Thursday, April 03, 2008

能満寺を尋ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語109回&鎌倉廃寺巡礼その6


能満寺については「風土記稿」は「小名川の上にあり」と伝えるだけでいっこうにわからない。

「十二所地誌新稿」には、「川の上の裏山、学園の辺にあって「上の寺」と称した。今その付近に石塔などが多少ある」と書かれているが、「五大堂事蹟考」には「梶原谷に入り口に能満寺の寺号いまに田畑に残る」とあるのでおそらく梶原屋敷の入り口あたりではないだろうか。

早速梶原屋敷へ行ってみる。
ここは梶原ヵ谷にあった平三景時の屋敷跡である。(写真)

「石橋山の合戦」で一敗地にまみれた頼朝を洞窟の奥で救った景時は、当然頼朝に重用され、また平広常や義経を死に追いやった小賢しい御家人であるが、正治元年1199年に小山朝光を頼家に讒言したために諸将の怒りを買い、駿河の孤峰で吉幡小治郎に殺された。

幕府はその年の12月にこの邸宅を破却して二階堂永福寺の僧坊に寄付したのだが、その跡が畑となり、入り口の跡の抜け穴と梶原井戸が残っている。

その井戸には明王院の鐘が入っていたが後になって拾い出したといわれている。(写真)。なおこの谷戸の山腹には一門の墓らしい数基の五輪塔があるらしいのでいつか探検してみよう。

能満寺は、この梶原屋敷の手前のテニス倶楽部から少し入った以前ご紹介した「鯨屋敷」(写真)付近にそびえ立っていたと想像するのだが、さてどうだろう。

あの巨大な鯨にでも聞いてみるとするか。


♪景時の行方はいずこ鯨殿 亡羊

Wednesday, April 02, 2008

一心院跡の春

鎌倉ちょっと不思議な物語108回&鎌倉廃寺巡礼その5

 
ここはわが十二所の明石ヵ谷である。
すぐ近くにはいま値下げ問題で話題のガソロンスタンドがあり、右に曲がればハイランド、直進すれば鎌倉霊園という交差点を霊園方向に10m進んだ左側にこの古刹があった。 

鎌倉時代から江戸時代まで、石山を切り開き四坪ばかりの平地があり、鐘楼堂または鐘つき堂があったと言い伝えられた箇所であるが、いまではその痕跡はどこにもない。
そのかわりに私のははの家がある。もしかすると彼女の家が一心院跡かもしれない。

「鎌倉廃寺事典」によれば、元弘3年1333年9月4日、覚伊僧正が一心院明石本坊に住して沙汰したとある。文和2年1353年5月22日には明石谷法印修法始行とあり、明石ヵ谷より桜を壷に移している。ちなみにこの近所にはいまも桜並木がある。当時はソメイヨシノはなかったが、さぞ見事な桜だったのだろう。

さらに応永13年1406年7月18日の火事では、一心院の大工が上手に消火したと「鎌倉志」に記されている。一心院に住持は鎌倉御所の足利成氏の護寺僧になっていたというが、成氏の御所は近距離にあり、これもうなずける話である。


♪桜花一輪拾いて水に浸す 亡羊

Tuesday, April 01, 2008

網野善彦著作集第9巻「中世の生業と流通」を読む

照る日曇る日第108回

この本は、古代から中世、近世までの製塩、漁労、桑と養蚕、紙、鉄器などの「主要非農業生産物」の生産と流通にかんする歴史を概括している。

 注目すべきことは、古代から現代まで女性が糸、絹、綿、繭を商人に販売していたことである。彼女たちは養蚕にかんしては弥生時代から一貫してそれら繊維製品の生産部門を双肩に担い、さらにその生産物を自らの裁量で市庭で売却し、交易する商業活動に従事していたのである。

のみならず魚貝などの海産品、炭、薪などの山産品や精進物、野菜の商人も女性が中心であった。古来大多数の農産物、食品の売買も女性が担当し、たやすくは亭主や男性にその収入を手渡したとは考えられない。
またこのような歴史的経路が、「女工哀史」の悲劇はありつつも今日のアパレルデザインや生産・販売への女性優位の参画をもたらしているのだろう。


14世紀以降、女性が田畑などの土地財産についてはその権利を次第に失っていくのは事実であるが、貨幣、動産についての権利をたやすく喪失したわけではない、と著者は断じる。
ルイス・フロイスが日本史で書いたように、「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付けている」というのが桃山時代までの日本だったのである。

 このように、中世までの「日本商業史」をめざして書かれたこの前人未踏の試みは、その後継者もほとんどなく、冬枯れの草むらの中に消えた一本の小道のように再び辿る人を待っている。


♪ト短調で歌うなハ長調で歌え 

♪これ鶯 ホ長調で鳴いてみよ 

Monday, March 31, 2008

ジャパンちゃちゃちゃ

ふあっちょん幻論第18回 20世紀の10大トレンドその10「ジャパニーズデザイン」

20世紀のアパレル・デザインに対して日本人のデザイナーたちは大きく貢献するとともに
世界のファッションの中心軸を、アジアのほうへ拡散させた。

        60年代 森英恵 NY進出
        70年  高田賢三 パリデビュー 70年代はじめ 一生、カンサイ
             デコントラクテ/ジャポニズム
        74年  一生 「一枚の布」 <間> レイヤード、オーバーサイズ
        82年  川久保玲 山本耀司のパリコレデビュー。
             東洋アジア主義の服、無装飾 ぼろルックの衝撃
        85年  ジャパニーズパワー 全盛
        80年末 一生 プリーツ 
        97年  川久保玲「ボディ・ミーツ・ドレス」
        99年  一生A-POC 「世界服の創造」東洋西洋の域を超えて中心の拡散に挑戦
        00年代 数多くの新人デザイナーたち

「一生のプリーツは伝統建築工芸である」、と太鼓奏者の林英哲は語る。
石垣、石畳、石段、なまこ壁、瓦屋根、垂木、格子戸。布の襞が繰り返す反復の造型は古い町並みの静けさや詩情、流れる水や風を感じさせる。
 糸が織り成す反復造型で布地を織る作業には、ビートや時間が含まれる。それが畳まれてプリーツになり、身にまとって衣服になる。
「だが単なる衣服を越え、建築のように時間や空間や思想をも内在させた独立した造型になっている」「持ち運びのできる建築」「身に纏う思索」それが三宅一生の本質である。
 というのはいささか褒めすぎの感もあるが、一生以降革新的な日本人デザイナーが登場していないことも事実であろう。

 21世紀は、このような過去のビッグネームに依存したり期待せずに、「ジャパン・クール」などの切り口で日本の独自性を編集したり、東京ガールズコレクションのようなカジュアルセンスを海外に発信すること、あるいはまた創造性の枯渇にあえぐ「日本」自体をいっそ見切ってBRICs、韓国、ベトナムなどの新興勢力とともに新しいビジネスモデルを構築する方向性をめざすべきであろう。


*なお本シリーズは「深井晃子氏&京都服飾文化研究財団レポート」を参考にさせていただきました。


♪一夜にして百花落ち一朝にして百花咲けり 亡羊

Sunday, March 30, 2008

2008年亡羊弥生詩歌集

♪ある晴れた日に その24
 
ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で身くねらすなり ―夢の中にて

懇々とわれは少女を諭したり何故に鴨に石を投ずるは不可なるかと

なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり

出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生

わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母

わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶

犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花

雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

市当局の整備工事より守りたる泥沼に生まれしオタマジャクシよ

当局の暴挙を防ぎし小池なり春遅き地にオタマ生まれる

新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか

今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ

同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日

長大なアリアを見事歌いきりほっと息つく谷戸の鶯

いざ行かん鯨の家にまたがりてあの青空の彼方まで

悪党の背にはらはらと梅の花

弥生三月春の力をわれに与えよ

啓蟄の虫仰ぎ見る空の青

啓蟄の虫が見ている空の雲

ふきのとう揚げる人あり描く人あり

ふきのとう描く人あり喰らう人あり

アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ 

始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ

ここもまた大寺ありけり冬の谷戸

鳶一羽空に舞いたり廃寺跡

春風や幻の寺日輪月輪ここにあり

梅が香やいにしえの大寺ここにあり

春浅し一味神水の村を過ぐ
悪党共一味神水の村を過ぐ
椿落ち自由狼藉の世界かな
百花落ち自由狼藉春の朝
春浅し落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花流水朝比奈峠
悪党共落花流水の村を過ぐ

地に落ちて憾みはなきや冬柏
 
女房の茶碗を割りし悲しさよ
 
男は女に女は男になりたがり

人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃

もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう

昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る

この頃の男は貧相な顔になったと言ってから己の顔を見る

生きている人のことはすぐ忘れるが 死んだ人のことはしょっちゅう思い出す
 
この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ

にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕えしはうちの健ちゃん
 

Saturday, March 29, 2008

桜咲く今朝の女の薄化粧

ふあっちょん幻論第17回 20世紀の10大トレンドその9「化粧/ファッションドボディ」

「全身化粧」の時代
 20世紀は「服を脱ぐ」時代→身体自体への直接装飾加工
 その端緒は1916年 英ヴォーグ誌 21年 仏ヴォーグ誌に見られる。ここでは
 服をおいてけぼりにして 肌、ヒフそのものを「服」としている。
1964年ルディ・ガーンライヒ「モノキニ」 トップレス水着

ヒフ芸術の全面展開 
三宅一生1989年の入れ墨ボディタイツ、ゴルチエ1996年の入れ墨ドレス
 00年代アンダーカバー高橋盾のアンサンブル(ジャケット+セーター+スカート+パンツ+スカーフ+ベルト+バック+手袋+タイツ+ウィッグ)赤青白チェック 生身肌にもペイント

タトウ、ピアス、茶パツ……身体の境界を消し去るFashioned Body

耳に平気でピアスできる人と、親にもらった大切な体をピアスやタトウで傷つけたくない人とのモラル&美意識の葛藤を乗り越え、なんでもありの全身化粧の新世紀へ!

♪にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らえしうちの健ちゃん

Friday, March 28, 2008

ブラは春風に乗って

ふあっちょん幻論第16回 20世紀の10大トレンドその8「ブラジャー/下着革命」

18世紀末 テルミドールの反乱の後「ギリシャ風」がテーマとなり薄絹、モスリンの肌着が流行。
19世紀末トレンドとしての薄着、下着ファッシヨン。
20世紀初頭の1906年にポール・ポワレが女性をコルセットから解放。コルセットなしのハイウェストドレスが登場し、反拘束による肉体の軽装化、薄着化、露出化突出。
自由の20世紀へ!

第一次大戦後 人類は完全にコルセットを捨てた。視点がウエストから「肩」へと変わり、
時代とともに身体の合理性、機能性、日常性を強調、重視するようになった。
続いてブラ、スリップ、スリップ、テディが続々登場し、体の自然な美しさを強調するようになる。

*女性の美意識の変遷
初期 1922年ヴィクトール・マルグリットの小説。胸のふくらみを抑える「少年のような娘」=ギャルソンヌへのあこがれ→これが川久保玲のコムデギャルソンに影響。

中期 50年代 ディオール/ニュールック 豊かな胸を演出
60年代 ノーブラ byルディ・ガーンライヒ
65年にボライ・コンシャス登場。
後期 80年代 フィットネスとパワーウーマン 鍛え上げられた肉体美(リサ・ライオン)
JPゴルチエ、ヴィヴィアン・ウェストウッドなどが下着→表着へ

21世紀に入って「下着の外着化」が進行しすぎて「皮膚が下着化」→エロスゾーンの後退。

♪長大なアリアを見事歌い切りほっと息つく谷戸の鶯 亡羊

Thursday, March 27, 2008

平成東京革命音頭

♪バガテルop53

かねて私が高く評価するフランス文化を侮辱し、女性や老人やアジアの隣国を軽蔑し、唯一の取り柄といえばかつてその身内にナイスガイ俳優がいたことに過ぎない現東京都知事の石原慎太郎氏が、昨日の都議会委で新銀行東京への400億円追加出資を勝ち取られた。誠に慶賀に耐えない。

斬った張った誰でもいいから殺したかった、という世も末暗黒事件が連日相次ぐなかで、近来これほどの朗報があるだろうか。私はかつてあれほど軽蔑し、蛇蝎のごとく看做して弊履のごとく顧みなかったこの右顧左眄しょぼしょぼ目つきの三流文学者を、はじめて見直し、尊崇の眼で帝都の西北に仰ぎ見たのであった。

かくも長きにわたってこの満州王朝功労者の末裔であらせられるこの高貴なお方を保守反動、極右排外主義者の老旗手と想定し続けたことは、わが想定外の生涯の禍根、大いなる錯誤であった。

見よ、神もご照覧あれ! げにこの人こそは誤謬なきレーニン、毛沢東、チェ・ゲバラの衣鉢を継ぐ古今東西稀に見る真の社会主義者であった。ただし1周遅れ、否300周遅れの憾みはあるとしても…。

とにもかくにも、このせちがらい平成の御世にあって、いかなる困難、誹謗と中傷にもめげず、これからも倒産寸前の中小企業の経営者に対して、未審査、無担保、無制限でじやんじゃん貸付を青天井で続行してくれるというのだ。ウラア! これを前代未聞の貧民救済宮廷革命、格差社会粉砕の暴挙的快挙と呼ばずになんと言うのだ!

すでに投下された1000億円に加えた今回の400億円投入は、すべて石原氏を圧倒的に支持した教養と知性漲る都民士人各位からかすめとったほんのはした金であり、累計では都民一世当たり23000円の負担になるそうだが、ちいさい、ちいさい。こんな小銭の寄せ集めで、かの博愛の人、石原慎太郎の遠大な社会革命、人民正義の偉業、はたまた東京都民の見果てぬ夢が実現されるはずがない。

このうえは、もっと大胆に、より大胆に、さらに大胆に、前進あるのみ。
かの超富裕なる東京プレミアムスノッブウルトラスーパーブルジョワジーからもっともっとテッテ的に搾取して、中小プチブル企業経営者のみならず、小泉流グラバル新自由主義者の陰謀の犠牲者となってこのたび最底辺下層階級に転落した汝人民ルンペンプロレタリアート、西口人民広場に屯する社会的弱者たちや国の重税にあえぐわれら障碍者や老人にも救済の寛大なる網目を幾何級数的にどんどん広げてほしいものである。

万国の貧民労働者は平成革命的東京知事石原慎太郎の紅の翼の元に団結せよ!
我らが太陽帝国の首領石原慎太郎の天地に咆える社会革命を断固支持せよ!
新銀行東京を一点突破しイスラム銀行と連帯して全世界金融革命の狂った果実を手中に収めよ!

♪なんでもかんでもとにかく慎太郎ちゃん万歳!


人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃 亡羊

Wednesday, March 26, 2008

イヴ・サンローランの「シティパンツ」あるいは越境するジェンダー

ふあっちょん幻論第15回 20世紀の10大トレンドその7「シティパンツ」


1851年 米女性解放運動家、ブルーマー夫人のブルーマー登場、19世紀末のサイクリングウェアに。その頃サンローランはディオール店に入り、その後独立し反体制クリエーターとなる。
1966年 サンオーラン・リヴ・ゴーシュの「マリンルック」発表。官能的な夜のパンツ「スモーキング」発表
1967年 街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」(チュニック丈ジャケット&パンツ、ウールジャージー)「サファリスーツ」もデザイン。彼の“働く女のスーツ”を見たシャネルが、「私の後継者」と呼ぶ.
         
1968年 5月革命勃発、ウーマンリブ、ユニセックス、ストリート・ファッション
「シースルー」発表、あらゆる既成概念を打ち砕く。アルマーニ、カルバン・クラインが80年代に踏襲する。

 70年代は“若さ”がキーワード。70年発刊の雑誌ananと若者をターゲットにした既製服の時代。すでに「9号神話の時代」が始まっている。

80年代はティエリー・ミュグレー、ゴルチエ、アライアなどのボディコンの時代。男勝りのこびないパワースーツ。いわゆるひとつのキャリアウーマンの時代。

80年代後半は肩肘はらない自然でソフトなシルエット。身体を露出する「ミニマリズム」と呼ばれるセクシーな服も誕生。ナオミ・キャンベルのような黒人トップモデルへの関心。88年パリコレデビューのマルジェラが切り裂き服など大胆な提案。

90年代はグローバル&多様化の時代。スポーツ意識の服、ゴルチエの倒錯的ホモセクシャル服。新たなる混迷。

00年からは戦争と平和の時代。万人が万人に対して武装し、疲労困憊し、その反面ではつかの間の癒しとやらを求めて己が繭の中に入り込むコクーンニングの時代。

♪ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で踊るなり 亡羊

Tuesday, March 25, 2008

「世界服」としてのジーンズ

ふあっちょん幻論第14回 20世紀の10大トレンドその6「ジーンズ」

ジーンズは19世紀の半ば アメリカの田舎で金鉱採掘用作業服として誕生した。

1853年 ババリアからの移民リーバイ・ストラウスが、作業用パンツを丈夫な帆布用の綾織布で作った。当時イタリアのジェノバからアメリカへ輸出されていたインディゴで染めた安くて丈夫な帆布を使用した。仏語のLe Jean→英語のJeanとなる。
同じジーンズでも、厚地綾織り綿のフランスのニーム産もあった。この「ニームのサージ」Serge de Nimes )がデニムの語源となった。

黒船の到来がわが国の明治維新をうながしたが、ペルリ提督が切実に求めていたのは、ほかでもない米国の捕鯨船の寄港と石炭、薪の補給だった。当時の米国は1851年メルヴィル著「モビーディック」のエイハブ船長みたいな輩が世界中の鯨をとりまくっていた。しかも肉は捨てていた。もったいない!

