしたエロスの投げる網によって他者の苦痛を新しく見出す営みを持続させること。それが知るということである。他者を理解することはできない。しかし他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである」 このようにおぞましさと嘔吐と矛盾と困難と悲喜劇にみちあふれた、この毎日が世紀末の人の世を、著者は「生命体としてのわたし、身体をもつわたしに根ざしたこの倫理」をひしと抱きかかえ、冷酷非情の法-規範、道徳との狭間に立ちすくみながらも、「いま何をなすべきか?」とレーニンやハムレットのように胸に問いつつ、愛描綱吉と共に今日もけなげに前進しているのである。 ♪人の世はさはさりながら愛ありて 茫洋
Monday, June 29, 2009
西暦2009年茫洋水無月歌日記
大船駅のさびた線路のすぐ傍に昼顔の花咲きいたり
余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相
わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人
隠れたってすぐ分かるぞヘイケボタル今宵も8匹見つけたり
今宵また謎の呪文をわれに告げ北斗の星と輝く蛍
おたまじゃくし1日1匹ずつ共食いすなり
毎日1匹ずつ食い殺して最後に残ったおたまじゃくし
あじきなしバーンスタインのハイドンを聴く日曜日
花も嵐も踏み越えて行きつくところまで歩むべし
玄関に片っぽうだけ転がっている妻の黒い靴
カラスアゲハが無心に太刀洗川の水を吸うておる
明治通り千駄ヶ谷小学校交差点の真紅の薔薇を撮影していたり秋山庄太郎
一生懸命ならどんな音楽でも許されるのかそこんとこよろしく
おりしも中里恒子の全集を耽読しおりき西麻布の売文家
ありがとうそしてさよならと言いつつわれら別れゆくなり
海を越え海に沈みし若者の瞳彩るジャガランダの花
南洋の桜といわれしジャカランダ桜に勝り毅然と咲きおり
わが腕を蟻が這う諦観とリリシズム捨てがたし
ミラノスカラ座より帰国せしや平成正宗後継者
親しめば親しむほど洞窟の謎は深まる
ひとたびは燃えつき果てた恋なれど43年目に燃え上がるかな
金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴
凶悪な政治の毒に窮したる二十歳の恋ははかなく散りて
万人の万人に対する戦いとく鎮めよと作家は祈る
半年間発注のない狂おしささくらば散りてあじさいの咲く
なにゆえに発注なきや半年間紫陽花の青をじっと眺むる
またしてもスイカの種は尽きにけり働き悪く金のなき日に
絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す
腹黒き輩は腹黒き友を知る時政邸に鶯鳴きたり
大人にも本人にもよう分からん日本文学史書きたり高橋源一郎
当り前のことをとくとくと語る人なりき黒田恭一氏死す享年七十一
コラボとはナチ協力者のことなりコラボといわずコラボレーションと言え
七人の子供を残し巴里に住む恋しき夫に会いに行く女
谷川さんの下手くそな詩を読んでいると自分も書こうという気持ちが起こってくる
朋輩を皆喰い尽しておたま一匹
健ちゃんが帰ってくるようれぴいな
♪息継ぎのあわいに生まれる感傷を世に詩歌とは名付けたりける 茫洋
さようなら眞木準
既にして旧聞に属すかもしれませんが、去る22日にコピーライターの眞木準氏が急性心筋梗塞で亡くなられたことを私は読み残しの新聞を整理していてはじめて知りました。
彼の最新にしておそらく最後の作品は、宣伝会議社の「内定取り消しされた方5名まで引き受けます」でした。しかし、彼の真価は伊勢丹の企業広告や全日空の「でっかいどお。北海道」に示されるしゃれた言葉遊びの切れ味と軽妙な語呂合わせとにあって、その奥深い引出しを準備するために普段から有名無名の作家の作品を渉猟していたことは、ある日突然私が訪れた彼の西麻布の事務所の書架を眺めれば一目瞭然でした。広告文案作成業の極意が機智の駆使にありとせば、彼はその当代一流の専門家であり、人並みはずれた才知と言語操作の高等技術がそれを可能にしました。
私は多くのコピーライターと仕事を共にしましたが、テレビCMのダビングの現場に呼びもしないのに駆けつけてくれたのは彼だけでした。ダビングというのは撮影済みの映像にスタジオでナレーションや音楽を録音する作業ですが、コピーについてはとっくの昔に広告主との打ち合わせを経て決定しています。だからコピーライターの立会は必要がないはずなのですが、彼は「書かれたコピーがいかに良くてもそれが話し言葉になったときに当初想定されたインパクトをもたらさないことが稀にある。だから自分はここにやってきた」と言うのです。なるほど、そういうケースは何度かありましたが、「ちょっと違うなあ」と思いつつそのまま録音してしまうのが通例でした。
そこで私が、「もしそのコピーが映像に合わなければどうするの?」と尋ねますと、彼はそんなこと当り前じゃないかという顔をして「だから合うやつをその場で僕が書くんです」と答えたものでした。それを平然と言える彼の自信と仕事に対する彼の誠実さにこれほど打たれたことはありません。
また思い出すのは、私がサラリマン街道から突如放り出され路頭に迷っていた折のことです。いちはやく手を差し伸べ、「広告料金定価表」なる分厚い請求金額の相場を記した本を手渡して、ともかく中年広告売文業者として身を立てるよう「実務的に」促してくれたのも彼でした。その日から一〇年に近い歳月が流れましたが、彼と最後にパスタ屋で会った日の励ましの声は、今も耳朶の底に残っています。
ありがとう。そしてさようなら眞木準
ありがとうそしてさよならと言いつつわれら別れゆくなり 茫洋
Saturday, June 27, 2009
続々 拝啓鎌倉市長殿
「朝夷奈切通における自転車通行問題」について3度目の市長への手紙を書きました。最新の回答と要望書はずっと後ろのほうにあります。
○5月14日付要望
時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。 さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。 ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。 そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。
あまでうす茫洋敬白
○5月28日付回答
明るく住みよい鎌倉をつくるため、いつもあたたかいお力添えをいただき厚くお礼申し上げます。 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。 切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。 平成21年 5月28日 鎌倉市長 石渡德一
○6月5日付再要望
早速の回答ありがとうございました。朝夷奈切通に立て看板を設置して頂けるとのこと、大歓迎です。周辺の環境整備のためにおおいに役立つと思います。しかしながら今回頂戴したコメントのなかに一部理解・納得できない部分がありますので、再度質問と要望をさせていただきたいと存じます。
>鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。
要望その1
市がどこのハイキングコースを外部に紹介されてもそれは結構なのですが、実際には年間2000万人を超える観光客のおよそ半分が「市内全域のハイキング可能路」や7つの切通をどんどん歩いています。それらの人々の安全と安心のために自転車の交通を禁止してほしいというのが私の提案の趣旨です。いっきに即時全面禁止が難しいとしても、できる箇所から段階的に禁止すべきではないでしょうか。
>朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。
要望その2
私は毎日のように朝夷奈切通を散歩していますが、「三郎の滝」から横浜市との峠境に至る朝夷奈切通は、もっぱら観光客のハイキングコースであり、現在「生活道路」としては使用されていません。観光客以外で通行する人は(私が知る限り)存在しません。
「三郎の滝」の右側の十二所果樹園に至る道は風致地区であるにもかかわらずいくつかの土建業者や建築家があいかわらず不法占拠してモノ置き場にしたり農作業を行ったり、モノを燃やしたり、歩行者を顧みない危険な車両運転を繰り返していますが、まさかこの状態を「生活道路」と表現されているのではないでしょうね。
私は十二所果樹園へ安全な歩行を阻害し、周辺の事前環境破壊している彼らは一日も退去し、この際この道を「生活道路」であるという認識を改めて頂くとともに、2輪・4輪の交通も禁止するべきであると考えます。
>切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。
要望その3
もとより理解するのにやぶさかではありません。しかし実際にその実情はどうなっているのかご存知ですか? 2輪及び4輪が我が物顔に走り回り、私が前回の投書で述べたような危険がどの切通やハイキングコースでどれくらいあるのか。まずはその実態を歩行者、観光客の身になって調査、観察、把握するべきではないでしょうか。しかるのちに即時全面禁止が無理だとしても可及的速やかに禁止や制限措置をとるべきではないでしょうか。
これらの切通は昔は生活道路でしたが、現在では豊かな自然に恵まれた歴史遺産であり国の指定史跡になっている箇所もたくさんあります。確かに一部が生活道路になっているケースもありますが、それは市や貴職が一部の住民の開発を是認して、自然と環境の破壊に手を貸した結果でもあります。
いっぽうでは市街化や生活道路化に積極的に加担しておいて、他方では環境保全やユネスコの世界遺産指定をめざすという貴殿の政策に大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。まずは地道な市民・観光客の足元の安全対策が肝要と考えます。
あまでうす茫洋敬白
○6月18日付回答
あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。この3コースについては、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。 また、上記のハイキングコースについては、定期的にパトロールしており、車両の乗り入れは確認されていませんが、パトロール中に車両の乗り入れがあった場合には、指導してまいります。 次に、十二所果樹園に至る道は、市道(幅1.29~2.42m)と私有地が混在し、その市道は、途中で終点になり、そこから果樹園までは、私道になります。したがって、市で通行の制限を行うことができません。 切通につきましては、国指定史跡の6切通(朝夷奈切通、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、仮粧坂、大仏切通、名越切通)の大部分は2輪・4輪の通行ができない状況ですが、前回ご説明させていただいた通り、切通のなかには市街化が進み、亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道となっているものですので、これらの切通全ての2輪・4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありません。 あまでうす様からいただきましたご要望につきましては、今後の市政の参考とさせていただきますので、ご理解のほどよろしくお願い申しあげます。 平成21年6月18日 鎌倉市長 石渡徳一
○6月28日付要望
拝啓鎌倉市長どの
どうも回答が典型的な役人風でいまいち要領を得ませんね。朝夷奈切通に絞って再度質問いたします。
この切通では特に土日と休日に自転車が我が物顔に走り回るので歩行者が常に傷害の危険にさらされています。そこで私は
1)まずその実態について至急調査を行ったうえで、
2)(4輪とオートバイのみならず)自転車の運転を禁止してほしい
のです。
この措置はこの道が市道であろうが国県道であろうがけもの道であろうが可能なはずです。なぜならここは国が指定する歴史的景観保全地区であり、市が希望しているユネスコの世界遺産登録指定区域であって住民や観光客の歩行の安全を守る義務があるからです。
あまでうす茫洋敬白
♪わが腕を蟻が這う諦観とリリシズム捨てがたし 茫洋
Friday, June 26, 2009
新聞広告の中身
朝日新聞に掲載される週刊誌の広告のなかには、しばしば朝日新聞本紙の記事の内容や会社の姿勢を非難攻撃するのみならず、誹謗中傷する見出しがデカデカと躍っています。けれどもこの新聞社は平然とこれらの広告を掲載してなんの反論や発言もしない。まるで彼らの不当な言い分をなかば肯定したかのような印象を受けることがあります。
寛容と忍耐にも限度があります。記事内容に反対する広告を差し止めれば表現の自由を抑圧することになりますが、その内容が事実無根であったり、いわれなき誹謗中傷のたぐいであれば、ただちに突き返すなり、修正させるべきでしょう。かつてバーンスタインが、グールドの演奏速度に妥協して録音したとレコードジャケットに断り書きを入れたように。
それともこの新聞社は非常にお金に困っていて、どんな陋劣なスポンサーの広告でも喉から手が出るほどほしいのでしょうか。
海を越え海に沈みし若者の瞳彩るジャガランダの花 茫洋
◎おすすめ展覧会→http://www.misakoandrosen.com/exhibitions/09/06/
Thursday, June 25, 2009
優れたサントリーの広告
昔からサントリーという会社はCMが上手でしたが、最近は「ボス」の宇宙人ジョーンズ、「ウーロン茶」などをのぞいてかなりクリエイティブのレベルが下がっていたと思います。おそらくは会社か社長の方針が営業至上主義になってクリエーターに対してさまざまな圧力が加えられた結果、遊びの精神が枯渇してしまったのではないでしょうか。
と思っていましたら、久しぶりにこれは傑作という広告が登場しました。「いやなことはお茶に流そう」というお茶の新製品の広告です。これはもちろん「嫌なことは水に流そう」のもじりですが、単にそういう語呂合わせやパロディの領域を超えていまの生きづらい世相をさらりと無化しようと試み、ほんの一時ではあるけれど、それに成功している点が尊い。なまなかにお茶に濁したり茶化せない骨太の主張と堂々たる風格さえ備えた、さすがはサントリー、流の広告であると思います。
こんなコピーは昨日や今日のポット出には絶対に書けません。海千山千のてだれの筆のすさびでありましょう。これと同時期に「同じ水で生きている」という南アルプスの天然水の広告も出ましたが、こちらのほうはいまいち、いま2.しかしライバルのキリン生茶の「買ったら読み取るのちゃ」という広告のレベルの低さに比べれば、両社の志の高低はあきらかでしょう。
もうひとつはサンアドの葛西薫さんのディレクション、安藤隆さんのコピー「君と百まで」によるおなじみのウーロン茶の広告です。母と娘、そして茶を入れた2つのグラスをバックに、この珠玉のような、あるいは血と汗の結晶であるこのコピーが、ただそっと並んでいるだけの地味な広告ですが、眺めているうちにまたしてもかすかに涙腺がゆるむのを覚えるのは、このゴールデンコンビの手練の仕業に違いありません。
♪南洋の桜といわれしジャカランダ桜に勝り毅然と咲きおり 茫洋
Wednesday, June 24, 2009
網野善彦著作集第8巻「中世の民衆像」を読んで
昨日正宗について少し触れましたが、おそらく彼も回船鋳物師と呼ばれる中世前期の代表的な職人であり、一流の刀鍛冶として鍋・釜・鍬・鋤などの鋳物師ともども、畿内を起点に瀬戸内海を経て九州、あるいは山陰・北陸に回り、琵琶湖を経て淀川に入る広大な水域を遍歴していたのでしょう。
しかし頼朝による鎌倉幕府の成立がこうした遍歴自由民の活動を制限するようになった結果、中世後期に入ってようやく定住民となって一族が鎌倉に定着したのではないでしょうか。
中世前期までは神や仏や天皇に直属する神人、寄人や道々の職人、楽人、舞人、陰陽師、医師、相撲、呪師、傀儡子、芸能人は特別な技能を持つ「聖なる存在」としてあがめられ、税を免除されて諸国を遍歴しつつ一定の自由を獲得していました。
しかし彼らは幕府や権力者によって威圧され、「悪党」とも呼ばれたある種の呪術性を喪失していくのですが、次第に勢いを失っていくこの「古くて聖なるパワー」を新たな宗教の中に生かそうとして次々に立ちあがったのが鎌倉新宗教の創設者でした。これこそが法然、親鸞、道元、一遍、日蓮たちを突き動かしていたおどろおどろしい情念だったのでしょう。
当時は貴族と悪党どもにも多くの接点があり、たとえば後伏見天皇の妃であった広義門院が1311年に女児を出産した際には、なぜか巫女や双六打ち(博打)が産室のそば近くに待機し、その「芸能」を通じて悪霊退散の祈願を行っているのです。
いよいよその時が近づくと亀山法皇が院を背後から抱きかかえ、土器を女房たちが割り、博打が双六で戦っている出産現場には大量の「うぶすな」が撒かれたそうです。
また興味深いことに、中世前期には多くの宋人=唐人などの異民族が、さきほど例にあげた「職人」という身分と特権を持ち、国内を自由に移動しながら石工、薬売り、飴売り、櫛売りなどの商業活動に従事していました。
鎖国をしていたはずの江戸時代もそうでしたが、これは権力者の規制がどうであろうとアジアの民衆はいつの時代もたえざる交流を続けていたよい例証ではないでしょうか。
以上網野善彦著作集第8巻「中世の民衆像」より自由に引用しながら書き記しました。
健ちゃんが帰ってきたようれぴいな 茫洋
Tuesday, June 23, 2009
本覚寺を訪ねて
鎌倉駅からほど近いこのお寺は、もとは源頼朝が幕府の守り神として建立し、天台宗系の夷堂があったのですが、永亭8年1436年に日出が日蓮宗のお寺として再建しました。2代目住持の日朝はのちに身延山久遠寺の住持になったとき、そこにあった日蓮の遺骨をこのお寺に分骨したので、本覚寺はそれから「東身延」とも呼ばれるようになった、と「鎌倉の寺小事典」には記してあります。
またその日朝が魔の病気を患った時、法華経とみずからの治癒力で治ったという言い伝えがあるこのお寺は、「日朝さん」と親しまれ、眼病、縁結び、商売繁盛に霊験あらたかとされて人気があるそうです。
さらには、松平定信の直筆による「東身延」の額も残っているそうですが、いったいどこにあるのやら。今度行った時によく調べてみましょう。
私が個人的にいちばん興味をひかれるのは、このお寺の墓地に刀工正宗が葬られていること。正宗は、鎌倉時代に当地にあって「相州伝」という特徴を備えた数々の芸術的な名刀を鍛えただけではなく、幾多の弟子として育て上げたことであまねく知られていますが、その名人がこんなお寺に眠っているとは。
ちなみに鎌倉には正宗の子孫と称する日本刀の刀匠が現在も小町の街中で活動中(太刀を打つ現場を観察することもできる)ですし、置石や長谷の商店街には数多くの刀商が営業しています。
♪ミラノスカラ座より帰国せしや平成正宗後継者 茫洋
Monday, June 22, 2009
アーサー・ペン監督の「アリスのレストラン」を見て
闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 5
原作と主演はフォーク歌手のアーロ・ガスリー。彼のヒット曲Alice's Restaurant Massacreを題材にしてアーサー・ペンが二度と帰らぬ青春の想い出を歌いあげました。
ギター、ハモニカ、バンジョー、フォークミュージック、マリファナ、ダンス、セックス、オートバイ、キリスト教会……、ベトナム戦争に行きたくないフォーク音楽好きの長髪のアメリカの青年が振り返る60年代には、やはり現代とは違う風が吹いていました。
それを自由と放浪への誘いの風と呼ぶか、法と秩序を揺さぶる不埒で放恣な逸脱の邪風と舌打ちするかは、人がこの時代をどのように生きたかによって受け止め方が違うでしょう。しかし若者を名状しがたい不安と理由もない希望に駆り立てる荒々しい風が全世界でふきつのっていましたが、この映画の中ではまぎれもなくその風が吹いていることをあれから40年以上経つのにまざまざと感じ取ることができます。
この政治的対決の時代の疾風怒涛の狂乱のさなかにあって、主人公を支えているのは心を許した女性アリスやヒッピー仲間たち、そして折にふれて彼が奏でるギターの音色です。とりわけアーロ・ガスリーとピートシガーがガスリーの父親が入院しているニューヨークの病院でハモる「♪自動車で行こう」の楽しさをなににたとえればいいのでしょうか。
この音楽とこの音楽に聴きほれるガスリーの両親の笑顔の中にこの映画の最上のシーンがあります。たとえラストシーンの編集に奇妙な躊躇と失敗があるとはいえ。
茫洋広告戯評第6回
いよいよ裁判員制度が開始されました。法務省や最高裁の裁判員制度キャンペーンも最近はかなり円熟の度を深め、当初の堅苦しさがいくぶん和らいできたような印象を受けます。
いずれにしても行政、立法のみならず司法制度にも平成平民が直接参加して自由に意見を述べ、その意思を反映できることはまことに慶賀に堪えません。専門バカとはよく言ったもので、一握りのテクノクラートによってその運用が独占された機構は、とかく制度疲労を起こして機能が形骸化し、平民の意志とは遊離していく危険性があります。
この際できることなら裁判員だけでなくて検察員制度を新設し、専門家のみならず平民の声が直接検察活動に反映されるべきではないでしょうか。平民の平民による平民運動とは民衆の直接民主主義の運動で、歴史的には南北朝以降近世近代の天皇制国家の権力の肥大化の流れに呑み込まれてしまった平民共同体自己統治権の奪還を意味しますが、これらを中世末期の始原期に遡って回復しようとする衝動は、平民自身の直接参加による軍隊の創設にまで行き着くべき性格のものではないでしょうか。
コラボとはナチ協力者のことなりコラボといわずコラボレーションと言え 茫洋
Saturday, June 20, 2009
アルベルト・モラヴィア著「軽蔑」を読んで
男のさすらいの人生の頼りの綱は女性です。もしも愛する女性に軽蔑されたら、男なんてどうやって生きていったらよいのか途方にくれてしまうでしょう。漂流しながらおんおん泣いて、ついでに海に飛び込んで死んでしまうしかないでしょう。これがこの小説の主題です。おそらくモラヴィアの実際の体験と女性観がこのテーマに色濃く反映されていることは間違いありません。
しかしこの軽蔑はいつ、どこから女の心の中にやってきたのか。それがいまひとつ最後まで読者にはよくわからない。というのは男自身もよくわからないからで、主人公がわからないのは作者がわからないからで、モラヴィアは別れた元女房の謎をわかろうとしてこの心理思弁小説を書いたのですが、苦労して書いてみても結局はよくわからなかったのではないでしょうか。
モラヴィアは仕方なくホメロスの「オデッセイア」におけるオデッセウスとペネロペの関係をフロイト的に論じ、この単純明快な問題をペダンチックに取り扱おうとします。つまりペネロペに言い寄る男たちに寛容な態度を示したオデッセウスをペネロペは軽蔑していて、それが嫌さに7年もの間故郷イタケに寄り付かなかった。夫が妻の愛を取り戻せたのは求婚者どもをオデッセウスが皆殺しにしたからだ、などと唱えるのですが、こういう暴力をこの小説の主人公が振るえるくらいなら、そもそもこんな哀れな境遇に陥っているはずもないのです。
実は主人公があまりにも草食系のインテリゲンちゃんであるために優柔不断過ぎて、妻の危機を体育会系の男からちゃんと守ってやらなかった、というよくあるとってつけたような解説も飛び出てくるのですが、どうもそれだけでは説明できない事情がどこの夫婦にもあるのです。ともかくこの小説の無残な失敗は、最後のおちの付け方を見れば一目瞭然でしょう。
なおこのモラヴィアの原作を、ゴダールがおなじタイトルの映画にしています。悩める脚本家にはミシェル・ピッコリ、辣腕プロデューサーにゴリラ男のジャック・パランス、フロイト流の「オデッセイア」を論じる映画監督には名匠フリッツ・ラング、そして単純な精神と見事な肉体の持ち主であるヒロインにはブリジット・バルドー、という豪華なキャステイング、それにカプリ島の風光明媚をあざやかに駆使して、彼一流のわかったようでわからない演出を繰り広げているのですが、これこそモラヴィアの世界にもっともふさわしい「絵解き紙芝居」だったかもしれません。
親しめば親しむほど洞窟の謎は深まる 茫洋
Friday, June 19, 2009
ミルチャ・エルアーデ著「マイトレイ」を読んで
これは、ルーマニア生まれの宗教学者ミルチャ・エルアーデが、若き日にインドを訪れたときの体験を赤裸々につづった大恋愛小説です。イタリア・ルネサンス哲学の研究のためにインドを訪れた作者は、インド各地を旅行し、タゴールに会い、タントラ・ヨーガにのめりこみますが、それ以上に漆黒の肌の魅惑のベンガル女性マイトレイとの運命的な恋に遭遇します。
大きく黒い眼、厚い唇、熟れた乳房、褐色の肌……はじめはむしろ醜いとすら思えた異貌の異性にふとしたはずみに惹かれ、思いがけない深みにはまる体験は多くの方々がお持ちでしょうが、エルアーデの場合はそれがいちおう文化的に先進国であると自他ともに考えていた白哲の欧州男と亜細亜的後進周縁国の僻地に住む異文化の女性という異色の組み合わせでした。
衣食住も思想も風土も風習も宗教もすべてが面白いくらいに異なる2人が、おそらくはその違いゆえにどんどん惹かれあっていき、周囲の懸念や反発をものともせずに愛し合うありさまはよくあるタイプの初恋物語ではありますが、その文章がおそろしく事実に忠実に、青春の情熱と愉楽の限りを刻印しているために読者はぐんぐん引き込まれて、あれよあれよという間に、お決まりの悲劇的なラストまで付き合わされてしまいます。
21歳と17歳の若者の激烈な恋愛とその蹉跌が主人公たちのその後の生涯にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。燃えるような、狂うような恋をした2人は、それから43年の後に1973年シカゴで再会したそうですが、いったいそこでどのような対話が交わされたのでしょうか。エルアーデが1933年に書いた本書に応えるように、マイトレイは1976年に「愛は死なず」を世に出したと聞くと、こちらもあわせて読み比べてみたくなりますね。
