Wednesday, February 28, 2007

♪ある晴れた日に 第1回

♪ある晴れた日に 第1回


あ。朝日がのぼる。


ステンレスの上に泥だらけのジャガイモがごろっと転がってる


そんなに咳きばかりするなよ


のどが真っ赤に腫れている
ルゴールを買いにいこう


私の連鎖状球菌よ!


お母さん、ドウシヨウモナイって 何?


1・8リットルたっぷり呑んで ああ満足じゃ 真っ赤なポリバケツ


歯垢は臭い 恥垢も臭い どっちが臭い?


むんずとつかんでぐぐっとしごく


「今日のしりとり」 
あ あんたとこどこさ さる るーむ むくろ ろしあ あんてるなしおなる るどん


夕空晴れた

モーツアルト狂想曲

♪音楽千夜一夜第13回


真率あふるる音楽の言葉、心情の奥の奥の、またその奥にかすかに響く音を、私はTRAZOMに聴く。

いま流れてくるのはハ短調の幻想曲K475、そして続いて同じハ短調のピアノソナタK457、いずれも偉大なクラウデイオ・アラウの演奏で聴いている。

これらの曲はTRAZOMの最良の教え子、マリア・テレージア・トラットナーとの愛のために書かれた聴くものの心をえぐる真の傑作だ。

今度は「フィガロの結婚」をエーリッヒ・クラーバーの演奏で聴こう。

男と女のすさまじい欲望の嵐が吹き荒れる。フィガロとスザンナの熱狂の1日…。

第三幕の四重唱、五重唱、そして圧倒的な六重唱を聴け! 

そして第四幕の庭園に夜が迫り、ブルジョワの世の終わりを告げる伯爵夫人の「私は弱い女ですからすべてを許します」の一言を聴こう。

かくてオペラは終る。しかし、この突然の終結はなぜだろう?

TRAZOM、お前はどこに消えたのだ? 

劇場の人々は無となって宙吊りになり、なにかしら神のように偉大な存在が、無力な我々に降臨する。神に愛されたTRAZOMはきっとその隣にいるのだろう。

けれどもほんとうは神は不在であり、女は男をけっして許しはしなかった。

さあ今度は、ソレルスにならって「ドンジョバンニ」の序曲を聴こう。

わずか数百小節で起こるのは、婦女暴行、殺人、暴行の告白、復讐の決意…、ウイーン社交界を地獄に突き落とす疾風怒涛のオペラの幕開きだ。

初演を聴いた途端、かのカサノバは彼の有名な自叙伝を書くことを決意したそうだ。

そしてあの有名なドンジョバンニの地獄落ち。

それは1600年にローマで火あぶりになったジョルダーノ・ブルーノの最期を思わせると、ソレルスはいう。

「最期の発言で彼は以下のごとく述べた。自分は悔い改めたとは思わない。悔い改める理由がない。悔い改める材料がない。この結果、以下のものが焼き払われた。書物。それらの作者。コルクガシの枝」

ブルーノのように頑固なモーツアルトは、ヨーゼフ2世によって永久に見捨てられた。

ソレルスは語る。

「人生はひとつの音楽である。そして幻想抜きに、同時にまた必要な幻想を抱きながら過ごされるとき、人生はよりいっそう音楽となる。

こうした芸術を「楽しい知識=ゲ・サヴヴォワール」と呼ぼう。

「楽しい知識」は軽やかで悲劇的で、叙情的で、ほてりがあって、単純で複雑で、滑稽である。

精神は絶えざる運動なのだ。自由な様子、自由な愛、自由な創造。極貧状態にあったり、不幸のどん底にあったりすることを含めて…」

と。

(引用と参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」)

Monday, February 26, 2007

フランス革命、万歳!

♪音楽千夜一夜第12回


恐るべきフランス革命は、「魔笛」の夢の世界を徹底的に破壊し、音楽の真の革命家であるモーツアルトの革命的な音楽を破壊しつくした。

19世紀にはもう彼の市民権はなかった。モーツアルトと同様に、あの高雅なハイドン、ヘンデル、ヴィバルディの音楽も道連れにされた。

かの小澤征爾と同様の三流指揮者であるが、その代わりに一流音楽学者であるニコラス・アーノンクールによれば、ポスト・モーツアルトの「現実的な」音楽は、1800年ごろにパリのコンセルバトワールに生まれたという。

複雑で、対話的で、雄弁なモーツアルトのようなデリケートで知的な音楽のかわりに、例えばあの那智黒なワーグナーや男根的ヴェルディや荒川静香的プッチーニのように、アホバカ簡単単純明快音楽が、19世紀から現代までの音楽界を占拠した。

フランス革命は人々を階級社会から解放し、自由と平等の諸権利を確立したかもしれないが、ほんとうの音楽の生命を絶ち、音楽をボナパルティズム化し、いわば「軍事化」してしまったのである。

嗚呼、かのモーツアルトを虐殺したのが、サリエリではなく、あの三流音楽家ジャンジャック・ルソーという名の孤独な散歩家の夢想であったとは!

(引用と参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」)

甦ったモーツアルト

♪音楽千夜一夜第11回

音楽の唯一無二の革命児、TRAZOM。

彼の死後およそ1世紀を経て、さながらダライラマのように欧州の地に生まれ変わったのは、他ならぬアルチュール・ランボーであった。

100年後のTRAZOM、ランボーの言葉を聴こう。

「僕らの欲望には、巧みな音楽が欠けている。」

「彼は愛である。完璧な創りなおされた尺度であり、驚異的な、思いがけない理性であるような愛だ。そして永遠である。」

「より強烈な音楽のなかへのいっさいの苦しみの解消。
耳で築かれた城から、未知の音楽が流れ出る。」

「君の指が太鼓をひとはじきすれば、すべての音が放出され、新しいハーモニーがはじまる。君が1歩を踏み出せば、あたらしい人間たちが決起し、進軍がはじまる。君の頭があちらを向けば、あたらしい愛だ! 君の頭がこちらを向けば、あたらしい愛だ!
つねにやってきて、いたるところに立ち去る君。」

そして極めつけの1句がこれだ。


「僕は素晴らしいオペラになる。」

そして事実そのとおりになった。


(引用と参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」)

Saturday, February 24, 2007

2つの春

鎌倉ちょっと不思議な物語45回

第43回の続編です。

小さな水溜りに2種類のカエルの卵を発見しました。

笑み里さん情報によれば、一番右側がアカガエルの仲間であろう、ということです。

きのうと1昨日に見かけた割合小さい2匹が、おそらくこの卵の産みの親だったのでしょう。(でも今日は見かけませんでした)

で、左側のやつが、たぶんヒキガエルの卵だと思われます。

いずれにしてもこんなわずかな空間によくぞ生まれてくれたものです。

もし私たちが泥と葉っぱを取り除いておかなかったら、いったい彼らはどこに産卵できたのでしょう?

か弱い生物に対する奇特な人間のケアがなければ、もう在来の普通の動物ですら生存できないところにまで時至っているのかもしれませんね。


待ち待ちてついに産みけるカエルの子
ヒキと聞きつつ実はアカなり

モーツアルトの最期

♪音楽千夜一夜第10回

モーツアルトの生前の最後の作品は、1791年11月15日に書きあげられた「フリーメーソン小カンタータ」である。

いま私はそのK623をCDで聴きながら、これを書き飛ばしてる。

オロナミンCのような元気ではつらつとした音楽で「楽器たちの陽気な音が」とテノールが歌い始める。とても3週間後に死ぬ人の音楽とは思えない。

モーツアルトの妻コンスタンツエによれば、モーツアルトの健康状態は最晩年のこの時期にほぼ完全に回復し、このカンタータの初演を指揮するためにフリーメーソンの分団「新たに冠されし希望」の集会所へ足を運ぶほどだったという。

ではまるで全盛期のように活力を取り戻して「コジ・ファン・トゥッテ」、「魔笛」、「皇帝テイートの慈悲」「クラリネット協奏曲」などの傑作を書き上げたモーツアルトに、いったい何が起こったのか?

ソレルスは、モーツアルトは万全の体調で魔笛を書いていたときに、「傷んだ豚のロース」にかじりつき、それが原因で死んだと書いている。突然の病気はレクイエムの作曲に取り掛かった10月の中旬に始まり、11月の小康状態を経て、12月5日の早すぎた死に直結したわけだ。

それにしてもモーツアルトは、まるでランボーのようにおそろしく生命力の強い男だった。食欲も性欲も人並み優れたものがあり、妻コンスタンツエへの晩年の手紙には「お前の○○を思っておいらの××は机の上で猛り狂っている。どうにも我慢ができないよおお!!!」と書かれているから、それほど妻を肉体的に愛していた。妻以外の女性も含めて…。

その証拠にモーツアルトが死んだ翌々日、彼と同じフリーメーソンの会員であるホーフデーメルが、モーツアルトの子を宿した妻を殺そうとして自殺している。

一方のコンスタンツエは29歳でモーツアルトと死に別れ、その後デンマークの外交官ニッセンと再婚し、1842年に80歳で他界した。ニッセンとともにモーツアルト復興に貢献したとはいえ、他の男と浮名を流したり無駄遣いをしたりしてモーツアルトの晩年に幸福と不幸を二つながらに与えた功罪をもつ。

まあ、どっちもどっちでもいい。いろんな意味で、似合いのカップルだったのだ。
フィガロとスザンナ、タミーノとパミーノ、いやパパゲーノとパパゲーナのように…。
 

体調を崩してベルリンで療養していたコンスタンツエは、夫の死に立ち会えなかった。代わりに死の床でモーツアルトを看取ったのはコンスタンツエの義妹、ソフィーだった。

死の前夜、モーツアルトは「魔笛」有名な、「おいらは鳥刺し」の歌をほとんど聞こえないくらいのかすかな声で口ずさんだ。

そしてソフィーは空前にして絶後の天才の死を、こう語っている。

「湿布があまりにつよい衝撃を与えたために、モーツアルトの意識はもう息を引き取るまで戻りませんでした。彼の最後の吐息は、まるで自分の「レクイエム」のティンパニーを口で真似ようとしているかのようでした」

(引用と主な参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」、写真はAFP時事提供。1840年10月ドイツ南部アルトエッテイングのスイスの作曲家マックスの自宅前で撮影されたコンスタンツエ(前列左端)の生涯ただ1枚の歴史的な写真です)

Friday, February 23, 2007

笑々っていいとも 

鎌倉ちょっと不思議な物語44回

鎌倉でも京都でも、電線はいたるところに張り巡らされ、電柱は勝手にそそりたち、おまけにアホバカ携帯会社がおんなじ地域に3本もU字型のアンテナ塔をおったてても誰も文句をいわない。

さすがの彼らも多少は気がひけるのか、昨日の朝日の夕刊によれば、アンテナを竹に偽装したり、付属機器収納庫を山小屋に変装させているそうだが、笑止千万。
そういう小手先の「偽装」自体が醜悪な発想である。

そういえば鎌倉の東口駅前に「笑々」という、名前からしていやらしい居酒屋がある。

私の目には、その看板とネオンサインがあまりにも下品で毒々しすぎるので、いつも目をつぶって通り過ぎていた。

ところが去年だかおととしだか、たまたまそいつをまともに見た瞬間に吐き気を覚えた。

景観のみならず人間の精神の平安を著しく撹乱するこの標識はもう許せんと思った。

それでとうとう思い余った末に、ネットでHPを検索して本部の広報室長に電話をかけてみた。

「あなたの会社のC.Iデザインは酷すぎる。これでは多くの消費者を敵に回す。倒産するかもしれない。それで私が鎌倉支店用にもっとお上品なデザインとロゴを考えてあげるからこの際差し替えてみないか」

と、抗議兼懇切丁寧な提案までしたのだが、その広報室長らしき人物は

「そういわれても私にはなんともきゃんとも。なにぶんきゃまくら以外にも全国にお店がありますので、全国日銀会議で検討して」

 云々と、のたまわっておったなあ……。

私は絶対に、死んでも、あんな店には入りたくない。

Thursday, February 22, 2007

早すぎた春

鎌倉ちょっと不思議な物語43回


今日は家族と例の産卵場所に行って泥と木の葉をかき出して水溜りを増やしてやった。

で、鎌倉ちょっと不思議な物語42でご紹介したカエルの卵であるが、どうも違うみたい。

ヒキガエルはもっと大きなループ状になっており、ゼラチンが白いのにこいつは黄色がかっていて小さい。

さらに昨日、この卵の場所の近くで写真のような小さなカエルが2匹見つかった。

こいつは断じてヒキガエルではない。

詳しいことは図鑑を見ても分からなかったが、アマガエルかアカガエルの仲間だろう。

では卵は彼らのものだろうか?

でもアカガエルもアマガエルも2月に産卵なんかしない。もっとずっと後だ。

しかしこの超暖冬異変で2月に産んでしまったのかも知れない…。

なーんて、カエルを巡る疑問はますます深まる、余りにも早すぎる春の一日なのであった。

Wednesday, February 21, 2007

♪醜い鎌倉の私

あなたと私のアホリズム その11


おお鎌倉、お前は醜い。

東口駅前は、かなり醜い。

小町通りも、相当醜い。

ああマクドナルド、お前もひどく醜い。

そして「笑々」、おめえは余りにも、余りにも醜い。


しかし我々は、醜いものを直視しない。

そっと眼を逸らして、あらぬところを見る。

あの電線も、電柱も、看板も、横断幕も

すべてなかったことにする。

まるで裸の王様みたいに…


けれど、目に付くほとんどすべてのものが醜いと叫ぶ

この私も、相当に醜い。はずだ。

しかし、醜いものはなんたって醜いのだ!

と、星も見えない夜空に叫ぶと、

泣いていたはずのペコちゃんが、笑った。

Tuesday, February 20, 2007

ちっとも美しくない日本と日本人 

あなたと私のアホリズム その10

中島義道が説くように、日本人はそれほど美しいものを愛好しているわけではない。むしろその逆だ。
我々は、新宿や秋葉原や渋谷センター街の現代的な光景をことのほか愛している。そしてそこは醜悪でグロテスクな街だ。
三茶やシモキタや有楽町のガード下や歌舞伎町や新橋など大中少のきのおけない大衆的な雑踏を愛している。そしてそこは醜悪でグロテスクな街だ。

日本人が桂離宮や銀閣寺や高雅な北山文化を愛していないことはないのだけれど、それはよそ向きの顔であって、日常生活の中ではお気楽で猥雑で無政府的でブッチャケで混沌としたアジア的な無秩序を好むのだ。アジアの片隅の村祭りをこよなく愛しているのだ。

あるいはこうもいえる。
我々は自宅の中では西洋かぶれのおしゃれなデザイン美学を愛好しているが、一歩外に出れば建築や調度や雑貨の美しさなどもうどうでも好いのだ。

「町並みの美学」なぞ、犬にでも食われろだ。

道路も、街路も、電柱も、電線も、駅も、自転車置き場も、ゴミ捨て場同然の醜さであっても、どこかの国のアホバカ首相のように「これが日本だ、美しい祖国だ! ワンワン」と、シッポを振って喜んでいるのである。

Monday, February 19, 2007

ありがとう、ありがとう、ありがとう

遥かな昔、遠い所で 第7回

今日の日経の夕刊に嵐山光三郎の「渡辺和博氏の死」を悼む随筆が掲載されていた。

彼は10年間にわたって週刊朝日に「コンセント抜いたか」というエッセイを連載していたのだが、その相方のイラストレーターの渡辺和博氏がガンで亡くなったのである。

 3年前から肝臓ガンで入退院を繰り返していた渡辺氏は、後頭部まで転移し右目はしびれて見えなくなった目で、最後の作品、「60歳になった白髪のペコチャンの絵」を描いたという。

薄れてゆく意識のなかで、10年間続けてきた仕事を終えた渡辺氏は、亡くなる寸前、子どもみたいな声を出して、「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と奥さんに言ったという。

ここまで読んだ私は、嵐山光三郎の父君の最後の「よろしく」と書かれた言葉を思い出さずにはいられなかった。

げに死者の最後の言葉ほど、生者の胸を鋭くえぐるものはない。

私は、最後まで仕事をする人が好きだ。

私は、自分の妻を愛し、感謝する人が好きだ。

ああ、渡辺さん、遅かれ早かれ私たちも全員があなたと同じ道を辿るのです。


今朝咲きし すべての梅が枝 君に捧げん


黙祷

Saturday, February 17, 2007

四吟歌仙

遥かな昔、遠い所で 第6回


一  (新年)    パソコンを開けば思はぬ賀客かな    杉月

二  (新年)       ネットを揺らす獅子舞踊  あまでうす芒洋

三 (春)     梅林に黒猫一匹横切りて         峯女

四 (春)         主人はひとり春炬燵する    ろく水

五 (春・月)   おぼろ月異郷の家並みにかかりをり    杉月

六  (雑)       太郎は寝たが次郎目覚めつ     芒洋

(初折裏)

七   (雑)     夢が躍る時が過ぎゆくしんしんと   峯女

八   (恋)       かどのご隠居朝帰りして     ろく水

九   (恋)     千早振る神代大夫に恋焦がれ     芒洋

十   (夏)       卯の花匂う垣根飛び越え     峯女

十一  (夏)     白球を「はてネ」と拾ふ夏帽子    ろく水

十二  (雑)       托鉢僧が独り佇む 杉月

十三  (秋・月)   列島をはるかに照らせ秋の月    芒洋

十四  (秋)       鳥島南方台風北上        杉月

十五  (秋)     コンビニの傘無残なり天高し     ろく水

十六  (雑)       幼な児追いし赤い風船      峯女

十七  (春・花)   花曇遠き日の鬱よみがえり      杉月

十八  (春)       風光る原友と進まん       峯女

(名残表)

十九  (春)     春の果て地下六尺に眠る犬      芒洋
  
二十  (雑)       漆黒の夜に連れ笑いして     ろく水 

二十一 (雑)     かがり火に馳せ集ふたり京のもののふ 杉月

二十二 (雑)       コミューンに燃えた七十二日   峯女 
 
二十三 (冬)     血塗られし壁に動かず冬の蝿     芒洋 
 
二十四 (雑)       足滑らせて尻餅をつく      ろく水
 
二十五 (恋)     宙に飛ぶ少女の腓うち震え      芒洋
  
二十六 (恋)       上げたばかりの前髪乱れ     峯女 
 
二十七 (恋)     哀しみに耐えて瞳をそらしをり    杉月 
 
二十八 (雑)       車窓はるかに望む鐘楼      ろく水
 
二十九 (夏・月)   雨上がり静かな村に月涼し      峯女 
 
三十 (夏)       わが掌の平家蛍よ        芒洋 
 
(名残裏)

三十一 (雑)     友臥せり本を命の余命いくばく    杉月 
 
三十二 (雑)       故郷の味する持参の饅頭     ろく水 

三十三 (雑)     踏み切りを渡れば唱歌聞こえ来し    杉月
  
三十四 (雑)       あろんざんふぁんなむあみだぶつ 芒洋 
 
三十五 (春・花)   つかのまの乱舞を誘う花吹雪     峯女 
 
三十六 (春)       若葉翳さす静が舞台       ろく水 

不安な春

鎌倉ちょっと不思議な物語42回


去年は3月6日に発見したヒキガエルのオタマジャクシの卵を、昨日同じ場所で見つけた。

私が知る限りヒキガエルが天然自然に繁殖しているのは、光明寺の深い池と果樹園とここだけだ。

かつては春近い季節のとある日に、突如どこかから現れた何匹もの雌雄が、激しく交尾して我々人間を驚かせ、楽しませてくれたものだ。

そうして恋の勝利者たちは、長い長い輪になった透明な寒天状の袋に入った小さな黒い斑点のような卵を、どうだ、どうだ、と勝ち誇ったように湿地や水溜りのいたるところに産み付けたものだが、ここ数年、そういう心踊る光景にはたえてお目にかかれなくなってしまった。

それにしても、今年はやはり暖冬で地球には絶対に大きな異変が起こっている。

例年なら落ち葉が沈んでかなり大きな水溜りができているはずなのに、今年は渇水のためにほとんど水がない。仕方がないので、私は少し落ち葉をかき出して、小さな池を作ってやった。

このままなんとか育って、七月上旬のニイイニイゼミの初鳴きの頃、無事に孵ってほしいと祈るような思いだ。

しかし油断はできない。

去年は忘れもしない6月28日に、近所のアホバカオートバイ野郎が、この池と草地を蹂躙して大半のオタマが死滅した。

だから、いつも私は何匹かを自宅の瓶で育てて万一に備えているのだが、今年は両生類の絶滅を招きかねないカエル・ツボカビ症が、わが国にも中南米から侵入してきた。

この「カエルのエイズ」に感染すると、カエルやサンショウウオたちは皮膚呼吸ができなくなり食欲不振、オブローモフ現象などを起こし2~5週間で9割が死んでしまう。

現に中米のパナマでは野生のカエルが全滅した地域があるそうだ。クワバラ、クワバラ。

私の大好きなカエルにも、可愛いらしいけど小生意気な木村カエラにも、どうやら明るく楽しい未来はなさそうだ。

Friday, February 16, 2007

遥かな昔、遠い所で 第5回

三歌仙

発句       鎌倉の谷戸に咲きたり岩煙草    あまでうす芒洋
脇         そぼつ五月雨烟るむらさき    ろく水
第三       早乙女の笑顔まぶしき昼下がり   峯女
四句目        誰かさんが眠っているよ小麦畑 芒洋
五句目      名月に栗も団子も間に合わず    ろく水
六句目         可不可を論ずる虫たちの声   峯女
折立        むざむざと捕えられたり秋蛍     芒洋
ニ句目         かこち顔して恋文を打つ     ろく水
三句目       ブラームスお好きかどうかと問い掛けて 峯女
四句目         セーヌ左岸で都々逸を唸る    芒洋
五句目       葡萄酒も時のかなたの偏奇館    ろく水
六句目          踊り子ひとり爪を眺める    峯女
七句目      寒月や朝まで照らせ伊豆の海     芒洋
八句目          群雲たちて風花の舞う     ろく水
九句目       浅きゆめ目に焼きつきし煌めき残す  峯女
十句目          五〇過ぎれば下天も楽し      芒洋
十一句目       北面の武士いざないし桜花      峯女
折端          草の茵の春宵値千金       ろく水
折立        太平の眠り覚ますや猫の恋        芒洋
二句目          敗れて逃げしトタン屋根かな    峯女
三句目        欲望という名の電車に飛び乗りて   ろく水
四句目          ナッシュビルにてブランチしたり  芒洋
五句目       あらまほし喉すべりゆく冷奴      峯女
六句目          今どきの娘は浴衣にサンダル   ろく水
七句目       ざんざ降り下駄の鼻緒は紅染みて   芒洋
八句目          小癪なおきゃん水仙めでる     峯女
九句目        球根のひげ根はびこる水栽培      ろく水
十句目           ワッと驚くキューリー夫人    芒洋
十一句目      ワルシャワの蒼白き月ラボ照らし    峯女
折端            貧乏書生は着重ねが好き    ろく水
折立        暗闇の坂を下れば雁が鳴く        芒洋
二句目           無縁の人になごりを惜しみ    峯女
三句目       良縁も運がいいやら悪いやら      ろく水
四句目           後の祭りは世の習いなり     峯女
五句目     浅草や雷門に花吹雪          芒洋
挙句          盛り塩清し春の夕暮れ       ろく水

Thursday, February 15, 2007

平成風狂散人の傑作を読む 

嵐山光三郎著「よろしく」(集英社)


嵐山光三郎は不当に低く評価されている作家だが、それは間違っている。

彼の作品はすべて読むに値し、読後の深い感銘を残す。特に山田美妙や芭蕉などの文学者を素材に取り扱った際の彼の技量の冴えは鋭く、凡百のヒョーロンカどもの白痴的言説を地上はるかの高みからアハハハアと嘲笑うのである。

特に人生の黄昏を迎えた父母と暮らしながら、その1日1日の断片をいとおしむように綴ったこの作品は、もしかすると彼の最高傑作かもしれない。

この小説には著者の家族や友人、著者が住むK立市の町内に住む有名無名の住人や奇人変人が続々と登場し、殺人事件や恐喝、詐欺、痴情、暴力、警察沙汰などの大小の事件と騒動を繰り広げる。

それらの大半は事実であり、ありのままの現実の描写なのだが、著者の筆にかかるとそれらがそのまま幻想譚であり、壮大なフィクションであり、人間非喜劇と化す。

嘘か眞か、ではなくて嘘も眞も一体となり混在するまか不思議な世界へと読者は導かれる。だから、これこそはほんとうの現代文学なのでR。

彼の文章の特色は、その独特のユーモアと冷徹な無常観の共存にある。彼は面白うていつも哀しき人の世の習いを、草原を一定の速度で黙々と直進するサイのように淡々と叙述する。

その白眉が本書の第八章「月おぼろ」である。これから読まれる方のためにいっさいの情報を封印するが、ともかく黙って読んでみてほしい。285pから312pまでの28pは骨肉に徹する瞠目の大文章である。これこそが文学だ。

この偉大な平成の風狂散人は、内心では炎のような情熱と狂気と無政府主義魂が燃え滾っているのに、それをおくびにもださずに冷徹に生きる。

世間を正確に見据える鴎外のような、荷風のようなその姿勢が好ましい。

Wednesday, February 14, 2007

遥かな昔、遠い所で 第4回

両吟歌仙 「春の膳の巻」  
 

独活に蛸酢味噌よろしき春の膳      ろく水

   そよと吹き込む五弁の桜        楽斎

蝶来る窓辺に本の積まれおり        ろく

   学成り難くごろ寝するなり        同

満月を見つけし宵のうれしさよ        楽

   げにすさまじきゴッホの流星      ろく

     跳ね橋の袂に咲きたる曼珠沙華        楽

       お春恋しや沖の白雲          ろく

     バイカル号いま大桟橋を離れたり       楽

       鞄に潜めしピストル一丁        ろく

     議事堂の坂を一人で駆け上がる        楽

       チョン髷断ちたる代議士もいて     ろく

     大川の左岸は涼し夏の月           楽

       サン・ローランのパンタロン着て    ろく

     老将は死なずただ生き尽くすのみ       楽

       余寒にさする脛の古傷         ろく

     オフェリアの沈みし淵か花筏         同

       春告鳥の語尾は震えて          楽

     羅典語の教師板書で早や四十年       ろく

       ワインに厭きて蕎麦湯を愛す       楽

     碧眼の妻に古備前ねだられて        ろく

       茶髪駆け込む大門の質屋         楽

     夏草をわけて奔るや風の径         ろく

       雲の彼方の少年の夢           楽

     蒼穹の果て見て鳴くか揚げ雲雀       ろく

       虚無僧は行く蒲公英の道         楽

     罪ありて遠流されしや雛流れ        ろく
       
世阿弥をつつく鴉が一羽         楽

     砧打つ音なかぞらに月高し         ろく

       無為を楽しむ今朝の秋かな        楽

     猿沢の池を巡れば鹿が鳴く          同

       煎餅食いたし美形でいたし       ろく

     銀座に消ゆ絽に黒髪の謎のひと        楽

       真砂女に似たる猫あくびして      ろく

     わが庵に万朶の桜降りやまず         楽

       楽の音もまた春の夜の夢        ろく

Tuesday, February 13, 2007

景山民夫氏の思い出

景山民夫氏の思い出

遥かな昔、遠い所で 第3回

昔、といっても80年代の中頃のことだが、マガジンハウスの「ブルータス」という雑誌の名物編集者で、現在は「ソトコト」の編集長である小黒一三さんから景山民夫という作家を紹介された。