リーバイ・ストラウス社第1号ジーンズは1873年製。同社製の1880~1885年世界最古のジーンズがネバダ州の元鉱山街で発見され、リーバイ・ストラウス社が560万円で落札。腰ポケットが右側だけ。ウオッチバンドもなく、ウエストバンドつきのバックヨークもついていない。01年11月、その復刻版がヴィンテージラインとしてたった500本だけ$400で世界主要都市で発売された。

「リーバイス501」は布の重なり部分にリベットを打つというジェイコブ・ディヴァイスのアイデアを生かし、これがヒットした。
1929年の世界恐慌後、豊かになったアメリカ東部人が西部の牧場で休暇をすごしたおみやげがジーンズだった。これが「都会の街着」になり、30年代の衣服のカジュアル化を後押しした。 
二つの大戦を通じて、アメリカのGIがジーンズを「世界服」にした。しかしそのイニシアチブをGIとプレスリーから奪って「反逆する青春」のイメージを作ったのはジェームス・ディーンだった。

1968年 仏5月革命.69年安田講堂.学生反乱氾濫、反戦フォーク、ヒッピー反体制運動の高揚はつねにジーンズとともにあった。「権力と戦わぬ者は、けっしてジーンズをはいてはならない」とは、当時のあまでうす氏の言葉。   
 
ケンゾー、マリテ&フランソワ・ジルボーらがジーンズをフアッションアイテム化した段階で、ジーンズは反体制のシンボルであることをやめた。

1969年から国産ジーンズの普及と大衆化、その後20年にわたる成熟と陳腐化。
00年から海外製高級ジーンズブーム始まる。

ジーンズこそ、ストリートフアッション、トランスジェンダー、コスモポリタン、カジュアルなど、20世紀のファッション・キーワードの要件をほぼ満たす代表的なアイテムであった。

♪新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか 亡羊

Monday, March 24, 2008

五味文彦・本郷和人編「吾妻鏡2」平氏滅亡を読んで

照る日曇る日第107回

「吾妻鏡」は源家の末裔を滅亡させた北条政権によって編集された史書であり、その記述を鵜呑みにはできないが、ゆっくり読んでいくといろいろな発見があり、さまざまな思いにとらわれる。

例えば頼朝は、思いのほか大胆な経略家にして緻密な計略家であった。

文治元年1185年12月6日には、右中弁藤原光長に充てた書簡で、彼は「今は天下の草創の時であり、もっとも事の淵源を深く究めるべきです」と高らかに宣明している。
同年3月壇ノ浦に平家一門を屠ったあと、彼は自分が天下の盟主であり、この国を自分の手で支配するのだ、という決意を固く胸に誓ったに違いない。

後白河法皇を「日本第一の大天狗」と悪罵し、院が弟の義経などに与えた官位の沙汰に異議をとなえて否認し、とりわけ、部下の大江広元の提言を受けて己の息のかかった御家人を全国の荘園に守護・地頭として配するという強権の発動に、彼の旺盛な権力への意志を垣間見ることができる。

当時、天下分け目の平家追討戦が行なわれており、前線で戦闘に従事する範頼や義経に対する頼朝の指示は、連日のようにきめこまかく発令されていた。

彼は、鎌倉の大倉幕府にあって、父義朝を追悼する南御堂(勝長寿院)を創建しつつ、その眼はひろく畿内、西国、四国、九州にまで見開かれていた。
本書を読めば、彼が膨大な情報の収集と緻密な分析にもとづいた雄大な戦略の策定と、それを実現するに際しての具体的な政策と戦術の展開とを、ふたつながらに企画推進する実力をそなえていた偉大な武将であり政治家であることがわかるだろう。そしておそらくその器量の大きさは、後年の徳川家康に比肩するのではあるまいか。
南御堂供養を終えた日の翌朝、義経誅伐のためにいきなり御家人を上洛させる決断力は、さすが武家の棟梁の名にふさわしい。

しかし残念ながら頼朝は、「こころの寛大さ」というものに少しく欠けるうらみがあった。平氏との決戦においても、もし己の手足となり、あるいはそれ以上の抜群の働きを示した範頼や義経なかりせば、源氏が平家に勝利できたとは到底考えられないにもかかわらず、一時はあれほど重用した血族を、自らの手で次々に抹殺してしまう。

頼朝の両の手は、マクベスのように生涯鮮血にまみれていた。

義仲の長男義高もその哀れな犠牲者のひとりであるが、彼と婚約していた長女大姫の愛と生きがいを奪い、廃人同様の悲惨な状況に追いやったのもほかならぬ頼朝であった。
しかも頼朝の命を受けて義高を暗殺した藤内光済を、妻政子からのたっての要請で死に追いやってもいる。もう、めちゃくちゃである。
親族はもちろんのこと、最強の盟友であった上総介広常をゆえなく誅殺したことも彼の精神の弱さと人間性の狭量を物語る。一条次郎忠頼も同断である。

このように、獅子の体内に宿る欠点もあるけれど、有能で多様な人材たちを、性急に「獅子身中の虫」として成敗したこの政治家のアキレス腱は、そのまま北条家にもっと醜悪で悲劇的なかたちで受け継がれ、皮肉なことには己の血族をも根絶やしにされてしまったのであった。

そんな頼朝にとって生涯でもっとも幸福であったのは、平家滅亡の日でも、勝長寿院落成式でもなく、元暦元年1184年5月19日、平頼盛、一条能保らを伴って由比ガ浜から船に乗り、森戸海岸沖で御家人たちと海上でタッカーのように競争し、その後上陸した森戸の有名な松の木の下で呵呵大笑しながら笠懸(射矢)を行なった日であったに違いない。


わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る 亡羊

Sunday, March 23, 2008

春風とミニ 20世紀の10大トレンドその5「ミニ/ボディコンシャス」

ふあっちょん幻論第13回

1950年代 サントロペのリゾートでカジュアルウエアブーム。戦後のベビーブーマー時代が主導する大量生産・大衆消費時代がはじまる。

1960年代 ロンドンのマリー・クワント、パリのアンドレ・クレージュが全世界にBODY CONCIOUSという意識を植えつけた。64年ミニ・パンツも。
          
1980年代 アズディン・アライア、クリスティアン・ラクロワ再浮上

その後00年代も、基本底流にミニが流れている。それはマーシャル・マクルーハンの「衣服はヒフの拡張である」という考え方の実践である。

その頂点は1994年製作のロバート・アルトマンの映画「プレタポルテ」における全裸モデルのパリコレシーンであった。

あらゆる「衣装という意匠」を突き抜けて、「裸自体が最高の衣装」であるとするアルトマンの衣装哲学が高らかに闡明されたのである。

タトウ、ピアス、整形手術、などによってこの「究極の衣装、至高の衣装」そのものをさらに先鋭的に構造変革し、人格のアバター化、複合化、重層化、無人格化、非人間化を図ろうとする私たちの潜在的な欲望が、今日もふぁっちょんの最先端を揺るがせている。

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶 
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花 
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

Saturday, March 22, 2008

母六回忌


天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな

我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う  

母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母 

Friday, March 21, 2008

春風スタディ 20世紀の10大トレンドその4「化学繊維/テクノロジー」

ふあっちょん幻論第12回

 1935年 ナイロン  
人類初の化学繊維 米デュポン社のW・カロザース発明。石炭、水、空気で作る合成繊維
「くもの糸より細く優美で鉄鋼より強い」→パラシュート用を民生に転用
 1940年 ストッキング大流行 
60年代 宇宙開発と宇宙服と化学繊維
1964年 アンドレ・クレージュ ミニスカート発表→パンスト
66年 金属板や鎖やプラスチック片という硬質の無機質素材を用いた甲冑風ドレスで一世風靡したパコ・ラバンヌが、プラスチックドレス発表 布と糸で作られる服という概念を破る 

身頃を円形にくり貫いた宇宙服風ドレスとヘルメットで「スペースエイジ」を表現したカルダン、ビニール素材と幾何学的なラインで宇宙時代のイメージを提案したアンドレ・クレージュ 宇宙、未来イメージ、不織布→懐かしく温かなレトロ・フーチャーが03春夏のルイ・ヴィトン、フセイン・チャラヤン、ドルチェ&ガッパーナ、プラダ、フェンディで再現された。

*ハイテク新素材開発史
ナイロン→ポリエステル→スパンテックス→フッソ繊維へと新展開。それ以降ハイテク日本繊維「新合繊」の時代
80年代 シンセレート素材、ポリエステル合せん中空糸→湿度を熱に変える
      三宅一生、ヘルムート・ラング 
90年代 ミニマル服→体温と光に色が変化する素材
2000年 渡辺淳弥 撥水性のマイクロファイバー
01春夏高橋盾スーパーフラット(9種マテリアル混合)などなど。

 21世紀に入ってからは米デュポンがトウモロコシ原料のポリマー3GTやプラスチック原料のバイオ糸を生産、2010年までに同社は商品の25%をバイオ化する。
わが国では東レ、東洋紡のバイオテクノロジーをはじめ最新IT技術を援用したハイテク素材の開発が急速に進み、水着、スポーツウエアのみならずスーツやカジュアルウエアなどの新製品にもシーズンごとに取り入れられてあたらしい需要を喚起している。          
 新規マテリアル技術こそ、わが国の未来派ファッションの原動力であろう。

ただしNASAの宇宙服や08年に米陸軍が配備した「近未来型戦闘服」のように手放しで賛美できないハイテク技術もある。
例えば後者ではヘルメットには現在地を司令部へ伝達するGPS、夜間の戦場を透視できる赤外線カメラ、敵味方識別の発信機、生物化学兵器の探知機、ガスマスクなどを装着。血圧、体温測定器付きでそのデータは司令部や部隊の衛生兵に送られ全体的にロボコップのデザインに似ている。ハイテク戦争ウエアもファションメーカーの重要なビジネスなのである。

♪なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり 亡羊

Thursday, March 20, 2008

ふあっちょん幻論第10回

春のにわか勉強 20世紀の10大トレンドその3

第3トレンド 
クリスチャン・ディオールの「ニュールック」/エレガンスの再構築

 19世紀頃からファッション界には身体快適機能性への大反動が起こった。せっかくそれまで人間の身体の機能性に優しく対応してきたナチュラリズム志向を、当時ファッション界の盟主であったディオールが自己否定したのである。

1947年2月11日、「心が軽やかなら、布地の重さなど苦痛にならない」という有名な格言とともに、パリのモンテーニュ街のアトリエで誕生したのは、細いウエスト、美しくシェイプした豊かな胸、たっぷりしたロングスカートのドレスであった。

これこそは19世紀の古典的エレガンスの20世紀における復活であった。当時の「ハーパース・バザー」の編集長キャメル・スノウ、ディオールのこの新作を「本当に新しいルック」と評したのでこの名前が一世を風靡したのである。

ディオールの功績 
   軍服ルックを駆逐   エビータ、マーガレット王女、ヘプバーンの衣装etc
    54年 Hライン 55年 Yラインを発表   
   「平和時代のぜいたく」の象徴    リヨンの高級絹
シャネル以降アメリカに移動したファッションのヨーロッパへの復権

  50年代はディオールに続きピエール・バルマン、バレンシアガなどがパリ・オートクチュールの黄金期を作った。しかしこれは一時的現象で、57年秋には紡錘型のフュゾーラインのルーズフィットのシュミーズドレスが発表され、着やすい服の時代が再来する。

このフォーマルとカジュアルの2極への重心の移動と動・反動こそは世界のファッション史の大きな機制のひとつである。我々は、一定の周期で移動する惑星の軌道を想像することもできよう。

60年代はTシャツ&ジーンズに象徴されるカジュアルなユニセックスが登場した。
マリー・クワント、ピエール・カルダン、アンドレ・クレージュ、サンローランなどのミニ旋風が巻き起こり、体を美しく露出する美意識・価値観が登場する。

米国では50年代半ばのビートニック世代が史上初めてストリートファッションを提示し、この流れが66年のヒッピー文化に継承される。
64年ガーンライヒのトップレス水着、パリコレでは66年サンローランのシティパンツが登場。エレガントで機能的なスタイルは67年に日本のイエイエで最後の花を咲かせた。

女房の茶碗を割りし悲しさよ 亡羊

Wednesday, March 19, 2008

歌人たちの鎌倉

鎌倉ちょっと不思議な物語107回

春、いまにも降り出しそうな曇天の午後、愛する妻と共に鎌倉文学館へ行きて「歌人たちの鎌倉」展を見る。

万葉の時代から、明治、大正、昭和、平成に至る鎌倉ゆかりの歌人たちとその短歌を特集した例によって小ぶりの好ましい展示である。

実朝、鉄幹&晶子夫妻、子規、信綱、白秋、吉井勇、木下利玄、かの子、太田水穂&四賀光子夫妻、川田順、吉野秀雄、秀雄の弟子の山崎方代といった豪華なラインアップであるが、私は奈良時代に成立した「万葉集」に当地の歌があるとはじめて知った。

 家に帰って早速巻十四の「東歌」をひも解いてみると、次の三首が見つかった。

鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ
まかなしみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか
薪刈る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋いつつやあらむ

どれも素直な歌であり、歌はさかしらに頭で詠むな、からだからおのずと湧いて出て、天涯にうったえるものが歌だ、という私だけの歌論のお手本のようなひなびた歌であるが、とりわけまんなかの美奈瀬川(現在の稲瀬川)を夜渡りして女のもとに夜這いする歌が、格別私の気に入った。

さて当日は、歌人の今野寿美氏による「与謝野晶子」の鎌倉詠についての講演会も行なわれていた。氏によれば、

鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

という彼女の有名な大仏の歌は、当初は「御仏なれど釈迦牟尼は」の箇所が「銅(かね)にはあれど御仏は」だったそうだ。意味内容において改訂版の方が圧倒的に優れているが、高徳院の本尊がほんとうは阿弥陀如来なのに釈迦如来菩薩と詠んでしまったことで、この歌を彼女が実際に現場で詠んだ歌ではないがことがはしなくも暴露されてしまった。

しかしそのことがこの詩歌の価値をいささかも貶めるものではないことは自明のことわりである。なんといっても「美男」というキーワードを、晶子以外の誰が持ち出せたであらうか。最後の「夏木立」の環境設定も、まっことあざやかな切れ味であるよなあ。

鉄幹と晶子はいまの季節の鎌倉を紅く染めている椿が大好きだったらしい。私もこの花がとても眼と心に沁みて格別の感興を覚える今日この頃である。

地に落ちて憾みはなきや冬柏 亡羊

与謝野夫妻は有島生馬や内山英保氏の別荘をよく訪ねたそうだが、後者を気に入り「冬柏山房」となづけた。冬柏とは椿の別名で、夫鉄幹の法名も「冬柏院」であった。

晶子は生涯2万2千を下らない数多くの短歌をつくり、鎌倉詠もかなりの数にのぼっているが、やはり死せる鉄幹を悼む歌が心に響く。

鎌倉の除夜の鐘をば生きて聞き死にて君聞く五月雨の鐘
やうやくにこの世かかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる
遥けきはな思いそと霞引く春の心に任せおかまし

この最後の句は、私が去年の夏に詠んだ

死者のこともう忘れよとダリア咲く

という駄句に、どこか遠くで響きあうものがあると思うのは、我田引水が過ぎるというものだろうか。


♪生きている人のことはすぐ忘れるが
死んだ人のことはしょっちゅう思い出す 亡羊

Tuesday, March 18, 2008

網野善彦著作集第1巻「中世荘園の様相」を読む

照る日曇る日第106回

岩波から刊行されているこのシリーズであるが、早くもこれで通算7冊目となった。

いまNHKで放送されている朝ドラ「ちりとてちん」は小浜市が舞台だが、その小浜の小さな部落にスポットライトを当て、東寺領若狭国太良荘(たらのしょう)の平安、鎌倉時代から室町、戦国時代までの歴史を、さながら大河小説か一大絵巻のように、あるいは長編ドキュメンタリーのように、とうとうと語りつくし、論じつくした政治・経済・社会史が本書である。

長年の東寺文書の精読と研究から編まれた著者の大学卒業論文でもある本書には、同地の主人公である(べき)本百姓、小百姓を中心に、荘園の預所、地頭、東寺の供僧、守護などが、入れ替わり立ち代り相次いで登場し、時の権力基盤の移動に敏感に対応して、これでもか、これでもかとばかりに激烈な権力・権益・生存競争を繰り広げる。
 
鎌倉幕府は得宗の時代になるとそれまでの御家人時代の自制を失い、旺盛で無秩序な欲望が、かつて貞永式目の理知的な規範と統御と自主規制を全面的に解除して、前代未聞の、あるいはまた平成の御世と同様の「私利私欲の時代」に突入する。

すべての同時代人が時の権力にへつらい、隙あらば己がその権力を簒奪しようとてぐすねを引いている。そんなある意味で刺激と興奮に満ち満ちた時代である。下克上、酒池肉林の端緒はここにある。

当時公家、寺家、社家、御家人、地頭たちの百姓に対する収奪は過酷であった。
しかし百姓は黙ってされるがままになってはいない。窮地に追い詰められた際には、彼らは反撃に出る。共通の敵に対して一致団結するかと思えば、その翌日には、隣の朋友に対して刈田狼藉、家内追捕、略奪放火をほしいままにするなどは日常茶飯事であった。

もはや誰も信用できない。家族や親族さえも敵であり、敵とみればすかさず昨日の味方に襲い掛かる。
では、「眼には眼、歯には歯」が時代のスローガンであり、「万人が万人の敵」であり、「万人が悪党」であった疾風怒涛の時代に、なぜ百姓たちは彼らの階級的利害にめざめて一致団結し、皇室や武家や権門や宗教勢力をしのぐ政治的共同性を獲得できなかったのか? と著者は自問し、それは彼らが「所職」の法則と原理の壁に己を閉じ込め、その境界を突破できなかった、と自答する。

広辞苑によれば、「所職」とは任ぜられた職務、帯びている職務のことであるが、結局彼らの律儀で生真面目なモラルと自己戒律が、その後数百年にわたってそのまま生真面目に生きながらえ、もしかすると現在もなお彼ら(私たち)自身を貫いているかもしれないのである。

しかし若き日の著者が願ったように、もしも彼らの革命が見事に大願成就していたとするならば、それはそれで早すぎる階級専制国家の血みどろの地獄絵図が展開されていただろう。

おお、今も昔もなんと因業な世の中であることよ!