♪ひとたびは燃えつき果てた恋なれど43年目に燃え上がるかな 茫洋
Thursday, June 18, 2009
青木美智男著「日本文化の原型」(小学館日本の歴史別巻)を読んで
日本文化の原型は普通は室町時代にできたと考えられているようですが、著者はそれを江戸時代に求めて、民衆の視座から見た文化、とりわけ衣食住の基礎の確立のありようを事実に即して、生活の現場に即して、実態的に見定めています。高踏的な歴史叙述を避けて下から目線の文化史に挑戦した意欲はおおいに買えます。
たとえば食の革命はまさしく江戸時代になされました。醤油、清酒、出汁が発明され、庶民の食生活は一挙に味わい豊かなものになったのです。味醂は江戸時代は女性の飲み物で、これが調味料になったのは幕末になってからだと著者はいいます。
江戸時代の酢は主に相州中原(平塚市)で生産され、これが中原街道経由で江戸城に運ばれていたそうですが、江戸後期になると料理以外の需要、すなわち友禅染という絢爛豪華な絹の衣服が登場したために大量生産されるようになったそうです。酢には酢酸が3割ほど含まれており、これが友禅染の染色過程の定着剤として流用されたというのは初めて聞く話でした。絹の染色をいっそう効果的にするために出羽村山特産の紅花や阿波藍なども増産されることになりました。
わが国では平安・鎌倉・室町・戦国時代まで庶民の大半の衣服は苧麻(ちょま)でしたが、これは栽培から織り上げまでには大変な時間と手間を要し、そのために鎌倉・室町の女性は農耕に従事する余裕がなかったほどでした。そこへ登場したのが着心地も耐用性も汎用性も抜群の木綿です。戦国時代には兵衣、火縄などの軍事用に使われていたものが江戸時代に入ると急速に普及して大衆衣料の主流になりました。新品が不足したために全国に巨大な中古市場が形成され、幕府は大伝馬町の木綿問屋に独占販売権を与えて統制を図りました。幕府は武士には絹、農工商には木綿という繊維格差を押し付けることによって身分制度を固定化しようと企んだのです。
いっぽう最高級の絹織物、西陣織で身体を華美に彩ることは権力者やセレブ階級の最大の願望であり、ステータス・シンボルでありました。江戸初期の幕府は生野、石見の銀山や佐渡の金山で採掘された金や銀を代償にして中国やベトナム産の膨大な生糸や絹を買い付けた結果、かつての黄金の国ジパングはたちまち瓦礫の列島に変身してしまいました。
仕方なく幕府は銅や伊万里焼を輸出するとともに、正徳3年1713年、国内における絹生産体制の早期確立をめざすことになります。そしてその結果、信濃、上野桐生、下野足利、陸奥信夫・伊達など各地で西陣織のノウハウを移植した絹織物の産地が呱々の声を上げ、私の郷里に近い丹後半島の与謝郡でもあの有名な丹後縮緬が誕生したのです。
以上のように、ちょっとしたさわりだけでも、とても為になる1冊です。
金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴 茫洋
Wednesday, June 17, 2009
「岩船地蔵堂」を訪ねて
亀が谷切通を下った扇が谷の辻にぽつんと立っているのがこの地蔵堂です。ここに祀られているのは源頼朝・政子の長女大姫の持仏と伝えられています。
大姫は政略結婚で木曽義仲の息子義高と結ばれ、相思相愛の仲だったのですが、源氏同士の勢力争いがはじまって義高は頼朝の命で暗殺され、(政子はそのことに激しく怒ったと「吾妻鏡」に出ています)、愛する夫を奪われた大姫は、哀れにも強度のノイローゼに罹ってしまいます。
娘の愛を引き裂いた張本人の頼朝・政子夫妻は、大姫の回復を念じて夜な夜な浄妙寺の杉本観音から逗子の岩殿寺までの巡礼古道をたどってお百度を踏んだ、といい伝えられています。その由緒ある歴史街道を山ごとブルドーザーで引き裂いて「鎌倉逗子ハイランド」なる高級住宅街をつくって売り出したのが西武堤資本です。
大姫はその病気を案じた畠山重忠の屋敷(現在の八幡宮の東端)で療養したり、義経の愛妾静御前をいたわったりしていましたが、とうとうわずか20歳で窮死してしまいました。昔の岩船地蔵堂は木造のぼろぼろの状態で、それが薄幸の身の上の女性にふさわしい一種の物凄く、荒涼とした感じを界隈に漂わせていたのですが、いつのまにかモダーンな感じに再建されてしまいました。
余談ながらこの近所には島木健作や小林秀雄、里見弴などが住んでいて亀が谷切通の坂上にあった鉱泉に浸かっていたようです。鎌倉に温泉は珍しいのですが、私が住んでいる十二所にもぬるい天然の湯が沸いているところがあります。
凶悪な政治の毒に窮したる二十歳の恋ははかなく散りて 茫洋
Tuesday, June 16, 2009
海蔵寺の「底脱の井」を覗く
幸いにも観光客があまり訪れない海蔵寺ですが、その閑寂な趣をさらに情趣豊かにしているのが寺院の外の2つの井戸です。
まずお寺の入口の右側に「鎌倉十井」のひとつである「底脱の井」と明治二七年五月に建立された歌碑があります。
千代能がいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらず
この歌の作者は霜月騒動で惨殺された悲劇の武将安達泰盛の娘で無着如大という尼僧ですが、俗名を賢子、幼名を千代能といました。彼女は早くに夫に先立たれたので京の東福寺で修行を積んで「法は如大一人にて足りる」と称されるほどの大知識になりました。
彼女は素晴らしい美貌の持ち主でした。この海蔵寺の仏光国師に師事しようとしたとき、僧の修行の妨げになると断られた彼女は傍らにあった焼き鏝をその美しい顔に押し当ててやけどの傷をつくり、やっと弟子入りを許されたそうです。
そんな彼女がある日夕食のために水を汲んでいたのが、この「底脱の井」でした。突然桶の底が抜けてしまった瞬間長年の心の煩悶が一気に氷解し、そのときに詠んだのがこの歌だといわれています。
もうひとつは薬師堂の裏側の山腹にあるやぐらの中に16の穴が掘られた「十六ノ井」ですが、現在もきれいな水が湧いています。
以上は鎌倉文学館の資料をもとにリライトしました。
谷川さんの下手くそな詩を読んでいると自分も書こうという気持ちが起こってくる 茫洋
Monday, June 15, 2009
扇ヶ谷に海蔵寺を訪ねて
扇ヶ谷のどんづまりにある瀟洒なお寺が海蔵寺です。このお寺は四季折々にさまざまな山野草が咲く鎌倉随一の花の寺として有名です。
海蔵寺は応栄元年1394年に鎌倉公方足利氏満の命を受けて、元は真言宗の寺があった跡に上杉氏定が再建しました。開山は謡曲「殺生石」で知られる心昭空外(源翁禅師)です。本殿も立派ですが、古雅な趣を湛えているのが薬師堂で、ここには胎内仏をおさめた薬師如来、別名啼薬師、児護薬師が安置されています。
ある日のこと、寺の裏から赤ん坊の泣き声がするので源翁禅師が声の主を探すと金色と甘い香りが漂う古いお墓がありました。そこで禅師が経を唱えながら掘ってみると、現れ出たのがこの薬師像だった、という言い伝えがあります。ただし胎内仏を拝めるのは61年毎とされているそうです。
それから謡曲「殺生石」では白狐のたたりで殺生をひきおこす石を源翁禅師がえいやっと杖で打ち砕きますが、かなづちを別名「げんのう」と呼ぶのはこの故事から来ているそうです。また江戸時代に建てられた茅葺の庫裏は歴史的な価値が高く、本殿の奥にある心字池と庭園の美しさとともに捨てがたいものがあります。
以上は「鎌倉の寺」(かまくら春秋社)から勝手に引用しました。
玄関に片っぽうだけ転がっている妻の黒い靴 茫洋
Sunday, June 14, 2009
阿仏尼の墓を訪ねて
鎌倉ちょっと不思議な物語第191回
夜もすがら涙もふみもかきあえず磯越す浪にひとり起きゐて
これは鎌倉時代に「十六夜日記」を書いた阿仏尼の歌ですが、私たちの時代ときわめて似通った近代的な心の動きを感じ取ることができます。
阿仏尼は夫が遺してくれた荘園の権利を求めて幕府に直訴するために、おんなひとりではるばる京から鎌倉まで下向してきます。そして以前このシリーズでもご紹介したように、極楽寺の近くの月影の谷で生活しながら、おりふし海岸に打ち寄せる波の音や松に吹き寄せる風の音に耳を傾けながら都の知人に文を送り、いっこうにはかどらない訴訟の進行に耐え忍んでいたのでしょう。
そんな阿仏尼の墓が極楽寺から遠く離れた英勝寺(ここはあの山吹の歌で有名な太田道灌邸であり現在は鎌倉唯一の尼寺)の傍らにあるのは意外な気もしますが、彼女の息子冷泉為相の墓がここからほど近い浄光明寺の山頂にあることを考えれば、もしかすると江戸時代に建立された現在の英勝寺の場所に、かつては別の寺院が建てられていて、阿仏尼はその晩年をそこで過ごして葬られたのではないでしょうか。
そう考えてわが枕頭の書「鎌倉廃寺事典」をおそるおそる開いてみますと現在の英勝寺の元は智岸寺であり、やはり尼寺であったと記されています。「鎌倉志」にも「智岸寺谷は英勝寺の境内なり」とあり、「古は寺ありけれども頽敗せり。近比まで地蔵堂のみありしが是も今はなし」と述べられています。そして智岸寺はかつては尼寺、駆け込み寺として知られていた東慶寺の隠居寺的役割を果たしていたそうなので、阿仏尼が浄光明寺ではなく智岸寺でその寂しい生涯を終えた可能性はかなりたかそうです。
ちなみに地蔵堂に祀られていた地蔵菩薩は1684年当時すでに鶴岡八幡宮僧坊正覚院にあり、その後瑞泉寺に移ったことが確認されているので、私たちは瑞泉寺に行けば阿仏尼が拝んだ尊像に対面できるというわけです。
♪またしても「スイカ」の種は尽きにけり働き悪く金のなき日に 茫洋
Saturday, June 13, 2009
続 村上春樹著「1Q84」を読んで
村上春樹がこの小説で描こうとしたのは、リトル・ピープルによって代表される眼には見えない陰険で邪悪な敵意、世界全体を覆う殺意と反感と無関心、冷酷なニヒリズムと問答無用の暴力の氾濫、狂信と原理主義の愚かさではないでしょうか。
そのために作者は、言葉という小さなチップを丁寧に並べて、壮大なドミノのタペストリーを編みました。言葉という砕片をひとつひとつ積み上げて、目のくらむような高さの虚構の大伽藍を構築しました。ほんの一押しで跡形もなく崩壊してしまう幻影の城を……。
これらは作者のおおぼら吹き、嘘八百の口から出まかせ、すなわち文学上のフィクションとは到底思えず、西欧のゴシック大聖堂に匹敵する精緻さと実在性を獲得するに至っており、作者の企画構想力と文章修飾力の膂力のほどをまざまざと示しています。とりわけ素晴らしいのは「王」と青豆との対決シーンで、その息をのむ展開はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の残照すら感じさせる白熱に燦然と輝いています。このくだりはかつてこの作者によって書かれた最良の数ページではないでしょうか。
この作家特有の細部の研磨、それからチェホフの「樺太物語」やそこに棲むギリヤーク人などの逸話に垣間見られる卓抜なユーモアとウイットも相変わらず健在で、私たち読者は、モノガタリの骨太のコンテキストから自由に逸脱して、心楽しい文学散歩を楽しむことが許されています。作者の空想と創造の一大所産であるスケルトンが時々念力不足で空中分解する懸念があることを思えば、本書の最大の魅力はむしろリフィルのディテールの充実にこそあるのかもしれません。
ところで、リトル・ピープルはジョージ・オウエルによって描かれたビッグブラザーを思わせるいわば「悪い存在」ですが、しかし彼らは本当に最後の最後まで悪役を務め、世界市民に害悪を及ぼし続けるのでしょうか。
その答えはイエスでもあればノーでもあるでしょう。なぜならリトル・ピープルとは、実は私たちの魂の奥底に潜む悪魔そのものだからなのです。私たちの内面ではリトル・ピープルとその反対勢力が絶えることなく食うか食われるかの闘争を繰り広げています。そして私たちの「内なる善」が「内なる悪」との戦いに敗北するとき、悪はますます増長して私たちの外部世界に躍り出て、百鬼夜行の大活躍を開始するでしょう。9・11以降その傾向はまさしくパンデミックなものとなりました。
私たちの内部分裂と内部での孤立無援の戦いは、同時に世界の分裂と戦いをもたらします。古くて新しい「万人の万人に対する闘争」の再開です。わが魂の骨肉の敵を私たち自身が退治しない限り、人間界も世界も、いずれは崩壊するのではないだろうか? 村上春樹はそんな焦燥に駆られてこの絶望と希望のメーセージを綴ったのではないでしょうか。
やがて善悪の相克はかろうじて相対化され、宇宙の彼方から聖なる声が朗々と高鳴る日が来るでしょう。「善から悪へ、悪から善へと御身らの輪廻は転生すべし。」
上下2巻1000頁を超えるこの長編小説を繰る中で、私がもっとも感嘆したのは、作者が引用している「平家物語」の「壇ノ浦の合戦」の朗読シーンでしたが、この小説の深部でひそかに唱えられているのは諸行無常の念仏なのかもしれません。
万人の万人に対する戦いとく鎮まれと作家は祈る 茫洋
絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す 茫洋
Friday, June 12, 2009
村上春樹の「1Q84」を読んで
この本を読み終わったあと、自転車に乗って涼しい風の吹く外に出てみました。梅雨に入ったばかりの夜空はとっぷりと暮れ深い藍色に染まっています。私は小説に何度も出てくる2つの月、大きな黄色い月と小さな緑の月を探しましたが見つかりませんでした。
白い道だけがほのかに浮かぶ真っ暗な森の道に乗り入れると、今夜もホタルが舞っていました。雌雄2匹が2個所で対になって、銀色の光を点滅させながらお互いに追尾しあって、ふわりふわりと円弧を描きます。私は思わずこの4匹は、小説の主人公ふかえりと天吾、青豆と天吾の2つのカップルの生まれ変わりではないかと思いました。
一瞬行方をくらませたホタルが黒い木陰を抜け出して空の高みに駆け上ると、そこで待ち受けていたのは鈍い銀色の光に輝く北斗七星の7つの星々でした。ホタルは空の星と混ざり合って、「あ、見えなくなった」と思ったら、もうどれがどれだか分らなくなってしまいました。無限大ほどのギャップがあるのに、同じ平面に鏤められた銀色の輝きがフラットに均一化されてしまう。そんな視覚的経験は初めてでしたが、ホタルと星は、この小説で繰り返し説かれている実際の1984年と幻視の中に実在している1Q84年の関係にとてもよく似ているような気がしました。
実際の1984年はすでに私たちが通過してきたはずの歴史的年度ですが、あますところなく経験され、生きつくされたはずの1984年には、しかし同時代の誰も知らなかった時空を超越した異次元の世界1Q84年に通じる幾つもの裂け目があり、そこには人類の平和や心の平安を脅かそうと企んでいる悪意の主リトル・ピープルたちが潜んでいます。
リトル・ピープルが支配する新興宗教団体の魔手から逃げ出してきた17歳の美少女ふかえりの体験をリライトした小説家の卵、天吾は、自らが描いた小説「空気さなぎ」の世界の内部にいつのまにか取り込まれ、天語の永遠の恋人である青豆と同様、「反世界」の地獄の底へと転落してゆきます。
スリルとサスペンス、ホラーとファンタジー、オペレッタとフィルム・ノワールを混淆させた作者の円熟した語り口は、それ自体が音楽性と朗読性に富み、この小説で引用されるヤナーチエックの「シンフォニエッタ」の譜面に勝るとも劣らぬ音楽的な演奏そのものであるといってもよいでしょう。よしやバッハの「マタイ受難曲」の深い思想性に欠けるとしても、この小説がかつて日本語で書かれたもっとも魅力的なロマンのひとつであることは間違いないでしょう。久しぶりに読書の快楽、物語の醍醐味を堪能できた1冊、いや2冊でした。
♪今宵また新たな呪文をわれに告げ北斗の星と輝く蛍 茫洋
Thursday, June 11, 2009
ジョージ・マーシャル監督「砂塵」を視聴して
マレーネ・ディートリッヒとジェームズ・スチュワート主演の西部劇映画を、FM放送でシューマン、CDでブラームスのリートを聞きながら見物しました。1939年アメリカ ジョー・パスターナク・プロ制作のモノクロ映画です。
原題は「DESTRY RIDES AGAIN」。直訳すれば「ディストリーが再び馬に乗る」。ディストリーは副保安官ジェームズ・スチュワートの名前です。父をならず者に殺された息子のディストリーが、悪の巣窟と化した、とある西部の町にギター片手に、馬に乗って丸腰で乗り込みます。そしていろいろあってのちに、とうとうその張本人ブライアン・ドンレヴィを倒して、町に平和を取り戻すという、きわめてありがちなデキレース西部劇です。
はじめは顔役の手下兼情婦であり、途中から副保安官に恋してしまい善人に戻る役が美貌美脚(でもよく見ると内側に湾曲してる)のマレーネ・ディートリッヒ。フレンチーという名前ですが、英語とドイツ語を足して2で割った歌を、ときどきウインクなぞしながら上手に歌って踊ります。私が大好きなB級というよりは超C級の娯楽作です。
お楽しみは悪女マレーネ・ディートリッヒと善女の酒場での大乱闘。仲裁に入ったジェームズ・スチュワート愛用のギターをめちゃめちゃに壊してしまいます。男どもの対決を町のおかみさんたちが徒党を組んでやっつけてしまうというフィナーレも印象的です。
ところでこの映画の邦題がどうして「砂塵」となっているのでしょう。名匠ニコラス・レイ監督の西部劇「大砂塵」のパクリかと思っていたら、その通りでもあり、その逆でもありました。
実は1954年に製作され、主人公ジョニー・ギターをスタンリー・ヘイドンが演じ、ジョーン・クロフォードとマーセデス・マッキャンブリッジの女性同士が決闘する「大砂塵」(原題も「ジョニー・ギター」)は、それ自体がこの「砂塵」のパクリ、というよりは巧妙な換骨奪胎作品だったのです。
それに気づいた誰かが、本作の日本語タイトルをあえて「砂塵」としたのでしょうが、さもありなん、とはたと膝を打った次第です。
♪大船駅のさびた線路のすぐ傍に昼顔の花咲きいたり 茫洋
Wednesday, June 10, 2009
流れ出るわが涙よ
以前ある若い女性が、「私のお父さんがね、娘が結婚するシーンが出てくるCMを見ていたら、もう泣いているの。いやになっちゃうわ」と語っていたのを聞いて、私は彼女の父親の気持ちがなんとなくわかるような気がしていたのですが、その私自身が最近はひどく涙もろくなりました。ちょっとしたもののはずみで涙腺が緩んで塩辛い水分がにじみでるのです。
きのうバン・クライバーン氏が主宰する米国のピアノコンクールで、中国人ピアニストと1位をわかちあった全盲の辻井伸之さんが、「一度だけ目が開くならお母さんの顔が見たい」と語った、という記事を朝日新聞の「天声人語」で読むやいなや、私の乾ききった左頬にたらーりたらりと数滴の涙がにじんでは落下するのを覚え、「これはいったいどうしたことか」といぶかしみました。ほとんど無意識かつ無自覚にそういう生理的な作用が起きたことに対して、われながら驚いたのです。
そういえば先日某アホバカテレビに出演していた某アホバカ芸能人が、「1分間で泣いて見せます」と豪語したのみならず、実際に見事その通りに泣いて見せたので、私はおおいに驚いたのですが、どうやら涙という液体は、人間が意図しても、しなくても随意にも不随意にも流出する奇妙な液体であるようです。
私自身はまだ泣いてもいないのに、脳が泣けと指令すら出していないのに、末端神経が勝手に涙を流してしまう。私の理性は、泣くべきか泣かざるべきか、もしも泣くのなら適切な排出量にせよ、事態をよーく考えてから実行せよ、と戒めているのに、安物の出来の悪い感情がこれを無視して反乱を引き起こしている。これを自己崩壊といわずになんと呼べばいいのでしょうか。
そして私は、かくも安易に流出する涙というものをけっして過大評価してはならないことを肝に銘じたのですが、それと同時にその涙の排出源となっている悲哀や同情や憐憫といった感情についてもあまり重きをおいてはいけないことを学んだのでした。癒しを求める人はきっと卑しい人間なのです。
明治通り千駄ヶ谷小学校交差点の真紅の薔薇を撮影していたり秋山庄太郎 茫洋
Tuesday, June 09, 2009
「まんだら堂跡」を訪ねて
名越切通の近くにまんだら堂の旧跡がありますが、ここは最近発掘調査が行われており、残念ながら立ち入り禁止となっています。お堂の正体は不明であり、周辺には数多くのやぐらが散在しています。四季折おりの草花が咲き乱れるお花畑としても知られ、またお堂の下を走る逗子トンネルは昔からお化けの名所として有名です。
私の想像では、おそらくここは鎌倉時代の武将や貴族、僧侶などを葬った集団墓地であり、まんだら堂はそれらのエリートたちの一大葬祭センターだったのではないでしょうか。というのは私が住んでいる朝夷奈切通の麓に同じような中世墳墓葬祭場跡が存在しているからです。おそらく、異界へ通じる鎌倉の7つの切通のすべてに、共同墓地とそれに付属する葬式場があったに違いありません。
たとえば釈迦堂切通には以前ご紹介した「唐糸やぐら」と「日月やぐら」、そしてつい最近公開されたばかりの大町大やぐら群が横たわっています。また化粧坂切通には瓜ヶ谷やぐらと西瓜ヶ谷やぐら、巨福呂坂切通には浄光明寺やぐらと東林寺やぐら、そして亀ヶ谷切通には相馬師常やぐらがすぐ近くに存在しているので、私の想像もまんざらでたらめではないのではないでしょうか。
私は青いビニールシートに包まれたまんだら堂の旧跡を横目で眺めながら、私の残り少ない人生をこれらの切通周辺に必ず存在するはずの葬祭場捜索に捧げることを誓い、あわよくばそれらの墳墓の底深く埋葬されることを夢見たことでした。
♪カラスアゲハが無心に太刀洗川の水を吸うておる 茫洋
Monday, June 08, 2009
「釈迦堂切通」を訪ねて
時々この空気がひんやりと行きかうおおきな洞を訪れると鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」を思い出します。あの映画は長く鎌倉に住んでいた鈴木清順によってまさにこの場所で撮影されたのですが、その鈴木氏の長谷の旧邸に私の家内が住んでいたのでなにか不思議な縁を感じるのです。
この映画の中で監督は、かつて映画を学んだ母校「鎌倉アカデミア」があった光明寺や稲村ケ崎にあった有島生馬邸でもロケを敢行していて、さながら鎌倉懐旧物語といってもよいかもしれません。
さて釈迦堂切通は釈迦堂口洞門とも呼ばれ、洞門のなかには壁を削った小さなやぐらがあり、五輪塔が祀られています。釈迦堂の名は鎌倉幕府の3代執権北条泰時が亡父義時の追善供養のためにこの谷戸に嘉禄元年1225年に釈迦堂を建立したことから名付けられたようです。しかしその釈迦堂は現存しておらず、その場所は定かではありません。しかしその本尊は東京目黒の大円寺に安置され国の重要文化財に指定されています。
以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。
♪なにゆえに発注なきや半年間紫陽花の青をじっと眺むる 茫洋
♪半年間発注のない狂おしささくらば散りてあじさいの咲く
Sunday, June 07, 2009
「唐糸やぐら」と「日月やぐら」を訪ねて
鎌倉ちょっと不思議な物語第188回
釈迦堂の周辺には数多くのやぐらがあります。これらは釈迦堂口やぐら群と称されていますが、その代表的なものが「唐糸やぐら」です。
唐糸の逸話は「御伽草紙」「唐糸草子」で語られているお話です。唐糸は木曾義仲の家臣手塚太郎光盛の娘で琵琶と琴の名手でしたが、義仲の命で源頼朝の命を狙おうとして失敗、とらえられて幽閉されたのがこの唐糸やぐらだと伝えられています。
これを知った唐糸の娘万寿姫は信濃から鎌倉にやってきて、母と同じように頼朝につかえます。ある日鶴岡八幡宮の舞の踊り手に選ばれた今様の名手万寿姫は見事に舞い、頼朝から賞賛されて望みのものを訊かれます。そこで頼朝に事情を打ち明け、母唐糸の釈放を願った万寿姫の願いは聞き届けられ、母子は無事に故国に戻りましたとさ。めでたし、めでたし。
もうひとつの代表作は、その近くにある「日月やぐら」で、やぐらの内部の壁面に掘られた丸い穴を日輪に、二重に掘られた穴を月輪になぞらえた絶妙なネーミングがおしゃれです。丸い穴の上には天蓋が描かれ、下には蓮座が描かれているほかにはあまり例のない珍しいやぐらとして有名ですが、この一帯は横浜の不動産屋が開発目的で買い占めているために一般に開放されていないのが残念です。
以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。
♪隠れたってすぐ分かるぞヘイケボタル今宵も8匹見つけたり 茫洋
Saturday, June 06, 2009
Friday, June 05, 2009
高橋源一郎著「大人にはわからない日本文学史」を読んで
文学の母は人間であり、人間が生きてきた社会ですから、その母体が地殻変動すれば文学のありかたも変わってしまいます。著者は最近のそんな文学のありようの変化を、パソコンのOSの転換にたとえて語っています。
近代小説の元祖である明治17年に刊行された円朝の「怪談牡丹灯籠」も漱石の「道草」も太宰の「津軽」も志賀の「暗夜行路」も、(一葉の「にごりえ」など数少ない例外はあっても)、「自然主義」「リアリズム」「自我の肯定と世界との闘争」「他者の不在」という牢固とした基本ソフトを駆使して書かれてきたのです。
けれども小説や芸術を取り囲む共同体の共同性自体が次第に変化した結果、このような古典的な3点セットで構成されたオペレーション・システムの耐用年数がいまや尽きかけているんだ、と著者は断言します。田山花袋が女弟子に去られてワンワン泣いたり、啄木が時代閉塞の現状を嘆いたりしたときに前提にしていた「私そのもの」の基盤である「コギト」がシロアリにやられて、いまや根こぎにされてしまったということなのでしょう。
だから見よ、最近では、小説の主体である「私」が消失してしまい、小説世界に過去も未来も、はじめもおわりもなく、ただのっぺらぼうな現在だけが即物的に描写される「非小説的小説」が登場してきたではないか、と述べて、中原昌也の「凶暴な放浪者」や前田司郎の「グレート生活アドベンチャー」のような、いまだ洛陽の紙価が定まらず、あまでうす氏などから激しく嘲笑されている作品群を俎上にのせるのです。
さうして、これらは過去の主流派OSウインドーを放棄して新しい汎用OSリナックスによって書かれた無私の小説、無意味の小説と言ってもよろしい。誰でも書けるし、どこも書き換え可能であり、まったく無意味で無価値な作品であると極言しようと思えばできるだろうが、これはもしかすると新たな共同体の登場を予感させる新たな文学のはじまりなのかもしれない。
とまでおごそかに予言されるのですが、その嘘ってほんと?
