Friday, November 30, 2007

♪2007年11月の歌

♪ある晴れた日に その17

学校の帰りの電車で歌いつつ踊る少女を好ましと見る
天高く鳥に告げたり残し柿
何事もなき一日ではなけれども何事もなく今日も暮れたり
斑鳩の法隆寺より柿届く子規が好みし美味しその味
柿食えど鐘は鳴らずに喰らいけりその法隆寺より送りこし柿
鐘ひとつ聴こえぬままに喰らいけりかの法隆寺より送りこし柿
バーキンにもらった飾りでクリスマス
大地震来たれば山のこの芝を燃さば大丈夫とわが妻は言う
よろばいて地低く飛ぶやヤマトシジミ
すれすれに籬の上を越えていくヤマトシジミの後姿よ
人知れず灰色の歌をうたうなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
低き声で過ぎし昔を偲ぶなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
ソット・ヴォーチェで過ぎし昔を歌うなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
障碍者の介護に追われし三十年まだ海外に行けぬわが妻
プールには死体がひとつ浮いている
鎌倉や私の好きな古い家
鎌倉やカメラを禁ずる寺院あり
鎌倉や会うのは老人ばかりなり
瑞泉寺節子が棲みし庵あり
鎌倉や家建てる人こぼつ人
ジャックタチによく似ていた今は亡き僕の鎌倉の伯父さん
あらホントでもそんなことどうでもいいのよ
五の指を綺麗に伏せて眠る妻
人を怒鳴り黒き胆汁流れ出す
わが怒り黒き胆汁流れ出す
累々と死骸並ぶや秋の道
立冬や犬の絵を描く男あり
立冬の夜に死にたる屁こき虫
鳴きながら死んでしまった油蝉
油蝉ムンクのように叫んでいる
丸ビルをダイナマイトで爆破して元の姿に建て替えるべし
この色とこの形に惹かれてかすべての人は烏瓜盗む
何故にそなたは烏瓜に手を伸ばす橙色の卵に惹かれて
80にも90にもなりて自らを僕と書ける人の図太き神経
さびさびと霜月朔日にセミが鳴く
妻子去り寡暮らしの家ありて2階の窓にベゴニア咲きたり

Thursday, November 29, 2007

続・NHKが好き

♪バガテルop30

 昨日NHKには多少の知性があるが、民放にはそれもなくて痴性しかないと暴論を吐いた。しかしそれにはそれなりの原因がある。ドラマにせよ、ニュースにせよ、NHKと民放では制作費のスケール、そして制作費の大元である経営母体の売り上げが違うのである。

例えば民放首位のフジテレビの06年度の総売り上げは5826億、日テレ3436億、テレ朝2511億に対して、NHKは単体でも6432億、これに加えてNHK子会社は2310億の受信料収入予算をもって世間のよいこの皆さんに純良番組を提供している。
だから、その大半が民間企業からのCM収入に依拠している民放が、もしも本気でNHKの大河番組やスペシャル番組に挑んでも、はなから勝てるわけがないのである。

 もしも民放がNHKのような「世のため人のためになる番組?」を真剣につくったとしても、テレビを玩具にしながら自らも資本のペットと化しているあほばか大衆の視聴率は取れないし、取れなければ売り上げが減って会社がつぶれてしまうので、民放はますますあほ馬鹿番組の制作に血道をあげ、かくて我ひとともに文字通りの白痴となって亡国の道を疾走するしか能がないのである。

スポンサーと巨大広告代理店だけが神様である民放には、そもそも表現の自由も真実を追い求めるジャーナリズムもへったくれもはなから存在せず、普通の企業と同様の単なる熱烈な利益追求会社であるにすぎない。その点では、南京虐殺番組ひとつをとっても政府御用達のNHKのほうがまだましなマスメディアである。

聞けば、NHKの番組受信料が高すぎるからもっと安くせよ、と総務省の役人が迫っているようだが、私は年間1.5万円くらい払い続けても構わないからNHKはあまり視聴率を気にせず、いまのままでそれこそ粛々と番組つくりに精出してほしいと思っている。

問題は、あほばか番組に狂奔する民放である。

NHKは有料だが民放は無料だと思っている人がいるかもしれないが、トンでもない。06年度のテレビ広告費2兆円の実態は、すべてトヨタやサントリーや資生堂やソフトバンクなどの大企業の広告宣伝費であり、その膨大な経費の大半は、私たちが購入するカローラやウーロン茶や白つばきや携帯の価格に全額転嫁されている。

では具体的にどれくらいの金額なるのか計算してみよう。
さきほど述べたように06年のテレビ広告費はおよそ2兆円、これをわが国の総所帯数約5000万で割ると1軒当たりおよそ年間4万円を私たちは身銭を切って負担していることになる。ちなみに現在あほ馬鹿民放局は東京だと5局あるから、われらあほ馬鹿視聴者は、1局あたり年間8000円も投じてあほ馬鹿番組の制作に全面協力していることになる!

このように民放のあほばか番組は、私たちのとぼしい財布のお金を原資として、どこの誰とも知れないあほばかプロぢゅーサーとその奴隷的抑圧のくびきにあえぐ低賃金労働者たちがせっせせっせと製作しているのだから、私たち納税者ならぬ第1次スポンサーは、もっと声を大にして彼らの視聴率第1主義と拝金主義、ならびにその非人間性と低俗性と死に至るニヒリズムをテッテ的に攻撃し、「私たちが本当に見たい番組」をつくらせるようにダンコ要求するべきなのである。っっと。

もっとも「その私たち」が本当に見たい番組が、あの「オーラの泉」や「ズバリ!言うわよ」であるならば、それこそ「なにをかいわんや」なのですがね。


♪天高く鳥に告げたり残し柿

Wednesday, November 28, 2007

NHKが好き

♪バガテルop29

私は何を隠そう民放テレビ大嫌い、NHK衛星放送大好き人間である。その理由はいままでさんざん民放テレビで放送される番組、ではなくて、その番組のおまけで放映されるCMをさんざんつくってきたので、もうCMなんか二度と見たくもないからである。

CMのない番組といえばNHKしかない。そこで朝から晩までNHK、特に衛星放送のニュースと大リーグ野球と海外ドキュメンタリーとよいこの童謡とちりとてちんとFMと映画とクラシック番組を鑑賞し、あとの2種類についてはすべて録画してDVDに収めている。
恐らくその大半は墓場の中でゆっくり鑑賞することになるだろうが、それがまあ私の唯一の趣味といえば趣味である。

私はニュースもCMがみだりに乱入しないNHKの、とくに衛星第一放送の定時放送を好む。理由は第一に私の好きな冷たい美貌のひらゆき姫が出てくるからだが、美形の女子アナにかまけているのは民放も同様だから、この点ではあまり大きな違いはない。思えば80年代のテッド・タナーのCNNがこの素敵な悪趣味を先導したのだ。

理由の第二は、NHKが報道価値が高いと彼らなりに判断した価値観の順番にしたがって、つまり重厚軽薄の濃度の順に、それなりの報道人らしい秩序と規律をもって、事実だけをたんたんと普通の日本語でアナウンスするからである。

多くの民放テレビのように、ニュースと娯楽、犬と猫、味噌と糞とを混同したり、脳天を直撃するような金切り声(特にフジテレビの女子アナ)で絶叫したりしないからである。

番組の最中に食事をしたり、セックスしたり(はしないか)、実際にはその場にいないはずの人物の品格皆無の馬鹿笑いが聞こえたり、いったいどこが面白いんだか食えないメニューを美味そうに食うという虚偽を演出してぬか喜んだり、「実食!」などと奇怪で醜い造語を乱発したり、平気で漢字を間違えたり、それを絶対に訂正してお詫びもしなかったり、ナレーションの7割を体言止めにしたりしないからである。

そして第三に画面のレイアウトが、きれいとまでは言わないが、まずは普通でおとなしいからである。民放の白髪3千丈風の扇情的なテロップ、まずい食い物をマイウーとうなり、腹の中では驚いてもいないのに、ウソオーとおどろいて見せ、まともな情報は皆無でもこれでもかこれでもかと羊頭狗肉を叩き売り、朝のテレ朝の時刻表示の人を馬鹿にしているような異様な大きさを見よ!

民放のほとんどの番組は、私のような棺桶に片方の足を突っ込んでいる超保守的視聴者にとっては糞であり、奇体なガジェットであり、空虚なごらくであり、文字通り無意味な、死せる映像と音声の氾濫である。こんなもん全局今日の午後に突然なくなっても、おいらはちっとも構わないぜ。

ではあるが、しかし民放がぜんぜんだめかというとそんなこともなくて(笑)、先日ビートたけしが主演する松本清張原作のテレビドラマ「点と線」を見て、久しぶりに面白かった。

 昔原作を読んだときには1番線から15番線の間に4分間だけ見通せる時間帯があると思っていたのだが、13番線から15番線だというので、それなら40分くらい空白の時間があったのではないかと思ったりしたが、それもやはり私の寄る年波にせなのであろう。

しかし惜しむらくは演出がまるでゆるかった。音楽もおざなりであった。あれだけ制作費を投入するなら、せめて霊界で暇をもてあましているだろう野村芳太郎とか内田吐夢に演出させ、伊福部昭か武満徹に曲をつけさせたかったと思うのは、私だけだろうか。

Tuesday, November 27, 2007

吉本ばなな著「まぼろしハワイ」を読む

照る日曇る日 第76回

「だってさあ、天国に行っても、きっとお酒は飲めるし。でもそこにはきっと順番はないの。きっとさ、思ったことがさっと叶うんだよ。父さんと母さんはそういうところにいるの。きっと。まわりの空気がゆっくりと甘くて、包まれてるみたいで、ハワイみたいなところだよ。こんなところに行きたいと思ったらひゅっと行けるし、私たちの顔が見たいと思ったら、すぐに来れる。順番はないんだよ。そこには。靴をはくにはひもを結ばなくっちゃってことはないのよ。きっと。」
姉さんは言った。(同書p167)

著者の日本語は、いつものようにわれらにしみじみとした滋味豊かな世界を髣髴させてくれる。登場人物の表白のあとに、どの人物がその主体であるかをあえてことごとしく明示する文体もそれなりに個性的であり、最近朝日新聞での連載が終わった萩原浩?の座敷童子?やその後で始まった長島有?の(私にとっては)たったの1行すら読むに値しない小説の無残な出来栄えに比べれば、まるで月とスッポン、雲泥の違いである。


それはともかく、両親自殺や交通事故で奪われ、地上に残された子供たちが死者を忘れるために訪れ、しかし死者の思い出に引きずり込まれ、最後に再び死者たちの記憶から解放されて新しい人生に旅立っていく。それが常世の國ハワイである。らしい。

私はまだ一度も行ったことはないが、著者自身にとっても、ハワイはこの世の天国であり、もしかするとこの世とあの世をつなぐ生と死の通い路なのであらう。

たしかに南国には無数の精霊がいるだろう。しかし著者は1941年に死んだ真珠湾の兵士たちの亡霊の存在だけは都合よく忘れてしまっているようだ。

私はハワイと同様グアム、サイパン、ロタなど今なお祖霊彷徨う戦死諸島に、なんら心のひっかかりさへ感じないであほ馬鹿観光に行く日本人が大嫌いだ。

しかし、世の中にはいろいろな障碍があって海外旅行など一生できない数多くの人たちがいるというのに、思いついたらハワイへ「ひゅっと行ける」人が超うらやましいな。

それにしても、ばななはどうしてこうも親を死なせる小説を書くのだろう。もしかしてファーザーズコンプレックスの持ち主なのだろうか。

ふたたび本書の引用をして終わろう。

「飲みに行ったとしましょう。居酒屋に行く、座る、マスターに挨拶、メニューを見る、飲み物から決める、相手がいたら相手とおつまみを相談する、そして注文して、それがひとつずつ来て、食べる。それが生きてるってこと。死んだらできない唯一のこと、つまり順番を追ってきちんと経ないと進まないってことだけなのよ。現実は。」
姉さんは言った。

Monday, November 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第23回 前田先生

遥かな昔、遠い所で第45回

若い日の私に一番影響をあたえたのは前田先生であろう。先生は日毎に軍国主義になって行く事への不安と批判を語られた。そして私が感じている家の宗教としての基督教への不満にこたえてくれる、唯一の人であった。

 作文は新任の横田先生が来られ、前田先生は本来の歴史の先生に戻られた。
 横田先生は前田先生のようには心酔出来なかったが、私がだんだん万葉集にひかれていったのは、この先生の影響であったろうか。時々先生は酔ったように万葉の歌を詠じられた。

 大本教弾圧につづいて、2、26事件、そして日中戦争と、大きな事件が一番感じ易い時代に次々と起こった。しかし私は幼い時からの基督教的な影響や、物事を冷静に正しく見る目を前田先生に養われていたから、時流に流される事はなかったと思う。前田先生に学ぶ歴史教室は一般教室から独立していたから、遠慮なく時局の動きに就いても正確に話してもらった。

 年号の暗記は意味のない事だ。教科書に書いてある事は自分で読めば分る。歴史の勉強とは、正しい目で事件の本質原因を究明し、結果を勉強する事だと教えられた。教科書問題を裁いた今の裁判官にもきかせてやりたい言葉だ。
その間には、京都でみて来た洋画の事や、新刊の本等の事も面白く語られ、いつも実に新鮮で興味深かった。先生の時間は楽しみで、みんな生き生きと、目をかがやかせて聞き入ったものだった。

 時局柄そうせねばならなかったのであろうが、校長先生以下国粋主義を高揚される先生方の中にあって、前田先生は全く異色の存在であった。
 先生は独身で長身、音楽が好きで、すべての点でみんなの憧れの的であった。時には孤独な身の上を語られた。また若い日に病を養いながら、日蓮宗に夢中になり、禅宗に凝り、
プロテスタントからカトリックへと動いた心の遍歴をも語ってくださった。

 信仰は与えられるものではなく、自ら求めるものであると思い、幼い日からの自分の信仰に贅沢な悩みを持っていた私は、かたくなな心がとききほぐされてゆくようなものを感じた。
先生は悩みを聞いて解決策をあたえるのではなく、聞く事によって心の重荷を軽くして下さる方であった。「病弱な自分は二十九歳まで生きられたら充分であると思っている。」等と話されると、同情も加わって、先生の人気は尚上昇した。


♪もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

♪おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

Sunday, November 25, 2007

ある丹波の女性の物語 第22回 大本教弾圧事件

遥かな昔、遠い所で第44回

 一番小さい店員さんが、満豪開拓少年団に入隊していったのもその頃だった。
 女学校でも毎朝、朝礼で軍時色の濃い歌を斉唱するようになり、月の何日かは日の丸弁当を持参するようになった。日中戦争が進展し、占領のたびに提灯行列が行われた。

 しかし女学校時代の一番強烈な事件は、やはり昭和10年12月の「大本教弾圧事件」であった。
 夜明け前に突然物々しい警察の機動隊が大本教本部を襲った。町民は何の事かと分らないまま物すごい足音に目をさました。

 通常どおり女学校の授業は続けられたが、すぐ近くで行われるすごい破壊力には肝をつぶした。五重の塔の屋根も大音響と共にサカサにひっくり返り飛んでしまった。すべての建物はこわされて行った。私はその地響きと、恐ろしさを身近で体験した。

 その頃、大本教は本宮山に十字型の長生殿を建設中で、王仁三郎さんは駕籠で上がり下りしていた。教祖は市の瀬に土まんじゅうのような墓所にまつられていたが、不敬罪という名のもとに弾圧が行われ、教主、信者多数が投獄されていった。
あまりのすさまじさに、言葉もなかったが、何だかとても大きい権力が、おおいかぶさって来るような恐ろしさを感じた。

♪花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

♪なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

Saturday, November 24, 2007

ある丹波の女性の物語 第21回 金丸先生

遥かな昔、遠い所で第43回

 近くのお菓子屋さんに下宿していた作文の金丸先生は、ずんぐりしてみかけは悪かったが、私を可愛がってくれた。

作文の研究発表会というのがあり、府下の先生達の教材に私の作文が選ばれた。橋立への修学旅行の感想文だったと思う。私はその頃かぶれていた吉田絃二郎風に書いたので、テレくさくて「どんな気持で書いたか」と言う問いに、しどろもどろになり、何と答えたのか分らなかった。

金丸先生は一年の三学期の初めに、大阪城の資料館の館長になり綾部を去られた。ニコニコした丸い顔と、マグロのさしみのような唇が印象的だった。

 その後任に前田先生が入って来られた。初めての授業の日、教壇をうつむいて動物園の熊のように行ったり来たりされた。「この新米先生、テレてるな」小さくて前列に並んでいた私はそう思った。
 これが前田先生との初めての出会いであった。

 満州国の建国もあり、世の中は動き出しているのに、私達はあまり関心がなく、友達と宝塚に夢中で、福知山線で宝塚歌劇をよく観に行った。男装の麗人、小夜福子と葦原邦子が人気を二分していたが、私は一寸しぶい汐見洋子が好きで、当時騒がれたターキー等はわざと観にいかなかった。

 父はチャップリンの「街の灯」とか、新劇の「綴方教室」「オーケストラの少女」とか、話題に上がるようなものは京都へ観に連れて行ってくれた。またヘレンケラー女史の講演会にも、学校を早退させ大阪の扇町教会で一緒に聞いた。


♪なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

♪わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

Friday, November 23, 2007

エドワード・ラジンスキー著「アレクサンドルⅡ世暗殺」を読む

照る日曇る日 第74回

ロシアを代表する人気作家エドワード・ラジンスキーが書いたロマノフ朝第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世の治世とその暗殺を描いた、上下巻あわせて750ページのドキュメンタリー超大作である。

ロシア文学は好きだが、ソ連とかスターリンとか日ソ不可侵条約の侵犯とか、この國の暗くて寒くて陰湿きわまる国家社会の内幕には、ロマノフ朝も含めて興味も関心もなかった私だが、読んでみると非常に面白かった。

そもそもロマノフ王朝はそれまでの混乱と対立に終止符をうってかのピヨートル大帝が1682年に創生したというのだが、1725年大帝の死後この偉大なる王朝を継いだエカテリーナ1世の前身は、なんとバルト海岸に住んでいた美しい料理女マルタであるというから驚く。

エカテリーナ1世の死後、当時全権を掌握していた近衛兵に担がれて帝位を継いだのは、そのエカテリーナ1世の娘エリザベータであったが、彼女はピヨートル大帝の子ではなく、マルタの夫の子であった。
エリザベータは自分の甥を皇位継承者に任命し、このピヨートル3世に妻となるドイツの公女エカテリーナ2世を娶わせた。しかし勇猛な近衛兵アレクセイ(および近衛兵軍団)と結託したエカテリーナは、気弱な夫を暗殺して彼女の王朝を独占した。2人の間に生まれた皇子パーヴェル1世はエカテリーナの情夫アレクセイとの子供であったといわれる。

してみれば偉大なるロシア史に燦然と輝くロマノフ王朝には、じつは無名の料理女の好色な血が脈々と流れてきたことになる。ロマノフ王朝打倒を目指したデカブリストたちはこの王朝の世紀の秘密を知っていたのかもしれない。

それはともかく、この本を読むと、夭折した天才プーシキンをはじめ文豪ツルゲーネフオブローモフ、トルストイ、チエーホフ、そしてドストエフスキーが生きて愛して死んだロシアという國の文化的風土というものがなんとなく分かったやうな気になる。

さうして嘉永の黒船来航から明治維新を経て西南戦争後の、つまりは日露戦争にいたるまでのこのロシアという大國を覆っていた封建制、政治的専制、農奴制、社会的後進性などの重苦しい風圧を体感することができる。やうな気がするのである。

さらには、農奴制を廃止しただけではなく、憲法発布にも鋭意取り組んでいた「英明なツアーリ」アレクサンドル2世が、自らの保身のためとはいえ、なぜ自らの首を絞めるような進歩的な自由化改革を進めたのか、さうしてその結果ナロードニキの台頭を許し、彼らの決死的自己犠牲と革命的テロルの犠牲となって王座を血まみれにして哀れな最期を遂げるにいたったかが、私の黄昏色の薄ぼんやりした脳みそにもかすかに理解されてくるからまっこと不思議である。げに恐ろしきロシアン・ドキュメンタリズムの勝利というべきか。

アレクサンドル2世は、6度繰り返された暗殺の魔手をそのつど間一髪逃れてきたが、不撓不屈のテロリストの通算7回目の企てによって、占い師の不吉な予言どおり明治14年(1881年)3月1日ついに暗殺された。

その朝必死に外出を止める新婚で最愛の皇妃エカテリーナを「公邸で陵辱する」ことによって沈黙させ、彼は死出の旅に出るのだが、最初のダイナマイトの爆発からかろうじてまぬかれたにもかかわらず、他の複数のテロリストが待機している現場を立ち去ろうとせず、ついに2度目の爆発の犠牲者となってしまう道行は、さながら飛んで火にいる蛾のように不可解であり、もう少し賢明に振舞っていれば、隻脚を失ったとしても恐らく一命を取り留めていたに違いない。

この日皇帝のおびただしい出血で血まみれになった冬宮の大理石の廊下と階段を、靴やズボンを祖父の血で汚しながら連れてこられた13歳の少年がいた。
その少年ニキは、おびただしい血の中で皇太子ニコライとなり、成人して大津で日本の巡査のサーベルで血にまみれ、そして1917年に真っ赤な血の中でロマノフ王朝最期の皇統を絶たれるのである。

当時アリーヨシャがテロリストとなる「続カラマーゾフの兄弟」を執筆していたドストエフスキーは、アレクサンドル2世が暗殺されるわずか2ヶ月前に亡くなった。
書斎で落としたペン軸を拾おうとして重い書棚を強引に動かしたために血を吐いてその完成を見ることなく、あっけなく死んでしまったのである。
ドフトエフスキーの部屋の隣には、暗殺の実行犯たちのアジトがあり、晩年の作家はテロリストたちと交流しながら続編の想を練っていた、と著者はほのめかすが、それは恐らく眉唾だろう。

しかし著者が記録するドフトエフスキーの最期の姿は、皇帝アレクサンドルの最期と同じように私たちの胸を打つ。
死の当日、彼は流刑されたデカブリストの妻たちが昔彼に贈った福音書をアンナ夫人と息子のフェージャに差し出し、有名な「放蕩息子の寓話」を声を出して読むように頼んだ。   そしてそれが終わると、彼はこう言った。

「子供たちよ、ここでたったいま聞いたことを決して忘れてはならない。主に対する一途な信仰を守り、主の許しを決してあきらめてはならない。私はお前たちをとても愛している。しかし私の愛も、主がみずからおつくりになったすべての人々に対する無限の愛と比べると、無も同然だ。忘れないでほしい。お前たちが生きているうちに犯罪に手を染めることがあったとしても、それでも主に対する希望を失ってはならない。お前たちは主の子供であり、お前たちの父に対するように主に対してへりくだり、主に許しを乞いなさい。そうすれば主は放蕩息子の帰還を喜んだように、お前たちの悔い改めをお喜びになるだろう」

ドストエフスキーが死んだというニュースは、瞬く間にペテルブルグ中を駆け巡り、彼の住居はまさに聖地巡礼の場になった。さうして死んだ作家の顔に見えるのは死の悲しみではなく、よりよき別の生の曙光だった、と伝えられている。

Thursday, November 22, 2007

ある丹波の女性の物語第20回女学生時代

遥かな昔、遠い所で第42回
 
「大学は出たけれど」と言う言葉が、流行語になるような就職難時代がやって来たけれど、私は相変わらず暖かい家庭に包まれていた。お茶の稽古に行き、初釜と云うと訪問着や絵羽織を作ってもらって喜んだりしていた。

 春には両親と揃って醍醐の花見に行き、黄檗山で普茶料理をいただいて、夜は都踊りを楽しむような何年かが続いた。父には絶対服従の母の楽しみは十二月の顔見世見物で、昼夜通しで見たあと、翌日は岡崎へ文展を見に行くのが恒例であった。

 私は昭和8年4月、京都府立綾部高等女学校へ入学した。近在から入ってくるのは村長さんか、郵便局長さんの娘さん位で、小学校の同じ組からも10人もいなかった。
 後で知った事だが、同級生の中には500円で芸者の見習いに売られた子もあったという。その頃、女学校の授業料は年間35円位、寄宿舎は1ヶ月食事を含めて10円だったと思うが、授業料の催促で事務室へ呼ばれている人もあった。先生も余っていたようで、文系の先生は京大大学院出の優秀な先生であった。

 不景気風と共に軍国主義が徐々に強まって来たがまだまだのんびりした時代であった。夏休みには丹後の小天橋に学校の臨海学舎が開かれ、私も参加して泳ぐ事を覚えた。夜になると浜辺の松林をうなりを立てて風が吹き荒れた。生まれてはじめての親と離れての経験だったが、夜はキャンプファイァーに興じたりした。友達同士の1週間は楽しかった。

 12月23日は街に待った皇太子誕生で、みんな素直に喜び、行動で「皇太子さまあ、お生まれえなした」という歌を斉唱した。


万葉植物園にて棉の実を求む
♪棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

♪いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

Wednesday, November 21, 2007

長楽寺跡を偲ぶ

鎌倉ちょっと不思議な物語90回

長楽寺はかつて長谷211番地から225番地にあった廃寺で、文応元年1260年の大火事で焼けたそうだが、その場所は、つい先日まで中原中也展が開催され、その庭園に秋バラが咲き誇っていた鎌倉文学館のすぐ傍にあった。

『鎌倉志』によればこの寺には法然の弟子で隆寛という僧が住んでいたという。『日蓮聖人御遺文』『日蓮上人註画賛』に、日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がこの寺にいた、とあるのは、この隆寛のことではないだろうか。

以上は主にわが枕頭の書『鎌倉廃寺事典』をからの孫引きだが、もっと耳よりな情報がある。それは昔むかし、この文学館の入り口の小さな寿司屋で、若くして亡くなった人気女優Nと流行作家のIが夜な夜な逢引していたそうな。

このI氏はまごうかたなき短編の名手であるが、長編は苦手である。というのは彼は一刻も早く連載を終えて賭け事や遊びに飛んで行きたいので、あまり長くなるとプロットを忘却してしまい、死んだはずの登場人物が突如現れたり、その逆がかなりの頻度で起こる。

これは実際私が週刊新潮の連載で体験したことであるが、読者はみんな忙しい。昨日の新聞や先週の週刊誌などをひっぱりだして再確認する暇人などおそらく1000人に一人もいないだろう。それに、そもそも小説など真面目に読む人などほとんどいないので、登場人物が死のうが生き返ろうがどうでもいいのである。

そんな次第でI氏には本人にも復元が難しい数多くの幻の長編小説があるらしい。廃寺事典ならぬ廃文事件である。

Tuesday, November 20, 2007

ある丹波の女性の物語 第19回

遥かな昔、遠い所で第41回

 座敷が新築されてから、基督教の伝道に来る先生方の宿を進んでするようになり、賀川豊彦先生は5、6度も泊まられ、その他本間俊平先生など多数の先生方が宿泊された。
 今の世も何かを求める時代と言われるが、当時賀川先生の講演会等は、公会堂も超満員で、その場で受洗希望者が聴衆の中から沢山進み出た。