出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生 亡羊

Monday, March 17, 2008

春の復習 20世紀の10大トレンドその2

ふあっちょん幻論第10回

第2トレンド マドレーヌ・ヴィオネのバイアス・カット=服の再構成とその日本における後継者

     1917-39年まで活躍したマドレーヌ・ヴィオネは、立体裁断(ドレーピング)によるバイアス・カットやサーキュラーカットなどの革新的なアイデアを連発した。
 「カットは身体とのフイット性や運動性と結びつかねばならぬ」という彼女の考えは、クリストバル・バレンシアガ、三宅一生にも共通する姿勢である。
 彼女はモスリンを使い60cm大の木製マネキン人形上でドレーピングし、シームの位置も自由にきめ、あとでそのパターンを実物大に拡大したのである。(紙上の平面パターンを否定)
ヴィオネの功績
   1929年代前半 チューブドレス~アナトミカル(解剖学的)カットの発明
   30年代 サーキュラーカット→これは50年代のクリストバル・バレンシアガによって継承され、バレンシアガは、驚異の裁断と最高級技術で「オートクチュールの巨匠」と呼ばれた。
   またヴィオネによるチュニックドレス、オフ・ネック、サックドレスは、のちの既製服の基本となった。

  ヴィオネの後継者としての三宅一生
70年代の「一枚の布」、80年代からの「プリーツ」、99年にはコンピューターで着る人の好みでデザインを変えられる「A-POC」を発表。
A-POCとはa peace of clothの略で、蚕が繭を紡ぐように糸から繊維がチューブ状に織り出されていく。98年春夏のジャスト・ビフォーという筒状のニットが出発点。藤原大氏コンピューター製作のジャージー編機から出てきた、ひとつながりのニットをカットするだけで、縫製もせずに着る事ができる。

高校時代にイサムノグチ設計の平和大橋に感銘を受けてデザイナーを志した彼は、つねに身体と服の原点を見つめてきた。過去の類型にない独自の新しいフオルムと素材が有機的に融合している。一枚の布に無数のフォルムが内臓されているのである。
     2000年4月都現代美術館展におけるISSEY・MIYAKE MAKING THINGSはその集大成であった。そこでは以下の作品が提示された。

「バケット」~どこでカットしてもほつれるニット
     「モビール」~人間の格好をしたクッション.どこでも寝られ生分解性でリサイクル。
     「A-POCクイーン」~CP制御でチューブ状ニットが編み出される。ロール1人分で帽子、ドレス、手袋、靴下、財布、大小バック、ブラトップ、ショーツ、ベルトなど一式が内蔵されている。半そで、長そで、ロング、ショートの選択可能

    A-POCの今後の応用としては、衣服以外、医療用品、建築などが考えられる。
   A-POCからA-POS  a peace of strings  糸や繊維をもっと自由にあやつる
   A-POM      オリジナル機械に向かって好みの色やデザインを入力するとポンと衣服が出る
A-POE      社会的教育  

 三宅一生の本質は、ポエジーである。彼はハイテクノロジーを制御できるイマジネーション+ポエジーが21世紀のデザインをつくると考え、六本木ミッドタウンに21_21 DESIGN SIGHTを設立した。
      
♪春浅し落花狼藉朝比奈峠 亡羊

Sunday, March 16, 2008

春の復習 20世紀の10大トレンドその1

ふあっちょん幻論第9回

18世紀の産業革命以降の機械文明は豊かな中産階級を生みだす社会変革をもたらした。
20世紀はじめの時代は「ベルエポック」だが、1910年にコルセットを追放したポール・ポワレの登場でゆったりしたシルエットが女性の体を解放してゆく。

第1次大戦が起こると戦場に行った男性に代わって女性がはたらくことになる。そこに登場するのがギリシア風チユニックで踊るイサドラ・ダンカンとシャネルであった。


第1トレンド 「シャネル・スタイル」byガブリエル・シャネル(1883-1971)

 彼女は第一次大戦前は帽子デザイナーであったが、1913年ドーヴィルにブティックをオープン、ここにココ・シャネル誕生。戦場に行った男の代わりにワーキングウーマンが大量に登場したため、その仕事着を作ろうと考えたシャネルは頭がいい。
1916年、そのワーキングウエアを下着素材の黒のジャージィ素材で作ったところがまたとてもクレバーだ。

仕事着は当然装飾性を省き、活動的でないといけない。そこで歴史上はじめてパンツをはく女性が登場する。彼女のスカートやヒザ丈のカーディガンスーツは、80年代のヨージ・ヤマモト、川久保玲、90年代のマルジェラなどのギャルソンヌルックに大きな影響を与えた。
  シャネルは、ヘアをボーイッシュに切る、日焼けした肌、ボアルックなどのさきがけをなした人であり、階級や富を拠り所にしないファッションを創造したひとでもあった。

 シャネルの功績
○ 最初から大衆服をめざし世界で初めて米国でライセンスビジネスをやった→コピー複製時代を予言・先取り
○ 戦後ニュールックの復古調のあと再び機能的なシャネルスーツを発表、日本でも流行、60年代と80年代オートクチュールからプレタ全盛を予言しその通りになった。
前世紀に無視されていた身体的な機能性を重視、予言、先取りし、製品化した。
○ このようにつねに大衆時代のニーズを先取りしていたために、現在デザインを担当するカール・ラガーフェルドもシャネル・スタイルの伝統を自在に加工できた。
シャネル以降
彼女のギャルソンヌ(米ではジャズエイジのフラッパースタイル)ルック以降、30年代に入るとスカート丈が長くなり、ハリウッド映画の影響でグレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒなどのグラマラスな着こなしが登場。そこで第2次大戦が勃発し、ファッションの暗黒時代に突入するのであった。ジャンジャーン。


♪斎藤茂吉と永井ふさ子合作の愛の歌
光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく

Saturday, March 15, 2008

帰ってきたカエルたち

♪バガテルop52&鎌倉ちょっと不思議な物語106回

1ヶ月以上にわたって続いていた朝比奈峠の工事がいちおう終わってふたたび自由に往来できるようになった。

危険な倒木を未然に防いだり、歩行者が歩きやすくするということで一部の箇所に橋を掛けたり、補強したりしたそうだ。
700年前の古道の表面は舗装したかのようにつるつるになり、峠道の前後左右に群がり生えていた植物はきれいさっぱり刈り取られてしまったために以前の鬱蒼とした中世の風情は失われてしまったが、まあこれもやむをえないか。

 私はかねてより心に掛けていた峠道の途中の湿地に天然自然に誕生するオタマジャクシのことが気が気でなかったので、市の工事担当者にかねてから当該区画の環境保全の依頼をしていたが、幸い無傷のままで工事が終わった。

しかし例年ならば2月に行なわれるはずのカエルの産卵がいっこうに見られず、工事のせいで土中に隠れていた親ガエルが全滅したのではないかとやきもきしていたのだが、3日前に産み付けられた卵を発見し、ようやく胸をなでおろしているところだ。

 このあたりには昔は少なくとも3種類のカエルが繁殖し、特に啓蟄の頃数多くの大きなヒキガエルの雌雄が泥沼のいたるところで交尾する姿をよく見かけて興奮したものだが、去年あたりからそういう感動的な光景は跡を絶った。

その代わりに昨日浮かんでいたのは小さな2匹のアカガエルであった。おそらく彼ら夫婦が、私が冬の間に落ち葉を掻き分けてせっせと掘った3つの水溜りの2つに産卵してくれたのであろう。できたらもう一箇所にも意気のいい生卵を生んでくれ!と私は声援を送ったが、彼らは知らん顔をしてそっぽを向いていた。

産卵は2月から3月まで何度かにわたって行なわれ、それが4月にオタマジャクシにかえり、初夏の頃にようやく小さなカエルになるのだが、それまでに水溜りが枯渇したり、無法者がオートバイで乗り入れてきてひき殺したり、いたずら者が自宅に持ちかえったりしてほとんど消滅するので、私は全体の卵のおよそ2割を自宅とおばあちゃんチの水がめで養殖し、大きくなってから再びこの池に放して“ういきゃつら”の生育を側面援助している。

年々少なくなるカエルの聖地を断固死守することはたやすくはないが、それは私のささやかな生きがいでもある。ゲロゲロ。


♪痩せガエル逃げるなも一度愛し合え 産めよ増やせよ日本のたから 亡羊

Friday, March 14, 2008

この家を見よ! 「FUJIMORI藤森照信建築」を読む

照る日曇る日第105回&勝手に建築観光29回

藤森照信はいま私が最も興味を懐き、共感をもってみつめている建築家の一人である。

20世紀建築の4人の巨匠はグロピウス、ル・コルビュジエ、ライト、ミースであるが、藤森が原廣司と共に高く評価するのはミースである。線と面だけで作られた抽象的で均質な表現こそが20世紀建築の最大の特徴であり、それをもっともよく体現しているのがミースであるというのだ。
ミースの表現の元になっているのはデ・ステイル派であり、その源泉をたどるとデカルトにいたる。デカルトこそが近代哲学のみならず近代建築の祖であった。

いっぽうでは20世紀は科学技術の時代であり、科学技術を支えるのは数学的世界観であり、建築に添って解釈するならば、面と線による抽象的、幾何学的造形こそそれに該当するはずだが、この点をもっと突き詰めた建築家はミースよりもグロピウスであったと藤森はいう。

グロピウスが20世紀建築の座礁軸のゼロ点であると考えると、ル・コルビュジエはヨーロッパ建築文化の主流を成す海と光と大理石の地中海方面へ、アールトは白夜と針葉樹の北欧へ、ガウディはペレネー山脈の彼方のイスラム色の残るスペインへ、ライトは西部開拓のアメリカへ、それぞれの方向に引かれた線上に位置する。この伝でいけば、わが国の巨匠丹下健三は木に由来する柱梁構造の日本へ引いた線の先端に位置づけられるというわけである。

結局グロピウスの建築は20世紀世界にとっての数学や科学技術のようなインターナショナルな意味を持った。彼以外はル・コルビュジエもガウディもライトも無色透明なインターナショナルになにがしかの文化的・地域的要素を加えて成立していると藤森は説くのであるが、では丹下の弟子である藤森自身の建築はいかなるものであるかをこれから眺めてみよう。

そもそもこの人は鈴木博之と同様、一介の建築史家であってほんらいは現場の人ではなかったのだが、ある日突然依頼を受け、1991年2月、生まれ故郷の茅野市に神長官守矢史料館という建物を建てた。
吉阪隆正の影響を受けた藤森は、「孫悟空の飛んでいるような大地に立つひとくれの土の塊」の如き、「あらゆる建築の始原であり、どこの国のどの土地の風土も文化も感じさせない超無国籍の民家」と評されるきわめて個性的な建物を作ってしまったのである。私が見るところ、これに匹敵する建築物は伊勢市御塩殿の天地根元造しかないだろう。

本来ならばそのすぐそばに実家がある伊東豊雄がやるべき仕事であったが、やむを得ぬ事情でピンチヒッターに立ったところ、これがトンでもない初打席場外ホーマーとなり、ここから藤森の破竹の快進撃が始まった。

2作目に作った自宅が、かの有名な「タンポポハウス」である。昔の日本の農家には茅葺の屋根の上にユリ、キキョウ、ニラ、アイリスなどの植物を茂らせる「芝棟」という植物と建築の一体化の手法があったが、これを平成の御世に甦らせたのが藤森だった。

もっともこれはわが国の東北地方だけでなく仏ノルマンディやヴェルサイユ宮殿のアモーの農家のルッカノグィニージの塔などにも植物がそびえているそうだ。その後この手法を藤森は盟友赤瀬川原平宅の「ニラハウス」、屋根のてっぺんに松がすっくと聳え立つ「一本松ハウス」や「ラムネ温泉館」、伊豆大島の「ツバキ城」、イチハツとキキョウが箱根連山を吹く風になびく「養老昆虫館」でも採用している。

樹木を頂上におったてるのは、当世風に言えば、人工物を自然で覆う環境主義的な発想であろうが、藤森は屋根のてっぺんだけでなく家の内外のいたるところに屋根を突き破って自然のままの樹木のぶっとい柱曲がりくねった枝を空高く貫通させる。

この「お山の大将我一人」的な腕白ターザン少年の素晴らしい建築冒険の源泉を、赤瀬川は諏訪大社の「御柱祭」の御柱に見出している。御柱というのは神の依代で人間の信仰の原型である。太古天の神霊にお出ましを願うための媒体こそが、藤森にとっての家作りの原点ではないか、と憶測をたくましくするのである。

まるでナガサキアゲハの巨大な五齢の幼虫か古代鯨が大空に向かって飛び出さんばかりに無類の生命的な存在感をたたえて大地に鎮座している「ねむの木こども美術館」や「焼杉ハウス」の勇姿、さらには満開の桜の木に取り囲まれ、たった一本の巨大な樹木に支えられて宙空にそびえている「茶室 徹」など、藤森のすべての建築群に共通するのは、青白き腐れインテリ思想や難解なヒポコンデリー建築思想から完全に解き放たれた原&現縄文人のあまりにも健全なエラン・ヴィタール、かの偉大なる剽窃家の安藤やら貧血症の磯崎やら突然死んじまった黒川やら才能てんでなき隈研吾やらかの醜悪かつ反吐の出るような江戸東京博物館をつくりし菊竹清訓等々の有象無象、

ともかくゲーリー・フランクと荒川修作以外の既存のいっさいの建築を“すでに死に絶えたるたるもの”とさえ思い込ませる無限の自由奔放さと精神の自由、自然に根ざしつつなおも天空の太陽と星の彼方へとあくがれるかの永遠のロマンチシズムであらう。

 ♪藤森の鯨の家にまたがりていざや空の彼方まで 亡羊

Thursday, March 13, 2008

日輪寺再説

鎌倉ちょっと不思議な物語105回&鎌倉廃寺巡礼その4 

先日「タタラケ谷」との関連で報告した日輪寺だが、その後「鎌倉廃寺事典」をつらつら眺めていたら、この寺は北条高時の寺号であると記してあった。

高時は北条氏の第14代最後の執権でいまの宝戒寺の御所で鎌倉幕府の統括者の地位にあったが、後醍醐天皇の手の内の新田義貞に攻められて東勝寺で自害した。その墓は昼なお暗い「腹切りやぐら」にあって、ここに毎年俳優の高倉健さんがお参りにくるという話は前にも書いたが、闘犬と田楽に明け暮れて自滅した暗愚の統治者の法名が日輪寺とはおおいに驚いた。(ウィキペディアの高時の項に「月輪寺殿崇鑑」とあるのは日輪寺の誤り。)

日輪寺は高時の出家の7年前から確実に存在していて、その創建は恐らくは高時が執権になった直後の正和5年1316年7月7日であり、高時の信任厚かった僧栄海が初代別当に就任したらしい。(「将軍執権次第」)

その後文和2年1353年には、なんと足利尊氏と義詮親子が揃って十二所のわが日輪寺を参詣したという。義詮は尊氏の3男で義満の父。「太平記」には、酒色におぼれ魯鈍な人物であったと書かれているが、若くして死んだ室町幕府の2代将軍である。なぜか正成の子、楠木正行の隣に葬られたいと遺言してその通りになった。

吹きくる一陣の春嵐のなか、今を去る655年の昔、丹波とも深い縁で結ばれた天下の悪党足利尊氏が子を従えてこの緩やかな勾配をゆっくりと登りつめ、壮麗な七堂伽藍に吸い込まれていく姿を、私は確かにこの眼で見たような錯覚に陥った。

悪党の背にはらはらと梅の花 

春風や幻の寺ここにあり 

Wednesday, March 12, 2008

中世の鎌倉

鎌倉ちょっと不思議な物語101回 

古代日本の律令国家では大和朝廷が権力を握り、國-郡-郷という行政単位を置き、国史を頂点としてその責務に当たらせました。

8世紀以来存続してきた国府政庁は10世紀には廃絶してしまいますが、一方国司の館はその政庁機能を受け継ぐと共に経済活動の拠点としても整備されていきます。そしてその後地方の実権を握ったのは国司ではなくその地方の豪族で郡家を拠点とした郡司でした。
10世紀に入ると郡司に代わって新興豪族が郡内に台頭、それに伴って従来の中央集権体制は崩壊し、律令制度も終焉を迎えるのです。

中世の鎌倉は、鶴岡八幡宮から南に延びる若宮大路を中心に大町大路や小町大路など各所に通じる路が通じ、道沿いには将軍の御所(幕府)や北条氏等の武士の館あるいは都市住民の住まいや町屋(商店)等が存在したと考えられています。

鎌倉では現在市内の御成小学校がある場所に相州の国府あるいは郡家があり、時代が下がって鎌倉時代になるとその同じ場所に有力武家の館ができました。ここでは武士の屋敷と共に家来の住宅や職人や商人の住宅、倉庫等が発見され、都市鎌倉のあり方を非常に良く示す遺跡として注目されています。

♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族3人で囲む夕餉 亡羊

Tuesday, March 11, 2008

バルガス・リョサ著「楽園への道」を読む

照る日曇る日第104回

「楽園への道」といえば私にとってはエルガーの名曲だが、ペルーの作家バルガス・リョサの同名の交響的長編小説も、英国の音楽家と同じような感動を私に与えてくれた。

 本書は二つの物語が交互に奏される対位法叙述形式をとっていて、最初はどこの誰の話かと戸惑うが、それが19世紀中葉の社会主義とフェミニズムの立役者である女性と、その孫である画家ゴーギャンの2人を主人公とする欧州と南米、南太平洋をまたぐ規模雄大な物語であると知れば読者の関心もいやがうえにも高まるというものだ。

 前者の主人公フローラは、ジョルジュ・サンドやリスト、ビクトール・ユゴーと同時代の人物であるが、妻の離婚を許さず、その遺産を狙い、あまつさえ娘を犯す色魔でもある強欲な夫のために終生迫害され、ついには銃で命を狙われながらも、サンシモン、フーリエ、オーエンなどの影響を受けて初期社会主義、労働組合運動の確立に挺身する。

後続のマルクス、エンゲルスに対して決定的な影響を及ぼした美貌の思想家、実践家であるが、マルクスなどの進歩派からも「女だてらに労働運動に首をつっこみやがって」と白眼視されていたことがよくわかる。

そしてそんな時代にありながら自恃と尊厳を貫いて無残に散ったフローラの遺伝子と生き方を受け継いだのがかのゴーギャンであった。

かつてサマセット・モームが「月と6ペンス」で描いた個性的な印象派画家の劇的な生涯を、著者はモームとは異なる視点、熱い共感と燃えるような想像力であざやかに再現している。

「マナオ・トゥパパウ」、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」など、彼の代表作がいかなる状況にあって、いかにして描かれたか? 狂ったオランダ人、ゴッホとの共同生活がいかにして破綻したのか? いかにしてエリート株式仲買人が芸術の魑魅魍魎の世界に取り込まれ、世界の果てまで逃亡せざるを得なかったのか? いかにして死せる西欧世界の古典的秩序を大きく逸脱し、魔術と原始的生命の復活再生に一命を捧げるに至ったのか? 

性病に皮膚、内臓、脳髄を次々に侵され、ついに絶海の孤島でくたばった天涯孤独の創造者の生涯の顛末を、バルガス・リョサはあますところなく描きつくした。

暴力的な異性愛に傷つき、優しい同性愛に癒されながらも、社会正義の大義名分のためにいっさいのエロスを封印した祖母、荒くれマッチョであったはずの己の内部に小さくうずくまっていた一人の女性を発見して驚愕する孫……、ライフスタイルに共通点がある2人の主人公を見事なフーガの技法で巧みに踊らせながら、人間の生の深奥に潜む性の暗闇を容赦なくあばきたてる著者の視線はあくまでも鋭利に研ぎ澄まされている。

これだけ書けば、もういいだろう、リョサ?