しかし私が敬愛するほかならぬ高橋源一郎氏のおことばですから、千年経って「平成日本文学史」をえいやっと振り返ったなら「なるほどそういう事態だったんだね」、とほほえみながら総括できるかもしれませんね。もっともその頃には誰も生きてはいないけど(笑)。
♪大人にも本人にもよう分からん日本文学史書きたり高橋源一郎 茫洋
Thursday, June 04, 2009
続 拝啓鎌倉市長殿
去る5月14日、私は鎌倉市長に次のような要望書を提出したところ、別記のような回答が届けられました。ある程度評価できるに内容もあったものの、納得がいかない点もあったので、再度市長への手紙を書きました。
○5月14日付要望
時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。 さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。 ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。 そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。
あまでうす茫洋敬白
○5月28日付回答
明るく住みよい鎌倉をつくるため、いつもあたたかいお力添えをいただき厚くお礼申し上げます。 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。 切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。 平成21年 5月28日 鎌倉市長 石渡德一
○6月5日付再要望
早速の回答ありがとうございました。朝夷奈切通に立て看板を設置して頂けるとのこと、大歓迎です。周辺の環境整備のためにおおいに役立つと思います。しかしながら今回頂戴したコメントのなかに一部理解・納得できない部分がありますので、再度質問と要望をさせていただきたいと存じます。
>鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。
要望その1
市がどこのハイキングコースを外部に紹介されてもそれは結構なのですが、実際には年間2000万人を超える観光客のおよそ半分が「市内全域のハイキング可能路」や7つの切通をどんどん歩いています。それらの人々の安全と安心のために自転車の交通を禁止してほしいというのが私の提案の趣旨です。いっきに即時全面禁止が難しいとしても、できる箇所から段階的に禁止すべきではないでしょうか。
>朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。
要望その2
私は毎日のように朝夷奈切通を散歩していますが、「三郎の滝」から横浜市との峠境に至る朝夷奈切通は、もっぱら観光客のハイキングコースであり、現在「生活道路」としては使用されていません。観光客以外で通行する人は(私が知る限り)存在しません。
「三郎の滝」の右側の十二所果樹園に至る道は風致地区であるにもかかわらずいくつかの土建業者や建築家があいかわらず不法占拠してモノ置き場にしたり農作業を行ったり、モノを燃やしたり、歩行者を顧みない危険な車両運転を繰り返していますが、まさかこの状態を「生活道路」と表現されているのではないでしょうね。
私は十二所果樹園へ安全な歩行を阻害し、周辺の事前環境破壊している彼らは一日も退去し、この際この道を「生活道路」であるという認識を改めて頂くとともに、2輪・4輪の交通も禁止するべきであると考えます。
>切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。
要望その3
もとより理解するのにやぶさかではありません。しかし実際にその実情はどうなっているのかご存知ですか? 2輪及び4輪が我が物顔に走り回り、私が前回の投書で述べたような危険がどの切通やハイキングコースでどれくらいあるのか。まずはその実態を歩行者、観光客の身になって調査、観察、把握するべきではないでしょうか。しかるのちに即時全面禁止が無理だとしても可及的速やかに禁止や制限措置をとるべきではないでしょうか。
これらの切通は昔は生活道路でしたが、現在では豊かな自然に恵まれた歴史遺産であり国の指定史跡になっている箇所もたくさんあります。確かに一部が生活道路になっているケースもありますが、それは市や貴職が一部の住民の開発を是認して、自然と環境の破壊に手を貸した結果でもあります。
いっぽうでは市街化や生活道路化に積極的に加担しておいて、他方では環境保全やユネスコの世界遺産指定をめざすという貴殿の政策に大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。まずは地道な市民・観光客の足元の安全対策が肝要と考えます。
あまでうす茫洋敬白
♪当り前のことをとくとくと語る人なりき黒田恭一氏死す享年七十一 茫洋
Wednesday, June 03, 2009
公共広告機構の広告の公共性
たとえばサントリーが「ダカラ」の広告をするのはなんの不思議はありません。だからといって同じ会社の同じブランドが、「初夜の節電お忘れなく」とか「早寝早起き3文の得」とか「贅沢は敵だ」などというCMを流し始めたら妙なものです。しかし公共広告機構というところがスポンサーになっていろいろ立派なことを説いている一連の広告は、どうもそういううろんさ、いかがわしさを内在しているのではないでしょうか。
なんでも、あのサントリーの佐治さんが、自分の企業の広告だけではなく、たまには各社が拠金して公共的な広告を作ろうではないか、と昔々に発案され、各社の賛同を得て徐々に実施されるようになったのがこの公共広告機構(AC)らしいのですが、「あんまり当たり前のことを言うなよ」、とか「いったい誰が誰に向かってそんなセリフを吐いているんだ」と思われたことはありませんか。
「さすが広告大好きなサントリーさん、拍手喝采万々歳」、という人もいるかもしれませんが、私は私企業はおのれの製品やサービスを手前勝手にPRするのが正則であって、みだりに公共的な広告などに手を染めるのは邪道だと思っています。あくなき金の亡者として更なる売上と利潤の追求に正々堂々と狂奔している企業が、その罪滅ぼしだか義狭心だか知りませんが、急に正義の味方月光仮面面をして、やれ覚せい剤に手を出すな、とか乳がん撲滅だとか貧しい子供に愛の手をとか、とってつけたような正義の味方(味方)をするのはいかがなものでしょうか。
公共広告おける公共性とはいちおう世間が現時点で相当程度支持していると想像される意見や見解に基礎をおいているのでしょうが、よくよく考えてみれば、そうした公共性の基盤は世論の動向によってたえず揺れ動いており、けっして普遍不変の真理というわけではありません。
いま「地球に優しく」とか「子供に愛の手を」などと歯の浮くような愛の言葉をアピールしている公共広告機構が、おなじ公共性の名において、アジア太平洋戦争当時のように、「鬼畜○○撃ちてし止まん燃えろペチカよ火の玉だ」などという「公狂広告」の発信源に豹変する可能性はいつでも存在しているのです。
それでもどうしても「うろんな公共広告」をやりたければ、せめて同業のお仲間とつるむのではなく、1社単独で意見広告を出すなり、ユニセフに協賛するなり、メセナ事業を本気でおやりになったらいいのではないでしょうか。
♪わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人 茫洋
♪余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相 茫洋
公共広告機構の広告の公共性
たとえばサントリーが「ダカラ」の広告をするのはなんの不思議はありません。だからといって同じ会社の同じブランドが、「初夜の節電お忘れなく」とか「早寝早起き3文の得」とか「贅沢は敵だ」などというCMを流し始めたら妙なものです。しかし公共広告機構というところがスポンサーになっていろいろ立派なことを説いている一連の広告は、どうもそういううろんさ、いかがわしさを内在しているのではないでしょうか。
なんでも、あのサントリーの佐治さんが、自分の企業の広告だけではなく、たまには各社が拠金して公共的な広告を作ろうではないか、と昔々に発案され、各社の賛同を得て徐々に実施されるようになったのがこの公共広告機構(AC)らしいのですが、「あんまり当たり前のことを言うなよ」、とか「いったい誰が誰に向かってそんなセリフを吐いているんだ」と思われたことはありませんか。
「さすが広告大好きなサントリーさん、拍手喝采万々歳」、という人もいるかもしれませんが、私は私企業はおのれの製品やサービスを手前勝手にPRするのが正則であって、みだりに公共的な広告などに手を染めるのは邪道だと思っています。あくなき金の亡者として更なる売上と利潤の追求に正々堂々と狂奔している企業が、その罪滅ぼしだか義狭心だか知りませんが、急に正義の味方月光仮面面をして、やれ覚せい剤に手を出すな、とか乳がん撲滅だとか貧しい子供に愛の手をとか、とってつけたような正義の味方(味方)をするのはいかがなものでしょうか。
公共広告おける公共性とはいちおう世間が現時点で相当程度支持していると想像される意見や見解に基礎をおいているのでしょうが、よくよく考えてみれば、そうした公共性の基盤は世論の動向によってたえず揺れ動いており、けっして普遍不変の真理というわけではありません。
いま「地球に優しく」とか「子供に愛の手を」などと歯の浮くような愛の言葉をアピールしている公共広告機構が、おなじ公共性の名において、アジア太平洋戦争当時のように、「鬼畜○○撃ちてし止まん燃えろペチカよ火の玉だ」などという「公狂広告」の発信源に豹変する可能性はいつでも存在しているのです。
それでもどうしても「うろんな公共広告」をやりたければ、せめて同業のお仲間とつるむのではなく、1社単独で意見広告を出すなり、ユニセフに協賛するなり、メセナ事業を本気でおやりになったらいいのではないでしょうか。
♪わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人 茫洋
♪余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相 茫洋
Tuesday, June 02, 2009
森まゆみ著「女三人のシベリア鉄道」を読んで
「女三人」とは与謝野晶子と中條(宮本)百合子、そして林芙美子です。この有名な文学者が時は異なるけれども同じようにシベリア鉄道に乗ってモスクワ経由でパリまで行きました。そこで著者も同じルートで彼女たちの足跡を、そのそれぞれに目覚ましい果敢な行き方ともども追跡し、あわよくば追体験しようという趣向です。
山川登美子などの強力なライバルを打倒してついに与謝野鉄幹(寛)を略奪した晶子は、歳を追うごとに創作意欲を喪失して作家生命を衰弱させていった夫をよみがえらせるためにパリにやるのですが、今度は夫の不在に耐えられなくなって、たくさんの子供を夫の妹に託して身一つでシベリア鉄道に乗り込みます。ちなみに2人の旅費と滞在費は、すべて晶子が獅子奮迅の奮闘努力で書きまくる原稿料から工面されたのです。
どうしてそんなダメ亭主を忘れられなかったのか、と自問して「寛のセックスが良かったのであろう」と答える著者に、私ははしなくも晶子さんと森まゆみさんとの共通項を見出したような気がいたしました。それは物事をまっすぐに見つめる、正直で、リアルな生活感覚です。
寛恋しさにすべてを投げ捨てて一九一二年の五月にパリに飛んで行った晶子。そのおかげで、ほんのいっときではありましたが、与謝野夫婦はかつての恋人同士の関係にかえり、「第2の青春」を取り戻しました。
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟
という世紀の絶唱は、そのなによりのあかしではないでしょうか。私はこの句を目にするたびに紅いコクリコの花が咲き乱れる草原を白いパラソルをさした婦人がたたずむモネの絵を思い浮かべます。
そんな晶子のケースよりもっと興味深いのは、一九二七年同性の愛人湯浅芳子と共にシベリア鉄道経由でモスクワに入り、社会主義の創生期に立ち会った中條(宮本)百合子、そしてその四年後の一九三一年に、パリにいる恋人を追って国際的「放浪」の旅に出た林芙美子が繰り広げるさまざまなエピソードですが、その面白さはどうぞ本書を直接手にとって確かめて頂きたいと思います。
なおタイトルでは、「女三人」と謳ってはいますが、実際は著者自身のシベリア鉄道・パリ紀行がかなりの比重を占めていて、実際には「女四人のシベリア鉄道記」といってもよいでしょう。三人の歴史的人物以上に著者の個人的な旅行記録が少々でしゃばりすぎているように感じたのは私だけでしょうか。
♪七人の子供を残し巴里に住む恋しき夫に会いに行く女 茫洋
Monday, June 01, 2009
アジェンデ著「精霊たちの家」を読んで
花も嵐も踏み越えて恩讐の彼方から立ち上がるこの力強い言霊の威力
時代は2つの大戦をはさんで現在まで。舞台は南米最南端の国チリ。持てる者と持たざる者とが決定的な対決を迎えたこの国に、激しく生きた伝説の祖父母、父母、そして孫娘。 この小説の作者を含めた3世代の人々の苛烈な人生を悠揚迫らず描きつくした大河小説です。
緑の髪の乙女ローサを喪った祖父エステーバン・トゥエルバは、不毛の荒地を開拓して緑なす大牧場を一代で築きあげ、ローサの妹クラーラを妻に迎えます。クラーラは幻視者であり未来を予知する不思議な能力を持ち合わせていました。
この2人の祖父母から生まれた母ブランカは根っからの保守主義者トゥエルバとは180度政治的見解を異にする農場の使用人ペドロ・テルセーロと愛し合うようになり、孫娘アルバが生まれますが、彼女の恋人ミゲルもまた左翼の革命家であり、保守派の有力国会議員となった天敵の祖父トゥエルバと折り合いがつくはずがありません。そうこうするうちに南米における社会主義運動が高揚期を迎え、本人もまさかのアジェンデ政権が誕生してしまいます。
右翼や軍隊、警察と連携して左派政権の打倒を画策する祖父。彼の思惑通りについにクーデターが勃発しピノチェト軍事政権が登場するのですが、血と復讐に飢えた狂気のファシストは、アジェンデの支持者たちを徹底的に弾圧し、暴力と拷問、極刑の限りを尽くします。作者の分身アルバが逮捕監禁され、昔祖父が強姦した娘から生まれた孫(警察幹部になっています)によって強姦されるシーンなど思わず目をおおいたくなります。
しかし、その筆致はあくまでも冷静そのもの。作者の叔父が実際に米国の支持を受けたファシストたちによって虐殺されたアジェンデ大統領その人だと聞けば、「どうしてそこまで落ち着きはらっているのかしら」とじれったくもなるのですが、彼女は彼女がみずから語っているように、敵への報復や復讐のために本書を書いたのではなく、政治的な対立を超えて、この小説に登場するすべての人物の「悪魔払いの儀式として、心の中にすみついている亡霊たちを追い払うため」に書いたのです。
花も嵐も踏み越えて恩讐の彼方から立ち上がるこの力強い言霊の威力の前で、私たちは頭を垂れて、とうとうと語り続けられる人間の愚かさと素晴らしさの物語にただ耳を傾けることしかできません。
♪花も嵐も踏み越えて行きつくところまで歩むべし 茫洋
Sunday, May 31, 2009
鎌倉文学館の特別展「有島三兄弟」を見る
鎌倉文学館の「有島三兄弟 それぞれの青春」展をのぞいてきました。
ここはいつも平日はガラガラなのですが、この日は異常な混みようです。聞けば例の新型インフルエンザで遠出できなくなった関東一円の観光客がバラ園のあるこの穴場に殺到したとのこと。あきらめて帰ろうとしたのですが、前回の鎌倉の俳人展と同様結局は見ないままで会期末を迎えることをおそれて強行突破を図ったのでした。余談ながら上野の阿修羅展の馬鹿騒ぎも、これと同じ現象ではないかとふと思った次第です。
さて例によって一階と地下の二か所で飾られている展示物はそれほど多くはありません。有島武郎、生馬、里見弴の三兄弟にまつわる写真や作品や来歴を記したボードなどが要所要所に展示されていて、これらを半時間ほどざっと見物しました。
有島家の兄弟姉妹はたしか全部で五,六人いたはずですが、この三人はいずれも学習院に学び、明治四三年一九一〇年に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄たちと雑誌「白樺」に参加、小説、評論、詩、戯曲、絵画など芸術の造詣が深かったので、「有島芸術三兄弟」と呼ばれていました。
長男の武郎は札幌農学校の教師をやめて一念発起して「カインの末裔」や「生まれ出る悩み」(うまれ「でる」ではなく、「いづる」と読みます。村上某の「列島を出よ」も正しくはこれと同様に「いでよ」と読むべきで、「れっとうをでよ」は奇怪な日本語)で一躍流行作家になりました。彼の代表作「或る女」は北鎌倉の円覚寺で書かれています。若いみそらで中央公論の女性編集者と情死してしまったのは後の太宰と同様大変惜しいことをしましたが、正妻安子との間に名優森雅之が生まれたのはせめてもの慰めでしょうか。
日本芸術院の保守的な伝統に異を唱え、二科会を興して独自の絵画の道を切り開いたのは次男の生馬。鎌倉市が所蔵している「病児」を見ると師匠の藤島武二や私淑したセザンヌの影響を感じ取ることができます。なお稲村ケ崎にあった彼の洋館は、現在長野県に移転されて有島生馬記念館になっているそうです。
三男の里見弴は「多情仏心」「安城家の兄弟」「善心悪心」などで知られる作家で、小津安二郎と親しく、彼の依頼で映画化を前提に「彼岸花」を書き下ろしました。鎌倉市内のあちこちを転々としたことでも有名ですが、個人的には彼らよりも弴の「極楽とんぼ」に描かれた三男の隆三に最も興味を覚えます。
それから急いでお目当ての薔薇園に向かったのですが、残念ながらすこし旬を過ぎたところ。しかし腐りはじめた花もなかなか風情があってよいものです。
♪女と薔薇はすこうし腐りかけがよろし 某洋
Saturday, May 30, 2009
西暦2009年茫洋皐月歌日記
春夏秋冬人生宇宙循環す
サムライとおだてられしが異国で討ち死に
両足が伸びたるおたまを池に返す
今年また蛍光りしうれしさよ
春暗し男共皆縞縞背広
妻と子の鼾楽しも春の夜
左後ろ振りさけ見れば左肩根元に走るその痛さかな
いつのまにか遠い世界になりにけりエリック・ロメールの愛の昼下がり
よそながらマロニエの花咲きたり麗しきかなマロニエの花
栴檀の薄紫の花も咲きたり八幡参道二の鳥居の辺りに
岐れ道の病院の垣根に咲いている黄色い花の名前は何だろう
この頃は激減したときく雀らを見かけし朝は声をかけてやる
いろいろと死にたき理由はあるらめどこの朝ばかりは飛び込むなかれ
あんじぇらあきってなんじゃらほいあんたのおんがくよおわからん
ビーケーワン書店より鉄人28号に選ばれし恍惚と不安われにあり
ミスター・ロビンソンあなたもフライデーなしには生きられなかった
きらきらと輝く銀のうろこ見せ緑の森に消えし蛇
少女なれどすでに大人の憂いあり母を見上げる愛子さん
なにゆえに男どもみな着ておるのか電車にうごめく縞縞スーツ
男共皆縞縞背広通勤電車捕虜収容所の如し
革命の光は失せて二〇〇年いずこへ消えしや自由平等博愛
珍宝が小さきゆえに取りやめし高校時代の九州旅行
人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと豚どもいきむ
人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと鼻息荒し
善きことも悪しきこともみなつながれり豚から人へ人から人へ
太平洋の彼方から吹く豚の毒人への恨みいまこそ晴らさむ
戦争を構える理由は多々あれど止める理由はただ一つしかなし
てめえ死ねと豪速球で投げつけるチョーク当たりしはわが前歯なりき
連休の朝から楓を切っている隣の主婦を激しく憎む
青々と茂りし楓の木と枝を大刀洗川にそのまま捨てたり
朝比奈の峠の上の浦島草に小便掛けし憲法記念日
朝比奈の峠の上のウグイスが貯金貯金と鳴いていました
こんにちはと誰もが挨拶交わし合う朝比奈峠を行き来する人
虫は嫌いとおっしゃるけれど美枝子さんそれはアカタテハの幼虫ですよ
黄金の大判小判の隙間からまたしてもこぼれおちるほんたうの幸福
♪あじけなしバーンスタインのハイドンを聴く日曜日 茫洋
Friday, May 29, 2009
葉山「日影茶屋」と新宿「大戸屋」のランチを比較して飲食業のサービスについて考える
雨の金曜日、横須賀の素晴らしい歯医者さんで定期健診をして頂いてから葉山海岸沿いに建つ日影茶屋で遅めのランチをとりました。
ここはその昔伊藤野枝さんに恋人を奪われた神近市子さんが、恋に狂って大杉栄氏を刺した現場として有名ですが、当時は現在のような料亭ではなく、日本旅館として営業していたようです。
私が案内されたのは新館でしたが、大杉氏が刺されたのはその隣の旧館の2階だといいます。きっと恋びと同士がよろしくやっている最中にドスを呑んだ女一匹が殴り込みをかけたのでしょう。恋などと言うとなにやら優雅に聞こえますが、恋は気狂いと病気に紙一重ですから、すぐに刃傷沙汰になってしまうのです。くわばら、くわばら。
日影茶屋には眺めの良い庭があり、品のよさ気な女の店員が大勢いますが、全員きれいな着物をまとっています。ランセットはいちばん安いのが3千5、6百円くらいの弁当なので、「ルンペンプロレタリアートには少し高いなあ」と思いつつそれを頼みました。
さすがに有名なお店らしく冷たい茶碗蒸しなど結構なお味です。四点くらいの各種お惣菜をどんどんかたづけ、そろそろ食べ終わろうかという頃に、なぜかお椀が出ていないことに気付きました。
きれいなオベベをお召しになったお嬢さんに「お吸い物はついていないの」と尋ねるとさっと顔色を変えて「大変申し訳ございません。すぐにお持ちします」と答えてから調理場に飛んで行きました。ど忘れしていたのですね。上司の女将さんもすぐにやってきて丁重に詫びるのですが、とかく食い物の恨みは恐ろしい。「お前たちはいったいどういう仕事をしているのだ、サービスをどういうものだと心得ているのだ」とせっかくの料理の味はもはやけし飛んで「後味が悪い」というのはこういうことかと思いいたった次第でした。
そこで思い出したのは、新宿スバルビル内の「大戸屋」のランチのことでした。あちらの3千何00円に比べてこちらはたったの620円。味も格式も違います。しかしここ大戸屋では、少なくとも日影茶屋のように不愉快な目に遭ったことなぞ一度もありません。
レジに寄って最初にお金を払うと、レジの担当者が、「どこでもお好きなところにお座りください」と言います。それで空いている座席を探して勝手にどこかに座っていると、すぐさま店員が水を持ってきます。(席まで案内されることもありますが)
さらにしばらく待っていると、頼んだメニューをたがえずに店員が席まで持ってきます。
どんなに混んでいてもこのやり方に破綻がない。お客の顔と席とメニューをどのようにお互いに確認しているのか不可思議です。
さらに驚くべきことは、ランチが終わりに近づいたちょうどその頃に、別の店員がお茶を持ってくるのです。最近は水だけで済ます店が多いなか、これはちょっとうれしいサービスです。味はそりゃあ一流料亭のそれではありませんが、ここの調理の基本は「普通の家庭料理」なのでいわば希少価値があります。喫煙客が猛毒を流している居酒屋や普通のレストランよりも清潔でおいしい。とくに野菜が新鮮です。
以上長々と書きましたが、名門日影茶屋の、飲食の基本が欠落している豪華ランチと安近単の大戸屋のサービスと、いったいどちらが上かは言うまでもないでしょう。それにそもそも日影茶屋の仲居さんには、大戸屋の基本動作さえ実行できないでしょう。
いつでもおいしく感じがよく、「また来よう」と素直に思えるカジュアル店と、「こんなとこ2度と来てやるものか」と思ってしまう名門店と、その星の差はあまりにも大きいと言わざるを得ません。