先生は燃えるような人であった。胸を病んでおられたから、いつも柱にもたれていられたが、睡眠時間は短く、祈りの人でもあった。父は冷静な学者タイプの先生より、行動派の先生に傾倒したようである。
今の生協の基となった「生活協同組合、共益社」を作り、父は組合長になり、日常生活品や賀川服等も一時売っていたように思う。

 私には幼児洗礼を受けさせ、物心つく頃から日曜学校に通わされたが、いつも何となく批判的で、父の祈りにこたえる事の出来ないような子であった。何か悪い事をすると親に詫びる前に、祈って神に許しをこわねばならぬのには閉口した。教育にも熱心で、玉川学園の小原国芳さんの教科書を取り寄せたり、小学生全集も揃えてくれたが、病後ハネ廻って遊ぶ事の出来なくなった私は、自然隣の本屋に入りびたり、本屋の小母さんに可愛がられることを良い事に、列んでいる雑誌を興味本位に読みまくった。

少女の友、主婦の友、婦人倶楽部、婦女会等の小説それに新青年、宝石等のミステリー物が大好きであった。牧逸馬などが当時の流行作家で色々のペンネームを持っていた。とにかく手当り次第で、何かで見た中勘助の「銀の匙」に感激したり、吉屋信子は美文調で甘すぎる等言って小母さんを苦笑させた。芥川竜之介も大好きで、自殺に憧れたりした。

 履物店は製造を止めて母の仕事となり、店員5、6人、お手伝いさんは行儀見習いのお姉さんが1人か2人いてくれた。けれど仕入れだけは父の仕事で大阪の問屋へよく連れて行ってくれた。

日曜日に行くと、午前中は大阪の教会で礼拝を守るのには不服であったが、昼食はレストランやホテルでフルコースの食べ方を教えられる事もあり、心斎橋の洋服店のウインドに出ている流行の服も買ってくれた。

 戦争前の履物問屋街は、実にひどい所が多かった。今はすっかり焼けてその面影もないが、種類によっては被差別部落の問屋のある裏通りへも行った。父はどんな店へ行っても態度を変えず、パリッとした背広で、きたない座ぶとんに腰かけ、差し出されるお茶もおいしそうに飲み、私にも飲ませた。

♪かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり  愛子

Monday, November 19, 2007

ある丹波の女性の物語 第18回

遥かな昔、遠い所で第40回

 4年生の頃と思うが、夏休みの後半の夜中から私は40度を越す高熱がつづいた。何人もの医師をかえても熱は下がらず、医師の合議の結果、腎盂炎らしいという事になり、頭とおなかを冷やし、絶対安静の一ヶ月を送った。

その頃は今のように抗生物質の薬品がなく、そうするより療法がなかったのである。窓に西日が射しはじめると、ああ又熱が出るのかと悲しかった。その後京都の病院で、自分の尿から自家ワクチンを作ってもらい、長い間注射に通った。二学期の殆どを休みそれ以後、急激な運動は出来なくなった。

 父は一日中忙しく過ごす人であったが、忙中閑ありと云うのか、若い頃から俳句をたしなみ、句会で選に入り碧梧洞の「槻(つき)(トネリコ)の根に巣立ちして、落ちている」という軸をもらっている。何だか変な句と思うが、前田夕暮さんに師事していた隣の本屋の小父さんも、字がサカサになったり、斜めになるような詩を作っていたから、そういう時代だったのかも知れない。

童謡を作る事もはやったようで、私も作文の後の頁に童謡らしきものを、よく書いた覚えがある。父は書画骨董にも興味があり、丹波焼をも収集し、佐々木ガン(我)流と称して投げ入れを楽しんだ。

謡曲、仕舞も宝生流をよくし、私と一緒に入浴すると、羽衣や西玉母をうたってくれた。私も仕舞の手ほどきを受けたが、父の多忙というより、私の不熱心でいつ頃か止めてしまった。先日テレビの「謡曲入門」で一寸真似てみたら、案外すらすらと自然に声が出るのには驚いた。

 父は政治運動にも感心があり、土地の民政党の代議士を応援し、選挙になると、町田さんとか若槻さん等に選挙資金をもらいに行った。金銭に対しても皆から絶対の信頼があったからである。 
当時、政友会と民生党が二大政党で、選挙に負けた方の違反が摘発され、警察署長もその結果で更迭された。昔の議員は井戸塀と言い、自分の全財産をなげうって選挙を戦い、私欲を肥やす事はなかったように思う。昔日の感がある。

犬養木堂さんも丹波へ来られたようで、自筆の額が今も家にある。
 父は自分自身も町会議員選に出、郡是社長、大本教幹部に続いて第3位で当選した。当選の夜の異常な興奮と華やぎを今も思い出す事が出来る。私は選挙の不思議さと面白さを、小さい時から冷静に眺めていたようである。

♪子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人  愛子

Sunday, November 18, 2007

ある丹波の女性の物語 第17回

遥かな昔、遠い所で第39回

 父の訪米は父自身の人生の一大転機となった。機を見る事にさとかった父は、かねてから履物業には見切りをつけていたので、アメリカ人の家庭の洋服ダンスの中の沢山のネクタイ、婦人のかつら靴下等が、その時々の服に合わせて使用されているのに驚き、これからの自分の事業はこれだと決めたそうである。

 帰国後、直ちに西陣にネクタイの製織工場を作り、資本金の多くいる靴下は、関係のある郡是製糸で作るように提言し、塚口工場が出来た。色々の曲折はあったが、ネクタイ会社も郡是と同じ基督教精神を基とし、京都に工場、大阪に本社、東京八重洲口にも支店を、後には上海にも出張所を持つまでになった。

 翌昭和4年5月、家の改築をする事になり、裏座敷から始まった。座敷の天井は謡曲の声がやわらかく共鳴するようにと桐張りにしたり、炊事場は関西では珍しい板バリで、食料品の貯蔵庫として六丈位の地下室があり、水は日立のモーターで屋上のタンクに貯えられ、炊事場、風呂場、洗面所、二階のトイレ等にまで配水された。

炊事場の屋上はコンクリートの物干し場となり、当時の田舎では超モダンで、参考にと見に来る人が多かった。トイレ、風呂場のタイルも60年たった今も健在で、昔の職人の入念さが偲ばれる。
 三階建ての店舗の設計図も残っていたが、母がすっかり疲れ切ってしまい、中断のままになってしまった。

 その年にはアメリカから親善人形が送られ歓迎の学芸会が行われた。それぞれの生徒も市松人形を持ち寄り、西洋人形と一緒に飾り、その前で私もお遊戯をした。

 綾部にデパートが出来たのもその頃と記憶する。町の呉服店3軒が合併して出来たのである。鉄筋コンクリート三階建て、その上に展望台もあった。京都府下では最初の百貨店である。中々繁盛し、日曜日等には郡是製糸神栄製糸の女工さん達で賑わった。

三階には催場があり、何の宣伝だったか市丸さんも来て、歌ったり踊ったりしたのを思い出す。勢いにのって福知山にも、エレベーターのある支店まで作るようになった。

♪うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむる 愛子

Saturday, November 17, 2007

ある丹波の女性の物語 第16回 小学校時代

遥かな昔、遠い所で第38回

 「しょうわあ、しょうわあ、しょうわのこどもよ、ぼくたちわ」

歌いながら一年生の私達は、運動会でお遊戯をした。
 昭和元年は年末の僅か6日間で、昭和2年になってしまったのである。

 その年に丹後大地震が起こった。丁度、店員さんに交じって夕食を食べていたら、電灯が「パタッ」と消え「グラグラッ」と大揺れが来た。気がついてみたらお箸をにぎったまま、番頭の兼さんにおぶさって新開地の方へ逃げていた。紫にピンクの椿柄のメリンスの羽織を着ていたから冬だったと思う。その晩は何回も余震があり、店の表にむしろを敷き火鉢を出して、大人は寝ずの番であった。

 城崎方面の被害は甚大で、家屋全壊の報が入り、丹陽教会では慰問品をつのり、父も大きな袋をしょって被災地へ出かけて行った。温泉にはいったまま死んでいる人もあったそうであるが、それについては父は多くを語らなかった。生まれてはじめての恐ろしい出来事であった。

 翌3年、春休みに両親と揃って別府温泉へいった。大阪の天保山から船に乗って出かけた。瀬戸内海の島々が見えかくれして絵のように美しかった。日本海は橋立とか高浜へ海水浴に行きよく知っていたが、陽光に光る瀬戸内の海の色や、松の美しさにどれほど感動した事か。温泉めぐり、砂風呂も楽しかったが盆地育ちの私には、船の展望台から見たあのきらめくような明るい瀬戸内の波の美しさが忘れられなかった。

 同年6月、父はロサンゼルスで開催される世界日曜学校大会に、友人と二人、丹陽教会の代員として、他の教会の信者と共に天洋丸に乗って渡米した。片道2週間位はかかったと思う。60年前の当地としては大旅行であった。

世界各国の人々と大きな輪になり手をつなぎ合ったそうである。会の後、ミラーさん等の招待で各地を見て歩いたらしい。いつ帰国したか覚えていないが、帰国後は各地で招かれて講演をした。高度な文明や、建築物の事などを語ったであろうが、ナイヤガラの瀑布、ヨセミテ公園の巨大な木の事など、神の御業(みわざ)の偉大さを話したように思う。

 私にはハワイが此の世ながらの楽園であった事を語り、是非ハワイに住まわせたい等と言った。ハワイで食べたアイスクリームやハネジューが如何に美味しかったか顔をほころばせて話してくれた。
 帰ってからは、朝はオートミルか食パン。パンも大阪の木村家から取り寄せ、M.J.Bのコーヒーをパーコレーターで沸かして飲んだ。母は、ぶどう、苺、いちじくでジャムを上手に作ってくれた。

 又、アメリカの野外礼拝堂のすばらしさに感激したようで、友人と協力して、山に大きな十字架をコンクリートで作り、その麓に基督教の共同墓地を作った。イースターにはその十字架の下で昇天祈祷会が例年行われた。今は周囲の木が茂り見えにくくなったが、当時は山陰線の車中から見える十字架は偉観であった。


♪あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし 愛子

Friday, November 16, 2007

ある丹波の女性の物語 第15回

遥かな昔、遠い所で第37回

 大正15年4月、私は隣の本屋の幸ちゃんと綾部幼稚園に入園した。幸ちゃんは男のくせに色白で、よく風邪をひき、いつも着物で冬はくびに真綿を巻いていた。2人とも朝寝坊でよく遅刻した。誰も通らなくなった通学路の坂道を2人で上がっていった。坂を上りつめた所には大きな榎の木が二本立っていた。もう暫く行けば幼稚園なのである。

 2人とも教会の日曜学校へ通っていたので、その木の大きな根元に腰かけて「どうぞ幼稚園の時計がおくれていて、遅刻になりませんようお守り下さい。アーメン」とよくお祈りをしたものである。

 榎の枝の間から見える教会の十字架は、まるで額ぶちにおさまった絵のように美しかった。写生の良い材料になったが、その大木も、交互に植わっていた桜と紅葉の並木も、いつの間にか切り倒されて今はない。
 幸ちゃんも戦争に征く事もなく、20歳を待たずに急死した。

 坂の上から見晴らしのよくなった十字架を見るたびに、幸ちゃんと過ごした幼い日がよみがえって来る。

♪もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ  愛子

Thursday, November 15, 2007

ある丹波の女性の物語 第14回

遥かな昔、遠い所で第36回

 叔母の夫は、結婚した当時から妾宅に子供があった。毎晩のように出かけて行く夫を見送り、夜中に迎えねばならなかったそうで、辛抱に辛抱を重ねた叔母の発病だったので、父は如何様にしてもいたわってやりたかったのであろうが、折角の新築の家に住む事もなく叔母は天国へ旅立ってしまった。

 それから後祖父は3、4年生きていたであろうか。目は全然見えなくなり、杖をつかねば歩けなかったが、芝居見物やラジオを聞くこと、レコードで義太夫を聞くことが楽しみで、娘義太夫をひいきにしていた。

「一太郎やあい」と言うのも良く聞いた。祖父は訪れた人には「家の嫁のような親孝行者はない。優しい嫁じゃ。新聞に書くように言うて下され」とよく言っていた。それが祖父の精いっぱいの母への感謝の表現だったのであろう。

やがて祖父も中風でなくなった。3、4日の患いであった。うわ言に「らいこや、らいこや」と私の名らしい事を言った。この祖父も私を心から愛してくれていたのだろうか。

 その頃、父は教会の役員になり、色々奉仕をしていた。結婚式の仲人も夫婦で何組もつとめた。私は銀行の役員の長男、小笠原和夫さんと2人で、花束を持って、新郎新婦を先導する役であった。真っ白い不二絹にレースと造花をあしらったワンピースを作ってもらい、得意になってその役をつとめた。

 銀行は勧業銀行、百三十七銀行、高木銀行等沢山あったが、家の近くの京都銀行はその頃何鹿(いかるが)銀行(何鹿郡綾部町であったから)と言い、綾部では数少ない鉄筋コンクリート造りであった。

町では一番の繁華街の四つ角にあるので、夜になると、バイオリン弾きが来て「枯すすき」等を歌って楽譜を売った。どういう訳か赤坂小梅さんが派手な着物で、レコードの宣伝に来て歌った事もある。今のようにテレビがないので、夜の街で子供達も遊んでいた。そんなコンサート?には大勢の人が集まったものである。

 何曜日かには救世軍がやって来て、太鼓をたたいて賛美歌を歌い、“あかし”(信仰告白)をした。子供達は「たあだしんでんが来た」とみんなで見に行った。夜までよく遊んだ昔がなつかしい。

 何でも珍しいものには興味があった。琴の稽古をはじめたのもその頃であろうか。小学校、女学校のお姉さんにつれられて警察の署長さんの奥さんのところへ通った。
 琴の前に座っても先まで手がとどかず、ざぶとんを重ねてもらってやっと弾けた。数え唄、松づくし等からはじまって黒髪なども習った。

「黒髪のみだれて一人ねむる夜はーーー」などと、幼い子供が無邪気に声に出して歌いながら弾じたのだからおかしくなる。署長の転勤でお師匠さんも変わったが、六段の調べや、お姉さん達の弾いた千鳥の曲など古典はいいな、と今も思う。

♪刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる    愛子

Wednesday, November 14, 2007

友達の友達

♪バガテルop28

14日附の日経朝刊によると、法務省は来日する16歳以上の外国人に対して、指紋採取と顔画像の提供を義務付け、来る20日より全国27空港と126の港湾で実施するそうだ。新システムは特別永住者や外交官、日本国の招待者を除く全員に適用され、この措置を拒んだ外国人は入国させないそうだ。

これは鳩山“喋蝶”大好き法相の“お友達のお友達”の侵入を水際で撃退するためらしいが、私は世界で米国についで二番目にヤマト国が誇らしげに導入したこの措置に賛成しない。
というのもこうした外国人への対応は、性善説ではなく、性悪説に立っているからだ。すべての外人は警戒すべき異人であり、犯罪予備軍であり、「人を見たら泥棒と思え」という考え方に結局は基づいているからである。

その性悪説が次々に新たな敵意と反発を、さらにはそれを抑止するために創案されたはずのテロと戦争さえも生み出すことは、かつての大戦やパレスチナ戦争、相次ぐ軍拡や原水爆保有競争、つい最近の9・11同時テロに続くアフガンやイラク戦争の成り行きを見れば火を見るより明らかではないか。
つねに最初に武装する者が、次に武装する者を生むのである。

2番目の理由は、私自身がヤマト国と同じような非友好で敵意に満ちた不愉快な対応を外国の空港でされたくないからだ。お見合い写真ならともかく警備員に顔写真を撮られたり、指紋を採取されたりするくらいなら私は死ぬまで外国に行かないことを選ぶだろう。それは個人の尊厳の侵害であり冒涜である。

そのうち成田や関空に行くと、彼奴らは私のちっぽけなおちんちんも「見せろ!」と言い出すに決まっているぞ。いくらちっちゃくてもおちんちんなら見せてもいいが、ついでにオシッコひっかけてもいいけれど、指紋と写真と貞操だけは許せねえ!

私が息巻いてそういうと、「ではお前の友達の友達の中にはきっと治馬敏羅人と知恵偈原がいるに違いない」と指摘する人がきっとでてくるだろうが、何を隠そう実は彼らは私の親しい友なのだ。
だからといってヤマトに芸者遊びにやってきた2人が、私の大好きな小林旭のように

♪ダイナマイトがよお、ダイナマイトが150トン!

などと歌うわけがないだろう。
ところで、あなたの友達の友達ってみんな悪い人ですか?

さて私の最後の反対理由は、今回の措置が世界中の人間の自由を貶め、人品を卑しめるからだ。最下層遊民の私は、ヤマト国がいくら貧しくなり、人口が減り、アジアの三等国いや最低国に成り下がり、経済成長がぱったり止まってもいっこうに構わないが、ヤマト人間の根幹の矜持が腐っては困る。

かの中原中也も歌っているではないか。

♪人には自恃があればよい!
その餘はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行いを罪としない。(中原中也『盲目の秋』)

ところがヤマト国と米国は、またしても腕を組んで同伴出勤して、この人倫に悖る行為を世界で率先しようとしているのだ。この馬鹿たりが。 

テロは許されないし、容認すべきではないが、すべての外国人をテロリスト予備軍とみなすヤマト国の野蛮な措置に、私は寄る年波のその年甲斐も恩讐の彼方に投げ捨てて、断固抗議したいのですね。

さうしてヤマトは、世界の悪人と善人を等しく大切にする、世界で最も自由な國であり、できたら永世アジール夢共和国であってほしいな。

Tuesday, November 13, 2007

♪スキップする少女

♪ある晴れた日に その16

高い空から秋の夕陽が落ちてくる図書館前の路上で、少女が突然スキップしはじめた。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

そのとき、さっと母親の手を解き放った少女は、
両手を軽やかにスイングしながらイサドラのように踊る、踊る、飛ぶ、跳ねる――
御成小学校の交差点をスキップしながら走りぬけ、ほら、もう佐藤病院の前で母親が来るのを待っている。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

ジーンズのスカートに赤と黄色の刺繍が紅葉のように散り、おかっぱがつむじ風にはらはら揺れて――

そしてあっという間に、少女は江ノ電の踏み切りの向こうに消えた。
母親と一緒に見えなくなった。

私は思う。
やがて、少女は気づくに違いない。いつのまにかスキップをどこか遠いところにおき忘れてしまったことを……
そしてある朝、大人になった少女はしみじみ振り返るだろう。
その夕べこそは、生涯で最も幸福ないっときであったことを……

Monday, November 12, 2007

網野善彦著「中世東寺と東寺領荘園」を読む

降っても照っても第73回

著者の著作集第二巻に、1987年に初版が刊行された「中世東寺と東寺領荘園」が再録された。

題名の通り東寺の荘園制の歴史的変遷を、時代の推移を追って、客観的かつ実証的に執拗に追っていく。その圧巻は足掛け20年以上に及ぶ厖大な「東寺百合文書」の解読に基づく荘園内権力のありようの研究であろう。

東寺は、鎌倉幕府が成立し頼朝の支援を受けた文覚上人の活躍によってその荘園制経済と内部権力の基盤が確立された。しかし南北朝の争乱と室町幕府の成立を経て、幕府指名の守護地頭など公的権力が台頭し、かつては寺社や貴族が支配していた荘園のヘゲモニーを奪い、と同時に、荘園の内部で伸張していた供僧や農民などの下層階級の自由と権利獲得の戦いを抑圧する結果を生むことになる。

自らの立場に無自覚であった下層の民衆は、時の権力にある部分では鋭く抗いつつも、他の部分では無定見に妥協し、戦いを放棄してしまう。そのことが戦国大名による専制につながり、ひいては天皇制の存続を許す結果を生んだ、と著者はいいたいようだ。

また本書では、後醍醐天皇の建武の親政を支えた悪党たちがいつどのようにして歴史の舞台に登場したのかつぶさに知ることもできる。

例えば東寺の所領であった播磨の國矢野荘では「国中名誉悪党」と称された在地領主寺田氏が日本中に勇名を馳せ、時には東寺上層部、時には山僧とつながり、一時は貴族と肩を並べるほど成り上がりながらも、諸勢力との抗争に敗れてから姿を消していったありさまをうかがい知ることができよう。

さらに本書は、客観や実証よりもマルクスやエンゲルスのイデオロギーを盲目的に崇拝していた、かつての著者の徹底的な自己批判の書でもある。

客観的かつ実証的な学術研究を、それだけで果たして自立的な学と呼べるだろうか?
それは学問の重要な手段であることに異論はないにしても、その前提あるいはその同伴者としての主体的な思想的立場を不問にすることは許されるのだろうか? 

と、著者は今も私たちに鋭く問いかけているようだ。

Sunday, November 11, 2007

「ヒトラー最後の12日間」を観る

降っても照っても第71回

まずはブルーノ・ガンツの怪演に驚き、そのヒトラー以上のヒトラーさに俳優の業の凄まじさとえげつなさを覚える。

演技といえばゲッペルス夫妻の最後の姿に圧倒される。5人の女の子に睡眠剤を飲ませ、(実際にはもうひとり男の子がいたはずだがこの映画には出てこなかった)さらに青酸カリの液体を口唇に注ぎ込む悪鬼のような所業には思わず身の毛もよだつ。

ゲッペルスが出たからには我らがフルトヴェングラーもぜひ顔を出してほしいところだが、そのかわり?にヒトラーお気に入りの建築家のアルベルト・シュペーアが登場してくれる。 

シュペーアが国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型をヒトラーに見せると、この独裁者は、この壮大な建築物こそが、自らの死後も第三帝国の栄光について永遠に語るだろう、と奇怪な妄想にふける。そうしてその姿が、建築と権力者の関係を雄弁に物語るのである。

いずれにしても自国の歴史の恥部を深々と覗き込み、じっくりと正視する勇気を私たちももちたいものだ。

最後に、この映画を観ての私の感想は、「おいらも自殺用の拳銃が1挺欲しいよ」。

Saturday, November 10, 2007

大澤真幸著「ナショナリズムの由来」を読んで

降っても照っても第72回&勝手に建築観光27回

ファシズムはある過剰性を帯びたナショナリズムであり、その過剰性は通時的には一種の現状変革への熱烈な欲求として、共時的には過剰な人種主義の形態をとり、共同体への亀裂を嫌い、熱狂的な指導者崇拝を伴う。

しかしそのようなファシズムは、民主主義の理想的政体と称されたワイマール共和国の内部で生み出された。ファシズムは、きわめて現代的な現象である、と著者はという。

 さらに著者は、「高さへの意志」は、ナチズムあるいはファシズムの特質のひとつではないか、と指摘している。

事実常に高さを指向するヒトラーは、政務の中心をオーバーザルツベルクの山荘におき、建築家アルベルト・シュペーアにパリの凱旋門の2倍の高さを持つベルリンの凱旋門の建設を命じ、ナチスドイツは、ロンドン空襲に顕著に見られるように、高空からの攻撃に執着した。

ちなみにナチの軍需相で建築家のシュペーアは、映画「ヒトラー最後の12日間」でも顔を出していたが、国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型を見ながら奇怪な妄想にふけるヒトラーの狂気の姿がリアルに描かれていた。

 かのバベルの塔の神話はさておくとしても、安土城から天下を睥睨した織田信長、大阪城の豊臣秀吉はもとより、ニューヨークの摩天楼のペントハウスの住人たち、現代ニッポンの超高層ビルの最上階に陣取るわがヒルズ族まで、「高さへの意志」をあらわにする人々は跡を絶たない。

うぞうむぞうの民衆たちが蟻のようにうごめく下賤の巷を低く見て、みずからは超高層の高みにおき、エリートだけに許された超特権意識にひたりつづける非人間性と超俗性こそは、古くて新しいファシズムの根っこかもしれない。

またヒトラーは、シュペーアが唱える「新しい建築物は、幾世紀を経ても永遠の美に輝く廃墟となるように設計されなくてはならない」という“廃墟価値の建築論”に心酔していたが、汐留や品川や六本木ヒルズや東京ミッドタウンなど現代ニッポンの最新超高層ビルジングたちは、このナチス建築の理想の忠実な信奉者によっておっ建てられているともいえるだろう。
 
後者の建築は、幾百年の経過を待たずして、「すでにあらかじめ廃墟と化している」点だけが違っているとはいえ、ここにも“現代ファシズム萌え”がちらついているようだ。

Friday, November 09, 2007

ある丹波の女性の物語 第13回

遥かな昔、遠い所で第35回

 祖父が愈々目が不自由になった頃、舞鶴の酒屋に縁づいていたつる叔母さんが、肋膜炎になり帰って来た。嫁ぎ先では養生させてもらえず、父が見かねて、二男二女を残して離縁してもらったのである。うちで養生して全快後、将来の為何か身につけたいと、神戸の外人さんに洋裁を習いに行った。

 父は末の男の子を引き取り、叔母に洋裁店を開業させようと、目抜き通りに家を新築する事にした。私は板囲いのあるその普請場へ、毎日のように父と見に行ったものである。

叔母はどれ位修行したのか分らないが、次々私のために、別珍のワンピース、レースの洋服にお対の帽子、半ズボン、毛糸編のワンピース等を作ってくれた。家が立つ間、祖父と叔母が離れのコタツに差し向かいで当たっていた事やミシンを踏んでいる束髪の叔母の後姿が目に浮かぶ。洋服は色あせた写真でしか見ることができないが、神戸土産の西洋人形は、今もテレビの上から私にほほえみかけてくれる。
 
4歳位の頃かと思うが、苺の季節に叔母は亡くなった。折角の父の心づくしもすべてが無駄になった。臨終の後、私にも口をしめらせてくれた。亡くなる前日だったか、叔母が、苺を細い指でつまんで食べさせてくれた事が忘れられない。

 不幸な叔母の為に盛んな葬式が教会で行われた。私は大勢の人が集まるのがとても嬉しくて、火葬場で飛んだり跳ねたりしたようである。帰るなり母は、みんなの前で私の背中にお灸をいくつもすえた。泣き叫んだが誰も止めてくれなかった。

♪うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く  愛子

Thursday, November 08, 2007

ある丹波の女性の物語第12回 幼児期と故郷

遥かな昔、遠い所で第34回

 「山家一万綾部が二万福知三万五千石」と福知山音頭にうたわれているように、綾部は九鬼二万石の城下町である。田町の坂を上がると大手門跡があり、それからは上は家中(かちゅう)といって士族の住居地であった。

私の幼い時は、家のある本町通りとカギの手になった西町通りが商店街であった。そのカギの手の角の家がこわされ、駅へ行く新開地が出来たのはいつだったろうか。立派な家がこわされたのは覚えているのだが、私の幼い記憶は新しい新開地の思い出に飛んでしまう。
 
 田圃の中に道路が出来、秋になると田の中に番傘を広げていなごを取った。一晩糞を吐かせて佃煮にしてもらったが、美味しいものではなかった。広場にはすすきや野菊がいっぱい咲いた。

 サーカスも来た。ジンタの天然のしらべの音楽がはじまると何となくウキウキして、テントの前につないである馬などを見に行った。時々表のカーテンがあいてサーカスのショーの一部をのぞかせてくれるが、すぐにカーテンはしまって見せ場はのぞかせてくれない。次の瞬間をみんなで待った。サーカスの子供は売られた子だとか、人さらいにあった子だとか、私達はヒソヒソ話をしたものだった。