♪昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る 亡羊

Monday, March 10, 2008

月輪寺を求めて

鎌倉ちょっと不思議な物語104回&鎌倉廃寺巡礼その3 

月輪寺は「がちりんじ」とひらがな表記して「がつりんじ」と発音する。「鎌倉志」に「光触寺の北、霧沢のうちに好見というにあり。ゆえに好見の月輪寺という」とあるが好見がどこであるか不明である。

しかし「十二所地誌」には「かつて光触寺所有の明石山の中腹にあり。その面積400坪、その中間の岩土堤に畳八畳敷き位の穴がある。本尊阿弥陀如来は闇浮陀黄金仏」とあり、さる考古学者が尋ねてきたが仔細はいっこうに分からず、遺物なぞはひとつも発見されなかったという。
さらに同書には「御坊ヶ谷を入った少し左側露ケ沢が好見であるがゆえに好見の月輪寺という。そこに房の屋敷というところがありこれが月輪寺の旧跡である」と記されている。

それなら定めしこの地であろうという閑静な一画を私はいつもの散歩コースにたやすく見出した。手前の家は私の次男の同級生の家でご両親はクリーニング業を営まれているが、その突き当たりに杉並木に囲まれた高台があり、この近所には多数の五輪塔ややぐら跡が発見されている。

「社務職次第」「供僧次第」「「若狭国志」にもこの古刹の名が出ており、「鎌倉年中行事」に「勝長寿院、心性院、遍照院、一心院、月輪院の五カ寺の住職は公方様の護持僧」とあるから、相当の大寺であったと思われる。

♪鳶一羽空に舞いたり廃寺跡 亡羊

Sunday, March 09, 2008

幻の廃寺、日輪寺ここに在り

鎌倉ちょっと不思議な物語103回 

「十二所地誌」によれば日輪寺跡はタタラが谷に所在、とある。タタラが谷については私が去年の夏に発見して確かこの日記にも報告した地点だから我が家から3分だ。よしあの近くを探そう。

ここでちょっと復習すると、「タタラ」というのはフイゴの古語でタタラ場、鍛冶屋、すなわち鉄製品を造るところであり、1回の作業は3昼夜であったという。タタラ師は「金屋子神」を信仰し、旧暦の11月4日にはタタラ祭りが行なわれというが、作業中は女性の接近を忌むという。

鎌倉時代の刀剣は京大和から運ばれてきたという学者もいるがとんでもない。鎌倉時代の東国の武士たちは自前の武器を自分たちの領地のあちこちで生産していたのである。だから十二所に限らずこの「タタラが谷」という地名は、そこで古代から中世にかけて製鉄、加工が行なわれていた場所である確率が高い。

しかもこの十二所のタタラが谷、太刀洗一帯には鎌倉幕府の「中世国立葬儀センター」があり、その周辺は高級墓地であったから、近くには当然大きな寺院もあったはずだ。
「十二所地誌」には果樹園の山腹に窟があって五輪が散乱している辺りか」としているが、果樹園はタタラが谷から相当離れているからこの説は却下だ。

私が“ここが日輪寺跡”、と特定する地域は、太刀洗川をはさんで5,6年前に発掘されたその国立葬儀センターの真向かいにある台地だ。
太刀洗に通じる朝比奈古道に沿ってわずかに勾配のある右側の小道を登っていくと、タタラが谷の麓に千坪くらいのこぢんまりとした平地がある。山腹の頂上から中腹にかけて群生する無数の竹に囲まれた静かな谷戸こそが往時の日輪寺だ、と私は確信する。

実際現在ここに住んでいる瓦斯屋のおじさんは、「ここに家を建てたときに無数の五輪等や仏像の瓦の断片をみな太刀洗川に捨てた」と罰当たりな証言をしている。けれどもその時至り、発掘してみれば私の予想は必ず的中するだろう。

♪ここもまた大寺ありけり冬の谷戸 亡羊

Saturday, March 08, 2008

鎌倉廃寺巡礼

鎌倉ちょっと不思議な物語102回 

鎌倉は寺も多いが、廃寺も多い。多くの人々は地上にそびえる美麗な寺社仏閣を仰ぎ見て嘆声を発するが、私が関心を持っているのはかつては大いに栄え、今はもはやこの世にない死せる寺々である。

現存しない寺院、堂宇、塔頭は私の地元の狭い狭い十二所だけでもなんと19箇所もある。(鎌倉廃寺事典)さらに浄明寺で19、二階堂で13、江藤淳が自死した西御門で14、雪ノ下で22という按配だから、寺霊たちはそれこそ無尽蔵にこの死都鎌倉の土の下に眠っているのである。

霊と死者たちを起こす非道をおかすつもりは毛頭ないが、弥生のそよ風に誘われていざ廃寺探訪に出かけようではないか。
まずは日輪、月輪の両寺を探索しよう。この二つの寺院はほとんどの歴史書に現われない幻の廃寺である。しかし鎌倉時代にはいずれもここ十二所の地にあって、おそらくは対になって要地を占めていたのではなかろうか。

♪同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日 亡羊

Friday, March 07, 2008

平川南著「日本の原像」を読む その2

照る日曇る日第104回&ふあっちょん幻論第8回

座敷神と道祖神のはじまり
丑寅を鬼門とする思想は中国から輸入されたが、柳田國男はそれ以前に日本では東北よりも戌亥(西北)を恐れる信仰が存在したと強調している。平安時代の貴族の邸宅では戌亥の隅に屋敷神が祭られ、その伝統は都の西北早稲田の杜の安倍球場跡地の中世の館の戌亥の座敷神にまで及んでいる。

日本列島では毎年冬季にシベリア大陸から寒冷な西北季節風が吹き募る。日本海沿岸部で漁民がこの物忌みすべき時期に船を出してタマカゼやアナジと呼ばれる邪悪な風のために犠牲者を出すことも多かったが、それは行いの悪い者への「たたり」のせいであるとみなされ、家居して慎んでいれば戌亥隅神が至福を与えてくれると考えられたのである。

またわが国では古来境界を結ぶ神、旅の神、結ぶ神、祈願・祝福の神としての道祖神が尊崇されてきた。なかには木製やわら製の男女一対で陽物・陰物を表現したものもある。

「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀ごろまでは「フナトノカミ」「サエノカミ」という邪悪なものの侵入を防ぐ神と、「タムケノカミ」という旅人の安全を護る道の神という二つの要素を包含する概念だった。それが10世紀以降政治と儀礼の場の多様化と共に道の祭祀は郡城の方形区画の四隅だけでなく、京の町や各地の辻などで実施されるようになり、いずれもが「道祖神」と称されるようになったと考えられる。

繊維工房のはじまり
長野県の特産品「信濃布」の布は麻布。千曲川流域の屋代周辺には一大繊維工房が存在し、多くの布手たちが麻布を大量生産していた。
また服部という苗字は現在ではハットリと発音されているが、じつは服部は古代においては織物に従事する職業集団の氏名であり、もともとは「服織部」と記されて「錦織部」とともに全国に流布していた。
この「服織部」は内包される2つの母音がいつしか省略されてハトリベ、ハトリと変化して現在のハットリに至ったのである。


♪啓蟄の虫仰ぎ見る空の青 亡羊

Thursday, March 06, 2008

平川南著「日本の原像」を読む その1

照る日曇る日第103回

天皇と日本のはじまり
倭国王が東アジア世界に秩序づけられた「王」「大王」に代わり独立した最高位の称号をのぞみ、道教思想において宇宙の最高神を示す「天皇」という名称を日本国王として用いた。そしてこの天皇は則天武后時代では明らかに「皇帝」より下位に位置づけられていたために中国からも是認された。これがわが国の天皇号のはじまりである。

仏典の「日出ずる処は是れ東方」という位置づけを重んじたわが国は7世紀後半に新たな国号を日本と定めたが、これも古代中国の世界像における東夷の世界、東の果ての地として「日の土台」という意味で採択された。

一方これは古代朝鮮に対して「西蕃」vs「貴国」という世界関係を成立させることをのぞみ、みずから東にある「貴き国」のイメージを求め、それを「日本」と呼んだ。もしかすると現在に至る中国-朝鮮-日本の三角関係の基本構造は、今から17000年前にセットされたということができるかもしれない。

国名のはじまり
わが国の東西の境界線は古代から東海道では遠江と三河、東山道では信濃と美濃の国境にあった。そして東国の国名はヤマト朝廷によってある時期にいっせいに命名された。

近江国は琵琶湖を「近つ淡海」と称したことに由来し、遠江国は浜名湖を「遠つ淡海」と称したことに由来するがこれらはいずれもヤマトからの距離を基準にしている。
美濃国はもと三野(各務野、青野、加茂野)があることから命名され、三河は男川、豊川、矢作川があることから名づけられた。

近江から不破の関を越え、美濃、信濃、上野、下野と行く東山道、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模と行く東海道の山道と海道で南北の地の国名が「野」と「河」という対になっていることに注目しよう。

♪アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ 亡羊

Wednesday, March 05, 2008

自閉症の人のヘルプポイント

♪バガテルop51

では自閉症の人に手助けするには具体的にどうすればいいのでしょうか。
自閉症の人に手助けするには次のようにしましょう。

手助けその1 コミュニケーションのやり方は?
自閉症の人は話だけを聞いてその内容を理解することが苦手ですが、目で見て理解することが得意なので、何かを伝えるときは口で説明するだけでなく、実物を見せたり、絵や写真を見せたり、文字を書いて伝える方法を考えましょう。
しかしその人によって得手不得手はあるので、どの方法が伝わりやすいかを工夫する必要があります。また自閉症の人が周囲に伝える方法もさまざまです。

手助けその2 前もって伝えよう
自閉症の人は予定が分からないことに大変な苦痛と不安を感じます。その日その時間に何をするのかが分かるととても安心するのです。そこでスケジュール表に予定を書き込むようにするとよいでしょう。
予定を知らせるときは文字が読める人には文字で、読めない人には絵や写真で、実物でなくては分からない人にはたとえば食事の時間は「はし」などの実物を使うなどの方法をつかいます。

 手助けその3 集中できる環境をつくる
自閉症の人はいろいろな物音や声が聞こえてくると気が散ってしまうことが多いので、これを防ぐ工夫をしましょう。たとえば窓にカーテンをしたり、周りをついたてで囲う方法もあります。

手助けその4 話しかけるときはおだやかに
自閉症の人に注意したりなにかを教えるときには命令ではなく簡単な言葉でやさしく、しかしはっきりとその人がどうしたらいいか分かるように伝えます
大声で話しかけたり、「○○したらだめ!」と怒鳴ったりすると、自閉症の人はその人から怒られたとしか感じなくなり、もはやなにも受け入れようとはしなくなります。
名前を呼んでできるだけおだやかに話しかけてください。自閉症の人は記憶力が良い人が多く、一度だけ経験したことでも怖かったり、嫌だったりしたことはずっと覚えているのでこの点はくれぐれも留意してくださいね。


以上簡単に自閉症についての解説をしてきましたが、これらの記述は内山登起夫さんが監修され、私の長男がお世話になっている社会福祉法人県央福祉会県央療育センターの諏訪利明さん、安倍陽子さんがお書きになった「発達と障害を考える本」①「ふしぎだね!? 自閉症のおともだち」(ミネルヴァ書房)を参考にしました。

自閉症についてもっと詳しいことを知りたい人は、日本自閉症協会http:autism.or.jp/までどうぞ。

♪もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう 亡羊

Tuesday, March 04, 2008

どうすれば自閉症の人をヘルプできるんだろう?

♪バガテルop50

自閉症の特徴は幼稚園や小学校などの集団に入ると目立つことが多いようです。

言われたことが理解できない。思ったことが伝えられない。その場で何をしたらいいのかが分からない、などが原因でストレスがたまってパニックになり、ときには自分で自分を傷つけることもあります。またそういう不安が顔に出ることも多いのです。

自閉症の人がパニくるには必ず原因があります。ですからその原因を理解しようとしないままその行為をやめさせようとすると、かえってその人を追い詰めてしまうことになりがちです。

そして自閉症の人の言うことやすることがおかしくてもみんなではやしたてたり、笑ったりしないことが大切です。

さて、私の在仏マイミクのミズリンさんによれば、現在フランスの有名な映画俳優サンドリーヌ・ボネールさんの初監督作品『Elle s'appelle Sabine』(彼女の名前はサビーヌ)がパリの映画館で公開中とのこと。実は彼女の妹さんが自閉症で、この映画は自閉症の妹についてのドキュメンタリーだそうで、ボネールさんは、「自身のスターとしての名声を利用して、自閉症への理解を世間に強く訴えている」そうです。

またミズリンさん情報によればこの話題の映画を日本のどこかの会社が買い付けたそうなので私も公開のあかつきにはぜひ鑑賞してみたいと思っています。
なおこの映画の詳細については下記をクリックしてみてくださいな。  

http://www.ilyfunet.com/ovni/2008/625/cinema.php

♪始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ 亡羊

Monday, March 03, 2008

知的障碍と自閉症の違いは?

♪バガテルop49

先日私の大嫌いな「阿呆の泉」という番組で、私がとても軽蔑している着物姿のいかがわしい男が、「障碍は個性」という最近巷にあふれかえっている陳腐な発言をしていました。
確かに自閉症を含めて障碍者にはさまざまな障碍があり、その姿かたちを「個性的」と表現することはできますが、障碍の本質は「重篤な障碍そのもの」であり、けっして「多彩な個性そのもの」ではありません。ことの本質を無視して、「障碍=個性」などと分かったようなレッテルを貼り深刻な事態を安易に図式化しようとするかの霊感業者たちは、それらの障碍に真摯に向き合うことから怪人20面相のように軽快に身をひるがえしているとしか思えません。もっともその方が「霊感的に楽ちん」でいいだろうしね。

さて閑話休題。知的な遅れもその内容は人によってさまざまですが、一般的には人懐っこかったり、いっしょに遊びたがったりします。

しかし自閉症児者の多くは他人との交流が苦手で、想像力に乏しくてこだわりも多いケースが多いので、交流するときに体に触れたり手をつなごうとするとパニックになることもあります。

また思ってもいない出来事が突然起こると、たとえそれが自分の誕生日を祝ってくれるものであっても強い不安でパニックになることもあります。

多くの自閉症児者は人々がざわざわとしている状態に出会うと不安になりストレスを感じることがあります。動物や赤ちゃんや元気な子供などの特定の人がとても気になったり、それらが引き起こす鳴き声や泣き声、叫び声や物音が苦手になり、耳をふさいでしまうこともあります。

♪今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ 亡羊

Sunday, March 02, 2008

自閉症大研究 第6回

♪バガテルop48

よく知的障碍という言葉を耳にします。てっきり「痴的障碍」と思っていたのに、なんだその言葉のインテリジェントな響きは。この障碍はとても知的でおしゃれでシックなレナウン娘のことかと思っていたのですが、さにあらず、知的な遅れを伴う障碍という意味であると知ってがっくりした人もいるのではないでしょうか。

ところで自閉症の人は、この知的障碍をあわせもっていることが多いのですね。
世の中には知能テストというものがあって、これで知能指数IQを計ります。IQはそれぞれの年齢で平均100になるように設定されていますが、このIQが70以下の場合は知的な遅れ(昔は知恵遅れといったが最近はそりゃ差別?だというので死語にしたらしい)があることも考えられるというわけです。

しかし前にも触れたように、この知的障碍と自閉症とは異なる障碍です。
このような知的な遅れのある自閉症児者は、例えば、

言葉や文章で表現したり
お金を計算したり、
時間をはかったり、
相手の行動を見て自分の身を守る工夫をしたり、
学校の勉強を理解することなど

が苦手だったりします。

さらには「いくつなの?」と話しかけられて、「いくつなの?」とオウム返しをしたり、一度聴いた昔の言葉や駅のアナウンスを何回も繰り返したり、NHKの朝ドラ「どんど晴れ」の主人公の名前を何度も呼んだりします。

あるいはまた何回も手をぱちぱちとたたき続けたり、飛び跳ねたり、体を前後にゆすったりすることがあります。

その他自閉症は、同じ脳の障碍であるてんかんや、チック症、睡眠障害などを複合するケースもあるので要注意です。


♪ふきのとう描く人あり喰らう人あり 亡羊

Saturday, March 01, 2008

自閉症大研究 第5回

自閉症大研究 第5回

♪バガテルop47

前にご紹介した三大特徴だけが自閉症ではありません。それ以外にも

1) 目で見たものを写真で撮ったように正確に覚えたり、駅の名前をたちどころに覚えたりするケースもあります。また、

2) 自閉症児者は感覚がとくに鋭かったり、その逆ににぶかったりするので厄介です。例えば私たちが気にしない音や匂いが気になったり、その反対にガラスでひっかく嫌な音が気にならなかったりします。また野菜やくだものなどある特定の食品しか食べない、それも特定のメーカーの製品しか食べない人もいます。

3) 健常者の場合はさまざまな能力が個人差はあっても同じように発達していきますが、自閉症ではそれがばらばらであることが多いようです。
トランポリンは上手に飛べるのにボールがうまく投げられないとか、捕球ができない、はしが上手に使えない、歩き方、走り方がどこかぎことないケースも多いようです。けれども、はしが上手に使えないのにテレビゲームは上手に操作したりすることもあります。

♪弥生三月春の力をわれに与えよ 亡羊

Friday, February 29, 2008

小島信夫著「菅野満子の手紙」を読む

照る日曇る日第102回

作者は自分と他人とそれ以外の全世界をちっぽけな筆一本であますところなく表現しようとする。それはすべての作家が夢見る夢であるとはいえ、そんなことは絶望的に不可能なのだが、それでも彼は断固として些細な断片から壮大な全体の構築への旅に出かける。

そのために話柄は次々に横道わき道に逸れ、さまざまなエピソードが弘法大師の鎚で突かれた道端の泉のように噴出し、そこに花々が咲き、蝶々が飛来し、長大な道草が延々と横行し、物語のほんとうの主題を作者も読者もたびたび見失うのだ。

そんな道行きが幾たびも繰り返されるうちに、小説の醍醐味とは小説の到達点に到達することではなく、小説の現在をいま思う存分に生きることなのだ、ということが身にしみるようにして体得されてくる。

この作者が誰を登場させ、何を語らせ、どんな奇妙な事件が小説の中で生起しようがいったいそれがどうだというのだ。

菅野満子が作家の由紀しげ子であろうが作家の分身である謙二とその兄の良一が満子とどれくらい激しい恋をしたか否か、それがヘルダーリンやゲーテの恋と遜色があるのかないのか、満子の手紙と遺書の内容が事実であろうが嘘であろうがはたまた作者のでっち上げであろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか。