♪グルメなどと偉そうにほざくなかれ当り前の料理を当たり前に出せ 茫洋
Thursday, May 28, 2009
花咲地蔵と花咲爺
ここは大町の山から下りてきた一角で花を飾られた小さな地蔵尊があります。
鎌倉時代から室町中期まで、この谷に足利直冬が祖先の菩提を弔うために建立した慈恩寺がありました。その直冬の法号にちなんだ慈恩寺ですが、禅宗系の寺であるか否かはまだ識者の間で議論が続いているようですが、それはともかく、直冬が境内に四季折々の花々が絶えないようにしたためにこのあたりは現在も花ヶ谷と呼ばれています。
まことに風流なお寺もあったものです。ここは海浜にも近く、うっそうと茂った木々の間に7層の塔をのぞむ素晴らしい景観だったことでしょう。足利直冬は花咲爺でありました。
ところで直冬は足利尊氏の子ですが、側室の子であったために認知されず、僧になっていました。後に尊氏の弟、直義の養子になり、長門探題に任命されましたが、実父の尊氏と対立して挙兵し、その後は九州に逃れて南朝側の武将として室町幕府に抵抗し、嘉慶元年1387年に亡くなったと伝えられていますが詳細は詳らかではありません。
以上、おなじみの「鎌倉廃寺事典」と鎌倉ガイド協会の資料からの引用でお茶を濁しました。
春夏秋冬人生宇宙循環す 茫洋
Wednesday, May 27, 2009
「大切岸」を望む
鎌倉ちょっと不思議な物語第184回
法性寺のすぐ近くには逗子側に屏風のように立ちはだかっている垂直に削られた崖があり、「おおきりぎし」と呼ばれています。この崖は鎌倉の覇権を確立した北条氏が三浦半島を拠点とする三浦市の侵入を防ぐ目的で築かれた防御施設であると伝えられています。
現在ではおよそ800mほどしか残っていませんが、北東部はわたしの住んでいるところから、西南方面は住吉城跡まで続いていたといわれています。切岸と平場は2から3段のひな壇状に造られているところもあります。
崖の高さは3から5mで場所によっては10mの絶壁を構えているところもあります。今は個人の所有地(畑)となりましたが、昔の面影は十分に残っています。また切岸上の尾根道は鎌倉城外郭防衛道で鎌倉入口守備隊への物資補給路であったとか浄妙寺に通じる道であったとかいろいろいわれているようです。
ただこの大切岸は本当に防衛遺構なのかというと、それを裏ずける資料はなにもありません。防衛遺構説以前は海蝕による崖岩が隆起したものと唱えられ、現在では石切り場の跡の可能性があるとも説かれ、要するになにがなにやらよく分からないという鎌倉ちょっと不思議な場所なのです。(鎌倉ガイド協会の資料から引用)
♪サムライとおだてられしが異国で討ち死に 茫洋
Tuesday, May 26, 2009
法性寺を訪ねて
このお寺はじつは私の家から直線距離にすればそれほど遠くありません。鎌倉逗子ハイランドの坂道を下って、横須賀線の線路にぶつかった右側に馬頭観音があり、そこが入口になっているのです。ところがこの日は海側からではなく、山側の名越切通から尾根伝いに接近したものでから、すっかり土地勘が狂ってしまいました。
以下例によって鎌倉ガイド協会の資料をほぼ丸写しいたしましょう。猿畠山法性寺はなぜだか猿の字が冠されていますが、それは前にも触れましたように、文応元年1260年、松葉ヶ谷の法難の際に、日蓮さんが名越の尾根から尾根へと逃げられたのですが、そのとき山頂にある山王権現の使いとも言われている3匹の白猿が、上人をこの法性寺の祖師堂の横にある岩窟に案内したので、日蓮さんはしばらくこの岩屋で難を避けていたと伝えられています。そして現在その場所には朗慶作と伝えられる五輪塔が安置されているのです。
後日日蓮は、これも山王権現の加護のおかげであると言ってこの地に一寺を建立して恩に報いよと弟子の日朗に命じられ、その弟子の朗慶がこの法性寺の開基となりました。
ところで日朗は晩年東京の池上本門寺に隠棲していましたが、入寂の際に幼少の砌に遊んだ懐かしい猿畠山に戻りたいと遺言したので、朗慶の手で安国論寺で荼毘に付されたのち、法性寺の山頂の四面堂に納骨されました。
現在ではこの一帯に猿は見かけませんが、鎌倉時代にはたくさん棲息していたのでしょう。
♪左後ろ振りさけ見れば左肩根元に走る痛さかな 茫洋
Monday, May 25, 2009
5万円パソコンの意義
昨日と同じ新宿西口広場をどこかでフォーク集会でもやっていないかなとねぼけ眼で探していたら、台湾のパソコンメーカーの「パソコンは5万円で買う時代」という広告が目に入りました。やたらグリコにおまけをつけて10万、20万で売り出すのではなくて、メールやネットなど必要最小限の機能だけでグリコを安く買いましょう、という提案です。
アスース、エイサーなどがはずみをつけたこの格安ネットブックは米国のHPやデル、日本勢も追随するところとなり、ビックカメラなどの家電量販店のパソコン売り場の最前列に並んでいますが、こういう新参者の乱入を許したのはパソコンメーカーと米マイクロソフト社の多機能高付加価値製品を高価格で販売しようとする醜い商魂でしょう。
車も洋服も低価格中品質を求める消費者のニーズに懸命に対応しようとしているのに、彼らは「早い、安い、うまい」ならぬ、「遅い、高い、まずい」製品をあくまでも売りつけようとしていました。とりわけひどいのは米マイクロソフト社の現行OS、ビスタです。不要不急の機能をてんこもりにつけて、運用速度をめちゃめちゃに遅くしてしまい、それを消費者に対するサービスと考えているこの世界的大企業に対する反発が今回の格安ネットブックブームの根源に隠されているのではないでしょうか。
彼らはこの失敗を反省して新しい改訂版ソフトを年内に発売するそうですが、「大男総身に知恵が回りかね」とはよく言ったもの。ソニーのプレステが任天堂に苦杯をなめたように、とかく巨大化した企業は消費者のちょっとした心根をくみ取ることに失敗して逆、その存在理由をいつのまにか掘り崩してしまうことを深く自戒せねばなりません。
実際に5万円パソコンを使ってみるとこれが意外に使いづらく、これならもう少し割高でも多機能なノートが欲しいと思うはずで、現に市場はその方向に動きつつありますが、ともかく一寸先は真っ暗闇のビジネス戦線であります。
少女なれどすでに大人の憂いあり母を見上げる愛子さん 茫洋
ロバート・デ・ニーロと「レガシー」
今日もまたくたびれ果てて新宿西口の交番を左折してまっすぐスバルビルに向かってよたよた歩いていると、これまたくたびれ果ててぐちゃぐちゃになった中年男の顔とぶつかりました。大きな柱を巻くようにして、だから柱巻といわれている電飾広告です。
これはもしかして私の大好きなデニス・ホッパーかと思って近づいてよーく眺めたらロバート・デ・ニーロでした。富士重工のレガシーの新車のキャラクターとしてテレビCMや新聞、雑誌、ポスターなどに登場しているのです。
テレビCMはスタンリー・キューブリックの映画「シャイニング」の冒頭でジャック・ニコルソンが運転していたローキー山脈の断崖絶壁のシーンに似ていて、(もしかすると完全なパクリ?)そういえば同じレガシーが以前たしかメル・ギブソンを起用していた際にも、同工異曲のCMを製作していたことを思い出しました。
今回スバルではなんでも2名の有名監督を起用したそうで、この不景気にもめげず恐らくは大枚を投じて撮影されたと想像するのですが、前に述べた2つの演出に比べるとあきらかに劣りますし、それよりもこういう車にはこういうタレントを使ってこういう場所を走らせるのだ、という発想そのものが陳腐で、宣伝屋の浅知恵にはまるで進歩がないことを証明しているようでもあります。
自動車の世界もデトロイトが沈没し、国産勢もそのあおりを受ける中で、かろうじてトヨタとホンダのハイブリッド車だけが気を吐いている今日この頃、この会社のこの車のこの広告はとても現実離れしたドン・キホーテ的なもので、私はその「かつての栄光よもう一度」と黄昏の夕日に向かって寂しく呟く孤独な後ろ姿が大いに気に入りました。
♪両足が伸びたるおたまを池に返す 茫洋
Saturday, May 23, 2009
ウエザーメスト指揮モーツアルトの「皇帝ティトゥスの慈悲」を視聴して
モーツアルト最後のオペラである「皇帝ティトゥスの慈悲」を視聴しました。1791年12月5日にこの天才作曲家は35歳で亡くなりますが、その死の年の夏から秋冬にかけてまるで自分の死と競争するように同時進行で取り掛かっていたのがあの「魔笛」と「レクイエム」とこの作品でした。
あまりにも有名な2つの遺作に比べるとさほど高い評価を受けてこなかったこの作品ですが、05年6月チューリッヒ歌劇場管弦楽団、合唱団を率いてフランツ・ウエザーメストが指揮した公演のライヴ録画を視聴するかぎりでは、みじんも死の影を予感させない充実したモーツアルトの音楽を楽しむことができます。歌手ではセスト役のベセリーナ・カサロヴァとウィテリア役のエヴァ・メイが好演しています。
演出はジョナサン・ミラーですが、弟子のジュスマイヤーが師匠の死後に作ったと伝えられるレティタチーボをやめて全部をただのセリフにしてしまったために、逆にモ氏の音楽がそれ自体としてくっきりと際立つことになったのは思いがけない副産物でした。
さてモーツアルトは、演奏時間2時間強の二幕の全曲を、たった2か月、いや2週間で書き飛ばしたと言われているようですが、フィガロの序曲だってたった数時間で書いてしまった人ですから、速度と完成度は無関係。いたるところで素晴らしいアリアを耳にすることができるのです。
ところでモーツアルトは、なぜこの題材を彼の最後のオペラに選んだのでしょうか。
皇帝ティトゥスはあの有名なポンペイのヴェスヴィオス火山の大爆発や首都ローマの大火などの時期にわずか2年2ヶ月と20日間だけ在位し41歳で急死したローマ皇帝ですが、古来限りない慈悲に満ちた名君として喧伝されています。
スエトニウスの「ローマ皇帝伝」(岩波文庫)の第8巻を読むと、それまでは政敵を暗殺したりして尊大で横暴で放埓であったティトゥスは、父の跡を継いで皇位に昇るや突然善人に変身し、歴代皇帝中でも5指に入る人気者になってしまうのです。
ティトゥスはとかく問題のあった愛人を追放しただけでなく、市民の誰からも何一つ強奪しませんでしたし、金銭的にも清廉潔白でした。ある時、誰にも何も与えなかった日に、「諸君、私は1日を無駄にしてしまった」という世紀の名文句を吐きました。
政敵に対しては徹底的な宥和政策を貫き、統治権を狙った2人の貴族に対しても、皇位を狙った弟に対しても、「どうか私の愛情に報いたいという気持ちになってくれないか」と懇願して、寛容と忍耐と情愛の精神を終生貫き、それが、そのままこのオペラの主題になっています。
時には皇帝として復讐すべき時にも、「人をあやめるぐらいなら、むしろ自分が死にたい」と断言して敵対者を処罰しなかった奇跡の愛の人、ティトゥス。裏切った親友にも、暗殺を謀ったおろかな后妃にも死でのぞむどころか無罪放免してやった慈悲の人ティトゥス。彼こそは、モーツアルトの理想の人物だったに違いありません。
現実から手ひどい打撃を蒙りながら、それでも悪人を許そうとするティトゥスの沈痛なアリアに耳を傾けてみると、涙を流しながらペンを走らせている最晩年のモーツアルトの胸の内がなぜか分かるような気がするのです。
♪よそながらマロニエの花咲きたり麗しきかなマロニエの花 茫洋
Friday, May 22, 2009
佐藤賢一著 小説フランス革命3「聖者の戦い」を読んで
名もなきパリの民衆、とりわけ下町の女性や弁護士デムーランなどの大活躍でベルサイユの国王や王妃をパリに「奪還」したわけですが、貴族たちが国外に逃亡した後の三部会、いや国民議会は肝心の憲法を制定するどころか右派と左派、そしてバチカンの顔色をうかがいながら保身にきゅうきゅうとする聖職者たちの間で、フランス革命のイニシアチブをめぐって果てしなき混迷が続けられます。
さて本巻に登場するのは、これまでにもめざましい活躍をしてきた以下の面々です。
まずはライオン丸こと伯爵ミラボー。議場で獅子吼すれば泣く子も黙るこの陰謀家は、あろうことか革命の大義を裏切ってひそかにフランス王ルイ16世に急接近しようとするのです。この術数にたけたプロバンスの貴族は、なぜかヴェルディのオペラ「椿姫」に出てくるアルフレードの父ジェルモンを思い出させます。
さらにはオータンの司教にして議会の小澤的黒幕タレイランや国民衛兵隊司令官とパリ方面軍司令官を兼務してルイ16世の覚えもめでたいアメリカ帰りの白馬の騎士ラ・ファイエット将軍。こういう海千山千の政治家たちが議会の三頭派デュポール、ラメット、バルナーヴなどの頭越しに憲政を壟断しようと暗闇でうごめいています。
のちに恐るべき独裁者に成り上がるロベスピエールやマラー、デムーラン、快男子ダントンなどはまだまだひよっこのようなちっぽけな存在ですが、やがて彼らが次第に頭角を現して彼ら守旧派の親玉たちを歴史の表舞台から退場させるのです。
過去の名著のみならず英米仏など内外の最新フランス革命史を参照しながらこれらの個性的な革命家たちの群像をあざやかに屹立させる著者の手腕は見事なものです。そしてはねっかえりの革命児サン・ジュストがロベスピエールに接近していくところで全一〇巻シリーズの第三巻が幕を閉じるのですが、続く第四巻の登場がこの秋とはなんと待ち遠しいことでしょう。
♪革命の光は失せて二〇〇年いずこへ消えしや自由平等博愛 茫洋
Thursday, May 21, 2009
いにしえの鎌倉砦「名越切通」を歩く
「名越切通」は鎌倉七切通のひとつで国の指定史跡となっています。この切通は鎌倉と三浦を結び、峠は鎌倉と逗子の市境になっています。
仁治元年一二四〇年、三代執権北条泰時の治世の際に私の近所の朝比奈切通の工事が行われたと吾妻鏡に記載されていることから推察するとおそらくこの頃にこの「名越切通」も整備されたのではないかと考えられます。
鎌倉から金沢六浦津(現在の横浜市金沢区)に向かう朝比奈切通も、この「名越切通も当時の姿をよく伝えていますが、朝比奈切通が当時の代表的な通商道路(銀座通り)であったとすれば、この「名越切通」は北条氏が最も恐れた三浦氏に対抗するために突貫工事で仕上げた軍事道路であったのではないでしょうか。
道は急峻で通行しにくく、しかもくねくねと折れ曲がり、三浦勢の攻撃と馬の進行を妨害するために巨大な岩石を埋め込んであります。峠の上からこの獣道を弓矢や岩や礫で攻撃されればそう簡単に鎌倉に攻め込むことなどできないでしょう。もっとも銀座通りの朝比奈切通にも大曲には砦になっている巨大なやぐらがあって眼下の敵ににらみをきかせていたことを忘れてはなりません。
なお「名越切通」は、現在では横須賀線と神奈川県道三一一号鎌倉葉山線がトンネル通過しており、交通路としては利用されていません。
(「鎌倉の寺」小事典、鎌倉ガイド協会資料を参考にしました)
♪今年また蛍光りしうれしさよ 茫洋
Wednesday, May 20, 2009
緑薫る「安国論寺」を訪ねて
名越四つ角交差点を左に入ると松葉ヶ谷。その突き当りに日蓮が安房から鎌倉に入って最初に庵をむすんだ「安国論寺」があります。彼は53歳の時に身延山に移りますが、およそ20年をこの地ですごし、その跡がこの寺になりました。
奈良旧教や他の鎌倉新仏教、とりわけ法然・親鸞の浄土宗を非難攻撃した「立正安国論」は禅宗を保護する幕府の前執権北条時頼の怒りを買いましたが、権力者の宗教政策を真正面から批判した彼が39歳の時の主著は、このお寺の「御法窟」(日蓮岩屋)で書かれました。「法華経を大切にして国難を切りぬけよ」という決死の建白書でした。
「立正安国論」を読んだ浄土宗信者は激高してこの庵を襲いました。世に名高い「松葉ヶ谷の法難」です。危険が迫った日蓮を助けたのは1匹の白猿でした。猿はこのお寺の裏山の奥にある「南面窟」という岩屋を経て現在法性寺が建っている猿畑山に導いたと伝えられています。
日蓮は生涯に四たび法難に遭遇しています。けれども実際に日蓮が最初の法難に遭ったのはここ「安国論寺」であったのか、それとも近所の長勝寺であったのか、はたまた比企が谷の妙本寺であったのかについては諸説紛々としていて、いまなお決着がついていないようです。
「安国論寺」は創建が建長五年一二五三年ですが、それからこの「安国論寺」には増上寺から移された石灯籠、日蓮の「至高第一」と称された直弟子の日朗上人の荼毘所や日連の桜の木の杖が根付いたといわれる妙法桜、さらに土光経団連会長が私財を投じて造られた尾根の上の鐘楼もあって見逃すわけにはいきません。
(「鎌倉の寺」小事典、鎌倉ガイド協会資料を参考にしました)
♪栴檀の薄紫の花も咲きたり八幡参道二の鳥居の辺りに 茫洋
Tuesday, May 19, 2009
ユニクロの新宿西口店と広告
鳴り物入りでオープンした新宿西口のメガショップですが、なんせ元は家電のサクラヤがあった場所。構造はそのままに真っ白なペイントを施し、かっこよさをきどってみせたものの、入口のサイコロブロックのがさつさといい、各フロアの狭さといい、どうもおちつかない空間設営です。
誰が設計を担当したのか知りませんが、これで世界のファストブランドと対抗しようとはおこがましい。フラッグショップストアなら旗艦店らしい格調の高さが必要ではないでしょうか。
しかし「わたしは1枚で行く」という栗山千明のブラトップのテレビCMやPOLONOWのコピーによるポロシャツ、佐藤可士和のアートディレクションによる和洋のロゴタイプやTシャツキャンペーンなどのクリエイティブの水準は高い。
あれほど安っぽいカジュアルウエアを音楽やデザインでそれなりにおしゃれに見えるようにごまかしている技術がすごいと思います。もちろんその大本には、ユニクロの素材に最新の科学技術を取りいれた商品企画と販売、プロモーションの三位一体が厳然と存在していて、それが大不況下の奇跡の1人勝ちを生み出しているわけですが。
岐れ道の病院の垣根に咲いている黄色い花の名前は何だろう 茫洋
Monday, May 18, 2009
愛の昼下がりにいざなう「ピーチ・ジョン」
伝説の経営者野口美佳が経営する若い女性のおしゃれな下着の会社「ピーチ・ジョン」は全国で12店舗を運営していますが、現在は同じ下着の大手ワコールの傘下に入りました。
最近沈滞気味のワコールは、苦手な若い女性のニーズをうまくとらえて人気のあるピーチ・ジョンのマーケティング・ノウハウを獲得したかったのでしょう。
それはさておき、私がいつも新宿駅で湘南新宿ラインを待っていると、目の前にルミネとピーチ・ジョンの巨大な構内広告が掲示されているのでついつい眺めてしまうことになるのです。
ルミネはコピーライターとフォトグラファーがそれなりに頑張っていますが、コピーはお世辞にも1流とはいえません。写真もなぜかわざとピントの甘いものを多用しており、もしかするとアートディレクターが一癖ある変態者(褒め言葉です)なのかもしれませんが、じつに気になる広告ではあります。
いっぽう「ピーチ・ジョン」は、大方の予想を裏切って全然変態的ではなく、(モデルは大胆な裸で登場してはいるが)、コピーライターがかなり良い仕事をしています。
例えば今回の広告では、ご覧のように、「Lingerie is Love-Jewelry 」とダジャレで韻を踏んであります。
このような手法はタワーレコードのNo music No life(英国の諺No pain No gainのパクリ)や昔の全日空の「北海道、でっかいどお」という真木準のコピーをはじめたくさんの好例があるのですが、この即席日本製英語は、見た目も、発音も、「ランジェリーは愛の宝石ですよ」という意味付けもふくめて、なかなかのものです。
やってみろといわれても、素人には絶対に作れないキャチフレーズ。ということは、かなりの手だれの仕事でしょう。なぜともなくエリック・ロメールの映画「愛の昼下がり」にも連想が及んで、ラッシュアワーの束の間、あらぬ幻想の世界に遊ばせてくれる貴重な広告ではあります。
♪いつのまにか遠い世界になりにけりエリック・ロメールの愛の昼下がり 茫洋
上野榮子訳「源氏物語第八巻」を読んで
私のように平安時代の日本語に不案内な読者にとっては、紫式部の自筆原稿を自力で読みこなすことなど到底できません。そこでやむなく翻訳書に手を出すことになるわけですが、これが訳者によって読後感がまるで異なるので、いったいどれが本当の紫式部のコンテンツにもっとも近いのかとおおいに面喰います。
しかしそもそも翻訳とは、翻訳者が原作者になりかわって作品を解釈する行為です。いわばイタコが原作者に憑依するような過程をたどってその言霊を私たちに表白するわけですから、谷崎にせよ与謝野にせよ、その内容が違ってくるのは当然といえましょう。
私たちはイタコたちの憑依や言霊のバリエーションを楽しむことが許されるわけです。
ところでそのイタコにも理数系のそれと文系のそれがあって、文法学者などが手掛けた翻訳は前者、文学者などによる翻訳は後者がおおいようです。前者は主語と述語、修飾句などが明確に指示されているかわりに、日本語としての表現が未熟で情緒に欠けるという短所があり、後者はその反対であることがおおく、いずれにしても帯に短し襷に長い隔靴掻痒、皮肉の嘆が消えることはありませんでした。
谷崎なども語学に自信がなかったので国語学者山田孝雄の校閲を仰ぎながらはじめて彼の源氏物語を世におくることができたのですが、通読していてときおり「主語=主体」があいまいになるくだりがあります。しかしそこは大谷崎一流の清濁併せ呑む文体で情趣豊かに切り抜けるのです。
このような行き方は、フランスの詩人ランボーの詩を大胆不敵にも昭和の初期に翻訳した中原中也や小林秀雄にも見られる「文学的な強行翻訳突破法」といえましょう。誤訳だらけの同じ詩句をたとえば宇佐美斉、鈴村和政の手になるものと読み比べてみると到底同じランボーとは思えないほどの違いです。(ただしどちらが詩人の詩魂に近いかはまた別の問題です)
前置きが長くなりましたが、上野榮子さんによる源氏の現代日本語への翻訳は、この理数系と文系のバランスがとてもうまく取れた点がなによりのお手柄ではないでしょうか。最終巻の第8巻では悲運のヒロイン浮舟が薫と匂宮の板挟みとなって苦しんだ挙句、宇治川に身を投じるという緊迫した場面が描かれています。
しかし「手習」の帖をつらつら眺めていても、彼女が自らの意志で投身、入水したという記述はどこにも現れず、この事件の真相が宇治三姉妹の長女(総角、大君とも)を血祭りにあげた物怪の殺意によるものであることがこれほど明確に印象付けられる翻訳書はなかったのではないでしょうか。
本文の中で浮舟が自分で述べているように、入水を実行できずに呆然としているところをまるで匂宮のようなイケメンが突然やってきて体を抱き上げられ、そこで意識を失ってしまったわけですから、結局「入水」は実行されなかったのです。
さらに調子に乗って書いてしまいましょうか。どの翻訳においても、薫が浮舟を発見して再び恋の炎を焦がすところで突然全巻の幕を閉じてしまうわけなのですが、本書ほど「宇治一〇帖」が“未完の傑作”であることを雄弁に物語っている翻訳本はないとも言えるでしょう。
紫式部はこの続きを書こうとして書けずに世を去ったに違いない。と本書を読めば誰しも確信するはずです。
♪この頃は激減したときく雀らを見かけし朝は声をかけてやる 茫洋
Saturday, May 16, 2009
山本兼一著「利休にたずねよ」を読んで
お茶の大家である千利休さんが太閤秀吉さんに殺されるまでの顛末を、利休の運命的な恋をふとい縦軸に据え、信長、秀吉、家康、堺の茶人衆など多彩な同時代人をほそい横軸に置きながら、巧みなプロットと華麗な文体で鮮やかに描きました。
特に主人公を取り巻く茶人武野紹鴎、山上宗二、古渓宗陳、万代屋宗安、長次郎、黒田官兵衛、今井宗久などの人物像がくっきりと浮かび上がってくる手腕は見事で、著者の努力と研鑽のあとがうかがえます。
そうして異国の運命の女との間を結ぶ一本の赤い紐がこの偉大な茶匠の芸術を生涯にわたって支え続けたのか、とあやうく思いこみそうになるほどです。