 衛生博覧会や見せ物が、次々に原ッパで開かれたように思う。テントの杭打ちが始まるとこんどは何が来るかと楽しみだった。

 そのうち道の両側に次々家が建ちはじめ、みるみる綾部駅まで家がつまってしまった。長楽座という芝居小屋も建った。廻り舞台、両花道、早替わりのぬけ穴、舞台の両側には、はやし方がすだれの中に座っているのがのぞかれた。

 歌舞伎も、天勝も、石井漠のバレエも来た。そのたびに中の桟敷も二階席も満員になった。トイレの匂いが気になったが、花道横の一段高い所に、お茶子さんにざぶとんを敷いてもらっておいて、見に行くのは楽しみであった。有名な演し物は母がいつも連れて行ってくれた。

今ふり返ってみると大正文化の華やいだ頃というのであろうか。福知山には歩兵工兵隊、舞鶴には要港があったが、戦時色などというものはなかったように思う。

 そのうち芝居小屋はだんだん活動写真を上映する事が多くなった。舞台の下にはオーケストラボックスもあり、ピアノ、バイオリン等の楽師さんが沢山いた。今から思うとずいぶん贅沢な事だったと思う。

 綾部の町にはもう一つ帝国館という映画劇場もあった。映画はあまり見に行った覚えはないが、「二十六聖人」というキリスト教の映画、それに「何が彼女をそうさせたか」という映画の及川通子という女優さんを、とても知的で美しい人だと思った覚えがある。

綾部の町を有名にしたものには大本教もあるが、町の発展に力があったのは、やはり郡是製糸であろう。綾部には本社と本工場があり全国に沢山の分工場があった。蚕種研究所には大学出の研究者も数多くいた。社宅の子供達は皆賢かった。

 郡是製糸は基督教の精神を基として設立されたので、波多野社長の所属する丹陽教会は、その社員も多く、会社の発展によって出来た金融機関等の人や文化人も集まるようになった。矯風会支部も出来、教会婦人会などは、インテリ婦人の社交場のような雰囲気さえあった。

 又、月見町という芸妓置屋の集まる町も出来た。玉ツキ、射的場、カフェー等も出来て行った。

 大本教も盛んになっていった。開祖の、お直ばあさんを父はよく知っていた。近所に住む紙くず買いであったが、時々気が狂って大声を出してあばれるので、よく留置場に入れられたそうである。

「予言者は故郷ではいれられず」の言葉があるが、土地の信者は殆どない。養子の王仁三郎さんが生神様扱いされるようになっても、父は普通の人・王仁三郎さんとしてつきあっていた。私達もその子、孫さんと通常のつきあいである。

♪谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る 愛子

Wednesday, November 07, 2007

11/8 ある丹波の女性の物語 第11回

遥かな昔、遠い所で第33回

 最後に私を生んでくれた母と父の事を少しのべたい。

父は前述の雀部の長男儀三郎である。姉も美人であったが、父も長身、秀才、美男であった。土地の京都三中、三高、東大独法科を卒業した。田舎では有名であり自慢の息子であった。「末は大臣か―――」等という祖父母の期待を裏切って、芝川という貿易会社に就職、横浜に住んだ。

当時は非常な好景気で、派手な贅沢な暮らしであったようである。この癖は終生つきまとった。会社が不景気風と共に破産、その後もやはり個人で貿易をしたらしい。その間に結婚もしているが、いろいろ就職しても昔の夢が忘れられず、その後京都での市の貿易協会に招かれ得意の腕を振るう事ができたのはしあわせであった。

 母美代は東京上野下谷の生まれである。長く京都に住んだが言葉の江戸っ子は死ぬまで直らなかった。親代わりの兄は外交官等の仕立てをする高級洋服店を営んでいた。本郷に下宿していた父と、どのようにして結婚したのか、とにかく福知山の祖父母をはじめとして、田舎の親戚は大反対であった。

そんな訳で夫が失職したり、困った時は全部兄に面倒をみてもらったらしい。不義理を重ねたこの妹夫婦には兄もあいそをつかしたらしいが、晩年は江戸時計博物館などを持っている兄を訪ね、一緒に焼物などを焼いて楽しんだと言う事である。

 母は大柄でどちらかといえば、不器量であったが、父には至れり尽せりの妻であった。京では毎日のように一流料亭にバイヤーを招いていた父を、いつも満足させる味の料理をつくり、針仕事も玄人はだし、綺麗好きで家中ピカピカであった。

私が似ているといえば不器量と、花作り好き位であろうか。それでも子供の話が理解出来るよう、ラジオで中国語講座を聞いたり、野球などのスポーツも理解した。伏見の家から京の街へもほとんど出たことのない、ほんとの家庭夫人であった。

♪山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける    愛子

Tuesday, November 06, 2007

ある丹波の女性の物語 第10回

それ以来、父は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれだしたので、このままでは祖父の二の舞をやりかねないと、自分ながら不安になり尊敬する波多野社長の信ずるキリスト教は、禁酒禁煙だしそれを見習えば間違いなしと、動機はいささか不純で功利的であったが、キリスト教へと心を傾けていった。

教会通いをしているうちに、元来神信心のあつい父はキリストへの信仰に目ざめ、大正7年丹陽教会において洗礼を受けた。この頃から養蚕教師はやめていたらしい。

 そんな大きな動きのある最中、一文なしの祖父が師走の夜中に帰ってきた。前非を悔いて土下座して詫びる祖父を父は許さなかったが、母はやさしく迎え世話をする後家さんを見つけ、一緒に住まわせた。

70歳を過ぎる頃、祖父は一人になったので、家の離れに住まわせ緑内障でだんだん目が見えなくなっていく祖父の杖がわりになり、山の小屋に太鼓の響く日には、重箱にお弁当をつめて芝居小屋へ連れて行ったのを覚えている。

そんな母のやさしさに父もだんだん心がほぐれ、町では三番目にラジオも買い与えた。大阪から技師が何日も泊りがけで来た。当時のラジオは、夜になると近所の人が聞きに来るような珍しさだったのである。

 父は後年母に心から感謝し「おらが女房を誉めるじゃないが」と人によく話した。
 先になくなった祖母には誠意をつくして看護し、祖父には父の分まで孝養してくれた事を、妻のおかげで親不孝のそしりを受けなくてすんだ事は、最大の感謝であるといっていた。

♪あかあかと 師走の陽あび 山里の
  小さき柿の 枝に残れる  愛子

Monday, November 05, 2007

護良親王の首塚を遥拝す

鎌倉ちょっと不思議な物語89回

後醍醐天皇の皇子護良親王は、かの「建武の新政」で晴れて征夷大将軍となったのだが、父後醍醐のために、全知全能を傾けて、日本全国の戦場を駆け巡ったにもかかわらず、宿敵足利直義の手によって、鎌倉の大塔宮の石牢から引きずりだされて斬首された。

さぞや悔しかったことだろう。さぞや父を恨んだことだろう。

その護良親王の墓は、実朝の墓と同様、鎌倉に2箇所ある。1箇所はその大塔宮だが、もうひとつが今日ご紹介する「首塚」だ。

大塔宮(鎌倉宮)から浄明寺の第二小学校方面に迂回すると突然長大な石段が現れる。その急峻な長い長い石段を息を凝らして登っていく者は、次第に不気味な胸騒ぎを覚えるだろう。

晴れた日にも、雨の日にも、またうす曇りの日にも、春夏秋冬恒にここには「尋常ならざる何か」がある。絶対にある。あの「あほばかの泉」の水を飲んだこともなく、神仏なぞ信じたこともないこの私が言うのだから間違いない。

恨みを呑んで死んだ皇子の怨霊が800年経っても鬱蒼とした森林の中を彷徨っていることが肌寒いまでに実感できる。
さうして切り立った石段の頂上から下界を見下す者は、微かな眩暈を覚えるだろう。
そう、ここは明らかに異界である。

高鳴る動悸を抑えてさらに前進する勇気のある者は、頂上の神殿の裏手の奥を目指してみよ。
そこには、疑いもなく護良親王の生首が埋まっている。

ちなみに、鎌倉ならでは霊地はこの首塚を筆頭に、御霊神社や前にご紹介した妙本寺、北条高時腹切り矢倉など数多い。
死んだ作家の高橋和己は、余りにも短かすぎたその晩年を、あろうことか、この首塚のすぐ傍の、小さな小さな英国風の洋館で過ごしたが、幾夜どのような妖気に満ちた夢を見たことだらう。

Sunday, November 04, 2007

ある丹波の女性の物語 第9回

 そのような中にあって、祖母は胆嚢の手術をした。土地の医師を母が看護婦の経験を生かして助けたのである。妹のつる叔母を舞鶴へ嫁がせたが、金三郎叔父は職が長続きせず、しまいには朝鮮へ高飛びし、その間、三回もの結婚離婚を繰り返し、失敗する度に実家へ帰っている。

 その頃の綾部には産科の医師もなく、出産といえば取り上げ婆さんを頼む時代であったので、開業していない母なのに、むずかしいお産といえば無理に頼まれ遠い村からは駕籠が迎えに来たそうである。

 そのうち祖父は借金がかさんで綾部にいられなくなり、とうとう有り金をかき集め、若い芸者を連れて、隠岐の島に逃げてしまった。その後の両親の苦労は並大抵のものではなかったらしいが、店は母にまかせて父は養蚕教師をつづけた。

 大正の初め、土地の郡是製糸が大損をして株が大暴落し、会社の存亡が危ぶまれる事件が起こった。城丹蚕業学校の創立者であり、父を蚕糸業へ導いた大恩のある郡是の波多野鶴吉氏の窮乏を救いたい一心の父は、残されている唯一の桑園を売り、発明した蚕具でもうけた金を全部つぎこんで、どんどん安くなる郡是株を買いあさったのである。

ところが一年あまりでアメリカの好景気で郡是製糸は立ち直り、株価はどんどん上がった。義侠心でやった行為が父に大金を得させたのである。そのお陰で、払い切れぬ程の借財はすべてなしてしまい、何日も親戚、知友、隣近所を次々に招いて盛大な祝宴を開いた。母はその時買ってもらったダイヤの指輪、カシミヤのショールを終生大事にしていた。夫婦ともに33歳であった。

♪色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに    愛子

Saturday, November 03, 2007

鎌響の「カルミナ・ブラーナ」を聴く

♪音楽千夜一夜第27回&鎌倉ちょっと不思議な物語87回

久しぶりの晴天の午後、鎌倉芸術館を訪れて、わが愛するローカルオケの演奏を聴いた。創立45周年記念第90回特別演奏会である。青い空に白い雲が浮かんでいる。私の好きなマチネーである。

 鎌倉交響楽団は昭和38年6月に創立され、一の鳥居の傍にあったいまは失われた旧中央公民館で第1回の演奏会が開かれたが、その日のメインであったシューベルトの未完成交響楽(曲と書かずにわざとこう書くその理由は賢明な諸兄ならお分かりだろう)が当日の2曲目に演奏された。
1曲目は例によって八代秋雄作曲の最高に素晴らしいヘ長調の鎌倉市歌である。(http://machimelo.web.fc2.com/kamakurasika.wmv

 シューベルトのこの曲D759は昔は第八番と呼ばれたが、現在では第7番で落ち着いたらしい。昔は未完成とハ長調の第9番D944の間に未発見の大曲ガシュタイン交響曲が想定されていたが、他ならぬそのガシュタイン交響曲が第9番であることがわかって、結局9番が最後の交響曲8番となった。

 それはともかく改めて聴く未完成は完全に完成した2楽章で構成されており、2つの楽章はまるでシャム双生児のようなネガポジの関係にある。主題自身もほぼ裏返しになっていて、展開方法もまるで同じ。2つの楽章というよりは自民・民主の大連立状態に陥っている。

第三楽章の冒頭でシュベちゃんは筆を投げたが、よほど意想外のメロデイーで開始しない限り、このシンフォニーは第9番と同じ泥沼ぬかるみ団子状態になったはずだ。
最後の大曲第9番も名曲であるが、もはや全身に梅毒が回った最晩年のシュベちゃんは、往年の流麗なメロディラインの在庫に底がつき、曲想の自在な展開を盛り込むことができずに、それでも根性でリズムとハーモニーの自同率のみで勝負してなんとか終らせてはいる。
レコードで聴くなら、フルトヴェングラーはハーモニーで、トスカニーニはリズムを強調した立派な演奏でモノラルながら両盤ともおすすめできる。そんな名曲の「未完成」だが、鎌響はまずはオーソドクスに破綻もなく演奏してのけた。

驚きは次の大曲と共にやってきた。カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」である。ドイツの作曲家オルフは、中世ミュンヘンの民衆が書き残した24の自由奔放な詩歌をサンプリングしてそれらにもっと自由奔放な音楽をつけた。

キリスト教の戒律によって縛り付けられていた中世の世俗の民が、飲んで騒いで恋をする。そのアナーキーで放埓な生き方を、オルフは現代音楽にも通じるような強烈なリズムと生命力が躍動するダンスミュージックを創造したのである。

ダンス、ダンス、ダンス!  恋せよ乙女、堕ちよ、人! メメント・モリ! 酒歌煙草に一時を忘れよ。それは中世と現代、宗教と無秩序、人と獣、愛と憎悪のアマルガムであり、世俗賛歌をつむぎだす壮大な錬金術であった。

若き指揮者星野聡に率いられた100名のオケと清冽なソプラノ松原有奈、バリトンの牧野正人、テノールの山田精一、そして100名の市民混声合唱団は、この狂気をはらんだ長大な難曲を、打楽器の強打を駆使しながら巧みに導き、全曲の最後の最後に素晴らしい音楽的法悦をもたらすことに成功した。

これこそが私たちが待ち望んでいた至高の瞬間であり、音楽が人間に対してできる最大の事業を見事にやってのけた奇跡的な瞬間でもあった。さうして私たちは、じつはこの瞬間の訪れだけのために長い年月を生きているといっても過言ではないのである。

超ローカルオケ、鎌響よ! 音楽を熱愛するすべてのアマチュア音楽家たちよ、永遠なれ!

Friday, November 02, 2007

ある丹波の女性の物語 第8回

 当時はまだ鉄道もなく、花嫁達は福知山街道を人力車にゆられて夕方、佐々木家についた。提灯の灯に浮かび上る母の姿を見て、金三郎叔父は「おお!きれいな嫁さん」と見とれて、大きなため息をついたそうである。

 売り出しには商いに店に立つ母の姿を、近在から見に来るほどであったらしい。私がそんな話を聞いて来て母にすると、困ったような顔をして、
「お父さんの所へ来たのが一番幸福だった。沢山の家からもらわれたが、他のどこの家へ縁づいても、めかけがいるような家ばかりやったから」
と心の底からそう思っているようであった。

 母が縁付いた頃は雀部家はすっかり傾き、商売がえをしてみてもうまくいかなかったが、何分ぼんぼん育ちの祖父の事で、お米はすし米、お茶は玉露というような日常であったので、使用人の多い佐々木家の大世帯の粗末な食生活にはびっくりしてしまったそうである。
麦の方が多い麦飯、それに大根も入る時があり、暫くは食べられなくて困ったそうである。

 その頃、父は養蚕教師となり、四国では日本一の成績をあげる高給取りであった。しかし借金の返済や商品の仕入れにすべてあてられ、その中でも祖父の女遊びや花札バクチが続き、いくら父が家に金を入れてもドブに捨てるような物であった。差し押さえにあい嫁入り道具類にまで札をはられた事もある、と母は言っていた。

♪梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり  愛子

Thursday, November 01, 2007

田村志津枝著「キネマと戦争 李香蘭の恋人」を読む

降っても照っても第70回

最近は昭和史の本がたくさん出ているようだが、当時の日本と中国と「偽満州国」と日本統治下の台湾において、いったいどんな映画が、誰によって、どのような条件下で作られていたのかを知る機会がほとんどなかった私は、本書によってその渇を十分に癒すことができた。

当時、上海の租界には、抗日映画を製作する数多くの中国の映画会社があり、偽満州国には、大杉栄と伊藤野枝を惨殺した甘粕正彦が2代目理事長を務め、本書のヒロイン李香蘭を擁する国策映画会社の「満映」があり、日本軍が包囲する上海には川喜多長政が日本側代表を務めた日華共同出資の映画会社「中華電影公司」があり、華北にも同様の国策会社の「華北電影公司」があり、本土には戦意高揚国策映画を大量生産し続けた「東宝」や「松竹」があって、彼らは、映画というメディアを駆使しつつそれぞれの顧客たちに対して思い思いのプロパガンダを発していたようだ。

日本と中国と偽満州国と台湾という4つの国家(地域群)を舞台に、アジア全体を巻き込んだ巨大な「戦争」と、それが「映画」界にもたらした暗く不吉な影に、著者は丁寧にスポットライトを当てていく。

厖大な資料を綿密に読み込みながら、長年にわたってじっくりと進められたに違いない著者の精密な解読作業によって、満州事変から敗戦にいたるまでの戦争と映画史の相関関係が、はじめて白日のもとに晒されたといえるのではないだろうか。

このようなアジアの戦争と映画史の骨太のドキュメンタリーを後景に据えた著者は、その気宇雄大な舞台の前景に、若き二人の主人公を登場させ、「偽の中国人俳優」を演じる日本人女性李香蘭と、皇民化政策によって強制的に「偽の日本人を演じさせられた台湾人映画監督劉吶鷗」との間に演じられたサスペンスドラマの世界を描き出し、その大小2つの世界を頻繁にカットバックする手法を採用することによって、全編にリアルな緊迫感を盛り上げている。

かつてわが国にニュージャーマンシネマ、さらには台湾映画ブームを招来させた著者らしい「映画的な構成」といえよう。

急速に広がっていく戦火と、その未曾有の混乱のなかで、ほんらい平和のうちに映画創造に献身できたはずの若者たちが次々にテロルに倒れ、ほのかな恋の炎さえもあえなく吹き消されていった。

本書によれば、劉吶鷗は前途有為な台湾生まれの映画監督&製作者であったが、1940年9月3日、上海の目抜き通り四馬路のレストラン京華酒家で何者かの手で暗殺されてしまう。

著者がいうように当時は
「抗日戦争を巡る熾烈な戦いがあり、国民党の特務機関は対日協力者潰しに躍起になり、一方で日本側および汪精衛政権の特務機関は、抗日人士を標的にして逮捕・拷問・暗殺を繰り返し、また国民党残置機関の襲撃に暗躍していた」
が、にもかかわらず、戦乱の中国にはこういう能天気で純粋な青年はいっぱいいただろう。
いや一部の確信的行動主義者をのぞけば、民衆の大半が劉吶鷗のようなノンポリかオポチュニストだったのではないだろうか?

ところで劉吶鷗が暗殺されたちょうどそのとき、李香蘭は京華酒家から遠からぬパークホテル(国際飯店)で彼が来るのを待っていたのだという。

しかし著者の調査では、映画『熱砂の誓い』の北京ロケのために東京を発つ9月5日を目前に控えた暗殺当日の9月3日に、彼女がこの場所に居ることは不可能に近い。事の真相は、彼女が勘違いしているのか、嘘をついているのか、本当に待っていたのか、のいずれしかない。

「そしてもし本当に待っていたのだとすれば、劉吶鷗の知られざるもうひとつの仕事がそこから浮かび上がり、彼の暗殺の謎を解く重要な鍵のひとつが見つかるはずだ」

この謎のサスペンスドラマを解明しようと、著者は本書の最後で、李香蘭こと山口淑子に宛てた質問状を突きつけている。

この李香蘭こと山口淑子という女性について、私はこれまで何の興味を覚えたこともなかったが、本書を読んでどうも面妖かつ不可解な人物であるように感じた。

そもそも日本人なのに中国人に成りすまし、その二重国籍をケースバイケースで使い分けてアジア各国の舞台で媚を売るという了見がよく理解できない。暗殺された劉吶鷗との関係も曖昧だし、日本軍の満州&中国侵略のお先棒を担ぎ、時の政治権力に好きなように利用され、そのことにも無自覚に、ただ時流に流され続けた愚かな芸能人なのではないだろうか?

それに比べると、私は劉吶鷗のほうによほど親しみが持てる。台湾人でありながら日本国籍を強要され、民族の二重性に引き裂かれつつも、“イデオロギーとは無関係な自由な映画作り”にあこがれ、おのが才覚を存分に発揮しながら群雄割拠する中国各地を泳ぎ回っているうちに、結果的に日本軍の映画政策に取り込まれ、それが彼の若すぎた死を招いた。

当時同じ「漢奸」の汚名を着せられたヒーローとヒロインだったが、一方は無残に殺され、他方は故国に生還して“赤い絨毯”を踏んだりしている。もしも二人の間に燃えさかる恋があったと仮定すれば、山口淑子は著者の問いかけに無関心でいられるわけがない。 

しかし私はなぜかこの公開質問に対して永遠のヒロインは永遠に回答を留保するような気がしてならない。そしてそのことを著者はどうやら予期しているようでもある。

なぜならもしも本気で彼女の回答が欲しいのであれば、著者は万難を排して彼女に直撃インタビューを敢行しただろうし、それがドキュメンタリー作家の常道というものだ。
そしてインタビューが成就してもしなくとも、著者はその結果を読者に報告して本書の執筆を終えたはずである。

それをせずになんと本書の「あとがき」の文中において、彼女からの返答期し難い宙ぶらりんの質問状を挿入したところに、私は著者の微妙な心意を忖度したいのである。
同じ「あとがき」ではしなくも洩らしているように、著者は別に劉吶鷗と李香蘭の真実を究明するためにこの本を書いたのではない。

「私は台南で生まれた。歳を重ねるに従って故郷に強く惹かれる自分を意識する。できることなら台南で暮らしたい、と思う。劉吶鷗は上海で仕事に明け暮れながら、あの南島に帰りたいとの思いを心の底に抱いていた。亡くなったとき、彼はまだ三十五歳だ。生き延びたとしたら彼はどこで何をしたのかと、思わずにはいられない」

この短い文章を眼にしたとき、私はまだ見ぬ南の島を吹く一陣の爽風を心の中に感じた。著者の望郷の思いが、『李香蘭の恋人』という侯孝賢の『悲情城市』を思わせる透き通った叙事詩を書かせたのである。 

Wednesday, October 31, 2007

安藤忠雄の「歴史回廊」提言に寄せて

勝手に建築観光26回


最近ベネチア大運河入り口の旧税関跡美術ギャラリーの国際コンペに勝利して意気上がる安藤忠雄だが、この時流に敏感で商機に抜け目のない機敏な建築家が、東京に「歴史の回廊」を作ろうと提唱している。

「回廊」という言葉で誰もがすぐに想起するのは、最近亡くなった黒川紀章の未完の代表作である中国河南省都鄭州市の都市計画で、このコンセプトが「生態回廊」であることはつとに有名である。

これは北京から南西600kmの黄河流域にある人口150万人の古都に山手線内側の倍以上の広さの新都心を2020年までに造ろうという壮大な計画で、まず800hの人口湖「龍湖」を作って都心と結び、緑と水の生態回廊に基づいて各地域間に河川を巡らせ、超低層住宅群、水上交通、岸辺公園を随所にちりばめ、自然と暮らしの共生をめざそうとするものであるが、どうやら安藤の「歴史回廊」は、この黒川案の向こうを張ったとみえなくもない。

それはともかく、安藤は明治の代表的な建築物をつなぐプロムナードを東京駅周辺に作って、国際的にも世界の奇跡とされているこの黄金の時代の記憶を永久に後世に伝えようと、けなげにも提言しているのである。 

具体的には1931年吉田鉄郎設計の東京中央郵便局を破壊から守り、このたび晴れて復元&再建されることになった1914年辰野葛西建築事務所設計の東京駅と1894年ジョサイア・コンドル設計の三菱1号館を、1911年妻木頼黄建築の日本橋までつなげ、日本橋はソウル清渓川にならって高架道路を撤去しようとするそれなりに真っ当なプランであるが、このような“もっともらしい正論”をいまさらながらに提案するのなら、私はこの偉大なる建築家の驥尾に付して、ことのついでに丸ビルと新丸ビル、おまけに有楽町の旧都庁ビルと三信ビルの完全復活再生復元を提案したい。

近年三菱地所がおったてた「醜い巨大ガジェット」である丸ビルと新丸ビル、それに有楽町の「超モダンおばけ廃墟」東京国際フォーラムは、ダイナマイトでこっぱみじんに破砕しなければなるまい。

さうして丸ビルには高浜虚子が主宰するホトトギスの事務所もぜひ復活してほしい。銀座プランタン裏にあってドーリア調エンタシス柱が美しかった1931年徳永傭設計の「東邦生命ビル」と1929年完成の6丁目の交詢ビルジングも、だ。

それなくして安藤流「歴史の回廊」は画龍点睛を欠く。安藤が表参道ヒルズでお仕着せに試みた同潤会アパートの奇形的保存の反省を踏まえ、過去の偉大な建築物を、その地霊鎮魂を兼ねて徹底的に再建してほしいのである。

それあってこその偉大な明治の歴史的再生であり再現ではないだろうか。

Tuesday, October 30, 2007

♪ 07年10月の歌

♪ある晴れた日に その15

われもまた風狂の人になりたし
クワガタは樹液の近くに逃がしてやりぬ
私はとうてい大工にはなれない
鳥羽殿へ我勝ちに急ぐ参騎かな
夕闇に縄張り広げむ女郎蜘蛛
落石に注意といわれても具体的にどうすればよいのか
我君を食らふとも可なるか可也哉茸笑ふのみ
食らふとも可なるか茸笑ふのみ
男なら健女なら優と名づけむと語る甥に明るい未来を
君にもそして君にも安けき未来豊けき明日来たれ
露草を雑草とみなして焼く人をわたしは激しく憎んでいる
釣船草を船と知らずに雑草とガスバーナーで焼くな男よ
またしても君は雑草と口走る草それぞれに名はあるものを
鎌倉の横須賀線の踏み切りの傍に棲むとうかのウシガエル
踏み切りの主は幻のウシガエル心して過ぎよ横須賀線
自らの生の希薄に耐えかねてコッカコッカと鳴く自虐鳥
東京の出版社より来たりける月12万の仕事によろこぶ
キンモクセイ炎と燃ゆる秋深し
心中の業火燃やすか金木犀
わが魂を焼き尽くすや金木犀
人類は悔い改めよと金木犀日本全国激しく燃えたり
中原の中也展果てたあと大輪の薔薇静かの舞咲けり
カラス咲き、ジャクリーン咲くや薔薇の苑
油蝉10月20日に鳴いており
鳩さぶれー鳩の首から食べました
いい俳句をつくったのに忘れてしまった
人生は省略できないバイパスできない
次々に事件が起こるまず杉並一家惨殺事件から解決せよ
過ぎた昔が帰って来る日もあるだろう
なぜ1ドル117円が急に114円になったのかわからない
このキノコを喰わんとする男あり
いくたびも息子の名前をググりけり
首塚や皇子の怨念いまだ晴れず
首塚や人を呪わば穴ふたつ
ムクは死んだけどタロウはまだ生きている
十三夜愛する者より便りなし
十三夜希望の如く月は湧き
十三夜希望の如き月が出る
十三夜希望のやうな月が出て
カモはいいな真昼間から眠っている
おぼつかぬ右手でつかむケーキかな
障碍者たちがはたらくカフェで海を見ながらランチを食べた
一呼吸また一呼吸するうれしさよ
おろぬいたミズナを二人で食べにけり
俳句では言いたいことを詠むなかれ
我も人もすべての言説は生臭し
みそひとをむかえしむすこのたよりなし
人はなぜここまで自然を求むのか
偽りの自然を自然と読み直す姑息の智恵は愚かなるかな
偽りの自然も第二の自然なるかプラスティックの葉よ樹脂の樹木よ 
裏側の波の模様が美しい蝶なればこそウラナミシジミ
私はウラナミシジミのウラガワの紋が好きだ 
ユニクロで購いきたるカシミヤを身につけしきみはどうと訊ねる
ノバうさぎのCMをつくったやつは前に出よ
秋深し衆寡敵せず滅びゆく
秋深し友の寡なき男あり

