バガテルop97&鎌倉ちょっと不思議な物語第177回
郷里の親がずっと朝日と日経を取っていたので、その惰性というわけでもないが、読売や産経や前進や赤旗や聖教よりはましだと思っていまも2紙を購読している。
昔の朝日は漱石以来の伝統で文芸欄、それに科学欄がことのほか充実していて面白かったが、最近は水曜日の夕刊の美術特集を除いて日経に一籌を輸するようになってしまった。日経の美術は質量とも朝日を圧倒していて読み応えがあるし、作家たち(よりもデザイナーや装丁家の方がなぜか文も内容もすぐれていること多し)が日替わりで書いている夕刊の随筆も時々切り抜いてもいいと思うような珠玉の名文が載せられているし、連載小説も渡辺淳一の腐敗堕落したアホ白痴ものを除けばいちおう水準以上のレベルに達しているのではないだろうか。
ところが朝日は、声欄の戦争体験の投書と乙川優三郎の「麗しき花実」、吉田秀和の音楽随想、それに敵陣営の雑誌広告を平気で載せる広告部の広い度量?をのぞくと、読むべきもの、評価すべきものがほとんどない。あまつさえ夕刊の株式市況も廃してしまった。
若い読者に色目をつかって藤野千夜の「親子三代犬一匹」などという箸にも棒にもかからないジュニア小説を延々と掲載しているが、あんなもの我が家の愛犬ムクでさえ生きていても読まないだろう。編集部によほど人材が払底しているに違いない。
それではどうしてそんなどうしようもない朝日を取っているのかというと、月に一回だけ付録で配達される「鎌倉朝日」があまりにも素晴らしいからである。毎月一日に姉妹紙に挟まれて配達されるこの超ローカル紙は、すでに通算362号を数えているが、毎回地域情報を要領よく紹介しながらも、清田昌弘氏の「かまくら今昔抄」、岡田泰明氏の「鳥とりどり」、赤羽根龍夫氏の「文学つれづれ」など、どうしても読み捨てにできない貴重な連載を満天下に誇っているのであるんであるんである。
赤羽根龍夫氏は芥川龍之介論に続いて現在「源氏物語」についてのエッセイを連載中であるが、紫式部と光源氏を論じてこれほど刺激的な論考も近年稀であろう。今号ではちょうど「宇治十帖」を扱っている。氏はこの巻の作者は折口信夫が唱えた隠者説に同意しつつも、その隠者は男ではなく見捨てられなんの寄る辺もなくなった老女、すなわち紫式部であると断じている。
紫式部は「宇治=憂し」を舞台として、「光」(源氏)なき後の闇の世界を匍匐前進する「薫」と「匂」の前人未踏の格闘を、それこそ手探りで書き続けた。「宇治十帖」のヒーローである薫と匂は、それぞれ光源氏の息子と孫であるが、それぞれが光源氏の分裂した2つの姿であり、薫は源氏の「まめ」を、匂は源氏の「すき」という側面を分かち持ちながらヒロインの総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟に向かっていく。そしてそのときに平安という一時代を突きぬけ現代にも通じる男と女の無明の世界が描かれていくというのであろう。続編が配達される来月の1日がいまから待ち遠しい。
そういう次第であるからして、世間には背に負うた子供に親は教えられという故事成句もあるように、落日の本紙は親孝行の才子によってかろうじて昔日の面目を保っているのである。
人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと豚どもいきむ 茫洋
人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと鼻息荒し
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