それよりもたったいま作者がこの本のこの箇所に書き付けたこのさりげない1行を目と舌でじっくりと味わおう。作者が奏でるこの一筋の旋律を心行くまで味わおうという気持ちになってくるのである。

そうしてこの600ページになんなんとする大著を読了した人は、最初は三流私小説作家の身辺雑記のように不用意に書き始められた軽い心境小説が、最後にはプルーストの「失われた時を求めて」と遠くかすかに響きあう精妙な世界に遊んだと思うかもしれない。おまけに「失われた時を求めて」と同じように、この本も終わりに近づくに従って猛烈に面白くなるのだ。

あるいはまた、またこの小説はもしかすると小説ではなかったのだ、最初はさりげない主題の提示ではじまりそれが次第にさまざまな変奏と協奏をかなで、最後には信じられない聖なる高みに到達するブルックナーのような大曲をたっぷりと聴かされた、という感慨を懐く人がいるかもしれない。

いずれにしてもこれは作者の文学への気違いじみた情熱と無私な献身に圧倒されるメタ・メタ(めためたであるかもしれない)フイクションの最高傑作である。


♪この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ 亡羊

Thursday, February 28, 2008

2008年亡羊如月詩歌集

♪ある晴れた日に その22

雪深しわれは昭和の子供なり 

立春哉窓一面乃銀世界
 
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう

ぴらかんさ千両の順に食われけり

その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った

生きておっても死んでおっても空の空なり

詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ

如月も十日を過ぎて仕事なし

そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌

またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を

25年お世話になりしステンレスの浴槽よさらばさらばと別れ行くかな

古いお風呂よさようならお払い箱になるんだねと耕君がいう

30年家族暖めし風呂なればこぼつは惜ししもったいなし

25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな

亡くなった父も母もムクも入りしこの湯船

白々と骨が残りしバスルーム美人モデルはスープとなりぬ

青山の3LDKの浴槽にトップモデルは骨だけ残せり

けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気

家族3人で水炊きを食べるほど幸せなことはない

私には何がなんだか分からない確定申告できる人は偉大なり

まぎれもない獣の臭いが好きだった丘の上にて尾振りし汝(なれ)の

春風に吹かれて一声吠えるムク

丘に立ち一声吠えしうちのムク

如月も半ばを過ぎて仕事なし 

無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ

花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ 

1000本の時計を持てるちょい悪ジローラモその強欲をひそかに憎む

1000本の時計が自慢のちょい悪ジローラモわれは1本千円を愛す

小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝 

全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明

いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族

堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも

梅千本ただ一輪が咲いており
 
全山鳴動梅一輪ひらく 

蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」

老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌

篤姫を見てもフルスイングを見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球

セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄

大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし

できれば目白のように睦みあいたいものじゃ

私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり

如月の果ての果てにて舞い降りし鶴の一声受けるうれしさ 

Wednesday, February 27, 2008

自閉症を知る 第4回

♪バガテルop46

自閉症には3つの大きな特徴があり、その悲しい特徴はだいたい3歳までに現われます。
その3つの特徴とは、

1) 人とうまく付き合えない。
2) 人とうまくコミュニケーションがとれない。
3) 奇妙なものに対してこだわりがある。

に大別されます。

最初1)の例としては、他人と目を合わせて会話すること、喜怒哀楽の感情を素直に表すこと、同じ年齢の人と集団で遊ぶ、自然に決まっているルールに従うことなどが苦手な場合が多いのです。自閉症児者は健常者に比べて想像力に乏しいので他人の気持ちを理解したり、KYことがとても難しいのです。

次のコミュニケーションもこれと似たことですが、言葉を覚えて使うこと、相手の発言を理解すること、適切な返事をすること、たとえ話を理解することなどが困難です。というのも自閉症児の大半は言葉の障碍があるからです。

3番目のこだわりの具体例としては、溝の穴など同じところをじっと見続けたり、決まった道や順序でないと行動できないとか、流れる水や扇風機や車輪などグルグル回るものに気をとられたりするケースが見受けられます

要するにいつもと違うことの出現に対して警戒したりパニくることが多いのです。


♪私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり

Tuesday, February 26, 2008

続々 自閉症とは何だろう

♪バガテルop45

前回述べたように自閉症の人は知恵遅れなど別の障碍をともなうケースも多く、また人によって現われ方が違っていたり、同じ人でも成長していくうちにその症状が変化したりします。

また自閉症のある特徴は顕著でも、別の特徴はあまり発現しない人もいて、同じ自閉症といってもその状態はまるで虹のように色彩が多様であり、色と色との境界線がはっきりしていないのです。

そこでそういった区別や境界をあまり厳密に区別せず幅広く自閉症総体としてとらえようという考え方がうまれ、そのときに「自閉症スペクトラム」というアバウトな概念と用語も生まれたのです。

たとえば知的な遅れが目立たない自閉症を「アスペルガー症候群」と呼んで、おおかたは知恵遅れを伴う本来の、狭義の自閉症と区別する考え方もあります。それというのもけっきょくは自閉症の本質が解明されず、漠然と脳の機能障碍であるとしかいえないところから来ているわけで、今後の研究次第ではいま自閉症とされている障碍がじつは別のものになってしまう可能性もなしとしないのです。

私は個人的には秀才型?自閉症の「アスペルガー症候群」は、お馴染みの古典的な「だめ自閉症」とはぜんぜん別種の違うものであろう、とひそかに考えていますが、これが正解か否かはそれこそ神のみぞ知るであります。


♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気 亡羊

Monday, February 25, 2008

続 自閉症とは何だろう

♪バガテルop44

1943年にアメリカのカナーという精神科医が11人の子供の特徴をまとめて世界ではじめてその障碍についての研究成果を発表しました。これが世界で初めての自閉症についての報告です。しかしカナー以降二十年ほどは自閉症は主に「情緒の障碍」「心の病気」として研究されていたので、その原因が母親の愛情不足や育て方の誤りが原因であるなどという俗説がまかりとおることも多かったのです。

前回にも述べたように「自閉」という言葉は統合失調症でも使用されるのでまぎらわしいのですが、この2つはまったく違うのです。またこのいずれもが親の育て方など心理的な要因で起こるわけではありません。研究が進むに連れて自閉症は家庭環境、不安・ストレスに起因する心の病ではなく、生まれながらの脳の機能障碍であることが分かってきたのです。

また日本自閉症協会では、自閉症はおよそ100人に1人くらいの割合で存在しているといっていますが、広い意味での自閉症(これを「自閉症スペクトラム」と呼んでいます。スペクトラムとは英語で連続体という意味です)を入れるとその割合はもっと多いのではないでしょうか。


♪亡くなった父もムクも入りしこの湯船 亡羊

Sunday, February 24, 2008

スピルバーグの「シンドラーのリスト」を観る

照る日曇る日第102回

激突、ジョーズ、未知との遭遇、1941、E.T、トワイライト・ゾーン、カラーパープル、太陽の帝国、インディジョーンズ、ミュンヘンと常に話題作を撮り続けてきた世界の人気監督の93年の作品である。

彼の本領はなんといってもインディジョーンズなどの問答無用の娯楽にあると思う私は、プラーベートベンジャミン、カラーパープル、太陽の帝国など、非常に生真面目であったり、人道的、政治的色彩が濃厚に漂う作品はあまり評価できない。

例えば「太陽の帝国」におけるゼロ戦大好き少年のあこがれのまなざしのいかがわしさを見よ。光り輝く太陽の彼方に権力の栄光を夢見る少年のひとみは、そのままけがれなき永遠の童心少年、スピルバーグのものでもある。

さて本作は第2次大戦中にチェコの実業家シンドラーがナチにうまく取り入ってなんと1100名のユダヤ人の命を救ったという美談を、スピルバーグが映画化したもの。実話だそうだが、じつに感動的な脚本である。

特に素晴らしいのはヤヌス・カミンスキーの白黒の撮影で、これほどの美しさが果たして必要だったのかという気すらする。常連ジョン・ウイリアムズの珍しく抑制した音楽もベテランの味を出している。これをアカデミー賞にしなくてなにがアメリカだ、ハリウッドだ、といわんばかりのああ威風堂々の完成度だ。

しかしそんな立派な偉大な人類愛の物語であり、もちろん感動もするのだが、スピルバーグならではのワクワクドキドキする映画的感興はそこにはない。

あるとすれば、モノクロ画面でゆいいつ赤く着色される少女の姿やシンドラーの愛人の奔放な性交シーンであろうが、主題が主題であるだけにそれ以上の逸脱やいかがわしさの発露が微塵もない。

ユダヤ人であるスピルバーグがどうしても撮りたかった映画であり、その価値と歴史的な意味は十二分に評価してうえでいうのだが、これは凡庸な映画である。ジョーズやジェラシックパークを本領とするスピルバーグのようなエンタの達人に、大真面目に力みかえった偉人伝なぞ似合うわけがない。それは最後の主人公の演説のシーンで「もっと金があればもっともっと人を救えたのに」と泣くシーンを見れば分かるだろう。

スピルバーグといえば最近中国政府がスーダンの大量虐殺に対して誠実に対応していないという理由で北京五輪の芸術アドバイザーを辞任したそうだが、彼もまたシンドラーのような正義の人を目指そうとするのだろうか。


♪25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな 亡羊

Saturday, February 23, 2008

自閉症とは何だろう

♪バガテルop43

自閉症が「病気」や「性格」ではなく生まれながらの「脳の障害」であることは、近年になって世間から少しずつ理解されてきたようです。30年前の神奈川県立こども医療センターのように、「親の育て方に原因がある「母原病」です!」と私たちの目の前で担当医が決め付けたり、砂糖の摂取に原因がある砂糖病であるなどという馬鹿げた診断をする医者はなくなりましたが、相変わらず「引きこもり」や統合失調症における「自閉」と誤解したりする人はあとを絶ちません。

まず自閉症は生まれついての先天的な障碍で、中枢神経系(つまり脳と脊髄ですね)のどこかの障碍が原因と考えられています。以下の3つが大事なポイントです。
1) 自閉症は内気とか自閉的とか人間嫌いなどの「性格的」なものとは無関係です。
2) 自閉症は病気ではなく、生まれつきの障碍です。
3) 自閉症は人によってその現われ方に違いがあるので厄介です。

自閉症は風邪のように一時的な治療で治る病気ではなく、また親や周囲の愛情が不足してなるような「心の病気」でもありません。これはよくマスコミなども誤解しているようですね。多くの自閉症児者はまったく自閉的ではなく、むしろ外観は元気はつらつとしていることが多いのです。

しかし世間がそういう「根暗の閉じこもり人間」が自閉症であるというレッテルを貼るようになった原因のひとつは、この「自閉症」というネーミング自体にもあったようです。日本自閉症協会の機関紙名は現在は「いとしご」ですが、長い間「心を開く」という誤解を招きがちなタイトルでした。これでは自閉症が脳の障碍ではなくて精神や心の障碍であるとご本尊が宣言しているようなものですからね。

それはともかく自閉症の原因は、「中枢神経系(脳、脊髄)が生まれつきうまくはたらかないことにある」と学者の意見はようやく一致しました。しかしではその根本的な治療法は?というとそんな素晴らしいものはまだ世界中どこにも存在していません。
最近は脳や遺伝子研究が進んでいるので、その伸展に期待するほかなさそうです。


♪花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ 亡羊

Friday, February 22, 2008

古くて暗いモノクロ映画を見る

照る日曇る日第102回

「陽のあたる場所」はセオドア・ドライサーの原作を51年にジョージ・スティブンスが映画化したもの。田舎育ちの青年がふとしたはずみで隣の女と関係し妊娠させるところから悲劇が始まる。そのまま地味な家庭を築けばよかったろうに、偶然ハイソサエティの美女と恋に落ちたことから青年の心と体は真っ二つに引き裂かれ、若い2人は今生の別れをつげることになる。
世間によくある話だが、身につまされる。「生も暗く、死もまた暗い」というマーラーの「大地の歌」のように暗い物語だが、その悲劇の主人公をモンティが悲壮に演じるので観客はいっそう暗い気持ちになってしまう。そうして彼がついに届かなかったA place in the Sunへの想いが胸を打つ。
純情可憐なヒロイン役を演じるエリザベス・テーラーはきれいでかわいい。後年の熟女の面影なんかみじんも感じさせない。しかしものの本によればこの映画はドライサーの「アメリカの悲劇」の皮相なパロディであり、ヒロインは軽薄で鼻持ちならないハイソの馬鹿娘として描かれているらしいが、私は原作を読んだことがないのでなんともいえない。

44年の英国映画「ガス灯」も負けずに暗い。殺人犯のシャルル・ボワイエの魔手に引っかかって結婚してしまったこれまた純情可憐なイングリッド・バーグマンが、悪い夫に徹底的にいじめられ、あわや心身喪失状態で病院送りになる寸前に正義の味方ジョセフ・コットンが登場してお姫様の危機を救ってくれるという典型的な勧善懲悪の1幕であるが、ここでもバーグマンが後年の堂々たる存在感とは無縁の輝かしい若さと官能美を見せる。

♪1000本の時計を持つ男ジローラモその強欲をひそかに憎む 亡羊

Thursday, February 21, 2008

萩原延壽著「陸奥宗光下巻」を読む

照る日曇る日第101回

陸奥宗光は明治10年の西南戦争の際土佐立志社系の一部が企てた政府転覆、要人暗殺計画に陰謀に加担したかどで逮捕され、禁獄5年の判決を受けて明治11年9月から15年12月まで山形と仙台で獄中生活を送ったが、その間独学の英語でベンサムの功利主義哲学にめざめ、それが彼の政治思想の転回点となった。

獄から解放された彼は伊藤博文、井上馨、渋沢栄一などの助力で欧米に留学し、英国の議会制民主主義につぶさに接するとともに、ウイーンに赴きオーストリアの公法学者シュタインの元でプロシア流の政治理論を体得し、政府専制と議会責任内閣制の双方について当時の世界最先端の政治思想に通暁する新帰朝者となった。本書はその大半のページをこの間の「思想家陸奥から政治家陸奥への変貌」に焦点を当て、その劇的な精神の転回を精細に追跡している。

余談ながら明治時代には多くの政治家や官僚、学者が欧米に留学している。大日本帝国憲法の制定にあたって伊藤博文に大きな影響を与えたオーストリアの公法学者シュタインのところにも、その伊藤をはじめ陸奥宗光、伊東巳代治、黒田清隆、松方正義、海江田信義など多くのエリートたちが教えを乞いに行っている。

彼らはそれぞれ通訳を連れて2、3週間続けてシュタイン家に日参して個人教授を受け、通訳と自分の2人でノートをとり、そのあとで1つに清書してから、今度はそれをシュタインに送って訂正してもらい、そんな風にして完全なノートが出来上がり、それが彼らの留学土産になったという。
私は萩原氏のその話を聞いてなるほど漱石の文学論もそのような形で中川芳太郎を通じて現在のような姿になったことを思い出した。もっとも漱石はその中川ノートを全面的に改稿したのだったが。

藩閥政府と自由民権派の両極で激しく分裂した陸奥は、その後中央政府の外務大臣として日清戦争を主導するが、日露、第1次大戦、太平洋戦争へと拡大していくわが国の朝鮮半島、中国、台湾への介入・進出はじつに明治27年の日清戦争から出発していることが本書を読めばよくわかる。

陸奥は首相の伊藤博文とコンビを組んで山縣有朋などの武断派を懸命に統御しようと試みるが、本心では大陸不介入派であったと思われる陸奥も、結局は軍部などの強硬派、国内に燎原の火のように燃え盛る愛国主義の嵐(それは漱石、子規をはじめ大多数の文学者、知識人をも飲み込んだ)、英、露、独、仏などの帝国主義列強の圧力に屈して、ついに「朝鮮の独立を保持するための」対清開戦に踏み切った。

幸か不幸かこの日清戦争の勝利が遼東半島の三国干渉を生み、その屈辱が列強の代理戦争としての日露戦争を生み、ひいてはあの大東亜戦争への泥沼の道を用意したのである。いかに当時の国内外情勢の渦中で陸奥が献身的な努力を傾注したとはいえ、(彼の涙ぐましい「蹇蹇録」を読まれよ)当時の陸奥が死生をともにした大日本帝国が、大国の圧力に強いられたという以上に、自らが列強の一員として積極的にアジアに覇を唱えようとしたことはまぎれもない事実である。

陸奥たちが東アジアに刻んだその最初のステップこそが、20世紀という戦争の時代のパンドラの箱を開けた。小さな侵略の成功と既得権の確保が、また次なる利権の獲得とその利権保持のための新たな戦争へと繋がっていく。かつて陸奥たちがつまずき、我々が60年前に破綻したのと同じ過ちを、現在アメリカがそのままイラクで繰り返している哀れな姿を見るにつけ、歴史は何度でも繰り返すという思いを新たにするのである。

萩原延壽の「陸奥宗光」を読むこと。それは私たちがあえて明治、大正、昭和を生き直すことであり、それを教訓として今を生きることでもある。


♪できれば目白の夫婦のように睦みあいたいものじゃ 亡羊

Wednesday, February 20, 2008

愛犬ムク六周忌

♪ある晴れた日に その21

OH!アデュー 人語をはじめて口にして 
老犬ムクは いま身罷りぬ

ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す

鎌倉の 山野を駆けし細き脚 
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり

ここで跳べ! ザンブと飛び込む滑川 
ウオータードッグよ 輝きの夏

大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク

ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす 

十七年 一直線に駆け去りぬ 
今一度鳴け 野太きWANG!
  