Monday, October 29, 2007

ある丹波の女性の物語 第7回

 父は、女道楽の祖父を心から憎み、反面この上ない母思いであった。祖母がそこひの手術の為、京の眼科病院へ入院した時は、学校を休んで付き添いに行き、自分の眼片方と引き換えに母の目をよくしてくれと、病院内の神社に願かけをしている事が患者の中で評判になり、みんなで大きな数珠を廻して拝む念仏講を開いてくれたという。
院長も感動して精一杯の治療をしてくれ、目がみえるようになったと聞く。

 父と同い年の母菊枝は、福知山鍛冶町に雀部家の長女として生まれた。代々綿繰り機を商う家で祖父は九代伊右ェ門、幼名は庄之助、代々同じ名をついでいたようで、祖母みねも同じ福知山の彫り物師の娘で、生涯祖父を幼名の「庄さん」と呼び、色白で針仕事の上手な、まことに可愛らしい「おばあちゃん」であった。

 文明開化で紡績工場が出来てから家運は急速に衰えていったが、昔は丹波、丹後、北陸地方にかけて手広く商っていたらしく、母は庭にはまわりを子供が六人位手をつなげるような木があり、夜、燐がもえた事、米騒動の時の鍬の跡がいくつも柱に残っていた事など話してくれた事がある。

 母は20歳で遠縁に当たる佐々木家へ嫁いだ。郡立女学校の前身、香蘭女学校を出、神戸県立病院看護婦養成所を卒業、産婆の免状も持っていたが、幼い時から美人の評判が高かった。

福知山は芸事の盛んな土地で、雀部家代々のあるじも浄瑠璃が好きで、大阪の文楽から義太夫を招いて稽古をしたそうである。母も小さい時から舞や三味線を習わせられた。盆踊りも盛んな土地で、町々に連があり、母はその先頭に立って三味線をひいて町中を練り歩いた事、嫁のもらい手がふるほどあったとは、雀部の祖父のいつもの自慢話であった。

福知山音頭の優雅な調べに合わせて家々の娘は、きそうように美しく着飾って歩いたのであろう。

♪くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に  愛子

ある丹波の女性の物語 第6回

 両親・祖父母のこと

 佐々木家は代々男の子に恵まれず、何代も養子を迎える家系であったようで、曽祖父には女の子もなく、祖父祖母共の両養子であった。

祖父春助は天田郡大原村の生まれ、安産の神大原神社近くの西村家に生まれた。父のいとこ達は村長や郵便局長であった。

私は一度秋の遠足で大原神社へ行った事がある。何廻りもして峠を超えて行った事がある。道々にりんどうが色濃く咲いていたのが忘れられない。とても山深くきたという思いがした。
祖母、婦美は隣村の山家の米屋から来ていたが、49歳でなくなっている。

 明治18年2月22日、父小太郎が綾部町の佐々木家に生まれた時は、何代目かの男子誕生でとても喜ばれた。しかし栄養不良のしわくちゃな赤ん坊だったそうである。

 家は屋号が示すように昔は寺子屋であったそうで、古びた槍も鴨居にあがっていた。桑園もあって養蚕もしていたが、祖父の代に職人をおいて桐下駄の製造をはじめた。

祖父は素人芝居の女形を演ずるのが得意で、女遊びの好きな道楽物であった。それでも父は当時尋常小学校、郡立高等小学校を経て、城丹蚕業学校創立初回の卒業生であるし、父の妹つるは郡立女学校を出ているから、金もうけにも長じていたのであろうか。
どういうわけかヤン茶坊主の次男金三郎叔父だけは、小学校をおえると京の呉服問屋へ奉公に出ている。

♪突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

Saturday, October 27, 2007

ある丹波の女性の物語 第5回

絢ちゃんの事

 絢ちゃんとは一卵性双生児の片われの姉の事である。

先に生まれたからか、後なのか、どういう訳か姉と言う事である。現在では妊娠中から男女の別も分かり、勿論双生児など初めから分かるらしいが、当時は異常にお腹が大きくなるまで分からなかったのではあるまいか。母は、後期にはふすまや柱を持たないと、立ち上がれなかったそうである。

何かにつけて絢ちゃんの方が秀れているので、私が妹でほんとによかったと思っているが、姉の絢ちゃんは、とてもひ弱で息もたえだえに生まれてきたそうで、遠くにやるなら元気な方をと私の丹波行きは決まったらしい。

ところがこの姉も、ひょっとすると立場が逆になっていたかもと、私の綾部行きには責任を感じているらしいのである。

私の名前は「神は愛なり」の聖句から決まったそうで、絢子は雀部では「あいこ」と呼ばれて育ったそうである。女学校4年の時、祖父の葬式で生まれて初めて、京桃山の雀部家を訪れ、その事を知った。生家でも私の事をいつも覚えようとしていてくれた事を複雑な思いで感謝した。

 絢ちゃんは大沢家に嫁ぎ、大学教授夫人、学長夫人となった。女としてはエリートコースにあるこの姉を羨む気持ちは少しもない。もう一人の私が受けている幸いを喜ぶ気持ちだけである。

私は一商人の妻として過ごして来たが、それなりの、幸せを感謝している。人には分からぬかも知れないが、普通の姉妹では感じられぬ特別の感情が、私達にはあるらしい。
こんな姉妹であって、こんな姉があってほんとに良かったといつも思っている。

♪ 直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く

Friday, October 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第4回

裕兄さんの事

 裕兄さんは私のすぐ上の兄である。上に正という長男がいたので、この次男が生まれた時から、佐々木家へほしいと何度か交渉していたらしく、「幸太郎」と言う名前まで用意していたという事である。

本人は綾部の伯父が来るたびに外へ遊びに出てしまい、ある時は風呂桶の中に入り、ふたまでして隠れていたと言う笑い話まである。結局私達姉妹の誕生によりこの話は消え、裕兄さんは綾部へ来なくてもいい事になった。

 そんな訳で、私が遠い丹波の地へもらわれていった事を、子供心にも責任を感じていたらしい。後年、雀部の父が関西に住む事になり、当時中学の裕兄さんも転校した。その中学は教室に生徒の成績順に名札がかけられており、学期末には、トップにその名札がかけられたとの事であるが、転校生「雀部裕」の名が最後の席次にあるのを、その学期中悔しかったそうである。

雀部の子供の中では、なかなかユニークな存在であったようで、両親に無断で受験、大阪外語大の合格通知がきた時は、家中でびっくりしたそうである。当時は戦時色の強い時代であつたので、「中国語蒙古学科」に入学、卒業後は華北交通に入社した。

その当時の北京からの葉書が私の手箱の中に何枚か残っている。北京がどんなにすばらしいか、空がどんなに美しいか等したためてある。いろいろと人並みの青春時代の悩みを持っていた私には、「思い切ってこの新しい天地へ出てこないか」という葉書の文字が今も心に残っている。

その兄もビルマで戦死してしまった。中国語や蒙古語は軍ではとても重宝され、その人柄は誰にも愛されていたらしい。運動は万能選手、ほがらかで、心やさしかった。苦学している友達に物資のない時なのに自分の外套をやってしまったと、母がこぼしているのを聞いた事がある。

ほんの何度かしか会っていないこの兄の事が、しきりに思い出されるこの頃である。


♪なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく  愛子

Thursday, October 25, 2007

大庭みな子の「風紋」を読む

降っても照っても第69回

先日この作家の遺著「七里湖」を読んだばかりだが、今度は別の版元から別の遺作(短編3本と6つの小さなエッセイ)が出版されたのでついつい手にとってしまった。

短編は「あなめあなめ」、「それは遺伝子よ」、そして表題作の「風紋」であるがいずれもこの世とあの世の中間部、あるいは仏教の用語で中有(生有から死有までの)といわれる父母未生以前の混沌とした時空において天人一体となって無意識裡において創造された玄妙にして摩詞不思議な作品である。

音楽で喩えると例えば往年のSPレコードでスクリャービンの「法悦の詩」をワインガルトナー指揮のヴィーン・フィルハーモニーで聴いたような、典雅で深沈とした陶酔的境地に浸ることができる。

「あなめ」は小野小町の髑髏の眼底から生えてきた薄を引き抜こうとすると小町が「あなめ、あなめ(痛い痛い)」と叫んだという故事を本歌取った夢幻譚だが、その最後は、主人公のナコ(みな子さん)が、

「両目を左右のこぶしで押さえて目から生え出ている薄を抜こうとしたが果たせなかった。「まあ、そのうち薄の方が枯れるよ」とトシ(著者の夫)は言った。

 というところで唐突に終る。この婦唱夫随の二人の魂はすでにして中有を彷徨っていることがわかる。

「それは遺伝子よ」では、著者に先立って死んだ米国の友人ヘレンの思い出が語られるが、「すべての善悪を呑み込んだ上でアラスカの原野にすっくと立った女神」を思わせる神話的な存在は、自由で放胆な生を生き切った著者自身を思わせる。

例えば次のような文章を見よ。

著者の目の前で全裸になってシャワーを浴び始めたヘレンは、

「もちろん立派な二つの乳房と高い腰を持っていた。私が息もつかずにレモネードを飲み干している間に、ヘレンはベッドルームに行き、大きなキングサイズのベッドにバタンと倒れるように横たわって、「ああフランクがいてよかったわ。一人で暮らせるのは女じゃないわね」と言うともう高いびきをかいていた。そして、眼を開けて、「フランクは暖かくて素敵だった」――次の瞬間また高いびきをかいていた。」

最後の「風紋」はこれも最近亡くなった偉大なる小説家小島信夫と著者との交情を赤裸々に、しかし、夢のような淡彩画のタッチで描く。

「信さんはもう意識もなくて植物人間のような状態だそうである。それでもナコは走って行って信さんに抱きついてキスしたかった。信さんがまだ元気な頃にナコは何回も信さんと抱きつけるほど近くに立って、キスできるほどの近さだったのに一度もそんなことをしなかったことが心残りに思われて、今は無意識の中で走ってゆき抱きついてキスしたかった。」

この文章が書かれたとき、まだ確かに生存していた信さん(小島信夫)も、ナコと自称する著者も、いまはこの世には存在しない。しかしこの夢のような話のなかに悪女と言われた著者のあどけない少女のような本当の思慕が真率に刻まれていることだけは疑えない。

しかし私がこれらの短編にも増して感動したのは、まるでささやかな香典返しのように巻末におかれた「逝ってしまった先達たち」での川端康成や佐多稲子、野間宏、藤枝静男の思い出話であった。

凝縮された見事な文章の中に、物故した作家たちの姿が、いまそこにあるかのように生々しく立ち上がってくる、それこそ文学の力には思わずギョッとさせられる。
著者によって一撃の元に拉致された彼らの些細な所作は、彼らの生の本質を的確に射抜かれ、永遠の相というタブローに磔にされたまま、浄土から差し込む微かな西陽を浴びている。

さうして最後にそっと置かれた僅か数枚のエッセイ、「あの夏――ヒロシマの記憶」こそは、あらゆる“広島文学”中の最高傑作であろう。

Wednesday, October 24, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅日本・アメリカ編」を読む

降っても照っても第68回

「21世紀仏教への旅」シリーズの最終巻を読んだ。

「わがはからいにあらず、他力のしからしむるところ」と親鸞は悟り済ませた。悪者も善人もただ「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける、という悪人正機説は、考えれば考えるほど、物凄い思想である。

しかし著者によれば、この有名な革命的宗教思想は、すでに法然以前の奈良仏教時代からその萌芽が生まれていて、平安末期に後白河法皇が集成した『梁塵秘抄』には
「弥陀の誓いぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称うれば 来迎引接疑わず」
というワンコーラスもすでにあらわれているという。

奈良仏教を経て鎌倉新仏教にいたる時代の変転が、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、ヒンズー教も、そしてブッダの仏教自体をも驚倒させるに足る悪人正機説を誕生させたのである。

そして著者は、奈良から鎌倉までの悪人正機説の変遷を、

源信は「泥中にありて花咲く蓮華かな」、
法然は「泥中にあれど花咲く蓮華かな」、
そして親鸞は「泥中にあれば花咲く蓮華かな」

であると、巧みに評している。

世間ではゼニゲバ流行作家としてあまり評判がよくない五木寛之であるが、「以前から私は自分の個性などというものはないほうがいい、と思っている」と語り、「できるだけ近代的な自我というものを消去する生き方をしてきた」と自負するこのデラシネ男を、私はけっして嫌いではない。

Tuesday, October 23, 2007

ある丹波の女性の物語 第3回

 祖父も私を乳母車に乗せて歩きたいと、シキリに願ったそうであるが、早くから頭をゆさぶると頭に悪い影響が出ると許さず、余程してから籐製の大きな乳母車を東京から取り寄せた。ベルトで本体を宙吊りにしてあり、脳へ響かぬよう工夫した当時では最新型のものであったそうである。

不要になってからは倉庫の天井にぶら下げてあったが、戦時中、私の長男のために充分使用出来た程、頑丈な物であった。この乳母車を祖父が街々をひいて歩いてくれると、方々から沢山のお菓子をもらうのが例であったが、私は気に入った上菓子でないと、もらったその場で「チヤィ」といって捨ててしまうので祖父は非常に困ったそうである。

 その事も何となくおぼえているようにも思うけれど、幼い日の最初の記憶は、泣いている私をおんぶして夜の街を歩き回っている父の姿であり、おんぶされている私自身の姿である。
外は真っくら、街灯の明るさだけ、ガラス窓にうつる父と子の顔、ねんねこ半纏のオリーブ色の銘仙の色、黒いビロードの衿をハッキリ覚えている。冬の夜更け、夜泣きする私をしかたなしにおぶって歩いたのであろう。涙にうるんで見えるだいだい色の街灯の色、ねんねこ半纏のオリーブ色、私の最初の色への記憶である。

 いつ頃からか、タンスの上段の底に、赤いリンズに白のふち取りをした、よだれかけ、赤いちりめんのお守り袋がしまってあるのを見つけたが、その事にふれるのが何となくはばかれて、何度もソッと見るだけにしていた。

それは横浜の家から持って来たのだと、後で知ったが、母は大事にしまっていてくれたのだと、母の私への思い、心くばりを感じる。
 私が両親の実子でない事を、おぼろげに知ったのは、小学校低学年の頃かと思う。隣が伊藤という乾物屋で、そこの主人が「愛子ちゃんは東京生まれやから。」と何かの時にいったのを、何となく誇らしいような気持ちで聞いた覚えがある。
別に悲しくもなかった。前から何となく感じていたのかもしれないが、両親の愛にみたされていたからに相違ない。

♪五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線    愛子

Monday, October 22, 2007

ある丹波の女性の物語第2回

 私は大正10年年6月26日、綾部市新町、丹陽基督教会に於いて、内田牧師より幼児洗礼を受けている。その何年か前に、両親は基督教に入信していたのである。

 現在になっては珍しい事ではないが、70年前、私には寝台が用意され温度計が付いていたそうである。部屋にも商品がいっぱい。若い店員が寝起きしていたので、当時は蚤にはずいぶん悩まされていたらしく、寝台の両ワキにはマッ白な寝巻きを着た両親が寝たそうである。蚤をたやすく発見出来る為である。

 粉ミルクは私の身体に合わなくて下痢が続き、牛乳にかえてからよく太るようになったそうで、最高1日八合の牛乳を飲んだそうである。私が大きくなっても配達してくれていた農園からは、毎年お歳暮に牛乳風呂にと、バターを取った後の脱脂乳が届けられた。
 余程大きくなるまで、毎年私の誕生日にはもらい乳をした二軒の家には、赤飯が配られたのを覚えているから今で言う混合栄養にしていたのであろう。

 そんなに細心の注意を払っていても、冬は寒い丹波のこと、とうとう肺炎になり、看護婦、産婆の免状を持っていた母ではあるが、他に二人の看護婦を雇い昼夜部屋をあたため、湿布、吸入などあらゆる看護をしてくれて、一命を取り止めたのである。

大きくなってもレントゲン写真に肺炎の後が残っているといわれたが、そんな昔に、しかも乳飲み子を肺炎から救ってくれた事は両親の献身的な努力と愛という他はない。

 そんな事もあって、両親の他は誰にも私を抱く事を許さず、只一人、一番番頭の藤吉さんだけが厚司のふところ深くに抱く事を許されたそうである。後年、もらい乳に行くのも、この藤吉さんの役目だった事を知った。

♪七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり     愛子

Sunday, October 21, 2007

ピート・ハミル著「マンハッタンを歩く」を読む

降っても照っても第67回

アイルランドからの移民の子で、ブルックリン生まれのニューヨーカー、ピート・ハミルによる最新版ニューヨーク案内である。

ニューヨークといっても叙述はマンハッタンの西半分(地図では下半分)のダウンタウンにほぼ限定され、著者が生まれ育って喜びと悲しみとノスタルジーを共にしたこのエリアへのメモワールが縷々綴られる。

 あの01年9月11日の同時テロに遭遇した著者と妻の青木富貴子さんの危機一髪のてんまつや、著者の少年期や青春期の懐かしい思い出話も随所にちりばめられているとはいえ、本書の力点はこの小さな盲腸のような地域の歴史を厖大な資料を駆使して丹念に語りつくすことにおかれている。

まずは先住民、そしてこの地をニューアムステルダムと呼んだオランダ人、その後を襲ってニューヨークと呼ぶことにした英国人、さらにその後世界中から殺到した無数の移民たち……。私たちは後年なってニューヨーカーと呼ばれるようになった彼らが、この土地のどこにどんな建物や公園や教会をつくり、どんな人々がどんな生涯を送り、どのように生き、どのように死んでいったのかを、懇切丁寧に教えてもらうことになる。

例えば――、

オランダ人たちが入植地の先端部分を壁で仕切り、外界の脅威がなくなった段階で取り払った地域が、後年ウオールストリートと呼ばれるようになったこと。

1809年にオランダ系アメリカ人作家ワシントン・アーヴィングが採用したニッカーボッカーという名前が、そのまま彼らの呼び名になったこと。

そしてそのニッカーボッカーたちがセントラルパークを造園し、ニューヨーク公共図書館を建て、コロンビア大学を設立したこと。

1914年に日照権裁判が起こった結果、歴史上はじめて用途地域規正法が成立し、その結果その後マンハッタンに建つ高層ビルはクライスラービルのように軒並み尖塔をつけるようになったこと。

1948年カリフィルニアで金鉱が発見され「49年組」と呼ばれる多くの若者が西部に向かった、そのフォーティーナイナーズが、今も当地のフットボールチームの名前になっていること。

1889年のオーティス社製のエレベーターと同時期の鉄骨構造の開発こそがこの都市の高層ビルの建築をはじめて可能にしたこと。

1880年からの50年間にウールワース、シーグラム、クライスラービル、メトロポリタン美術館、カーネギーホール、ダコタアパートなど、この都市に重々しい壮観をもたらしたボザール様式の美しく装飾的なアメリカ・ルネサンス建築が続々誕生したこと。

だからこそ1965年にあの素晴らしいペン・ステーションが取り壊されたときに激しい抗議と怒りが湧き起こったこと、

等々の、忘れがたいこぼれ話の数々である。

ニューヨークとは切っても切れない関係にある有名百貨店や新聞社の歴史についても要領よくダイジェストしてくれている本書は、この街とこの街の住人とその歴史の光と影をを愛する人々にとって長く手放せないバイブルになるだろう。

ピート・ハミル著「マンハッタンを歩く」を読む

降っても照っても第67回

アイルランドからの移民の子で、ブルックリン生まれのニューヨーカー、ピート・ハミルによる最新版ニューヨーク案内である。

ニューヨークといっても叙述はマンハッタンの西半分(地図では下半分)のダウンタウンにほぼ限定され、著者が生まれ育って喜びと悲しみとノスタルジーを共にしたこのエリアへのメモワールが縷々綴られる。

 あの01年9月11日の同時テロに遭遇した著者と妻の青木富貴子さんの危機一髪のてんまつや、著者の少年期や青春期の懐かしい思い出話も随所にちりばめられているとはいえ、本書の力点はこの小さな盲腸のような地域の歴史を厖大な資料を駆使して丹念に語りつくすことにおかれている。

まずは先住民、そしてこの地をニューアムステルダムと呼んだオランダ人、その後を襲ってニューヨークと呼ぶことにした英国人、さらにその後世界中から殺到した無数の移民たち……。私たちは後年なってニューヨーカーと呼ばれるようになった彼らが、この土地のどこにどんな建物や公園や教会をつくり、どんな人々がどんな生涯を送り、どのように生き、どのように死んでいったのかを、懇切丁寧に教えてもらうことになる。

例えば――、

オランダ人たちが入植地の先端部分を壁で仕切り、外界の脅威がなくなった段階で取り払った地域が、後年ウオールストリートと呼ばれるようになったこと。

1809年にオランダ系アメリカ人作家ワシントン・アーヴィングが採用したニッカーボッカーという名前が、そのまま彼らの呼び名になったこと。

そしてそのニッカーボッカーたちがセントラルパークを造園し、ニューヨーク公共図書館を建て、コロンビア大学を設立したこと。

1914年に日照権裁判が起こった結果、歴史上はじめて用途地域規正法が成立し、その結果その後マンハッタンに建つ高層ビルはクライスラービルのように軒並み尖塔をつけるようになったこと。

1948年カリフィルニアで金鉱が発見され「49年組」と呼ばれる多くの若者が西部に向かった、そのフォーティーナイナーズが、今も当地のフットボールチームの名前になっていること。

1889年のオーティス社製のエレベーターと同時期の鉄骨構造の開発こそがこの都市の高層ビルの建築をはじめて可能にしたこと。

1880年からの50年間にウールワース、シーグラム、クライスラービル、メトロポリタン美術館、カーネギーホール、ダコタアパートなど、この都市に重々しい壮観をもたらしたボザール様式の美しく装飾的なアメリカ・ルネサンス建築が続々誕生したこと。

だからこそ1965年にあの素晴らしいペン・ステーションが取り壊されたときに激しい抗議と怒りが湧き起こったこと、

等々の、忘れがたいこぼれ話の数々である。

ニューヨークとは切っても切れない関係にある有名百貨店や新聞社の歴史についても要領よくダイジェストしてくれている本書は、この街とこの街の住人とその歴史の光と影をを愛する人々にとって長く手放せないバイブルになるだろう。

Saturday, October 20, 2007

ある丹波の女性の物語

第1回 誕生の頃
戸籍によれば私は大正10年2月22日、京都府綾部市西本町25番地に、父佐々木小太郎、母菊枝の一人娘として生まれている。両親共に36歳の時の初めての子供であるから、身分不相応に大事にされ、可愛がられていたようである。
その当時の家業は履物製造販売。祖父も含めて家族4人、職人、店員、お手伝い、合わせて20人近い人員構成であった。
店舗兼住宅と、一寸と離れて倉庫と職場があり、倉庫には北陸地方から貨車で仕入れた桐下駄の材料が、乾燥のためうず高く積み上げられてあった。
 

 私が母菊枝の弟、雀部儀三郎の三女として横浜市桐畑に生まれ、生後100日を経た日に佐々木の両親に守られて、東海道線を乗り継ぎ山陰線の綾部に貰われてきた事を知ったのは、ずいぶん後の事である。
長い間子供に恵まれなかった両親は、雀部家の二男一女のうち、次男をかねてから欲しいと希望していたが、なかなか思うようにならずにいたところ、下に女児の双生児が生まれたので、これ幸いとその一人を貰い受ける事にしたらしい。

それにしても、その頃の東海道線を、生まれて間もない赤ん坊づれ、母乳なしの長旅は夫婦づれとはいえ大変だったろうと思う。そして父は、自分の誕生日と同じ日付で、佐々木小太郎・菊枝の長女として出生届を出しているのだから、後々のためにも、すべてに万全を期していたのに相違ない。
この事に関しては両親は勿論、私も決して口に出した事はない。公然の秘密となった時も、両親のなくなるまで私達の間で話し合う事はなかった。

♪つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   愛子

Friday, October 19, 2007

鎌倉大町の常栄寺に詣でる

鎌倉ちょっと不思議な物語86回

日蓮は、文永8年1271年9月12日に鎌倉幕府の命によりとらわれ、龍の口刑場で処刑されることになった。

ところがその前夜、刑場で突然異変が起こったために刑の執行は不可能になり、上人は一命をながらえた。

その日、桟敷尼という老婆が捕縛された日蓮に牡丹餅を差し入れたので、上人はたいそう感激したという。

この桟敷尼の夫は京都から下ってきた将軍宗尊親王の近臣で夫婦とも法華経の信者であった。桟敷尼は龍の口の法難から三年経った文永11年1274年に88歳で亡くなったが、その法名を妙常日栄といいこれがこの寺の名前「常栄寺」になったという。

この頃から世間の人々は、老婆の牡丹餅の御利益をありがたがり、毎年9月12日には「御法難会」が催され、妙本寺や瀧口寺などの日蓮上人像に牡丹餅を供える慣しになっている。ちなみにこの夫婦の墓は現在も尚この常栄寺、別名「ぼたもち寺」にある。

 余談ながら大町近辺には日蓮宗の寺院が非常に多く、いかに鎌倉時代に日蓮が活躍したかを雄弁に物語っている。

もひとつおまけに、私は長らくこの常栄寺に行けばいつでもおいしい牡丹餅が手に入ると思っていたのだが、それが見物人に供されるのは年にたったの一度なのであった。
狭くて小さなお寺だが、可憐な庭に四季折々の花が咲く。

Thursday, October 18, 2007

アントニン&ノエミ・レーモンド展を見る

アントニン&ノエミ・レーモンド展を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語86回&勝手に建築観光25回

今日も仕事の運びがいまいちなので、久しぶりに県立近代美術館で開かれているアントニン&ノエミ・レーモンド夫妻の「建築と暮らしの手作りモダン」展(21日迄開催)に出かけた。

うららかな小春日和である。修学旅行の生徒たちが八幡宮の参道に並んだ露天に群がっていた。

展覧会ではレーモンド夫妻がわが国に遺した数々の建築やインテリアがたくさんならべられていて、見応えがあった。というより、こんな家なら住んでみたい、こんな家具なら欲しいと思わせる作品が、次から次に現れるのである。
私が思わず「この人がまだ生きているならぜひ家の設計をお願いしたい」とつぶやくと、美術館の隅に座っている職員が笑っていた。

これまで安藤選手だの、磯崎選手だの、亡くなったばかりの黒川選手だの数多くの有名建築家の作品を鑑賞してきたが、そんな気持ちになったのはこれが生まれて初めてだ。もっとも1888年生まれのアントニン・レーモンドは、すでに1976年に亡くなっているので、それは望むべくもない空しい夢なのであるが。

1919年に帝国ホテルの建設のためにフランク・ロイド・ライトとともに来日、大戦をはさんで戦前戦後40年以上の滞日生活の中で、アントニンは欧米と日本独自の和の伝統をきわめてデリケートに調和させた、優しく、美しく、しかもシンプルで機能的な建築とインテリアを創造し続けた。

和洋折衷というととかく曖昧で芒洋としたイメージで捉えられるかもしれないが、彼が各地で手がけた数々のカトリック教会の構成に顕著に見られるように、彼の作風は両者の特性を鋭くきわだたせながら、しかも相反する2つの要素をきわめて合理的、理知的にまとめているのである。

とりわけ軽井沢の夏の家や新スタジオ、笄町にあった自邸、一ツ橋にあったリーダーズダイジェスト東京支社、横浜にできるはずだった超モダンなフォード社の工場、現存する南山大学や群馬音楽センターなどの、まったくけれんみのない、生きた人間の肌のぬくもりを感じさせる建築たちは、あの東京クソミソタウンや、かの六本木あほばかヒルズなどの金満ガジェット高層仇花建築が跋扈する当節にあって、まさに一陣の清風が吹きすぎるような爽やかさと安らぎを感じた。

 現代の売れっこ建築家に欠如していて、レーモンドにあるもの。それは秘められた輝かしい知性と人間と世界に対する慎み深さ、一言で言うと上品なたしなみのこころであろう。

特筆すべきは妻ノエミ・レーモンドの家具・インテリアの出来栄えで、昨今流行のイタリアもの、北欧ものとは一線を画する、そのモデストでいぶし銀のような意匠は、夫の同様のデザイン思潮と内なるアンサンブルを奏で、彼らが琴瑟相和してつくりあげた1軒の住居からは、さながらカレル・アンチェルがチェコフィルを指揮する舞曲のような精妙な中欧音楽が流れ出る。

私は、建築とは「凍れる音楽」ではなく、春の小川のように絶えず流れ込み、私たちの頑ななこころを溶かす音楽であると、はじめて悟ったのだった。

追記
昨日の中原中也の最後の詩の4行目が欠けていました。お詫びして再掲載させていただきます。

四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。

Wednesday, October 17, 2007

鎌倉文学館の「中原中也展」を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語85回

仕事が行き詰ってしまったので、気分転換のために、鎌倉文学館で開催されている中原中也展(「詩に生きて」12月16日まで)に行った。

前回ここで中也の特別展「鎌倉の軌跡」が開催されたのは1998年だからあれからもう9年も経ったことになる。ああ、歳月の流れのなんと迅速無常なることよ!