景山氏は長身の都会的な青年で、とても端正な顔立ちをしており、いつもおしゃれないでたちをしていた。

彼は1988年に「遠い国から来たクー」で直木賞を受賞したが、その記念パーティで挨拶に立った角川書店の見城徹(現幻冬社社長)が登壇して、そのラストシーンを二人で泣きながら書き上げたと語ったので、“へえ、小説は編集者と泣きながら共作するのか”、と思ったことがある。

その後何度か会う機会があったが、その時の話題はいつも障碍を持つお互いの子どもについてだった。

障碍といってもいろいろあるが、私の考えでは2種類しかない。親が死んでもなんとか自己責任(嫌な言葉だが)で生きていけるタイプAとそれが不可能なタイプBである。

前者の親は安んじて死ねるが後者の親は、死ぬにも死ねないし、厳密にいうとこの地上においては人間として普通の自由と安楽は許されてはいない。己が死する直前に、たとえそれが地獄であっても愛児を道連れにしようとひそかに考えている。

それゆえにこのタイプB同士の弧絶の悩みと交流の深さは、タイプAよりも深くて濃い。
「同病相哀れむ」ではなく、「同病各自滅す」なのである。

いま世間では格差社会がどうのこうのと世間では喧しいが、真の格差とはタイプAとBとの絶対的格差を指し、それ以外の格差は格差ではない。そこにこそ為政者のなすべき仕事があるはずだ。

なーんて話を、原宿のブルーミングバーで遅くまで話し込んでいたあの景山民夫氏が、ある日突然の自宅の失火で亡くなっちまった。そのとき私は彼を悼むより残された妻子の身の上を案じたことだった。

彼には「人生には雨の日もある」というエッセイもあるせいか、雨の日には彼のことをよく思い出したが、今日は雨も降らないのに、中野坂上の青空に浮かんでいる白い雲を見ているうちに、限りなく心優しかった彼を懐かしく思い出し、死後の彼の幸福と苦悩について考えた。

余談ながら最近のこの業界?では、「障害」と書かずに、「障碍」または「障がい」と書くのがおしゃれなトレンド。

その心は、「障がい者」は、言葉のあらゆる意味において、「害的存在ではない」から(笑)。

Sunday, February 11, 2007

くたばれ!マウンティング・バイク

あなたと私のアホリズム その9


最近これはちょっとヤバイと思うのが、山道の奥の奥の杣道を猛烈な勢いで突っ走る無軌道なマウンティング・バイクである。

こっちは都会の喧騒と車が嫌で田舎に引っ込んでいるというのに、最新式の重装備自転車にまたがった奴らが、お誘い合わせの上で団体で鄙に押しかけてくる。

文字通り獣1匹しか歩けない急な小道を、地図を片手に都会からやって来たこいつらが、下に誰が歩いているかなぞまったく無頓着に、「ひよどりごえ」の義経気取りで車もろとも落下してくるのである。
恐ろしいやら、怖いやらで、おちおち山道の散歩などできるものではない。

タイワンリスが環境を破壊しているのは事実だが、こいつらは動物だ。言い聞かせても善悪が分からないから仕方がない面もある。

しかし老人、子ども連れが楽しく歩いている野道やハイキングコースに、猛スピードで自転車を乗り入れてくるのは、一人前の人間である。

お前は自分がやっていることの意味が分かっているのか? 山道は山人が歩くための道なんだ。「走る機械」が、遊びで走る場所じゃないんだ。

いくら都会の道路が危険だからといって、わざわざ人跡稀な僻地までやってくるな。

お前の身勝手な欲望のお陰で、多くの人々が迷惑を被り、怪我をしたり、大きな被害を受けているのだ。

見ろ、お前が知らずに車輪で踏みつぶした冬スミレを。お前のお蔭で人間だけではない、自然も傷ついているんだぞ。

自転車屋も自転車屋だ。環境を破壊する凶器を作るな、売るな、奨めるな!


ということで、久しぶりに“怒りのチビ太”となりました。

勝手に東京建築観光・第6回

夕中野坂上には、かの有名な中野長者の成願寺がある。

昔紀州熊野出身の鈴木九郎という男がいた。先祖はかの源義経の部下で奥州で討ち死にしたそうだが、その後裔である九郎は、いま東京タワーが建っている縄文時代の聖地芝に漂着し、葛飾の馬市で売った馬の代金を浅草の観音様に奉納したことからあれよあれよという間に大金持ちになり、いまも中野坂上に実在する成願寺に住んだので巷では「中野長者」と呼ばれる有名人になった。 有名になっている間にもどんどんお金が儲かるので、九郎はその千両箱をアルバイトに頼んで、近所の東京工芸大の付近に毎晩のように埋めていたが、その秘密の場所を知られると困るので大判小判の運搬を手伝った者たちをひそかに闇に葬っていた。  その悪行のせいだかどうだか分からないが、呪われた九郎の娘は醜い大蛇となり、ある雨の日に鎌倉の十二所ではなく西新宿の十二社の池に身を沈めてしまった。
父親の因果が子に報い、大蛇に変身した美しい娘は、まるでワーグナーの楽劇「指輪」の序夜「ラインの黄金」の冒頭に出てきて「ウララ、ウララ」と全裸で歌って踊る乙女のようだ。  しかし中野長者の金融商業資本を水底深く守護し、遊治郎どもの性的好奇心を惹きつけ、東都一の遊興の地である歌舞伎町や角筈の伊勢丹、紀伊国屋、中村屋などの商業施設を定着させたのは、なんとこの中野乙女だったのである。

以上、中沢新一氏の解説でした。

Saturday, February 10, 2007

落石に注意!

鎌倉ちょっと不思議な物語41回


おなじみの朝比奈峠に最近異変が起こっているらしい。

つい先日も市役所の史跡保存関係者の面々が上空を見上げていた。

この峠のさらに上にはハイキングコースがあって、その根本の石や土砂がいつ崩落してもいい状態にあるらしい。

実際峠には「落石に注意」の立て看板がれいれいしく置かれているし、時たま結構大きな石が落下しているのは事実であるが、では我々通行人はいったいどうやって「注意」したらいいのだろう?

朝比奈切通しの近所の釈迦堂切通しはもうずいぶん昔から崩落の危険があるということで交通禁止になっているが、近く朝比奈峠も同じ命運を辿るのだろうか?

Thursday, February 08, 2007

半藤一利著「其角俳句と江戸の春」を読む

あなたと私のアホリズム その8


鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
鶯の身をさかさまに初音哉
闇の世は吉原ばかり月夜かな
わが雪と思へばかろし笠の上
夕涼みよくぞ男に生まれけり
憎まれてなかれえる人冬の蝿
いなずまやきのふは東けふは西
秋の空尾上の杉を離れたり

などで有名な宝井其角(寛文元年1661~宝永4年1707年)の含蓄ある華麗な代表作を半藤先生が講評する。国漢文に造詣の深い先生の解釈の奥深いこと、また博引傍証の凄まじさにも圧倒される。特に最後の3篇が好い。

本書で改めて学んだこと

墨東に残る江戸時代の建築は三囲神社の本殿、寿老人の白髭神社の本殿、毘沙門天の多聞寺の山門の3つ。

江戸の鐘の音は、日本橋石町、上野の山、浅草観音、芝の切り通し、市谷八幡、本所横川、四谷天龍寺、田町成満寺の9箇所で鳴った。

1日12刻を十二支で表わす。始まりの子の刻は夜の十二時で鐘の音は九つ、次の丑の刻が午前2時で鐘は8つ、以下二時間間隔で寅の刻は7つ、卯の刻6つ、昼の十二時の午の刻になるとまた9つ、午後2時の未の刻が8つ、申の刻が7つ…。お江戸日本橋7つ立ちは午前4時、などなど。

勉強になりましたぞ、なもし。

五木寛之の「仏教の旅」を読む

あなたと私のアホリズム その7


最近NHKがインドの衝撃という番組でその破竹の進撃ぶりを伝えていたが、不思議なことにこの国の最大の問題点であるカースト制度についてまったく触れていなかったのが印象に残った。

インドのカーストとは身分を分ける4つのヴァルナ(階級)のことで、最上級のバラモン(司祭、宗教指導者)にはじまり、クシャトリア(王、武士、貴族)、ヴァイシャ(農民、商人、実業家)、シュードラ(隷属民)の順に続く。

そして以上4つのヴァルナにも入れてもらえないのが不可触選民(アンタッチャブル)である。あの偉大な(マハトマ)ガンジーですら、口では博愛精神を唱えながら、実際にはヒンズー教とカーストを擁護していたが、さすがにお釈迦様は心がひろく、いかなる不可触選民もまったく差別しなかった。
たとえ相手が娼婦であれ、盗賊や殺人犯であれまったく平等にあつかった。

その偉大なブッダの最後の旅を現地を歩きながら五木寛之という作家が、独特の低音で語る。

その低い声音はテナーではなく、野太いバスで歌われる浪曲のようである。水の流れにたとえると春の小川ではなく、滔々と流れる冬のヴォルガの底流のようである。

もうけっして若くないこの作家は、虚飾を拝した散文で、とつとつと己の真情を語る。そのような言葉と精神で書かれた新作がこの本であった。

私は本書の最後に紹介されているインドに帰化した日本人仏教僧、佐々井師の壮烈な生き様に感銘を受けた。

師は不可触選民の出身にしてインド憲法の制定者でヒンズー教から仏教徒に転進したアンベードカル博士と同様に、「自利利他円満」を退け、「利他一利」を主張しているが、やはり本当の仏教は宮沢賢治と同様この境地まで達しないわけにはいかないのである。

Wednesday, February 07, 2007

未来世紀ブラジル

勝手に東京建築観光・第5回


 才人監督テリ―・ギリアムの「未来世紀ブラジル」は大好きな映画だが、ここに出てきた近未来都市さながらの光景が、中野坂上駅前のサンブライト・ツインビルの外装である。

階上に向かうエスカレーターに乗って左上方を見上げれば、おお、凄い凄い、目が眩むような景観が頭上に覆い被さる。

やたらと日本人を殺傷したり閉じ込めたりするシンドラー社製のエレベーター!?が、何本も乱高下する姿はちょっとシュールな見ものである。
 エスカレーターを捨てて広場に出てみよう。進行方向左側に立つ集合住宅ビルの外装もとても洗練されている。

安藤忠雄の表参道ヒルズなんかよりよほど高級な建築物である。

Tuesday, February 06, 2007

ザ・ビッゲスト・スリー

あなたと私のアホリズム その6


世界の三大宗教は3人の偉人の偉大な死によって始まった。

イエス・キリストは西暦28年、32歳のときポンテオ・ピラトの命によってゴルゴダの丘で十字架上で磔になり、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし」と叫んで息絶えた。しかも彼は3日後によみがえったと言われている。

これに対してイスラム教の始祖マホメットは、西暦632年、61歳のとき愛妻アイーシャの胸に抱かれながら波乱万丈の生涯を終えた。
コーランの最後の言葉は、「言え、おすがり申す、人間の主に、人間の王者、人間の神に。そっと隠れてささやく者が、ひそひそ声で人の心にささやきかける、妖霊もささやく、人もささやく、そのささやきの悪をのがれて」である。

いっぽうゴータマ・ブッダは、紀元前480年、鍛冶工の子チュンダが献じたきのこ料理が直接の原因となってクシナーラーで80歳で涅槃し、火葬に付され、その骨の一部はわが国の名古屋市覚王山日泰寺に納められ、諸宗交替で輪番する制度になっている。

「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」
が、ブッダの最後の言葉であった。

インドでは古くから人間の一生を学ぶ学生期、家族を支える家住期、晴耕雨読の林住期、死出の旅に出る遊行期に分けるが、ブッダはその生涯を通じて「よく死ぬための旅」を敢行し、ついに旅に死んだのである。

ブッダはクシナーラーではなく、本当はその先にある自分の故郷釈迦族の都カピラヴァストゥへ向かっていた。かつて自分が妻子と国民を捨てて出た故郷へ…。

その故郷はブッダの名声をかさにきて傲慢になり、それが原因で敵国コーサラによって滅ぼされてしまう。それに対して自責の念を感じていたブッダは、最後に自らの母国を目指そうとしていたが途中で力尽きた。

3人の偉大な宗教家のなかでは、私はそんなブッダに生き方と死に方が一番好きだ。

Monday, February 05, 2007

数珠を回して

ある丹波の老人の話(4)


 その日、大広間には大勢の人たちが集まりました。

そして一同は輪になって座ると、まず願主の祈りがあり、続いて会衆は口々に南無阿弥陀仏を唱えつつ、両手で珠を送って数珠をグルグル回すのです。

珠の中には格別大きうて房の垂れたのがあって、それが老院長のところに回ってくると、老院長はうやうやしくこれを押し頂き、「戌の歳三三才女眼病平癒いたしますよう、南無阿弥陀仏の観世音菩薩…」と唱えます。それが終るとまた数珠回しが始まり、限りなく繰りかえされるんです。

 初めのうちは数珠の回りが緩やかやったんですが、だんだんそれが早うなり、念仏の声も高くなり、会衆一同に憑き物でもしたように満場沸き返るような白熱した祈りとなりました。

私は人の情のありがたさに泣き、「これほど熱意のこもった大勢の祈りは、きっと観音さんに通じてきっとごりやくがいただけるやろう」と、なにやらひどく元気づけられたんでした。

そして母も、「きっとお陰が受けられるやろ」と言って、とてもよろこんだのでした。

Saturday, February 03, 2007

百万遍の大祈祷会

ある丹波の老人の話(3)


にわかめくらの母はなにひとつ自分ではできません。

食事の世話は箸の上げ下ろしから、便所通いにはいちいち肩を貸し、私はだいじなだいじな母、好きな好きな母のために、学校を長く休むかなしさも、友達と遊べないさびしさも忘れて、かたときもそばを離れんと介抱しました。

病院には広々とした庭があって、中には観音様のお堂があり、お参りする人が次から次に押しかけ、線香の煙の絶え間がありませんでした。

母の眼を治すために何かに祈りたい気持ちでいっぱいだった私は、「いつか母から話を聞いた柳谷も観音さん、これも同じ観音さんやから、この観音様に母の弦病平癒の願いをこめて一心に祈ってみよう」と決心しました。

毎朝母が眼を覚ますとまず一番に便所に連れて行き、それから食事をはじめ次から次に用事があります。せやからお参りは母がまだ起きないうちに済ませんとあきまへん。私は毎朝薄暗いうちに起き出して観音さんにお参りをしました。

それからお祈りをするんでも、ただ「お母さんの眼を治してください」だけでは自分の真心が観音様に通じないような気がして、いろいろ考えた末に、「私の片目をお母さんに上げますから、お母さんの片目だけでも見えるようにしてください」といいながら祈りました。

それもただ心の中で念じるだけでは通じないような気がして、声に出して祈ったんです。こんなに朝早うから誰も聞いておる人はおらんやろ、と思って、その声はだんだん高うなりました。ところがそんな私の声を聞いておる人がおったんです。

丹後の森というとこから来ていた馬場冶右衛門というおじさんと、越前から来ていた川合おえんさんというおばさんでした。

馬場さんは眼の悪い奥さんに付き添ってきていて、ひまさえあれば老院長の碁のお相手をしている心のやさしいおじさんでした。

おえんさんもやさしい世話好きの良いおばさんでした。この二人が私のことを病院中に言い触らしたので、「かわいそうなことや」「感心な息子や」などとたいへんな同情と評判を呼んでしまいました。

とりわけ老院長がすっかり感動し、おえんさんと馬場さんの奔走の結果、老病院長夫妻が願主となって私の母の回復を観音様に祈願する百万遍の大祈祷会が病院の大広間で開かれることになってしもうたんです。

Friday, February 02, 2007

鎌倉やゴッホの家に人気なし

鎌倉ちょっと不思議な物語41回


十二所の近所には、神社やお寺もあるが、いわゆるゲージュツカも住んでいる。

鷹のように眼光鋭い日本画家の小泉惇作氏は家のすぐ傍だし、和紙のきたみ工房やそのお隣の工芸家さんや岡松和夫さんという温和な顔をした芥川賞受賞作家も住んでいる。

以前に紹介したクジラが遊泳する不思議な美術家の家など最近は小さなギャラリーも増えてきた。

さらに数年前には、崖下にある私の家の上になんと「おみこし作家」なるおじさん夫婦が越してきた。時々のぞいてみると本当にお神輿が飾ってあるのでびっくり、である。

そのうえ十二所には、なんと「ゴッホの家」まで建っているのであった。

Thursday, February 01, 2007

ある丹波の老人の話(2)

  するとそのとき、母は「わたしは柳谷の観音様におこもりして“消えずのお灯明”をあげて一生一度の願を掛けてみよと思うんや。そやからどうぞわたしをそこまで連れて行っておくれやす。あとはどないなってもええさかいに、二人は家に帰っとくれ」というのです。

母はかねてこの観音様の霊験があらたかなことを聞いておりました。“消えずのお灯明”というのんは、手のひらに油を入れてお灯明をともし、一生一度の大願を掛けるんやそうです。

しゃあけんど、そんなところにこの不自由な母を置き去りにして帰れるもんやない。私と父はますます困り果てて悲嘆に暮れ、その場におった二人のカゴかきも一緒に泣いてくれたほどでした。

この愁嘆場を見るに見かねたのでしょう、十二屋の主人が親切に慰めてくれ、さらに「あのなあ、千本通り鞍馬口十二坊いうとこにどんな難病でも治すっちゅうほんまに上手な眼医者はんがおります。これからそこへ行って診てもろうたらどんなもんじゃろかな?」とすすめてくれたんでおました。

その話を聞いた途端、ワラにもすがりたい気持ちの私たちは、京の端から端まですぐにその医者のところへすっ飛んで行きました。

着いてみるとなかなか大きくて立派な病院です。院長は確か益井信という人でしたが、そのお父さんと共に開業してはる眼科の専門病院でした。

早速益井院長に診察してもろうたところ、「いかにも難病は難病やけど、もしかすると治るかも知れまへんなあ」というのです。

九死に一生を得た思いの私たちはすぐに治療と入院をお願いしたんやけど、あいにく病室は満員だというんですわ。

それをなんとか拝み倒して、せめて1週間でもよいからと必死に頼み込んで、とうとう薬瓶などを積んである狭い物置部屋に収容してもらうことに成功しましたんや。

ほいでもって父とカゴ屋はそこで引き上げ、私が独りで母の介護に残りました。
(続く)

Wednesday, January 31, 2007

ある丹波の老人の話(1)

私の家は昔から不思議に男の子が生まれへん家でしてなあ、三代四代と養子を続けておりました。そこへ私が生まれたのでありますが、その私はまことにひ弱な、しなびたみっともない子でしてなあ、母は恥じて人には見せなかったと申します。

 それがどうにか育って青年になりはしたものの、やはり病弱で、徴兵検査には肺浸潤と診断されて兵役免除になり、せっかく勤めていた郡是もやめてしまいました。

父母は弟に面倒を見てもらうつもりで私をあてにせず、親戚の者からもせいぜい安月給取りになるくらいしか仕方がないと思われ、親譲りの下駄屋をやっていくだけの甲斐性もない者として、すっかり見くびられていたのがこの私やったんです。

それが古希に達する現在までなお健在で、これまでなんとかやってこれたことは、じつに見えざる神様のお導きとお守りのお陰であります。ここにこの広大無辺なるご恩寵に感謝し、なおまだ至らざる身に鞭打ちつつ、自らを修めて向上の一途を辿ってまいりたいと願っております。

母の眼病

 私が数えで十二のとき、三十三歳の母は四人目の子を産みました。

ところがこの子は育たず、そのうえに母は産後に眼を病み、眼はだんだん悪くなってとうとう失明してしもうたんです。

にわかめくらの不自由はたとえようもなく、私たち家族はなんとかして治そうと智恵をしぼりました。当時日本一の眼医者として知られた浅山博士が、京都府立医大病院の院長でごわした。

そいで急いで商売の下駄屋をしめ、父と私は弟と妹を親類にあずけて母をカゴに乗せ、二晩泊まりで京都に行ったんでした。東洞院仏光寺上ルの十二屋っちゅう宿屋に泊まり、翌日幸いなことに浅山院長に診てもらうことがでけたんどすが、「これはクロゾコヒといってとても治らぬ眼病です」と宣告されてしもうた。

母はがっかりして「もう死んでしもうたほうがええ」と泣き悲しみます。父も「どうしようか」と思案にあまって親子三人で途方に暮れておりました。(続く)

十二所の神々

鎌倉ちょっと不思議な物語40回


十二所神社の十二所は、「じゅうにそう」、または「じゅうにそ」と読む。「じゅうにしょ」は「敬愛なるベートーベン」ほど酷くはないが、間違った読み方なので念のため。

さてその十二所神社は、かつては時宗の一遍上人が開いた光蝕寺の境内にあって十二所権現と称したが、天保9年(1838年)に大木市左衛門の寄付した現在地に移転した。

一遍は紀州熊野神社本宮にこもって彼の時宗(一遍宗)を開いたので、時宗では本宮を中心とした十二所権現を各地の時宗寺院に勧請して祀ったのである。

その後明治の廃仏毀釈の際に権現を神社に改め天神七代、地神五代をもって祭神とした。

十二所の地名は、この神社に因んでいるという説と、この字の家の数が12であったという説とがある。(「十二所地誌新稿」より)

この神社には力士石があり昔の里人が力比べをした。また鎌倉石のきざはしが2重構造になっているのは珍しく、江戸期の寺社建築と本殿の軒下の木彫りは見事である。


さて20年くらい前に、私たち一家はこの十二所神社のすぐ隣に住んでいた。

秋の祭礼には大小の神輿が繰り出し、大勢の人たちが金魚掬いや綿飴やぼんぼりや出し物をお目当てにやってきた。

出し物の目玉はコロンビアやキングの売れない新人歌手だ。マネージャーに連れられてやってきて下手くそな、しかし哀愁のにじむ演歌を歌ったものである。

去年はたしかトンガかフィジーからやってきたフラダンス?が超目玉であった。

私はフラダンスはパスして、毎回子どもが描いたぼんぼりの絵と、寄進者の氏名と金額が書かれた立て札を眺めにいくことにしている。町内会が祭礼の寄進を求めるので、私は毎年1500円の寄付をしているのだ。

ところが驚いたことに、創価学会の家ではびた一文ださないのに、近所のカトリック修道院がいつも十二所神社に3000円の寄進をしている。世界に冠たる1神教のくせに寛容の精神がある、と感心していたが、さすがに去年はやめたらしい。

この修道院は前にも触れたように三代将軍実朝が創建し、永仁元年1293年の鎌倉大地震で壊滅した大慈寺の跡地に建っている。敷地は立ち入り禁止になっているが、修道女が瞑想しながら歩む裏山の小道にはいくつもの仏像が並んでいることを私は知っている。

今を去る800年前、実朝があの金塊和歌集の素晴らしい古歌を吟じ、蹴鞠に興じたその同じ空間で、グレイの僧衣に身を固めたシスターたちが、祭壇の父と子と精霊に額ずいているとはなんという歴史の皮肉であろうか。

Tuesday, January 30, 2007

贈る言葉

あなたと私のアホリズム その5

昨日は学校の最終講義だった。

まだ来週の試験が残っているが、いちおうこれでおよそ40人近くの学友諸君と訣別したわけだ。ほとんどの生徒とはこのSNSというメディアを除いては二度と会うこともないだろう。

彼らは学校を卒業し、どこかへ旅立っていく。けれども私は相変わらずここにとどまり、おそらくもうどこにも行かないだろう。私は「出発すること、それは少し死ぬことだ」というガストン・バシュラールの有名な言葉を思い出したが、出発しないほうだって多少は死ぬのだ。

年々歳々同じような「学生vs代わり映えしないあほ教師」という相関関係の中ではあっても、また、それが週にただ1度90分間だけの交わりであっても、春夏秋冬と1年間授業を続けていれば、そこには毎回ささやかな波紋が広がり、忘れがたい思い出のいくつかもそこここにちりばめながらお互いの記憶の深層にゆっくりと降りていくのである。

そうしてそれらの記憶は数年、いな数十年の時間を経て懐かしく回顧されたりもする。

私には人を教えることなどできない。いちおうはもっともらしく表層の知識の断片をノートに取らせたり、毎回演習問題をやらせたりしているけれど、そんなものは水はちゃらちゃら御茶ノ水、粋なねえちゃん立小便、のようなものですぐに忘れられてしまう。

残るのは教師の謦咳だけである。稀に彼が思いがけず発した片言隻句だけが誰かの胸にトゲのように刺さることがあり、それが教育的効果のすべてである。

だから教師はいつでも彼の実存をさらさなければならない。無様で醜悪な生き様を見せなければ反面教師にもなれないのである。

知識ではなく、生に向かって懸命に格闘している姿を90分間ライブでお眼にかけることが教師サービス業の本質であり、それを感得した若者は自分で自分の勉強を始めるのである。

昨日私は、授業の最後に黒板に

春風や 闘志いだきて 丘に立つ
 
という高浜虚子の句を書いて、前途有為な彼らへの別れと励ましの言葉に代えた。

そうして今日の午後、果樹園に散歩に行ったら、突然
「われ山に向かいて眼をあぐ」
という言葉がどこかから湧いて出た。

これは確か太宰治か聖書の文句だったと思うが、じつにいい言葉ではないか。誰もいない広大な果樹園の中、真っ青に澄み切った大空の下で聳える緑の山を見つめながら、ひさしぶりに私自身も「いざ生きめやも」という気持ちになったことであった。

 

Monday, January 29, 2007

インフィル不在の音楽論

インフィル不在の音楽論


♪音楽千夜一夜第9回

稀代の悪文で定評のあった塩野七生氏の「ローマ人の物語」がようやく15巻で完結し、もうこの人の醜い日本語を読む必要がなくなったといささかほっとしているところだ。

ところで全巻をつうじてローマ時代の芸術について触れることの少なかった著者だが、最終巻の104pで珍しく音楽について語っている。

塩野氏によれば、現在のドイツの西部と南部は古代ではローマ帝国に属していたので、ザルツブルグに生まれたモーツアルトも、ボン生まれのベートーヴェンもゲルマン対ローマの図式ではローマ側に入る。

しかしワグナーの生地であるライプチッヒは中世になってから生まれた町で、ローマが征服を断念したゲルマニアの奥深くに位置しているという。

また「ニーベリングの指輪」の登場人物たちはローマ帝国末期に北部から進入を繰り返していたブルグンド族であり、ワグナーの音楽がモーツアルトやベートーヴェンよりもゲルマン的に感じられるのはこの歴史的位置によるのではないか、というのである。

ちなみにバッハ一族はドイツ中部のチューリンゲンだからやはりモーツアルトやベートーヴェンの仲間であり、ワグナー音楽とは一線を画していることになる。

しかしこの伝でいくと英国のエルガーやデーリアスやブリテンは蛮族アングロサクソンの遺風を伝え、セザール・フランクやラベルやドビュッシーは同じ蛮族のフランク族的音楽を作ったことになる。

このように音楽を音楽家の生誕地によって差別化してその特色を論ずることはきわめてずさんな暴論であり、ローマ文化を主に政治、経済、戦争、社会のインフラなどの唯物的スケルトンから再構築する塩野氏ならではの手法ではあろうが、このようなアプローチは芸術と歴史文化の誤まった理解につながるばかりか個々の音楽家の芸術を鑑賞するうえで大きな妨げになる。
 
インフィル不在のローマ論を確立してローマ文化の何たるかを理解したつもりになったように、恐らく塩野氏は古今東西の音楽家のスケルトンだけを聴いて音楽を分かったつもりになっているのだろう。


♪反歌3首

新宿は他人ばかりの街である

鳶1羽我に愛する力あり 

類型を逸脱するは難くして♪桜桜とシャウトする歌手

Sunday, January 28, 2007

ぐあんばれ宮崎緑!

