嵐山氏の本はほとんどすべて読むに値する。
本書は上司の「ババボス」が不当な仕打ちを受けて退社したために義によって名門平凡社を腹きり退社した嵐山バガボンをはじめとする「仁義礼編集屋兄弟」たちが日夜繰り広げた文字通りの「昭和出版残侠伝」である。
平凡社の「太陽」の編集長であったバガボンは、退社後なんと新宿のホームレスの群れに身を投じる。
一度やってみたかったというのであるが、すごいことをするものだ。
そのうち学研の協力によって「青人社」を立ち上げたババボスが、浮浪者バガボンを誘って共に「ドリブ」などの新雑誌を編集発行するに至る。
この間バガボンの僚友の篠原勝之や南伸坊、糸井重里、鈴木いづみ、赤塚不二夫、赤瀬川原平、松田哲夫、村松友視、椎名誠などの諸氏が出入りしてバガボンを応援するのであるが、それらのメンバーのうち、私にはかつて仕事を共にしたことのある安西水丸や篠山紀信、木滑良久、小黒一三などの名前が懐かしかった。
昭和56年、梁山泊のようなこの新興出版社に集まった編集部の面々は、いずれも一騎当千の侍ぞろいだが、私は筒井ガンコ堂こと筒井泰彦氏の名前に覚えがあった。
調べてみたら太古の時代に京都大学を受験した仲間と判明し驚いた。
彼も私も全国各地からやってきた受験生とともに、府庁前のたしか松原町の安宿に泊まった。夜店が出ており、古本を売っていたことを昨日のように覚えている。
我々はすぐに仲良くなり、受験の前日だというのに同室の5,6名とともに与太話をして夜を明かした。
筒井氏は佐賀県唐津市出身のインテリゲンちゃんで眼から鼻に抜ける秀才だったが、そのほかにもユニークな人たちが多かった。
はじめのうちは筒井氏が「武士道とは死ぬことと見つけたり」という「葉隠」の話をして一堂をけむに巻いていたのだが、次第に色めいた恋だの愛だの話になった途端、非常に朴訥な東北弁の男が、「女はやればええです」とランボウな実体験を披露し始めたので、さすがのガンコ堂も私もむっつり黙り込んでしまった。
こういう問題についてこういう角度から発言できる人物がいようとは夢にも思わなかったのである。文字通りのカルチャーショックであった。
翌朝私たちは睡眠不足でふらふらの私たちは、それでも必勝を期して京大キャンパスで試験を受け、それっきり二度と再び会うことはなかった。
もともと頭の弱い私は、数学が200点満点中15点しかとれずに落第したのだが、筒井氏は見事法学部に入学し、その後上京して平凡社に入社したらしい。
2代目ドリブ編集長をつとめたのち、氏は「帰りなんいざ、田園まさしく荒れなんとす」と陶淵明の詩を書き残して郷里に帰り、佐賀新聞の論説委員を務め、今では九州のがんこ堂として超有名人になっているという。
さて急いで本書の戻ろう。
もっとも感動的なくだりは、やはり最後のババボスの不慮の死であろう。
偉大なる先輩を惜しむバガボンの弔辞は涙を誘う。
それからもうひとつ。バガボンが名門大会社を辞めた途端に、それまでの親友のほとんどが去っていった、と述べた個所は身につまされるものがあった。
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