 中也についてはこの日記でさんざん書いてしまったので、もう付け加えることなどないが、今回もまた彼が27歳の折に山口であつらえた黒いコートとお釜帽子が出品されたのでとても懐かしかった。

あの黒ずくめのダダ・ファッションで、すぐに死んでしまう富永太郎や平成の御世まで長生きした長谷川泰子と連れ立って京都の河原町をランボウとヴェルレーヌ気取りでまるで風来坊のように遊び歩いたのだ。

ところがこのコート、実はもともと他の色だったのを中也が黒に染め直したらしい。また袖の長さが異様に短く、中也はこんなに小男だったのかと改めて思った。

中也は昭和12年1937年10月に30歳の若さで、私が贔屓にしている清川病院(旧鎌倉養生院)で亡くなったが、その直前彼が郷里の母親フクに書いた手紙は、すでに死を予感していたにも関わらず、愛する母親を悲しませないために、「これからの私はの運勢はとても良いそうです」などと空元気を装って綴られており、読むものの涙を誘うが、もしかすると、彼は最後まで自己の再生と復活を基督のやうに信じていたのかもしれない。

 会場には同年9月30日に寿福寺のいまは失われた小さな借家で書かれた中也の絶筆がそっと展示されていた。

      四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。

Tuesday, October 16, 2007

八雲神社に詣でる

鎌倉ちょっと不思議な物語84回

平安時代の永保年間(1081~84)に新羅三郎義光が、兄の八幡太郎義家を助けて清原家衡を征伐する「後三年の役」で奥州に下るため鎌倉に立ち寄った。

当時鎌倉では悪疫が流行していたために、これを救おうと京都祇園社を勧請して祈願したところたちまち悪疫は退散し、住民は難を逃れたという。そこで元は社号を祇園天王社と称していたが、明治以降八雲神社となった。

関東大震災によって倒壊し、昭和四年7月に新規造営されたのが現在の社殿だがその割には神さびて見える。境内左手には江戸時代に造営された4基の立派な神輿が収められ、7月7,8,9日の例大祭にはにぎやかに繰り出す。

すっかり都会化された鎌倉だが、まだお祭りやおみこしというと、辻ごとに意外に大勢の老若男女が参加しているようだ。

Monday, October 15, 2007

マンションとファッション

ふあっちょん幻論第6回&勝手に建築観光25回

戦後日本のファッション史を振り返ってみると、60年代の高度成長期は国産のナショナル・ブランド、73年の第1次石油危機以降の低成長期からは、三宅一生、川久保怜、山本耀司などが主導したDCデザイナー&キャラクターブランド、85年の円高ドル安時代から現在までが、ルイ・ヴィトンやグッチなど外資系ラグジュアリーブランドの時代という流れになる。この見取り図に照らすと、マンション業界の消費者MDはアパレルに比べ約30年の遅れということになるだろう。

戦後日本人の飽食暖衣は驚異的な発達を遂げたが、「住」の進化速度は遅かった。衣食と比べて住宅はお金がかかる。デザインなんて夢のまた夢。「立って半畳、寝て1畳」、とりあえず雨露さえ凌げればいい、というウサギ小屋からわれわれは再出発した。
それからまずはファションのDCブランドに血道をあげ、高度成長の波に乗りながら、徐々にグルメ、インテリア、そして最近の建築・建築雑誌の人気、デザイナーズマンションブームへとその美的・感性消費の選択肢を拡張していった。

その結果、手近なミクロ環境は、現代ファッションの洗礼を受けた消費者の鋭い審美眼に晒されることになったが、界隈性や景観デザインなどのマクロ環境は、最近大流行の都市再開発地域を含めてまだまだ顧客のウォンツを的確に捉えたものとはいえないだろう。

しかしマンション業界もようやく長すぎた冬眠から目覚めつつある。03年に神田神保町にできた三井パークタワー(トーマス・ボルズリー氏がランドスケープデザイン、佐藤尚巳氏が外観デザインを担当)や六本木ヒルズレジデンス(テレンス・コンラン卿担当)の外装をとくと眺めて見よ。いままで無視されていた広大な領域、見ていても見ないことにしていた暗鬱な灰色の領域に、突然カラフルな光線が差し込んだのである。

過去の普通のマンションが、生地屋で買ってきたドブネズミ色のズボンを身にまとって立っていたとすれば、これらの最新ビルはパリコレの影響を受けた色彩豊かなオーダーメードのスカートをはいておしゃれに闊歩している。ような気がしないだろうか?
外装のカラーブロック柄という発想は、いったん実現してしまえば、当たり前田のクラツカー(古い!)。最近では同じアイディアのマンションがあちこちに乱立して、おやおやと首を傾げたくなるが、それはそれとして、そんなに好評ならどうしてもっと昔からやらなかった、と言いたくもなる。しかし、西洋デザイン後進国の私たちはずいぶん遠い地点からゆっくりここまで歩いてきたのだ。

機能が満たされ平準化された商品は、一部のデフレ商品は別にして、デザインと装飾性によって自らを差別化するほかはない。外資系ラグジュアリーブランドからは、彼らの生命線である、デザインの楽しさと深さを、成功しているアパレルメーカーからは、多様な諸個人にフィットする柔軟なパターンオーダー製法の知恵を学ぶことが、当面のマンション業界の課題だろう。

なにはともあれ、我々庶民は、「仕事が終わればまっすぐに帰りたくなるマンション」に、一日も早く住みたいものである。

Sunday, October 14, 2007

ガルシア・マルケス著「愛その他の悪霊について」を読む

降っても照っても第66回

1949年10月、母国コロンビアで駆け出し新聞記者として活躍していたガルシア・マルケスが由緒あるサンタ・クララ修道院の地下納骨堂で見たもの、それはシエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレスの頭蓋骨から伸びた22メートル11センチの長さの赤銅色の乱れ髪であった。

周知のように、人間の髪は毎月1センチずつ成長するもので、それは死後も尚続き、200年間で22メートルというのはごく平均的な数値らしい。聖トマス・アクイナスが書いたように「髪の毛は体の他の部分よりもずっと生き返りにくいもの」であるようだ。

マルケスは若き日のこの鮮烈な体験は、子どものころ祖母によって聞かされた「12歳で狂犬病で死んだ、長い髪を花嫁衣裳の尻尾のようにひきずる侯爵夫人令嬢」の伝説と重なり、神父と聖少女、聖霊と悪霊が熱に浮かされたように交わる異様な愛の物語を生み出した。

狂犬病に冒されたはずなのに死なない美少女シエルバ・マリアは、6度の悪魔祓いに耐え抜き、異端審問所で有罪判決を受けた永遠の恋人を「きらきら輝く目をして、生まれたばかりのような肌のまま」待ち続けながらみまかるが、「その剃り上げられた頭骨からは新しい髪の毛があぶくのようにふきだし、伸びていくのが見られた」のである。

当節のへなちょこ恋愛小説をあざわらう世紀の大恋愛意物語に、とくと耳を傾けよう。


金木犀業火盛んに燃ゆるごと 芒洋

Saturday, October 13, 2007

エリア・カザン監督の「エデンの東」再見

降っても照っても第65回

エリア・カザンがスタインベックの原作を映画化したこの作品は、カリフルニア州の景勝の地モンタレーを主な舞台にしている。

現在のモンタレーはリタイアしたアメリカの超大金持ちが優雅に暮らしている快適なリゾート地であるが、その岩礁に打ち寄せる荒波をただ延々と映し出す冒頭の序曲(オーバーチュア)が旧約聖書の創世記に記された人類最初の殺人事件を想起させる不気味な始まり方をするのである。

エホバによってエデンの楽園を追放されたアダムとイヴにはカインとアベルの兄弟が生まれる。2人は父なる神エホバに供え物をするがエホバはアベルの供え物を喜んで受け取ったが、カインのそれをかえりみなかった。それを恨んだカインは、弟アベルを殺してしまったので、エホバはカインを「エデンの東」に追放したのである。
兄弟の役割はさかさまになっているが、この創世記第四章の逸話がこの映画の物語の原点にあることを忘れてはならない。

エホバと同様に理不尽に父親への愛と尊崇の心を退けられたカインの怒りと悲しみは察するにあまりあるが、カイン役に全身全霊で共感したジェームズ・ディーンの演技が素晴らしい。

特にディーンが父のために稼いだお金を誕生日に贈り、それが父親によって拒否されるシーンの演技は迫真的で、最後に父との和解を遂げた病室のラストと共に涙をさそう。

しかし絶望に駆られて逃走した兄アロン(アベル)、その許婚は、それからどうなったのか、原作を読んだことがない私には気になるところである。

Friday, October 12, 2007

大庭みな子著「七里湖」を読む

降っても照っても第65回

10歳のときに父に死に別れ、12歳のときに日本を去り、アメリカに渡り、母が死んだときも帰国することなく学業を続け、長じて後も日米を行き来しながら齢を重ね、二人の娘もアメリカで暮らしている女性を主人公にした著者の未完の小説である。
日本人やアメリカ人や数多くの親族や友人男女が次々に登場し、ひとしきり思い思いのアリアを歌っては、舞台から退場してゆく。
その舞台では照明はひとつずつ消えうせ、セリフはもはや客席に向かっては語られない。言葉も、呼び出される記憶も、思い出も、やがてモノローグも遠くかすかなものとなり、人も、友も、家も、土地も、愛も、浦島草も、古井戸の死体も、幻の湖も、ありとあらゆるものが霧に包まれ、夢か現かもはや誰にもわからならい無明の闇に沈んでいくのである。

果たしてこれは小説であろうか? 小説だとしても、その物語は生者によって語られているのか、それとも死者が綴っているのだろうか? そうであるともいえるし、そうでないともいえよう。

アラスカに10年以上も住んだことのある著者は、本書の最後の最後に、アラスカで熊に食べられた星野道夫について、こう語っている。

「熊は相手をほふるとき、先ずその内臓に鋭い歯を立てる。それは食欲というよりは、相手と合体し、天地と合体しようとする夢の行為のように思われる。星野さんの写真や文章に現れていたあの奇妙なもの、この地球の軸を揺り動かすような衝撃は、その熊の夢だったと私は知った。(中略)ところで星野さんはなぜ熊に食べられたのだろう。そのような生き方をしていたからだ。文学に生きるのもきっと同じようなものだ。」

Thursday, October 11, 2007

鎌倉の東勝寺跡を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語83回

「本朝高僧伝」によれば、東勝寺は13世紀の前半に三代執権の北条泰時が創建し、開山は退耕行勇となっている。

はじめ禅密兼修で、のちに純粋の禅となったかなりの大寺であったが、元弘三年1333年、新田義貞に攻められた北条高時以下の一族郎党およそ800人がこの寺に立て籠もり、火をかけたのちに切腹して果てた。
これが有名な“いちみさんざん”鎌倉幕府の滅亡である。

頼朝一族をはじめ私の大好きな三代将軍実朝や名だたる名門氏族を次々に陰謀によって滅ぼした陰険で暗い北条政権は、今は、この谷戸のいちばん奥まった暗いやぐらの奥にひっそりと眠っている。

なんでもあの俳優の高倉健氏の先祖がこのとき滅んだ北条一族ゆかりの人らしく、年に一度は以前ご紹介した宝戒寺に詣で、このやぐらに卒塔婆を立てられるそうだ。
目を凝らすと本当に真新しい“高倉”の文字があったので驚いた。 

このようにいったんは破却された東勝寺だが、その後再建され、暦応五年1342年には関東十刹の第五位、至徳三年1386年には第三位の座を獲得している。

むかしむかしいずれのおほんときにか、この東勝寺の裏山には弾琴松という松があって、風に響くその松籟が尋常ではなかったという。私はぬかるんだ山道を駆け登っ東奔西走すみずみまでその名松を尋ねたが、ついに見出すことはできなかった。

参考「貫達人著鎌倉廃寺事典」

Wednesday, October 10, 2007

♪ザルツブルグ音楽祭2006の「フィガロの結婚」を観る。

♪音楽千夜一夜第26回

衛星放送で昨年のモーツアルト生誕250周年記念ザルツブルグ音楽祭のアーノンクール指揮、ウイーンフィルの「フィガロの結婚」を視聴した。最初FMで聴いた時は序曲の乗りの悪さや特有のぎくしゃくした運びに抵抗を覚えたが、そのときの演奏とは違うのか、今回はまずまずの出来栄えだった。正確には、モーツアルトの音楽の邪魔をしなかった、というべきか。

このザルツブルグ音楽祭では、スザンナを演じたアンナ・ネトプレコが指揮者のアーノンクール以上の話題になったようだが、それなりの美貌、それなりの歌唱と演技、ということで世間がわあわあ騒ぐほどのことはない。
いずれおちつくところに落ち着き、世界中のオペラハウスで稼ぎまわったあとで消えていくだろう。カラスのような、デヴァルディのような歌手の偉大さは微塵もなく、単なる消費財として使い捨てられて終るに違いない。

それでも強いて言えば、ネトプレコの唯一の取り得は美脚であろう。男たちはみな彼女の脚下に膝まずき、そのふくらはぎに口づける。そうしてクラウス・グートの演出は、この美しい足に対してこだわることで全編に偏執的な奇妙な味わいをもたらしているのだった。

というのも、この「フィガロ」では、クリスティーネ・シェーファーが演じるケルビーノをのぞいて、アルマヴィーヴァ伯爵も、伯爵夫人も、フィガロも、スザンナも、性愛への欲望をむきだしにしているのである。登場人物たちは彼らの空虚な生に耐えられず、やたらと舞台のフロアにごろごろ転がり、覆いかぶさり、ネトプレコなどは得意の騎乗位?まで見せつけるのだからたまらない。モーツアルトが見たらいったいなんと言うだろう。

ところが驚いたことに、グートの演出ではモーツアルトご本人が、舞台のいたるところにしょっちゅう登場して歌手たちと絡む。両肩に白い翼を乗せたアマデオ(天使)の姿をして……。こんなのありだろうか?

第四幕のフィナーレはどんな凡庸な舞台をいつ見ても感動的だが、グートは、愛とやすらぎのうちに結婚式に臨む三組のカップルのうち、バルバリーナとしぶしぶ組み合わされたケリビーノだけが天使モーツアルトの祝福を拒否して、彼の次のオペラ「ドン・ジョバンニ」の主人公として再来することを予告するなど、まことにこざかしい。また彼の今回の演出では、三幕までの室内を本来の舞台である庭園の代用にしようとする機能主義むきだしの精神がよくない。

それらを含めて、すべてにおいて己の頭の良さそうなことをひけらかしているようなグートの演出は、聴衆が純粋にオペラを楽しむことを妨げ、見た目にもわずらわしく、ちゃんちゃらおかしく、結局は霊感に満ちた天才の音楽の素晴らしさに泥を塗っている。シュトラウスではないけれど、やはりオペラは音楽第一、歌手第二、最後に演出、で願いたいものだ。

かく申す時代遅れの私は、J.Pポネル以降のオペラ演出がどうにも苦手です。当節ではそれが完全に逆転して世界中であほばか演出家が我が物顔に振る舞っているが、あんな見世物に大金を払うくらいなら、家でCDを聴くか、舞台形式での上演に行った方がよっぽどましである。

最後に、歌手ではアルマヴィーヴァ伯爵役のボー・スコウフスの歌唱と演技が見事。ケルビーノを演じるシェーファーは完全なミスキャストでした。

Tuesday, October 09, 2007

「オズの魔法使い」再見

降っても照っても第64回

不気味な小人たち(その多くが身体障碍者だろう)が続々登場してジュディー・ガーランドを取り囲むシーンはその起用の無神経さとヒュウマニテイの欠如にいつも胸糞が悪くなるのだが、吐き気をこらえながら気力を奮い起こして「オズの魔法使い」を衛星放送で再見した。

アメリカ幻想小説の祖L・フランク・ボームの原作を「風と共に去りぬ」のヴィクター・フレミングが監督した本作は、フランスの詩人ネルヴァルの「夢は第二の人生である」という考え方からの影響を受けていると思われる。弱虫のライオンが「お前さんはライオンじゃなくてダンデリオン(フランス語で“たんぽぽ”、直訳すると“ライオンの歯”)じゃねえか」とからかわれるところにも、監督と脚本のおフランス趣味が表われているような気がする。

(昨日久しぶりに見た私の夢は、ライオンともたんぽぽとも関係なく、私の口の中のすべての歯がぼろぼろ取れていくという不気味なものであった。これは夢判断だとどういうことになるのだろうか?)

さて、フランスで活躍したアメリカ人といえば、なんといってもフランクリンであるが、偉大な科学者にして政治家、外交官そして“ヤンキーの父”でもあったこの怪物こそは、この映画の隠れた主人公である大学教授こと“オズの魔法使い”のモデルであろう。
フランクリンは凧を揚げて雷雲が帯電することを証明したが、カンザス州の牧場を襲う竜巻からそのめくるめくファンタジーを開始するこの映画は、90年代に盛んに製作されたトルネード映画の草分けともいえる。

フランス社交界で活躍したフランクリンは、アメリカ伝統の典型的な“ほら吹き男”として、当時の欧州で好意的に認知されたこともつけくわえておこう。フランクリン一流の白髪三千丈的な素晴らしいホラ話が、この映画のベースに横たわっている。

平凡な日常ではモノクロ、夢の世界では華麗な色彩の対比は非常に鮮やかで、主人公「カンザスのドロシー」は皮相な現実と夢魔にみちた“虹の彼方”を行き来するなかで成長して大人になる。
ジュディー・ガーランドの大人とも少女とも見分けがつかない不気味な顔をよく見よう。これこそが当時の“アメリカ合衆国の顔”である。 

この映画が製作された1939年に第二次大戦が始まったが、この国は1941年に突如日本帝国の闇討ちによって真珠湾を攻撃されるまで“虹の彼方”の理想を求めながら独り世界をさまよっていたともいえよう。

そして映画は、There is no place like home(家ほどいいところはない)、という大合唱で幕を閉じる。ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルト大統領以来、世界の警察官を自負して世界中を侵略し続けている米国だが、これは戦争に疲れた帝国主義者の本音でもあるだろう。

もともとはモンロー主義が専売特許であったこの國は、いずれわが帝国と同様、中華人民共和国との歴史的争闘に敗れて、可愛いドロシーちゃんが待つカンザスの片田舎に名誉ある帰還を遂げるに違いない。

ちなみに太平洋の孤島サイパンのスローガンは、There is no place like Saipanである。

Monday, October 08, 2007

五木寛之著「私訳歎異抄」を読む

降っても照っても第63回

浄土真宗の始祖親鸞が入滅しておよそ25年、さまざまな教説が登場して教線が大混乱するなか、異説の跋扈を嘆き、真の親鸞の教えなるものを唱導するために弟子の唯円が著わした「歎異抄」を著者が自分流にほんやくしたのが本書である。

「歎異抄」はこれまでも多くの人たちによって読解されてきたが、五木版のそれは知と情を兼ね備えた達意の名訳であると思った。

「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という有名な悪人正機説のくだりも、「いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人々は、阿弥陀仏の救済の対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちからから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心を改めて他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるにちがいない」
とじつにわかりやすく胸におちる。

悪人正機のみならず、念仏と往生、阿弥陀仏への帰依と絶対救済、他力本願など親鸞の基本的な考え方はなぜか不信者の私の心にも沁みとおった。

巻末に付された五味文彦氏の解説は短文ながら、南都北嶺の弾圧に耐えて関東、東国に力を伸ばしてきた法然、親鸞の布教活動を取り巻く承久の乱前後の情勢について私たちの理解を深めてくれる。

Sunday, October 07, 2007

加藤典洋著「太宰と井伏」を読む

降っても照っても第62回

何度も何度も作品を読み、考え、そして論理とひらめきの端子を辛抱強くつむぐことによって編み上げられた精巧な織物のような文芸評論である。

周知のように、太宰は1948年6月に玉川上水で山崎富枝と心中したが、それまでに都合4回の自殺未遂と心中を繰り返している。

しかしいずれの場合も左翼運動の行き詰まりや、生家からの除籍と結婚生活への不安、生家からの仕送りの打ち切り、妻の裏切りなどでその原因がはっきりしているが、唯一成功した最後の試みの原因だけが、以前深い謎に包まれている。

事実前年の「斜陽」で一躍洛陽の紙価を高からしめた太宰は、当時超人気の流行作家で、ひところの睡眠薬やアルコール中毒の後遺症からも脱し、少なくとも外見からは死ぬ理由などひとつもなかった。

それなのに太宰は「人間失格」を書いて死ぬ。そしてそれはなぜか?と著者は問うのである。

作者は「人間失格」をはじめ太宰治の当時の作品や生活、とりわけ恩師井伏との対立関係などを詳細に分析し、新しく敗戦が彼にもたらした戦争の死者への同情と後ろめたさ、またそれと拮抗するように再び呼び出された、「忘れたい、そして忘れがたい人間の記憶」が、彼を死に突き動かした最大の要因であると指摘している。

「ひとからなんと思われようと、おれは生きる」といったんは決意して小山和代と別れたはずの太宰は、しかし「純白の心」を持つ死者たち、すなわち

 大いなる文学のために、死んでください。
自分も死にます、この戦争のために。

と、太宰に書き遺して死んだ若き弟子たちとの約束を果たすために、あの三島のように潔く自死したのである。

この本では、太宰とその恩師井伏の晩年の角逐についても詳しく紹介されている。

どんなに汚れた心に身を堕しても、したたかに生き延びる頑強な生活者である井伏に多大の恩義を感じながらも、太宰は、最後の最後の瞬間に反旗を翻して、「家庭の幸福は諸悪の本」という純白の御旗を勇ましく打ち振りながら死地に乗入れた。

飼い犬に激しく手を噛まれた渡世の達人井伏は、内心忸怩とした気持ちで最愛の弟子を見送ったにちがいない。

さらに著者は、三島と太宰は同じ死に方をした、と本書で断じている。
彼らは、平和と民主主義と幸福と豊かさと醜い大人の処世術というものにまみれた彼ら自身の戦後の薄汚い生き方をどうしても許容できず、己の手で己を切断する道を選んだというのである。かててくわえて、三島の恩師川端までも、三島の「純白の心」からの糾弾を受けて後に自死を遂げている。

太宰の遺書と考えられる「人間失格」の丁寧な読み直しから記述されるこれらの考察はきわめて論理的で説得力に富む。

しかし、確かに太宰の晩年の心境が「ギリギリのところで正直に語られている」作品だとしても、その次に書かれた、太宰の本当の遺作にして絶筆の「グッドバイ」は、いささか「人間失格」の世界とは異なる心境が披瀝されているように私には感じられる。

太宰は「人間失格」においてドンズマリに陥った即死状態から懸命に身を起して、ふたたびこの汚れた人間共魑魅魍魎どもが跋扈する穢土に雄雄しく居直り、もういちど生き直そうとしていたところ、運命の女との突然の遭遇によって不慮の死を遂げたのではないだろうか?

成熟した大人がこの世で生きることの苦しさと馬鹿馬鹿しさとユーモアとペーソス……。太宰の未完の最後の作品「グッドバイ」は、ヴェルディの最後にして最高のオペラ「ファルスタッフ」に似た独自の世界の端緒を創造することに成功している。

もしも太宰が、彼一流のファルス、人間喜劇の新しい物語を見事に歌い終えていたならば、彼はもはやけっして自死への誘惑に身を任せることはなかっただろう。

とまあ、著者の驥尾に付して勝手なことを書き連ねてしまった私だが、本人ならぬ私たちが死んでしまった人の死因をあれやこれやと臆面もなく想像し、とやかく議論することなど不遜であるばかりか、そもそもその作業自体が不可能なのではないだろうか? 

もしそうだとすれば、本書の著者の最初の問いかけ自体が虚妄であるというほかはない。

Saturday, October 06, 2007

07年9月の歌

♪ある晴れた日に その14

海からの風はかすかに鼻をさし今年の夏はいま逝かんとす

梓川青き流れに座しおればマガモの家族餌をねだり来る

飛騨高山上三之町の軒下に咲いていたのは天青の花

ひともとの白き芙蓉の花残しきたみ工房引っ越しにけり

らあらあときょうも賛美歌うたいつつ白髪の老人橋上に立つ

イタリアの脳天気テノール死にたれば地球は少し暗くなりたり(パヴァロッテイ死す)


大本営の秘密漏らさず逝きにけり (瀬島龍三死す)

季語のない俳句をひとつよみました

叱られて今日はどこまでゆくのでしょう

天青のなかに海と空がある

どうしても好きになれない人がいる(安倍退陣)

須賀線に身を投じたるカンナかな

クワガタの肉に食い入る痛さかな

おタマより手塩にかけし蛙かな

名月や世に格別のこともなし

けふもまた蝶よ花よで日が暮れる

紋白蝶に纏わりつかれるうれしさよ

てふてふは未来のために生きている

マンジュシャゲに願を掛けるか揚羽蝶

Friday, October 05, 2007

鳥越碧著「兄いもうと」を読む

降っても照っても第61回

鳥越碧という作家が「兄いもうと」という本を書いたので、読んでみるとなんのことはない正岡子規と律の兄妹物語だった。

子規の壮絶な晩年を母の八重と共に、妹の律が献身的に支えたことは広く知られているが、その家族愛の根底に“秘められた男女の愛の絆”を想定したことが本書の大きな特色であろう。

確かに律の観点から兄の短すぎた晩年を描こうとすれば、“単なるきょうだい愛を越えた異性愛”という“いまどき風の異色のファクター”を導入したほうがドラマチックな展開になるのは知れたことだが、その根拠は、お話を面白おかしくしようとする著者の読者サービス精神以外のどこにあるのだろう?