ふあっちょん幻論第5回&鎌倉ちょっと不思議な物語39回

鎌倉には数多くの有名人?が住んでいるようだが、その中の一人に宮崎緑さんという元NHKのキャスターがいる。

去年だったか駅前のケンタッキーフライドチキンの細道をこちらに向かって突進してくる顔のみならず全体が大きくかさばった女性がいた。眼には隈ができ、その青ざめた顔にことさら部厚い白い化粧をしていた。

そのときは誰だかよく分からず、まるで江戸時代の紋付袴姿の侍か、東洲斎写楽描く役者絵の巨大な凧のような印象だけを家に持ち帰ったのだが、数日前、新聞広告に登場した中年女性の写真を見て、その時の写楽が宮崎緑さんであったことを知った。

そして私は現物に出会ったときに受けた一種の異様さの謎がたちまち氷解するのを覚えた。彼女はあのときも、そして写真の中でも、ノーマカマリ風の肩パッド付きのジャケットを平然と羽織っていたのである。

「おお、懐かしや、肩パッドであるぞよ」と思わず私はうなった。

ご存知のようにこの種の肩が天空めがけて逆立った威嚇的なシルエットのジャケットは、疾風怒涛の80年代女性モードの代表選手であった。90年初頭までの「決して失われなかった黄金の10年間」を初代キャリアウーマン服飾史の輝く花形アイテムとして主導したのがこの逸品なのであった。

家人もこれらの肩パッド付きジャケットを何点か所有しており、それらを鏡の前で何度も羽織ながら、「でもやっぱりどこか変だよねえ」といいつつ泣く泣く処分したのが10年ほど前のことだった。

ちなみにこの肩パッドはそれを取り去ってもなおかつ「まだどこか変だよねえ」なのである。

ファッションが時代と共に変化するとき、いつでも誰でもがつぶやくのが、このセリフなのだが、驚いたことに宮崎女史はこの10年この「どこか変だよねえ」に無自覚であっと断じるほかはない。

80年代レディスモードをリードしたビッグシルエットは、90年代に入ると共に絶滅し、90年代の半ばにビッグからスリムへのシルエット転換が終了し、この同じトレンドがメンズに及んだのが00年代。そして去年からユニクロが展開しているスキニー(超細身)キャンペーンがそのファッション革命の総仕上げという流れなのだが、かの宮崎女史はこの時代変革にまったく無知であるか、あるいは知ってはいても微動だにされなかったのである。

ああ、なんと見上げた偉大なる人間国宝的存在であられることよ!

しかし世間を広く見渡せば、このように偉大な80年代的時代精神の持ち主は、彼女だけではない。超右翼の櫻井よしこ、社民党党首の福島みずほ、などといった偉大な論客たちも、イデオロギーの動向には敏感であっても、ことモードの巨大な地盤変動に関しては恐ろしいほど無自覚であることは、彼らのファションを見れば火を見るより明らかであろう。

しかしながらもっと恐ろしい?ことには、あるトレンドウオッチャーの予測によれば、あと数年も経てば、かの恐怖の肩パッドがパリコレで突如復権し、およそ20年ぶりにロイヤル・グラン・シルエット時代が戻ってくるかも知れないという。

そうなれば宮崎女史は、「超時代はずし者」ではなく、最先端のトレンドリーダーとして世界中の喝采を浴びるに違いない。

んで、その日がやってくるまで、そのままぐあんばれ宮崎緑!

Friday, January 26, 2007

♪土曜日の歌

犬ふぐりふぐり開かぬ寒さかな


今日もまた一人死にたり梅の花


佐々木眞少し死にゆく冬の朝


この国やあらゆるニュースはバッドニュース


この花の名前は何ですかと吹き来る風にわれ訊ねたり


不自由な右指伸ばし母がいう冬中咲くから冬知らずなの


中原の中也が死にし病院で定期健診今年も受けたり


吉永の小百合に誘われし夢を見たが固辞せる我に後悔はなし


なにゆえにアドレスすらすら口に出る我をリストラせしその会社の


コジュケイは飛ぶを拒否して足早に遠ざかる道を選びたり

Thursday, January 25, 2007

果樹園にて歌える

鎌倉ちょっと不思議な物語38回


梅一輪開かぬ林に入りけり

我らにも希望はありて梅つぼむ

果樹園の梅持ち帰るうれしさよ

果てしなき評定続くもぐらかな

しばらくはルソーの森に遊びけり

木陰にてキャミソール脱ぐチャタレイ夫人

水仙のごとき香りの君である

少年は今日も果樹園でチャタレイ夫人を待ち伏せしている

銀色の光あまねし相模湾船影はなく鳥影もなし

西は富士東は房総南相模北東京湾すべてを見たり

鎌倉ところどころ

鎌倉ちょっと不思議な物語37回


図書館の本が流れるので、自転車で取りに行った。

図書館の向かいの御成小学校は前にも紹介したように旧明治天皇の夏季別荘として利用されたが、後に葉山の別荘にとって替わられた。そのもっと昔は中世の国衙(行政センター)があった場所で、そのもっと昔は幕府の門注所があった。

御成りから小町の通りに向かって自転車を走らせると、左側に三味線屋さんが、右側に四季書林という古本屋がある。前者は大好きだが、後者は大嫌い。というのは、この本屋は国文学関連の品揃えでは定評があり、1冊1冊をパラフィン紙で包装するなど書物に対する愛情はあるのだが、店主が偏屈でいまどき珍しい「反お客様第1主義」なのである。

いつか私がぶらりと店に入ってあれこれ物色していると、店主が「何かお探しですか?」と尋ねたので、私が「いいえ、なんとなく見ているのです」と答えると、彼奴は「そういう人は出て行ってください」とにべもないご挨拶。実に不愉快きわまりない申しようだ。

私は思わずこいつを殴りつけようと思ったが、まあよそう、こんな客を大事にしない生意気な古本屋なぞすぐに倒産するだろうと思って、「ああ、そうかよ。おめえの店ではもお絶対に買わないからな」と捨て台詞を残して、早々に退去したのであった。

私はかつてこの店で角川文庫の「信長公記」を買ったこともあったのだが、そのときはこの男は不在で、彼の細君が番台にいたのでこんな嫌な気分に陥ることはなかったのであるが、その後考えれば考えるほど腹が立ってきてあれから一度も訪れたことはない。

思うに、この男は鎌倉文士や専門の研究者などにお得意がいるので、私風情の一般大衆なぞに自分が苦労して神保町で仕入れてきた貴重本を売りたくないのかもしれないが、それにしてもいまどき珍しい店である。

アホバカ古本屋にぺっぺと唾を吐いて角を右に曲がって少し行くと、なんと現役の刀鍛冶屋さんの刀剣店がある。それも第24代目の正宗様であるぞよ。

店の後が工房になっていて、私が通ったときもトテカン、トテカンと刀鍛冶が行われていた。もちろん鍛冶装束に身を固めたりりしいいでたちである。鎌倉ちょっと不思議な物語30回で、鎌倉時代のたたら製鉄の現場をご紹介したが、なんと800年後の同じ鎌倉市内のど真ん中でも同じ地場産業が孜々と続けられていたのであった。

正宗の鍛冶屋に別れを告げて須賀線の線路を越えると、驚いたことに、物語32回で紹介したおばけ屋敷が跡形もなく消えうせていた!

桑田変じて海となる、ではないが、木造建築と人間の若さほど速やかに消滅するものはない。かくて私の数枚のスナップ写真はたちまち往時を偲ぶ貴重なドキュメントとなってしまったのであった。

Tuesday, January 23, 2007

楽園への道

鎌倉ちょっと不思議な物語36回&音楽千夜一夜第8回


十二所の名所はなんといってもここ十二所果樹園だ。もともとはわが十二所村の所有であったが、最近市の史跡保存会が購入し、広大な山全体を手入れしている。

私は昔から果樹園やORCHARDという言葉が好きだったので、鎌倉に引っ越してきてこの果樹園が歩いてしばらくのところにあると知ったときには狂喜してよく子どもたちと出かけたものだ。

そして果樹園の門をくぐるたびに、私の耳には英国の作曲家フレデリック・ディーリアスのオペラ「楽園への道」の序曲がゆっくりと鳴るのだった。

果樹園では梅や栗が栽培され、そのほかにも多くの植物と動物が成育し、山全体をぐるりと周回する散歩道は起伏に富んで四季折々の色彩と景観を心ゆくまで楽しむことができた。初夏には梅、秋には栗が採れ、一般にも安価で販売されている。

私は昨日、今日とこの果樹園を久しぶりに訪れ、手入れのために伐採された梅の枝を捜したのだがとき既に遅し、ほとんど残っていなかった。10日ほど前にボランティアの人たちが作業した帰りに持ち帰ったらしい。残念。

しかしそれにしても園内のいたるところを縦横無尽に跋扈する台湾リスの数の多さには驚く。10年前には1匹もいなかったこの外来種はあれほど多かった様々な固有種の鳥たちを絶滅させ、ミカンの実を食べつくし、大樹の幹を剥いで裸にして枯らし、外部から行政が保存しようとしている自然の楽園を、その内部から食い殺そうとしている。これでは梅や栗の果樹の収穫が危ぶまれる。

もうひとつ問題なのは果樹園にいたるまでの道端にひしめく資材置き場だ。この地は本来は国の史跡なので家屋はもちろん耕作、資材置き場、物置などに使用してはいけないのに、市長が保守系に代わった途端に所有者が土建会社や園芸業者などに勝手に貸し出し、大型トラックやブルドーザーなどが出入りしたり、産業廃棄物が放置されたり、太刀洗川への不法ゴミ投棄や無許可開拓や農耕などが野放図に行われるようになった。

今日もまるで中古自動車修理工場のようなバラックのあちこちで焚き火が行われ、大量のダイオキシンが空中に飛散していた。最近は鎌倉駅東口に「友情」というモニュメントを寄付した彫刻家のI氏の巨大なアトリエが果樹園の入り口に完成し、我ら善男善女の立ち入りをえらそうに禁じている。これも立派な不法建築のひとつであろう。

果樹園の果樹食い尽くしてや台湾リス

幻のつつじ

遥かな昔、遠い所で 第2回


郷里の我が家から田町の坂を登って質山峠を越えていくと、どこやらの山の1画が我が家の所有地になっていて、そこでは10年くらい前まで丹波名産のマツタケが採れた。

マツタケははじめのうちはなかなか見つけられない。図鑑などで見た概念だけが視野に見え隠れして実際の現物の発見を邪魔するのだろう。しかしなにかの拍子にそれは目の前に現れる。

「あ、あったぞ。ここにもあった」

大人も子どもも急な斜面を駆け登り、駆け下りながら、赤松の木陰のあちこちから顔を覗かせる大小の香り高いマツタケを競争で採った日のうれしさは格別だった。

マツタケの季節はもちろん秋だが、このマツタケ山に、なぜかきょうだい3人で初夏に登ったことがある。いまは亡き小太郎さんという祖父がわれわれを連れて行ってくれたのであった。

空は青く晴れ上がり、風はまったく吹かず、蒸し暑い日であった。
私はマツタケが採れる斜面とは反対側の山麓で途方もない大きさの見事な枝振りの赤と橙色の中間色をいした山つつじを発見した。

「これを持ってお家に帰ろう。この素晴らしいお化けつつじを小太郎さんと祖母の静子さんにプレゼントしよう」

そう決意した私はずいぶん長い時間をかけ、少年の身に余る超人的な努力をしてとうとうその赤いつつじの樹を根本から引きぬくことに成功した。

そしてそれを山のてっぺんまで懸命に引っ張りあげようとしたのだが、つつじの枝と葉の分量があまりにも多すぎて、途中の松や様々な広葉樹や草の根などのあちこちにひっかかって、とうとうある個所で押しても引いても動かなくなってしまった。

「もう帰るぞお」とみんなを呼び集める小太郎さんの声がする。私はとうとうそのおばけつつじをその場に放棄して、必死で山の尾根まで戻ったのだった。

私に引き抜かれたあのつつじはどうなったのだろう。もちろんそのまま枯れて死んでしまったに違いない。そんなことならそのままにしておけばよかったのに、と後悔したが、もう後の祭りだった。

私は時折、つつじの強烈な芳香にむせ返りながら坂を登る、私のような少年の姿を夢に見るときがある。

Monday, January 22, 2007

♪トラベルセットが当たる

音楽千夜一夜 第7回


「朝は四足、昼は二本足、夕方は3本足のものは何?」というスフィンクスの問いに「それは人間だ」と正答したのは父を殺し母と交わった古代ギリシアの王、オイデップス。

「暗い闇夜に飛び交い、暁とともに消え、人の心に生まれ、日毎に死に、夜毎に生まれるものは何?」というトゥーランドット姫の第1の問いに、「それは希望だ」と答えたのはカラフ王子。

「一日にも四季がある。朝は春、昼は夏、午後は秋、そして夜は冬である」
と語ったのは、ロシアのチェリスト、ロストロポービッチ。

みなさんなかなかうまいことを言うもんですね。

さて、そのロストロも、カザルスも、坂本龍一もバッハの無伴奏チェロ組曲が至高の名曲であるという。

だがロストロの演奏も、カザルスも、ヨーヨーマも、坂本が薦める藤原真理の演奏も、私を限りなく退屈させる。

退屈しなかったのは、かつて資生堂が「♪トラベルセットが当たる」というプレミアムキャンペーンのときに使用した第6番のアレンジを耳にしたときのみ。

同じバッハの平均律クラビールやオルガン曲やカンタータは限りない喜びを与えてくれるというのに、大好きな作曲家であっても、大の苦手の曲があるというのが不思議だ。

Saturday, January 20, 2007

遥かな昔、遠い所で 第1回

私の実家は丹波の田舎だ。そこでは長らく下駄屋をやっていた。
02年に三代目の母が亡くなったあとたたまれた店は、いまも「てらこ」という屋号で町の目抜き通りに残ってはいるが、もはや訪れる客も店の新しい主人もいない。

外見も中身もそんな古式蒼然とした商店であるが、世間の人がまだ和服を愛好していた遠い昔の時代には、大勢の客が「てらこ」の下駄や草履をあらそって買い求めた夢まぼろしのような日々もたしかにあったのである。

年に1度の「えびす祭り」の大売出しの日の賑わいは今も私の眼の奥に残っており、3人きょうだいの幼い私たちが、「いらっしゃい、いらっしゃい」と声をからして店頭を行く通行人の呼び込みをした日のこともかすかに覚えている。

「てらこ」の下駄は品質が上等で、とりわけ父がすげる鼻緒はいつまでも緩まず両足にフィットして履き心地がよい、というので定評があった。母はそんな父をしっかりと支えるようにして一緒にお店で働き、いつも二人で他愛ない世間話に興じていた。

そんなある日のことだった。たまたま父と私が店にいると腰の曲がった80歳くらいのよぼよぼのおじいさんが、見るからにくたびれた格好でやって来た。そうして文字どおり弊履のごとく古く汚れた下駄をニスが塗られた部厚い木製のカウンターの上にどさりと乗せると、こういった。 

「やあてらこはん、どうもこんちは。おたくの下駄はほんま長いことよおもったわ。わいらあなあ、もう何年も何年も履いたんやが、とうとうこんな姿になりおった。ほいでな、今日はこの古いのを新しい奴に取り替えてもらおうおもて、はるばるバスに乗って町までやって来ましたのや」

はじめのうちは私たちは彼が何を言わんとしているのか分からなかった。しかししばらくしてから、彼が大昔にてらこで買った下駄が古びたら、てらこでは無償で新品に取り替えてくれるはずだ、と確信していることを知ってさすがに驚いた。

父は、「この下駄はもう古くて修理できないし、あなたが希望するようにただで新品と交換することもできない」、と汗だくになって言い聞かせるのだが、くだんの老人はいつまで経ってもそのまっとうな商人の言い分を理解したり、納得しようとはせず、まるでサントリーのボスのテレビCMに出てくる宇宙人ジョーンズ氏を眺めるような目つきで、いぶかしそうに父を見るのだった。

さまよえる酩酊船

改めてアルチュール・ランボー(1854-1-91)の言葉に耳を傾けよう。
安政元年に生まれ明治24年、大津事件が起こり、幸田露伴が「五重塔」を書いた年にマルセイユの病院で右足関節腫瘍で37歳で死んだ詩人のマニュフェストだ。

見者であらねばならない、自らを見者たらしめねばならない、と僕は言うのです。詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、大掛かりな、そして理にかなった壊乱を通じて「見者」になるのです。あらゆる形態の愛や、苦悩や、狂気。彼は自分自身を探求し、自らのうちにすべての毒を汲み尽して、その精髄のみを保持します。

それは全き信念を超人的な力のすべてを必要とするほどの言い表しようのない責苦であって、そこで彼はとりわけ偉大な病者、偉大な罪びと、偉大な呪われびととなり、そして至上の学者になるのです。

なぜなら彼は未知なるものに至るからです。というのも彼はもう既に豊かだったその魂を、他の誰にも勝って涵養したのですから。彼は未知なるものに達し、そして彼が狂乱してついに自分の様々なヴィジョンについての知的理解を失ってしまうとき、彼はそれらの視像をたしかに見たのです。

前代未聞の名づけようもない事象を通じた彼のそんな跳躍のただなかで、もし彼の身が破裂してしまうなら、それはそれでよいのです。他の恐るべき労働者たちが後に続いてやって来ることでしょう。彼らは他の者が倒れた地平線から開始するでしょう!

それゆえ詩人とは真に火を盗む者なのです。詩人は人類を担っており、動物たちさえも担っているのです。
彼は自分が案出したものを感じさせ、触れてみせ、耳に聞こえさせねばならないでしょう。もし彼が彼方から持ち帰るものに形態があれば、彼は形態を与えます。もしそれが無形態であれば、無形態を与えるのです。

ひとつの言語を見出すことです。どんな言葉も観念なのですから、ある一つの普遍的な言語活動の時代が来ることでしょう。このような言語は魂から魂へと向かうものでしょうし、一切を、もろもろの匂いも音も、色彩も、すべて要約しており、思考をつかみ、引き寄せるのです。

詩人はその時代に万人の魂のうちで目覚めつつある未知なるものの量を明らかにすることでしょう。彼はより以上のものを、つまる自分の思想を言い表す定式や、進歩へ向かう自らの歩みを書き留めた表記などを越えた、それ以上のものを与えるでしょう。常軌を逸した莫大さがふつうの規範になり、あらゆる人々に吸収されてまさに詩人は進歩を倍増させる乗数になることでしょう! 

そうした未来は、唯物論的でしょう。つねに韻律的な数と調和に満ちており、いくぶんかはギリシア詩であるでしょう。詩人たちは市民なのですから、永遠なる芸術もその様々な機能を持つことでしょう。

詩はもはや行動にリズムをつけるものではないでしょう。詩は先頭に立つものとなるでしょう。そのような詩人たちが存在することになるでしょう。

 
1871年の5月15日、おりしもパリ・コンミューンがペール・ラシェーズ墓地で崩壊する「血の1週間」のさなかに、17歳のランボーがシャルルヴィルで友人ポール・メドニーに書き綴った手紙が、詩人の詩と生涯の真実を正確に鮮明に物語り、その悲劇的な結末さえ見事に予言している。

ランボーは、自らが宣言したとおり、その生涯をつうじてつねに詩の先頭に立った。そして詩の本質を直感し、詩の至純の世界を体得したランボーは、詩の世界にあきたらず、詩そのものを生み出す豊潤で混沌とした現実世界に向かって、彼のさまよえる狂気の酩酊船を船出させ、まるでそれが宿命であったかのように見事に座礁させたのだ。それが彼の足掛け15年に及ぶアフリカでの貿易商売の持つ意味である。

ランボーはエチオピアのハラルを拠点に、象牙、銃、綿、コーヒー、シチュー鍋、馬、ロバ、虎、ライオン、騾馬、麝香等々、ありとあらゆる物資を交易し、アフリカでのビジネスがうまくいかないので、エジプトを経てはるか当方の中国、日本まで遠征しようと考えていた。もし彼が明治20年代のわが国を訪れたならきっと西洋と東洋の新しい出会いがあったに違いない。

けれども砂漠に逃亡した孤独で不運な詩人は、悪賢い商売人たちにうまくしてやられ、結局はさしたる利益を上げることもできなかった。のみならず過酷な気候と不慣れな生活の中で健康をむしばまれたランボーは、野蛮人に囲まれた文化果つる不毛の地で右足を切断され、極度の苦痛と高熱にさいなまれながら、余りにも短すぎた過酷な生を閉じたのである。

ほとんど意識を失い、錯乱しながら「郵船会社支配人」宛てにマルセイユの病室で口述筆記されたランボー最後の手紙(1891年11月9日)は、彼の生涯最後の瞬間における見果てぬ夢の極北の姿を痛切に伝え、彼の有名ないかなる詩篇よりも感動的である。


分け前 牙1本だけ。
分け前 牙2本。
分け前 牙3本。
分け前 牙4本
分け前 牙2本。

支配人殿、
貴殿との勘定に未払い分がないかおたずねします。私は今日、この船便を変更したいと思います。この便は名前すら知りませんが、ともかくアフィナールの便でお願いします。
こうした船便はどれでも、どこにでもあります。それでも私は手足が不自由な不幸な人間であり、何も自分では見つけられないのです。街頭で出会う最初の犬に聞いても、そのとおりだと答えるでしょう。
それゆえスエズまでのアフィナールの便の料金表をお送りください。私は全身不随の身です。したがって早い時刻に乗船したく思います。何時に船上へ運んでもらえばよいかお知らせください……

この手紙が書かれた2日後、詩人という名に値する唯一の詩人ランボーは息を引き取った。

*参考文献「ランボー全集」青土社 平井啓之、湯浅博雄、中地義和、川那部保明訳

Thursday, January 18, 2007

スミレ咲く

鎌倉ちょっと不思議な物語35回


熊野神社ではもう可憐な山スミレが咲いていた。十二所の山際の崖ではたった1輪が薄紫の花弁を風に揺さぶられていた。

今年も暖冬らしい。十二所のガソリンスタンドで尋ねたら1.8リットル当たり1580円だそうだ。ひと頃よりだいぶ安くなってきたようだ。

さて今日は超くだらない話をしよう。(もっともいつもくだらない話なのだが…)

近くのガソリンスタンドには丘の上に住んでいる超多忙の有名人Mモンタ氏が給油にやってくることがある。そうしてこの男は、給油中、まるで歌舞伎の千両役者のようにかっこつけて、文字通りに見得を切っている。

するとその異様なポーズに気づいた近所のおばさんが、「あれ、あの人モンタじゃないの。え、ほんとうの本物?」」などといいながら近づいてくる。

するてーとくだんのモンタ氏は、やっとそのヒトラー&ムッソリーニ時代の男性塑像のような奇妙な姿勢を解除して、突如営業用のスマイルをにゅっと浮かべつつ、「奥さああん、僕にサインしてほしいのおお?」とかなんとか叫ぶのである。

売れっ子はつらいね。それにしても年が明けたというのに、どうしてこっちには仕事が回ってこないんだろ?

