今日の日経の文化欄に谷川健一氏が最近亡くなった偉大な独学者、白川静氏の追悼文を書いていた。
白川氏を吉田東吾、南方熊楠、折口信夫というアンチ・アカデミズムの偉大な「狂気の人」の系譜に位置づけ、その巨大な喪失を悼む見事な文章であった。
谷川氏によれば故人と折口信夫の考え方は酷似しているそうだ。
たとえば「歌」という文字は、白川氏によると、神への誓約の文書や祝詞を入れた器を木の枝で叩き、口を開いて神に哀願し強訴する形を示したものであり、折口にとって「うたう」というのは、「うたったう」と同根の語であって、神の同情に訴えるのが歌であり、この二人の碩学に共通するのは、事物の始原に「神」、それも荒々しい怪力乱心を置いたことであるという。
それから、私の名前は眞というのだが、白川氏によれば、この字は「匕」と「県」から構成されている。
匕は人が骨と化している形であり、県は眼が大きく開いた形で、つまり眞は、「行き倒れた死人の様子」であるという。
(うーん。このイメージは柿本人麻呂みたいでかっこいいぞ!)
そして、その死者の魂を鎮めることで死者は保護霊に転化し、永遠なるもの、真実なるもの、という今使われている「眞(真)」の意味になる、というのである。
!?
すると私は、誰かに頼むか、あるいは自分で自分の霊を鎮めないと、その名に値する人物になれないのでしょうか。
突然、父母未生以前の巨大な謎が、深い淵からゆっくりと浮かび上がってきた。
ような、気がする秋の一日であった。
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