律の性格や看護について「仰臥慢録」にいくばくかの記述は出ているが、自伝のどこにも立ち昇った形跡のない薄煙を、まるで業火のように針小棒大化して、さながら近代深層心理小説のようにとくとくと書き継ぐ著者の神経に私は疑問を抱いた。

もっともあの江藤淳だって、悪妻が漱石を毒殺しようとした、なぞと本気で考えていたわけだから、当たらぬも八卦かもしれないが、ともかく私はこんな妄想的想定自体が想定外に不愉快だった。そんな小手先のテクニックを使わなくても最後の第九章などは十分に感動的な読み物になっている。

余談ながら、私は子規の小説より、俳句より、短歌より、お得意の写生文よりも、彼が激痛の合間に描いた水彩画が好きだ。

草花を画く日課や秋に入る 子規

Thursday, October 04, 2007

藤原伊織著「遊戯」を読む

降っても照っても第60回

最近亡くなった藤原伊織の遺作「オルゴール」と同じく未完の短編連作「遊戯」全5編が収められているが、やはり後者の雄大な構想と読み進むにつれて高まるスリルとサスペンスが心に残る。

登場人物は人材派遣業種に勤務する30代の男性と、ネットで知り合った20代の女性、その二人を脅かす謎の中年男という設定だが、著者は得意とするインターネットや広告・モデル業界やテレビCM制作現場の知見をフルに活用して、平成十九年の御世に棲息する同時代人の、格別面白くもない日常を平凡に生きる喜びと悲しみを知的に抑制された筆致で淡々と描き出していく。

しかしそれだけではなく、この物語では、パソコンゲームや派遣ワーカーやワインや道玄坂のバーやホテルや冷たい拳銃や銃弾やバイオレンスなどの、いかにもありそうな道具立てが手際よく点描され、いまどきの若い男女がクールに交わす乾いた双方向コミュニケーションの情景が上出来の風俗画のように次々に繰り広げられ、読者の心をしっかり捉えて離さない。

恐らくは全編の半分の道程で静かなること山の如きこの見事なサスペンス心理大作が著者の死によって永遠に途絶してしまったことは、まことに残念至極である。

しかし旧弊な人である私は、この作家が叙述文の中で頻繁に使用する、「なので」といういまどきの話し言葉がとても気になった。やはり味噌と糞とは区別しなければなるまい。

Wednesday, October 03, 2007

マリー・アンジェリック・オザンナ著「テオ もうひとりのゴッホ」を読む

降っても照っても第59回

兄である画家ヴィンセントと画商である4歳年下の弟テオの双生児的・同性愛的関係を、テオにスポットライトを当てながらその全生涯を丹念に回顧したイストワールが本書である。

ゴッホ、ゴッホというけれど、長兄ヴィンセントが誕生したのは、あのペルリが黒船で浦賀にやって来た嘉永6年だからまあつい最近の話である。

そもそもゴッホ家は先祖代々の篤信家で、父親は新教の熱心な牧師であったが、その真似事までやった兄と違い、テオはキリスト教の教義を激しく疑っていた。

しかしこの兄弟はときおりの喧嘩や行き違いがあったものの、まさに一身同体の人生を歩むことになる。

兄弟は一族の遺伝である精神病を二人ながらに患ったこともある。また兄が一時画商の見習いを勤めたように、弟も画家を志した時期もあった。二人はまるでシャム双生児のように、分離される前のベトちゃんドクちゃんのように、心身ともに依存しあいながら、「ぼくらの作品」を共同で制作しながら病で倒れ、短かい生を激しく燃焼しつくして彗星のようにこの世を去ったのであった。

よく知られているように、兄ヴィンセントは1890年7月、37歳でオーヴェールでピストル自殺するが、その直接の死因はテオが毎月150フランの仕送りを保証できないと兄に告げたためだった。当時ヨハンナと結婚し愛児ヴィンセントが生まれたばかりの弟は、パリの画廊グーピル商会の支配人であったが、昇給を認めず、印象派の絵画に無理解で保守的な考え方の画廊経営者と激しく対立し、あまつさえ梅毒の後遺症が心身を蝕んでいく懊悩を抱えるなかで、兄の援助を放棄してグーピル商会を辞して独立しようとひそかに考えていた。唯一の庇護者である弟の窮状を察知した兄は、それが最善の方法であると確信してみずからの胸に弾丸を撃ち込んだのだった。

たつきを失い、最愛の弟をヨハンナとヴィンセントに奪われたと感じていた兄に残された選択は、自死しかなかったのである。兄の死に大きな衝撃を受けた弟の病状はいっきに悪化し、錯乱して妻子に暴力を振るうようになる。

1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院したテオは、絶望に打ちひしがれた若き妻子を残して、あのフランツ・シューベルトと同じ31歳、同じ病(梅毒末期の全身麻痺)で翌91年1月25日に息を引き取った。

テオの忠実な友ピサロの嘆きの言葉や、めったに人を褒めないゴーギャンの「テオが狂った日に私も終った。私はもうどうやって絵を売っていいか分からない」という言葉が、数多くのヴィンセントの作品とともにあとに残された。

それにしても当時誰一人として認めようとしなかったゴッホの作品とその悲惨な生涯の意味と価値を、生前もうひとりのゴッホが、

「もう兄さんは治らないだろう。彼のした仕事は無駄にはならないが、実を結ぶことはないだろう。世の中が彼が絵の中で語っていることを理解するころにはもう遅いのだ。彼は最も先を行く画家であり、最も理解しがたい作家だ。彼の思考は世間の常人から遥かに隔たったところにある。だから彼の言いたいことを捉えるにはまず既成概念からすっかり解放されなければならない。理解されるとしてもずっと後世になってからだろう」

と的確に予言していたわけだが、その「理解の時期」はテオが想像したよりも意外に早かった。

ヴィンセントの真の復権と輝かしい栄光の日々は、1953年の彼の生誕100年を期してテオの息子ヴィンセント・ウイレム・ヴァン・ゴッホが祖父の作品展を開催した日にはじまったのであった。

Tuesday, October 02, 2007

杉本観音の自転車屋さん

鎌倉ちょっと不思議な物語82回&遥かな昔、遠い所で第21回

肌寒い雨の中を、神中運輸の産廃運搬車がぼろぼろになった自転車を運んでいった。

あれは確か25年前のことだった。2万5千円くらいしたブリジストンの最新型のかっこいいやつを杉本観音下の自転車屋で買ってやったのだが、少年が喜び勇んでどこかに乗って行ったら、いきなり誰かに盗まれてしまって、二度と出てこなかった。

それを知った自転車屋のおじいさんが、
「それはお気の毒だったネ。代わりにこれでも持っていきなされ」
というて譲ってくれたのがその自転車だった。

もとよりオンボロ自転車だったが、以来五年、一〇年、そして25年の歳月が流れ、少年は大きくなってとっくの昔に遠い町に行ってしまったので、もっぱら私が彼の自転車に乗ることになった。

私はいつも雨ざらしのために褐色にさびついたオンボロ車を駆って鎌倉中を疾駆し、いつでもどこでも鍵を掛けずに停めていたのに、今度は誰も盗まないのだった。たった一度だけ一晩放置していた間に消えうせたことがあったが、それは放置自転車狩りに遭ったとみえて東勝寺の脇の市の自転車置き場で見つかった。

おじいさんはその自転車がパンクしたり、ベルが取れたり、チエーンが外れたりするたびに何度も何度も無料で修理してくれ、よほど大きな修理でも200円を超えるお金はびた一文受け取らなかった。私が無理矢理500円玉をそのしわくちゃの手に握らせようとしても断固として拒否したものだった。

いつもきたない作業着を着て、無数の自転車や中古オートバイと油とゴミにまみれ、いつも腰を正確に45度に折ったまま、ビュンビュン車が走り去る道路の傍にしゃがみこんで修理していたおじいさん。
一日で幾らの収入があったか分からないけれど、靴屋のマルチンのごときその質朴で真面目で正直な仕事ぶりはいつも変わらなかった。
ある日のこと、またしても自転車がえんこしたので、私が杉本観音までえんやこら、えんやこらとひっぱっていくと、お目当てのおじいさんの姿はどこにも見当たらなかった。

店の奥から息子さん(といっても4、50代だが)が出てきたので、「おじいさんはどうしたのですか?」と尋ねると、「去年の2月に交通事故に遭って亡くなりました」という返事に、私は絶句した。

自転車を丁寧に診察してくれたその息子さんも、父親に似て質朴で真面目で正直な職人で、「これはすぐには直らないので修理が終ったら私がおたくまで届けます」と約束し、翌日修理の終ったボロボロ車をピカピカに磨いて自動車に乗せて玄関口まで運んでくれた。料金はたったの100円であった。

おじいさんが亡くなってしまったその自転車屋さんは、その息子さんとその息子さんの息子さんの2人が跡を継いで、いつも道路脇の溝の上に腰を下ろして夢中で修理している姿を見かける。

 けれども私の自転車は、今回はもう修理どころではなかった。チエーンが劣化してとろとろになり、走るたびに外れてしまう。いよいよこれで御用済みだと思い切り、ついに涙を呑んで廃車にすることにしたのである。

長い歳月を共にしたおんぼろ自転車を積んだトラックが、雨の和泉橋を右折して走り去るその後姿を、私はしばらく見詰めていた。

Monday, October 01, 2007

紅葉山やぐらと東勝寺橋

鎌倉ちょっと不思議な物語81回

宝戒寺の奥には昭和8年1933年に発見された「紅葉山やぐら」がある。

この附近のやぐらは鎌倉・室町の上層階級の墳墓と考えられているが、ここからは五輪塔、納骨堂、さらに海蔵寺と同様の十六井戸が見つかった。

そして平成11年1999年の大崩落の際に、神奈川県教育委員会の調査で、ここが北条執権ゆかりの納骨個所であることが確認された。

紅葉山やぐらに渡る橋から滑川の下流を眺めると、鎌倉で現存する最も古い赤くて瀟洒なな東勝寺橋が見える。

最近これを味けないコンクリート橋に架け替えようとする計画が発表されたようだが、四季折々の見事な景観を維持するために、どうかこのままにしておいてほしいものである。

鎌倉の宝戒寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語80回

この寺の一帯は北条義時の代に一門の屋敷が築かれ、その後歴代の得宗家が最後の執権十六代守時の代までここで総指揮を執った。三つ鱗は三菱ではなく、北条家の家紋である。

その後、北条氏打倒の命を下した後醍醐天皇が北条一門の怨霊鎮護のために足利尊氏に命じて同じ場所に建てたのがこの宝戒寺である。

その後醍醐天皇を滅ぼした形になった足利尊氏が、亡き天皇の慰霊のために京都に建立したのが天龍寺であるから、思えばこの二つの寺は不思議な縁によって結ばれているともいえる。

本堂には本尊の菩薩像のほかに梵天像、帝釈天像、不動明王などが安置されており、境内右には2世普川国師が鎮護国家を祈念して歓喜天を安置した大歓喜天堂、左には北条氏を供養する宝篋印塔が建てられ、さらに本堂を巡る庭園には、正月の羽子板の羽根の重石に使われるムクロジュなど、四季折々のさまざまな花や植物が植えられている。

Saturday, September 29, 2007

柳美里の「山手線内回り」を読む

降っても照っても第58回

私は、小説というジャンルの内容や形式の新しさなどはもはや出尽くした、と勝手に考えていたが、そうは問屋が卸しはしなかった。まだまだ前人未到の領域が残されていることを著者は見事に証明して見せたのである。

まず「山手線内回り」というタイトルだが、ここには東京の代表的な交通エリアに物語の場所を据え、駅周辺に生活する三人の都会人の最先端の生を描くと共に、その三つの生の最期と一体化された冷酷無残なギロチンとしての電車を終幕に登場させるという趣向なのである。

3つの短編にはそれぞれの主人公がいちおう存在するのだが、物語の真の主人公は、山手線の電車に象徴される現代社会がはらむ無機的な非情さと無関心と敵意と孤独そのものなのである。

第1作の最初のページは、「女は便器に越をおろすと、タイトスカートをへその上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内にこもっているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、そしてなか指をクリトリスに押し付けて左右に強く―、」という卑猥で下品で文章で始まる。

私は著者の人格を思わせるそのあまりの「えぐさ」に不愉快になり、かててくわえてその擬音や雑音や地口や広告やチラシの無秩序な引用やらにムカついて、あやうく本書を文字どおり放り出そうとしたのだが、「しかしこれはセリーヌに比べたらまだひよっこみたいなものだ」と思いつつ、ぐっとこらえているうちに、しだいに著者の術中にはまり込み、「まもなく4番線に上野・池袋方面行きが参ります、危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」という最後の文章を読むころには、あろうことか著者の力量にすっかり脱帽してしまった。

次の「JR高田馬場」、さうして巻末におかれた「JR五反田駅東口」では、著者の実験的手法は(少なからざる失敗と大きな逸脱はあるものの)、着実な成果をあげることに成功し、最後の作品の最後の文章(記号!)を眼にした人は、容易に忘れられない感銘を覚えるにちがいない。

著者は、通常の作家が見落としている非文学的な領域にあえて下降して、もっとも文学的ならざる醜い文体、無意味な記号、漂流するネット情報の断片などを丁寧に拾い上げ、それらの糞のようなガジェットどもを総動員して見事な平成文学を荒々しく紡ぎ上げた。

これは、まさしく泥池に咲いた一輪の美しい蓮の花であり、醜いアコヤ貝に育まれてついに世に出た一粒の真珠であり、さらにいうなら、閉塞する現代文学に対して投じられた起死回生の手榴弾である。

Friday, September 28, 2007

寂しい異端派

♪音楽千夜一夜第27回

いまどきの人は誰も読んでいないだろうが、音楽之友社という出版社から「レコード芸術」というクラシック趣味のマニアックな雑誌が出ている。私は吉田秀和氏のエッセイが連載されているので毎号必ず目を通しているのだが、巻頭の目玉記事は月評ということになっていて、いろいろな音楽評論家が、(読者の大半が馬鹿にしているとは知らないで)手前勝手に新作CDの批評をしている。

昔はここで高く評価されると実際にレコードが売れることもあったのだが、この節ではそのような幸福なめぐり合わせは絶えてないようである。

さてこの月評で面白いのは、交響曲担当者の小石忠雄氏と宇野功芳氏の見解と評価が毎回ほとんど一致しないことで、一方が推薦しているCDを、他方(その大半が宇野氏である)がくそみそにけなしていることだ。

例えば07年9月号では小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団によるモーツアルトのリンツやプラハの演奏を、小石氏は「小澤のモーツアルト世界が構築されている」と絶賛しているのに対して、宇野氏は「両曲とも平凡で、自分はこういうモーツアルトをやりたいのだ、という意志がなく、とても名曲とは思えない」と一刀両断している。

同じ指揮者の同じ演奏を前にして天地さかさまの評価が出るのは、当たり前といえば当たり前だろうが、もし芸術に鑑賞者の能力や資質や好悪を超え、各人各様の恣意性を超えた客観的かつ絶対的な評価基準があるとすれば、「どちらの意見も正しい」、あるいは「めくら千人、目明き千人」とはけっしていえないはずである。

ちなみに私も宇野氏とまったく同じ評価なのだが、どうやら世間ではあいもかわらず小澤と巨人軍(たかが野球なのにお前は軍隊なのか!)と自民党ファンが主流派らしく、少数異端の私などは、いずれ君たちにも分かる日も来るさ、と寂しくつぶやきながら黙って耐えているしかなさそうである。

Thursday, September 27, 2007

コーリン・デイビス80歳

コーリン・デイビス80歳

♪音楽千夜一夜第26回&遥かな昔、遠い所で第20回

今日もロンドンで放送しているBBC3のライブをポッドキャスティングで聞いている。コーリン・デイビスが80歳になったのでそれを記念したライブやこれまでの演奏を紹介しているのである。白髪のコーリンがフィガロの第二幕とか幻想交響曲と、シベリウスなどのおはこを楽しそうに振っているのが目に見えるようだ。

幕間のインタビューで内田光子が、コーリンのモーツアルトへの愛を例によってとても興奮した口調で喋っていたが、そんなに大げさに褒めることもあるまい。コーリンはいつでも謹厳実直で温和で、しかしここぞというときには激しい精神の火花を散らす音楽家であり、今では数少なくなった古きよき時代の英国の紳士なのである。

私が彼の音楽をはじめて耳にしたのは今から30年以上も昔の東京文化会館で、来日したコーリンがブリテンの「ピーターグライムズ」とベルリオーズの大作「トロイ人」を指揮して、それが私の生まれて初めてのオペラと英仏音楽体験となったのだった。ピーターグライムズを熱演したジョン・ヴィカーズのあの逞しい体躯!

コーリンよ、どうかいつまでも長生きして彼独自の優美なモーツアルトのオペラを聞かせてほしい。

Wednesday, September 26, 2007

吉本隆明著「自著を語る」を読む

降っても照っても第57回

吉本の人間と思想から決定的な影響を受けて雑誌「ロッキング・オン」を創刊したロック評論家渋谷陽一による吉本へのインタビュー本である。渋谷陽一のロック評に私はかつて一度も裏切られたことがないが、渋谷はここでも著者に対する的を射た的確な問いを発し、著者の誠実な回答を引き出すことに成功している。

吉本は渋谷の手引きによって忌野清志郎や遠藤ミチロウの「スターリン」のライブに出かけたそうだが、吉本とスターリンの取り合わせの妙には笑ってしまった。

それはさておき、本書では、初期の「固有時への対話」「転位のための10篇」から始まって、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」にいたる著作の執筆動機や時間的経過を経ての振り返りが、吉本の難解な表現に辟易した私のような読者にもわかりやすく語られている。

渋谷が断じたように、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」の3部作とは、小林秀雄とは違った形の吉本の「詩」であったのもかもしれない。ちなみに吉本は小林の評論を「無思想な詩」であると総括している。

しかし子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の名句である所以、芸術作品としての価値は必ずや一字一句微分積分できるはずだと、相変わらず頑固に主張するこの数理学者の言語論には首をひねらざるをえない。

もしもその理屈が可能になったとしても、その機能還元主義的分析の極限は子規の人格そのものであり、吉本主義的分析は、俳句創造の精神とはついに無縁なものであるだろう。吉本があこがれる朔太郎や中也は、別に後世に残る名詩を書きたくて詩人になったわけではない。

吉本において、言語美とは自己表出と指示表出の「織物」であるそうだが、So What?  いったいそれがどうしたというのだ。私たちの作句の精神作用となにか関係の絶対性でもあるのだろうか? ここには「文学に科学を介在させることが進歩的である」という奇妙な錯覚がある。

Tuesday, September 25, 2007

小池昌代著「タタド」を読む

降っても照っても第56回

今日の朝日新聞によれば、文芸誌の書き手が既存の専業作家から演劇畑などの異業種に拡大されつつあるそうだが、国会議員にお笑いタレントや格闘技選手が進出しているご時勢なのだからこれは遅きに失した当然の成り行きだろう。

才能の発掘の余地はつねに広く開かれていなければならない。本書の著者も本職は詩人であるが、詩人らしい繊細な感性を生かしてなかなか面白い短編を3本並べてくれている。

表題の「タタド」というのは、意味不明のタイトルで始末に終えないが、要するに海の傍の広い1軒屋に集った2組の熟年カップルが、ふとしたはずみにスワッピングしてしまう話で、ひとつ間違えば低俗ポルノに堕しかねないプロットを、著者はその寸前で見事に持ちこたえて、絶妙なクライマックッスを築くことに成功している。

しかしその文尾は、「寝室から、タマヨのあげる大きく荒々しい声が聞こえてきた」というのだが、詩人にしては少しく下品な日本語ではないだろうか。

「波を待って」もやはり舞台は海であり、この短編の主人公は、終始海から吹き続ける夏の終わりの風である、といってもよいだろう。突然サーフィーンに狂ってしまった夫の帰還をひたすら海辺で待ち続ける妻のモノローグは、どこかヴァージニア・ウルフの「波」の独白を思わせるところがあった。

私の隣人もサーファー夫婦だが、この小説を読んで、若い彼らがいったいなににとりつかれて毎日のように海に行くのか、その一端がおぼろにつかめたような気がした。

最後におかれた「45文字」は物語の設定がやや強引に過ぎると思うが、末尾の二人の登場人物のこれからが気になる。

このように著者の短編は、はじめは処女の如くおずおずと助走を開始し、徐々に加速しながら最終地点で脱兎の如く読者めがけて投じられる長弓のように、むしろ物語が果てた後で、その大きな震動が私たちを揺るがし始めるのである。

Monday, September 24, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅ブータン編」を読む

降っても照っても第55回

2500年前にインドで起こった仏教は、中国や朝鮮半島を経由して日本に渡り、インドでヒンズー教と習合した後期大乗仏教が、チベットに入って土着のボン教と習合してチベット密教となり、それがブータンに入ってブータン仏教徒となった。

ブータンでもっとも信奉されているのはニンマ派の開祖で「第二の仏」と称されているグル・リンポチエで、グル・リンポチエは時と場合に応じて釈迦、王、僧侶、歓喜仏、王族、修行僧、憤怒尊など8つの姿に変身して出没するという。チベット密教の影響を強く受けたブータンの仏教が、わが国の仏教とまったく相違するのも当然であろう。

ブータンの人々はけっして蝿や蚊を叩いて殺さない。死して49日後には輪廻転生して次の人?生に生まれ変わることを信じているから、位牌を持たず、先祖供養をせず、インドと同様墓を所有しない。

インドでは遺灰はガンジスなどの川に流すが、ブータンでは手のひらほどのピラミッド型の泥細工にされて山陰や仏塔のたもとに供えられ、歳月とともに風化して土に還っていくそうだが、私はこの考え方にとても共感を覚える。

ブータンといえばGNP(国内総生産)という物神思想を廃し、国民総幸福量GNHで人間の幸福を図ろうとする価値観をなんと28年前の1979年に世界に向かって発信したことで知られる。

この國ではいかにして金儲けするかではなく、いかにして幸せに生き、幸せに死ぬか、ということが最大のテーマなのである。

Sunday, September 23, 2007

村上春樹編著「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を読む

降っても照っても第54回

著者が偏愛するスコット・フィッツジェラルドの短編、エッセイ、故地探訪記、そしてスコット・フィッツジェラルドを助けた「エスクアイア」編集者によるアーネスト・ヘミングウエイとスコット・フィッツジェラルドのエッセイを付け加えた興味深いアンソロジー(いずれも村上の書下ろしと翻訳、解題による)である。

私にはわけてもスコットのファム・ファタールであるゼルダの伝記と最後の思い出話が興味深かった。
ゼルダ・セイヤーはスコットが「アラバマ、ジョージア2州に並びなき美女」と絶賛したそうだが、写真に見るその顔はそのような美人ではない。彼は彼女が発する凄まじい生命力の虜になったのだろう。

退屈のあまり消防署に「子供が屋根に上ったまま降りられないから助けて」と電話してから屋根に上り、はしごを外して救援の到着を待つ少女ゼルダ、そして20年代ジャズエイジのフラッパーとなって酒とパーテイとダンスに明け暮れ、酔っ払って断崖絶壁から深夜の海に飛び込む命知らずの女を私は好きになれないが、タデ喰う虫も好きズキ、そんな生命の爆発的な輝きにスコットは限りなく魅せられたのだろう。

しかし自由と自立を求めて、愛する恋人スコットとも戦う中で精神を病んだゼルダの晩年は、1940年、ハリウッドで心臓発作で急死したスコットと同様、目を覆いたくなるように悲惨である。1947年11月、ゼルダはアッシュビルのハイランド病院で火事に遭い他の8人の患者と共に黒焦げになって焼け死んだ。享年48。「彼女を知るものは誰一人としてその人生を短すぎるとは感じなかった」、と村上は記している。

アーノルド・ギングリッチによって書かれた巻末の「スコット、アーネスト、そして誰でもいい誰か」は、スコットとヘミングウエイの二人の共通の友人による交遊録と両者の比較であるが、ギングリッチはその人物、文学的価値のいずれをとってもスコットに軍配を上げている。

「皮肉なことに存命中には大成功しそうに見えたほうが挫折のうちに死に、挫折のうちに死んだ方が見事な成功を手にした。やがてヘミングウエイ再評価がやってくることもあるだろう。ちょうど私がドライサー再評価の到来を信じているように。でもフィッツジェラルドには再評価はもう必要ない。フィッツジェラルドは、将来必要とするであろうものまで既にすっかり手に入れてしまった。そしてヘミングウエイがいまだ辿り着いていない不動の地位をも獲得した。それはまったくのところ、スコットの好みそうな趣向である。しかしそれを鼻にかけたりすることはなかったはずだ。彼はそういうことをけっしてしない人だったから」

この1966年12月に書かれた追悼文を、泉下のスコット・フィッツジェラルドに読ませたかったと思うのは、私だけではないだろう。

Saturday, September 22, 2007

G・ガルシア¬¬・マルケス著「悪い時」を読む

降っても照っても第53回

表題作のほかに「大佐に手紙は来ない」「火曜日の昼寝」「最近のある日」「この村に泥棒はいない」などの短編を9本収録した作品集である。


前作の「落葉」は著者の生まれ故郷のアラカルタをモデルにしたマコンドの物語であったが、本作の舞台はコロンビアのとある町に変わっている。

マルケスは50年代に発表の当てもなく「悪い時」をパリで書き始めたが、その途中で「悪い時」の登場人物が、前述の「大佐に手紙は来ない」など、それぞれ自分を主人公にした物語を書くことをマルケスに要求したため、「悪い時」の完成は1962年を待つことになってしまった。

個人を描きながら、全体としての町を描き、些細な事物をきめ細かく叙述しながら、その町を取り囲む政治、経済、社会の動向を刻一刻と記録していくその手法は、ドキュメンタリーとロマンチックなドラマツルギーの双方向的融合であり、著者が目指したのは虚実をあわせ含む現代の総合全体小説といってよいだろう。そしてその試みは後の「百年の孤独」において見事に結実するのである。

 それはともかく、この作品集におさめられた「失われた時の海」における海底都市の幻想的な美しさには息を呑む思いであった。

Friday, September 21, 2007

叱られて今日はどこまでゆくのでしょう

♪ある晴れた日にその13&鎌倉ちょっと不思議な物語79回


 年々蛇も少なくなる。

ここ太刀洗はヤマカガシがうようよしていて、私が大切にしているオタマジャクシを食べてしまう。「ダメダメ」と追い払っているうちに秋が来るのが常だったが、今年はそんな必要もなさそうだ。