Wednesday, January 17, 2007

♪木曜日の歌

ランボオのような眼をした少年だった

子が父を殺めたくなる野の小道

アポロンの信託は知らず寒椿

まむし眠る谷戸に降りつむ椿かな

電光影裏タイワンリスの邪悪な眼よ

世の中はもっともっと悪くなる鴨

陽だまりに愛を乞うる人多く

わたしはたんぽぽの好きな人が好きだ

あけおめと書き来しメールにことよろと返す勇気われにはなくて

米国の猿面冠者が打つ博打こいつは春から凶と出るか

Tuesday, January 16, 2007

追悼

二人の白い巨人が土俵に上った。それぞれがわれこそは世界最強の戦士だ、と喚く。

やがて二人の力士は立ち上がってがっぷり4つに組み合ったがそれっきり微塵も動こうとはしない。

周囲の人々は懸命に声援を送り続けたが、力士はたらたらと汗をながすだけで相変わらず動こうとしない。

そのまま時が過ぎ、やがてあたりはとっぷりと暮れたので観客はみな現場から引き揚げた。やがて真っ暗な野原に月が昇り地面をぼんやり照らし出したがそこには誰もいなかった。

親しい人が突然病気になったり、思いがけない事件に巻き込まれて大勢の人々が亡くなったり、当の本人も目の前が暗くなって急に倒れたりする。

死んだ人のことは忘れようとしても忘れることはできないのだが、それでも朝が来て、太陽が輝くと、いつのまにか未曾有の災厄も次第に忘れられたかのような気がするので、無理矢理すべては何もなかったのだ、などと懸命に思い込んで、虚妄の日常性の中へ逃げ込もうとする。

けれども死ほどの一大事が生にとってあるだろうか? 愚かな私よ、そこでしばらく眼を覚ましていろ。

Monday, January 15, 2007

♪ コインの歌

♪ 1円玉
吹けば飛ぶよな アルミの独楽よ
風に吹かれてくるくる回る ほんにお前は屁のような

♪ 5円玉
餓鬼道、修羅道、畜生道、因果は巡る風車 
ここで会ったが百年目 ご縁があれば涅槃で待つぜ

♪ 10円玉
誰でも気軽に賽銭投げるが 本気であたいを投げられるかい
これで分かった世間の常識 願いの沙汰も10円未満

♪ 50円玉
10円、100円は善良なる市民 おいらはどうせしがない風来坊
遠き島より流れついたるアシの実ひとつ

♪ 100円玉
英語でハンドレッド フランス語でサント
一緒に行こうよ100円ショップ
100円あればなんでも買えるが なぜだか買えない君の愛

歌舞伎座の建て替えに反対する

勝手に東京建築観光・第4回


わが国が世界に誇る最高、最大の芸術は、やはり歌舞伎であろう。

江戸のオペラともいうべきこの歌と踊りとお芝居の総合芸術ほど私の心をかきみだすものはない。
私がもしも大好きなモーツアルトのオペラと歌舞伎のどちらを選ぶか二者択一を迫られたら、やはり後者を選ぶであろう。

舞台に歌舞伎役者なんていなくても下座音楽と浄瑠璃があればいいのだ。いや杵の音がひとつ鳴ればいい。私はもうその瞬間にどこかこの世ならぬ世界、できればもう戻って来たくはない遠い遥かな時空に連れ去られるのである。

その点では98年に惜しくも100歳で亡くなった清元志寿太夫(きよもと・しずたゆう)、01年に桜花とともに散った6代目中村歌右衛門、そして昨年12月に冥界に消えた松竹の偉大なるプロデユーサー永山武臣のお三方は、わが歌舞伎界にとって埋めがたい大きな損失であった。

歌右衛門「桐一葉」の名演はいまでも瞼の裏にありありと残っているし、最晩年の志寿太夫の渋い声音も、まるで平成のファルスタッフのように融通無碍なたたずまいとともに生涯忘れることはあるまい。

ところが私にとってそんな貴重な夢を見せてくれた築地の、いや木挽町の歌舞伎座が、もうじき取り壊して立て直すという。

どうせ高層ビルにしてもっと巨大なエンタメセンターにでもしようというのだろうが、お願いだからやめてくれ。

この2600人を収容する和風建築は中宮寺本堂や大磯の吉田茂邸、大和文華館、わが鎌倉の吉屋信子邸を作った名匠吉田五十八の代表作であるぞ。

1950年に完成したばかりだぞ。しかもその音響の素晴らしさは恐らくこの大空間では日本一、いや世界一かもしれんぞ! 

二度と再現できない奇跡の殿堂なんだじょお! あの歌舞伎座と魚河岸があるから銀座なんだぞお!

Sunday, January 14, 2007

巡り合い

鎌倉ちょっと不思議な物語34回


20002年2月に消えたうちのムク ここにいたのかかわかわのムク

駆け寄りてムクやムクやと呼びかければ 空に向かいてピンと尾をあぐ

Saturday, January 13, 2007

生きるよろこび

鎌倉ちょっと不思議な物語33回&音楽千夜一夜 第7回


例のオオウナギ棲息地の近所に鎮座ましますのは、室町時代中期の仏様である。

この御仏は、それまでは人知れず小さなやぐらの奥で眠っていたのだが、ある日突然Oさんという老ピアニストが突然周囲を開拓し、参道を切り開いてお花を捧げるようになった。

なんでも亡くなった奥様を回向するために、個人的にこの古仏をよみがえらせたそうだが、最近は通りすがりの酔狂なハイカーが賽銭を供えたりしている。

Oさんの専門はジャズだが、クラシックも得意で、私が太刀洗に散歩に行くとリビングルームからショパンや私の好きなリストの超絶技巧練習曲が聴こえてくる。まるでその演奏はラザール・ベルマンかシフラみたいだ。

去年の鎌響の演奏会では宮沢明子がモーツアルトの24番のコンチエルトを弾いたのだが、どういうわけだか第2楽章の途中であの名手の腕が突然乱れて冥界に明快に迷走し、しばらくは元の楽譜に戻れなくなってしまった。(ような気がした。私はオタマジャクシが読めないので正確なことはわかりません)

ピアニストと指揮者は相当うろたえていたようで、私もさあどうなるのかと息を呑んだが、ここで鮮やかな火消し役を務めたのは、頭の禿げたコンサートマスター。いきなり立ち上がって弓を高く掲げて一閃したために混乱は収まり、めでたく事なきを得た。

会場に居合わせたOさんと私は、この珍しいハプニングをことのほかよろこんだ。

だってせっかくのライブで戦前の国定教科書のような演奏を聴かされたってつまらない。

これくらいの逸脱と椿事が起こるから聴衆はくそ面白くもない人生にいささかの興奮を覚えるのである。もとい、生きるよろこびを再確認するのである。

面白きこともなき世におもしろく、すみなすものは心なりけり(高杉晋作+野村望(もとに)東尼)

Thursday, January 11, 2007

ある蛇の歌

今年の冬は遅い。

ゆっくり朝寝をしたら、午後からは散歩に出よう。

大気は胸に冷たく透き通り、柔らかな光が君の漠然とした不安をなだめてくれるだろう。

君は緑に包まれた楽園をめざしてどんどん歩いていくだろう。

道はゆっくりと左に曲がり、やがて右に曲がるだろう。

そしてその道が峠の頂に着くまでに、君は1匹の蛇になっているだろう。

たいしたもんだ。君はもう長い長い立派な蛇だ。

だから、君はもうけっして昼寝をしてはならない。

うっかり誰かに輪切りにされないように……


やわらかな光あふれる山道をゆるりとくねるわれもまた蛇

歌うよろこび

音楽千夜一夜 第6回

音楽の本質とは、内部生命が歌うことではないでしょうか?

音楽とは、私の心がなぜか生きる喜びに満たされ、その喜びと幸せが原動力となって無意識に歌いたいという衝動が生まれ、自分でもそれと気づかないうちに「歌のようなもの」が胸から流れてのどまでのぼり、くちびるから外界に向かって自然に放たれるさま、を指すような気がします。

 つまり、「鼻歌をフンフンする」ことこそが「音楽すること」「音楽を生きること」の原点ではないでしょうか?
 
台所でお料理を作っている家内が歌っている下手な歌、あるいは歌のようなものを聴く時ほど私にとって幸福な瞬間はありませんが、恐らく当の本人もきっと小さな幸せの絶頂にいるのでしょう。
 
幸福な人がその幸福を歌うときに感じる幸福。これこそが現初期の音楽の誕生と交流の原点なのでしょう。

しかし翻って現在の演奏家と聴衆の関係を考えるとき、このうるわしい交流がどこまで実現されているのかはなはだ疑わしいものがあります。

例えばクラシックの世界ではN響がプロの頂点であるといわれているようですが、彼らの演奏を聴いても、今も昔も本当に彼らが音楽をする喜びを共有しているのかよく分かりません。なんだか誰かに命令されていやいや楽器を職業的に操作しているような気もします。
だからというわけでもありませんが、大学やアマチュアの人たちの演奏は技術的には下手かもしれませんが、音楽することの楽しさにみちあふれていて、そのエネルギーがまっすぐに聴衆に伝わる。それはとプロ野球がとっくの昔に喪失したスポーツのよろこびが高校野球や小中学生の草野球にはまだ辛うじて残っているのと似ています。

考えてみれば、心が音楽するよろこびにあふれる瞬間なんて数えるくらいしかないのに、それでも毎日毎晩楽しげに演奏するほうが無理がある。歌いたくないカナリアにコンサートを強制するようなものですからね。 

はじめは好きで好きで仕方なかった音楽だけど、それを職業として選び取った途端に、その快楽が苦痛や苦行に似たものに転化する。そういうことかもしれません。

それは音楽だけでなくファッションやデザインや広告やその他ありとあらゆる産業の領域に共通する皮肉かもしれませんが。

まあそんな話はともかく、私は毎日鼻歌を歌いながら生き、鼻歌を歌いながら死にたいなあと夢見ている次第です。

Wednesday, January 10, 2007

さようならお化け屋敷

鎌倉ちょっと不思議な物語32回


市役所に行ってバリウムを飲んで胃検診を受ける。

以前はレントゲンを一枚撮ってからまずいバリウムをコップ一杯飲んだような記憶があるが、今日は最初から有無をいわさず呑まされた。

お棺のような半月形の筒に収納されて、ぐるぐる回転する。「右から回って」と命じられるのだが、頭の悪い私にはどっちが右回りかいつも分からないので、とりあえず回転すると、「そうじゃない。その反対です」などと技師から怒られる。

これでは知恵遅れの人は対応できないだろうに、といちおう健常者のつもりの私が大汗をかいていると、突然「息を止めて」と命じられる。どこで呼吸してどこで息を吐くのか、そのタイミングが難しい。

またしても猫じゃ猫じゃ、とぐるぐる回りさせられていると、途中で逆さまになって頭から落下しそうになるのを懸命にこらえる。

これは危険だ。まるでサーカスだ。ゆあーん、ゆあーん、ゆあ、ゆよーん、状態だ。

これまで70-80歳代のお年寄りが何人も死んでいるのだろう。くわばら、くわばら。

やっと墜落の危険から解放され、自転車で駅の手前の踏み切りにさしかかったら、お化け屋敷の上空にいつも乱れ飛ぶ鳩は今日は一羽もいなくて、代わりに解体業者のトラックがいままさに門の中に突入しているところだった。

ああ、鎌倉名物の幽霊屋敷もこれで一巻の終わりか。なんでも有名な医院だったらしいが、恐らく昭和初期に建てられたのであろう、塔の壁をはじめあちこちに施された粋な装飾が好ましい。ちょっと築地の聖路加病院のデザインに似た要素も感じられる。

私は安藤忠雄や磯崎新が設計した新しい建築にも大いに興味があるが、やはり心惹かれるのは自然に抱かれるようにしてつつましく建っている古くて懐かしい低層木造住宅である。

機能性、実用性、安全性は別にして、私は兼好法師や鴨長明が住んだ庵に住みたいが、積水ハウスやライオンズマンションや大和ハウスが土建したもの、カーサブルータスが特選したかっこいいデザイン住宅などにはできたら住みたくないのです。

もっとはっきりいうと、私は夏目漱石が設計した桃源郷の一軒屋に住みたい。彼は自分が理想とするついの住処を南画や山水画で描いているが、それは禅僧が好んで修業する断崖絶壁の破れ家である。

漱石は本当は英文学者ではなく、建築家になりたかった。(その代わりに私たちはあの素晴らしい「文学論」を得たのだが)

もしも彼が「偉大なる暗闇」の忠告などに惑わされず、その希望を断固として貫いていたら、恐らくコンドル→辰野金吾→丹下健三を主流とする日本近現代建築の歴史は大きく書き換えられることになっただろう。

Tuesday, January 09, 2007

よみがえるモーツアルトの精霊

音楽千夜一夜 第5回


いまパソコンでモーツアルトの「ミサ曲ハ短調K427」の演奏を聴いています。指揮は長老チャールズ・マッケラス、演奏はジ・エージ・オブ・エンライトメント・オーケストラ。
この夏英京ロンドンのアルバートホールで開催された「プロムス2006」でのライブの再放送ですが、これがまた途轍もなく素晴らしい。
  
私が普段聴いているこの曲はフリッチャイ&ベルリンRIAS響のグラムフオン録音ですが、これほど劇性は高くないものの、マッケラスはモーツアルト演奏には絶対に欠かせない“適正なテンポ”をきちんと守り、生気あふれる“モーツアルト魂”の流麗にして暖かなメロディーラインを心ゆくまで歌わせています。
この“モーツアルト魂”をちょっと頭がいいばっかりに考えすぎて圧殺している神経衰弱病のアーノンクールやラトルやマゼールや単細胞突貫小僧の小澤、バレンボイムやムーティ、メータなどが、もう3回生まれなおして指揮者になったとしても到底達成できないだろう芸術の至高の境地、秘密の花園に遊ぶ仙人の演奏です。

マッケラスは日本人にはあまり人気がないようですが、彼がプラハのオーケストラと入れたモーツアルトの交響曲全集(米テラーク)や同じプラハの国立オペラとライブ収録した「ドンジョバンニ」のDVD(タワーで1890円!)などに接すると、その真価の一端が窺えると思います。

Monday, January 08, 2007

苔のむすまで

鎌倉ちょっと不思議な物語31回

以前にもご紹介したように、私の自宅は元は鎌倉石の石切り場であった。

鎌倉石というのは房州石と同様、割合に柔らかで加工しやすい凝灰岩からできていて、寺の五輪塔や石段はおおかたこれで造られている。

また鎌倉石は、昭和の初期に大谷石にとってかわられるまでは、東京の「かまど」の素材として大いに活用されたが、関東地方に「輸出」された鎌倉石の大半が、わが朝比奈峠を経由して金沢文庫の近所の六浦港から船で運ばれたに違いない。

このように地元では鎌倉石は有り余っていたのに、不思議なことに礫岩(玉石)をほとんど産しなかったので、鎌倉時代から近辺の相模川系の川原などから大量に「輸入」していたらしい。
今日の午前11時に私が踏みしめていた朝比奈峠のこの玉石たちも、もちろん外部からの輸入品である。

この峠の改修は、鎌倉時代から江戸時代まで都合3回行われたが、それ以後はまったく人工の手が加わっていないはずなので、この苔むした石は鎌倉時代あるいは下っても江戸時代の石である可能性がある。

実朝や日蓮が歩んだこの峠道を私は今日も歩いている、などというと文学的な比喩として聞こえるかもしれないが、そうではない。文字通りに彼らが歩んだ道そのものが物理的に現存している。

このように考え、感じる人にとって、朝比奈峠とは、その組成自体が800年前のまんま平成の御世に伝えられた奇跡の文化遺産なのである。

Sunday, January 07, 2007

不相応な天からの贈り物

あなたと私のアホリズム その4

日本国憲法の序文と第9条は、たぶんいかれぽんちの米国の理想主義者の脳裏に浮かんだ一瞬の夢だった。

しかしそれはなんと美しい、まるで7色の虹のような夢であったことだろう。

私はこの条文を目にするたびに、かつてベートーヴェンが「歓喜の歌」で歌った人類の恒久平和を希求する高らかな調べを想起する。

アジアの片隅のこの不思議な国は、世界中の誰もが生涯に一度は高らかに歌うことを夢に見、しかしついに楽譜には書かれなかった20世紀の奇跡のアリアをなんと60年間にわたって、たった一人で、アカペラで、歌い続けてきたのだ。

また私は、私はこの条文を目にするたびに、かつて「他者の暴力に対する無抵抗」を説いた父聖徳太子の遺訓に従って、潔く蘇我入鹿に殺された山背大兄皇子とその一族の勇気を想起する。

 「眼には眼を、歯には歯を」が常識の世にあって、自らの非武装と自己犠牲を武器として他者の暴力に倫理的な優位に立とうと試みた真の理想主義者は、仏陀の教えをまともに信じたこの山背大兄皇子とマハトマガンジーだけであり、日本国憲法の第9条はその「捨身飼虎」の思想を受け継いでいる。

だから、日本国憲法は、急にせちがらい現実とやらに目覚めて“普通の国の普通の人”になりたくなった日本人にとっては、お荷物そのもの。所詮は猫に小判、豚に真珠、夢のまた夢、の天から降ってわいた傍迷惑な贈り物であったのである。 

Friday, January 05, 2007

2007年正月の歌

2007年正月の歌

猪は悲しきものよ幾たびも己が額を壁に打ちつく
ついに鎌倉では産院絶ゆうろたえて町をさまよう多くの妊婦たち
耕君をとりあげし針谷産婦人科なんとかマンションに身売りしけり
江ノ電は嬰へ長調、横須賀線はイ短調で踏切が鳴ると教えてくれたうちの耕君
耕ちゃんをいじめるような人は好きになれないわと美枝子つぶやく
正月に思うあの日あの時あの人に告げておくべかりしあのこと
少しずつ死にゆく人の貌をしてわれひとこぞりて小町を歩めり
死者は眠れ生者はめざめよと正月の古都に降りしきる雨
心さえあらばたとえ生きたえしのちもわれらが思い空に響かん
いざや行かん八幡宮より果てしなく続く一本の道

Thursday, January 04, 2007

ここで中世のたたら製鉄が行われていた

鎌倉ちょっと不思議な物語30回


「たたら」とは鉄を製錬するために鉄を吹く「ふいご」のことですが、そのふいごを使う古代の製鉄技術全体をたたらと呼んでいます。


たたら製鉄とは日本古来の独自の製鉄法で、千年以上の歴史を誇っています。

最初は古代の九州や出雲地方から始まったといわれますが、鎌倉時代には他ならぬ太刀洗の「鑪ヶ谷」(たたらがや)という名前の低い丘で、中世を代表する製鉄が行われていました。

当時の人々はこの丘の平地を切り開いて山から下る渓流を利用しながら最高1500度の高熱で砂鉄を木炭で焼き素鋼塊(そこうかい)や銑鉄を生産し、日本刀などの原材料として加工していたのです。

たたら製鉄の高度な技術の原型は鎌倉時代に確立され、江戸時代中期に完成しますが、この国産技術をベースにして佐久間象山や江川太郎左衛門などが南蛮渡来の反射炉をつくり黒船来襲に備える大砲を製造したのでしょう。

現場は「鎌倉ちょっと不思議な物語13回」で紹介した「人面石」を登ったところにあります。

Wednesday, January 03, 2007

霊園のガーデニング

鎌倉ちょっと不思議な物語29回


十二所神社の裏山に登ったついでに鎌倉霊園まで歩いた。

霊園には墓参の人々がちらほら歩いていたが、斎場の傍にガーデニングのサンプルが展示してあった。

お金さえ出せば春夏秋冬季節の様々な花々で墓地を美しく飾ってくれるという。

最近はいたるところでガーデニングがブームだが、まさかここまでやるとはびっくりである。

Tuesday, January 02, 2007

オオウナギが棲む小川

鎌倉ちょっと不思議な物語28回


滑川は鎌倉の動脈だ。

相模湾、東京湾から和賀江嶋を経て鎌倉に陸揚げされた物資は、由比ガ浜から滑川を遡って、この中世都市の中枢部に運ばれた。

そんな交通の要所であった滑川だが、流域にはいまも多くの魚や鳥やカニやホタルなどが生息している。

家の近所のこの地点は、かつて健ちゃんが両手にあまるオオウナギを格闘の末に素手でつかんだ現場だが、いまでもウナギ取り専門の漁師が小町に住んでいるという。

Monday, January 01, 2007

大塔宮の正式参拝

鎌倉ちょっと不思議な物語27回


元旦は家族、親戚一同の皆さんと大塔宮へ正式参拝に行きました。

ここは薪能で全国にその名を知られた神社で、足利尊氏の弟、直義によって非業の死を遂げた後醍醐天皇の皇子、護良親王を慰霊するため、明治になってから建立されました。

家内安全を願う善男善女は、宮司の祝福を受けるとともに、ありがたい一場の説話を拝聴するのですが、ことしのスピーチはまことに酷かった。

教育基本法改定論議云々に始まって司馬遼太郎の本や「葉っぱのフレディ」がいかに素晴らしいかというお話、神社で始めた朝顔市の売り上げ大成功の顛末、さらには神社で販売したお札のお陰で交通事故から助かった奇跡の実例、さらにさらに今後神社で企画されているイベントのお知らせまで、とうとうと宣伝広告パブリシティの乱れ撃ちです。

いくら正式参拝が無料だからといってこんな手前勝手な神社のPRをどうして長々と耳にしなくてはいけないのでしょうか?

年頭の厳粛な気分もふきとんで、正月早々けったくその悪いじつに後味の悪い参拝のひとこまでした。

謹賀新年

本年もよろしく!

Saturday, December 30, 2006

2006年最後のメッセージ

ふあっちょん幻論 第4回


これからブランド・デザインやアパレル・ビジネスの世界に挑戦しようとする人にとって重要なのは「じぶんの志を持つ」ということではないでしょうか。

というのは、世の中に存在する数多くのブランドが、定見にない数多くの人々が少しずつ参加することによって当初は存在した志=主張=存在理由=ブランドコンセプトを雲散霧消させたわけのわからない異様な代物だからです。

私はこれからじぶんの志を持った大小無数の個性的なインデーズ・ブランドがどんどん登場することによって、現在のファッション界の「見せ掛けの飽和状態」と世界の中の「ジャパンブランドの沈滞現象」を打破できるのではないかと心から期待しております。

以前、ムラカミタカシを引き合いに出して成功のお手本にせよといいましたが、すべての若者がムラカミタカシになれるわけではありません。

一人のムラカミタカシの足元には100人、1000人、10000人のムラカミタカシになれなかった人々が累々と横たわっているのです。

しかし最大の勝者になれなかった創造者にも十分に存在価値はあります。また長期にわたるマッチレースにおいてかつての勝者が一瞬にして1敗地にまみれる光景を私たちは何度も見てきました。

「いかにしてファッションでお金儲けするか」とか「いかにして売れる商品を企画し、生産し、販売するのか」

というところからこのブランド作りにアプローチするのではなく、

「自分はどんなファッションを創造したいのか」「自分にはファッションなんて必要なのか」「自分は何のために、誰のためにファッションを企画し、生産し、販売するのか」

という風に、最初の問題を立ち上げてほしいのです。


「絶対売れる商品を開発するんだ」などと称して外国直伝の科学的なマーケティング調査だの超現代的なマーケティング理論を振りかざして登場したブランドの大半が三年以内に絶滅しています。

「じぶんの考えや理想をぜんぶ犠牲にしても、ともかく売れればいいんだ」という悲壮な決意の元で立ち上げたブランドが、売れるどころか在庫の山を築きあげている現状をみれば、むしろその自分独自の考えや理想を鋭く磨き上げる道を、たとえ困難ではあっても選ぶべきではないでしょうか。


毎日のように生まれ、そして死んでいく数多くのブランドたちの中で、この問題意識を本気で内部に抱え込んだファションはほんとうに数少ないのです。


そして世の中に増殖する腐敗し堕落した“あほばかブランド”を、皆さんの手で完膚なきまでに打倒してください。“ふぁっちょんもびじねす”もいまさらながら革命を必要としています。

そういえば中国の悪名高い、しかし偉大な革命家である毛沢東が、「若いこと、貧乏なこと、無名であること、の3つがなければ革命はできない」と名言を吐いていますが、これは時代と国境を超えて正しい。私はさらにもうひとつ「頑強な体力」を付け加えたいと思います。
 (ここから絶叫!) 若者は、午前10時の太陽です。(これも毛沢東の言葉)。
若い皆さんにはいまだけジコチュウなのではなく、死ぬまでジコチュウを貫いてほしいのです。

不肖私はこの業界で長らく悪あがきしながらほとんど何も寄与できず、間もなくくたばりますが、君たちはどうか「全世界を獲得するために」ぐあんばってくれたまえ。

Friday, December 29, 2006

Hの終わり

ふあっちょん幻論 第3回


時代はHからWに向かってゆるやかに推移し、歴史は大きな結節点を迎えようとしています。

HOWを主題とする産業の代表選手は、たとえば電通や博報堂などの広告代理店です。彼らは政府・政党・自治体などに依頼されて、「絶対に負けない、絶対に効果のあるキャンペーン」なるものを展開しますが、賢い消費者に対してかつてそんなものが1度でも成功したことがあるのでしょうか?

また彼らは民間企業に対して莫大な金額を使った市場調査や最新の学説に依拠した超現代的なマーケティング手法を提案してくれますが、果たしてそんな代物がファッションをはじめとする企業の売り上げに少しでも貢献したことがあるのでしょうか。
非常に疑問です。

ファッション業界においても、過去20年間にわたってHOWを主題とするマーケティング手法や学識者やひょーろん家がえらそうなりろんを唱えてきましたが、結局それらは経済ひょーろん家や文芸ひょーろん家とまったく同じ運命をたどることになってしまいました。(いくら評論・批評しようとまったく肝心の経済や文学や演劇や音楽そのものの動向に影響を与えることができない大多数の言論商売の人々を指す)

これに付随するのが、まず主部や主語を明確に語ろうとせず、それらを巧みに隠蔽して述語や修辞をもてあそぼうとする隠微でHな服飾文化の行き詰まりです。

主張も思想もなく、隣人や先行者や外国人の生産物をただ模写したり、文脈への配慮や注釈もなしに盗用的に引用するような手法の破産です。

半世紀近くも前の時代に、発展途上国の異邦人という立場からこのクラシックな業界に参入した諸先輩は、いかにして売れる服を作ろうかと考えたのではなく、既存の世界には絶対に存在しない服を作ろうと考えたのではないでしょうか?

不定形のHOWからではなく、WHATという始原の星雲状態から暴力的に出発したのではなかったのでしょうか?

アパレル・ビジネス業界の全域に及んできたHの終焉を見つめながら、私たちは古くて新しいWの創造の波を形成しなければならないのではないでしょうか?

