♪音楽千夜一夜第67回
モーツアルト最後のオペラである「皇帝ティトゥスの慈悲」を視聴しました。1791年12月5日にこの天才作曲家は35歳で亡くなりますが、その死の年の夏から秋冬にかけてまるで自分の死と競争するように同時進行で取り掛かっていたのがあの「魔笛」と「レクイエム」とこの作品でした。
あまりにも有名な2つの遺作に比べるとさほど高い評価を受けてこなかったこの作品ですが、05年6月チューリッヒ歌劇場管弦楽団、合唱団を率いてフランツ・ウエザーメストが指揮した公演のライヴ録画を視聴するかぎりでは、みじんも死の影を予感させない充実したモーツアルトの音楽を楽しむことができます。歌手ではセスト役のベセリーナ・カサロヴァとウィテリア役のエヴァ・メイが好演しています。
演出はジョナサン・ミラーですが、弟子のジュスマイヤーが師匠の死後に作ったと伝えられるレティタチーボをやめて全部をただのセリフにしてしまったために、逆にモ氏の音楽がそれ自体としてくっきりと際立つことになったのは思いがけない副産物でした。
さてモーツアルトは、演奏時間2時間強の二幕の全曲を、たった2か月、いや2週間で書き飛ばしたと言われているようですが、フィガロの序曲だってたった数時間で書いてしまった人ですから、速度と完成度は無関係。いたるところで素晴らしいアリアを耳にすることができるのです。
ところでモーツアルトは、なぜこの題材を彼の最後のオペラに選んだのでしょうか。
皇帝ティトゥスはあの有名なポンペイのヴェスヴィオス火山の大爆発や首都ローマの大火などの時期にわずか2年2ヶ月と20日間だけ在位し41歳で急死したローマ皇帝ですが、古来限りない慈悲に満ちた名君として喧伝されています。
スエトニウスの「ローマ皇帝伝」(岩波文庫)の第8巻を読むと、それまでは政敵を暗殺したりして尊大で横暴で放埓であったティトゥスは、父の跡を継いで皇位に昇るや突然善人に変身し、歴代皇帝中でも5指に入る人気者になってしまうのです。
ティトゥスはとかく問題のあった愛人を追放しただけでなく、市民の誰からも何一つ強奪しませんでしたし、金銭的にも清廉潔白でした。ある時、誰にも何も与えなかった日に、「諸君、私は1日を無駄にしてしまった」という世紀の名文句を吐きました。
政敵に対しては徹底的な宥和政策を貫き、統治権を狙った2人の貴族に対しても、皇位を狙った弟に対しても、「どうか私の愛情に報いたいという気持ちになってくれないか」と懇願して、寛容と忍耐と情愛の精神を終生貫き、それが、そのままこのオペラの主題になっています。
時には皇帝として復讐すべき時にも、「人をあやめるぐらいなら、むしろ自分が死にたい」と断言して敵対者を処罰しなかった奇跡の愛の人、ティトゥス。裏切った親友にも、暗殺を謀ったおろかな后妃にも死でのぞむどころか無罪放免してやった慈悲の人ティトゥス。彼こそは、モーツアルトの理想の人物だったに違いありません。
現実から手ひどい打撃を蒙りながら、それでも悪人を許そうとするティトゥスの沈痛なアリアに耳を傾けてみると、涙を流しながらペンを走らせている最晩年のモーツアルトの胸の内がなぜか分かるような気がするのです。
♪よそながらマロニエの花咲きたり麗しきかなマロニエの花 茫洋
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