しかしよく考えてみると、そんな馬鹿な話はありません。戦国大名三好長慶の求めに応じて村田紹鴎が高麗の李氏ゆかりの美女を誘拐するというのです。これは日本帝国全盛の第2次大戦中ならば日常茶飯事でしたが、安土桃山時代では歴史的にみてもほとんどあり得ません。
その拉致し来った絶世の美女に横恋慕した若き日の利休が、彼女を盗み出し、追い詰められてわが手に掛けてしまい、それが生涯のトラウマになって……なぞというあほらしいプロットは、大胆な推理というよりは、ほとんど奇想天外な与太話の類でしょう。
それをともかく最後まで読ませる著者の旺盛な筆力には脱帽のほかはありません。さすがは本年の直木賞を受賞しただけのことはあります。
驚くべきことには、筆者はこの小説の叙述の時間的な順序を転倒し、あえて利休切腹の当日から遠い過去に向かってさかのぼるかたちで語っていきます。この斬新かつ意欲的な試みを評価することにはけっしてやぶさかではありませんが、これはあまりにも奇をてらいすぎた形式ではなかったでしょうか。
あえて時間のベクトルを逆に設定したために、累積する因果関係が不透明になってしまいました。前に進行するはずの物語は推力を失い、たえず中空にぶら下がって停滞するためにせっかくの読書の醍醐味が半減です。またタイトルも意味不明のみょうちきりんなもので、全然よくありません。堂々とノーマルスタイルで勝負してほしかったと思います。
♪いろいろと死にたき理由はあるらめどこの朝ばかりは飛び込むなかれ 茫洋
Friday, May 15, 2009
ル・クレジオ著「黄金探索者」を読んで
インド洋に浮かぶモーリシャス島はセーシェル諸島のさらに南に下がったところにあり、マダガスカル島のすぐ東にあります。
モーリシャス島といえば、誰でもこの美しい南海の島を舞台にしたサン・ピエールの小説「ポールとウィルジニー」の悲恋を思い出しますが、著者はこの18世紀末のベストセラーを頭の片隅におきながら第1次大戦前後の時代を背景に、同じ島を舞台にしたある多感な少年の物語を描きだしました。
少年の思いはつねに帰っていくのです。幼い日に父母や姉たちと過ごした懐かしい家や庭や木や花々や鳥の鳴き声や海に躍る魚たちの銀鱗への郷愁に。
少年は優しく美しい母の声の響きを、緑なす谷間の奥に聞きます。そこには逃亡奴隷の大海賊が白人に投降することを拒んで身を投げた切り立った岸壁があるのです。
少年は夢想的な父親が遺した地図を頼りに、モーリシャス島の隣にあるロドリゲス島にわたって海賊が岩山の奥に隠した財宝を捜そうと何度も試みるのですが、残念ながらそれはついに発見されません。
少年が求めていたもの、それは黄金ではありませんでした。懐かしい家族との再会、ゼーダ号のプラドメール船長との最後の航海、それにもましてあの美しい少女ウーマとの愛の暮らしだったのです。
「そのときウーマがふたたびぼくとともにいて、その体臭や息が感じられ、心臓の鼓動が聞こえる。ぼくたちはいっしょにどこまで行くのだろう。(中略)世界の向こう側にあって、空に現れる前兆も、人間たちに引き起こす戦争も、もう恐れたりせずにすむ場所まで?」
ここには主人公の少年にことよせたノーベル賞作家の見果てぬ夢がこめられているようです。
♪あんじぇらあきってなんじゃらほいあんたのおんがくよおわからん 茫洋
Thursday, May 14, 2009
東勝寺橋を訪ねて
東勝寺は太平記にも記されているように北条政権が最後の日を迎えたところです。
稲村ケ崎、稲瀬川方面からアサリを押しつぶして突入した新田義貞の軍勢が、最後の執権北条高時の軍勢千余騎をここ葛西が谷に追い詰め、暗い谷戸の奥の奥にある「腹切りやぐら」で武者全員が自害したことで知られていますが、東勝寺橋はその谷戸の麓を流れる滑川にかかっている瀟洒な石橋です。
ちょうどこの近くに亡くなった澁澤龍彦が住んでいて、滑川でウナギを獲っているのを見物していると、この奥に住んでいた立原正秋がベレー帽をかぶり自転車に乗ってこの橋の上を通り過ぎたというエッセイを書いており、神西清にも「腹切りやぐら」を訪ねるエッセイがあるそうです。(鎌倉文学館資料より)
また太平記によれば鎌倉時代に青砥左衛門賢政(藤綱)という武士がおり、夜この東勝寺橋を渡ろうとして銭十文を滑川に落としてしまった。そこで近くの町屋に従僕を走らせて銭五十文で松明を十把買わせて川底を捜索し、とうとうその一〇銭を見つけ出したところ、この話を聞いた人々が「一〇銭を捜そうと五〇文で松明を買うとは大損ではないか」と嘲った。すると青砥左衛門少しも騒がず、「もし私が一〇銭をそのままにすれば永久に役に立たない死銭になるだろう。しかし松明を買った五〇銭は商人のものになってずっと流通する。一〇銭と五〇銭合わせて六0銭がなくならずにずっと流通することは大きな利益ではないか」と反論したので、悪口を言った人々も深く感じ入ったといいます。個人的小利ではなく社会的大利を重んじるというこの時代には珍しい重商主義的な視点を持っていた武士だったわけですね。
青砥左衛門は歌舞伎十八番の「白波五人男」にも登場して彼らを滑川にかかった土橋の上で捕まえるのですが、青砥左衛門邸はこの東勝寺橋を流れる滑川のかなり上流にあたる浄明寺の青砥橋付近にあったと伝えられています。ちなみに私の住まいの近所です。
ちなみついでに、この近くで主婦が運営している「青砥」は、まずい高いで全国的に有名な鎌倉の和洋飲食店の中では珍しく、おいしくて値段も手頃な和食の家庭料理屋さんなので、誰にも知らせず内緒にしておきたいと思います。
♪ビーケーワン書店より鉄人28号に選ばれし恍惚と不安われにあり 茫洋
Wednesday, May 13, 2009
拝啓 鎌倉市長殿
時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。
さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。
ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。
そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。
あまでうす茫洋敬白
♪きらきらと輝く銀のうろこ見せ緑の森に消えし蛇 茫洋
Tuesday, May 12, 2009
ミシェル・トゥルニエ著「フライデーあるいは太平洋の冥界」を読んで
デフォーの1719年「ロビンソン・クルーソー」は後続の1726年の「ガリヴァ旅行記」に大きな影響を与えた18世紀の冒険物語ですが、この有名な海洋漂流譚を今度は1967年になってフランスの作家ミシェル・トゥルニエが換骨奪胎してまったく新しい物語、冒険譚でありながら人間の存在の根底を問い、生と性と聖を真摯に探求する哲学の書として書き直しました。それが本書です。
同じ空想海洋小説には違いないのですが、読比べると原作の「ロビンソン・クルーソー」とはずいぶん違います。「ロビンソン・クルーソー」ではあくまで主人公はロビンソン・クルーソーですが、この本では途中から脇役のフライデーがその野性的な魅力を十二分に発揮して、むしろ主人公を食ってしまう。
とりわけ無人島エスペランザに棲息する凶暴な野生の山羊の王様と死に物狂いで戦って勝利をおさめ、その皮を剥いで大凧にして何庸の南洋の青空に飛ばしたり、妙なる音楽を奏でる楽器に変身させてしまうあたりでは物語の比重が主客転倒して、このインディオと黒人の混血の土俗的な存在感は、灼熱の太陽の直下で異様な光彩を放ちます。
それから原作ではロビンソンもフライデーも無事に本国へ帰国するのですが、この小説ではせっかく28年と2カ月と19日ぶりに救助船に発見されたというのに、ロビンソンはこの船でいじめられていた少年ともども無人島にとんぼ返りをしてしまうのです。
いっぽうフライデーはというと、主人のロビンソンを裏切って帰国する船に戻ってしまう。英国に戻ってもフランス革命目前の母国では無人島で自由に生きるエスペランザ(希望)などあり得ないと考えたロビンソンは、無人島に戻って少年の名をフアイデーならぬサーズディ(木曜日)と名付けたところで物語は終わります。
「ロビンソンはほとんど苦しいばかりの歓喜に満ちて太陽の恍惚と向かい合っていた。彼を押し包む光が前日と前夜の致命的な汚れを彼から洗い落としていた。焔の剣が彼の身内に入って、彼の全存在をつらぬいていた。」
ミシェル・トゥルニエの筆は、冒頭の難破からエスペランザ島への漂着、無人島の自然描写や野蛮人の侵入、開拓者ロビンソンの生活や人生観の移り変わりなどどこをとっても細部が比類なく充実しており、きわめて繊細で知的なもので、まるで突然私たちがロビンソンと同じようにエスペランザの大自然の真っただ中に投げ出されたような、おそろしく孤独で、それでいて自由な気持ちをありありと体感させてくれます。
♪ミスター・ロビンソンあなたもフライデーなしには生きられなかった 茫洋
Monday, May 11, 2009
荒川章二著「豊かさへの渇望」を読んで
照る日曇る日第254回
小学館版「日本の歴史」の最終巻である本書では、1955年から現在までのおよそ半世紀のわが国とわが民衆の歩みをいっきに振り返っている。
私の頭の中では縄文時代とか鎌倉室町時代や江戸時代であれば、かなり鮮明にその時代と民衆像がフォーカスされているのだが、近現代史、しかも直近の55年体制以降の変遷については、照準がまったく定まらない。このゆうに半世紀をこえる膨大な歳月が変転常ならぬ一大カオスとしてしか認識されないのは、私がまだ歴史の本質を真剣に追及しようとしていないからだろう。困ったものである。
この本の中で著者は、敗戦の衝撃から立ち直った日本人たちが、次第に物質的な富の追及にめざめ、これを無我夢中で追及してきた疾風怒涛の欲望の爆発に焦点を合わせる。衣食住有休知美の世界を総覧し、その最上の果実を我が物にすること。それが、かの鬼畜米英を打倒して枢軸国と共に全世界の領土と植民地を獲得・再分割せんとする帝国主義的な野望にとってかわって、私たち新生民主の日本人が選び直した“ほんのささやかな欲望”だった。
そして私たちは、思いがけない短期間でこの素晴らしい目標を達成したのだが、その豊かさ満載のパンドラの黄金の箱の中には、「心の虚しさ」という獅子身中の虫が潜んでいた。私たち1億の民のほぼ全員が小さなミダス王となり、その勤勉な手に触れるものはことごとく黄金に変貌したのだが、宮沢賢治がいう「ほんたうの幸福」というものにはついぞ巡り合わなかったのである。
政治経済社会のすべてが混迷の極に達したかに思われる現在までの全プロセスを、著者は家族と労働、性や民族差別、都市と郊外、本土と沖縄の矛盾などに着目しながら、じっくりと振り返っている。
私たちはまさしくこのような道を歩んできた。そして著者がいうように、「新しい選択の可能性・萌芽は、半世紀の時代経験そのもののなかにすでに提起されている」(12p)はずだ。だから私たちは、その歴史をしっかり学び直すことを通じて、これからの血路を切り開くしかないのだろう。
♪黄金の大判小判の隙間からまたしてもこぼれおちるほんたうの幸福 茫洋
Sunday, May 10, 2009
09年鎌倉市議会議員選挙始末記
先月26日に行われた鎌倉市議選の結果、新しい顔ぶれが決まりました。定数28名のところ立候補したのは36名でしたが当選者は28名。その内訳は現職18、新顔10名。党派別は自民1名、民主4名、公明3名、共産4名、神奈川ネットワーク運動4名、無所属12名ということで、やはり最大派閥は無所蔵でした。
最下位で当選した人の得票が1661票、当選率は77.77%というかなり高い数字になり、当選すれば四年間はかなり高額の俸給が出ますから、「それじゃあ俺もちょっくら出てみようかな」という一旗組が今回はかなり多かったのではないでしょうか。
次点で落選されたベテランのS氏は、かねてから私たち障ぐあい者を支援してきた方でしたので残念でしたが、もう一人軽井沢町議時代に西武堤資本によるゴルフ場建設を阻止した土方歳三の子孫と称する人物が落選したのも、ちょっと残念でした。民主党は五人目の有力な候補者を送り出したのですが、たった554票で涙をのみました。やはり小澤問題が黒い影を引いたのでしょう。
残念ついでに、私の町内でも無所属の新人が立候補しましたがわずか189票しか獲得できず惨敗でした。町内会長さんが「もっと早く挨拶に来ねえんだもん。ここだけで200所帯あるんだ」と豪語していましたが、そういう意識と発言自体がこの町の旧態依然たる政治意識を雄弁に物語っています。
前回トップ当選のご自身が障ぐあい者の方は今回は14位に後退。4750票を獲得してトップで当選した民社現職の50歳の女性は、当選の翌日白のりりしいパンツスーツ姿で鎌倉駅前に立って当選御礼の挨拶をしていましたが、そういうことをしていたのは彼女だけでした。
いずれにせよ現在人口173502名、72173世帯を数える鎌倉市民のために、私利私欲をかなぐり捨てて最大最高の貢献を果たしてほしいものです。
♪てめえ死ねと豪速球で投げつけるチョーク当たりしはわが前歯なりき 茫洋
Saturday, May 09, 2009
ビリー・ワイルダーの「昼下がりの情事」を見る
日本の男のオードリーは大嫌いですが、ベルギーで生まれた英国人女性のオードリーは大好きで、時々その映画を楽しんでいます。
ヘプバーンの代表作はなんといってもウイリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」ですが、名匠ビリー・ワイルダーによる「昼下がりの情事」も感動的なクライマックスを楽しむことができます。
いま青春の最初の花を咲かせようとしているヒロインは、パリ・コンセルバトワールでチエロを学ぶ音楽少女です。いつもチエロを持っているオードリーは、さしずめディアナ・タービンのパリ版というところか。その前に突如現れ出でたるはいままさに中年の盛りを過ぎたロマンスグレーの女たらしゲーリー・クーパー。パリはオテルリッツの4号室で貸し切りのカルテットが奏でる甘い「魅惑のワルツ」の音楽に合わせて謎のヴェールの女と踊る水も滴る色男です。
ところがこの海千山千のプレーボーイ、ほんの一夜の慰みに軽く遊んで捨て去るはずが、うぶな少女の下手な芝居にひっかかって本気で恋してしまう。もとより女は初めての恋に無我夢中。危険な火遊びの末路を案じた父親(探偵です)の警告に従って、男は断然リヨン駅で別れようとするのです。
少女はつぶらな瞳に大粒の涙を流しながら愛する男を追いかける。煙を吐いて加速する列車。あなたがいなくなっても男なんて11人もいるのよと強がりを言いながら懸命に追う女。タラップの上で激しく迷ういながらその姿をじっと見つめる長身の男。
そして絶望と悲しみに引き裂かれながらも一途に男を追わずにはいられない純情可憐な小鹿のバンビのクローズアップ! こんな姿を見せられて鬼神も泣かずにおらりょうか。
あわやプラットホームが尽きようとする刹那、その時遅く、その時早く、男は女を救いあげて汽車の中に引っ張り上げる。ここで引っ張り上げなきゃ、男ではありません。また引っ張り上げなきゃ、映画ではない。
そこで男ははじめて「アリアーヌ!」と女の名前を呼びながら接吻をするのですが、キャメラは彼女の大きな右の眼が、絶望から驚き、次いで信じられない歓喜へと変わりゆくありさまをじっと映し出すのです。
するとこれはまたどうしたことでしょう。いつの間に現れたのか、あのお馴染みの四重奏団が「魅惑のワルツ」を奏で、これまたなぜか登場した父親が、幸福な娘の姿を見届けて笑っている。
とうとう結婚することになるカップルを乗せて、汽車は出てゆく、煙は残る。めでたし、めでたし。あまりといえばあんまりなご都合主義なのですが、これがワイルダーの映画さばきなのです。
さらに私たちはこの映画で1961年に60歳で亡くなったこの名優の早すぎた晩年の、ちょっとやつがれた艶な風情をたっぷり味わうことがきます。上り坂の人と下り坂の人、若ものと老人、これから花の盛りを迎える女とまもなく悲惨な老年を迎える男。この2人を待っているのは、いかなる運命でしょうか。そんなことは百も承知のワイルダーは、この大きな年の差を乗り超えた奇跡の愛が成就したパリの昼下がりを見事に創造したのです。
最後にこの映画の唯一の欠点を強いてあげるなら、楽劇「トリスタンのイゾルデ」の上演中に案内嬢に先導されてクーパーと美女が入場してきて劇場の最前列の座席につくシーンでしょう。これは映画ならともかく、実際には絶対に許されないことです。
♪こんにちはと誰もが挨拶交わし合う朝比奈峠を行き来する人 茫洋
Friday, May 08, 2009
ヴィスコンティの「白夜」を見る
ドストエフスキー原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督による「白夜」を鑑賞しました。
これは57年に製作され、日本では翌年に公開されたモノクロ映画ですが、はじめて見たとときには運河を滑るように流れる船に乗った恋人たち(マリア・シェルとマルチエロ・マストロヤンニ)を照らす光と影の美しさに、ここはヴェネツイアかセーヌかノヴァ河かとキャメラと照明の素晴らしさにいたく感嘆したものです。
それは確か小舟が画面の左から右に動いていくシーンであったこともありありと覚えているのですが、この「白夜」を何回見てもそのカットは出てこないのです。
それどころか何回か見ているうちに、この映画は運河のロケではなくセットで撮影されており、堀割を流れる水もびくとも動かないことが理解されるにつれて次第に興が冷め、あの幻の光景はどうやら別の映画だったらしいと確信するに至りました。(どなたかそんな私の夢の映画を、それはこれだとご教示いただけたらとてもうれしいのですが)
それはともかく、この不滅の恋の物語、奇跡のような愛の物語を、ヴィスコンティはものの見事に描いています。マリア・シェルとマルチエロ・マストロヤンニのご両人は、ヴィスコンティに演出されたマリア・カラスのように好演していますが、それよりも特に印象に残るのは、マストロヤンニの恋敵に扮したジャンマレーの素晴らしさ。これは恐らくマレーの最後の映画作品だと思われますが、あの立派な顔とがっしりした体躯がスクリーンに姿を現しただけで耳目を強烈に惹きつけます。
コクトーと組んだマレーはどうも仏蘭西製の栗の花の匂いがしていただけないのですが、同じホモでもヴィスコンティと協働した時のマレーの奥深さはただものではない。人間を少し超えたギリシア神話の神さまのような神々しい存在感を漂わせながら、映画の最初と最後を彩るのです。
音楽はニノ・ロータ。大家にはまだ日が浅く、不器用に旋律を探っている初々しさが買えます。
♪朝比奈の峠の上のウグイスが貯金貯金と鳴いていました 茫洋
Thursday, May 07, 2009
サラ金CMに出演するタレントたち
サラ金の広告というのは、さまざまな規制もあるので、これまでその表現も露出も、多少とも遠慮がちのところがあったような気がします。やはり仕事が仕事ですし、かつて暴力団まがいの強引な取り立てを行ってお役所から営業停止をくらった会社もありましたね。
こういう会社の社長も社員の方も、天下の正業とはいえなんとなく世間に後ろめたい気持ちを少しは心の中に懐いておられるのではないかと推察している次第です。
また、おそらくこういう気持ちは、広告主や広告代理店から指名されればそれがどんな企業、どんなブランドであろうといそいそと馳せ参じる芸能人やタレントさんの心のなかだってあったに違いないのですが、多少イメージダウンになっても結局出てしまうのはやはりギャラ欲しさということでよかったでしょうか、井上和香さん。
元阪神タイガースの江本さんや女優の内田有紀さんも、やはりお金目当てではないのだろうかと下種の勘ぐりをしてしまうのは私だけでしょうか。しかしながら最近あのタモリさんまでが堂々と出演されておるのはいかなる風の吹きまわしにとるものでしょうか。お金などはうなるほどお持ちでしょうに。みしかするとあれはタモリの偽物かも。
それにしても内田有紀さんの衣装はなにやらとってつけたような風俗嬢風でして、その時代錯誤性が際だっているのは、このCMに賭けたスタイリストの時代批評精神のあらわれだったのでしょうか。
♪朝比奈の峠の上の浦島草に小便掛けし憲法記念日 茫洋
Wednesday, May 06, 2009
ベルリオーズのオペラ「トロイ人」を視聴する
休日の雨の日、ベルリオーズの4時間になんなんとするオペラの超大作「トロイ人」をビデオで鑑賞しました。
この長大なオペラの原作はローマの詩人ヴェルギリウスの「アエネイス」です。これはギリシア神話に出てくるトロイ戦争をめぐるトロイ人たちの悲劇を描いた物語で、トロイの騎士アエネイスがギリシア軍のトロイの木馬による陰謀で敗れた故国を後にしてカルタゴに漂着し、この国の女王ディドーと恋に落ちるのですが、やがて神々の命に従ってイタリアに向かい、ここでローマを建国することになる。いっぽう恋人と引き裂かれたディドーはアエネイスを呪い、後継者ハンニバルによる復讐を予言しながら自刃して果てるというお話です。
私が見たのは03年10月パリのシャトレ座におけるライヴ公演の録画で、指揮はエリオット・ガーディナー、演奏はオルケストル・レヴォルショネール・エ・ロマンティークです。指揮と演奏はまずまずというところ。肝心要の歌手ですが、全5幕の前半をもっともはなやかに歌いきったのはトロイの王女カサンドラ役のアンナ・カテリーナ・アントナッチさんで、この人は歌が上手なだけではなくて美人でした。
ちなみにカサンドラはトロイ王プリアモスと女王ヘカベの間に生まれ、長兄があの英雄ヘクトル(志賀直哉の愛犬の名前がこれ。さすが直哉さんと思ったものです)、次兄が軽薄極まりなきトロイ戦争の元凶パリスです。カサンドラは有名な預言者なのにゼウスの愛を拒んだために誰からも耳を傾けられず、トロイ陥落の際にアテナ神殿でアイアスに凌辱され、アガメムノンに拉致されてミュケナイに連れて行かれた挙句に、アガメムノンともどもクリュタイムネストラに惨殺されてしまいます。
彼女にはこれらの悲劇的な末路がぜんぶ分かっていたことを思うと、その短い生涯が哀れでなりませんが、そんな彼女のためにベルリオーズは美しいアリアを書いてやりました。
後半のヒロインはカルタゴの女王ディドー役のスーザン・グレイアムさんです。彼女も歌はそれなりに上手ですが、美貌度も含めてアンナ・カテリーナさんには一籌を輸するといわざるを得ないのが悲しいところです。全体を出ずっぱりのアエネイス役のグレゴリー・クンデさんもヤンス・ニコスさんの演出ともども可もなく不可もなしといったところでした。
このオペラの演奏はレバインさんやデユトワさんのもあるようですが未聴。おそらくそれらの方が楽しめるでしょう。でもいちばん聴きたかったのは、今は亡きシャルル・ミュンシュさんでした。なんといってもこの天才的指揮者のベルリオーズは最高です。
最後にベルリオーズさんに一言。あんたはオペラが下手くそだ。それに五幕四時間半はいくらなんでも長すぎる。特に四幕のくだらない舞踊はカットしたほうが良かった。その代わりにもっと交響曲を書くべきでしたね。
戦争を構える理由は多々あれど止める理由はただ一つしかなし 茫洋
Tuesday, May 05, 2009
Monday, May 04, 2009
ゴールデンウイークに「私たちの隣人、レイモンド・カーヴァー」を読むということ
「黄金週間」とはよく言ったものだ。
僕たちはゆっくりと朝寝して、ブランチを食べたあとで近所の公園や遊園地まで散歩に出かけたりする。ベンチに座って深呼吸すればまぶしいほどの新緑に包まれた樹木が太陽に向かってすべての腕を伸ばしていることに気がつく。
青い空に浮かんだうすい絹のような雲が西から東に向かってゆっくり流れていくのが見える。僕たちはその瞬間毎日心身をはげしく苛んでいる仕事のことも、複雑怪奇な人間関係のこともすっかり忘れて、子供の時には喜びの声を上げて流れていた純粋な時間と透明な空間をちらりと覗いたような錯覚に陥る。
突然偽りの帰属意識から解放され、日常生活の足元にぽっかり空いた穴に吸い込まれそうな自分を感じたときの軽い眩暈と慄き。
ああ、労働と義務から解除されたあの夢のような世界にもう一度戻ることができたなら!