Thursday, December 28, 2006

朝比奈峠往還

鎌倉ちょっと不思議な物語26回


今日も朝比奈峠を登る。

心臓破りの丘では冠雪した富士山が、熊野神社の向うには東京湾が見えた。

はるか彼方の風景は、過去の時間と接続していて、いつも遠い昔の記憶を呼び覚ます。

20億光年の彼方にまたたく遠い星を眺めた夜のように。

そうしてそれらの映像の奥底には、かつて訪れた土地とそこに住む懐かしい人々の思い出がはかなげに漂っている。

素早く逃れる耕君に追いつこうと朝比奈峠の頂上を過ぎたとき、

またしても私はこの世からあの世への境界を跨いだのであった。

ここに中世国立墓地があった

鎌倉ちょっと不思議な物語25回


昔シロツメクサ咲くこの野原で、耕君、健君、ムクたちと遊んだり、四つ葉のクローバーを探したものです。

ところが数年前にくそったれ土建屋の手であほばかマンションが建つというので、例によって市の発掘調査が行われた結果、なんとここが鎌倉時代の最大の葬儀センターであったという事実が判明しました。

つまり前回紹介した鎌倉時代のエリートたちを矢倉(やぐら)に埋葬する前に、この焼き場で僧侶が盛大に慰霊してから骨を焼いたのです。

ですからわが太刀洗周辺は、地区全体が死者をこの世からあの世に送る聖なる場所であり、鎌倉幕府いや中世最大の死者慰霊センターであったのです。

近い将来には市、県、国が資金を出し合って中世国立墓地を記念する遺跡公園にするという計画が発表されましたが、いまはこのように閉鎖され雑草が生い茂っています。

この世でもっとも貴重なものは、汚れなき魂と人に見捨てられたくさっぱら。

なので、できたら頑張って世界遺産などに登録もしないで、間もなく人類が滅びるまでこのままにしておいてほしいのですが…。

ダメ?

Wednesday, December 27, 2006

隠し砦の埋蔵金

鎌倉ちょっと不思議な物語24回


鎌倉時代の貴族や武将などのエリートが死ぬと、火葬されたあとで山麓の鎌倉石を切り開いた直方体の空間に葬られました。それが「矢倉(やぐら)」です。

エリート以外の一般大衆はというと、たとえ死んでも狭い鎌倉でそんな贅沢は許されないのでそのまま山野に遺棄されるか、海岸の砂の下に埋められました。

鎌倉には無数の矢倉がありますが、昔から我が家の近所の矢倉の中のどこかに大量の埋蔵金が隠されているという噂があります。

そこで、何を隠そうこの私も、雨が降っても、槍が降っても、また昨日のように大風が吹いても、およそ30年以上にわたってこの辺で毎日のように黄金探しを続けているのですが、どっこいそう簡単に見つかるものではありません。

写真はすでにうちの健ちゃんとムクが捜索済みの矢倉ですが、残念ながらこの立派な矢倉には埋蔵金はありませんでした。

しかしこの矢倉は幕府から六浦港に至る交通の要所に位置しているうえに、小高い丘の上にあったために、おそらく幕府の兵隊が常駐して警戒に当たっていた隠し砦であったと思われます。

ちなみに当時の兵士は刀と弓で武装していましたが、彼らは長弓の名人ぞろいでおよそ100メートルの距離からの命中率は9割以上であったそうです。

Tuesday, December 26, 2006

「元禄忠臣蔵」千秋楽を観る

「元禄忠臣蔵」千秋楽を観る

これは江戸時代の仮名手本忠臣蔵ではない。

真山青果(尾崎紅葉の高弟、小栗風葉の弟子)が昭和に入ってから書いた近現代版の忠臣蔵である。(岩波文庫で全3冊です)

歌舞伎の楽しさは、踊りと音楽とセリフの入ったお芝居(演劇)の三要素のアマルガムにあるのに、この元禄忠臣蔵には最後のものしか用意されていないからつまらない。

歌舞伎の本質である「慰霊」はあっても、「カブく」や「ケレン」や夢幻性がないから、物足りない。歌舞伎18番などの古典とは違って、新派歌舞伎、いや新劇歌舞伎なのである。


しかし坪内逍遥、築地小劇場以来のリアリズムの表現が脚本の底流にあって、そのコンテキストでいわば歌舞伎を本歌取りしているから、大石内蔵助や堀部安兵衛や磯貝十郎左衛門など個人の思想や苦悩がイプセン劇のように浮き彫りになる。
内蔵助にいたっては、討ち入りの理由は幕府への反抗ではなく浅野内匠頭のうらみをはらすことだけだ、まるでブルータスのように演説したりする。

だから役者のセリフが生命である。そこが青果の苦心であった。

そして国立劇場創立40周年記念3ヶ月連続公演「元禄忠臣蔵」は、松本幸四郎の内蔵助の、「これで初一念が届きました」の胸をえぐるような一言で、全編の大団円を告げるのであった。

Monday, December 25, 2006

野にWHATを叫ぶ者

ふあっちょん幻論 第2回

 
今年90歳になる文化服装学院元学長の小池千枝さんが六本木ヒルズでファッションショーを開催されたそうです。小池は、今も昔もファッションとは世のため、人のために服を作ることであると考えておられます。

小池さんなどの薫陶を受けた60年代から70年代までのクリエーターたちの多くが、心の奥底で、WHATやWHYを抱え込んでいました。何のために、なぜファッションをやるのか、という内的な衝動です。

例えばオーダーメイドを卒業して誰にも着られる安価な既製服を作ろうとか、日本人ならではの感性を生かしたプレタポルテを作って世界のブルジョワをびっくりさせてやろうとか、フォーマルウエアが全盛なので思いっきりカラフルなカジュアルを提案しよう、というおのれを起動させる動機のことです。
彼らはこのような非常に単純明快な旗印を掲げて当時の欧米市場に殴り込みをかけ、見事に成功しました。

これはかつて大崎の町工場で誕生した東通工(現ソニー)が世界一小さなトランジスターラジオを作ってやろうと野望を抱いて、そのあとで懸命に無謀なその夢を実現していった軌跡(奇跡)に少し似ているような気もします。

けれども現在ファッションに携わるクリエーターの多くが、いかに大量の商品をいかに効率よく消費者に売り込むか、という巨大なグローバルメカニズムの1つの小さな歯車や部品の役割に甘んじています。

つまりHOWの世界です。

アレキサンダーマックイーンや川久保玲はともかく、トムフォードやカール・ラガーフェルドなどは完璧にHOWの世界で生きています。

これはソニーやトヨタなどの大企業において消費者起点の企画、生産、販売、広告宣伝の円環をいかに無駄や無理なく回転させるかが最大のテーマとなり、その課題に最適の解を出すために、ヒト、モノ、カネを惜しみなく投入している状況に対応しています。

このように時代はWHATやWHYから完全にHOWのモードに切り替わって久しいのですが、いっけん最高に進化し、時代の先端を走っているように見える、このHOWを主題とするハイテクグローバルマーチャンダイジングに問題はないのでしょうか?

よく観察してみると、HOWに生きる人は狭い蛸壺に生きる人です。

口ではグローバルを叫びながらも古い経験と規範に固執し、流動する生命現象を直観する原始的な能力を失い、死体を解剖してその断片を顕微鏡で観察し、データをパッチワークすることが創造だと勘違いしていることが多いのです。

そういうミクロの決死圏に生きる人が世界中のあらゆる業界で大繁盛していますが、彼らが主導する経営はいたるところでその推進力を失って根幹部分で破綻し、市場における売り上げ目標の達成はおろか、その創造の担い手たちにわずかな労働のよろこびを提供することにすら失敗し続けているような気がします。

他の産業はいざしらず、HOWの専門家たちの重要性と価値観は、少なくともこれからのクリエイティブデザイン、アパレル業界では急速に減退していくのではないでしょうか?

そして再び大声でWHATやWHYを問う人や骨太に考える人、の登場が待たれているのではないでしょうか?

Sunday, December 24, 2006

銀座通りには峠の茶屋があった

鎌倉ちょっと不思議な物語23回

やっと今月最後の、そして今年最後の仕事が終ったぞお!

メリークリスマス! そして、さよならディープインパクト!

さて今日も耕君と登った朝比奈峠の頂上には、山腹の鎌倉石を切り取って作られた空間があります。

鎌倉ちょっと不思議な物語第21回で紹介した「まがい物の磨崖仏」のちょうど対角線の位置ですが、ここに明治時代の末頃まで峠の茶屋がありました。

茶屋にはとてもきれいな若い女性がいたので、彼女をお目当てにして峠を上り下りする旅人が跡をたたなかったそうです。

三代将軍の実朝も、追放された日蓮も、この鎌倉時代の銀座通りを通って、麓の六浦の港まで降りていったのでした。

Saturday, December 23, 2006

あなたと私のアホリズム その3

♪ 眼には眼を、歌には歌を

「バカの壁」の養老先生が、
「音楽家は言葉にできないことだけを音楽で語った。だから我々はその音楽について言葉で語っても仕方がない」
と、語っていた。
なるほど、それもそうだな、と思った私は、
モーツアルトの「レクイエム」を聴いたあとで、K618の「アベヴェ・ベルム・コルプス」を小さな声で歌った。


♪ カフカのアフォリズムより(池内紀訳)


1)誰一人として自分の精神的な人生の可能性以上のものをつくり出せない。食べること、着るもの、その他もろもろのために働いているように見えるが、それは二の次のことであって、目に見える1着の衣類ごとに目に見えない1着を身につけている。これが人であることのしるしというものだ。あと追い式に存在を築いているかのようだが、それは心理的な鏡(かがみ)文字のようなもの、人はまさに自分の存在の上に人生を建てている。いずれにせよ誰もが自分の人生を(あるいは同じことだが死を)正当化できなくてはならず、この課題から逃れられない。

2)お前とこの世の戦いにおいては、この世に肩入れをせよ。(この世の側に立て。)


私のアホリズムでは、とうてい過負荷のアフォリズムには勝てませんて。

Friday, December 22, 2006

九本桜土俵入り

九本桜土俵入り

鎌倉ちょっと不思議な物語22回


太刀洗には、なぜか枝分かれした樹木が多い。

これは根本から九つの枝に分岐した山桜で、春には白い小さな花弁をはらはらと散らせてくれる。

この桜の下を2002年に死んだムクとよく散歩したものだ。
 
だんだん寒くなってくるけれど、らいねんの春もどうか無事に君の花を眺めたいものだ。

九本刀で土俵入りする横綱には到底かなわないけれど、近くには八本、七本大関も両腕を広げて立っている。

Thursday, December 21, 2006

まがいの磨崖仏

鎌倉ちょっと不思議な物語21回


この磨崖仏のようなものは、朝比奈峠の頂上、鎌倉市と横浜市の境界線のすぐ傍にあります。

磨崖仏ではなく磨崖仏のようなもの、と書いたのは、これは昭和30年代に横須賀市のあるおじいさんが、自分で勝手にここで刻んだものだからです。

ところが驚いたことに、そんなことも知らないでこれが鎌倉時代や室町時代に作られた、などと、もっともらしく記述するガイドブックが最近登場したようです。

でも、よく見ると、いかにも仏様らしい、もっともらしい表情をしていますね。

Wednesday, December 20, 2006

クリスマスとジェーン・バーキン

クリスマスが近づいてくると、私の家ではちょっと贅沢な飾りものを玄関につるす長年の習慣がある。

これは1986年の初冬にフランスのジェーン・バーキンという女優さんが私の家族にプレゼントしてくれた。帝国ホテルに泊まっていた彼女が、お向かいの日比谷花壇で買い求めてくれたものである。

当時の彼女のご主人は映画監督のジャック・ドワイヨンで、バーキンはなぜだかドワイヨンと一緒に来日した。

彼女は肌身離さずからし色をしてちょっと汚れた大きなバッグを持ち歩いていたが、あとから考えてみると、これが有名な例のエルメスのバーキンの第1号なのだった。

その年、ジェーン・バーキンはテレビCMの制作でやってきたのだけれど、私はバーキンよりもまずドワイヨンの人柄に惹かれ、この人がいったい何者であるか(実際はかなり有名で実力のある映画監督でした)なんて全然知らないままに仲良くなった。

私が住んでいる鎌倉までやってきた2人を、十二所のおばあちゃんの家に案内すると、「これが日本人の普通の生活なんだ」と、とても喜んでいた。


それから大仏と長谷観音を見物したっけ…。家内がカローラを駐車場から回してくるのを光則寺で待っていたら、バーキンが鳥かごのカナリアに指を差し伸べながらなにか歌を歌っていたので、「ああ、この人はこういう人か」と思っていたら、突然、「日本で火葬が始まったのはいつごろか」とか、「どうして火葬にするの」などと矢継ぎ早に聞かれてうろたえたことを、いま思い出した。

それから以前田中絹代が住んでいた鎌倉山の日本料理屋に行って4人で昼ごはんを食べた。ところが最近この広大な庭と素晴らしい眺望を誇る和風建築が取り壊されて、あの、みのもんた氏の豪邸に変身するという。

CMの撮影は京都の大沢の池などで行われたが、そのロケの弁当のおかずにどういうわけか巨大なザリガニが出た。私はこんな不気味なものが食えるもんかとあきれ果てて食べなかったが、バーキンがミック・ジャガーのような大きな口でバリバリと食らいつくのをみてたまげた。

無事に撮影が終了して最後に有楽町のいまはなくなったツタの茂るフランス料理のレストランに行った。入り口で彼女のお得意のジーンズ姿を一瞥した店の主人が、「うちはちゃんとした服装のお客様でないとお断りしています」とぬかして来店を拒否したのも懐かしい思い出。どうして断られたのか全然分からないジェーンを引っ張って隣の普通の料理屋に入りてんぷらとウナギとすき焼きを腹いっぱい食べて別れたのだった。

それからもジェーンは毎年のように来日しているようだが、あれ以来会わない。あんなに素敵なカップルだったのにドワイヨンとはとっくに別れたそうだ。

Tuesday, December 19, 2006

ふあっちょん幻論 第1回

ファッションビジネスの混迷と停滞

私はながらく日本のアパレルメーカーに勤務していましたが、残念ながら視野が狭くて、世界の中の日本ブランドという意識が欠落していました。

社内でトップの売り上げを達成しようとか、国内でナンバーワンになろうとかは考えていましたが、本気で欧米のトップブランドに勝とうなどと思ってはいませんでした。  70年代までにわが国では(若者はいざしらず)大人が満足できるそれなりの国産衣料品や雑貨は都会の百貨店へいけばおおかた入手できました。  ところが80年代になると、国内企業が国内の消費者のウオンツを的確に把握することができなくなり、その間に海外勢力が怒涛のように侵入してきたのです。  それからさらに20年。気がつけば高級品は外資系のラグジュアリーブランドに、実用品は中国からの輸入ブランドに席巻されています。

そしてこのことは識者によって60年代から予見されていたにもかかわらず、結局現在もきちんと対抗対策の手が打たれているとはいえません。  かろうじて2年前から東京コレクションの強化とかクールビズの立ち上げなど政府主導型のアパレル振興政策が打ち出されてきましたが、ほんとに必要なのは、そういう「上からの改革」ではなく、アパレル産業関係者自身による民間主導型の「下からの改革」ではないでしょうか?  では各人が各自の立場でどうしたらいいのか? それが問題です。  私は若い世代の人々が自分流に満足できる個性的なブランドを立ち上げ、国内のみならず世界市場にどんどん進出することを心から希望し、期待するものですが、そのためには我々が30年間にわたって失敗しつづけてきた旧世代の既存のやり方をよく研究し、その批判的な検討のうえに立って再度国際競争の最前線に出ていってほしいと思うのです。  具体的にここでその方法論を述べるつもりも余地もありませんが、最近アーチストの村上隆氏が書いた「芸術起業論」がこの問題を考える上で参考になると思われます。  村上隆氏は、「芸術家は世界の本場で勝負しなければならない」と説き、そのための道のりを、1)まずは本場の欧米で認められる。2)次に欧米の権威を笠にきて日本人の好みにあわせた作品を逆輸入する、3)そしてもういちど芸術の本場に自分の持ち味を理解してもらえるように伝える。
の3段階を想定しました。  そして「スーパーフラット展」でアメリカに認められ日本で作品を展開し、05年の「リトルボーイ展」でほんらいの自分の思うリアリティを表現できた、と3段階戦略の成功を総括しています。(同書113p)  しかしそこに至るまでは食うや食わずの悲惨な貧困と努力の生活が何年も続いたわけですが、やはり今日の村上隆を作り上げた最大の要因は、こういう戦略を自分に課し、それを懸命に実行したことにあるのではないか、と思わざるをえません。  ファッション界でクリエーターを目指すのも、まったく同じことだと思います。
村上氏は37歳のときにコンビニの裏口で弁当の残り物を貰うために立っているのはつらかった、と書いていますが、そういう忍耐と辛抱強さも必要なのでしょうね。

Monday, December 18, 2006

♪魔弾の射手よ今いずこ

音楽千夜一夜 第4回


最近ウエバーWeber, Carl Maria von (1786-1826)の歌劇「魔弾の射手」をクライバー親子とマタチッチが指揮したCDで立て続けに聴きました。

3人の中ではやはりエーリッヒ・クライバー&バイエルンオペラのものがもっとも優れた演奏だと私には思えたのですが、それはこの際どうでもいいことで。

この「魔弾の射手」はドイツ人による最初の国民オペラらしいのですが、確かにそれだけのことはあってドイツ帝国成立(1871年)をめざしてひたすら前へ前へと突き進んでいくドイツ人のロマンチシズムと強烈なエネルギーはまぶしいほどです。

全編どこでも斬ればゲルマンの血がほとばしり出るような生々しい音楽と言えるかもしれません。いうなれば新興帝国の精神の応援歌でげす。


よくWagnerの音楽とナチズムの親近性を指摘する人もいますが、その源泉はすでにウエバーの目もくらむようなドイツ魂の熱血音楽の内部から湧出していたのではないでやんしょうか。

メンデルスゾーン(1809-1847)とゲーテ(1749-1832)もほぼ同時代の人ですが、このウエバーほどの手放しの若さと過激さは持ち合わせていなかったような気がします。

アジアの片隅でゆっくりと黄昏てゆく少し疲れた老大国で、このウエバー選手のような元気で単細胞な音楽を聴くと、なぜか「やれやれ」というため息が出てきます。

ドイツ音楽のいちおうの完成者はやはりベートーベン(1770-1827)ということになるのでしょうが、昨日聴いた彼の感動的な第9交響曲にしても、ほんとうはその限りなき前向きさ加減にちょっと辟易させられるところがあります。

やれやれ、おらっちもジャパンもいつの間にか年取ってしもうたなあ。

Sunday, December 17, 2006

鎌響の「第9」を聴く

音楽千夜一夜 第3回

 ことしも年末恒例のベートーヴェンの第9番の交響曲を聴いてきました。演奏はもちろん贔屓の鎌倉交響楽団です。

この演奏会場は10年ほど前に中西という自動車屋の市長が大船の旧松竹撮影所の傍に巨費を投じて作った気色悪い緑色に着色された鎌倉芸術館です。

この建物が完成したとき、当時の中西市長は自分の親戚の同じ姓の有名シャンソン作詞家をプロデユーサーにお手盛りで任命しました。ここらへんはちょっと石原知事とその息子の関係に似ているかもしれませんが、中西氏はその身内の作詞家に対してなんと年間2億だか3億円だかの法外なプロデユーサー料を(市のそれでなくても全国で有数の高額の税金から)気前よく支払ったのです。

その作詞家がやった仕事といえば、年間のコンサート計画なるものを企画立案し、東京の自分の知り合いのゲージュツカたちをこの湘南の田舎町にどんどん連れてきて好き勝手なプログラムを組んで自分勝手に「運営」したことくらいなのですが、こうした野放図な税金泥棒的行為?は心ある市民から指弾を受け、くだんの作詞家はいつのまにかこの地からいなくなってしまいました。

 ああうらやましい。じゃなくてけったくそ悪い。

そういういわくつきの会場ですが、唯一のめっけものは音響の良さです。1階は相当音が飛びますが、2階、特に3階の最前部の聴感は抜群で、どこに座っていても音響が怪しく飛散するサントリーホールよりも快適な響きで、これだけはダブルナカニシチームに心から感謝したいところです。

さて下らない前置きはともかく、今日の演奏はなかなか楽しめました。
私は前にも書いたように、プロの枯渇し疲弊しきった冷たい演奏よりも、たとえ技術的には劣ってはいても音楽への純粋な愛情と情熱では前者をはるかにしのぐアマチュアの演奏を好んでいますが、今日の鎌響もそのとおりの好演でした。

私はこれまで第9は第三楽章がいちばん気に入っていたのですが、今日はむしろ第二楽章の方が楽しく聞き応えがありました。ここでは弦と管とが華麗な舞踏を繰り広げ、踊りの輪郭が拡散しそうになると、途端にティンパニーが出てきて要所要所で音楽の形式をぴりりと引き締めます。

それがまことにカッコいい。今年亡くなった岩城さんがこの楽器の奏者であったことを思い出しましたが、ティンパニーって音を出せない指揮者に代わってああいう声を出しているのですね。

夢見るような第三楽章が終ると切れ目なく最終楽章に入ります。

しばらくとろとろ眠るがごとき音楽をまだ続けていますが、まず最初にあの有名な歓喜のテーマを深々と歌うのはチエロ、そしてコントラバスなんですね。

それから同じテーマをビオラが歌い、最後に第1と第2のヴァイオリンが高音部で高らかにうたい始める。すると木管と金管がそのシンプルなメロディーをあわてて追いかけるようにして唱和します。

やがてすべての楽器が私たちの心臓とおなじリズム、おなじメロディーでどんどん加速を強めていって、ベートーヴェンの心の音楽が堂に満ちる。そして最初の絶頂の峠の上で、ソプラノでもなくテナーでもなく、なんとバスが「おお、フロイデ」と歌いだすのです。この構成はほんとうに素晴らしく、こうなるとベートーヴェンはもはやゲーテにもナポレオンにも絶対に文句を言わせません。

じつは私はこのところ第4楽章がちょっと鼻につくようになって、リストが編曲したピアノ版第9の演奏をツアハリスの見事な演奏で楽しんでいたのですが、これを実演で聴かされるとやはり声楽入りも捨てがたい。いやそれどころではなく主にシニアの方々のものすごい咆哮は管弦楽の強奏を圧倒しました。

人間の声が最高最大の楽器とはよく言ったものですね。

Saturday, December 16, 2006

2冊の本を読んだ

♪ 半藤一利著「荷風さんの戦後」

浅草の荷風の行きつけの店。アリゾナキッチン(メトロ通り東)、尾張屋、浅草フジキッチン(雷門通り傍)、甘み所「梅園」(仲見世通り)、合羽橋どじょう「飯田屋」など。あとはつぶれた。

荷風は死の床でフランス語の本を読んでいた。仏書はアラゴン「現実世界」3部作、サルトル「嘔吐」など140冊。

荷風は邦画は自作の「つゆのあとさき」以外は洋画しか見なかった。「素直な悪女」「ヘッドライト」「リラの門」「川の女」「情欲の悪魔」「紅い風船」「トロイのヘレン」「わんわん物語」など。最後の作品は微笑ましい。

♪ 保坂和志著「小説の誕生」

何度でも繰り返し紐解きたい私の2006年随一の「小説ならざる小説」である。あるいは小説という名の悠久の生を生き直そうとする意欲的な試みである。

著者はいう。

小説とは破綻と自己解体の危険を恐れず、予定調和を拒否して、どこまでも伸びて行く1本の線である。私を虚しくし、小説をうつろな箱にすることによってその小説は優れた音楽の戦争のように、世界の何かを帯びてくるだろう。

書き手が小説に奉仕する限りにおいて小説は小説たりうる。いい小説とは遠い遥かな地点、世界の果てまでも作者=読者を連れ出し、豊かにしてくれる行為である。

小説という名の「1点突破、全面展開」の実例がここにある。

「雨がつづいた10月の久しぶりの晴天の、暖かく穏やかで風がない日の午後に、池のほとりに腰掛けてビールを飲みながら、池一面が太陽の光で金色に輝くのを見ていたら、このために本を読んだり、あれこれいろいろ考えたりしているんじゃないか、と思った」
という402pからの井の頭公園での特権的体験の描写は素晴らしい。

なお本書の中で樫村晴香という人が、自閉症について「自閉症児はリンゴや犬などの名詞を理解することはできるけれど、“美しい”を理解することはできない。あるいはリンゴを使ったセンテンスは作れるけれど、美しいを使ったセンテンスは作れない」と、著者との対談で発言したそうだが、これは事実に反する。

自閉症といってもいろいろあるのだから、そんな雑駁な言い方は非科学的である。
現にうちの耕君は立派な自閉症だが、そんなセンテンスなんかおやすい御用ですよ。

そのほかにもじっくり感想を書きたいが、残念ながら時間がない。

Friday, December 15, 2006

あなたと私のアホリズム その2

♪ Wang,Wang!

 後世の歴史家は、防衛庁が防衛省となり、教育基本法が衆院委員会を通過した日についてなんと記すだろうか? 

しかしそれよりも心配なのは、先日米国の科学者が出した「2040年に北極の氷の大半が溶けるだろう」という予測である。

間違いなくこの年までに、わが国は平和憲法をかなぐり捨てて「愛国的な核武装国」に美しく変身し、と同時に日本列島のかなりの部分が海没しているだろう。

しかしわが国のマスコミも、国民もこれらの危険性については異常なまでに平静であるか、あるいは平静を装って♪ラリラリラーン、と楽しい毎日を送っているようにみえる。

これではわが家の愛犬であったか「かわかわのムクちゃん」とおんなじ態度ではないだろうか?

Wang,Wang!



♪ ボーナス

松坂選手が6年間61億円の契約を結んだ日、月収1600円の耕くんは540円のボーナスをもらった。

松坂選手は、「うははは」と笑った。

耕くんも負けずに「あははは」と笑った。

誰にもどっちが幸せなのかは分からない。

そして、誰にも格差社会の行き着くところは見えていない。


♪ 当用漢字という名の言語ファシズム

教育基本法の前の年である昭和21年に、1850の当用漢字が制定された。

どうして妾や奸や妖や嫉や皿や鍋や釜が排除され、拷や隷が入ったのかは誰にも分からない。

どうしてその当用漢字がマスコミで「憲法」化され、難しい漢字がただそれだけでパージされるようになってしまったのか、誰にも分からない。

自分の思想をもっとも的確に表現するためには、漢字や用字用語の制限をとるはらうべきなのに、自由を恐れるマスコミは、自らの手足を縛り、執筆者にもそれを強要するにいたった。

「気狂い」ピエロがどうしてだめなの?

狂っているのは、あんたの方だろ?

