Monday, May 11, 2009

大判小判の山から逃げ去る「ほんたうの幸福」

荒川章二著「豊かさへの渇望」を読んで

照る日曇る日第254回

小学館版「日本の歴史」の最終巻である本書では、1955年から現在までのおよそ半世紀のわが国とわが民衆の歩みをいっきに振り返っている。

私の頭の中では縄文時代とか鎌倉室町時代や江戸時代であれば、かなり鮮明にその時代と民衆像がフォーカスされているのだが、近現代史、しかも直近の55年体制以降の変遷については、照準がまったく定まらない。このゆうに半世紀をこえる膨大な歳月が変転常ならぬ一大カオスとしてしか認識されないのは、私がまだ歴史の本質を真剣に追及しようとしていないからだろう。困ったものである。

この本の中で著者は、敗戦の衝撃から立ち直った日本人たちが、次第に物質的な富の追及にめざめ、これを無我夢中で追及してきた疾風怒涛の欲望の爆発に焦点を合わせる。衣食住有休知美の世界を総覧し、その最上の果実を我が物にすること。それが、かの鬼畜米英を打倒して枢軸国と共に全世界の領土と植民地を獲得・再分割せんとする帝国主義的な野望にとってかわって、私たち新生民主の日本人が選び直した“ほんのささやかな欲望”だった。

そして私たちは、思いがけない短期間でこの素晴らしい目標を達成したのだが、その豊かさ満載のパンドラの黄金の箱の中には、「心の虚しさ」という獅子身中の虫が潜んでいた。私たち1億の民のほぼ全員が小さなミダス王となり、その勤勉な手に触れるものはことごとく黄金に変貌したのだが、宮沢賢治がいう「ほんたうの幸福」というものにはついぞ巡り合わなかったのである。

政治経済社会のすべてが混迷の極に達したかに思われる現在までの全プロセスを、著者は家族と労働、性や民族差別、都市と郊外、本土と沖縄の矛盾などに着目しながら、じっくりと振り返っている。

私たちはまさしくこのような道を歩んできた。そして著者がいうように、「新しい選択の可能性・萌芽は、半世紀の時代経験そのもののなかにすでに提起されている」(12p)はずだ。だから私たちは、その歴史をしっかり学び直すことを通じて、これからの血路を切り開くしかないのだろう。


♪黄金の大判小判の隙間からまたしてもこぼれおちるほんたうの幸福 茫洋

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