Monday, May 18, 2009

上野榮子訳「源氏物語第八巻」を読んで

照る日曇る日第258回


私のように平安時代の日本語に不案内な読者にとっては、紫式部の自筆原稿を自力で読みこなすことなど到底できません。そこでやむなく翻訳書に手を出すことになるわけですが、これが訳者によって読後感がまるで異なるので、いったいどれが本当の紫式部のコンテンツにもっとも近いのかとおおいに面喰います。

しかしそもそも翻訳とは、翻訳者が原作者になりかわって作品を解釈する行為です。いわばイタコが原作者に憑依するような過程をたどってその言霊を私たちに表白するわけですから、谷崎にせよ与謝野にせよ、その内容が違ってくるのは当然といえましょう。
私たちはイタコたちの憑依や言霊のバリエーションを楽しむことが許されるわけです。

ところでそのイタコにも理数系のそれと文系のそれがあって、文法学者などが手掛けた翻訳は前者、文学者などによる翻訳は後者がおおいようです。前者は主語と述語、修飾句などが明確に指示されているかわりに、日本語としての表現が未熟で情緒に欠けるという短所があり、後者はその反対であることがおおく、いずれにしても帯に短し襷に長い隔靴掻痒、皮肉の嘆が消えることはありませんでした。

谷崎なども語学に自信がなかったので国語学者山田孝雄の校閲を仰ぎながらはじめて彼の源氏物語を世におくることができたのですが、通読していてときおり「主語=主体」があいまいになるくだりがあります。しかしそこは大谷崎一流の清濁併せ呑む文体で情趣豊かに切り抜けるのです。

このような行き方は、フランスの詩人ランボーの詩を大胆不敵にも昭和の初期に翻訳した中原中也や小林秀雄にも見られる「文学的な強行翻訳突破法」といえましょう。誤訳だらけの同じ詩句をたとえば宇佐美斉、鈴村和政の手になるものと読み比べてみると到底同じランボーとは思えないほどの違いです。(ただしどちらが詩人の詩魂に近いかはまた別の問題です)

前置きが長くなりましたが、上野榮子さんによる源氏の現代日本語への翻訳は、この理数系と文系のバランスがとてもうまく取れた点がなによりのお手柄ではないでしょうか。最終巻の第8巻では悲運のヒロイン浮舟が薫と匂宮の板挟みとなって苦しんだ挙句、宇治川に身を投じるという緊迫した場面が描かれています。

しかし「手習」の帖をつらつら眺めていても、彼女が自らの意志で投身、入水したという記述はどこにも現れず、この事件の真相が宇治三姉妹の長女(総角、大君とも)を血祭りにあげた物怪の殺意によるものであることがこれほど明確に印象付けられる翻訳書はなかったのではないでしょうか。

本文の中で浮舟が自分で述べているように、入水を実行できずに呆然としているところをまるで匂宮のようなイケメンが突然やってきて体を抱き上げられ、そこで意識を失ってしまったわけですから、結局「入水」は実行されなかったのです。

さらに調子に乗って書いてしまいましょうか。どの翻訳においても、薫が浮舟を発見して再び恋の炎を焦がすところで突然全巻の幕を閉じてしまうわけなのですが、本書ほど「宇治一〇帖」が“未完の傑作”であることを雄弁に物語っている翻訳本はないとも言えるでしょう。
紫式部はこの続きを書こうとして書けずに世を去ったに違いない。と本書を読めば誰しも確信するはずです。

♪この頃は激減したときく雀らを見かけし朝は声をかけてやる 茫洋

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