それとも、おらっちなのかな? よく分からなくなっちゃった。

Thursday, December 14, 2006

冬の朝、瑞泉寺で歌う

鎌倉ちょっと不思議な物語20回



夢想国師が手塩にかけし瑞泉寺その庭園に降る紅き花花

光あればもみじはさらに輝かんもろびとこぞりて光待ちおり

紅葉の美しさはない美しい紅葉があるだけさと啖呵きりし人を嘲る紅葉

これやこの水戸黄門の御手植の天然記念物の冬桜見る

もう二度とこのお寺には来れまいと思いつつ訪ねし松陰と子規

夜間はイヌを放つゆえ要注意と立て札せる清泉小学校はあさまし

ピノチェトの棺に吐きしプラッツ陸軍司令官の孫のつばきよ

教育基本法を圧殺し高笑いするお前らの腹黒き野心はお見通しだぜ

是かまたは非なるか意思表示せぬ人をかすかに憎みつつ紅葉を見る

人も世もわれをも呪いつつ見る花のその美しさは限りもなくて

Wednesday, December 13, 2006

日々是好日

日々是好日

ともあれ、朝になったら、まずは起き上がることだ。

起きたら、ちょっと動いてみることだ。 

そして思い切っていきをして、まだぼんやりとでも生きているか自分の胸に問うてみることだ。

君の目の前にピアノがあれば、黒鍵をひとつだけ叩いてみることだ。

なにもなければ、4年前に亡くなったムクしか聞いていなくても、口笛などを微かに吹いてみることだ。

そうすれば、また新しい1日が始まったと知れるだろう。

そうしてテレヴィをつけよう。

テレヴィをつけたとき、不運のことにいきなり安部ちゃんが現れても、前の首相のライオン丸や、障子破り都知事や硫黄島のかなたの猿面冠者が現れたときのようにかんたんにゲロを吐いたりしないで、固く目をつぶったままどんどんチャンネルを回そう。

するともし運が超よければ、BS-1のニュースで平尾由美アナウンサーの切れ長の眼に会えるかもしれない。

そしたら1日超ラッキーだろう?

そしてこれはとても大事なことだが、まもなく国会で教育基本法が可決されても、やけを起こして玄関の扉を殴りつけたりしないように我慢することだ。

それからまたしばらく時間が経って、国民投票の結果現行憲法が塵芥のように闇に葬り去られても、間違っても首相官邸に凶器を携えて潜行しないように努力することだ。

なんといっても、人間辛抱だ。

ともかくようやくここまでやって来たのだから、ぜったいに軽々しく暴力に走らないように自戒することだ。


暴力は自己表現ではなく、自己否定であり、自己滅却であることを、ここでもう一度認識することだ。

いつか首相官邸に向かう坂道で、私の左の額に警棒を振り下ろした第7機動隊の若者が、私の出血を見てすぐにその凶暴な行いを後悔したように、

そしてその若者の振る舞いについてずーと考えていた私が、何年後かに彼の暴力を許したように、

ともかくできるだけ他人を憎まないようにすることだ。

アラブよ、そしてイスラエルよ。

不幸にももし誰かを憎んでしまった場合は、なんとかしてお互いに許しあうことだ。

一時的な過激な行為に走らないように注意することだ。

また、この国の指導者のみならず、この国のすべての人々がこの私に劣らず全員タコだとしても、可哀相なこれらのタコたちのことを、

「このタコ、くたばれ」とか、

「てめえ、このタコ、くそったれ」などと、

けっして下品で、醜い言葉でみだりに罵倒しないよう、今から自戒し、そのときに備えておくことだ。

そうして私は、ゆっくりとねんねぐーして死んでいくことにしよう。

そーゆーことだ。

Tuesday, December 12, 2006

雨よ降れ 草木国土悉皆成仏

鎌倉ちょっと不思議な物語19回



御成小学校の辺で雨になった。

この道は古くは大江広元が公文所に通勤するために歩いた道、

中世日本の行政センターに向かう道、

新しくは明治天皇が夏の海水浴のために馬車で運ばれた道、

緑豊かな邸宅が壊され、くだらないマンションが建ちあがりつつある道、

そしていま私がとぼとぼと図書館に向かって歩いている道…

図書館では光明寺の鎌倉アカデミアの回顧デイスプレイをやっていた。生徒は前田武彦、山口瞳、いずみたくなど、先生は林達夫など。

学長は三枝博音、1963年の国鉄鶴見事故で亡くなった。競合脱線という不可解な言葉が新聞を賑わせたことなど誰が覚えているだろう。

図書館には新刊書籍が7冊も届いていた。そのうちの1冊は1220ページの「ランボー全集」全一冊。こんなの2週間で読めるわけがない。

まてまて、花村萬月の「古都恋情百万遍」と杉本彩の「京おんな」もあったぞ。
雨足がだんだん強くなる。早くおうちに帰って彩ちゃんを読もう。

路地の奥に古いポンプがあった。

廃屋の一角で、褐色のポンプは誰かにくみ上げられるのを待っているようだった。

雨よ降れ 草木国土悉皆成仏

Monday, December 11, 2006

モーツアルトに想う

音楽千夜一夜 第2回


すぐる12月5日がモーツアルトの命日であったが、やはりシューベルトと共に惜しんでも余りある短すぎた人生だったと思う。

モーツアルトは、次のような症状で死んだ。
連鎖状球菌性伝染病、シェーンライン・ヘノッホ症候群、腎不全、瀉血、大脳の出血、最後の気管支炎性肺炎。( H・C・ロビンズ・ランドン著「モーツアルト最後の年1971」12章)

 また、モーツアルトはとてもおしゃれだった。
「モーツアルトは南京フロックコート(最新のモード)やマンチェスター(綿)のそれを所有し、さらには白地、青地、そして赤地の別のフロックコートも所有していた。このように彼は自分の経済的状況はどうであれ同時代のファッションをはっきりと意識していて、それに乗り遅れることはなかったのだ。」(同書「付録A」より)

さらに、モーツアルトの左耳の外耳はなかった。あるいは渦巻きがなかった。
これは彼の早世したあまり才能のなかった息子も同様で、医学的には、天才を象徴する「モーツアルト耳」と呼ばれる。
 
それにしても、どうして彼はハイドンの誘いに従ってロンドンに行かなかったのか? 行っても41番のジュピターを超えるシンフォニーはもう書けなかったかもしれないが、せめてハイドンの半分くらいの分量は書いて欲しかった。

いや交響曲なんかゼロでもはいいが、オペラとピアノ協奏曲を少なくともあと3曲は残してもらいたかった。

いやいや、せめてレクイエムをジュスマイヤーに補作させずにちゃんと全曲書きあげてから瞑目してほしかった。

 等々、ないものねだりが続々でてきてしまうのである。

しかし、しつこいようだが、いくら急に雨風が吹き荒れたとはいえ、どうして誰もウイーンの共同墓地の埋葬に最後まで立ち会わなかったのか? 
悪妻コンスタンツエも含めてどいつもこいつも薄情な奴ばかりで、たった独りで暗い穴の中に真っ逆様に落下していったモーツアルトが可哀相になる。

わが国も大騒ぎで、飛行機嫌いのアーノンクールが来日して3大交響曲やらレクイエムやらを演奏していった。テレビで視聴する限りではじつにくだらない演奏。FMで聴いたオペラも最低。こんなものを有難がって大金を払って殺到するウイーンやザルツブルグや東京や大阪の客の左脳も耳も狂っているのではないだろうか?

思えば昔々ウイーンコンツエルトムジクスを立ち上げて、バッハのカンタータを録音したり、チューリッヒの歌劇場で「オルフェオ」を目玉の松ちゃんのように夢中で楽しんでいた頃が彼の全盛時代だった。

これは極端に過ぎる言い方だが、指揮者には朝比奈やベームやバーンスタインやギュンターヴァントやチェリビダッケのように晩年になって真価を発揮する指揮者と、カラヤンや小沢やマゼールやサバリシッシュのように老いてますます音楽がだめになるタイプ、そしてわけも分からずただ懸命に棒を振っている芸術の本質とは無縁な大多数の指揮者たち、の三種類があるような気がする。

そうして現代の古典音楽業界は、広範な消費者の増大するニーズに的確にこたえるために、この3種のカテゴリーの指揮者をそれぞれに必要としているのだ。

 最後に、モーツアルトの私の最近のおすすめデイスクは、ミシェル・コルボがジュネーブのオケとライブ録音でいれた「レクイエム」(ヴァージン・クラシックスのコルボ指揮レクイエム集廉価版5枚組3000円)、DOCUMENTSの10枚組廉価版、オペラ代表作4本入って2500円)カルロスのお父さんであるエーリッヒ・クライバーがウイーンのオケを振った素晴らしい「フィガロの結婚」が聴ける。

Sunday, December 10, 2006

あなたと私のアホリズム その1

なんの己が桜かな。


60年代の終わりに構造改革派は「欲望拡大路線」という横断幕を掲げ、ブントや革協同中核派は「自己の実存のすべてをさらけだして全世界を獲得せよ」と叫んだ。

80年代の終わりに、ブルータスのある編集者は、「俺たちって、まだ一人も人を殺していないもんね」と目を輝かせて語った。
 
革命よりも、殺人よりも凶暴な存在、それは自己実現の欲望である。

百たび死んでも治らないのは、ジコチューという病気である。

Saturday, December 09, 2006

鎌倉のシェリーマン

鎌倉ちょっと不思議な物語18回


私は鎌倉に住んで足掛け30年になるが、最初はこの十二所神社のすぐ脇のアパートに住んでいた。

アパートのうしろは横浜国立大付属小学校の畑で、畑のうしろも池のある広い畑になっていた。そして子供たちはその池のザリガニを捕まえて朝から晩まで遊んだ。

 池と畑の奥には、大きなイチョウ(写真)が聳え、その巨木の下に郷土史研究でその名を知られた小丸俊雄さんの粗末な木造平屋住宅があった。

小丸さんは鎌倉や吾妻鏡の研究で成果を挙げ、晩年はこの近所の朝比奈峠や大慈寺史跡について研究していたらしいが、そんなこととは露知らない愚かな私は、氏の生前にただ1度しか会話する機会がなかったことを今頃になって悔やんでいる。

その小丸さんが著わした「鎌倉物語上下巻」(ぎょうせい刊、絶版)に印象的な記述がある。  生前の氏がある日材木座の海岸を歩いていると砂の中に白く光るものがあり、拾い上げてみるとそれは鎌倉時代に北条氏に敗れこの砂浜で死んだ畠山軍の若い武将の大臼歯であった。   60年代の鎌倉の海岸では、30センチも掘れば12世紀後半から13世紀の内戦の死亡者の遺品が大量に見つかった、というのである。
 それを知った私は、材木座や由比ガ浜の海岸を歩くたびに砂浜を忙しく両手で掘り起こしては、緋縅姿の若武者のピカピカ輝く白い歯を懸命に捜し求めたのだが、ついに発見できないでいた。

そして、かの高名なる民間考古学者の記述は、もしかすると文学的なフィクションではなかったか、と、いささか疑いの気持ちが芽生えていたのだが、先日はしなくも朝比奈峠で日大大学院松戸歯学研究科で口腔解剖学を専攻しているS氏とめぐり合い、その話をしたところ、S氏は「それはおおいにありうる話です」と断言された。

S氏は鎌倉時代の人骨、特に口腔や歯の研究をしている少壮の学徒らしく、小丸さんの証言がけっして非科学的なでっちあげではないことを保証してくれたので、私はとてもうれしかった。

鎌倉の中心部のどんな地面でも1メートル掘ってみれば江戸時代の遺跡があらわれ、3メートル掘り下げてみれば鎌倉時代が出現する。

写真は数日前から行われている浄明寺の史跡発掘の現場であるが、開発ラッシュの鎌倉市内ではいたるところでこのような光景にぶつかる。

さてここで急に話が飛ぶが、私は以前それまで働いていた会社から突然リストラされ、さあこれからいったいどうやって食べていこうか、とおおいに悩んだ時期があった。

そんなある日、たまたま当時大学前のコンビニ(その2階は黎明期の鎌倉シャツが開店していた)の隣で行われていた発掘現場で、アルバイトのおばさんが土器のかけらを楽しそうに拾い上げている姿を見て、「そうだ、俺は少年時代にはシェリーマンになりたかったんだ」、と、突然心中にひらめくものがあった。

トロイの遺跡は難しいかもしれない。しかしお日様の下で知的かつ肉体的に楽しみながら、遊びながら毎日中世の暮らしの断片と出会うこのアルバイトは悪くない。しかもこの町は遺跡の宝庫だから、仕事がなくなることは永遠にないだろう…。
と、すばやく頭を回転させ、「これこそわが理想の第二の人生だ」と、久方ぶりに胸をときまかせたのであった。

しかも、これはけっして机上の空論ではなかった。
私と同時期にリストラされたU氏の奥さんが、わがあこがれの史跡発掘のアルバイトをしていたのである。

私はその夜早速U氏に電話をした。
幸いなことに彼の奥さんも在宅していた。現場からいま帰ってきたばかりだという。

そこで私が、「この際どうしても鎌倉のシェリーマンになりたいのですが」と、切り出すと、彼女は私にみなまで言わせず、「確かに日当はもらえますがね、結局はドカタですよ。きつい肉体労働ですよ。あなたは体力に自信がありますか?」
と、どすのきいた声で突き放すように言った。

昔から虚弱体質で、肉体とか根性という言葉にもっとも弱い私は、たったその一言でなぜかへなへなになってしまった。

かくして鎌倉のシェリーマンになる夢は、ここにあえなく挫折したのである。

Friday, December 08, 2006

太刀洗の血闘

鎌倉ちょっと不思議な物語17回

曇り空の太刀洗を散歩していると、滑川の傍の電線で2羽の鳥がおしくらまんじゅうをしながらくちばしをつつきあっていた。

それは大きなカラスとトンビだった。

2羽とも大きいが、どちらかというとトンビの方が大きく強そうだった。

しかし闘争を好まないトンビに身を寄せ、攻撃を仕掛けているのは私が嫌いなカラスの方だった。

なぜ私がカラスが嫌いかというと、昔原宿の会社に通勤していたある朝、千駄ヶ谷中学の校門の前で、イチョウの木に待ち伏せしていたカラスに後頭部を鋭いくちばしでコツーンと一撃されたからである。

カラスは私が攻撃しないのに、宣戦布告もしないでいきなり襲ってきた。これは真珠湾攻撃と同じ卑劣な行為だ。

でも私はトンビに襲われたことは一度もない。

いつも大空を漂い、のどかにピーヒョロと鳴くこのうす茶色の鳥を、私はひいきにしている。

ああ、それなのに哀れトンビは敗退してしまった。醜悪なカラスの執拗な攻撃に耐えかねて、悔しそうにピーヒョロと泣きながら裏山に逃げ去っていった。
(写真は電線の上で勝ち誇るアホガラス)

それで思い出したのは、数年前の晩夏の夕方のことだった。

私が散歩から帰ろうとしてふと空を見上げると、異様な鳴き声が聞こえた。

動植物のすべて、動くものでも静止しているものでもなんでも食い荒らすタイワンリスが、「ケッツ、ケッツ」と、鋭い叫びを発しながら地上10メートルの樹上を前後左右に飛び回っている。

いったいなにを騒いでいるのかと思ってよーく観察すると、長く伸びた枝の先に約2メートルのアオダイショウが鎌首を立て、紅い舌をびらつかせ、ときおりシュー、シューと排気音を発しながらこの凶悪獣に立ち向かっていた。

このタイワンリスが逗子、藤澤方面から鎌倉に侵入してきたのはいまから10年くらいまえのことだった。

そいつは鋭い歯でたちまち鳥や動物や昆虫の幼虫などを食べつくし、植物の葉っぱはもちろん立ち木の樹皮まで剥いで枯らし、古都の自然環境をこれまた悪名高きアライグマとコラボレーション(注=これを不用意にコラボと言ってはならない。コラボは第2次大戦中の対独協力者を指す)しながら徹底的に破壊したのであった。

そんなこととは露知らず、報国寺の橋のたもとにある馬鹿なフランス料理屋では、あろうことか観光客の人寄せパンダ代わりに長年にわたって餌付けを行ってきたのである!
人間の次に獰猛で悪魔のように凶悪なこの獣を!

それはともかく、この夕べ、蘇我入鹿のような悪漢タイワンリスが、山背大兄皇子のように温和なアオダイショウを襲ったのである。

攻勢をかけるのはやはりアホリスである。アオダイショウの後に回って尻尾から食いつこうとする。そうはさせじと鎌首をもたげて反転しながら食いつくヘビチャン。しかしその時に早く、その時遅く、アホリスはもうヘビチャンの背後に回っているのである。そのパターンの繰り返しだ。

ヘビチャンも必死で健闘してはいるものの疲労困憊はなはだしく、闘いは敏捷なアホリスが圧倒的に有利である。

ああ、ここにパチンコがあったら私はあのアホリスをたったの1発で射殺すことができよう。しかしこれはハリウッド映画のやらせの決闘ではない。正真正銘の荒野の決闘なのだ。天然自然の生存競争なのだ。いくら私が「アホリス憎し」の一念に燃える魔弾の射手であっても、ここは人間の出る幕ではないだろう。

私はその場でしゃがみこんだ。そして切歯扼腕しながら、手に汗を握って文字通り食うか食われるかの死闘を見つめていた。

戦う彼らに気づいたのが午後3時ごろであった。いまは6時を過ぎている。両者の闘いは恐らくその数時間前から繰り広げられていたのではないだろうか?

夕闇がどんどん立ち込め、頭上で戦う2匹の黒い姿がおぼろになってきた。

いくら目を凝らしてもなにも見えなくなってきたので、私はアオダイショウの無事を祈りつつ太刀洗の野道を涙を飲んで引き揚げたのであった。(写真はまさにその現場です)

太刀洗の血闘

鎌倉ちょっと不思議な物語17回


曇り空の太刀洗を散歩していると、滑川の傍の電線で2羽の鳥がおしくらまんじゅうをしながらくちばしをつつきあっていた。

それは大きなカラスとトンビだった。

2羽とも大きいが、どちらかというとトンビの方が大きく強そうだった。

しかし闘争を好まないトンビに身を寄せ、攻撃を仕掛けているのは私が嫌いなカラスの方だった。

なぜ私がカラスが嫌いかというと、昔原宿の会社に通勤していたある朝、千駄ヶ谷中学の校門の前で、イチョウの木に待ち伏せしていたカラスに後頭部を鋭いくちばしでコツーンと一撃されたからである。

カラスは私が攻撃しないのに、宣戦布告もしないでいきなり襲ってきた。これは真珠湾攻撃と同じ卑劣な行為だ。

でも私はトンビに襲われたことは一度もない。

いつも大空を漂い、のどかにピーヒョロと鳴くこのうす茶色の鳥を、私はひいきにしている。

ああ、それなのに哀れトンビは敗退してしまった。醜悪なカラスの執拗な攻撃に耐えかねて、悔しそうにピーヒョロと泣きながら裏山に逃げ去っていった。
(写真は電線の上で勝ち誇るアホガラス)

それで思い出したのは、数年前の晩夏の夕方のことだった。

私が散歩から帰ろうとしてふと空を見上げると、異様な鳴き声が聞こえた。

動植物のすべて、動くものでも静止しているものでもなんでも食い荒らすタイワンリスが、「ケッツ、ケッツ」と、鋭い叫びを発しながら地上10メートルの樹上を前後左右に飛び回っている。

いったいなにを騒いでいるのかと思ってよーく観察すると、長く伸びた枝の先に約2メートルのアオダイショウが鎌首を立て、紅い舌をびらつかせ、ときおりシュー、シューと排気音を発しながらこの凶悪獣に立ち向かっていた。

このタイワンリスが逗子、藤澤方面から鎌倉に侵入してきたのはいまから10年くらいまえのことだった。

そいつは鋭い歯でたちまち鳥や動物や昆虫の幼虫などを食べつくし、植物の葉っぱはもちろん立ち木の樹皮まで剥いで枯らし、古都の自然環境をこれまた悪名高きアライグマとコラボレーション(注=これを不用意にコラボと言ってはならない。コラボは第2次大戦中の対独協力者を指す)しながら徹底的に破壊したのであった。

そんなこととは露知らず、報国寺の橋のたもとにある馬鹿なフランス料理屋では、あろうことか観光客の人寄せパンダ代わりに長年にわたって餌付けを行ってきたのである!
人間の次に獰猛で悪魔のように凶悪なこの獣を!

それはともかく、この夕べ、蘇我入鹿のような悪漢タイワンリスが、山背大兄皇子のように温和なアオダイショウを襲ったのである。

攻勢をかけるのはやはりアホリスである。アオダイショウの後に回って尻尾から食いつこうとする。そうはさせじと鎌首をもたげて反転しながら食いつくヘビチャン。しかしその時に早く、その時遅く、アホリスはもうヘビチャンの背後に回っているのである。そのパターンの繰り返しだ。

ヘビチャンも必死で健闘してはいるものの疲労困憊はなはだしく、闘いは敏捷なアホリスが圧倒的に有利である。

ああ、ここにパチンコがあったら私はあのアホリスをたったの1発で射殺すことができよう。しかしこれはハリウッド映画のやらせの決闘ではない。正真正銘の荒野の決闘なのだ。天然自然の生存競争なのだ。いくら私が「アホリス憎し」の一念に燃える魔弾の射手であっても、ここは人間の出る幕ではないだろう。

私はその場でしゃがみこんだ。そして切歯扼腕しながら、手に汗を握って文字通り食うか食われるかの死闘を見つめていた。

戦う彼らに気づいたのが午後3時ごろであった。いまは6時を過ぎている。両者の闘いは恐らくその数時間前から繰り広げられていたのではないだろうか?

夕闇がどんどん立ち込め、頭上で戦う2匹の黒い姿がおぼろになってきた。

いくら目を凝らしてもなにも見えなくなってきたので、私はアオダイショウの無事を祈りつつ太刀洗の野道を涙を飲んで引き揚げたのであった。(写真はまさにその現場です)

Thursday, December 07, 2006

アオサギとヘンゼルとグレーテル

鎌倉ちょっと不思議な物語16回


今日の午後、浄明寺郵便局に向かって道路の左端を歩いていると、イチョウサブレー製造所の入り口に大きなアオサギがいた。

道路の傍を流れている滑川にはときどきシラサギやゴイサギが魚を狙っている姿を見かけるが、こんなに大きいアオサギは初めてだ。

しかも川の中ではなくて舗装道路の上を両翼をふわりふわりと上下させながら歩いている。

私はあわてて愛用のデジカメを取り出してシャッターを切りながら、この日本産の最大のサギを追いかけた。

アオサギは軽快な足取りで民家の入り口まで前進しアーケードで覆われた屋根を見上げている。

しかし私はそれ以上追うと逃げ場を失ったアオサギが狭い空間で自傷することを恐れてその場を立ち去った。

サブレー屋さんの話では、「橋の欄干くらいまではやってくるが、こんなに接近したのは初めてだ。あんな神経質な鳥がどうしてこんな所まで」

と、とても驚いていた。

アオサギと別れてどんどん進んでいくと、泉水橋の先に奇妙な建物が見えてきた。

去年、いやおととしから気になっていた誰が建てたのかわからない謎の建造物だ。
全体はどちらかというとスペイン風の別荘のような感じである。

最初は普通の洋館かと思っていたが、どうも様子が変だ。色といい形といい、まるでヘンゼルとグレーテルのお菓子の館のようである。

本体が出来上がるまでに優に1年はかかり、それが一段落するや今度は写真左下の階段や東屋やガーデンがゆっくりゆっくり形作られていく。まるで時間も経費も気にしない手作りである。

いまでは部屋にカーテンもかけられ電気工事も終ったようだが、昼も夜も誰も住んでいない。

はじめはレストランは、ブティックか、それとも鎌倉によくある個人美術館かと想像したが、いまだもってよく分からない。

町内で話題の謎の不思議館である。

Wednesday, December 06, 2006

筑波山のガマ

耕君が福田の里に短期入所してくれたおかげで、私たちは新婚旅行以来はじめて夫婦水入らずの旅行を楽しむことができた。

最近開通したばかりの「つくばエクスプレス」に乗って、筑波山のホテルで一泊したのである。

女体山直下のホテルからは夕方も朝も関東平野を一望することができた。富士山や新宿副都心や霞ヶ浦も見えたし、雲間から浮上してくるご来光を仰ぐこともできた。

あの有名な筑波山名物のガマも見たし、日本百名山のひとつ筑波山の頂上にも立つことができた。

耕君、ありがとう。

Monday, December 04, 2006

 勝手に東京建築観光・第3回

 
魔術師は虚空を見つめる~電通本社ビル


汐留にあるこの高層ビルは、わが国を代表する巨大な広告代理店、電通の本社である。

電通はテレビ、雑誌、新聞、ラジオなどのマスメディアに食い込み、彼らの商材である媒体の販売代行を通じてその命運をひそかに握る。オリンピックやW杯、万博などのビッグイベントを自社に獲得するためには政財界との強大なコネクションが不可欠である。

また電通は、基幹産業の広告宣伝活動を代理され、主要ブランドのマーケティイグとマーチャンダイジング戦略、販促計画に大きな役割を果たしている。宣伝広告のみならず経営戦略までも代理店にげたを預ける企業すらある。

かつて私はある企業の広告宣伝部門で働いていたことがあるが、あるときその会社の歴代宣伝部長の息子や娘が電通の社員に採用されていることに気づいて今更ながらに驚いたことがあったが、これは驚くほうがうぶなので、電通は有力企業の実力者から人身御供をとることによって自らのビジネス基盤を確固たるものにしているのである。

しかし電通はあくまでもビジネスの表面に出ることを嫌う。徹底的に縁の下の力持ち、影武者としてフィクサーの役割を果たそうと涙ぐましい自己規定をしている。

したがって02年10月、ジャン・ヌーヴェル、ジョン・ジャーディによって設計された電通ビルのコンセプトは「空に消えゆくビル」、つまり普通の高層ビルにありがちなランドマーク性、記念碑性を拒否し、つまり「できるだけ目立たないこと」であった。

ジャン・ヌーヴェル自身は、「敷地内の樹木や空の雲、風景がガラスの反射と重なり合い超現実性をかもし出すこと。非永続性の変幻をもたらすこと」が狙いである、ともっともらしいことを語っているようだが、なにいくらビルだけ謙遜して黒子に甘んじようとしても、そうは問屋が許さない。

世間の耳目をひきつける魔術的な虚業こそが電通の実際の仕事。この大いなる矛盾を内包しながら、天下の電通ビルは今日も虚空をにらんでいるのである。

Sunday, December 03, 2006

福田の里は夕焼けだった。

福田の里は夕焼けだった。

今日から耕君が大和市の福田の里で1週間ショートステイするので、家人の運転する車で送っていった。

とても寂しい所であった。寂しい建物であった。

今日は日曜日なので、中は重度の人ばかりがうろうろしていた。

しかしこんな施設で働いている若者はえらい。尊敬します。

耕くんは背中を向けて真っ赤な西日を見ていたが、しばらくすると、「もう帰ってください」と言ったので、我々は後ろ髪を引かれるような思いで福田の里を立ち去った。

Saturday, December 02, 2006

音楽千夜一夜 第1回

よみがえる伝説のフォーク

昨夜のBS2でフォークを歌う奇妙なおじさんに出くわした。

杉田二郎という人が、じつにへんてこりんな、しかしじつに無理のない発声で自在な歌を自由に歌うのである。

北山修や加藤和彦、はしだのりひこは知っていたが、この人が70年大阪万博の年に大ヒットした「戦争を知らない子どもたち」を作曲者とは知らなかった。はしだのりひことシューベルツの名曲「風」も彼の作品だった。