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり

庭に眠るムクのからだの腹のあたり 
濃き紫のアサガオ咲きたり

崖下の庭の土なるムクの墓 
アオスジアゲハの雌雄乱舞す

まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の

春風に吹かれて一声吠えるムク

丘に立ち一声吠えしうちのムク 

Tuesday, February 19, 2008

市川崑追悼の「細雪」を観る

照る日曇る日第100回

先日私の大好きなマイミクのぽんぽこはんが映画「細雪」について書いておられたので私も負けてへんでとぐあんばってDVDで見てみたんや。谷崎はんの原作もそら素晴らしいけど、さすがに市川崑はんの代表作に恥じへん代表的な日本映画どしたえ。

時は昭和13年。迫りくる戦争の足音とつかの間の幸せ。やがてはすべてが崩壊する桜の園の最後の宴、姉妹たちの窓際を流れゆく二度と帰らぬ美しい季節が、市川はんの円熟のメガフォンでその一時いっときを惜しむかのようにゆるやかに流れていくんですからもうたまりまへん。

ラストのへんで岸恵子はんが「今年はもう姉妹4人で京の桜を見れへんのやねえ」と呟かれたときには、さすがに非情で冷酷な鉄の心を持つ私も、我知らずさめざめと細雪のような涙を流しておりましてん。

思えば映画で泣いたんは今を去るおよそ10年前に「ローマの休日」がコンピューター補正された新装版を、確かまだ新橋にあったヘラルドさんの試写で見たとき以来やったなあ。あんときはヘップバーンはんが、記者会見で「イエス、ローマ」と答えられたその瞬間に、あたしゃぐわあと人目をはばからずに号泣してしもうてからに、もう恥ずかしゅうて恥ずかしゅうてたまらず、失礼ながらラスト・クレジットが終わるのをまたんと現場から新橋駅まで逃走しよりましたんや。しゃあけんど私にいわしてもらえば、あの映画のあのシーンで泣かないやつなんか人間ではあらしまへんで、ほんまの話。

肝心の「細雪」でっけど、女優さんがみなはんよろしおしたなあ。私は吉永はんの演技がいつも気になるんやけど、この映画の雪子はんでは役どころとマッチして彼女の大根ぶりがあんまり外に出ず、ほんまよろしゅうおしたなあ。

衣装も絢爛豪華で眼の保養になりましたが、あれは当時の大阪船場や芦屋のセレブのおべべにしては、なんぼ映画衣装とはいえちと色柄デザインが下卑すぎておりましたな。上方のふぁっちょんかるちゃあは、絶対もっと渋くて底が深いもんや。当節ならいざ知らず、谷崎わーるどの主人公たちが、あんなギンギンギラギラにどぎつい下品な着物を着ておったはずはありまへん。大阪弁だけやなしにコスチュームも谷崎夫人のご指導を仰いだらよかったんとちゃいますか。

それから音楽担当2人もおるくせに、使用音楽は英国ヘンデルはんのラルゴ、おんぶら・まい・ふだけちゅうのは一体どういう了見や。貧相な電子音楽やし、せめてオケの生使うとか、もうひとひねりできんかったんやろか。ともかくあれなら素人でもでけます。

それにしてもラストの箕面の紅葉と女優さんの顔のアップ、きれいどしたなあ。美しい日本の景色と美人はいったいどこに行ってしもたんやろか。5年前にたった一度銀座で見かけたような気がするけど、あれは夢まぼろしやったんやろか。
♪新橋のヘラルドエースの試写室でヘップヘップと悌きしわれかも

Monday, February 18, 2008

見捨てられた墓地

鎌倉ちょっと不思議な物語100回

ここは私が住んでいる十二所のガソリンスタンドがある交差点の、すぐ袂にある小さな墓地です。鎌倉駅から八景方面のバスに乗って、まっすぐ行くと鎌倉霊園、右に曲がると鎌倉逗子ハイランドという交通の要地なのに、誰も見向きもしないで通り過ぎます。

しかしここは鎌倉時代にはすぐそばの大慈寺の境内でありました。大慈寺は八幡宮寺、勝長寿院、永福寺と並ぶ鎌倉四大聖地のひとつで三代将軍実朝が君恩父徳に報謝するために、つまり天皇と頼朝公に感謝するために建暦2年1212年に造営がはじまりました。

十二所のバス停の近くに明王院というこれも鎌倉時代創建の古いお寺がありますが、この明王院の東一帯がすべて大慈寺で、前にも書きましたように現在カトリックの修道院になっている小高い丘陵も往時の七堂伽藍が聳えておりました。

大慈寺の木造の大仏を安置した丈六堂は江戸時代まではこの付近にあり、その仏頭は私が最近住職と和解した光触寺に隠されておりますが、その丈六堂が存続していた頃の面影をかろうじてこの墓地だけが伝えているのです。

ああそれなのに、先日この聖なる地に進入し、1基の仏塔を倒した悪いやつがいるのは許せません。

無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ 亡羊

Sunday, February 17, 2008

映画「アマデウス」を視聴する。

♪音楽千夜一夜第33回

先日かつて大ヒットした映画「アマデウス」がNHKのBSでデイレクターズ・カット版という長尺版で放送されたので久しぶりに再見したのだが「ドン・ジョバンニ」の序曲の冒頭の和音から始まり、k467のピアノ協奏曲のアンダンテで終わるこの映画の醍醐味はやはりモザールの音楽の素晴らしさを堪能することにあるのであって、サリエリがモザールの神に愛された天才を憎むあまり、刺客を派遣して砒素を盛って暗殺したなどという愚にもつかない伝説や、同じサリエリがモザールの妻コンスタンチエの貞操を奪おうとしたとか、あまつさえみずからが「レクイエム」の作曲を依頼し、モザールの最期の夜に彼の絶筆をアシストしたとなどというモザールにまつわるあれやこれやのホラ話や嘘やインチキや風説のかぎりを吹聴される下世話なたのしさ、面白さなどにけっしてないことは心ある人には自明のことであるにしても、それでもこの映画がモザールの自伝というふれこみであるだけにいまなお一抹の不安が掠めるのであるが、であるにせよ見所聴きどころはいたるところに転がっており、例えば「後宮からの誘拐」のフィナーレのジャン・ピエール・ポネルを偲ばせる見事な演出や「フィガロの結婚」の第4幕の至高のフィナーレで皇帝ヨーゼフ2世が欠伸をすることによって自らの俗流芸術趣味を暴露してしまう箇所、ウイーンで冷遇されたモザールがプラハの民衆から歓呼を受ける光景、死相をあらわにしながら「魔笛」を振るモザールの鬼気迫る指揮ぶり、「ドン・ジョバンニ」の地獄落ちの凄まじさ、光るネビル・マリナーの指揮と音楽構成、セントアカデミー・インザフィールド管の演奏によるk201の交響曲、k450のロ長調ピアノ協奏曲のアレグロの導入、あるいは楽譜初稿に書き損じがないとサリエリが感嘆する瞬間に流れる「フルートとハープのためのコンチエルト」k299の緩徐楽章のフルートの高鳴りなどなど文句なしのお楽しみだが、そうはいっても映画の最後の葬送シーンで未完の「レクイエム」に伴われてウイーンの墓地にしの降る雨はほとんど春雨程度のゆるい降りであり、実際にそうであった12月の暴風雨の荒れ模様などまるで表現されておらず、一体全体どうしてサリエリもコンスタンチエも墓地の入り口で留まって引き返したのか、またいったいモザールともあろう有名人がどうして無人墓地に犬猫のように葬られてしまったのか、あんまり可哀相ではないか、あれでは02年の今月今夜に死んで我が家の庭の奥津城に葬られた愛犬ムクのほうがよほど恵まれていたではないか、と文句のひとつも言いたくなるのである。


♪セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄 亡羊

Saturday, February 16, 2008

蔵で暮らす

勝手に建築観光28回&鎌倉ちょっと不思議な物語99回

鶴岡八幡宮の東側の小道に気になる蔵があります。外壁の周囲は緑の分厚い蔦に覆われ、四季折々の変容を見せくれます。

昔ながらの蔵なのですが、その中に住んでいる人がいるのです。私は駅から家までの帰り道に必ずここを通ります。どんな人がここで暮らしているのだろう。おそらくデザイナーではないだろうか、などと勝手に想像しているのですが、実際に住人の姿を見たことは残念ながら一度もないのです。

寿福寺から少し南に下がったところにもっと大きく立派な蔵がありますが、これは最近どこか地方から移転させてきたものでイベントなどに使っているようですが、誰かが住んでいるわけではありません。

私もたまにはこんな蔵で寝転がって、八幡様の蓮がパン、パパンと開くのを耳にしながら平家物語や徒然草を読んでみたいな。

♪如月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊

Friday, February 15, 2008

萩原延壽著「陸奥宗光上巻」を読む

照る日曇る日第99回

萩原延壽は朝日新聞に連載したアーネスト・サトウの伝記「遠い崖」で知られる歴史家であり、かの大仏次郎に優に比肩する当代一流の評伝作家でもあった。その精緻を極めた資料の渉猟と長期にわたる膨大な調査研究からもたらされた知見に基づく人物月旦は、まことに正統的な客観主義の外観をそなえながら、その外装の奥には主人公に対する秘められた偏愛と熱情のほむらが燃え滾っており、読むものをいつのまにか虜にする魅力を備えている。

大仏が「天皇の世紀」で目指したものが、明治という時代の骨格のあますところなき再現であったのに対して、萩原は、明治を生きた代表的人物をあますところなく対象化することを通じて、明治という時代の血肉をわが手に収めようと試みた。

そして萩原がまず最初に手がけたのが、「頼むところは天下の輿論、目指すかたきは暴虐政府」と叫んでフィラデルフィアに倒れた自由の戦士馬場辰猪であり、続いて「蹇蹇録」で知られる陸奥宗光その人であった。

ちなみに著者によれば、陸奥は明治19年の夏に足尾銅山に視察に行き、中禅寺湖に別荘を持っていたアーネスト・サトウと会ったらしい。(陸奥の次男潤吉は古河市兵衛の養子だった)。サトウの日本人女性に対する観察は足が短いとかなかなか辛らつであったが、ゆいいつ陸奥の後妻で才色兼備の誉れ高い亮子だけは大変な美人と絶賛したそうだ。

陸奥は和歌山藩の上級武士の子であり、海援隊の坂本龍馬の一番弟子であり、御一新の後には藩閥政府の一員であると同時にその敵対者でもあり、木戸、伊藤、後藤に愛され、岩倉、大久保、西郷、島津久光に憎まれ、絶えず権力と理念のはざまに立って動揺常ならぬ混乱と転向を繰り返しながら、わが国にとって大きな里程標となった日清戦争を外務大臣として収拾した、明治を代表する文人政治家である。陸奥は星亨と原敬を育て、結局その系譜が日本の政党政治の主流となるのである。

しかし著者はそういうマキャベリやジョセフ・フーシェを思わせる政治的人間陸奥の行蔵を描くだけではなく、あるときは権力の側に立ち、またあるときはそれを指弾して自由民権運動に加担して獄に投じられる「節操常ならざる分裂した魂」の内部をじっと覗き込む。それによって政治と人間という普遍的な問題がゆるゆるとあぶりだされ、陸奥という人間を鏡としてそこに映じられる同時代の人物たちの生き方、ひいては明治という時代そのものの実像が、おもむろに立ち現れる。ここにこそ本書の魅力がある。

♪大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし 亡羊

Thursday, February 14, 2008

蕪村のアイドルをさがせ

♪バガテルop42

俳人にして画家の与謝蕪村は、一休のように65歳になっても若い女たちとうたを詠み交わし、精神と肉体の愛の生活にふけっていた。らしい。

「蕪村七部集」の「花鳥篇」のなかの「花櫻帖」を見ると彼女たちの名前と俳句が載っている。おそらくは芸妓や町人の娘であろうが、初心の素人衆ばかりであるとはいえ、いずれも蕪村好みの天明調の緩さが懐かしく、捨てがたいのどかな趣がある。

それにつけても蕪村の御伽は次の女衆のうちのいずれであらうか。

月のよは花より明てさくら哉    うめ
うつくしき花のさかりやきのふけふ ことの
いろいろの人見る花の山路かな   小いと
老いて猶さくらは花にとはれける 柳女
櫻かりかの木この木の一構     まさ女
雲と咲雪と散けり山ざくら     石松

♪小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝 亡羊

Wednesday, February 13, 2008

レイモンド・カーヴァー著「象」を読む

照る日曇る日第98回

これは村上春樹が翻訳したレイモンド・カーヴァー最後の短編集である。

レイの短編の特徴は見事に完成されたばかりのキャンバスをその瞬間にナイフでざっくりと切り裂いたような放埓なラストであろう。表題作の象における稲妻のごとく疾走する大型車、「誰かは知らないが、このベッドで寝ていた人が」において突如引き抜かれる電話線、「親密」で主人公に降りかかるおびただしい木の葉、「ブラックバード・バイ」における愛する人との別れ――読者を突き放すように唐突に断ち切られた物語の終わりが、生きることは死ぬことであり、死ぬこともまた生きることである、という著者のクールな人生観をあざやかに示すのである。

最後にさりげなく置かれた「使い走り」は、死期を宣告された著者がそれこそ死力を奮って書き綴った遺作の短編だが、それはロシアの文学者チェーホフ最期の日を想像力豊かに描くことによって迫りくる自らの死を冷徹にトレースしている。

「バーデンヴァイラーはシュヴァルツヴァルト地方の西にある保養地で、バーゼルからそれほど遠くないとことにある。町のほとんどの場所からヴォージュ山脈が見えた。その当時、空気はまじりけなく綺麗で爽快であった。ロシア人たちは古くからそこを好んで訪れ、熱い鉱泉に身を浸し、通りをそぞろ歩いたものだ。1904年の6月に、チェーホフは死ぬためにそこを訪れた」

という見事なセンテンスを眼にした読者は、そのときマグニチュード8.0の大震災に襲われたとしても、その次から始まる短編の極意とでもいうべきストーリーを読まないわけにはいかないだろう。レイモンド・カーヴァーはこんな素晴らしい短編をこの世の置き土産に、1988年、50歳を一期に肺がんで身罷ったが、そのあまりにも早すぎた死が惜しまれる。

♪ぴらかんさ次いで千両の順に食われけり 亡羊

Tuesday, February 12, 2008

続・元コピーライター、かく語りき

♪バガテルop42&照る日曇る日第97回

消費者に商品を売る一介のテクノクラートであり、商品の宣伝の召使であるはずの広告文案作成屋が、なにを勘違いしたのか社長に代わっておのれの個人的な思想や感慨を語りはじめ、天下の公器を私物化し、あまつさえ1行のコピーが時代や世の中を変える、などと錯覚し、ドンキホーテのように奇怪な妄想にうつつを抜かしはじめたのである。彼ら自身は無自覚であったが、「欲しがりません勝つまでは」という名コピーを書いて文字通り一世を風靡した才人をひそかに目指していたのかもしれない。

私自身も含めてコピーライターのみならずほんらい怜悧であるはずの日本資本主義もまたここで大きな勘違いをしてしまった。思えばここがいわゆるコピーライターブームの出発点であり、後続するバブル時代の幕開けだったのではないだろうか。まことに思い出しただけで吐き気がするほど苦しく、また悶絶的に楽しい戯作家の虚業全盛時代でもあった。

それにしてもあるかなきかの微細な商品の独自性、優位性、セールスポイントをむりやり「発見」し、それに対して針小膨大な「付加価値」をでっちあげ、おのれの才覚にまかせて恣意的なお化粧を施し、無理やり消費者の欲望を喚起させるこの仕事は、いかに身過ぎ世過ぎとはいえ本質的には良心に恥じ、人倫に悖る作業であり、内心忸怩たる因業な課業でもある。

この賎業への加担を逃れ、因果の悪連鎖を逃れるためには、広告の現場からとく立ち去って生産現場に駆けつけ、本当に消費者のためになる画期的な製品をみずからの手で生産し、しかるのちに広告宣伝に立ち戻るか、あるいは目の前の劣悪で凡庸な商品に眼をつぶって、消費者にその本質を気づかせないような呪文や幻惑や目潰しをあびせ続けるか、あるいは誰にも評価されず注文が来なくとも、誠実で正直なコピーをほそぼそと書き続けるか、はたまた「自分が幸福ではないのに幸福なコピーは書けない」と遺言して1973年に自死した杉山登志の道を選ぶか、のいずれかしかないだろう。

そしてそのあまりにも美しすぎる呪文のひとつが、昨日挙げた秋山氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」という“感動的な”コピーだったのではないか、と私は今にして振り返るのである。

バブルは無残にはじけ、毎晩銀座のバーを肩で風切って闊歩しながら飲み歩く流行作家気取りのかっこいいコピーライターは1匹残らず絶滅した。時代はコピーライターのものから、スタイリスト、フォトグラファー、そしてプランナー、デザイナー、アートディレクター、マーチャンダイザーの覇権へとめまぐるしく変遷し、グッチやルイ・ヴィトンなど外資系ラグジュアリーブランドの広告では、いっさいの広告コピーを廃し、画像とロゴとURLだけで構成するのがいっそおしゃれであるという流儀が定着して久しい。

茫茫30年。制作費が厳しく削減され、広告宣伝の玄妙な秘法など糞喰らえのクライアントの強権が問答無用で復活し、なんの教養もないど素人コピーライターによって携帯メールで殴り書かかれた風情も工夫も含蓄もない超即物的かつ短絡的なへたくそコピー全盛の現在が、むしろ健全でいっそ小気味よい光景と映るのは果たして私だけだろうか。


♪篤姫を見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球 亡羊

Monday, February 11, 2008

元コピーライター、かく語りき

♪バガテルop41&照る日曇る日第96回

宣伝会議という出版社から最近発売された「コピーがひもとく日本の50年」という2095円もする分厚い本を頂いた。私はかつてコピーライターという仕事をしていたことがあり、宣伝会議社が主催するコピーライター講座の講師を数年間やっていたこともあるので昔を思い出して懐かしかった。

当時銀座の松屋の裏にその教室があり、毎週1回のその夕方からの授業が終わると、私は生徒全員を引き連れて安酒場に行って飲みかつ喰らい愉快に談笑するのが常だった。その当時の私はまだ少しなら酒を口にすることができ、後年のようにたったビール一口で急性アルコール中毒で昏倒するような無様なことはなかった。私のクラスから巣立った何人かはその後映画や音楽産業の優れた担い手となり、私は彼らのその後の活躍をわがことのようにうれしく思っている。

さてその分厚い本を繰ってみると、わが国のコピーとコピーライターの歴史をつくった梶裕輔や土屋耕一、秋山晶、仲畑貴志、真木準といった俊才たちの過去半世紀の名作コピー365本が、ご本人たちのコメントとともに紹介されており、なかなか興味深いものがあった。

向秀雄氏の「ミュンヘン、サッポロ、ミルウオーキー」、山口瞳氏の「トリスを飲んでHaWaiiへ行こう」、「なぜ年齢をきくの」とか「こんにちは土曜日くん」「君のひとみは10000ボルト」など伊勢丹の企業広告のコピーを作った土屋耕一氏の作品は時代の記憶の一部となったし、「おしりだって洗ってほしい」(TOTO)、「好きだから、あげる」(丸井)を作った仲畑貴志氏、「ピイカピカの1年生」の杉山恒太郎氏、「でかいどお、北海道」の真木準氏などの作品を眼にすると、私と同時代の制作者である彼らの当時の面影があざやかに甦ってくる。

しかしかつては広告文案作成屋と呼ばれたコピーライティングの流れを大きく変えたのは、1974年のたしか糸井重里氏作の「ケネディは好きだったけれど、ジャクリーヌは嫌いだ」、そして77年に高校野球をテーマにした秋山晶氏の「ただ一度のものが、僕は好きだ」というキャノン販売の広告ではなかっただろうか。

これらの作品ではいずれも主語がクライアントではなく、驚いたことにはコピーライター本人であり、訴求テーマが商品そのものから大きく逸脱してモノからコトへ、商品世界から仮想文学的世界へと大きく飛躍し、幻想の虚空で浮遊している。


♪生きておっても死んでおっても空の空なり 亡羊

Sunday, February 10, 2008

DVDには寿命がある!?