ヤマカガシよ、しっかり生き延びて大きく育ち、ここいらへんにやって来る「杉並歩こう会」のおばはんたちをびっくりさせなさい。

Thursday, September 20, 2007

クワガタの指に食い入る痛さかな

♪ある晴れた日に その12

一昨日の朝は私が、そして昨日の朝は家内が、玄関先の同じ場所で小さなクワガタに親指の肉を噛まれた。

仰向けになって必死でもがいているので、可哀相だから起してやろうと掴んだところを、クワガタの両手で深々と挟まれた。しかも私はオスに、家内はメスに噛まれたのである。

世の中には不思議なこともあるものだ。そうして不可思議な似た者夫婦もあるものだ。

Wednesday, September 19, 2007

原聖著「ケルトの水脈」を読む

降っても照っても第52回

講談社の「興亡の世界史」第7巻が本書である。80年代に入ってアイルランドのリバーダンスやエンヤの癒し?音楽など、いわゆるケルトブームが世界中で巻き起こったが、そのケルトとは何かをあれこれぐちゃぐちゃ論じている。

しかしケルト人とは何か、と問うても諸説紛々でいまいち定説がなく、基本的にはカエサルが「ガリア戦記」で述べているガリア人と同じであるらしい。ただ確かなことは古代からケルト文化の淵源はアイルランドやスコットランドなどではなく、ガリアの本拠である現在のフランスのブルターニュ地方であり、昨今のアイルランドやスコットランド中心のケルトブームは、先祖探しに狂奔するそれらの國の政治的戦略でもあるらしい。

キリスト教を国教にしたローマは、ギリシアローマ神話のみならずありとあらゆる非キリスト教的なる神話や伝説を皆殺しにしたが、このブルターニュ地方にはかなり長くケルト文化が残り、地下水のように細々と流れながらその遺産を現代に伝えているらしいのである。

その水や泉や巨石や聖なる山、ドルイドと呼ばれたケルトの僧侶が太陽崇拝を行った聖なる火、フレーザーが「金枝篇」で研究したヤドリギなどの木や植物、鬼や魔女や妖精や妖怪、アンクウと呼ばれた死神などは、いずれもケルトを代表するカルチャーであった。


著者によれば、フイニステール県の海岸部では、死者を運ぶ「霊魂の船」が人知れず夜中に航行するが、霊魂の呼びかけがあっても絶対に「アーメン」としか答えてはならない。もしそうしなければ一緒に連れて行かれてしまう。

またブルターニュ地方ではあの世からの帰還を求めて夜に洗濯する女の幻影が古来数多く見られるという。死後の霊は蝶、野うさぎ、ネズミ、小蝿、黒猫、ガチョウなどに姿を変えてこの世に戻ってくるというのだが、これはまったく非キリスト教的な考え方であり、むしろわが国の仏教に似ているのではないだろうか。

そんな次第で、このさい改めて西欧世界の歴史を学びなおし、NYの聖パトリック教会の由来や、アーサー王伝説などについてくわしく知りたい人には手ごろな教材になるだろう。

Tuesday, September 18, 2007

エットレ・スコーラの『星降る夜のリストランテ』を観る

降っても照っても第51回
                              
この映画は『特別な一日』や『ル・バル』や『マカロニ』のエットレ・スコーラ監督の作品だから、少し乱暴だけれども、あら筋がどうだこうだと書くのはいっさいやめよう。108分間、黙ってみていれば十二分に楽しませてくれる。

原題の『ラ・セーナ』は、イタリア語で「晩餐」。前菜やデザートや洒落た会話や悲喜こもごもの人間模様の数々を、監督は美味しく料理してくれる。そして最後に、夜空の星がぼおっと映し出されて、スコーラさんは、このシーンを撮りたかったのだとわかる。モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」の溶ろけるようなアンダンテを、リストランテの全員がしんみり聞き惚れるシーンは素敵だ。もういちど人間を、人生を好きになれる映画、かも知れない。

以上で終り、のセンス良し映画なのだが、僕としては、ある女性に再会できて嬉しかった。
ファニー・アルダンである。もう相当の歳なのに、色っぽい。レストランの女主人という役どころ。ベージュの前開きワンピースをゆったりと着こなし、ちょっと胸元をのぞかせ、あの人懐こい笑顔、大きな口を開けて「ヴオナセーラ」とお客様にご挨拶ーー
眼を凝らして、肩紐を何回もチェックしたが、多分ノーブラOR恋するブラであろう。

80年代の前半に、フランスかイタリアの田舎町でアルダンの映画を見た。アルダンが海辺の汚いバーのトイレに行く。ドアを開けたまま、パンストとスカートを一気に下ろして便器にしゃがむ。その時陰毛がくっきり映っているので僕は吃驚した。これ見よがしにシャアシャアと用便するアルダンめがけて、若きジャックニコルソン風労務者が欲情をムキダシにして進んでゆく……。

嘘みたいなシーンだったが、僕はこの眼でしかと見たのだ。しかし、このあと2人がどうなったのかまったく覚えていないのが残念。日本未公開の超B級作品だとおもう。恋人トリュフォーを失ったアルダンの自暴自棄がアナーキーに出ていた。できるだけ下らない映画に出て、自分を痛めつけてみたかったのだろう。

トリュフォーの遺体に取りすがって、アルダンがわんわん泣いたという記事を読んだこともある。その瞬間、僕はなぜか彼女のわんわん泣いている有様が、まるで映画のワンシーンのように脳裏に浮かんできて、大根女優の彼女を、はじめて好きになったのだった。
熟女アルダンのしどけなく、臈(ろう)たけた感じがなかなかいい。死ぬまでノンシャランにやってくれい。

Monday, September 17, 2007

映画『こころの湯』を観る

降っても照っても第50回

いっけん平凡で退屈そのものの日常生活の中にも、ある日突然ひとつの「映像」がやって来る。そして、ああ、人生はいいなあ、まだまだ世の中も捨てたものではないなあ。と私たちに切実な印象を残して、その「映像」はいずこかへ飛び立ってゆく。消え去ったのではない。折に触れてそれらの「映像」は、わたしたちの心に、鳥のようにふんわりと降り立ち、再会の歌を静かに歌い、疲労と失意のどん底にある者を励ましてくれるのである。

私にとってその「映像」とは、例えば、天安門広場で両手を広げて戦車の前に立ちふさがったひとりの中国人の若者の姿であり、あるいはマルコス大統領を追放してマラカニアン宮殿にアキノ新大統領を迎えたフィリピンの大衆の歓喜の姿である。

『こころの湯』は、北京の下町の古風な銭湯「清水池」の滅亡の物語だ。チャン・ヤン(Zhang Yang)監督の話では、現在北京には40~50軒の銭湯があるが、昔ながらの銭湯はわずか4,5軒。どんどん姿を消して、日本と同様の健康ランド、総合レジャー的なものに変身しているという。超ハイテク工業化が進行する中国で、前近代的な建築物やコミュニティや人関関係が、古き良き時代の思い出と共にゆっくりと壊れていく姿を、チャン監督は、淡々と描いていく。

夜な夜なコオロギを戦わせたり、鍼灸、囲碁将棋を楽しんだり、幸福な時間を過ごした「清水池」の常連たちは、最後に行き場を失う。ローマや江戸の庶民が、心ゆくまで享受したこの至福の裸体文化も、いつかは終焉の日を迎えるのだろうか。

銭湯の経営者には、かつて日中合作のNHKドラマ『大地の子』で養父役を好演した名優チュウ・シュイ(Zhu Xu)が扮している。そして、老いた父といっしょに暮らしている障害者の次男役は、ジャン・ウー(Jiang Wu)。この姜武さんの風体と演技が、どうも誰かによく似ている。と思ったら、知恵遅れの障害者である僕の息子にそっくりなのであった。従って、これぞ迫真の名演技と断言できる。そうチャン監督に伝えたら、なんと朱旭さんの息子さんも障害者らしい。そんな因縁がある分、朱旭さんの演技にも力が入ったのかも知れない。

この映画の原題は、英語で『SHOWER』となっている。姜武さんが、イエスを洗礼したヨハネのように、ある若者の頭にシャワーを注ぐシーンを見ながら、突然、僕は知的障害者施設の先駆けである近江学園の設立者糸賀一雄氏の逸話を思い出した。

ある知恵遅れの少年が、来る日も来る日も花壇の花に水を遣っていた。そしてある日、糸賀さんは、雨がザンザン降るのに、傘も差さずに如雨露で花に水を注ぐ少年の姿を目にして、なにか大きく深いものを感じ、彼らのために一生を捧げようと決意されたそうだ。
雨の日に花に水を遣る少年―-理由は分からないのだが、いつも涙が出てくるその「映像」を何年ぶりかで脳裏に思い浮かべ、僕は息子のことをちょっぴり考えた。

Sunday, September 16, 2007

御成通りに幻の「滝乃湯」を訪ねる

鎌倉ちょっと不思議な物語77回


00年1月に失職した私は、やむなく売文稼業で身を立てようとマスコミ各社に売り込みをかけ、奮闘努力の結果ようやく名門K社の団塊世代対象の新雑誌の新米ライターとして初めての取材原稿を書くことになった。

私は天にも昇る気持ちで音羽の編集部を訪れ、担当者のSさんから「銭湯特集」の企画の説明を受け、カメラマンとのコンビで千住の「大黒湯」と、大田区仲六郷の「nuland」、そして地元鎌倉の「滝乃湯」を取材することになった。

御成通りの「滝乃湯」の前に立ったのは、忘れもしない01年5月のある晴れた日のことだった。タイル張りの玄関、苔蒸した築地塀、そしてその塀越しに優しく伸びたもみじの枝がことのほか印象に残った。

当時、この鎌倉最古の銭湯「滝乃湯」は存亡の危機にあった。番台に座り続ける経営者の熊坂紀和子さんは71歳。昭和5年築の銭湯と同い年だった。借地の更新料が払いきれずに、01年2月末に廃業通知を張り紙したところ、常連客を中心に存続嘆願書が殺到。1ヶ月近くでなんと3665通に達したという。

多くの住民の熱望、市の努力と地主さんの好意が結実し、70年の歴史に輝く名湯は、02年3月まで存続できることになったばかりだった。

私が「滝乃湯」に中に入ると、浴場も脱衣場も、照明はただ一本の電燈がぶら下がるのみで、まずこの質素さが心に沁みた。浴場に足を踏み入れると、星空がのぞく高い天井と富士山のペンキ絵が鄙びたいい味を出していた。
新米ライターの私は、さっそく熊坂さんへの取材を開始した。

「滝乃湯」は産後の血行回復、神経痛に効く漢方薬湯が名物で観光客にも人気があり、普通の銭湯と違って、毎日お湯も薬も入れ替えているという。

「うちのお湯はね、3度お湯に入って暖まらないと風邪をひくよ」
「私の夢はここを銭湯保育所にしてねえ、子育てに自信のない母親からお子さんを預かってねえ、オジイチャン、オバアチャンたちといっしょに育てることだったの」
「考えてみると、みんなが裸になって、声をかけあったり、気持を通わせる唯一の場所が、この銭湯なの……」

そんな鎌倉最後の楽園が、ここだった。

私が取材したあとも数年間は営業が続いた「滝乃湯」だったが、とうとう昨年、あの長い煙突も、私が一糸まとわぬヌードモデルとなって入浴した浴槽も、脱衣場も、富士山のペンキ絵も、築地塀も、もみじの枝も、それらのすべてが地上から消えうせて、ご覧のようにどこにでもある駐車場になってしまった。

それにしても、古き良きものは何ゆえに滅びやすいのであろうか?

ちなみに、私が執筆したその雑誌も、創刊わずか2年ほどで廃刊になってしまった。
まことに諸行は無常である。

Saturday, September 15, 2007

御成り通りのおもちゃやさん




鎌倉ちょっと不思議な物語77回

鎌倉裏駅「御成り通り」の海側の端っこにある「くろぬま」こそ、この商店街のご本尊であろう。

昔は和洋の紙屋であったが、その後袋物を扱い(現在も各種ビニール袋がずらりと並べてある)、それからおもちゃ屋さんに転身した鎌倉随一の不可思議な商店である。

私たちは幼い子供のためにこの店で花火を買ったが、子供だけでなく大人も楽しめるいろいろなグッズが、ざっかけない店内に雑然と並んでいる。

ウナギの寝床のようなお店の奥に座って新聞を読んでいるメガネのおじいさんも古めかしい店舗の風情ぴったり合っている。

Friday, September 14, 2007

ドナルド・キーン著「私と20世紀のクロニクル」を読む

降っても照っても第50回

「日本文学の歴史」全18巻、「明治天皇」、「足利義政」そして「渡辺崋山」。いずれも素晴らしく読み応えのある書物であったが、その著者による自叙伝が本書である。

この人は幼い時に妹が亡くなり、両親が離婚するという悲運に見舞われながらも、いつも古きよき時代のアメリカ人だけが持っていた明朗闊達さを失わず、その文章はまるでモーツアルトのハ長調のような透明な単純明快さがある。

ここらあたりが源氏物語を翻訳したアーサー・ウエイリー、ラッセル、フォスターのみならず、谷崎、川端、三島、吉田、河上、石川、安部、永井、篠田、嶋中など日本の代表的な文学者、書店主に愛された理由であろう。

1945年に生まれて初めて朝日に染まる雪の富士山を見て涙し、飛行機の中で荷風の「すみだ川」を読んで泣き、茂山千之丞に狂言を学んだ初めての外国人キーンは、日本人以上の日本人かもしれない。

50年前の京都や原宿の暮らしに寄せる懐旧の情も胸を打つが、著者が傷だらけになった日本の現在、そして未来に寄せる深い愛情こそ貴重なものに思われる。

1938年、16歳で初めて見たメトのオペラ「オルフェウスとエウリデーチエ」やフラグスタートのワグナー、マリア・カラスの「ノルマ」(このライブ録音のレコード&CDには著者のブラーヴァ!の絶叫が収録されている)するなどオペラ黄金時代の感動的な体験を読むとうらやましい限りである。

しかしもっとも印象的なのは三島由紀夫との交友の思い出である。
三島が70年11月の自栽の前夜に書いた著者への手紙は最近出版された「三島由紀夫全集」の書簡編に収録されているが、本書には最後から2番目の手紙が紹介されている。

『豊饒の海』は月のカラフルな嘘の海を暗示した題で、強いていへば宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをダブらせたやうなものであり、禅語の『時は海なり』を思ひ出していただいてもかまひません。

私はこの『時は海なり』という言葉のなかに、三島の世界観が要約されていると思った。

Thursday, September 13, 2007

四方田犬彦著「先生とわたし」を読む

降っても照っても第49回

著者の生涯の師、由良君美への追悼の思いにあふれた1冊である。

由良は知る人ぞ知る博識の英文学者であったが、文芸、哲学、美術などの隣接諸学を広く深く渉猟し、狭いアカデミズムのたこつぼに閉じこもらず、目を古今東西の遠近に放った人であったらしいが、1990年8月に61歳で亡くなった。

若くして知の悦び、学びの楽しさを教えてくれた師であったが、著者が思想的に自立するに従って師弟のギャップと誤解が生じ、それはついに取り返しがつかないものになったまま2人は幽明境を異にするのだが、本書の「先生とわたし」の物語はそこから始まる。

自分が先生から享けたものは何か、先生に還したものは何か、はたまた師弟の本来あるべき姿とは何か、がこの出藍の誉でもあり、不肖の弟子でもある著者によって真摯に問われてゆく。

さうして師の真像に肉薄しようと超人的な追跡を続行する著者の内面の旅は、師の先祖の来歴探しや全生涯の振り返りにまでおよび、さながら師ヴェルギリウスと永遠の恋人ベアトリーチエの幻の影を慕うダンテの天路歴程を想わせるものがある。

このような弟子を持った師の泉下のよろこびはいかばかりであらう。以って瞑すべしとでもいうべきだろうか。

Wednesday, September 12, 2007

鎌倉聖ミカエル教会を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語76回

横須賀線が北鎌倉のトンネルを抜けた瞬間に空気が少しひんやりする。しばらくして鎌倉駅のプラットフォームに降り立つと、潮の匂いが微かに鼻腔を衝く。そしてこれが鎌倉という田舎町に住むことの最高の贅沢なのである。

しかし今も昔も東口から出る霊園方面の京急バスの最終は10時15分、ハイランド行きの最終は45分なので、私は混雑するタクシー乗り場を捨てて、たまには夜の小町通を八幡宮に向かって歩いた。

今から30年くらい前の小町通にはお茶屋と信用金庫と2つの喫茶店と玩具屋と駄菓子屋と古本屋と中華料理屋と呑み屋とひき肉屋と牛乳屋とピロシキ屋と薬局と医院と寿司屋とクリーニング屋と氷屋以外はほとんどなにもなかった。

現在のような阿呆な芋アイス屋やスイーツ屋や煎餅屋やブチックや雑貨屋やカフェなどは、ただの1軒もなかった。

ほの暗い街灯の下を私はとぼとぼと歩いた。しもた屋も貧しい民家もかたく門を閉じて寝静まり、狭くて細い道に人影はなく、舗道をうつ私の靴音だけがぴたぴたと音を立てていた。

小町通りの舗装が尽きるあたりに竹製品などを売る生垣屋があり、その左側に聖ミカエル教会が静かに佇んでいた。鎌倉には明治時代から多くの外国人が居住したために市内には22の教会が現存しているそうだ。

四人の大天使のうちの1名の名を冠したこのカトリック教会は、最近“ぴかぴかに醜く”立て直された。木造の聖堂部がかろうじて当時の姿をとどめているだけで往年の面影はない。市の指定景観重要建築物だというが、その価値はなさそうだ。

私は久しぶりにこの教会の前に立ち、この教会が経営する施設に障碍児の息子を入れていただけるかどうか神父様に相談に行った遠い昔の日を思い出した。礼拝堂に入ると格天井などさすがに内部の意匠が歴史を感じさせたが、それより驚いたのは私の亡くなった母と同じ名前の女性が最近神に召されたという知らせに出会ったことだった。

Tuesday, September 11, 2007

アクオス小百合よ ゴッホの話はやめてけれ

♪バガテルop27

「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会ったように美しい」(ロートレアモン「マルドロールの歌」という言葉は、広告制作の本質を捉えている。

広告の作法とは、無関係なもの同士を同一平面状に並べて、それらが思いがけない異化作用を引き起こし、さながら核融合に似た法外なエネルギーを世間に放出する文字通りアナーキーなたくらみにあるからだ。

さて、この一枚のB倍版のポスターの上で出会ったのは薹の立った女優と液晶テレヴィと孤高の画家の名作のアトランダムな組み合わせ。ほんらいなんの関係もない3つの要素が、金と冗談と機知にまかせて世界中のあちこちから呼び集められ、今夜ここでの一盛り、虚栄の歌を歌おうとしている。

されどアクオスよ、小百合よ、私は断じて君たちからヴァンゴッホのお芸術の話を聞きたくないのだ。

退け、サタンよ! 驕るなかれアドバタイジング!

Monday, September 10, 2007

朝顔のうた




♪ある晴れた日に その11




天青のなかに 海と 空がある

♪バガテルop26

どうしても 好きになれない 人がいる

Saturday, September 08, 2007

コリン・マッケーブ著「ゴダール伝」を読む

降っても照っても第49回

映像の天才詩人、ジャン・リュック・ゴダールに関する包括的な評伝が初めて刊行された。私はむかしからヌーヴェルバーグの作家や作品は嫌いではなく、特にゴダールとは1985年にテレビCMを2本作ってもらうために彼がいまも住んでいるスイスの小村ロールに出向き、やあこんにちはと挨拶したこともある(その頃ちょうど「こんにちはマリア」が公開されていた)ので懐かしく手にとった。

著者のコリン・マッケーブは名前からも分かるようにアイルランド系の英文学者兼映画研究家兼映画製作者。文学のみならず歴史や哲学の造詣が深く、英国映画協会の製作部長時代にゴダールに番組制作を依頼したりインタビューしたりしている。

文章が突然「分節化」されたり、精神分析の論文と化したりして無学な私には理解を超える個所もないではないが、この不世出の映像作家の先祖代々の系譜や幼年時代のエピソード、さらにこれまであまり解明されていなかった革命的ジガ・ヴェルトフ時代の活動、さらに生涯の伴侶アンヌ・マリ・ミエヴィルとの愛と創造の共同生活などを、映画史におけるゴダールの好意的評価とともに要領よく紹介している。

本書によれば、ゴダールは昔から盗癖があり、1952年にチューリッヒの刑務所に入るまでの5年間繰り返し盗み、捕まることを繰り返しているが、これは彼のブルジョア的な成育環境とそこで植えつけられたピューリタン的宗教教育への敵意・反発が潜んでいるようだ。

祖父が大事に所有していたヴァレリーの署名入り初版本を盗んで古本屋にたたき売る少年ゴダール。そんな少年の内気な態度や長い沈黙は、彼のパナマ、リマへの長い南米旅行から始まった、とトリュフォーは語っている。

若きゴダールはパリでの大学受験勉強に失敗してスイスに舞いもどり、アルプスの高地にある巨大な大型ダム建設現場で働き、これがプロレタリアートとしての自己確認の原点となった。

しかし渡世人ゴダールの振り出しはクロード・シャブロルから譲られた米フォクス映画の宣伝広報担当への就職で、このポジションはわが国の不世出の映画評論家淀川長治のそれを想起させるものがある。
ゴダールは米国映画帝国主義への敵意と反感をいまでも隠さないが、「勝手にしやがれ」のプレスキャンペーンやマスコミ対応などは不倶戴天の敵国の作法をしたたかに流用しているのである。

ゴダールの出世作「勝手にしやがれ」は、オットープレミンジャーの「悲しみよこんにちは」における冷酷な仕打ちにこりごりしていたジーン・セバーグちゃんと、当初ゴダールを黒眼鏡のホモだと思って毛嫌いしていたジャン・ポール・ベルモンドを得て大成功を勝ち取った。サンジェルマン・デ・プレで撮影されたベルモンド、ゴダール、ボールガールの写真はカッコいい。

ゴダールの生涯をきらびやかに彩るファム・ファタール第1号は石鹸の広告モデルをしていた18歳のデンマーク人、ハンネ・カリン・バイヤーである。

彼女が「エル」の撮影をしていたとき、女優になりたいという願いを聞いたココ・シャネルから「そんな名前ではたぶんなんれないわよ」といわれたのが、アンナ・カリーナ誕生の瞬間だった。

カリーナを恋人から奪って始まったこの至上の恋は「女は女である」「女と男のいる舗道」「はなればなれに」「アルファビル」まで持続したが、なんといってもゴダールとの間にできた男児の流産が二人に致命的な打撃を与えたようだ。

ファム・ファタールの第2号は、白系ロシア人貴族の娘にしてかの有名なフランソワ・モーリアックの孫娘であるアンヌ・ヴィアゼムスキーであった。

68年の5月革命を共に駆け抜けたヴィアゼムスキーとゴダールの結婚は当時大きな話題を呼んだという。アンリ・ラングロワのシネマテーク館長解任に反対してドゴールとアンドレ・マルローに抗し、パリの学生・労働者と共に市街戦の指揮を執っていた40歳のゴダールの姿はいまなお輝かしい。

けれども「軽蔑」の主演女優BBのご機嫌を取るために得意の逆立ちをするゴダールや、ポランスキーの妻シャロンテートが惨殺されたニュースを聞いて「いいぞ、あいつは例の作品の権利を僕から盗んだ奴だからな」と暴言を吐き、アポロ13号に搭乗中の三人の宇宙飛行士に対し「地球に戻らず宇宙で死ねばいい」と何度も表明する姿はとても醜い。

全裸の映像をおぞましいポルノグラフィーに転化しないために陰毛が映っているカットが必要であると女優に強制したり、疲労困憊して顔で「パッション」のスタジオ入りをしたハンナ・シーグラに向かって、「一晩中やっていたんだ。顔のしわをみんなに見せてやればいい」と怒号するゴダールの姿もとても醜い。

「人生における最大の価値は、真であり、善であり、美であるからその格率を体現する作品をつくってほしい」という、(クライアントである)私のCM企画意図に賛同し、プレゼン用のビデオ作品を自主的に制作し、見事な作品をつくってくれたゴダールその人だけに許せない思いが強いのである。

けれどもマオイストとなって永久革命の夢からさめることができなかったゴダールのおいさらばえた精神と肉体に愛と休息の場所を与え、1979年製作の「勝手に逃げろ/人生」で奇跡の映画復帰をもたらし、いまなおスイスの小さな隠れ家でにあって世界一孤独で唯一無二の映像革命作家をしっかりと支えているのが、彼の3番目の運命の女性、アンヌ・マリ・ミエヴィルなのだった。

昔の光、いまもなお。古我邸&庭園を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語75回

鎌倉文学館(旧前田邸)、華頂宮邸(旧宮家)とならぶ鎌倉3大洋館のひとつが、この古我邸&庭園(旧荘清次郎邸・非公開)である。

大正五年、夏目漱石が亡くなった年に、かつて恐らくは智岸寺という廃寺があったと想定される場所に三菱銀行の重役荘清次郎の別荘が建築された。

設計は三菱銀行などの建築を手がけた櫻井小太郎。見るからにイングランド郊外の英国貴族の館を思わせる英国コテージ様式のすばらしい洋館が扇ガ谷近辺の山麓に現存している。

建物は木造2階建てで外壁はこげ茶色の板をウロコ状に張ったシングル張りという珍しいもの。昭和初期には浜口雄幸、近衛文麿などの総理大臣が別荘として使用し、現在は日本人で初めてカーレーサーになった古我信生夫人がご高齢にもかかわらず、まだ実際に居住されている! 