1963年11月22日の金曜日の午後一時、私は左京区田中西大久保町の路地で立ちつくしていた。近所の家から聞こえてきたFEN放送が、「プレジデント・ケネディー・ワズ・アササンド! ジス・イズ・ザ・ファーイースト・ネットワーク」と叫んでいた。

そして翌年私は上京したが、さらにその翌年の1965年にザ・フォーク・クルセダーズが結成された。そして70年代初頭の京都はフォーク全盛の黄金時代を迎えた。

けれども私は、そんな京都とはまったく知らずに独りで東京に出てきてしまったので、善ちゃんの医大の同級生である偉大な北山修氏以外は知らないのである。フォークはおろかあらゆる音楽とは無縁の数年間がそのあとしばらく続いたのである。

さて、杉田二郎の歌唱はなかなかよかったが、ゲストの庄野 真代 とのデュエットもよかった。

この人は若くしてイスタンブールまで飛んでいった人だが、昔から旅行の好きな人で、私は彼女が前の旦那と世界一周旅行していたときにバハマで会ったことがある。

庄野 真代は当時に比べるともちろん年を取り、いろいろ苦労もしたのだろうが、それらがすべて歌のキャリアを形作っていた。飾りのない透き通った声で、二郎と調和の幻想を奏でた。

また若いトキハイのボーカルはとてもよい声で「戦争を知らない子どもたち」を歌い、続く二郎との協奏もよかった。

かつてはフォークなあんて、なんてばかにしていた私だが、数年前電撃的に友部正人の「1本道」が落雷し、それから耕君に吉田拓郎の魅力を教えられていらい、すっかりこのジャンルの素晴らしさに目覚めたのである。

そこには電気増幅で決定的に失われた人間の歌と楽器の原初の姿が、まだ霜日の朝顔のように人知れず輝いていた。

Friday, December 01, 2006

鎌倉霊園、そして夢。

鎌倉ちょっと不思議な物語15回

 

今朝はちちとおじさんが眠る霊園に、ははとつまの3人で出かけました。

ここはかの悪名高き西武資本が近所の鎌倉逗子ハイランドに続いていくつもの大きな山をぶっ壊してお墓にしたのです。
頂上には総帥堤康二郎氏の壮大な墓地があります。

むかし西武グループの管理職は毎日誰かがこの墓地の隣の宿舎に泊まりこんでいました。さらに毎年大晦日の夜には、すべての管理職が東京からバスに乗ってこの墓地に大集合し、元旦には遠く富士山を望みながら(写真)偉大な創始者に年頭の挨拶をしたそうです。まるで北のどこかの国の儀式のようですね。

私は鎌倉には30年くらい前に住み着いたのですが、当時お隣の家のご主人が国土の課長さんからそんな話をきいたものです。西武流通グループも崩壊し、義明氏も不祥事で退陣し、おごれるものは久しからず、ああ、昔の光いまいずこ、です。

たくさんのお墓の中にはたくさんの死者たちが眠っています。

中には帝国ホテルに住んで藤原歌劇団を設立したわれらのテナー、藤原義江などの有名人もなんねぐーしています。

その中にコークが3本も供えられている19歳で亡くなった人のお墓がありました。石碑には純と刻まれています。きっと彼はコークが大好きだったのでしょう。

また音楽院という戒名の25歳で亡くなった女性のお墓は、翔という文字が刻まれていました。いずれもご家族の気持ちが痛いほど伝わってくるようでした。

そのほか墓石には空、慈、憩などと書かれたいろいろな墓碑銘が並んでいます。
読めないアラビア語やRest here for next lifeという英語もあり、死者の不抜の信念に感銘を覚えました。

ははから、「倶会一処はなんと読むの?」と聞かれたので、「ともにいっしょにかいす、でしょう」と答えてから、帰宅して調べてみましたら、「くえいっしょ」と音読みするだそうです。「念仏者は等しく西方浄土に往生し、一つところに相会うこと。阿弥陀経に「諸上善人倶会一処」とあるところから出た仏語」と、大辞林に出ていました。でも「みんないっしょにねんねぐー」という解釈は間違ってはいませんね。

ちなみに平成9年に亡くなったうちのちちのは、「そして夢」です。家族みんなで相談してこれに決まったのでした。

Thursday, November 30, 2006

鎌倉の鯨が泳ぐ梶原屋敷

鎌倉ちょっと不思議な物語14回


この小さな谷戸に、鎌倉時代の有名な武将梶原景時が住んでいました。(この物語の「第1回太刀洗篇」で平広常を斬ったあの景時です)

しかし正治元年1199年、梶原景時が小山朝光を将軍の頼家に讒言したことに怒った60名の諸将が連署して景時を弾劾しました。

仕方なく景時は逃亡しましたが、結局駿河の国で吉幡小治郎に殺されてしまいました。

この梶原屋敷は同年の12月に破却され、その跡は長らくの間畑でしたが、いまは工務店の汚らしい道具置き場になっています。

屋敷の入り口の右側には梶原井戸が奇跡的に現存しています。

この井戸の底に近所の明王院の鐘が入っていたそうですが、後に引き上げられたと「十二所地誌新稿」には書いてあります。

 梶原屋敷も驚きですが、もっとびっくりするのはこの屋敷跡入り口に置いてある巨大な2頭の鯨です。きっと梶原景時の霊を慰めながら谷間を遊弋しているのでしょう。

Wednesday, November 29, 2006

公孫樹に寄す

いざともに青空称えん公孫樹

花も実も投げ捨てて後の栄華かな

ひゃくせんの黄金鳥の乱舞かな

つまとつま離れて生きて公孫樹

風立ちぬいざ生きめやも公孫樹

公孫樹黄金の手を振る別れかな

Tuesday, November 28, 2006

「不都合な真実」の試写を見た。

史上最悪の大統領ブッシュに敗れた「一瞬だけの大統領」、アル・ゴアのスライド講演をほぼそのまま映画化したのがこの作品である。

過去60億年にわたって2酸化炭素の排出と気温の上昇がシンクロしてきたこと、最近その度合いが急速にエスカレートしてきたこと、その結果南極の棚氷をはじめ世界中の氷河が猛烈な勢いで溶け出していること、これを放置しておくと南極やグリーンランド島の氷の消失によってマンハッタン島のツインタワー跡地が水没する危険があること、海水温度の上昇によって地球全体の気候が異常を来たし、集中豪雨や台風や日照りや飢饉が頻発し、これらに起因する生態系の混乱によって各種の疾病が大流行し、人類滅亡の危機が目前に迫っていることを厖大な科学調査やデータ解析の結果を踏まえてゴア自身が熱弁を振るう。

はじめのうちは再度大統領選に打って出るためのゴアの政治的プロパガンダ映画かと思っていたが、けっしてそうではなく、彼が月並みだが決死の覚悟でこの地球環境問題と格闘していることがだんだん理解されてくる。

ゴアはすでに60年代の後半からロジャー・レヴェル教授の環境問題への警告に耳を傾け、70年代後半に初の議会公聴会を手がけるようになっていたが、ゴアの息子が交通事故で死にかけたこと、タバコ栽培に従事していたゴア一家の最愛の姉が喫煙が原因でガンで亡くなったことが、この問題に全身全霊で立ち向かう大きなバネになったようだ。

それだけに世界最大の温暖化ガス排出国である自国アメリカが、依然として京都議定書に署名せずこの「不都合な事実」から目をそむけようとしている不誠実さを怒りを込めて弾劾するのである。

しかしゴアはたんにこの否定的な現実を政治的に糾弾して、「わがこと終われり」とするのではない。環境問題は小手先の政治問題ではなく、地球上に生きるすべての人間のモラルの問題だと断じるのである。

皆さん、このまま人類は滅びてもいいのですか? 
この素晴らしい地球をなんとか無事に子孫に手渡そうではありませんか。
子どもたちは「地球を壊さないで」と両親にいいましょう。
人はとかく否定から絶望に走ってしまうがそれはよくない。
「祈るときには必ず行動しよう」というアフリカのことわざに学びましょう。
われわれの一人ひとりが3つのRをはじめ省エネやエコドライブや植樹をすれば必ず危機は救われます。
アメリカの独立戦争にも、ブルジョワ打倒のフランス革命にも、第2次大戦の反ファシズムの戦いにも、私たちは勝利してきたではありませんか。
さあ、すべての地球人よ地球救済運動にいますぐ立ち上がりましょう。
この映画を見て地球の危機について知り、お友達にも勧めましょう!

と、矢継ぎ早に語りつつ、ゴア流現状分析→問題点指摘→超具体的行動方針提起、にいたる怒涛のような1時間半が終る。

正義の熱血漢、環境宣教師、男1匹ゴアが行く―
いまどき世にも珍しい正攻法の環境問題直接行動宣伝映画である。

まるで古き良き時代のアメリカが突然帰ってきたような懐かしさを覚えた私だが、こういう強速球もブッシュ政権のアメリカには必要であろう。

けれどもアメリカは、ゴアの言うように一日も早く中国、インド、豪州などとともに京都議定書を批准し、地球市民共同戦線の輪に入って欲しいものである。

きくところによるとわが国の環境省が、ことしの冬はオフィスの暖房を全部止めるそうだが、じつに見上げた環境運動ではないか。
色々な意味で内部腐敗・溶解・崩壊が近づいてきたわが帝国であるが、こと環境問題にかんしてはまだまだブッシュ帝国なんかには負けていないと思う。そしてこのゴア氏の熱い要請を真摯に受け止めて、私たちに可能な新たな取り組みを始めようではありませんか。

それにしても私の謎は残る。

あのブッシュなんかより人間的にも政治的にも百層倍も立派なゴアを、どうしてアメリカ国民は大統領に選ばなかったのだろうか? 

あ、日本もそうか、トホホ。

Monday, November 27, 2006

夢は第2の人生である。

*1997/3/25の2週間前の夢


若い米国の青年である私は海で漁をしていた。

えいっとばかりに銛を突き立てると、網の中から金粉で覆われた半魚のアフロディーテが血を流しながら姿を現した。


*2005/3/25の夢


俺は集英社か小学館の広告の人(たぶん梅沢さん )と銀座、新橋、御茶ノ水辺をうろついていた。
あるビルの中で柱によりかかる山本大介に会うが、その顔はのっぺらぼうだ。

そしてやっとパーティが終わって部屋に帰って寝た。

眠ったはずなのに猛烈なカラスの声に目が覚めかけた。

そっと確かめるとそこはどうやら郷里の裏の2階の部屋なのだ。気のせいかさっき
まで俺の側に座っていた女性は大島の紬を着ていた確かに母だった。

しかし天井、部屋、窓の外を見回しても母はいない。

気がつけば俺は鎌倉の自宅の2階で寝ていた。

左手には母ならぬ妻の櫛をしっかり握り締めながら。


*2006年2月某日

それほど大きくないイノシシにまたがって山を下ってくると突然急停止した。

よくみるとその先には道がなく、道の下には川が流れていた。

Sunday, November 26, 2006

勝手に東京建築観光・第2回

双頭のメデューサ
あるいはゴッダムシティのツインタワー



世界のタンゲが、1986年に日本に帰還し、あの新都庁舎コンペに劇的に勝利したとき、当時72歳の孤高の建築家には、すでに分かっていたのだ。

自分がゴッダムシティにつくった新都庁ビルが、その後史上最低の知事によって占拠され、醜悪な政治の伏魔殿と化すだろうことが。

そこでわれらがタンゲは、当初の計画どおり94年に新宿パークタワーという社交界の秘密交際と性の巣窟をつくったのだった。

すると案の定、全世界の有名タレントや芸能人などがワンサカ、ワンサカやって来た。

自分のヒルトンに泊まればただなのに、あのヒルトン姉妹までやって来た。

かくして、いわゆるセレブの隠れ家となったこの最高級ホテルは、右翼方向から流れ込む政治的なパワーに、左翼から性的に対抗することによって、憎悪と愛の定立と相互調和(アウフヘーヴェン)を図ろうとした。

といっても良い子の皆さんはなんのことだかわからないだろうから、

要するに「毒をもって毒を制する」ことにしたわけ。

この2つのビルジングは、それぞれが独立した建物ではない。両々あいまってはじめて建築的価値が生まれてくる内面的なツインタワー、なのである。

それゆえに、新宿駅南口から副都心方向に向かって、かつての武蔵野を国木田独歩のように歩むひとは、政と性との世界最高峰における同時多発的バトルを眺望することができるだろう。

そして、これこそが晩年の丹下健三が企んだ秘かなランドスケープ・デザインの「きも」だったのだ。

Friday, November 24, 2006

勝手に東京建築観光・第1回

沈黙の弔鐘




まず私が大好きな高層ビルから始めよう。

東京タワーの賞味期限が切れたいま、00年代の東京のランドマークといえばなんといってもこのNTTドコモ代々木ビルであろう。

このビルにはオフィスがなく、携帯電話の巨大な乾電池プールのような役割を果たしているらしいが、なんでも毎日40,50名の見学者が訪れ、しかも日本人より外国人が多いと聞く。

ドコモ代々木ビルは、2000年にNTTの不動産部門のNTTファシリティーズによって旧国鉄操車場跡に建てられた。

その端正なシルエットはほとんど醜悪な粗大ゴミと化した新宿副都心の超高層ビル群と鋭く一線を画して、あくまでも美しい。また頂上部のルックスは、ポストモダンンなクライスラービルといったところだろうか。

設計者は02年建築のドコモ川崎ビルと同じく林雄嗣で、そのコンセプトは「現代の仏壇」である。

つまりドコモ代々木ビルは、かの偏狭な靖国神社に代わって15年戦争のすべての死者に哀悼の意を表しつつ、近未来の廃墟トーキョーに向かって沈黙の弔鐘を打ち鳴らしているのである。

夜も昼も…

Thursday, November 23, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語12回

とても危険で観光どころではない鎌倉


家の近くに温泉?がある。
といっても熱海や箱根のような迫力はない。ドラム缶の中に地面から湧くお湯が溜まっていく天然の自噴井らしい。
もしかすると鎌倉唯一のミニ温泉かもしれない。(写真1)

あまり温度は高くないが鎌倉の天然記念物くらいの値打ちはあるだろう。この家の人はたぶん温泉のお湯で洗車しているのではないかなあ。

でも、こんなところでなぜお湯が出るのだろう? それには深い訳がある。

もとよりわが国は名高い地震国だからどこを掘っても1キロくらいの深さからお湯が出る。だから鎌倉に温泉があってもちっとも不思議ではないのだが、それだけではない。

おらっちが住んでいるこの十二所付近には地下にマグマの塊が潜み、13世紀中頃の鎌倉時代にマグニチュード8クラスの大地震が起こったのである。

当時日本の首都であった鎌倉には、1)頼朝が住んでいた鶴岡八幡宮付近の大倉幕府、2)頼朝が父義朝の墓地があった勝長寿院、3)実朝が蹴鞠を楽しんだ将軍別邸の永福寺、4)そして巨大な祭儀センターの大慈寺、と合計4つの重要施設があったが、この大地震のためにわが十二所の大慈寺を拠点とする壮大な七堂伽藍は一夜にして灰塵に帰した。(写真2)

長谷の大仏以前に造られた大慈寺の有名な大仏は、このとき首がぽっきりと折れてしまい、その首の残骸がいまの光触寺(一遍上人建立。頬焼き地蔵で有名)に安置されている。(写真3)

大慈寺跡には現在どういう風の吹き回しか大きなカトリック修道院が建っているが、この裏山の阿弥陀山が崩壊し、盆地の明石谷戸(いまうちのおばあちゃんが住んでいるところ)の地下全体が液状化状態になった、

そうである。(「吾妻鏡」&鎌倉市の発掘調査による)。

あれからおよそ750年。ついこないだの関東大震災をはさんで、鎌倉温泉の温度がじりじり上昇すれば、またまた鎌倉大地震が勃発する危険性はかなり高い。

いざ釜倉、地獄の季節よ、どーんと来い!

Wednesday, November 22, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第十一話

小さな橋の上で




数年前、近所に突然ウクレレの店ができた。

ウクレレといえば牧伸二か高木ブーだが、店長さんはそのいずれでもなく50代半ばの赤ら顔のおじさんだった。

Tシャツに短パン姿でパイプをくわえながらハワイアンを弾いたり、透明なビニールハウスの中でウクレレを木から作っていた。店ははじめはガラガラだったがそのうち東京ナンバーの車でかなりのお客がやってくるようになった。おじさんは彼らにウクレレの製作を教えていた。

3年前の7月中旬の午後7時過ぎのことだった。私がこのお店の左側を入った所にかかっている小さな橋の上で自転車を停めてきょろきょろしていると、そのおじさんが「何をしているんですか?」と声を掛けてきた。

私が「ヘイケボタルを探しているんです」と、答えると、「まさか私の家の裏でホタルが出るなんて!」とおじさんはびっくりしたようだった。そしてパイプを口からはずして、自分が鎌倉の海岸の傍で生まれ育ち、少年時代にはホタル狩りをしたこともあると語った。

私が「昨日の夜もこの橋から3匹見たんですよ。でも今夜はいないですね」と言うと、彼は「もう鎌倉にはホタルなんていなくなったと思ってました。これはいいことを聞きました。今日からしっかり観察しますよ」と、大喜びであった。

私は次の夜も、そのまた次の夜も、ウクレレ屋の後の小さな橋の上で自転車を停めて滑川の上流と下流を眺めたが、それっきりホタルは現れなかった。パイプのおじさんにも会わなかった。

それから1年が過ぎて、去年の7月上旬の午後7時過ぎのことだった。

私はいつものようにこの小さな橋の上に立っていた。

その日はいつもより多い6,7匹のヘイケホタルが、滑川の上にはらはらと舞う姿を私は陶然と眺めていた。

するといつのまにかウクレレ屋から一人の若い女性が出てきて、「ああ奇麗だこと」と言いながらホタルを眺めている。そこで私が思い切って、「今日はこちらのお店のご主人はいらっしゃらないのですか。あのパイプのおじさんは?」と聞いてみると、彼女は「今年の5月に突然亡くなってしまいました。あんまり急なことだったのみんなびっくりしてしまって」と、実に意外な訃報を私に伝えた。

彼女がおじさんの娘か親戚か店のスタッフなのかは分からなかったが、急死のショックは相当大きいようだった。私もあんなに元気そうだったおじさんが、と、信じられない思いだった。

私が、「おじさんにこの橋にホタルが現れることを教えたのは、私なんですよ」と言うと、彼女は、「去年の夏は毎晩ここから眺めていましたがとうとうホタルを見ることができなかったので、今年こそはと楽しみにしていたんですが…」と言い掛けて、どうやら涙を隠すためであろう、急いで店の裏の部屋へ姿を消した。

それから私は、また小さな橋の上から暗闇を自由自在に乱舞するヘイケボタルに見入った。

そしてそのホタルのうちの1匹が、あのパイプのおじさんのような気がして思わず合掌したことであった。

Tuesday, November 21, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一〇話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一〇話

鴨たちはこうしたもの

今日、散歩の途中で滑川をのぞいてみたら、鴨が二つがい浮かんでいた。
ということは、全部で4匹である。
彼らはカップルごとに移動するが、二つのカップル同士が接近して多少の混乱を招くときもあるようだ。
私はなんとなくモーツアルトの「コジ・ファン・トゥッテ」の世界を思った。

鴨のように仲睦まじく生きて死にたい

風雪に耐えゆく鴨の行方かな

Monday, November 20, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第九話

今日はトリの話です。

昨日ご紹介したヘビが出没する川の土手にはカワセミが巣を作っています。

猛烈な勢いで狭い流域を飛び回っては、また巣に戻る。

私はこのカワセミを、かの大作家ジュール・ベルヌとかの大映画作家エリック・ロメールに敬意を表して「緑の光線ちゃん」と呼んでいます。

それからこの川の中にはカモの夫婦やカメやハヤもすいすい泳いでいます。初夏には天然のへイケボタルも飛ぶのです。

トリに話を戻すと、太刀洗や熊野神社近辺ではコジュケイの家族連れに出会います。つい先日もぱったり出くわしてお互いにワアと驚いたことでした。

ここいらではすべての生物の天敵のタイワンリスが大繁殖しているというのに、よくぞ生きながらえていてくれるものです。

彼らはほとんど空を飛べずに山野を農協の団体旅行のように歩き回っているだけ。だからあの凶暴なタイワンリスに襲われればそれこそ聖徳太子の一族のように皆殺しされてしまうのです。

さて今日の午後5時過ぎ、新宿の学校から鎌倉に戻ったばかりの私は、東口駅前交番の隣に立っているクスノキの樹を撮影しておりました。

真っ暗な写真ですが、右端から飛び出していく白いものが見えませんか?

実はこれはスズメです。

そして見えない目をよーく凝らしてこの心霊写真をご覧下さい。そーするとあちこちにスズメたちが飛んだり跳ねたり鳴いたり喚いたりしている姿が見えてくるでしょう? 

なに見えない? まだまだ修業が足らないなあ。

ともかく何十羽のスズメたちがこのように集まって周囲の人々を驚かせております。

私が青池様より譲って頂いたデジカメ名機を彼らに向けていると、会社帰りのおじさんが近寄ってきて尋ねました。

おじさん「なんの鳥ですかなあ?」

私「今日はスズメです」

おじさん「じゃあ他の日にはスズメ以外のトリも止まるの」

私「はい。昔はスズメじゃないトリがやっぱりこうやって大集団でこの樹に群がっておりました。たぶんシジュウカラだと思います」

おじさん「そういえば小田急の藤沢駅前の樹でも、こうやって大騒ぎしているなあ」

このとき横合いからおばさんが登場。

おばさん「でもスズメはなにしてるのかしら?」

おじさん「街なかは人間がおおぜい居て安全だからこうやって集まってるんですよ。町の外はトンビやカラスが飛んでいて危険でしょ」

私「いやいや、彼らはああやって集まって文化服装学院FD専攻の生徒さんと同様に、熱心にお勉強しているんですよ」

おじさん&おばさん「???」

私「ほら、スズメの学校ってよくいうじゃないですか」

おじさん&おばさんは、なおもフラッシュをたきつづけている私を残して、さっさと改札口に消えていきました、とさ。

Sunday, November 19, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第八話

熊野神社付近に出没する謎の人物

 熊野神社は北条泰時が開鑿した朝比奈切通しの交通安全を祈願して紀州熊野から勧請されたという。

山腹に上下2つの社殿が築かれているが、最近下の本殿の左側に時々アマチュアの修験者が出没して無念無想の業に耽っている姿を見かける。

また本殿右側の突き当りには幻の名水を湛えた江戸時代からの井戸がある。

はるばる東京からやってきた名水マニアが汲んでいるようだが、30年前と比べてあまり清潔安全な水とはいえない。持ち帰るのは勝手だが、煮沸したほうが無難であろう。

さらにこの神社の麓付近には、サングラスをかけた青年考古学研究者?が地図を広げて待機しているので、ここらの歴史や遺跡や史跡について教えを乞うのも一興であろう。

この熊野神社は江戸時代に再興されたが、昭和初年から10年代にかけて地元の有力者によって門や狛犬などの寄進を受けた。

その多くが旧満州国の軍需産業で成功した人たちのようだが、日本帝国敗残のあと彼らは無事に母国に辿り着けたのだろうか? 

天国から地獄へ、一瞬の栄華から無限の奈落の底へ突き落とされた彼らの運命やいかに? 