♪バガテルop40

9日の旭日新聞の夕刊トップに「DVDディスク寿命格差」という大見出しで、いま使われているDVDディスクの中には数年で劣化してデータを読み出せなくなるかもしれないと警告する記事が出ていた。DVDディスクなら孫子の代まで大丈夫と思っていたのに1年で映像が消えうせる例も多々あるという。

国内ブランドの一部は半永久的に保存できる優良製品もあるようだが、私が愛用している1枚30円から40円の台湾製は、実験前からエラーが多すぎて寿命の推定が不可能という劣悪品が多いそうだ。そういうこともあるかもしれないと漠然と考えていたが、実験結果をこのように露骨に突きつけられるとはたと頭を抱え込んでしまう。

私は前にもここで書いたように、NHKBSで放映されるすべての映画とクラシック音楽、歌舞伎などの新旧演劇番組を連日DVDディスクに録画してきた。1日にたかだか4番組くらいだが、それが毎日毎日何年にもわたるとおびただしい数量となり、私のような恒産なき流浪のルンペン・プロレタリアートには1枚100円以上もする国内盤はいくら品質が優れているとはいえ経済的に負担がかかりすぎる。

よって超安価な台湾製のあれやこれやをためつすがめつ大量に買い込むことになる。ところが100枚2300円のお買い得を買ったはいいけれど、それがちゃんと録画できないこともよくあり、これまでいくど痛い目に遭ったか分からない。例えばZEROは人気の台湾ブランドでそこそこ品質もよく、値段も安いので愛用していたが、ある時期から工場だか規格が変わったらしく、私のレコーダーがいっさい受け付けなくなってしまった。

やむなくPRO-FEELブランドに転向しそれなりに満足していたら、突然この製品が冷凍餃子のように市中に出回らなくなってしまった。そこでようやく超破格値のFINEブランドに切り替えたところ、この16倍速がそれこそ早い・安い・美味いの3拍子が揃っているのでやれやれと安心していた矢先に旭日新聞の記事である。

もし私にお金があったらもちろん国産を買うだろう。しかし国産といっても三菱のように台湾の工場に委託しているものも多く、純台湾製ほど多くはないがけっこうトラブルも生じるから始末におえない。

コストの問題以上に問題なのは収納スペースだ。私の狭い書斎はすでに無数の書籍群とLPレコード、カセットテープ、ビデオテープの大群に加えてかの「あほばかレーザーディスク」まで捨てるに捨てられない状態で死蔵されている。これに加えて日夜増殖を遂げつつある膨大なDVD! 過大な加重に耐え切れず部屋の土台が崩れ去る日も近い。

それにしても、と私は考える。どんどん膨れ上がるこの膨大なソフトを、果たして私は生きているうちに鑑賞できるのだろうか?

全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明
堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも
いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族

Saturday, February 09, 2008

小島信夫の「月光」を読む

小島信夫の「月光」を読む

照る日曇る日第95回

依然としてさっぱり仕事が来ない私は、またしても小島信夫の小説を読んで、みずから無聊を慰めることしかできない。

私が思うに、この人はまあ「書く自動機械」に似たようなものであるなあ。小島信夫のなかにもう一人の小島信夫、あるいはコジマ式ロボットが棲息しておって、これが日常茶飯事、森羅万象をすべて書きまくるのじゃ。人の迷惑もプライバシーもなぎ倒してじゃんじゃん書きなぐるのである。

それは書きたいことを書きたいからではなく、普通の人間なら非常に書きづらいこと、あるいは絶対に書いてはいけないこと、を、彼はどうでも書かなければならない、と天によって強くうながされ、みずからもそうしようと決意しているからなのだ。自分がその先に進み、生きるために破らなければならないベールを、彼はどんどん破りながら全身全力で前進するのである。

そしてそのように行動することの総体が、小島信夫の生であり文学なのだ。
書かずにいられないその軌跡を、人は宇宙の果てまで限りなく越境する私小説というが、当のご本人は「私はいまは夢見るように書き綴っていので、相前後し、合体することを許してもらいたい」と澄ましている。

さて本書は1982年4月から翌年8月にかけて「群像」に連載された表題作はじめ「青衣」「蜻蛉」「合掌」「「高砂」「「再生」の6つの短編小説であるが、例によって例のごとくあっちに寄ってはこちらに引っかかりながら、まるで二人羽織のように脳内対話がとめどなく繰り広げられていく。

最後に並べられた「再生」では、甦りの再生ではなく噺家の安藤芳流という人の談話テープを作者が文字起こししてそのユニークな語りを再現するのに驚かされる。

安藤は漱石の弟子の森田草平の思い出を語り、続いて福本日南が書いた「元禄快挙録」を引き合いに出して、大石内蔵助の切腹があまり潔いものではなかったという話をする。彼の切腹を陰からこっそり見ていた細川越中守がそう証言しているというのである。

定めし立派な腹切りであろうと固唾を呑んで期待していたら意外にも「あまり締まりがなかった」。いったいどうしてだろうといぶかしみながら越中守が内蔵助が使っていた手文庫の中を改めてみたら、「見事なる切腹は一人にかぎり候」という書置きが出てきたそうだ。

この秘話を安藤が恩師の森田に語ってきかせたところ、草平は「おいちょっと待て。そこのところは『見事なる切腹は、殿ご一人にかぎり候 内蔵助』とやれ」と安藤に知恵を授けたという。

なるほど、これだと内蔵助が主君の見事な切腹を際立たせるためにあえて無様な切腹を選び取ったということが一遍で分かる。さすが漱石の永遠の弟子の森田草平だけのことはある、ということを言いたいがために、小島信夫はこの40分間の口演テープを汗だくで再現してみせるのである。


♪如月も十日を過ぎて仕事なし 亡羊

Friday, February 08, 2008

40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」

40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」40年前の幻の「トリスタンとイゾルデ」

♪音楽千夜一夜第32回

冬来たりなば春遠からじ。私はその春の足音に耳を澄ましながら、もはや過去の遺物と化しつつあるヴィデオテープに収められたクラシック音楽の演奏を少しずつDVDに変換に変換している。

昨日は1967年に初来日したピエール・ブーレーズが大阪のフェスティバルホールでワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を振った歴史的演奏を視聴した。イゾルデがビルギット・ニルソン、トリスタンがウオルフガング・ヴィントガッセン、マルケ王をハンス・ホッター、演出はヴィーラント・ワーグナーという、今では考えられない超弩級かつ垂涎の豪華絢爛たる組み合わせである。

オーケストラは大阪祝祭フェスティバル管弦楽団とあるが、おそらくはN響であろう。現在の腐敗堕落した同名のオケとは違ってなかなか見事な演奏を繰り広げ、当時弱冠40歳のブーレーズに巧みにドライブされてバイロイト風の味わいを醸し出している。さはさりながら、現在よりも40年前のほうが優れた演奏をしていた管弦楽団とはなんというおそまつさであろう!

しかしなんといっても素晴らしいのは表題役の2人の名唱、そしてハンス・ホッターの深沈たるマルケ王の絶唱である。ヴィーラントの演出といっても背後に「俊寛」を思わせる書割が出てくる程度でほとんど無作為であるが、その無作為が聴衆に音楽と歌唱への集中を促し、この空前絶後の絶対的な愛と死の物語への陶酔を生み出すのである。

それがすんでからNHKのFMをつけるとメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の目も覚めるように鮮烈な、そしてほんとに私が吐き気を覚えたエッジーな演奏が聞こえてきた。「チョン・ミョンフンかな? いやもっともっと凄いぞ」と思いながら最後まで聞きとおすと、これがなんと若き日の小沢征爾がトロント響と入れた空前絶後の古い古い演奏だったので、私は大昔から今日までどんどん恐竜のように退化していったこの国民的アイドルの音楽的「反進化」の栄光と悲惨を思わないわけにはいかなかった。

小沢大先生の悪口をもうこれで最後にしようと思いつつまたしても書いてしまうのは、若き日の彼にはいま世界中の話題をさらっている81年ベネズエラ生まれの俊英指揮者ドゥダメルをはるかにしの超越的なアカルイミライがまぎれもなくあったにもかかわらず、その宝をうまく開花させることが出来なかったこの未完の天才に対して大いなる無念の想いがあるからで他意はない。

閑話休題。

その1週間くらい前には、教育テレビでコソットの演奏生活50周年記念のコンサートをやっていたがもう相当の年来なのにフィガロのケリビーノのアリアなどを歌い始めると肉弾相打つ風情の肥え太ったおばさんが突然妙齢の美少年に変身するのには驚いた。けだし年の功というやつだろう。
それに比べるとコソットより若いはずのバンブレーはもう往年の輝きは失せ、声も出ずまことに無残なものだった。

♪蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」
♪老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌

Thursday, February 07, 2008

古井由吉著「白暗淵」を読む

照る日曇る日第94回

それは夢なのか、それとも夢見る前なのか、夢を見た後の想いなのか、と著者に尋ねても答えは返ってこないだろう。とりとめのない父母未生以前の記憶、突然の爆撃と機銃掃射、一瞬にして町と川と人間の景色を消し去った戦争の悪夢、よみがえった平和の中の死、老年の衰えの日々に鳴り響く幻聴、若き日の友人の些細な思い出、さまざまな女たちの臭い、皮膚と肉の柔らかな接触、鳥や花や物や人間などがひとつに融解していく恐怖と快楽などがここ2年ほどの間につむがれた11の短編の中でモノローグのように語られ、ハープシコードのように独奏されている。

どの作品も見事な出来栄えだが、とりわけ凄いのは「撫子遊ぶ」。文久2年のコレラ流行から話が始まり、やがて応天門炎上の責を問われて憤死した大納言伴善男の話になり、「伴大納言絵詞」の登場人物が側対歩(末讀選手のナンバ走り)ではないかと疑い始め、絵詞の登場人物たちの「恐慌と喜悦とはその表情においてじつに紛らわしい」と著者は書く。私はこの作品を06年の秋に出光美術館で鑑賞したがたしかにそういう表情だったと思い当たった。

やがて大納言を思わせる老人が現れ、男女の交わりの話になって突然「水口に撫子遊ぶ夕まぐれ」という句が著者に浮かんでからは少年時代の思い出に話柄は飛び、いきなり友人の父親の死の前夜の思い出が挿入されてから、「撫子の咲く野辺に 父を埋めて 母を埋めて」という唄が歌われて、さながら漱石の「夢十夜」のような狂気幻想夢譚が鮮やかに閉じられる。人生の切断面の異様なまでの鋭い美しさである。
その幕切れはどうか直接手にとって確かめていただきたい、と寅さんの口上のように言うしかない。

なお題名の「白暗淵(しろわだ)」は、旧約聖書創世記の冒頭にある「元始に神天地を創造たまえり。地は定形なく曠空くして「黒暗淵」の面にあり神の霊水の面を覆たりき」による。菊池信義による装丁は、そのためか白い壁か油絵のテクスチャーを拡大撮影したようなデザインになっているが、これは戸田ツトムの「断層図鑑」のコピーのようにも見えた。

♪その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った 亡羊

Wednesday, February 06, 2008

冬の自画像

♪バガテルop39&鎌倉ちょっと不思議な物語98回

駅前を歩いていたら裏駅と表駅を結ぶ地下道に市内の中学生の自画像が張り出してあった。

精密なモノクロームの描線が写実的でいずれも巧みなクロッキーであるが、全体の印象がどことなく暗く、陰鬱であることが気になった。

それは思わずぎょっとするほど不吉ですらあった。個々の作品をよく見るといろいろな違いが見えてくるけれど、遠くから眺めた印象では十人一律で、あえて言うなら手法と切り口を含めて無個性なのである。

間違いであってほしいが、この暗さと空虚さと類似性が若い彼らのいまを象徴している、と私は思った。そしてそこに垣間見られるものは、未来への大いなる不安とあらかじめ用意された絶望ではないだろうか。十五にして心はすでに老人のように朽ち、孤独に立ちすくむ若く孤独な魂たちを想像して、同じ心根の私は冬空の下でぶるぶると震えた。

私(たち)は死んでも希望だけは手放してはならない。 

♪梅千本一輪だけが咲いており 亡羊

Tuesday, February 05, 2008

常楽寺詣

鎌倉ちょっと不思議な物語97回

大船という地名は3代将軍実朝が宋に渡航する大きな船を材木座あるいは由比ガ浜で作らせたことに因んでいると勝手に想像していた。
ところがいつもお世話になっている「鎌倉の寺小事典」によれば、ここ大船の常楽寺の山号である「粟船」に由来しているそうだ。 

嘉禎3年1237年、3代執権の北条泰時が妻の母の供養のために「栗船御堂」を建て、退耕行勇が供養の導師をつとめたのがこの寺の始まりであるという。しかしこの泰時は日本最古の港である和賀江島を材木座の海岸に築いた人なので、まんざら大きな船と縁がないわけでもない。

この常楽寺は蘭渓道隆とも縁が深く、蘭渓はあの建長寺を開山する5年前にこの寺で宋の禅を広めたそうで、「常楽は建長の根本なり」といわれるほど建長寺とのつながりが深い格式高い巨大な寺だったが、今は無粋な観光客なぞついぞ見かけずいつ訪れても直ちに中世の黄昏に身を投じることができる私だけの隠れ里である。

本尊の阿弥陀三尊像、脇恃の観音菩薩、勢至菩薩を安置した伽藍、茅葺の見事な山門、秋の夕日に輝く巨大な公孫樹、仏殿右奥の池と庭園、泰時のこていな墓、そして鎌倉三名鐘のひとつである梵鐘に通じる長い長い参道は、「門」の主人公代助が参禅した円覚寺よりもはるかに趣がある。

栗船山の中腹には木曽義仲の子で頼朝政子の娘大姫との愛の絆を引き裂かれた悲運の義高の墓「木曽塚」があるそうだが、私はまだそこまで登ったことはない。

♪立春哉窓一面乃銀世界 亡羊

Monday, February 04, 2008

萩原延壽著「馬場辰猪」を読む

照る日曇る日第93回&勝手に建築観光28回

馬場辰猪は「明治の東京」の著者で西脇順三郎によって“日本のアナトール・フランス”と称された明治時代の文人馬場孤蝶の兄で、嘉永3年1850年土佐中島に生まれ、明治21年1888年米国フィラデルフィアで結核のため客死した。

辰猪(「たつい」と呼ぶ)は、17歳の時に上京し福沢諭吉の慶応義塾に入って英語を学び、明治3年英国に留学しロンドンでローマ法、財産法を学んで明治7年帰国したが、翌年再び英国に留学し、明治11年の帰国まで英国法、議会の討論と西欧民主主義のあり方について親しく見聞し、「日本語文典」、「日本における英国人」「日英条約論」などの論文・著作を英文で執筆・出版した。

帰国してからは自由民権運動の最前線に立ち、次第に身体を病魔に蝕まれながら明治専制藩閥政権の抑圧と思想的、実践的に戦い、板垣とともに結党した自由党が、党首板垣自身の腐敗堕落と戦線逃亡によって空中分解してからもなお孤軍奮闘したが、民権闘争の全面敗北の急流が押し寄せる中、米国への亡命を決意するも心身の疲労困憊がきわまる中、「あまりにも性急な歩行者」と萩原に評された享年39歳の短い生涯を閉じたのであった。

明治維新の成就いらい西欧流の自由と民権主義の移植は福沢諭吉や中江兆民はじめ数多くの留学経験者、インテリ帰朝者によって精力的に行なわれたが、伊藤博文、井上毅などが大隈重信を閣外に追放した「明治14年の政変」以来自由派への逆風がつのり結局辰猪は破滅してしまうのだが、その抵抗精神と自由主義の旗は不滅のものであり、福沢と中江の弔辞を読んで悌涙せぬ人は著者と私の友ではない。

辰猪の生涯とその戦いの詳細は本書で詳しくたどっていただくことにして、辰猪の自由思想で注目すべきは、彼の結婚観であろう。(彼自身は父親の放蕩を呪詛して生涯独身を貫いた)。彼は夫婦は愛によってのみ結ばれるべきものと考え、結婚は期限を定めた契約を前提にせよと説いている。いずれかの愛が醒めればただちに契約を破棄せよというのだがなかなかに合理的ではないか。

過日私はかつて銀座でもっとも愛していた場所を訪れた。そこには今は無残なモダン廃墟と化したわが国ではじめての社交クラブ交詢社がつい数年前まで誇らかに聳え立ち、敬愛する福沢諭吉、馬場辰猪をはじめあの西周、栗本鋤雲、菊池大麓、小野梓、岩崎小二郎、後藤象二郎、大隈重信、由利公正、小泉新吉(信三の父)、犬養毅などの倶楽部員が自由奔放に討論を交わした昔日の面影をかすかに伝えていたのである。

ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう 亡羊

Sunday, February 03, 2008

我輩は犬である。

♪バガテルop38

名前は探偵犬クロである。さる探偵会社で大切に育てられた現役の探偵犬である。

生まれながらに探偵犬として訓練されているから、尾行や張込みはもちろん、人捜し、また同類項の動物捜しにも大活躍、探偵犬ならではの類い稀な能力を遺憾なく発揮しておる。

かの文豪夏目漱石は大の猫派で、探偵と大金持ちの金田一族を嫌ったそうだが、実はおいらも人様の秘密をあばく探偵稼業でおまんまを頂戴していることについては内心忸怩たるものがある。

しかし少なくともおいらは自分の頭と手足と六感で食べている。そこが2002年の2月に天寿を全うして大往生を遂げたあまでうす家のムクなぞとは一味も二味も違うところだ。あのアホムクなんて朝寝して時々起きて昼寝して時々起きて居眠りばかりしていたからなあ。やはり犬も働かざる犬は食うべからずだワン。