それが到底不可能と知りつつも、「本来そうであるべきであったところの自分」をもしかすると復元できるかもしれないという美しい幻想にとらえられる、おそらく年にただ一度の黄金の時の時なのである。
朝比奈峠からの散歩を終えた僕は、FMから流れるラ・フォル・ジュルネのバッハの演奏を聴きながら、村上春樹が編んだ「私たちの隣人、レイモンド・カーヴァー」という短編を読み終えたところだ。
カーヴァーは底なしの酒飲みで、その致命的な欠陥によって人生を台無しにするところだったが、彼のどうしても詩を、小説を書かずにはいられないという執念、そしてたった一人の女性への愛がその破滅的な人生をぎりぎりのところで救った。
たった50年という短すぎた生涯ではあったけれど、それでも晩年のつかのまの幸福とあれほど見事な作品をもたらしたのは、カーヴァーという不器用な男の文学と女性への献身があればこそだった。
文学と愛の夢に殉じた“私たちの隣人レイモンド・カーヴァー”は、「労働と義務から解除されたあの夢のような世界」にいつまでもいて、僕たちの訪れを待っているのだろう。
妻と子の鼾楽しも春の夜 茫洋
Sunday, May 03, 2009
Saturday, May 02, 2009
島田雅彦著「小説作法ABC」を読んで
法政大学における著者の講義を録音・加筆・編集して誕生したのが本書だそうです。じつは私は、最初こいつは世間によくある中身の薄い即席マニュアル本か、とたかをくくって読みはじめたのですが、最後の「私が小説を書く理由」のところに差し掛かると、珍しくもきちんと正座して「島田よくも書いたり!」と感嘆しながら拝読させていただいた次第です。
読み終えての感想は、これは最近新聞連載が終わった彼の大作「徒然王子」に勝るとも劣らぬ本気の作品ではなかろうか、ということでした。この本は、これまで作家が営々と蓄積してきた豊かな経験と該博な知識と教養、そして知情意のすべてを投入した見事な現代文学論であり、著者は、「風変わりな人生論」という側面をあわせ持つ本格的な小説制作の技術書兼プロ作家養成用の教科書を堂々と完成させたのです。
「小説家は死ぬまでおのが脳と肉体を実験台にして、愚行を重ね、本能や感情や論理の分析を行うアスリートである」と語る著者は、本書を全国の大学、高校、カルチャーセンターなどでテキストにしてほしいと「あとがき」で書いていますが、谷崎潤一郎の「春琴抄」の恐怖の失明シーンをはじめ、随所に続々登場する古今東西の文芸作品の引用文を味読するだけでも十分に私たちの文学趣味を満足させてくれる内容をもっています。
著者はまず第一講でいきなり文学を、神話、叙事詩、ロマンス、小説、百科全書的作品、風刺、告白の七種類に分類し、それらの代表選手としてそれぞれ「スターウオーズ」、「家なき子」、「ドラクエ」、「ドン・キホーテ」、「白鯨」、「ガリヴァ旅行記」「私小説」を挙げて私たちに軽いジャブを浴びせます。
それからおもむろに第二講で「小説の構成法」を論じ、以下「小説でなにを書くのか」「語り手の設定」「対話の技法」「小説におけるトポロジー」「描写/速度/比喩」「小説内を流れる時間」「日本語で書くということ」「創作意欲が由来するところ」までの全一〇講をよどみなく語り来たり、語り去るのです。
私はこれまで文学や小説作法を学校で教えることなど到底不可能だと決めてかかっていたのですが、もしかすると本書を読んで作家になる人が出てくるかもしれない、と思うようになりました。
そして最後の最後に著者が、
「作家は(村上春樹のように)幸福の追及に向かうか、(笙野頼子のように)夢の荒唐無稽と向き合うか、それが問題です。前者は妥協の反復を、後者は戦いの反復を強いられます」と述べ、
「しかし優れた作家たちは果敢に夢の荒唐無稽に向き合い、自分を縛る象徴システムを壊すような作品を書き続けるでしょう。その覚悟ができたら、果敢に自分の無意識の底まで下りていきましょう。そして、おのが欲望、本能を解放するのです」
と、自分自身を激しくアジテーションするとき、私は久しぶりに文学者の真骨頂に接したという熱い充足感を覚え、叶うことなら著者と共に私たちの文学の未来を信じたいと思ったことでした。
余談ながら、かつて私はたった一回だけですが、著者に仕事でインタビューしたことがあります。そのとき彼は、私が最初の質問を発する前にビールを注文し、そいつをいかにもうまそうに喉を鳴らしてごくりと一口飲んでから、「すみません、いつもインタビューを受けるときは必ずビールを飲むことにしているんです」と言いましたので、私はボードレールの「巴里の憂欝」の中に出てくるあの有名な詩を思い出しました。
『君はつねに酔っていなければならぬ。それが君のゆいいつの大事な問題だ。酔い給え。酒に、詩に、美徳に、その他何にでも。時の重さにくたばらないために……。』(拙訳)
島田雅彦は、その人生の重大事をよく心得えつつ、最長不倒距離を目指して疾駆しているあの指揮者ロリン・マゼールを想起させる超クレバーな作家と言えるでしょう。そのクレバーさが彼の芸術のゆいいつの欠点であるとはいえ。
善きことも悪しきこともみなつながれり豚から人へ人から人へ 茫洋
Friday, May 01, 2009
朝日と日経と鎌倉朝日
郷里の親がずっと朝日と日経を取っていたので、その惰性というわけでもないが、読売や産経や前進や赤旗や聖教よりはましだと思っていまも2紙を購読している。
昔の朝日は漱石以来の伝統で文芸欄、それに科学欄がことのほか充実していて面白かったが、最近は水曜日の夕刊の美術特集を除いて日経に一籌を輸するようになってしまった。日経の美術は質量とも朝日を圧倒していて読み応えがあるし、作家たち(よりもデザイナーや装丁家の方がなぜか文も内容もすぐれていること多し)が日替わりで書いている夕刊の随筆も時々切り抜いてもいいと思うような珠玉の名文が載せられているし、連載小説も渡辺淳一の腐敗堕落したアホ白痴ものを除けばいちおう水準以上のレベルに達しているのではないだろうか。
ところが朝日は、声欄の戦争体験の投書と乙川優三郎の「麗しき花実」、吉田秀和の音楽随想、それに敵陣営の雑誌広告を平気で載せる広告部の広い度量?をのぞくと、読むべきもの、評価すべきものがほとんどない。あまつさえ夕刊の株式市況も廃してしまった。
若い読者に色目をつかって藤野千夜の「親子三代犬一匹」などという箸にも棒にもかからないジュニア小説を延々と掲載しているが、あんなもの我が家の愛犬ムクでさえ生きていても読まないだろう。編集部によほど人材が払底しているに違いない。
それではどうしてそんなどうしようもない朝日を取っているのかというと、月に一回だけ付録で配達される「鎌倉朝日」があまりにも素晴らしいからである。毎月一日に姉妹紙に挟まれて配達されるこの超ローカル紙は、すでに通算362号を数えているが、毎回地域情報を要領よく紹介しながらも、清田昌弘氏の「かまくら今昔抄」、岡田泰明氏の「鳥とりどり」、赤羽根龍夫氏の「文学つれづれ」など、どうしても読み捨てにできない貴重な連載を満天下に誇っているのであるんであるんである。
赤羽根龍夫氏は芥川龍之介論に続いて現在「源氏物語」についてのエッセイを連載中であるが、紫式部と光源氏を論じてこれほど刺激的な論考も近年稀であろう。今号ではちょうど「宇治十帖」を扱っている。氏はこの巻の作者は折口信夫が唱えた隠者説に同意しつつも、その隠者は男ではなく見捨てられなんの寄る辺もなくなった老女、すなわち紫式部であると断じている。
紫式部は「宇治=憂し」を舞台として、「光」(源氏)なき後の闇の世界を匍匐前進する「薫」と「匂」の前人未踏の格闘を、それこそ手探りで書き続けた。「宇治十帖」のヒーローである薫と匂は、それぞれ光源氏の息子と孫であるが、それぞれが光源氏の分裂した2つの姿であり、薫は源氏の「まめ」を、匂は源氏の「すき」という側面を分かち持ちながらヒロインの総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟に向かっていく。そしてそのときに平安という一時代を突きぬけ現代にも通じる男と女の無明の世界が描かれていくというのであろう。続編が配達される来月の1日がいまから待ち遠しい。
そういう次第であるからして、世間には背に負うた子供に親は教えられという故事成句もあるように、落日の本紙は親孝行の才子によってかろうじて昔日の面目を保っているのである。
人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと豚どもいきむ 茫洋
人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと鼻息荒し
Thursday, April 30, 2009
「平安のハムレット」と「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは?
照る日曇る日第252回
アーサー・ウェイリーがもっとも高く評価し偏愛した源氏物語が、本巻に収められた「夢の浮橋」を含むいわゆる宇治十帖でした。
ここで活躍するヒーローは、源氏の息子、薫(しかしてその実体は、源氏の目を盗んで女三の宮と通じた柏木の息子)と匂(天皇と皇后の三男)、そしてヒロインは、八の宮の遺児である美人の三姉妹、総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟です。
とかく男はこの世では惚れた女には惚れられず、それほど好きでもない女性からは逆に愛を打ち明けられておおいに戸惑ったりいたします。薫と総角の場合は前者の典型で、男は熱愛しているものの、女の方では「いい人」カテゴリーに入れており、それでも再三再四のチャンスに強引に女をモノにすればいいのですが、草食系男子の薫にはそういう典型的な肉食系男子であるライバルの匂のような乱暴なことができません。爬虫類脳の指令が男根に直結している匂と違って、薫の内部では、大脳前頭葉からの突撃命令を下半身が拒否することが往々にしてあるのです。
その原因は彼の生誕の背後にひそむほの暗いコンプレックスであり、生存の深奥部に突き刺さったトラウマに基づくものでしょうが、このことが彼の生来身に備わったペシミズムとニヒリズムと遁世願望に根強く繋がっているのです。
生きたい。欲しい。しかし欲望できない。征服できない。このもどかしいジレンマを、この無防備なニッチを、ペニスむき出しの現世的人間、匂が激しく衝き、まず小芹が、ついで浮舟がその血祭りにあげられます。美しい想い人をキツネに奪われたカラスは無念をかみしめ己の浅はかさを厳しく責めながらますます自己滅却の衝動に駆られていくのです。
紫式部の時代からおよそ一〇〇〇年後の今も、宇治川の流れは思いがけず激しいのですが、宿命の恋のライバルに引き裂かれてこの激流に身を投じたはずの浮舟が、冥界のヴェールの底から蘇る日、薫と匂は果たしてどういう行動に出るのでしょうか? 「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは何なのでしょうか? 生きながら死せる存在であるわれらが「平安のハムレット」に、はたして起死回生の劇的な瞬間は訪れるのでしょうか?
あらんかぎりの幻想と夢と希望を世界に振り撒きながら、この人類史上最高最大の物語は、大団円に向かってひそやかに助走を開始したところで、まるでそれが作家の当初の計画であったかのように、不意に幕を閉じるのです。
春暗し男共皆縞縞背広 茫洋
なにゆえに男どもみな着ておるのか電車にうごめく縞縞スーツ
男共皆縞縞背広通勤電車捕虜収容所の如し
Wednesday, April 29, 2009
西暦2009年卯月茫洋歌日記
鎌倉の花の都に遊びけり
我こそは森の王なるぞおろち桜
蝶と見えまた花と見え散る桜
テポドンを嚥下しけり春の海
鰤頭とろとろ煮られ花曇り
われもまた酔って全裸で叫んでみたし
桜咲く生きてしあればそれでよし
桜散る仕出かししことの後始末
懐かしきボヘミアの歌うたうフランツカフカ
*
8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る
見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙
酔っ払って裸になって叫ぶ人それを警察に突き出す人
君たちも一緒に裸で叫びなさいガタガタ騒ぐなアホ馬鹿マスコミ
おおアオバセセリよ お前にこんなところで出くわすとはまるで夢のようだ
口丹波由良川の水澄みわたり蚕の里をゆるゆる巡る
ついぞ知らずあわれ北条の陰謀に滅亡するとは
鳥歌い花は弾けて水緩み箱根全山笑いさざめく
懐かしき巡り合いかな地に伏して万事を捨ててなお眠る人
猫どもは恐れも知らず日溜まりに遊び戯れ眠り呆けたり
名も知らぬあまたの花が咲き乱れシュレーゲル蛙鳴く湿生花園
いちりんそう咲きにりんそう咲く花の園さんりんそう求めて池を巡りき
外輪山の雲間を裂きて薄日差しミズバショウの池蛙声さわがし
ひさかたの光のどけき花の園カタクリ散れどマメザクラ咲きたり
腰を折りマイクを振りて歌うなり息子のおはこ千の風に乗って
青池様のおかげをもちて訪れし箱根の森に広がる笑顔
新宿直久のラーメン&餃子セット750円喰らいおれば黄昏る黄昏る俺っちの人生が
三十六の燃ゆる瞳に見つめられ二十の春にたちかえりけり
老ゆるともカラスはカラス鶴の声宇宙の彼方にさえざえと響く
あら懐かしや狭心症の胸騒ぎ4月8日4時30分
御馴染みの狭心症の胸騒ぎ4月8日の4時半に起こる
白人の男を屠ふり金髪の女を犯さんむとして発作に襲わる
父上と母上より賜りしわが心の臓激しく震う
わが狭き心の谷間の奥底でかの臓物はぶるぶる震え
かつてわが勤めし会社よ強欲の投資ファンドの玩具餌食となりたり
段葛降り積む桜の花びらをエアメールで送りしこともありき
「そりゃあ酷ですよ」緒方拳のドラマのセリフを唱える息子
鎌倉の台の峯を訪ぬれば緑の蛙慌てて逃げおり
フィリピン210円エクアドル350円台湾420円さあどれを買おうか3つのバナナ
春の日の桜が丘の小田急に両脚切られて泣き笑う男
黄セキレイ鳴く上空に飛来しミサイル捜索準備している大型哨戒ヘリコプター
軽やかな「乙女の祈り」に変りたり4月1日鎌倉市清掃車
君の言葉君の振舞い奇妙なれど天からの贈り物とて素直に受けむ
自閉症のわが子に優しき二人の女性いずれも拒食症を病みてけるかな
曲学阿世を断固粉砕怒れる老哲学者の叫びを聴け
着古したセーターが人間より長持ちする考えてみれば不思議だなあ
ヴェテランの運行指導にそっぽ向く新米女性バス運転手かな
*
親戚詩集 K兄
新宿駅西口のいちばん代々木に近いトイレから、下のボタンをはめながら出てくるK兄さんと出くわした。
「おお」、と「おお」、「久しぶり」と「お久しぶり」とが期せずしてぶつかった。
折しもラッシュアワーで大混雑する駅構内、
「いまちょうど紀伊国屋でね、君の本を買いに行ってきたんだ」
「あんなくだらない本をわざわざ奥沢から買いにいらしたとは。共著のうえに短い文がちょこっとだけ出ている本だから、お送りしなかったんです。まことに申し訳ありませんでした」
と急いで詫びて、それ以上立ち話もできず、「じゃあ元気で」、「お元気で」と頭を下げたのが永の別れとなってしまった。
春ともなれば奥沢の川面を埋め尽くした桜花―
K兄さん、あなたは初めて上京した私に自由が丘一丘眺めのいい部屋を紹介してくださった。
K兄さん、誇り高き帝国の軍人よ。
一度ならず二度までも米国の駆逐艦に撃沈され、太平洋の波濤に投げ出され、そのつど奇跡的に友軍に救助された歴戦の勇士よ。
胸を張り、背筋を伸ばし、頬を紅潮させ、
「いくさに身を捧げしわが生涯に悔いなし」
と声を張り上げられた、在りし日のあなたの姿を私は忘れない。
み空よりあまたの豚ども天下り地球最後の日は近づけり 茫洋
Tuesday, April 28, 2009
「1年丸ごと夏目漱石」カレンダー
今日で4月が終わる。4月が終わるととうぜん5月が来る。すると4月のカレンダーとは永久にお別れとなる。それが私にはすこうし寂しいのである。
2000年の1月にサラリーマンを辞めたので私の家ではカレンダーを手に入れるのに苦労することになった。会社員をやっていると取引先からかなりの数のカレンダーを頂ける。また当時勤めていた会社でも自社製のものを作っていたから、そんな苦労は知らずにすんだ。いわば選り取り見取りで好ましいデザインのものを自宅に持ち帰って数か所にかけていた。
ところがそういう既得権?を失ってしまうと、残るのは出入りのプロパンガス屋さんとか息子が通っている授産施設の特製?カレンダー(これは何枚も購買している)くらいしか当てがなくなり、トイレなどは失礼ながら鶴岡八幡宮の年間カレンダーで我慢することに相なってしまい、そうかこれまではずいぶんバブリーな暮らしをエンジョイしておったのだなあ、とある種の感慨を懐きつついたずらに長かった俸給生活を振り返ったことだった。
そうこうするうちにわが「茫洋亭」(陋屋のことです)のあちこちが風雨と経年変化で痛みはじめ、やむなく近所のリフォーム会社に改修工事をしてもらったのだが、そこの店長さんから去年の暮に「偉人の筆跡カレンダー」という大型の豪華版を頂戴したのである。
2008年版のそれは「美を創り、拓いた偉人」というテーマのもとに、1月千利休、2月マリー・アントワネット、3月ウイリアム・ブレーク、4月オディロン・ルドン、5月堀辰雄、8月伊藤若冲、9月ジョルジュ・サンド、11月国吉康雄、12月佐伯祐三等々の著名人が実際に書いた数字だけで当月のカレンダーが構成されているという代物で、わたくしの趣味にいたく叶ったのであった。
そしてその翌年、つまり本年用に頂戴したのが、なんと「1年丸ごと夏目漱石」カレンダーであった。1年12枚の紙片はすべて別々の和洋の数字でデザインされており、上部の中央には漱石山房の原稿用紙やロンドン留学中に正岡子規に送った絵葉書などがさりげなく添えてある。いわば1年365日漱石と共に過ごそうという趣向がことのほか気に入って、曜日を確認するという本来の目的を離れて暇さえあればこのカランドリエに眺め入っているいつという次第。
聞くところによるとなんでもこの「偉人の筆跡カレンダー」シリーズは1988年の「世界の建築家・芸術家」編からはじまって翌年の「世界の音楽家」編、翌々年の「日本の文学者」編など通算22年の長い歴史を閲しており、毎年の全国カレンダー展で何度も栄えある金賞を獲得しているという。これまでいくつかの素敵なカレンダーに巡りあったが、個人的にはこのMホーム社のものがいちばん気に入っている。
♪フィリピン210円エクアドル350円台湾420円さあどれを買おうか3つのバナナ
茫洋
Monday, April 27, 2009
西御門の「旧里見弴邸」を訪ねて
鎌倉の西御門は幕府の西側の門があった場所ですが、かつてこの近辺には作家の江藤淳や外交官の加瀬俊一、そして白樺派の作家である里見弴などが住んでいました。加瀬邸は氏が最近亡くなられて間もないというのに跡形もなく取り壊されて別の安直な住宅になってしまいましたが、旧里見邸はいまなお「石川邸・西御門サローネ」として健在です。
里見弴は長兄が作家の有島武郎、次兄が画家の有島生馬で、この3人を3馬鹿トリオではなく団子三兄弟でもなく、なんと「有島芸術三兄弟」と呼びならわしております。
弴の恩師は作家の泉鏡花ですが、彼は恩師の文学世界とはあまり関係がなさそうな「善心悪心」、「多情佛心」、「極楽とんぼ」などの作品を書き、その業績はもてない男、小谷野敦氏の伝記などによって近年急速に再評価されています。
永井龍男が随筆「里見さんの家」で書いているとおり、この建物は大正15年に作家がみずから設計しました。里見はまったく素人のくせに建築趣味があって当時完成したばかりのライトの帝国ホテルなどを熱心に研究したそうですが、この洋館のロビーや暖炉のある応接間やアールデコ風の装飾などになんとなくその影響が感じられます。
洋館の隣には彼が知り合いの大工に命じて造らせた仕事場兼茶室として使った茅葺の和室もありますが、これなら素人でもできそうです。しかし和と洋の良さを生かしきったこの快適な生活空間を建築のけの字も知らないアマチュアが設計してしまったとは驚きです。
里見弴は鎌倉のあちこちを激しく転居しています。最近取り壊されてじつにつまらない普通の家になってしまったかつての扇が谷の自邸とそのエントランスをなしていた見事な日本庭園も、いつまでもそこに居たいと感じさせる日本画のような情趣にあふれていました。
また彼は最近まで鎌倉にあり、現在では遠く長野県に移築された次兄有島生馬の住居、それから裏駅のいまスターバックスがある場所にあった漫画家横山隆一のアトリエと住居も設計したそうですが、その話を聞いた私は、横山隆一の「おとぎプロ」の入り口にあった大きな褐色のモニュメントを思い出しました。もしかするとあれも弴の作品だったのでしょうか。
♪8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る 茫洋
♪見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙
ロッシーニのオペラ・ブッファ「新聞」を視聴する
スタンダールによって「ナポレオンは死んだがロッシーニが誕生した」と称された音楽家のオペラ「新聞(ガゼッタ)」をビデオで堪能しました。
05年7月10日にスペインのリセウ歌劇場でその管弦楽団・合唱団をマウリチオ・パルバチーニが指揮した公演のライブでしたがなかなか楽しめました。
お話の筋はここに書いてもしようがないほどいい加減なもので、ともかくイタリアのお金持ちの男が自分の娘の夫にふさわしい人物を新聞広告で募ったところ、クエーカー教徒やイスラム教徒やトルコ人、アフリカ人など世界各地から希望者がおしかけ、すでに恋人がいた娘とでたらめな父親との間にさまざまな騒動が盛り上がるのですが、最後には例によって例のごとくお決まりのハッピーエンドに滑り込むという他愛がなくとも十分に楽しめるオペラ・ブッファの傑作です。
歌手ではヒロインの娘リゼッタ役を歌って演じているスタイル抜群で超セクシーなティレツィア・フォルラがダントツにチャーミングで、恋人のフィリッポ役のピエトロ・スパーリョともども、さながら雌雄2羽の鳥が次第次第に壮絶に鳴き交わし合うようなロッシーニお得意のクレッシェンドでは、白熱の歌合戦を繰り広げて満場の拍手喝采を呼んでいます。
指揮者もベテランの味をたっぷり出していますが、しかしそれ以上に賞賛すべきは、この公演の美術・衣装をも担当した(ノーベル文学賞受賞者でもあるという!)ダリオ・クオーの素晴らしい演出。美しく幻想的な色彩の氾濫はそれ自身が雄弁な音楽であるといっても過言ではないと思います。
♪蝶と見えまた花と見え散る桜 茫洋
Saturday, April 25, 2009
ポネル、ベーム、ウイーンフィルの「フィガロの結婚」を視聴する
これまでモーツアルトのオペラの演出はポネル、指揮はベームと長きにわたって信じ込んでいましたが、レーザーディスクからDVDに音源を移そうと久しぶりに「フィガロの結婚」を勢い込んで視聴してみたところ、やはり演奏も演出もいささか古色蒼然としていて、かつてあれほど牢固として確立していたはずのおのれの信念がかすかに揺らぐのを覚え、少し落胆しないわけにはいきませんでした。
もちろん古いものは古いなりに良いのですが、続々と登場する新しい演奏、例えば食えない狸爺のアルノンクールや嫌味な突貫小僧ハーディングなどの演奏に接し続けていると「こいつ軽佻浮薄な奴め」と思いつつもいつしかこちらの耳が馴染んできます。そして、「汚染された」その耳で過去の名演奏を聴くと、その古めかしさが厭でも耳につくのです。
しかし改めて名匠ジャン・ピエール・ポネルの演出に注目してみると、このライブではなく映画版のそれでは伯爵と従者フィガロの階級対立がじつに先鋭に描かれていることに気付きます。そして伯爵夫人を痛めつける伯爵の暴力的な攻撃の凄まじいこと。フィッシャー・ディースカウにブン殴られたキリ・テ・カナワの表情は痛々しい限りですが、こういうところがポネル以降の新進気鋭の演出家にどんどん取り入れられるようになり、ついには伯爵への意趣返しにケルビーノと寝てこの美少年を後年の色魔ドン・ジョバンニに成長させる手引を行わせるという先進的?な演出までもたらすようになったのでしょう。
細かいところでは、第2幕冒頭のこの伯爵夫人の哀切極まりないアリアの箇所などでは声は聞こえても映像の彼女は歌わず幸福であった新婚時代の回想シーンが写し出されるのですがこれはいささか通俗的に過ぎますし、終幕の夜の森のシーンでヘルマン・プライのフィガロを追おうとしてさかんにカメラがパンしたり、ズームしたりするのも気になります。
しかしカール・ベーム翁とウイーンフィルの面々の懐かしい演奏に耳を傾けると、テンポはとてもゆったりしていて、スザンナ役のミレルラ・フレーニなどの歌手たちも美しい旋律を心ゆくまで歌いあげており、ちょっとした間奏曲や行進曲のひとくさりにしても、「やはりモーツアルトはこうでなければ」という思いがしみじみとこみ上げてきます。
モーツアルト以降のえぐいロマン派の音楽と違って、モーツアルトではわずか数小節の間に恋が生まれ、死に、また蘇ります。なんの不自然さも違和感も説明もなしに。モーツアルトにおいては瞬間毎に人の世の真実が書き換えられるのです。その新鮮さに接したときの驚きがモーツアルトを聴くよろこびなのでしょう。