戦争は断じていけないな、と、いつも思いながら、私は毎日のようにお気楽に散歩しているのである。

Saturday, November 18, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第七話

蛇、長すぎる。 
と、言ったのは博物誌を書いたルナールだが、最近あまり身近にこの「長モノ」を見る機会が減ったような気がする。

しかし実際にはそうでもないようで、つい2、3週間に私の妻が太刀洗で短いやつ、それから左の写真の細長い道で2メートルになんなんとする超特大のアオダイショウに遭遇したそうだ。
しかも2回も続けて出会ったそうだ。

そのとき自転車でこっちからあっちへ行こうとしていた彼女は、その超特大が右側のつつじの根本にゆっくりと移動するまで息を潜めてじっと立ち止まっていたという。

ああ惜しいことをした。そいつがしずしずとグロテスクな巨体を動かすところをぜひとも見たかった。

そう思って今日もこの道を行きつもどりつしたのだが、ついに超特大は姿を現さなかった。

もう冬眠の準備に入ったのかもしれない。

つつじの根本でねんねぐーしているのかもしれない。

この長い道の左側を流れるのは滑川だが、うちの健ちゃんは、昨日紹介したO家のマサ君たちと一緒に、少年時代によくこの川に入ってウナギ取りをしていた。

両手でウナギをつかんだと思ってよく見ると蛇だったのでびっくりして投げ捨てた、なんて楽しそうに語っていたっけ。

そういえば健ちゃんは蛇が好きだった。石切り場跡地にはヤマカガシの巣があったらしく、我が家の庭には春になると小さなヤマカガシがうじゃうじゃ出てくる。健ちゃんはそいつらを捕まえては、首に巻いたり地面で這わせたり、動くおもちゃ代わりにして何時間も遊んでいた。

そういえば我が家が新築されて間もないある日の朝、なにやら変な気配がするので私が寝たままの姿勢で頭の先に目をやると、40センチくらいの長さのアオダイショウがチラチラと舌なめずりしながら写真(中)の植木鉢のへんでうごめいていた。

思わず凍りついてしまった私は、「どうしよう、どうしよう」とうろたえてパニクったのだが、隣の部屋でねんねぐーしていた健ちゃんの名を呼んだ。

やって来た健ちゃんは、傍にあった座布団をぱっとアオダイショウの上にかぶせ、それから両手をゆっくり座布団の下に差し入れ、しばらくもぞもぞやっていたが、やがてアオダイショウの胴体をそおっと引き出し両腕に優しく抱え込んだので、私は彼のとても少年とは思えないきわめて冷静沈着なその一連の所作にいたく感動したものだった。

健ちゃんはしばらくアオダイショウと遊んでから家の前を流れる滑川に逃がしてやった。

するとアオダイショウのあおちゃんは、「ありがとう健ちゃん、さようなら。またあそぼ」
といいながら流れに消えたのだった。

私は健ちゃんと違って蛇は怖くて触れない。何回見てもおぞましいその不気味なぐねぐねを目にすると、総身にぶるぶるっつとくる。そのぶるぶるが、忘れていた生のなまなましさを思いださせてくれる。

そういえば、つい先日逗子開成高校の生徒が捕まえた蛇と遊んでいたら、何人かがそいつに咬まれてしまって保健室に行ったらはじめてマムシだと分かったそうだ。

マムシも蛇だが、これはアオダイショウが黒化した攻撃的なカラスヘビと並んでとても危険だ。

私は田舎の少年時代に昆虫採集をしていてマムシに追いかけられたことがあるが、とても恐ろしかった。

谷川でカニ取りをしていてカラスヘビに追いかけられたときも怖かった。

シューという不気味な声を上げて牙を剥きながらまるでキングコブラのように1回大きく跳躍し、また着地してからすぐに体勢を立て直してまたジャンプしながら襲い掛かってくる。思い出すだにまた怖い。

鎌倉のマムシも凶暴である。

右端の写真は朝比奈の滝であるが、この上流がその名も「蝮ケ谷」という谷戸だ。

だいぶ以前にあるカメラマンがこの谷戸にわけ入ったら案の定マムシに襲われて三脚に噛み付かれたので三脚を放り出したまま逃げだしたそうだ。

おおコワ。

Friday, November 17, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第六話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第六話

小早川家にも佐々木家にも秋が来た。O家の秋は、芸術の秋である。

長く続く塀に長い蛇のようなツタが絡み付いて独特の風情がある。

O家は江戸時代の名主の家で、この付近で切り出される鎌倉石の石切り場でもあった。

もっと遡ると中世鎌倉時代にはこの地点が鎌倉から六浦港、金澤文庫、金澤八景、そして江戸、房州に通じる基幹街道の関所であった。

 O家の向かいのちょっと高くなった土手の上に馬頭観音が鎮座しているが、この土手が関所の残骸である。現在の北鎌倉駅の大船駅寄りの土手にも同じような関所の残骸がある。あの一遍上人がもっとも鎌倉に接近したのはこの付近であった。

二つの関所を結んだ直線の真ん中が鶴岡八幡宮である。そして八幡宮からまっすぐ北上するとして半僧坊にどーんとつきあたるのだが、この半僧坊を頂点とした2等辺三角形を眺めてみると、明らかに2つの関所が当時の鎌倉幕府の都市計画に基づいて設置されたことが分かるだろう。

 O家から近い私の小さな家は、数百年の歴史と伝統に燦然と輝くO家が所有していた石切り場の跡に立っている。

そしてこの石切り場から切り出された鎌倉石は、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和30年代までの東京の民家の台所のかまど(へっつい)の素材になったわけである。

そしてそして、今は亡き愛犬ムクは、その由緒ある石切り場の跡に盛り土された小さなお庭でねんねぐーしています。

Wang!

Thursday, November 16, 2006

最近気になる日本語

最近気になる日本語

○敬愛なるベートーヴェン

今日の夕刊に「敬愛なるベートーヴェン」という映画の広告が出ていた。キャッチフレーズによれば、「第9誕生の裏に耳の聞こえないベトちゃんを支えた女性がいた」」という楽聖物語らしい。

まだ見ていないのでその内容はともかく、気になったのはその題名である。

「敬愛するベートーヴェン」とはいっても、「敬愛なるベートーヴェン」とはいわないはずだ。それをいうなら、「親愛なるベートーヴェン」だろう。

この映画の字幕翻訳はベテランの古田由紀子、字幕監修は音楽学者の平野昭、字幕アドバイザーなる者に、大汗かくけど下手くそ指揮者の佐渡裕という豪華絢爛たる(豪華絢爛なるとはいわない!)専門家がついていながら、肝心かなめの題名に奇怪な日本語をクレジットするとはどういうわけだ!? 

それともいよいよ私の頭が狂ってきたのだろうか?


○応援よろしくお願いします!

応援するのはこっちの自由だろ。

応援は、選手にリクエストされて、したりし、なかったりするものではないだろ。

おマエさんもいちおうスポーツのプロなんだろ。プロならプロらしく自分だけの言葉で語り給え。
 

○よろしくお願いします!

まだ言ってるのか。

それって挨拶なの? 挨拶なら「こんにちは」でいいでしょ。

いったい、何を、どう、よろしくして欲しいの? 

それをちゃんとした日本語で言ってみなよ。


○もう一度盛大な拍手をお願いします!

今度の修正日本国憲法の第9条に書いてあるでしょ。

拍手はいかなる場合にもこれを強要してはならない、って。


○元気をもらう 癒される

いま流行の?「元気をもらう」とか「癒される」という言葉を軽々しく多用する人は、じつはその言葉を挨拶代わりに使っていて、本当に元気になったり、癒されたりはしていないのだと私は思う。

他者と自分の関係をまるでロッテのバレンタイン監督が大好きなチュウーインガムのようにイージーに接着しようとしているだけだと思う。

そもそも元気はなるものであって、もらうものではない。元気は他人に与えるものであって、むやみやたらと「もらう」ものではない。

しかし行きずりのティッシュペーパーなどのようにたまたま「もらってしまう」こともあるだろう。

その場合は「元気をもらった」とはいわない。正しくは「元気づけられた」という。

もちろんあなたが本当に「元気をもらった」と思っても一向にかまわない。その恩人に対して心の中で深い感謝をささげるべきだ。しかしその奇妙な日本語をミキシィ日記に書いたり、まして人前で公然と発音してはならない。

この表現は「元気」という日本語の価値をおとしめ、自分を粗野な人間のように思わせてしまう下品なものの言い方であるということを知るべきだ。

「癒される」という言葉もそうだが、「元気をもらう」と言ったり書いたりした瞬間、あなたは恥ずかしくならないだろうか? もしそうなら、

あなたって意外と恥知らずな人なんですね。

Wednesday, November 15, 2006

拝啓 安倍内閣総理大臣殿

拝啓 安倍内閣総理大臣殿

教育基本法の国会審議等にてご多忙のところ、誠に恐縮でますが謹んで一筆啓上奉ります。
総理はご存知かどうか分かりませんが、最近世界で一番目か二番目に卑猥な古典音楽がわが神国ニッポンにて頻繁に上演され良識あるわが帝国のインテリゲンちゃんおよび婦女子の顰蹙を買っております。その音楽とは、かのリヒヤルト・シュトラウスのオペラ「薔薇の騎士」、とりわけその序曲冒頭の音楽であります。

物語の舞台はマリア・テレジア治下のウイーン。いきなり指揮棒が一旋すると、管楽器の不協和音が鳴らされ、と同時に、深紅のカーテンが左右にさっと開かれます。すると貴族の寝室のベッドに転がっているのは妖艶な元帥夫人と青年貴族オクタビアンではありませんか。

そしてこの二人があろうことか、いきなり公衆の面前で熱烈なラブシーン、いやいやそんな生易しいものではありませんぞ。な、なんとリアルな性交を繰り広げているのです。そしてリヒヤルト・シュトラウスの音楽は、その二人の性交を、まるで舌なめずりをするように、いやらしく、ねちねちと、正確無比に劇伴するんでありますよ。

(卑しくもわが日本帝国の権威をその愛嬌ある笑顔と意味不明の曖昧な言説で体現される総理に対して、こんな軽薄で露骨な言葉を安易に使っていいのか、不敬罪でニャロメの警官にすぐにもタイホされるのではないかと激しく惑うのですが)、高鳴るホルンの一撃は余りにも早すぎるペニスの勃起であり、次なる弦楽器の強奏は、成熟した年増女の「警告と教育的指導」であり、しばらく血沸き肉踊る猛烈な揉み合いが続いたあとで、全木管金管楽器が悲鳴を上げて咆哮するフォルテッシモは、若者のあまりにも性急で早すぎた射精であり、そこにすかさず分厚く覆いかぶさる弦楽器は、やむを得ず自分のエクスタシーを早めようとする元帥夫人の怒りを込めた焦りであり、やがてゆるやかに奏される序曲の終わりは、すなわちセックスの終わりとそれなりの性的満足の表明、なのですよ。

良い子の皆さん! いや安倍総理大臣閣下! こんな世にも猥褻でセックスむき出しの演芸を、馬鹿で低脳な他の国はともかく、神聖で高潔で比類なく美しいわが国の公衆の面前でオラ、オラ、オラと見せつけてよいのでしょうか?
 
今からでも遅くはありません。これ以上ジコチューで怠け者で惰弱で国民を大量生産しないためにも、天皇陛下のためにイランでもイラクでも南極でも月でも金星でもよろこんでじゃんじゃん死ねる汝忠良で愛国心に富んだ小国民を育成するためにも、とりあえず教育基本法の改正と防衛省昇格審議は後回しにして、大至急「薔薇の騎士」の公演禁止を今期の大政翼賛会にて即議決していただきたいのです。

以上、なにとぞ応援宜しくお願い致しますね。
アラアラかしこ。あまでうす拝。

*参考 R.シュトラウスの「バラの騎士」はカルロス・クラーバー指揮のウイーン国立歌劇場またはバイエルン歌劇場による演奏。同じくカラヤン指揮のウイーン国立歌劇場またはフィルハーモニア管演奏のできれば映像付の録音がおすすめです。

Tuesday, November 14, 2006

静子さんの思い出

静子さんの思い出



最初は確か小学生が死んだ。
次に、中学生が死んだ。
それから、高校生が死んだ。
校長先生も死んだ。
今度は、赤ちゃんが死んだ。
いや、殺された。

毎日毎日誰かが死んでいく。
毎日毎日誰かが殺されていく。

いったいぜんたいどうしてこんな国になったのか。
いったいぜんたいどこが美しい国なんだ。

誰だって死にたくなるときがある。
ボクだって小学生のときに死にたくなったことがある。

ほんとは死にたくなかったけれど、
きっと学校でなにかつらいことがあって、
ちょっとしたもののはずみで、「死んでやる」と言ってしまったら、
おばあちゃんの静子さんが、
「だめですよ、そんなあほなことをしたらだめですよ。神さんが絶対にお許しにならないですよ」
と、真剣な面持ちでつよくつよく言ってくれたので、
その一言のおかげでボクは死ぬことをやめることができたのだ。

死ぬことにははじまりとおわりとその真ん中があって、
そのはじまりの部分で誰かがきちっとストップをかけると
なかなか次に進めなくなることを、ボクは学んだ。

静子さんは、日本帝国が朝鮮半島を植民地にしていた時代に
現在の韓国のどこかで豊かな暮らしをしていた。らしい。
ご主人と死別した静子さんは、ボクの祖父の小太郎さんに
のぞまれて再婚し、それでボクのおばあちゃんになった。

静子さんは少しだが朝鮮語を話し、ボクたちに朝鮮語で
賛美歌を歌ってくれた。
ちょっと得意そうに歌った。
その歌を彼女の思い出のために、いまここでちょっとだけ歌ってみようか。

♪エスサーラッム、ハッシンム、ウールク ターリク、マーリルネ
ウーリードル ヤッカンナ、エスコンセ マートタ
エールサラ、ハッシン、エールサラ、ハッシンム
エールサラ、ハッシンム、エスコンセ、マートタ 

これはボクが知っている唯一の韓国語
これはボクが歌える唯一の韓国語の賛美歌461番「主われを愛す」
そして
これが静子さんの贈り物
そして
いまボクが死なないでこうやってまがりなりにも生きていること
それも静子さんの贈り物

ありがとう、静子さん
ありがとう、静子さん

そしてボクは願う。
いま猛烈に死にたくなった君たちに向かって
突然ボクの静子さんが現れ、
「だめですよ、そんなあほなことをしたらだめですよ。神さんが絶対にお許しにならないですよ」
と、つよくつよく言ってくれることを。

ボクの静子さんのような誰かが次々に現れて、
「だめですよ、そんなあほなことをしたらだめですよ。神さんが絶対にお許しにならないですよ」
と、つよくつよく言ってくれることを。

Monday, November 13, 2006

月曜日記

朝電車の中で冠雪した富士山が見え、「ああ今日はもうこれを見ただけでよし」と、満足した。
それでも引き返さずに新宿まで行って学食でまたしても650円の「海鮮丼」なるドンブリを頼んだら、なんとなんと魚のほかに私の大嫌いな納豆とやまいもをおろした奴が(おくらと一緒に)ご飯に乗っかっていた。

これって海のもんじゃなくて山のもんだろ。海鮮をやめて「海千山鮮丼」に改名しろ、と文句をいいたくなった。

おくらは食べたが結局全体の1/3は食べられなかった。もお二度と海鮮関係は発注しないからね。食い物のうらみは恐ろしいぞ!

 ぷんぷんと怒りながらキャンパスを歩いていたら、ぱったりと文化女子大の教授をしている松平さんと遭遇。前の会社で彼女はディレクター、私はチンドン屋でペアを組んで、フランスの「ミックッマック」というブランドを大売出ししていたことがある。この方はある日突然、かの会津藩の松平容保公の直系のご子孫と結婚されたのでみんな驚いたものである。

松平妃と別れてから、文化の博物館でメンズモード展を見た。

2階の入り口にフランス革命当時のスーツが置いてあった。私の偏愛するモーツアルトの肖像そっくりであった。

私はドラクロアの自由の女神に描かれているサン・キュロット=パンタロンの第3階級服はないかとキョロキョロ探したが、それはなかった。ルイ16世の時代の貴族のよそおい、そしてモードの主権がフランスから英国に移ってからのフロックコートや燕尾服やサビルローのスーツなどがずらずらっと並んでいて壮観だった。

そうかと思えば、1947年製のリーバイス社の501XXがジーンズではなく、オーバーオールやブラウスという名前で登場。見ればパンツにリベットが打ってない。その頃わが大日本帝国との戦争中で金属の使用は中止していた、と注釈がついていた。あの物資が豊かな米国でも衣料品は節約していたのですねえ。ちょっと意外だった。

それからインターネットの進化について例によって熱血大授業を行い、いっさんに鎌倉に帰った。大船の上空でサガンの小説のような「素晴らしい雲」を見た。(カメラを忘れたのが残念)

鎌万という安売り八百屋で「海鮮丼」の口直しに好物の柿を買って、太刀洗行きの京急バスに乗ろうとしたら、突然騒がしい鳥の鳴き声。

見上げると小さな楠の木にスズメの大群がむらがってぴーちくぴーちくと鳴き騒いでいる。これこそは鎌倉13大名物のひとつであろう。(またしてもカメラを忘れたのが残念じゃ)

百匹はくだらない数のスズメたち(それ以外の鳥のケースもある)がこの季節しばしば駅前広場一帯で示威行動するのはいったいどうしてであろうか? 

隣にいたおばさんが、「いったいなんておしゃべりしているんでしょうねえ?」と尋ねるので、私が「そおですねえ。なんていっているのでしょおねえ」と懸命に言葉を探している間に、なんと乗ろうとしていた太刀洗行きが発車してしまったではないか。

その次のバスはハイランド行きで行き先が違う。仕方がないので東急ストアをうろうろしてしてからバス停に戻ると金澤八景行きが来ていた。ヤレヤレと思って乗り込むと、どこかの団体で超満員。時ならぬ通勤ラッシュの痛苦に耐えながら立ちんぼうで、やっとこ、さっとこお家に辿り着きましたとさ。

ああ、東京に出るのは疲れるなあ。

Sunday, November 12, 2006

昔の歌

昔の歌

☆西本町の歌

西本町の路地裏の遊び場で、3人の少年が地べたに座っていた。

「でんばら、でんばら、でべそ」

と、小学3年生の長井まことが歌うようにしていった。

すると、同じ3年生の出原ひでおが、同じメロディで

「なーがい、なーがい、あ、そ、こ」

と、歌った。

それから2人は、意味深長な含み笑いをしながら

一年坊主のわたしを見た。

わたしは、「あ、そ、こ」がどこであるかを理解していたが、

黙っていた。

そのとき西本町の空はゆっくりとたそがれ、

地軸はどろろ、どろろと回っていた。


☆挽歌

武満1周忌のFMを聴きながら思う。

やはりこの人の音楽はあくまでも日本の上質の音の調べなのだなあ。

現代音楽なのに、古層には弥生人の叙情が深々と歌われている。

そしてそれがそのまま世界の隅々の人々を感動させるのであるなあ。

坂本龍一君も高橋鮎生もそこを目指しているのだろうが、まだまだだなあ。

君たちは少し頭が良さすぎるよ。もっと阿呆になりたまえ。

いま武満の最高傑作の「波の盆」が私の部屋に鳴り響いている。

これは今は亡きセゾングループの、70年代日本の、青春の、その他もろもろの古きよきものたちへの挽歌です。

諸君。涙せよ!

Saturday, November 11, 2006

嵐山光三郎著「昭和出版残侠伝」を読む

嵐山氏の本はほとんどすべて読むに値する。

本書は上司の「ババボス」が不当な仕打ちを受けて退社したために義によって名門平凡社を腹きり退社した嵐山バガボンをはじめとする「仁義礼編集屋兄弟」たちが日夜繰り広げた文字通りの「昭和出版残侠伝」である。

平凡社の「太陽」の編集長であったバガボンは、退社後なんと新宿のホームレスの群れに身を投じる。

一度やってみたかったというのであるが、すごいことをするものだ。

そのうち学研の協力によって「青人社」を立ち上げたババボスが、浮浪者バガボンを誘って共に「ドリブ」などの新雑誌を編集発行するに至る。

この間バガボンの僚友の篠原勝之や南伸坊、糸井重里、鈴木いづみ、赤塚不二夫、赤瀬川原平、松田哲夫、村松友視、椎名誠などの諸氏が出入りしてバガボンを応援するのであるが、それらのメンバーのうち、私にはかつて仕事を共にしたことのある安西水丸や篠山紀信、木滑良久、小黒一三などの名前が懐かしかった。

昭和56年、梁山泊のようなこの新興出版社に集まった編集部の面々は、いずれも一騎当千の侍ぞろいだが、私は筒井ガンコ堂こと筒井泰彦氏の名前に覚えがあった。

調べてみたら太古の時代に京都大学を受験した仲間と判明し驚いた。

彼も私も全国各地からやってきた受験生とともに、府庁前のたしか松原町の安宿に泊まった。夜店が出ており、古本を売っていたことを昨日のように覚えている。

我々はすぐに仲良くなり、受験の前日だというのに同室の5,6名とともに与太話をして夜を明かした。

筒井氏は佐賀県唐津市出身のインテリゲンちゃんで眼から鼻に抜ける秀才だったが、そのほかにもユニークな人たちが多かった。

はじめのうちは筒井氏が「武士道とは死ぬことと見つけたり」という「葉隠」の話をして一堂をけむに巻いていたのだが、次第に色めいた恋だの愛だの話になった途端、非常に朴訥な東北弁の男が、「女はやればええです」とランボウな実体験を披露し始めたので、さすがのガンコ堂も私もむっつり黙り込んでしまった。

こういう問題についてこういう角度から発言できる人物がいようとは夢にも思わなかったのである。文字通りのカルチャーショックであった。

翌朝私たちは睡眠不足でふらふらの私たちは、それでも必勝を期して京大キャンパスで試験を受け、それっきり二度と再び会うことはなかった。

もともと頭の弱い私は、数学が200点満点中15点しかとれずに落第したのだが、筒井氏は見事法学部に入学し、その後上京して平凡社に入社したらしい。

2代目ドリブ編集長をつとめたのち、氏は「帰りなんいざ、田園まさしく荒れなんとす」と陶淵明の詩を書き残して郷里に帰り、佐賀新聞の論説委員を務め、今では九州のがんこ堂として超有名人になっているという。

さて急いで本書の戻ろう。

もっとも感動的なくだりは、やはり最後のババボスの不慮の死であろう。

偉大なる先輩を惜しむバガボンの弔辞は涙を誘う。

それからもうひとつ。バガボンが名門大会社を辞めた途端に、それまでの親友のほとんどが去っていった、と述べた個所は身につまされるものがあった。

Friday, November 10, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第五話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第五話


☆少年時代に耕君が作った愛犬ムクの歌

♪ムクムクムク、ムクムクムク、ムクは犬だよ~。


☆今日私が作った亡き愛犬ムクの歌

道の上には、山がある。

山の上には、神社がある。

神社の上には、空がある。

空の上には、ムクがいる。

ムクの上には、神様がいる。

ムクは神様に吠えるだろう。

WANG! WANG! WANG!

Tuesday, November 07, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第二話

数日前に山道を歩いていたら、見慣れぬ赤土が眼に飛び込んできた。

おそらく誰かがここで半日がかりで深い穴を掘って、新鮮なヤマイモを手に入れたのだろう。

この辺はヤマイモが自生している。毎年この近所でヤマイモを掘っているので、あちこちにポコポコ穴が開いている。

数年前、たぶんその人と思われるおじいさんが、スポーツカブの後に、長いヤマイモと真っすぐな鉄の棒を乗せて家に帰っていくところを見たことがある。鉄棒の先は鑿のように尖らせてあった。

しかし私は、そのおじいさんを全然うらやましくはなかった。なぜなら、私の三大苦手のひとつがトロロだから。

Monday, November 06, 2006

理想の死に方

また日経からの引用で申し訳ないが、今日の夕刊の「プロムナード」欄に出ていた話。

著者の伊藤礼氏は、父親に似て、“朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをする”人であるようだ。

そして氏の父親である小説家・詩人の伊藤整氏ももちろん稀代の眠り男で、その日も
「ああ眠い…ああ眠い…」と、言いながら眠っていたそうだ。

そこで整氏の奥様が「いいのよ、眠いときにはゆっくりおやすみなさいよ」と言うと、それで安心して、すぐ息を引き取られたそうだ。

ああ、なんと素晴らしい死に方であることよ!

そしてこの短いエッセイは、次のような言葉で閉じられる。

「命日は11月15日で、この前後はいつも晴天がつづく」

私はこのくだりを読んで、晩年の中原中也が長男文也が生まれたあとで、「数週間にわたって日本全国晴天続く」と大書した日記のことを思った。

Sunday, November 05, 2006

私の名前の謎

今日の日経の文化欄に谷川健一氏が最近亡くなった偉大な独学者、白川静氏の追悼文を書いていた。

白川氏を吉田東吾、南方熊楠、折口信夫というアンチ・アカデミズムの偉大な「狂気の人」の系譜に位置づけ、その巨大な喪失を悼む見事な文章であった。

谷川氏によれば故人と折口信夫の考え方は酷似しているそうだ。

たとえば「歌」という文字は、白川氏によると、神への誓約の文書や祝詞を入れた器を木の枝で叩き、口を開いて神に哀願し強訴する形を示したものであり、折口にとって「うたう」というのは、「うたったう」と同根の語であって、神の同情に訴えるのが歌であり、この二人の碩学に共通するのは、事物の始原に「神」、それも荒々しい怪力乱心を置いたことであるという。

それから、私の名前は眞というのだが、白川氏によれば、この字は「匕」と「県」から構成されている。

匕は人が骨と化している形であり、県は眼が大きく開いた形で、つまり眞は、「行き倒れた死人の様子」であるという。

(うーん。このイメージは柿本人麻呂みたいでかっこいいぞ!)

そして、その死者の魂を鎮めることで死者は保護霊に転化し、永遠なるもの、真実なるもの、という今使われている「眞(真)」の意味になる、というのである。

!?

すると私は、誰かに頼むか、あるいは自分で自分の霊を鎮めないと、その名に値する人物になれないのでしょうか。 

突然、父母未生以前の巨大な謎が、深い淵からゆっくりと浮かび上がってきた。

ような、気がする秋の一日であった。

Saturday, November 04, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一話

今日から「鎌倉ちょっと不思議な物語」を不定期で連載いたします。
どこが不思議なのかは誰にも分からない、というかなりへんてこりんな内容になるはずなので期待しないでね。

私の家の近所に「太刀洗」という井戸があり、それが鎌倉時代以来この付近の地名になっています。鎌倉には10箇所の名水が出る井戸があったと伝えられていますが、現在ではどこも飲めません。太刀洗は10名井には入っていませんが、上の岩盤を伝って2口の水が流れ、それぞれ水質を異にしているそうです。これを飲もうと思えば飲めます。しかし、その安全性は保証しかねます。

どうしてこの流水を太刀洗というのでしょう。それはこの井戸のすぐ右上の丘の上に千葉出身の大豪族平広常の屋敷があり、その屋敷内で梶原景時が広常を斬り殺し、その血刀をこの井戸水で洗ったからだ、と「吾妻鏡」には書いてあります。

2人とも源頼朝の家来だったのですが、どうも広常は頼朝に信頼されていなかったようです。広常は平家打倒に立ち上がった頼朝の助っ人のなかでは最大武装集団だったのですが、なかなか鎌倉に到着せず、景時などをやきもきさせました。そして武家政権成立後も頼朝からみれば不穏な動きもあったので、恐らくは頼朝の意を体した景時が将棋か碁をうちながら広常の油断をみすましていきなり殺してしまったらしいのです。

ちょうど去年の今頃でした。その景時がおよそ800年前に血まみれの刀を抱えて大刀洗の井戸にやってきた、であろうその場所に、大きなスズメバチの巣ができました。すでに2回こいつに刺され、もう1回刺されたらあの世行きだと医者から警告されている私は、すぐに市役所に連絡して撤去していただきました。

Friday, November 03, 2006

ある晴れた日に

ある晴れた日に

「ああ、中央線の空を飛んであの子の胸に突き刺され!」
と、いまさっき友部正人が叫んでいたね。

ちょうど20年前の昨日も東京は晴れていた。

その日、渋い2枚目俳優のケイリー・グラントが82歳で死んだ。

ちょうどその日、同じ英国生まれの女優ジェーン・バーキンが来日していて、私は帝国ホテルに滞在していた彼女からそのニュースを聞いたのだった。

ジャパンタイムズを両手で握り締めた彼女は、猛烈な勢いで、フランス語ではなく英語で彼女とグラントとの思い出について語ってくれた、ようであったが、残念なことにどういうエピソードであったのか私の貧弱な語学力ではまるで理解できなかった。

彼女の名前はBirkinなのに、私が間違えてホテルのレシートにVirkinとサインしたのを見ると、彼女は何度も「ヴウワーキン」と発音しながら、ミックジャガーそっくりの顔をして、私を横目で見て首を振った。
ことを思い出した。