当初この一帯は「三菱村」といわれ、岩崎家はじめ三菱財閥の要人が別荘を構えていたという。実際に拝見したが、豊かに緑なす広い前庭と瀟洒な後庭に取り囲まれた重厚な洋館は、いつまでも後世に伝えたい懐かしい風韻を醸し出していた。
(鎌倉シルバーボランティアガイド協会資料より引用)

Thursday, September 06, 2007

嵐の夜に

鎌倉ちょっと不思議な物語74回&遥かな昔、遠い所で第20回

台風一過、もうミンミンゼミが鳴いている。今から10数年前のこんな嵐の夜に、朝比奈切通しの坂道の途中にあるお地蔵様が鎌倉時代から安置されていた岩の下の台座から転げ落ちてしまった。

翌朝私と家内が峠を登っていくと、そのお地蔵様はお労しや大小3つに砕けて峠の坂道にひっくりかえってござった。夫婦でふうふう言いながら元の台座に戻そうとしたが、あまりの重さにそれは叶わず、仕方なく坂道の端っこに安置した。

翌日市役所に電話したのだが、担当者は砕けた断片をしばらく捜索したのみで、応援を頼んで原状回復さえせず、星霜10年、いや15年になるだろうか、今日に及んでいる。

ときおりこのお地蔵様や峠の頂上にある磨崖仏を大昔からここに在るように書いているブログがあるが、とんでもない。くだんの磨崖仏などは昭和30年代に当時横須賀市在住のおじいさんが腕をふるって刻んだアマチュア現代アートに過ぎない。

余談はさておき、このお地蔵様の砕けた右側に「延宝三年丹波之住人浄誉向入」という銘が刻まれている。「吾妻鏡」によると朝比奈峠は仁治元年1240年北条泰時によって開鑿されたが、その後3回改修工事が行われており、延宝三年1675年の第1回の大改修を勧進したのがほかならぬこの浄誉向入上人だったと思われる。(その後この切通しは安永9年1780年、寛政9年1797年、文化9年1813年の計3回改修工事が行われ、それぞれの改修碑が峠道のあちこちに残されている。)

12世紀の重源の頃から鋳物師や石工などの職人集団と結びついて各地の寺社の修造や池・橋・港湾の修築に当たったのが勧進聖、勧進上人である。
13世紀後半から14世紀にかけては北条時宗の援助を受けて東寺の工事に鋳物師を総動員した願行上人憲静や津・泊などに関を立て、回船人・商人から関料を徴収した禅律僧の恵観など数多くの勧進上人たちが活躍した。

鎌倉の勧進上人忍性などは北条氏などの権力者と結びついて公共工事を行い、その資本を調達するために神仏への初尾寄付の名目で関料を徴収し、その資本で工人、船頭、水主を動かして中国との貿易に乗り出して巨利を得た。彼らは一種の企業家、貿易商人といえるだろう。

わが丹波ゆかりの浄誉向入上人の足跡を辿ると、『新編相模国風土記稿』に「峠坂あり。村中より大切通に達する坂なり。延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す」とあった。

どうやら浄誉向入上人は自ら勧進した切通し大改修に着手、完了したその年にみまかったらしい。
ああ、偉大なるかな丹波の僧よ。大願成就、もって瞑すべし

とでも申すべきであらうか。

Wednesday, September 05, 2007

犬も歩けば「鎌倉史蹟指導標」

鎌倉ちょっと不思議な物語73回

 鎌倉を歩くと市内のあちこちに大きな石造りの案内標が建っている。

こんなに大きく頑丈で立派な表示物は日本全国、いや世界中どこにもないだろう。文化と歴史と時代の風格を漂わせるこの立派な表示は、正式には「史蹟指導標」と称され、全部で80基が現存しているそうだ。

そのうちの77基は、大正6から10年は鎌倉の「青年会」、以後昭和15年までは「青年団」、16年には「壮年団」が三基建立し、戦後は昭和31年に「友青会」が三基追加した。

大正から昭和初期の製作費1基200円也は、現在ならいくらになるだろう? 昔の青年団は偉かった。

Tuesday, September 04, 2007

海野弘著「20世紀」を読む

降っても照っても第48回

20世紀の100年間を10年ずつのディケイドに分かち、そのディケイドから20くらいの出来事や傾向を選んで自在に物語ることによってその年代の全体的な特徴をつかみだそうとする気宇壮大、骨太の現代史が本書である。

たとえば1900年代は「春のまどろみ」、10年代は「大いなる戦い」、20年代は「ローリング・ジャズエイジ」、30年代は「トラブルの時」、40年代は「引き裂かれた時代」、50年代は「ヒチコック・エイジ」、60年代は「大動揺時代」、70年代は「ナルシス・エイジ」、80年代は「幻想と欲望の時代」、90年代は「20世紀末」と銘打たれ、その各年代ごとに原稿用紙で100枚を費やし、10章で約1000枚、索引と参考文献を含めて総計607ページの大著であるからはなはだ読み応えがある。

10年代で出てくる野口英世の科学史の業績問題(黄熱病の病原菌は菌ではなくウイルスであり、野口はそのことを知らなかった)、第一次大戦の後始末役の米大統領ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルトの「革新主義」と「発展膨張主義」こそが、現代アメリカのグローバリズムの源流であること、米国20年代の「クークラクッスクラン」が古き良きアメリカを守ろうとしたプロテスタント基本主義の原点であり、その頑なな原理主義が現在のブッシュ流米国覇権主義につながっていること、20年代のパリでシャネルは香水のロイヤリテイによる莫大な収入によってはじめてファッションデザインに専念することが可能になり、それが今日のラグジュアリービジネスのスタイルを創始したこと、エンパイアー・ステートビルのエンパイアー・ステートというのは他ならぬニューヨーク州であること等々、どのページを読んでも興味深い記述が端々に転がっているが、図抜けた知の案内人と共に広大な20世紀の海を逍遥する楽しさを味わうことができる。

著者はグローバリゼーションとは世界を縮小していく過程であり、それは最終的には携帯の小さな画面に1枚の平面として集約されるようになったという。20世紀末に世界はどんどんフラットになり、奥行もなく、前後左右もなく、時間も歴史も消え去り、すべてがくまなく見えるものになった。従って20世紀の終わりをフランシス・フクヤマのように「歴史の終わり」と見ることもできよう。

しかし興味深いのは、著者が歴史は繰り返すと信じていることで、調べれば調べるほど20年代と50年代と世紀末にはある共通項が備わっているという。著者は世界の文化はほぼ30年の周期で繰り返しているのではないかという仮説をなかば信じているようだ。

しかしすべてが見える物となり、陽の下になにも新しきものはなくなり、世界がフラットと化して動かなくなれば、私たちはどうなるのだろう?

著者はすでにこの世に表われたもの、経験されたもの、既存のものをあたかもトランプのカードのようにかき混ぜ、再度カットし直してもういちど「21世紀ゲーム」を始めればよいのだと主張する。

そして最後にこう断言するのである。

「私は歴史は繰り返すと思う。もしそうでなければすべての出来事はたった1回だけで過ぎていき、私たちは歴史に学ぶこともなくただ流れていくことになろう。それではただ今だけに生きて終わりということになるだろう。感覚的な快不快はあるかもしれないが、本質的な成功も失敗もないことになるだろう。私たちの人生と世界がそんなことであっていいはずがない。私は歴史は繰り返すと思う。そうでなければ歴史を学ぶ意味などないのだから」

Monday, September 03, 2007

ある丹波の老人の話(50)最終回

ある丹波の老人の話(50)最終回

こうして幌付きの人力車に乗っているうちになんとかなるだろう、と思っておりましたが、そのうちに車夫がこの得体の知れない日本人をもてあまして「降りろ」と要求しはじめました。

私は財布からお金をつまみだして、「コレだけやるからもっと乗せろ」というたんですが、車夫は正直に20銭だけ受け取って、私を引きずり降ろしてしまいよりました。

私は途方に暮れてもう歩く元気もありまへん。しかしそのときやっと気づいて私はその場にたたずんで一生懸命神に救いを求めて祈りました。

するとどうでしょう。「その道をまっすぐ行け」という神のお告げを感じたのです。私はようやく元気を取り戻して歩きはじめました。

しばらく行くと兵隊らしき者に出会いました。兵隊は私の姿を認めるや否や銃を構えて「止まれ!」と大声で叫びました。よく見ると日本の兵隊です。
そこで訳を話すと大いに同情してくれて、電車通りに出る道を教えてもらい、無事にホテルまで辿り着くことができたんでした。

前にお話した難船の場合と同じで、これこそは私は子供のときから持ち続けた「祈れよ、さらば救われん」の実証でした。私はこれまで足掛け70年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを微塵も疑ってはおりまへん。             終


――明治18年2月22日、丹波の小さな盆地に生まれたこの老人は、その晩年はホテルなどに紅い表紙のギデオン協会の聖書を贈呈することに情熱を注いでいたが、昭和37年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」という言葉を最後に倒れ、天に召された。

Sunday, September 02, 2007

網野善彦著作集第10巻「海民の社会」を読む

降っても照っても第47回&鎌倉ちょっと不思議な物語72回 

百姓という言葉は農民を意味せず、農民、海民、工人など多種多様な職能に従事する公民をを意味する、というのが著者の創見であったが、本巻ではその海民についての論文がたくさん収められている。

中世の鎌倉は陸では四通八達の鎌倉街道を、そして鎌倉の滑川、金澤の六浦から発して埼玉県三郷や茨城県稲敷、東京都葛飾や神田など全国各所に散在する鎌倉河岸に通じ、霞ヶ浦四十八津などの水上河川、さらには伊豆、房総、西国、中国、九州にいたる広大な太平洋の交通路を開拓することに成功し、すでに11~12世紀には列島全域に廻船の安定したネットワークが完成していた。

私の家の近い金沢六浦は中世の巨大な港湾であるが、鎌倉時代にこの六浦相を治めていたのは上総に拠点を持つ武将和田義盛であった。和田氏はその後北条氏の悪辣な陰謀によって滅ぼされるが、その後を襲った三浦氏や金澤(かなさわ)氏によってその海上の道をますます整備させることになる。

この和田合戦の折に和田義盛の子、朝比奈三郎義秀は500騎を率い、6艘の船に乗って安房の國に行き、そのまま行方不明となった。一説には高麗に渡ったとも言われているが、これまた私の近所にある朝比奈峠は、豪傑三郎が1夜にして切り開いたという言い伝えがある。

いまを去る数十年の昔、私が初めて勤務した会社は神田鎌倉河岸にあり、高速道路の下にひたひたと打ち寄せる黒い水を疲労困憊した昼休みによく眺めていたものだが、本書によって初めて現在私が居住する鎌倉とくだんの鎌倉河岸とが時空を超えて一挙に結合されるのを感じた。

またその鎌倉では、忍性など多くの勧進聖、勧進上人が幕府と結びついて国内のみならず外国との貿易や文化交流を行い、中世社会のインフラを整備したことはよく知られている。極楽寺にいた忍性は、自らの船で貴重な宋本大般若経を鳥羽まで運び、奈良の叡尊に届けていたのである。

3大将軍実朝が由比ガ浜での大船製造に失敗した逸話は有名であるが、唐船建造が失敗して実朝が宋に行けなかったのは、かつて小林秀雄や吉本隆明が説いたようにあの時期の政治的事情と混乱によるものであり、中国人技術者の援助を得て日本で作られた多くの唐船が日本海を渡って交易していたことのほうを重視するべきであろう。

「海は櫓櫂の続くまで」と人口に膾炙したように、中世は海の時代であり、海民社会の誕生なくして日本の中世社会は存在しないのである。

君は“空飛ぶチンポコ”を見たか?

シアターΧ・プロデュース公演 サラ・ケイン作「フェイドラの恋」を観る

降っても照っても第46回


連日連夜の熱帯夜の眠れない夜の明け方に、私は眼裏に右から左に飛翔する面妖なものを見たような気がした。寝ぼけ眼で今度は左から右へと飛び去るそいつをよーく見ると、それはかなりの重量感にあふれた陰茎であった……。
以下は→http://www.wonderlands.jp/

Saturday, September 01, 2007

07年8月亡羊歌集

♪ある晴れた日に その10

交わりのその頂きで轢死せるミンミン蝉を蟻共喰らう

麦藁帽脱ぎて初めて挨拶すそっぽ向きおりし住職とわれ

夏空の奥の奥まで舞い上がる雌雄の蝶の行方知らずも

わが下肢の股の隙より洩れ出ずる悪しき臭いよ真夏の午後よ

昼も夜もなめくじのごとくゆるやかに世界の果てまで歩ましめよ

躊躇なくゴキブリ殺せし我が足よではなにゆえにコオロギを踏まぬ

働いたってそんなにいいことなんかないぞでもまあ働くんだな君

満月の逗子の海にてはぜる火よ光は見えず音のみを聴く

ニイニイアブラミンミンカナカナ麦稈真田の夏は過ぎ行く

祈れども息子のことは仕方なし

残尿の朝まで続く残暑かな

ミンミンもカナカナも鳴く午前5時

Friday, August 31, 2007

ある丹波の老人の話(48)

第8話 思い出話3

それから昭和15年に上海に行ったときのことです。

私はホテルから外出しての帰り道、街の見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車が走っている大通りから外れてとある横道に入っていきました。

ちょうど夕刻で中国人たちはみんな軒下に集まってにぎやかに食事しているのをものめずらしく眺めながら歩いているうちに、どんどん日が暮れかけました。

そのうちに雨が降りはじめたものですから、元の電車道に引き返そうとしたんでしたが、どこをどう迷ったものか見たこともない河にぶつかってしまいました。

地図を見ても皆目見当がつかず、雨はますます激しくなります。中国人が食事をしている軒下は通れないし、ずぶぬれで街をあちこち歩きまわりました。

しゃあけんどどこをどう歩いても大通りにはでまへん。どの道を行っても川に行き当たるばかりです。道を尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもなりまへん。私はますますいちらだち、ますますあわてました。

ふと通り合わせた人力車夫に指を輪にして「お金はいくらでも出すから乗せてくれ」というつもりを身振り手まねで示して乗せてもらいました。幌があるから濡れないだけでも助かります。

Wednesday, August 29, 2007

ある丹波の老人の話(47)

第8話 思い出話2

米国からの帰路、私はシアトルから加賀丸という大きな船で北回りで帰る途中、猛烈な防風に遭いました。

どの船室にも水が浸入して乗客一同生きた心地もなく、食事どころの騒ぎではありまへん。

けれども私はこのときひたすらに神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず体もあまり丈夫ではないのに、ただ一人平気で食事も常と同じように摂ることができたんでした。

はしなくも私は、ガリラヤの海の難船でただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めたときに、「ああ、信仰薄きものよ」と哀れみ、たちどころに波風を鎮め給いし事跡を思い起こしました。

それとこれとを比べることも大それた話ではありますが、やはり私が神を信じたから、あれだけ祈ったからこそ、弱い私があれほどのしたたかさを示すことができたんだ。と、思わずにはおれませんでした。

Sunday, August 26, 2007

ある丹波の老人の話(46)

第8話 思い出話

1928年(昭和三年)、世界日曜学校大会に出席した私は、当時のアメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見物しました。

バークレー市のカリフォルニア大学では電子顕微鏡を見せてもらい、さらにはトーキーも実際に見ることができました。

その頃の日本にはまだトーキーはなく、動く写真、つまり活動写真しかなかったんです。これをつぶさに見物した私は、世の中にはまだ人間の智恵では計り知れない不思議があることを知りました。

そうして今まで聖書にある奇跡というものを信じることができなんだ私ですが、この電子の不可思議を目にしてマリアの懐胎も、5つのパンと2匹の魚とが5千人の空腹を満たしたこと、さらには水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエスなど数々の奇跡も必ずしもありえないことではないと信ずるようになったんでした。

それからウイルソン山上の天文台で世界最大の直径100インチの大望遠鏡で夜の木星を見せてもらった私は、今更ながら宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、いっそう敬虔の念を深くしたことでした。

Saturday, August 25, 2007

「夏の歌」

♪音楽千夜一夜第25回&遥かな昔、遠い所で第19回

毎日ロンドンのロイヤルアルバートホールから生中継されるプロムスを聴いている。

今年7月13日にビエロフラービック指揮BBC響のエルガーとウオルトンに始まった「プロムス07」の終焉は来月の8日。すでに会期の半ばを過ぎ、ようやく秋は近い。

これまで印象に残った演奏は、もラヌクルズの鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータ、かつての手兵アムステルダム・コンセルトヘボウを見事にドライヴしたベルナルド・ハイテインクのブルックナーの8番、コーリンデービスとヨーロッパユースシンフォニーの演奏、アバド&ルツエルン祝祭管のマーラー、さらに現在世界でもっとも大きな話題を集めているギュスターボ・デュダメル指揮ベネズエラ・ユース・シンフォニーのショスタコ10番&バーンスタイン曲集などであった。

デュダメルはバレンボイムやムーティやアバドやマゼール、それに我が尊敬する吉田秀和氏などがこぞって褒め称えている新進気鋭の第三世界の音楽家である。その鬼神も避ける疾風怒涛の演奏はまことにエネルギッシュで、全身に爽快さがみなぎる体のものであるが、これは往年の小澤の音楽と同じスタイルであり、当初は斬新かつ革命的に耳朶を聾して先物買いが殺到するだろうが、遠からずして逼塞することでしょう。

先般FMで彼らのベートーヴェンやドボ9などを聴いたが、快速楽章の運転は得意とするものの、緩徐楽章の処理をもてあましていて、それが全体的な演奏効果を大きく妨げているように思われた。

むしろ私には職人肌オペラ指揮者ラニクルズが振ったワグナーの「ラインの黄金」のほうが楽しめた。これからまだゲルギエフなど数多くの実力者が登壇するので総合ランキング評価はまだ早すぎるが、これまでのプロムス全公演でベストの快演であった。

プロムスで思い出すのは英国人のときおり熱狂に傾く自然な愛国心の発露であるが、これがわが国や米国のそれとはひとあじ違った独特の風情があり、BBC響による英国国歌の奏楽と斉唱が終った後、満堂の聴衆が手をつなぎ、肩を組んで、自然発生的に例の「蛍の光」をアカペラで合唱するときのしみじみとした感興、そしてその音程の正しさと見事なアンサンブルにはいつも深い感銘を受ける。日本帝国の「君が代」ではこうはいかないだろう。

ところで、夏のイギリス音楽といえばいつも思い出す1本のテレビ映画がある。

ある夏の終わりにNHKが英国の作曲家フレデリック・ディーリアスの伝記ドラマ「夏の歌」を放映したことがあった。晩年梅毒が元で失明したディーリアスを、彼の妻と弟子のエリック・フェンビーがかいがいしく看護するが、その甲斐もなく孤独で我侭な作曲家は亡くなり、彼の死を悼むBBCの追悼番組が放送されるシーンで、このドラマも終る。

BBCのアナウンサーが、「わが国の20世紀を代表する最大の音楽家の死を悼み、彼の代表作をお届けします」と重々しく告げると、あの懐かしい「夏の歌」の管弦楽の序奏が低く奏され、2人は白いレースのカーテンに閉ざされたリビングルームでよよと泣きくづれるのである。

往時茫茫四十年。この夏のドラマを見た夏の日から長い歳月が徒に流れたが、私が死ぬまでにもう一度観たい唯一の番組が、名匠ケン・ラッセル演出のこの音楽ドラマである。

Friday, August 24, 2007

ある丹波の老人の話(45)

第七話 ネクタイ製造最終回

ネクタイの生命は柄にあります。これで他店にヒケを取ってはならん、と私は京都高等工芸出の意匠図案係三人に欧米の流行を参考にするようにと指示して研究させました。

この頃、私は郡是でスンプという機械が発明されたという耳よりな情報に接しました。これは顕微鏡のプレパラートと同じようなものをきわめて簡単に、しかも即座に作れるというのです。

早速動植物の色々な部分を拡大して眺めてみますと、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠をそこから得ることができ、ネクタイの柄、模様、デザインの世界に一大新機軸を開くことができたんでした。

東洋ネクタイ製織所の活動は、戦前のわが国の産業飛躍に小粒ながらも貴重な役割を担ったと自負しておりますが、やがて日支事変となり、それが太平洋戦争に突入する頃には、洋服も廃れて国民服に変わり、ネクタイはぜいたく品としてさっぱり売れなくなってしまいました。

昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしもうたんで、東洋ネクタイ製織所はとうとう解散のやむなきにいたりました。

やがて敗戦となり、私は今度は趣を変えて、家内工業の小工場一〇余個所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、起業当初の原点に還り兄弟二人だけの会社にしました。そして前に述べたように弟の死後は長男がその後を継いで今日におよび、戦前ほどの華やかさはありまへんが、まずもって堅実な経営を続けております。

Thursday, August 23, 2007

ある丹波の老人の話(44)

第七話 ネクタイ製造その5

まことに小林さんらしい、パリッとしたご挨拶でありました。

それから私の会社と阪急との間にお互い誠意を尽くした取引が始まりました。それは好いのですが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。その3人を私の店の売込み係に採用したいからとゆうて、また小林さんに頼むと、就職難時代ではあるし3人とも大喜びで来てくれました。
2人は慶応、もう1人は神戸商大の出身の優秀な青年で、とてもよく働いてくれました。

まもなく阪急のネクタイは安くて品質がいい、という評判が立つようになり、私の会社の製品は他社の製品を圧倒して飛ぶように売れるようになりますと、早くも大丸が2度目の注文を寄越しました。

それから髙島屋、三越、そごう、丸物に納品し、東京では綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)その他岡山、広島の大きな百貨店とも取引し、多くはその店の株も持たされて相互の親善関係を結びました。

製品はドンドン売れ、店は繁盛しました。そこで私は一歩を進めて輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込みましたが、これは実際は上海で米国製品に化けて売られたもので、あまり名誉なことではありまへんでした。

Wednesday, August 22, 2007

網野善彦著作集第15巻「列島社会の多様性」を読む

降っても照っても第45回

本巻収録の論文「境界領域と国家」において、著者は公=パブリックなものを、境界的な場、人、物=「公界」的なものと公家、公方、公儀など国家の公的権力につながるものとに峻別しようとしている。
 
欧州でも、神仏あるいは聖なる世界(大宇宙)と人間あるいは俗界(小宇宙)との狭間で重要な役割を果たしていた“境界的な人々”が存在していたが、キリスト教の浸透がそのアジールを奪い去った。同様に日本の社会でも室町時代以降、「公界」は「公儀」によって暴力的に吸収されていったわけだが、この2分法は21世紀のいまも有効であると、私には思われる。

本巻の目玉は少し執筆年代は古くなるが、当初予定されていた宮本常一に代わって著者によって書かれた「東と西の語る日本の歴史」であろう。
著者はこの規模雄大で雄渾な論文のなかで旧石器、縄文時代から現代におよぶ長い時間にわたって列島に鋭い亀裂を生じさせてきた列島東西の諸民族と国家(東国と西国政権、アイヌ、琉球、蝦夷、隼人などを含む)の社会的、考古学的、歴史的、地勢的、政治的、経済的断層を個別具体的に検討していく。

考古学的にはすでに3万年前の旧石器時代から東西石器の形状は異なり、民俗学的には宮本常一などが明らかにしたように、東は“家父長的なイエ中心の縦型父性社会”であり、西は個々のイエの婚姻によって結ばれた“ムラ中心の母性系横型社会”である。
また縄文時代の列島の東西は植生が異なり、ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林の広がる豊穣な東日本とシイ・カシを軸とする照葉樹林が広がる貧を代表する通商的・軍事的特性であったことも歴史的な事実である。 

このような東西格差と地域の特殊性は、古代から現代まで数多くの政治的対決の淵源となってきた。
蝦夷の跳梁をはじめ9世紀から東西の抗争は激化し、10世紀の中頃には大和政権に反逆する平将門や藤原純友の乱が起こり、これを嚆矢とする「あずまみちのく」の自立を目指す安倍、清原、奥州藤原一族の叛乱へと続き、“西国国家”平家を打倒した源氏は、わが国最初の東国武家政権を鎌倉に確立した。

その後幾多の東西対決を繰り返しながら、最終的に関が原の合戦に勝利した徳川家康が東国政権による全国統一を果たしたが、いまなお列島深奥部には双方の対立要素が潜在し、それは欧州ならば優に複数の民族国家を構成するに足る亀裂であると著者は断言する。

すなわち、旧石器時代から平成の御世まで、“単一民族による単一国家”大日本帝国などほんの一瞬間も存在しなかったのである。

Tuesday, August 21, 2007

ある丹波の老人の話(43)

第七話 ネクタイ製造その4

小林社長は、商品を担当者にも見せ、一応は商品の優秀性を認めてはくれたんですが、値段があまるにも安いのを不思議がり、しきりに小首を傾けるのです。

そこで私は、それは私の店では他店の如く仕入れ係への高い運動料を含まない分だけ安いのである、ということを社主クリストの精神から説いて大いに小林氏を煙に巻いたんでした。

小林さんは「よく研究して返事する」ということでしたが、私は確かな手ごたえを感じておりました。

果たしてそれから数日経つと小林さんがただひとり、私の豆のような店を探すのに一時間もかかったといいながら自動車で来訪され、

「いかにもあなたの言われるとおり開店間もない私の店の仕入れ係もワイロを取っておった。そこで今後のみせしめのため、その3人の仕入れ係をかわいそうだが解雇しました。それからこれから私の店ではあなたの会社のネクタイを主として販売することにしたから、せいぜい勉強して納入してください」

とおっしゃいました。

Monday, August 20, 2007

ある丹波の老人の話(42)

第七話 ネクタイ製造その3


私が設立した東洋ネクタイ製織所は、波多野鶴吉翁が郡是を経営した精神に学び、次のような願いを定めました。

吾等の念願
1 イエスキリストを当社の社主と奉戴して日々その聖旨に従い、之を忠実に行はんことを期す。
2 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以って凡ての事を為さんことを期す。
3 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙遜を以って修養し自己品性の向上を計る為最善の努力を為さんことを期す。
4 常に考え、常に学び、常に励み而して常に何物かを創造せんと勉むることを期す。
5 目的達成の為信仰を養い終りまで耐え忍ぶ者は救わるべしとの信念を以って前進せんことを期す。
                    株式会社 東洋ネクタイ製織所

  そうして私は、ひとえに神の御旨に叶う工場であることを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けながら、我々のささやかな営みが主の栄光を顕す一端になることを祈りつつ前進したんでした。           

Sunday, August 19, 2007

ある丹波の老人の話(41)

第七話 ネクタイ製造その2

さて米国から帰国して早速熱心に郡是に靴下製造を勧めてみたんですが、遠藤社長、片山専務はあくまでも製糸一本槍を主張し、私のいうことなどにはてんで耳を貸しまへん。

ただしかし、たった一人取締役の平野吉左衛門氏だけは、あの温厚な人柄の氏には珍しく非常な熱意を示して私の主張に耳を傾け、その後も私にたびたび意見を求められました。

そして昭和四年、ついに平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として塚口に設立されたんでした。この会社は一時期試練の苦悩を経験しましたが、現在では親会社の製糸を抜いて全郡是を背負って立とうとする勢いを見せております。

一方ネクタイの方ですが、これは前にお話したように私が米国から帰ると間もなく父が亡くなり、このとき都会の生活に敗れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同でネクタイ製造に取り組むことにしました。

その頃、アメリカでも日本でも編みネクタイが流行しておりました。これはしごく簡単な設備で生産できますから、少額の自己資本だけで大阪都島に小さな工場を設けて創業し、その後2,3の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡大し、しばらくするとだいぶ業容が安定してきたので、昭和10年に資本金20万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を設立しました。

本社は大阪におき、京都西陣にネクタイ織物工場を新築し、加工工場を東京、大阪に設け、原糸の提供を郡是に仰ぎ、染織を京都の一流工場に委託して厳密なる製品検査を行うことにしました。ネクタイ工場は織から縫製までを一貫する当時の最新システムを備えた他社に遜色のない超一流クラスで、鋭意優良製品の生産に努めたもんでした。

Saturday, August 18, 2007

ある丹波の老人の話(40)

第七話 ネクタイ製造

昭和3年、世界日曜学校大会が米国ロスアンゼルスで開かれたとき、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表メンバーの中に選ばれて渡米しました。

そのとき私は、日本の主要輸出品である生糸の消費状況に特に注意を払うて視察を行いました。

米国滞在中はしばしば信者の家庭に泊めてもろうたのですが、どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、2,30本のネクタイが掛かっておる。また、婦人の部屋には靴下掛があって10数足の靴下が掛かっているのを知りました。

この米国で需要の多いネクタイと靴下はもちろん米国でも盛んに作られておるが、まだまだ輸入の余地がありそうである。さらにわが国の洋服着用者は年々増加しておりますから、今後自国の需要も増えてくるでしょう。

いま日本は大量の生糸のほとんど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をネクタイ、靴下の製造に振り向け、内外の需要に応じたらどうだろう、

と私は考えたのでした。ネクタイなら小資本でもやれるから、これをひとつ自分でやってみよう。そして靴下は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみよう、と思ったんでした。