いずれにしてもベームも、ポネルも、名コンマスのヘッツエルも冥界の人となってしまいました。ミレルラ・フレーニはいまだ健在のようですが、かつて英国で華やかに活躍したキリは、クラシック界を去ってもうずいぶんになります。最近はいったいどうしているのだろう。それにしても、歌手の盛りは長いようでやはり今年の桜のように短いな、と思いつつ深夜のブラウン管を切ったことでした。
♪「そりゃあ酷ですよ」緒方拳のドラマのセリフを唱える息子 茫洋
Friday, April 24, 2009
60年代のメンズカジュアル
60年代のメンズ・カジュアルファッションといえばなんといってもジーンズでしょう。アメ横には米軍から放出された大量のジーンズが人気を集めていました。
1964年に「平凡パンチ」、66年には「週刊プレイボーイ」が創刊され、VANに代表されるアイビールックとJUNなどのコンチネンタルルックが覇を競い、TPOなる言葉が石津謙介氏によって流行語となりました。
60年代後半からはベトナム戦争が泥沼化し世界各地で反戦運動が起こります。パリの5月革命、日本の全共闘運動などを背景にカウンターカルチャーが全盛となり新しい思想文化、とりわけ先鋭的なモードが全世界で澎湃として巻き起こってきました。
例えば英国で起こった服飾の新潮流モッズはmodernの略ですが、50年代終わりのロンドンで誕生し、ビートルズなど時代の先端を行く若者や服装の代名詞となっただけでなく日本のGSにも大きな影響を与えました。
また米国原産のサイケデリックは、ヒッピーで流行したLSDによる幻覚を指し、これが現代アートに激烈に作用します。そして前記のモッズと後者のサイケがヒッピーファッションに大合流し、当時の若者の服飾の主流を形成するようになるのです。
67年に登場した新宿フーテン族、演劇では寺山修司「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」などのアングラ、そして69年には新宿西口でフォークゲリラが激発します。広告の世界では「モーレツからビューティフルへ」「フィーリング」などという言葉が流行語となる頃、モードの古典的な規範は崩壊に近づきつつありました。モードの底が、いったん抜け落ち、擬制の自由とやらにみな酔った振りをしたのです。
長髪と反アイビーの西海岸ジーンズなどが、反体制のシンボルとして定着し、「アンチ・ファッションという名のファッション」が市民権を得たわけです。続いて西海岸に発生した数々のアウトドアルック、パンク、そしてさまざまなイタリアンカジュアル。80年代まで世界中で疾風怒涛のファッド旋風が吹き荒れます。私がベルボトムをはき、ヘレンカーチス第2液を買ってきてはじめてパーマをかけたのもこの頃でした。
♪8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る 茫洋
♪見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙
Thursday, April 23, 2009
猫と辞書
箱根の湿生花園で2匹の野良猫がひなたぼっこしていました。
さて、その「猫」をちょっと辞典で引いてみましょう。
「広辞苑」(岩波書店)
広くはネコ目(食肉類)ネコ科の哺乳類のうち小形のものの総称。体はしなやかで、鞘に引き込むことのできる爪。ざらざらした舌、鋭い感覚のひげ、足うらの肉球などが特徴。一般的には家畜の猫ろいう。エジプト時代から鼠害対策としてリビアネコ(ヨーロッパヤマネコ)を飼育、家畜化したとされ、当時神聖視された。現在では愛玩用。在来種の和ネコは奈良時代に中国から渡来したとされる。古称ねこま。
「大辞泉」(小学館)
「ね」は鳴き声の擬声、「こ」は親愛の気持ちを表す接尾語。食肉目ネコ科の哺乳類。体はしなやかで、足裏に肉球があり、爪を鞘に収めることができる。口のまわりや目の上に長いひげがあり、感覚器として重要。舌はとげ状の突起で覆われ、ざらつく。夜行性で、目に反射板状の構造をもち、光って見える。瞳孔は暗所で円形に開き、明所で細く狭くなる。単独で暮らす。家猫はネズミ駆除のためリビアヤマネコやヨーロッパヤマネコなどから馴化(じゅんか)されたもの。起源はエジプト王朝時代にさかのぼり、さまざまな品種がある。日本ネコは中国から渡来したといわれ、毛色により烏猫・虎猫・三毛猫・斑(ぶち)猫などという。ネコ科にはヤマネコ・トラ・ヒョウ・ライオン・チーターなども含まれる。
「大辞林」(三省堂)
食肉目ネコ科の哺乳類。体長 50cm内外。毛色は多様。指先にはしまい込むことのできるかぎ爪がある。足裏には肉球が発達し、音をたてずに歩く。夜行性で、瞳孔は円形から針状まで大きく変化する。本来は肉食性。舌は鋭い小突起でおおわれ、ザラザラしている。長いひげは感覚器官の一つ。ペルシャネコ・シャムネコ・ビルマネコなど品種が多い。古代エジプト以来神聖な動物とされる一方、魔性のものともされる。愛玩用・ネズミ駆除用として飼われる。古名、ねこま。
なーるほど。だいたい似たりよったり、大同小異というところ。
しかしちょっと待て。私の大好きな大槻文彦さんのを読んでみてほしい。
「新訂大言海」(冨山房)
ねこまの下略。寝高麗の義などにて韓国渡来のものか。(中略)人家に畜う小さき獣、人の知るところなり。温従にして馴れやすくまたよく鼠を捕うれば畜う。形、虎に似て2尺に足らず。睡りを好み寒を畏る。毛色、白、黒、黄、駁等、種々なり。その瞳朝は円く、次第に縮みて正午は針のごとく、午後また次第にひろがりて、晩は再び玉のごとし。陰所にては常に円し。(後略)
どうですか。これこそが辞書らしい辞書というものでしょう。「その瞳朝は円く、次第に縮みて正午は針のごとく、午後また次第にひろがりて、晩は再び玉のごとし」などという下りなど、猫という対象を、まるでセザンヌかゴッホのように真剣に見つめて1語1語を自分の言葉で書いている。観察が鋭く、それになによりも愛情がこもっているではありませんか。
これに比べると他の辞書など生きた人間ではなくまるでロボットが代筆しているような気がしませんか。しかも現在わが国で出版されているすべての国語辞書が規範にし参考にしたのがこの大槻文彦が明治24年に出版した「言海」(ことばのうみ)であると知れば、現代の国語辞典は過去1世紀余りの間にその表現方法においてもっとも大切なものを見失ってしまったと言わざるを得ません。
♪酔っ払って裸になって叫ぶ人それをわざわざ警察に突き出す人 茫洋
♪われもまた酔って全裸で叫んでみたし
♪君たちも一緒に裸で叫びなさいガタガタ騒ぐなアホ馬鹿マスコミ
Wednesday, April 22, 2009
こんにちは、ベンジャミン
雨上がりの午後、散歩でもしようかと玄関を出た私は思わぬ光景にびっくり仰天しました。鉢植えのスミレになんとアオバセセリが蜜を吸いにきているのです。
アオバセセリを漢字で書けば青羽挵蝶、学名choaspes benjamini。分布は青森県から八重山諸島。九州以北では年2回(5~6月、7~8月)の発生。飛び方は速く、雄は林間の空地などで長時間同じコースを飛ぶ。幼虫の食卓はアワブキ科のアワブキ、ヤマビワなど。越冬態は蛹。
などと図鑑に出ています。
この近所にはヤマビワはありませんが、アワブキならたしかどこかで見たことがあります。、燃やすと切り口から泡が出るというあの樹木の葉を食べながら育った幼虫が、この暖かさにうかうかと羽化してしまったのでしょうか。だからこんなに小さいのかしら。
私がこれまでにたった2度ほど見掛けたアオバセセリは開張45~50センチでかなり大型でしたが、これは30センチくらいの小型です。しかし、よくも私の家に迷い込んでくれたこと。同じ木を食草とするシミナガシやカアオアイを食べるギフチョウともどももう生きている間は二度とお目にかかることはないだろうと思っていただけに、私はほんとうにうれしくなりました。
最近は仕事に恵まれず、いろいろ行く末について思い悩むことが多く、毎日鬱々と朝比奈峠を猫背で歩いていた私は、これこそはさだめし天からのよき便りであろう、と久しぶりに痛む背中をますぐに伸ばして4月の青い空を仰いだことでした。
思えば今を去る01年の夏に、私はなんとなく、ほんとうに何心なくこんな俳句を詠んだことがありますが、今日はじめてアオバセセリの学名を知って、私は思わず、「ああ、僕は長い間きみに会いたかったんだ」と思ったことでした。
♪ベンジャミンてふ名の友を持ちたきこの夕べ 茫洋
Tuesday, April 21, 2009
既製服の台頭
ふぁっちょん幻論 第48回
昭和45年1970年ごろに米国からもたらされた、「人間工学に基づいたスーツの仕立て技術」。これがオーダーメイドを駆逐し既製服の時代を切りひらきました。
例えば故石津謙介氏が設立したVANのアイビールックは、米国式工業生産システムが生んだ胴をシェープしないボクシー(箱型)な直線的シルエットが特徴でした。そして当時はVAN、JUN、ACEなどの既製服ブランドが相次いでヤング世代のおしゃれ心をしっかりとつかみ、これが世代を超えた「注文服離れ」を惹き起こしたのです。
その一方では、前回にも述べたように欧州の洗練された高級既製服(プレタポルテスーツ)が日本に進出し、例えばピエール・カルダンのエッフェル塔のようなパゴットラインなる最新モードも登場。その他テッド・ラピドス、サンローラン、レノマなどのフランス製のメンズモードも躍進を遂げていました。
しかし昭和48年1973年の石油ショックがオーダーメイド業界にとどめを刺しました。その影響によって最盛期には10万人を数えたテーラー人口が、その4年後にはたった1万人に激減してしまったのです。
これをデータで見ると、わが国の1969年の既製服化率はおよそ45%でしたが、当時欧米のそれは95%の多きに達しており、日本のみならずメンズスーツのプレタポルテ化現象は全世界の先進国に及んでいたということが分かります。
ちなみに現在の大手服飾メーカーの生産仕様は、90年代に採用されたドイツ縫製メーカーの「M仕様」が主流であり、ここにも依然として欧米モデルに依拠するわが国メーカーのお得意パターンがひそかに生き延びていることが分かります。
♪かつてわが勤めし会社よ強欲の投資ファンドの餌食となりたり 茫洋
Monday, April 20, 2009
ムーティ指揮スカラ座でヴェルディの「ファルスタッフ」を視聴する
ジュゼッペ・ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」はシェークスピアの「ウゥンザーの陽気な女房たち」を原作にしたオペラです。
シェークスピア原作による彼のオペラはほかに「マクベス」と「オテロ」があってどれも傑作ですが、ヴェルディ最後の作品となったこの「ファルスタッフ」はそれらを凌駕するのみならず、私見では彼の最大の傑作だと思います。
そのことは処女作の1839年の「オベルト」から42年ノ「ナブッコ」、47年の「マクベス」、53年の「椿姫」、57年の「シモンボッカネグラ」、59年の「仮面舞踏会」、67年の「ドンカルロ」、71年の「アイーダ」、87年の「オテロ」、そして93年遺作となったこの「ファルスタッフ」と順番に聴き進めていくと誰の耳にも明らかになるのではないでしょうか。ヴェルディは88歳の生涯の80歳の年の最後の作品で彼の最高の作品を書いたのです。
「ファルスタッフ」は陽気で悪知恵が働き好色で酒と料理と金儲けには目がない太鼓腹のおいぼれ騎士です。なんでもこの騎士サー・ジョン・フォルスタッフの恋物語をシェークスピアはエリザベス1世のリクエストによって創作したともいわれているようですが、まことに愛すべきキャラクターではあります。
私が今回鑑賞したのは2001年4月にヴェルディの生誕地であるイタリア・ブセートのジュゼッペ・ヴェルディ劇場で行われたリッカルド・ムーティ指揮、スカラ座の公演のライヴビデオでしたが、題名役を演じるアンブロージョ・マエストリとマドンナ役であるフォード夫人アリーチェを歌うバルバラ・フリットリが好演。ムーティとスカラ座のオーケストラなら第三幕の大詰めなどもっと盛り上がるはずですが、まずまずのバックアップといえるでしょう。
かねてから世間の鼻つまみ者であるファルスタッフは、地元ウィンザーの奥方に勝手に横恋慕したところを、住民たちやかつての従者たちの陰謀にたわいなくひっかかって、よってたかって川に投げ込まれたり、真夜中の森で袋叩きにされるなど、じつに気の毒な目に遭ってしまうのですが、その途中の展開部ではシェークスピアの「真夏の夜の夢」やモーツアルトの「フィガロの結婚」を思わせる情景が繰り広げられ、喜劇的なセリフの周囲を草の蔓のようにぐるぐる巻きにすると音楽が完全に一体化して時折は無調に突入する瞬間すらあるのです。あくまでも真実を求める言葉と音楽が、そのもっともふさわしい関係に立とうとすれば、古典的な調性は破綻せざるをえない好個の例かと思われます。
オペラでは最後に「人間はみな愚か者」という陳腐なアリアを大合唱して幕が下りるのですが、シェークスピアの原作にはそんな道徳訓はこれっぽっちもありません。私が偏愛する坪内逍遙の訳では、フォード氏の次のようなセリフで非劇的な結末を迎えるのですが、これこそが本来の終わり方であったと思うのは私だけでしょうか。
「さうしませう。ジョンさん、でも、あなたは、ブルックへの約束だけはやッぱりお守りなすたんですよ。なぜなら、あの男は今夜フォードのおかみさんと寝ますよ」
♪自閉症のわが子に優しき二人の女性いずれも拒食症を病みてけるかな 茫洋
60年代のスーツ近代化
1960年代になると西欧から優れたテーラーたちが続々わが国にやってきます。また昭和30年1964年の東京オリンピック開催時には、国際注文服業者連盟国際大会も併せて開催され、翌年から若手優秀者がロンドンのサヴィル・ロウでの研修に派遣されるようになりました。
昭和36年1961年にはパリの仕立て技術者A・クリスチャーニ、昭和39年には伊ローマからアンジェロ・リトリコ(JFK、フルシチョフ、マストロヤンニの服)、英ロンドンマスターズテーラー協会理事長のパッカー、副理事長のスタンバレー(サヴィル・ロウのテーラー「キルガー・フレンチ&スタンバレー」)などの各氏が来日、欧州仕立ての真髄を披露しました。
彼らは「日本のスーツ職人は手先は器用だが、胸のドレープの表情に乏しい、スーツ全体のボリュームがなく扁平すぎる。プロポーションが悪く、アイロンが軽すぎる」などの指摘を行ない技術の改善を指導したために、スーツの仕立て技術が大きく向上しました。
こうした技術革新の波を受けて、74年には三宅一生らの「TD6」が父上がり、72年には「ブリリアント6」が結成され、上原宗市、細野信、中右茂三郎、石川栄治、今井文治などが第1回コレクションを発表。第2回からは池田茂樹、五十嵐九十九、隅谷譲次、松田法明たちも参加し、73年には上原宗市、細野信がイタリア・サンレモのテーラーデザインコンテストで1位を受賞します。しかしこうしたオーダーメードの団体活動は、既製服業界の追い上げと職人賃金の高騰などによって、昭和60年1985年には終了してしまいます。
♪鰤頭とろとろ煮られ花曇り 茫洋
Saturday, April 18, 2009
「吾妻鏡」現代語訳 5征夷大将軍を読んで
建久元年1190年から同三年までは、源頼朝の絶頂期ではなかっただろうか。
平家一門、弟の義経に続いて奥州平泉の藤原氏を滅亡させたこの関東の武人は、相州鎌倉を拠点に都の後白河法皇との平和共存体制のもとで武家政権を確立し、関東以北を中心とした東国支配を貫徹していく。その後の日本国を象徴する権力の東西二重構造の出現である。
この三年間にどんなことが起こっただろう。鶴岡八幡宮は、大火の後で現在の地に再建され、奥州中尊寺の二階大堂を模して造営された永福寺も山紫水明の地に成り、すでに完成していた父義朝を弔う勝長寿院と合わせて豪華三点セットの七堂伽藍が完成するのである。(余談ながら私の家の近所に大慈寺が建立されて四点セットが完成するのは頼朝の死後のことになる)
その永福寺は頼朝自らが建設場所を選び、恐らくは手ずから図面を描き、何度も現地に足を運んで北条義時や畠山重忠に巨石を担がせて鎌倉二階堂に建立した平安貴族風の雅やかな御殿であり、建久三年に生まれた実朝がちょうどこの季節には花見や蹴鞠を楽しんだ寺院であった。(余談ながらこの近くには晩年の江藤淳や外交官の加瀬俊一、作家の里見敦なども住んでいた)
生涯のライバルであった後白河院亡き後、頼朝は念願の征夷大将軍に就任し、その声望は天下の頂点に到達する。同年一二月三日に生後間もない実朝を両腕に抱いて千葉常胤、三浦義澄、小山朝政、和田義盛、畠山重忠、安達盛長、梶原景時など幕府叢生の苦労をともにした御家人の前に喜色満面の笑みをたたえて姿を現した頼朝は、「此嬰児鐘愛殊に甚し、各意を一にして将来を守護せしむ可きの由、慇懃の御言葉を儘され、あまつさえ盃酒を給ふ」(岩波文庫吾妻鏡三)と原文にあるように、源家の将来を託した息子への忠誠を、心と言葉を尽くして信頼する武将たちに頼んだ。
御家人衆はそれぞれが実朝を抱き、各自がそれぞれ腰刀を献上して頼朝の要請に応えることを確約したのだが、のちの北条政権の陰惨な歴史が残酷なまでに示しているように、その大閣秀吉の晩年にも似た征夷大将軍の悲願が実現される日は、ついに訪れなかったのである。
ついぞ知らずあわれ北条の陰謀に滅亡するとは 茫洋
Friday, April 17, 2009
網野善彦著「歴史としての戦後史学」を読んで
照る日曇る日第250回
映画「舞踏会の手帖」を思わせる古文書の返却の旅
岩波書店から孜々として刊行され続けている網野善彦著作集の第18巻である。
この巻の主題は、著者が後半生の最大の責務となった「古文書の返却の旅」である。戦後の観念的な極左革命運動に挺身し、おのれの人生と学問の前途に光明を失っていた著者は、1950年になって日本常民文化研究所月島分室を主宰するやはり元左翼のシベリア帰りの文書学者、宇野脩平氏の好意によって同所に勤務することになる。
当時宇野氏はソ連の文書館を理想とした巨大なアルヒーフ建設を夢見ており、水産庁と日本常民文化研究所を動かして日本全国の漁村の古文書をねこそぎ借用し、それらを整理、編集・刊行して我が国最初の本格的な資料館を立ち上げようという大事業を計画していたが、たまたまその成り行きに飲み込まれてしまった著者も、この前代未聞の古文書借用騒動に巻き込まれることになる。
月島の小さな分室はたちまち膨大なリンゴ箱であふれかえり、それらを複写、撮影、調査、整理、整頓する人材も制度も予算も枯渇していくなかで、いたずらに数十年の歳月が流れ去った。宇野氏の功績は偉大であり、そのおかげで著者は観念的な史観を脱して実証的な文献研究の重要性にめざめ中世史研究者としての基礎を叩きこまれることにもなったのだが、その反動も大きかった。文書の大半は返却されずいたずらに死蔵されたのである。
借用文書は各所に分散し、貴重な資料提供者や研究者の怒りと抗議が舞い込み、宇野氏はじめ多くの関係者が物故するなかで、責任を痛感した著者による、さながら映画「舞踏会の手帖」を思わせる文書返却の長い長い旅路が始まるのである。
ゆいいつ救われるのが、数十年振りに返還された古文書を前にした各地の資料提供者がひたすら平身低頭する著者たちに対して示す寛容な態度であり、いったいこの不始末の落とし前はどうなるのか、と息を凝らして読み進んできた読者も、やれやれと胸をなでおろすことになる。
これらの古文書を活用して、著者たちが画期的な成果をあげた中世海民の役割再評価の研究ではあったが、二度とふたたびこのような誤りを繰り返してはならないであろう。
余談ながら本書176pに、渋沢敬三が高く評価している民俗学者として、敬愛する磯貝勇氏の名前が出てきたのはうれしかった。渋沢敬三が序文を寄せ、磯貝氏が郷里の由良川の源流や故事や風俗についてとつとつと語った「丹波の話」(昭和31年東書房刊)こそは、わが枕頭の書なのである。
♪口丹波由良川の水澄みわたり蚕の里をゆるゆる巡る 茫洋
箱根に行ってきました
鳥歌い花は弾けて水緩み箱根全山笑いさざめく
懐かしき巡り合いかな地に伏して万事を捨ててなお眠る人
猫どもは恐れも知らず日溜まりに遊び戯れ眠り呆けたり
名も知らぬあまたの花が咲き乱れシュレーゲル蛙鳴く湿生花園
いちりんそう咲きにりんそう咲く花の園さんりんそう求めて池を巡りき
外輪山の雲間を裂きて薄日差しミズバショウの池蛙声さわがし
ひさかたの光のどけき花の園カタクリ散れどマメザクラ咲きたり
腰を折りマイクを振りて歌うなり息子のおはこ千の風に乗って
青池様のおかげをもちて訪れし箱根の森に広がる笑顔
Wednesday, April 15, 2009
偉大な指揮者 凡庸な指揮者
ウィーン国立歌劇場再開50周年記念ガラコンサートの映像を見ていて思うのは、最初の一振りで、ああ、こりゃあだめだ、というできの悪い指揮者と、「おおこれは!」と声にならない感嘆の声がでてしまうかのカルロスタイプの指揮者がやはりいるなあ、という当たり前の事実であり、その証拠に前者の最たるものがわが国を代表する世界のO氏であったのは今日のこの日のハレの舞台の演奏でもまったく変わらず、冒頭の序曲レオノーレにしてもフィナーレのフィデリオの終曲の合唱にしてもリズムもアジア風?のみようちくりんなものだし、こんな強引な変拍子に無理やり付き合わされているウイーンフィルも世界に冠たる名だたる名独唱者も気の毒と言えば気の毒だったが、そーゆーお馴染みの憂鬱をぶっ飛ばしてくれたのがかのダニエレ・ガティ選手とクリスチアン・ティ-レマン選手のオペラの、「音楽とはこうゆうもんじゃ」、といわんばかりの堂に入り壺にぴたりはまった妙技であり、目も覚めるような光彩陸離たるヴェルディやワーグナーやシュトラウスやをさんざん聴かされると、やはり音楽を生かすも殺すも指揮者の棒次第だなあとまたしても思わされたのだが、現在ウィーン国立歌劇場のシェフであるO氏の後任に決まっている墺国自慢のフランツ・ウエルザー・メスト君が出てきて細長い指揮棒を一閃した直後に出てきたとんでもなくとろい音響に腰を抜かすほど驚かされ、やれやれこれではウィーンのオペラ・ファンも二代続けてかくも凡庸な指揮者の音楽を聴かされるとはじつに気の毒なことよと同情せざるを得なかったわけだが、最後に一言わが国民的アイドルであるO氏の名誉のために付け加えておくと、この人が04年6月のザルツブルク音楽祭で同じオーケストラを指揮してベンジャミン・シュミッドが独奏したコルンゴルドのバイオリン協奏曲の演奏(OEHMS)はなかなかであった。もっとも曲自体が誰が演奏しても素晴らしいうえにシュミッドの腕前が冴えわたっていたからだけど。
♪新宿直久のラーメン&餃子セット750円喰らいおれば黄昏る黄昏る俺っちの人生が 茫洋
Tuesday, April 14, 2009
メンズモードの戦中・戦後
昭和12年1937年に日中戦争、昭和16年1941年にはアジア太平洋戦争が勃発するとメンズモードも決定的な影響をこうむりました。仕立て職人たちはどんどん戦場にやられ、おしゃれもへったくれもないファッションの不毛の時代に突入したのです。
カーキ色のウールの軍服がのさばり、「国民服」が大手を振ってまかり通る暗黒時代の訪れでした。そのなかでかろうじてVゾーンだけがささやかなおしゃれのスペース、自由の証だったのかもしれません。
「五族協和」、「八紘一宇」のいんちきスローガンのもと、後発帝国主義の代表選手としてアジアに覇を唱えようとした日本は、ほとんど全世界を向こうに回して、なんの目算もなく愚かで狂気の海外侵略戦争に乗り出し、およそ310万の犠牲者を出して完膚なきまでに敗れました。
しかし朝のこない夜がないように、ファッション界にもまた新しい太陽が昇るようになりました。復興への道がようやく前途に現れたのです。昭和24年には第1回全日本紳士服技術コンクールが開催され、第1席には佃鶴次郎、第2席に中右茂三郎が入りました。そしてその翌年の朝鮮戦争による特需景気でテーラー業界は急成長を遂げます。
昭和34年の岩戸景気の頃には、既製服のスーツは生産量650万着で平均価格は8000円。これに対してオーダーメードは430万着で、価格は平均1着18000円でした。
オーダーメードが既製服の価格の2倍になったとき、双方のシェアは半々になり、4倍になるとオーダーメード需要は10%を割る。これが(業界だけで)有名な「既製服とオーダーメードの法則」といわれるものですが、その後既製服はどんどんオーダーメードに肉薄するようになるのです。
春の日の桜が丘の小田急に両脚切られて泣き笑う男 茫洋
Monday, April 13, 2009
葛原岡を訪ねて
葛原岡(くずはらおか)神社の祭神は後醍醐天皇の側近、日野俊基卿です。日野家は先祖代々文章博士の家柄で俊基も当代きってのインテリ公家だったそうです。
俊基は同じ日野家の資朝卿とともに後醍醐天皇を中心とした討幕計画を進めます。修験者に扮装して紀伊の国に赴き楠正成などの武将の参画を得ようとしきりに活動していたのですが、密告により幕府に露見し、京都六波羅にとらわれの身となります。世に正中の変と称される事件です。
許された俊基はふたたび討幕計画を進めますが、これまた幕府の知るところとなり、元弘元年1331年僧文観、円観とともに捕われ(元弘の変)て鎌倉に護送され、後醍醐天皇は隠岐へ流されてしまいます。
そしてこの年の6月3日、俊基は当時刑場であったここ葛原が岡において、
秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらむ
古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清
の辞世を残し、恨みを呑んで処刑されました。
以上は「葛原岡神社由緒」からの自由な引用ですが、この地はきっと秋になれば葛の花が咲き誇りカラスアゲハが乱舞したのではないでしょうか。おそらく鎌倉時代の「異境」として商取引や芸能、そして処刑が行われたこの山の近辺には、いつ訪れてもどこか無常の風が吹き募っているように感じられます。
頂を一気に駆け下りれば、そこは新田義貞がしゃにむに攻めた化粧坂です。義貞はこの狭隘な坂道を突破することができず、遠く迂回して稲村ケ崎から鎌倉の市内に乱入したのでした。
♪三十六の燃ゆる瞳に見つめられ二十の春にたちかえりけり 茫洋
MARIA CALLAS 「The Complete Studio Recordings」を聴きながら
マリア・カラスが1949年から1969年までスタジオでレコードした全69枚のCDを1枚140円のEMIの廉価盤で入手し、毎日毎晩舐めるようにして聴いています。いわゆるひとつの至福のいっときというやつでしょう。
まずは49年11月8日から10日にかけてイタリアのトリノで録音された最初のリサイタルを聴いて驚きました。アルトゥーロ・バジーレ指揮、トリノイタリア放送交響楽団の伴奏に乗せておもむろに歌いはじめた「イゾルデの愛の死」は、録音こそ古いもののまさしくカラスの胴間声。いささか青臭く、なんとなく自信なさげで、未熟といえば未熟な歌唱ではありますが、時折聴こえてくるどすの効いた迫真のサビとうなりはすでに自家薬籠中のものとなっています。
そうなのです。ハイCで切開される鋭い線のような高音はもちろんですが、このブルブル震えるような低音こそが、カラスなのです。一度聴いたら二度と忘れられなくなる、懐かしくも恐ろしいその声。聞く者の内臓に食い入り、深々と肺腑をえぐっては泣かせる、この表情豊かで戦慄的なバスの音色こそが、カラスという人の専売特許なのです。
ベルリーニの「ノルマ」と「清教徒」からのアリアの抜粋もじつに見事なもの。まさに「栴檀は双葉より芳し」を地でいく鮮烈なデビュー振りといえるでしょう。
今度は一転して、最晩年のカラスを聴いてみることにしました。69年2月と3月にパリのサル・ワグラムで録音された本当に最終期のカラスの歌唱です。
カラスは、ニコラ・レッシーニョの指揮するオルケストラ・ドゥ・ラ・コンセルバトワール管をバックに、ヴェルディの「シチリアの晩鐘」、「アッティラ」、そして「イ・ロンバルディ」からの3つのアリアを、かすれるような声で懸命に歌っていますが、音程は下がり、あの豊かだった胴間声は激しくきしみ、さながら魔女の断末魔の叫びのようにも聴こえます。
しかしその蹌踉たる絶叫のなかに、私は無残な老醜をそれと知りつつ超克しようとする女の誇りと意地のようなものを感じ取り、一掬の涙を銀盤に灌いだことでした。
♪老ゆるともカラスはカラス鶴の声宇宙の彼方にさえざえと響く 茫洋
Saturday, April 11, 2009
「超流行上口中等洋服店」
これまで明治維新以降のわが国の洋服化の歴史について縷々述べてきましたが、実際は和服に親しむ人たちの潜勢力は根強いものがあり、ようやく大正13年の関東大震災以来、洋服が次第に定着することになったのでした。
昭和7年1932年12月16日、日本橋の白木屋本店(現在のコレド日本橋)で火災が発生し、死者14名、重傷者21名の惨事となりましたが、このとき着物を着ていて、消防夫に下からのぞかれることを苦にして逃げ遅れて亡くなった女性がいたそうですが、この話を伝え聞いた多くの人々が洋装に切り替えたといわれます。
さて「ふぁっちょん幻論43回」で木村慶一、山崎隆造、丸山幸作などメンズの偉大な師匠たちをご紹介しましたが、昭和を代表する個性的なテーラーといえば、(私の母の身内であるという身贔屓からではなく)、まずは上口愚朗(作次郎)に指を屈することになるでしょう。
上口愚朗は、明治25年に東京の谷中で生まれました。彼は小学校を卆業後、宮内省御用の大谷洋服店に弟子入りしテーラーとしての腕を磨きました。当時の慣習に従って丁稚奉公しながら自学自習に励んだようですが、ボタンホールの手縫いの精密さはピカイチだったそうです。
そして大正末期に「超流行上口中等洋服店」を開店したのですが、なんといってもこのネーミングが最高ですね。当時はモガ・モボが新古典派、和服地モーニングなどで銀座を徘徊していました。「超流行上口中等洋服店」のポリシーは、“客自らが来店しないと作らない。値段は教えない。国産生地は使わない。採寸せずに仕立てる”という猛烈なものだったそうですが、逆にこれが人気を呼んで棟方志功など熱烈な愛好者たちが谷中に殺到したそうです。
昭和初期の背広の仕立代は1着25円だったのに、この店では100円以上。ファンから稼いだ金で上口愚朗は江戸時代の大名時計や中国・韓国・日本の茶陶器を収集し、これが現在の谷中の「大名時計博物館」の貴重なコレクションになったのです。
上口愚朗は昭和13年に川喜田半泥子を訪ねて作陶に打ち込み、井戸、志野、黄瀬戸、唐津、古瀬戸、山茶碗、彫三島、天目掻落し、独創的な野獣派陶碗などを彼独自の「ウンコ哲学」で制作しましたが、昭和45年に78歳で没しました。私の祖父も、彼が作ってくれた背広を長く愛用していたそうですが、もはや影も形もないことが残念でなりません。
♪桜散るわが仕出かししことの後始末 茫洋
Friday, April 10, 2009
春の点鬼簿 K兄に
新宿駅西口のいちばん代々木に近いトイレから、下のボタンをはめながら出てくるK兄さんと出くわした。
「おお」、と「おお」、「久しぶり」と「お久しぶり」とが期せずしてぶつかった。
折しもラッシュアワーで大混雑する駅構内、
「いまちょうど紀伊国屋でね、君の本を買いに行ってきたんだ」
「あんなくだらない本をわざわざ奥沢から買いにいらしたとは。あれは共著で短い文がちょこっとだけ出ている本だから、お送りしなかったんです。まことに申し訳ありませんでした」
と急いで詫びて、それ以上立ち話もできず、「じゃあ元気で」、「お元気で」と頭を下げたのが永の別れとなってしまった。
春ともなれば奥沢の川面を埋め尽くした桜花―
K兄さん、あなたは初めて上京した私に自由が丘で一等眺めのいい部屋を紹介してくださった。
そしてK兄さん、誇り高き帝国の軍人よ。
一度ならず二度までも米国の戦艦に撃沈され、鱶がうようよ泳いでいる太平洋の波濤に投げ出され、そのつど奇跡的に友軍に救助された歴戦の勇士よ。
胸を張り、背筋を伸ばし、頬を紅潮させ、
「いくさに身を捧げしわが生涯に悔いなし」
と声を張り上げられた、在りし日のあなたの姿を私は忘れない。
桜咲く生きてさえあればそれでよし 茫洋
Thursday, April 09, 2009
フランツ・カフカ著・池内紀訳「失踪者」を読んで
以前新潮社から出ていたこの作品は、タイトルが「アメリカ」で、主人公の少年は17歳ではなく、16歳になっていました。それだけではなく物語の最後が今回の池内紀氏の翻訳とは少し違っていました。
どうしてこんなことが起こったかというと、旧訳の1927年版はカフカ全集を編集したマックス・ブロートの構成によるものでしたが、カフカの死後70年余りたった1983年になって、作家がある友人にあずけていた自筆の生原稿が出てきて、これはその貴重な手稿版の翻訳なのです。同時に題名もブロートが命名した「アメリカ」からカフカが日記にメモしていた「失踪者」に変わったというわけです。
「失踪者」はカフカの就職活動を扱った一種の「シュウカツ小説」です。世界の果てまで自分にもっともふさわしい居場所と働き場所を探し続ける若者の物語です。
そしてカフカのすべての物語がそうであるように、第1行を書き下ろすや否や、物語は後先構わずまっしぐらに前進、前進、また前進します。この前のめりの疾走感覚、失敗を恐れない無謀な前駆機動想像力こそが、この作家の最大の持ち味なのです。
カフカの分身である主人公カール・ロスマンは、いまはやりの17歳の草食動物少年です。カールは郷里プラハの実家で女中に逆レイプされて子供が出来てしまい、少年の行く末を案じた両親は、大きなトランクとこうもり傘だけを持たせて、はるばる新天地アメリカまで旅立たせます。「可愛い子には旅をさせよ」を、地で、いや海で行ったわけですが、この物語の冒頭ではどことなくドボルザークの新世界交響曲の遠い響きがこだましているような気がいたします。
無事にニューヨークの港に到着したものの、カールを待ち受けているのは異国の人々のおおむねは冷たい仕打ち、時折はやさしいはからいです。船中での喜劇的なやりとりのあと、カールの「アメリカの伯父さん」が突如登場して主人公を温かく迎えてくれますが、これがカフカ的不条理であっというまに掌が返され、再び放浪の身に。ようやくホテル・オクシデンタルのエレベーターボーイにありついたものの、悪友につきまとわれて首になり、流れ流れて理想のエンターテインメント施設、オクラホマ劇場の技術者として就職することになります。
オクラホマ劇場は、無理やり日本に当てはめるとディズニーランド、いや岡山の木下サーカスに似ています。ここはおそらく現役で唯一の国産サーカスで、毎年大卒を募集しています。初任給なんと26万円でフジテレビと同じですが、こんな不毛?の職場よりももっともっと夢とロマンにあふれているに違いありません。
物語の最後の場面は、かつてニューヨークのメトロポリタン歌劇場がセントラルステーションから全米夏季巡業に出発した華やかな光景を彷彿とさせ、カールの苦悩に満ち満ちた「シュウカツ」は、ここでついに幸福な結末を迎えるのです。
♪世界の果てまで自分にふさわしい仕事を探し続けたりフランツ・カフカ 茫洋
Wednesday, April 08, 2009
日本とイタリアの背広の違い
ふぁっちょん幻論 第44回
スーツは微妙な有機物ですから、壁紙に包まれたような着心地では絶対にだめです。人間と一緒に動く服でなければ本物ではありません。ところが明治、大正、昭和と日本のテーラーが引くパターンは、体には合うが画一的で無個性になりがちでした。
欧米のテーラーは彫刻的な造型ラインをフリーハンドで描けます。とりわけイタリアのサルトリア(仕立て屋)では1針ごとの正確さよりも全体的な柔らかな着心地にこだわるのが特徴です。例えば背広のラペルの裏側のハ刺しで襟と芯に馴染みが良くなる、というように。
ミラノの著名なサルトリアであるA・カラチェニは、フィアットの元会長ジャンニ・アニエッリや、デザイナーのジャンフランコフェレが顧客であり、ボローニャのグイド・ボージーは指揮者のカラヤンやリッカルド・ムーティが顧客でした。このいささか芸風と体格が異なる2人のマエストロが同じテーラーの製品を着て指揮棒を振るっていたとは意外ですね。
それから南に下がってナポリの「ロンドンハウス」はマリアーノ・ルナビッチの工房で映画監督のビクトリオ・デ・シーカ監督などが顧客でした。ともかくイタリアの仕立て技術は世界屈指のもの。20世紀前半に英国で完成された紳士服スタイルを現代のニーズに合わせてイタリア人がリ・デザインしたわけです。
いっぽう日本は前回にも述べたように、礼服が仕立ての最終到達点。一生ものの頑強な物作りを背広に適用したために永井荷風などが文句をいうわけです。工場にはイタリアのようにパタンメイクと縫製技術を総合的に統括する役割を担うモデリストが不在で、とにもかくにも肩くずれしない「ハンガー美人」製品ばかりがのさばるようになったのです。
それでも1957年当時の日本の背広の世界では優秀なテーラーたちがそれなりに活躍していたのですが、60年代に入ると(政治と同様に)米国既製服の下請けと化し、イタリアのように夜郎自大に自由に振舞えなかったことがいまも悔やまれます。
♪段葛降り積む桜の花びらをエアメールで送りしこともありき 茫洋
Tuesday, April 07, 2009
Monday, April 06, 2009
「東林寺跡やぐら」を尋ねて
やぐら巡りの最終回は、「東林寺跡やぐら」です。
私が愛読してやまない「鎌倉廃寺事典」は、「沙石集」の記述を引用して、泉の谷にある東林寺には塔と地蔵堂があったこと、そしてそれが守る人もなく頽廃していたことを伝えています。
また、お馴染みの「鎌倉志」には、このお寺は現存する浄光明寺の向かいにあって、その開山は浄光明寺と同じく真聖国師真阿であると伝えていますが、両寺ともに律宗のお寺として栄えていたようです。東林寺には足利尊氏の教書がありましたが現在では浄光明寺の宝物となっています。
いずれにしてもいまでは由緒ある東林寺は廃寺となり、その跡地は浄光明寺の墓地となってしまいましたが、往時の栄華のよすがを伝えるように貴重なやぐらが残っています。
そのひとつは船の舟底形天井のやぐらです。これは穴全体が住居の様相を呈しており、切妻造の屋根があり、奥壁には柱の跡や梁を渡した穴の跡が見られる立派なものです。
もうひとつはまるでアパートのように重層的な構造をもったやぐらです。1階と2階が数個の個室(龕)に分かれており他では見られない豪華で貴重なものです。
♪口笛吹くような「乙女の祈り」に変りたり4月1日鎌倉市清掃車 茫洋
Sunday, April 05, 2009
スコット・フィツジェラルド著「バビロンに帰る」を読んで
村上春樹によるスコット・フィツジェラルド短編集翻訳の2巻目です。
最近米国のみならず、この稀代のアル中作家の声望が同時代の大作家ヘミングウエイのそれを次第に圧倒していると聞きますが、それもむべなるかな、という気持ちにさせられる珠玉のような名編(と偉大な失敗作ぞろい)です。
フィツジェラルドの最大の特徴は、(村上春樹選手の日本語訳で読む限り、という注釈つきですが)その文章の天才的なうまさにあるといえましょう。
例えば、最初におかれた短編「ジェリービーン」の冒頭は、
「ジム・パウエルはジェリービーン(のらくら)だった。私だって彼のことを魅力的な人物として描きたい気持ちはやまやまなのだが、でもそれでは読者に嘘をつくことになる。彼は生まれながらの、まさに骨の髄からの、99%のジェリービーンだった。」
というもので、じつにうまいものですね。
次の作品「カトグラスの鉢」のはじまりは、
「旧石器時代があり、新石器時代があり、青銅器時代があり、そして長い年月のあとにカットグラス時代がやってきた。」
というもので、こういう文章はつい真似をしたくなりますがところがどっこい、なかなか様にならないものなんですね。(ちなみに素晴らしいのは序幕だけではありません。本書100pからフィナーレまでは疑いもなくフィツジェラルドが生涯に書いた最高の数ページでしょう)
お次はパリのアメリカ人が出てくる「新緑」ですが、これは
「ブーローニュの森の屋外席で食事ができるくらいに暖かくなった。それが最初の日だった。栗の花はテーブルの上をはらはらと舞って、我がもの顔にバターやワインの上に落ちた。」
というもので、こんなのを読まされると思わずパリに行きたくなってしまいますね。
では表題作の「バビロンに帰る」がどうなっているかといいますと、これが村上選手が激賞しているようにとんでもない代物で、いきなり主人公とバーのマスターの会話からはじまります。
「それでミスタ・キャンベルは何処にいるんだろう?」とチャーリーは訊いてみた。
「スイスに行ってしまわれました。ミスタ・キャンベルは具合がおよろしくないんですよ、ミスタ・ウェールズ」
29年の世界恐慌でジャズエイジの黄金時代が一夜にして崩壊し、失われた世代の自己恢復の痛苦な物語がここからはじまるのですが、この渋くさりげないオープニングに一驚された方はぜひとも本書を手にとって頂きたいものであります。
♪テポドンを嚥下しにけり春の海 茫洋
Saturday, April 04, 2009
鎌倉の花の都に遊びけり
春の日の昼下がり、桜見物を兼ねて北鎌倉の「台(だい)の峯」に行ってきました。案内人は最近岩波書店から写真集「鎌倉の森 台峯」を出版された写真家の関戸勇さんです。
1964年、鎌倉では作家の大仏次郎などの提唱で鶴岡八幡宮の裏山一帯を市民が買い上げることに成功しました。これが日本で初めて実現したナショナルトラスト運動(貴重な歴史的自然環境を市民が買い上げる)でしたが、1998年、2回目のナショナルトラスト運動が起こりました。それがこの台(だい)の峯緑地36.7ヘクタールと広町の森38ヘクタールの保全運動です。
不動産会社が買い上げ開発しようとしていたこの広大な手つかずの自然の森を守ろうと関戸氏など自然を愛する心ある人々が立ち上がって署名と交渉と陳情を繰り返した結果、ついに2002年10月に広町を、そして2004年12月にはこの台峯を鎌倉市が不動産会社から買い取ることで合意しました。最後に残されたこの植物と動物(そして市民の)聖域を死守することができたことは、この町とこの町に住む人たちにとっての大いなる幸福と誇りであり、ユネスコの世界遺産になど登録されなくとも、後世への最大の遺産となるでしょう。
台峯は北鎌倉の駅で下車して円覚寺の反対側の山の上に向かって20分くらい歩くとその入口に到達する北西から南東に長々と伸びた尾根、3つの谷戸と1つの池、そして中央公園と田圃を含む広大な森です。そこは四季折々に花々が咲き、樹木が茂り、チョウやホタルが乱舞する現代の秘境です。
今日は梶原の急坂を登って鎌倉中央公園の右側の細道を進んで、関戸さんが自ら命名された巨大なお化け桜「大蛇(おろち)桜」をとっくりと観賞したあと、清水谷戸に降りて北大路魯山人旧庵の右側を通って倉久保の谷戸に入り、清らかな水を湛えた谷戸の池を抜けてふたたび高台に登りました。
眼下にさえぎるものなく隈なく見えるのは六見山とその麓の円覚寺、北鎌倉駅、そして山全体をぎっしりと埋めたソメイヨシノ、オオシマザクラ、ヤマザクラの大パノラマです。これまで私は鎌倉で最も見事な景観は円覚寺の高台から眺めた台峯の麓と信じてきましたが、あにはからんや、その上をいく光景が横須賀線を挟んでちょうど反対側にあったとは! 関戸さんが自画自賛されるまでもなく、これぞ天下の絶景、鎌倉随一の眺望でしょう。
思う存分桜を堪能しながら春の森林浴を楽しむことおよそ3時間、私は全身に心地よい花疲れを覚えながら帰路についたことでした。
♪鎌倉や花の都に遊びけり 茫洋
♪我こそは森の王なるぞおろち桜
♪鎌倉の台の峯を訪ぬれば緑の蛙慌てて逃げおり
Friday, April 03, 2009
大門正克著「小学館日本の歴史15巻戦争と戦後を生きる」を読んで
これは1930年から55年にいたる4半世紀をひとつのパッケージとしていろいろな角度から観察した日本(およびアジア太平洋)の歴史です。普通の通史ですと1945年8月15日の敗戦を大きな区切りにしてその前後の断絶に強い光を当て、総力戦から帝国崩壊と一億総ざんげ、ファシズムから民主主義、抑圧の解放から自由、旧弊から改革進歩への躍進、軍国主義の蹉跌から経済成長への道行を論ずることが多いのですが、本書は必ずしもそうではありません。
ここに戦前戦後を貫く一本の電線のようなものを思い浮かべてみると、芯の部分には昔から変わらない人々の生活と生存の固有の様式があり、この中核部分を政治経済社会システムが皮膜のように十重二十重にひしと取り巻いています。そして芯と皮膜の間にはたえず激烈な相互運動が激烈に展開されていますが、著者はこの両者のインターフェースに徹底的にこだわって、双方の交渉と角逐の渦中を生きる人間像をできるだけ具体的に記述しようと努力しています。つまり歴史→人間ではなく、歴史→←人間ということですね。
そこで本書の冒頭に登場するのはこのアジア太平洋戦争と敗戦後の25年間を懸命に生き抜いた15人の日本(およびアジア)人の肉声です。あの戦争と激動の時代を生き抜いた人々の貴重な証言がこの本に精彩を加え、歴史書としての価値を高めているのではないでしょうか。いわばドキュメンタリーの魅力と迫力を兼ね備えた異色の現代史といってもいいでしょう。
広田弘毅内閣が国策として主導した満州移民に対して現地視察を行った結果、五族協和の実態を知って分村移民に反対した村長がいたこと、その満州事変に反対した「東洋経済新報」の石橋湛山が上海事変では一転して日本軍を支持したこと、「死線を越えて」の著者でありキリスト教の社会活動家として著名な賀川豊彦が甘粕に招待されて満州に行き、武装移民を理想的と賞賛し、ついには「満州基督教開拓村」を提案、実行したこと、日本帝国の植民地では日本人と朝鮮人、現地人の間で2重3重の差別があったこと、南京虐殺など中国の戦争の実態を写した村瀬守保、戦後の日本の真実を写したジョー・オダネルの素晴らしい作品、戦争の悲惨さを鮮烈に詠んだ鶴彬の川柳、東条英機の「戦陣訓」の犯罪性、東京大空襲の先鞭をつけた日本軍の「重慶無差別空爆」、日本軍の大陸からの強制連行、1945年2月14日の「近衛講和上奏文」の重要性と昭和天皇の積極的な戦争参画(同年6月22日の最高戦争指導会議の主導、47年5月6日のマッカーサーとの会談)、戦後日本への歴史の贈り物としての日本国憲法と教育基本法などディテールの記述も興味深いものがあります。
時代を大きくえぐり取ることを義務づけられた通史でありながら、硬直した理論に振り回されず、切れば血の出る生身の人間史としてなんとか55年体制の確立のくだりまで完走できたのは著者の並々ならぬ意欲と力量の賜物でしょう。
黄セキレイ鳴く上空に飛来しミサイル捜索準備している大型哨戒ヘリコプター 茫洋
Thursday, April 02, 2009
背広の値段
明治20年代当時、もりそばは1銭5厘、下宿代3円50銭、フロックコート仕立て23円、英国地フラノスーツは16円であった。そこで高価な1着であらゆるTPOに対応するべく、明治の洋服は礼服(主にフロックコート)需要に集中したのである。
明治22年、正岡子規は、「3年前に8円で作らせた軍艦羅紗の外套が粗悪品だったので12円で上等品を仕立てた」と彼の随筆「筆まかせ」に書いている。
この頃の注文服は大卒初任給の給料と同額であったが、これはその前の時代の「仕事着としての和服」を月給を前借りして1か月分の値段で仕立てていた伝統が残ったものと思われる。
ちなみに昭和3年1928年の大卒初任給は50円。これは当時のオーダーメードと同額であり、きわめて高価な「高嶺の花」ともいうべき価格であった。そこで「着心地より丈夫で長持ち」の思想が生まれる。
私の知人で最近バーバリーのコートを大枚をはたいて買った女性がいるが、「一生物を長く大切に着たいから買った」と言っていた。
衣服にも資産価値を追求する思想をinvestment clothingというが、これはファッション誌「ハーパースバザージャパン」の最新号のテーマであるから、およそ100年近く威力をふるっている衣装哲学であるといえよう。
♪着古したセーターが人間より長持ちする考えてみれば不思議だなあ 茫洋
Wednesday, April 01, 2009
「世界自閉症啓発デー」に寄せて
今日は「世界自閉症啓発デー」なので、渋谷区神宮前の「東京ウイメンズプラザ」では朝からシンポジウムなど数々の記念式典が行われていることでしょう。
そもそも今を去る20年前には、自閉症とは脳の先天的な器質障碍、具体的には中枢神経系統の機能障碍を原因とする認知や知能やコミュニケーション等の多種多様な不具合であるとは誰一人思っておらず、医師も世間も10人が9人、心因性の病気だと決めつけておりました。
つまり自閉症というのは、心のどこかの具合が悪くて四畳半の押し入れの奥に引きこもる文字通り「自閉的な」病気であり、その原因は親の躾や育て方のあやまちにあると考えられていたのです。そういう意味ではこの四半世紀の私たちの孤立無援の、それこそ「必死」の取り組みは、ようやくある程度の収穫をもたらしたように思われます。
しかしこれほどの脳ブームを迎え、脳の医学的な研究が急速な進歩を遂げた現在においても、依然としてこのしょうぐあいの本当の原因は究明されていませんし、脳のどこの部位のどのような機能の障碍であるかも解明されていないことは非常にもどかしく、この無様なていたらくがいつまで続くのかと残念無念でなりません。
このしょうぐあいの人々は、いかに見かけが普通ぽくとも、天下の悪法「障害者自立支援法」が勝手に決め付けているような「一人前の健常者として自立すること」などなまなかのことではけっしてできませんし、従って彼らには「生涯にわたる介助者の同伴」が不可欠なのです。「もしも自分が死んだらいったいこの子の面倒は誰が見てくれるのか」というのが、自閉症児者を持った親たちのいちばん大きな悩みなのです。
それはさておき、最近どういう風の吹きまわしか「発達障害」なる言葉が独り歩きしているようです。
自閉症に近接すると称されているさまざまな障碍を、なんでもかんでも「発達障害」のグループに入れてわがこと足れりとする人たち。個々のしょうぐあい者の違いやきめ細かい個別的対応をぜんぶネグレクトして、やれアスペルガー症候群だの高度自閉症だの低級自閉症だののいかにももっともらしいレッテルを貼る偉い人たちがあちこちにいらっしゃるようですが、じっさい自閉症を発達障害のひとつに数えたとしても、それは言葉だけの言い換えに過ぎず、単なる気休めに過ぎません。
「発達障害ごっこ」はもうたくさん。そんなことより私たちは目の前の愛すべきしょうぐあい者と親しく向き合い、なんとかお互いのしょうぐあいを全うしたいだけなのです。
君の言葉君の振舞いいささか奇妙なれども天からの贈り物とて忝く受けむ 茫洋