なに?六感がわからない? 「六根清浄お山は晴天」の六根がなまって目・耳・鼻・舌・身・意の六感になったんだワン。おいらはそんじょそこいらの新米マーロウ風情とはわけが違う。犬としての知性も品格も備えているつもりだ。

と、探偵犬クロは空っ風が吹きすさぶ甲州街道でなおもえらそうに自慢するのでした。


♪詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ 亡羊

Saturday, February 02, 2008

降れ降れ小雪

けふ鎌倉に初雪が降った。

♪雪深しわれは昭和の子供なり 亡羊

Friday, February 01, 2008

ねじめ正一著「荒地の恋」を読む

照る日曇る日第93回

何の期待も予備知識もなしに読んだのですが、とてもよく出来た小説なのでいたく感心いたしました。

著者はまるで三遊亭円生の落語の一席のようによどみなく「詩人の恋」と荒涼たる「冬の旅」を一気呵成にカタって聞かせるのです。それは詩人北村太郎の老いらくの恋と妻や恋人たちの物語です。中年男が平和な家庭を壊して自分の親友の妻を奪って親友も、妻も、自分も壊していく破壊的愛の物語なのですが、それはお互いの唾液を交し合うような濃密さを終始保ちつつ甘く切なく息詰まるようなモデラート・カンタービレで描かれているので、読者は一気に読まされてしまいます。

けれどもそれがあまりにもステレオタイプで通俗小説的な展開なので、「ちょっと待て、その嘘ほんとなの」と眉に唾する瞬間もなきにしもあらずですが、てだれの著者はまるで登場人物の霊が乗り移ったように、さながら憑依したイタコのように確信をもってカタるので、我らはもはや黙して聞くしかないのです。

登場人物の造形は確かであり、男も女もいきいきと息づいており、泣き、喚き、怒り、絶望し、途方にくれて人生に生き悩み、性交し、別れ、自殺をはかり、そうして死んでいくのです。登場人物ときたら還暦過ぎで不治の病を患っているというのにラブホテルで20代の女性を苛め抜くのですからその生と性への執着には驚倒の他はありません。

けれどもまぎれもなくここには孤独な人間の生きる姿が刻み付けられています。それはほとんど感動的なラブロマンスといってよいのでしょうが、私たちはその一見通読的なお涙頂戴の物語に感動するのではなく、そのロマンスの底に流れている、北村太郎はもちろん田村隆一、鮎川信夫、中桐雅夫など著者の同業の先輩である「荒地」の同人たちへの著者の畏敬と哀悼の念に対して一掬の涙を惜しまないのです。
余談ながら私は昔西本町のてらこ履物店の隣にあった火星社書店で、研究社の「英語青年」に掲載される大沢茂と最所フミという女性の論文をよく読んだものです。大沢氏は私の敬愛する英文学者の亡き叔父ですが、やはり碩学の最所フミさんが信濃在住のタオイスト加島詳造氏と結婚してすぐに別れてからなんと鮎川信夫氏と結婚していたことをこの本で知って少し驚いた次第です。

最後に、本書の最も魅力的な箇所は、疑いもなくp270の松田聖子の「ストロベリータイム」が車に流れるシーンであり、p156の「猫山」のシーンでしょう。無数の猫たちが折り重なってピラミッドになる光景を、この世におさらばする前にできたら私も一度は見たいものです。


♪そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌 亡羊

Thursday, January 31, 2008

小島信夫著「各務原、名古屋、国立」を読む

照る日曇る日第93回


小島信夫の小説は普通の小説とは違う。あきらかに違う。

では普通の小説なんかあるのかと聞かれたって、素人の私がここでにわかに普通の小説の定義をすることなんかてんでできないが、そもそも普通の小説は、作者の語りたいテーマが最初にあって、次にそのテーマをうまく展開するためのプロットがあり、最後に、そのプロットを木の幹に譬えると、その木をより立派に見せるための枝や葉っぱを周囲に廻らせる、という形式を選ぶのだろう、といちおうは考えられる。考えさせてもらってもいいのではなかろうかいな。

ところが小島氏の小説は、特に晩年の作品は、テーマだのプロットなどはほとんどない。

いや名古屋だの国立などといちおうあることはあるのだが、読んでみるとあまり名古屋や国立そのものの話ではないことの方が多い。それでも最初だけは題名で示されたテーマに沿って氏の小説はゆっくりと開始されるのだが、途中で必ず話が逸れ、あちこちで横道に入りこみ、横丁の長屋で大いに道草を食い、そのうちにテーマなんかあってもなくても構わないと不敵に居直り、当初はあったはずのプロットを大胆に投げ捨て、いわば無手勝流でわが道を猛進するところに彼の文学の真骨頂があると私は思う。

そのとき彼は、自分という小説家が小説を書いていることを忘れるはずがないにもかかわらずいつのまにやら忘れ去り、そのとき遅くかのとき早く忘我の境地に立ち至り、それこそ無我夢中になって細君のアルツハイマー症状やら自分の過去現在の交友やら郷里の記念碑やら文学館やら私も大好きなゴンチャロフやオブローモフや幕末の聡明な奉行川路聖謨やら「わが名はアラム」のウイリアム・サローヤンやらスターンの「トリストラム・シャンデイ」やら私の大好きな新橋の日本銀行に似た昭和7年製の堀ビルやら明治大学理工学部の授業で「具体的なことだけが生きるのだ」と語った話やら持病やら住宅問題やら身の回りの些細なトラブルやらについて忙しく思いをめぐらせ、その思いの丈をまるで牧場の牛が限りなくよだれを垂らすように、春の小川が、いな秋の小川がさらさらとさらさらとどこどこまでも流れていくように、美空のひばりがとめどなく高空でぴーちくぱーちく囀るように、果てしなく書き連ねるのだが、他の多くの小説や小説家と決定的に違うのは、その折に作家は彼の実存を全てさらけ出し開陳しつくしていることなのである。

「おおこの男は今全身全霊で生きている、その証がこの麗しき水茎のあとなのだ」ということを我ら読者は彼の一語一語が目に飛び込むその瞬間ごとにいやおう無く感得するのである。彼が死に損ないの蛾が卵を産みつけているようにいままさに命の残光を刻み付けていること、いわば遺言を書きつつあること、にもかかわらず今彼が激烈に自らの生を生きていること、そうして私たちもまた生きていること、を痛切に思い知らされるのである。

本書の最後はこんな風に終わっている。

「ちょうどテレビでは、ニューヨークの世界貿易センターに、ハイジャックされた満タンの第一の旅客機が激突し、おどろいて物をいえずにおるとき、第二の旅客機が音を立てぶつかるところで、『ハイハイ』とてっとり早くいっておいてテレビに戻った。
そのテレビは、ムスメが電気屋さんにいって、おくようになったワイドの実に大きなものであって、何週間めかに思い出したように、アイコさん(主人公の妻)が、『このテレビ前からあったかしら』と問いかけ、『前からのものではありませんよ。これの方がよく見えるから、少なくともぼくにはね』というと、『いいわねえ、これ。こんなものがあるのね』
『ここにあった小型のは、まだ性能がいいからいまの二階のあなたの部屋のものと置き換えようと思っているが、どうしてか、この頃あの電気屋こないな』
何ということが、テレビで起こっているのだ。それからあと二週間、たぶん世界中が何とかよい方法はないものかとこんなに真剣になっていることは珍しい、と思いながら、小さい小さいことだけれど、わが家も似ているといえばいえないことはない、と思っているような気がする」

あの9.11同時テロに驚倒しながらも、同時につまらぬこと、どうでもよいとも思える日常生活の些事にとらわれてしまう自分を見つめている人間、世界の一大事と自家の一大事をためらいながらも等しい重さで対峙させている人間。その愚直な誠実さが小島信夫なのである。

♪またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を 亡羊

2008年亡羊睦月詩歌集

♪ある晴れた日に その20


おみくじは引かずに帰る鎌倉宮

なにごとのおわしますかはしらねども今年もなんとか生きていくよ

去年今年生きてしあればそれでよし

初日の出今年も市中に山居せむ

小便の泡で描きたる髑髏かな

父祖伝来暗黒面に光なし

粛々と死地に赴く銀の船

元旦やわれよりもまず家族かな

在庫無く迎える朝に日が昇る

冬の朝わが欲望の遠ざかる

どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない

神田なるチャールズ・イー・タトル商会にあこがれし日もあり
 
こなくそと振り下ろしたる刀かな -偲龍馬

亡き父が釈迦の寝姿といいし山けふも静かに横たわるかな

真っ青に晴れ上がりたる冬空にわが初めて獣になりし日を思う

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

神実在森羅万象すべて不可知なり

大寒やわが欲望の小ささよ

新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 

ひよめじろやまがらおながしじゅうからうぐいすみんなこいこいわがやのときわさんざしへ

正岡の子規が作りし月並みの句ほど好ましきものはない

果樹園で柚子を拾いき花いちもんめ

果樹園で彼女の屍体は見ざリけり

我もまた穴で春待つ土竜かな
 
一月も半ばになりて仕事来ず

今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん

正月なし無用の用に精進する息子

わが息子寝る間惜しみて描きたる愛犬ムクの絵売れ残りたり

神仏に祈りし甲斐やムク売れる

はにかんで笑った顔がぶれていた月本氏死す弱冠四十七

ただ一人泣いていたりし通夜の客

莞爾たり無私たり自娯たりし月本氏死す享年四十七

我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ
 
教壇のチョークの粉にまみれつつ白けた魂を熱く燃すべし –最終講義

あの世からの刺客のごとく手裏剣を生徒の胸にシュルシュルと刺す

わが実存かけて発する言の葉よ若き胸に落ち善き実を結べ

子規漱石もし今の世にありとせばいかに生きるやいかに死ぬるや

音程が悪いとわれが罵りしその流行歌手は左耳聴こえず –許せ鮎女

昼は尨犬のごとく街頭を彷徨い夜は鮪のごとく眠れり

闘争を紛争、敗戦を終戦と言い換える人が嫌いだ

道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ

誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に長く馨るよ

空に鳥万象すべて不可知なり

一月も終わりになりて仕事来ず

善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年

Tuesday, January 29, 2008

ホッブズ・ファッションの時代

ふあっちょん幻論第7回

前回、私は80年代に女性の肩パッド入りジャケットがアウト・オブ・ファッションになると同時に婦人服の全体的なシルエットがよりミニマムで身体にきちんとフィットした細身のシルエットに変化していったこと、それからおよそ二十年近く遅れて紳士服のシルエットが同じようにスリムな形に変化したという記事を書いた。

ところがたまたま1月25日附の朝日新聞夕刊を見ると、スタイリストの原由美子さんが08年春夏のパリコレでイヴ・サンローランが発表した肩パッド付のネービーの袖なしジャケットを紹介していた。

そしてその記事の中で、原さんは「もう80年代のようなジャケットブームは帰ってこないと考えていたけれど、下に長袖を着てウエストにはベルトを締めたこの着こなしこそは今の時代に求められている新しいタイプのジャケットである」と断言し、ブームの再来の可能性を期待しているようにも見える。

ご存知のように、衣服と身体あるいは皮膚との間にはつねに鋭い緊張関係が存在しており、(皮膚は脳そのものだ)その感覚と懸隔はその時代とその時代を生きる人間との相関関係を微妙に反映している。

過ぎし高度成長の時代はまだ帝国の臣民の政治経済社会の意識は環境に対して鋭角的に鋭く対峙していたから、詰め襟の学生服や企業のお堅い制服に代表されるようにそのシルエットはぴたりと身体に密着していた。

ところがわが神国日本が大きく経済成長を遂げ、帝国臣民が総体として豊かなになり、肥え太った臣民たちの精神は著しく弛緩すると共にその典型としてバブルの時代が訪れると、前述の巨大なフィット&フレアのシルエットが畏れ多くも畏くも華麗に花開いたのである。

しかしその後のデフレ時代と世界的なテロと不安の時代が世界のファッションを再びスモール&ミニマム&ハードフィットネスの時代へと逆流させ、アホ馬鹿小泉がわが帝国において将来したいわゆる格差ふぁしずむ時代の登場が、「万人が万人に対する敵であり、衣服は潜在的な敵としての他者に対する最小の武器である」という前代未聞のホッブズ・ファッションの時代を招来したのであった。

このように重苦しい背景をひきずっているだけに、私はこのサンローランの新デザインは、原さんがいうように「肩パッド付きジャケットの再現」ではあっても、「21世紀後半のフィット&フレアのビッグ・シルエットへの大きな回帰」のさきがけとしての象徴的な意味を持っている」とまでは、まだ確言できないような気がするのである。


善きこと日々に滅びて悪しきこといや勝りゆく平成二〇年 亡羊

Monday, January 28, 2008

小島信夫著「暮坂」を読む

照る日曇る日第92回

この本にはさまざまな人物とそれらの人物がかもし出すさまざまな事件というか日常生活の断片が次々に描かれる、それはそれとして面白くないこともないのだが、読んでいて退屈になるどうでもいい挿話も続々と出現してきて、普通の私小説なら作者と作品の主人公はおおむねイコールであり、作者は読者を意識し、読者を楽しませることを主眼に物語を書き連ねるのだが、本書の場合は基本的にはその私小説という形式を踏襲しながらも、作者と同じ名前を持つ小島信夫という名の小説家を登場させたり、有名無名の作家や友人や宗教家などを無遠慮に出現させたり、小説のなかで彼らを狂言回しにして一種の哲学や考察を開陳したり、平板であるはずの私小説の世界を数多くの実在、非在の人物が暗に陽にうごめく奇怪なモノローグ詩劇のような異様な劇世界に仕立て上げてしまう結果となっており、そこが旧来の伝統的な私小説との違いであるとは分かってはいても、ではどうしてこのような奇妙かつリスキーな文学的な実験を敢行するのかと問えば、それは小島信夫という人間の謎を小島信夫という作家が完璧に解明しようとして自分が自分に仕掛けた生存の罠なのであり、多くの経験と蹉跌を経てそれ以上の血路を切り開こうとすればこうするほかはなかったとでも言うべき小説の方法的制覇への裏道、前途の勝利をまったく予測できない必然的な道行きであったとしかわれひと共にいえず、その結果作者自らがあとがきで述べるように美術評論家のU氏だの新興宗教の教祖的存在であるY氏だのZ氏だのが踵を接して登場し、それらのいずれもがきわめてうさんくさい存在のように見え始め、例えば書家井上有一の支持者であり彼の評価をここまでの高さに引き上げたといっても過言でもないU氏を作者が尊重し擁護すればするほど私たち読者の目にはそのU氏のみならずくだんの井上有一の芸術性すらも例えば白隠禅師の書の本物性に比較すればいささかどころか大いに遜色のある偽者性をその作品内部に含有しているのではないかとの疑念が湧くのをいちがいに押し留めることができないし、もっと言えばこのような怪しくうさんくさい人々との交友を深めていく作者自身に対するうさんくささもいや増すばかりなのだが、ほかならぬ作者が自らのうさんくささについて公言しており、またおよそこの世の中にうさんくさくない人間がたった一人でも存在するだろうか、文学とはそうしたうさんくささを徹底的に掘り下げることではなかろうかと考えるとき、もはや私たちにできることは外野席からとやかく批判する愚に陥る危険を避けて、この自己探求という名の泥濘に覆われた薄明の暮坂をどんどん下っていく気狂い老人の行方をただただ凝視するしかないのだった。


新橋のポルノ雑誌屋とキムラヤクラシック売り場解けて流れて霞となりけり 亡羊

Sunday, January 27, 2008

吉本隆明、梅原猛、中沢新一著「日本人は思想したか」を読む

照る日曇る日第91回

梅原猛、吉本隆明、中沢新一の新旧思想家による日本思想史の大総括書である。今から10年以上前の対談であるが、いま読んでも随所に斬新な知見がちりばめられており、再読三読の価値がある。

例えば次のような中沢などの指摘があって興味深い。
 
太閤秀吉の刀狩と喧嘩停止令が出されたために、平和な江戸時代になって博物学と物産、自然と性愛に対する興味と好奇心が高まり、その結果喜多川歌麿は当初の自然画から性愛画へと進み、西鶴の遊郭色道文学が流行し、本居宣長の性愛色道肯定の源氏物語論などが登場した。源氏物語とは、あるいは文学とは、つまりは「もものあわれ」なのだ。

また梅原は「古事記」は人麻呂によって書かれた歌物語であると断じる。「竹取物語」は天武帝時代の権力者へのカリカチュア、「万葉集」は柿本人麻呂や大伴氏への、「伊勢物語」は藤原氏に弾圧された在原業平への、「源氏物語」は源氏への、「平家物語」は平氏への鎮魂歌でありながら法然浄土教の宣伝の書であり、「古今集」は政治的生命を絶たれた紀氏の文学者独立宣言の書である。

吉本は「源氏物語」が日本の空間的な四季観を初めて確立したといい、中沢は反道長派の「枕草子」だけがこの空間化に対抗し反発したという。吉本は「新古今集」が古典的和歌リズムの絶頂と崩壊の始まりと見る。そして連歌だけは古今的で厳格な宇宙観、論理構造を受けついだとされる。

次は音楽と宗教についてである。

空也と一遍は踊る聖だった。行脚と踊りのダンスミュージックが日本芸能の発端としての縄文的&ディオニソス的音楽芸術となり、西行、芭蕉、山頭火あるいは近世の毛坊主たちによって大衆化されて、現代のストリートミュージックやフォークやロックに続いている。とこれは私の勝手な追加。

新宿角筈の地名は十二社の裏の熊野神社が毛坊主たち(浄土真宗などの信者で半僧半俗の有髪の人)の集落で、彼らが手にした「鹿の角の付いた杖」から来ていると中沢は言う。空也像もこの角筈を手に持っているが杖の脇には瓢箪がぶら下がっており、柳田國男はこの瓢箪は楽器だと書いている。

毛坊主たちは、近世のアホダラ教のチョボクレにみられるように、いつもパカポコパカポコお経をやっていた。かつて比叡山では声明をメロデイで歌っていたが、浄土宗の毛坊主たちのアホダラ教の音楽も基本はリズムである。

西欧のプロテスタントがキリスト教から美術や装飾を取り去ったためにバッハの宗教音楽のようなドイツ音楽が本格的に発展したように、仏教から美術と装飾を否定した浄土宗から、わが国の固有の音楽と文学が生まれた。(親鸞は景教の僧侶が漢訳したマタイ伝を読んでいたそうだが、もちろん浄土真宗=キリスト教ではない。表向きは一神教に見える浄土真宗も実際は選択的であり、いわば必修的な西洋一神教とは本来的に違う)

「新古集」の古典的な調和の美学は、中世の平家物語や太平記の音楽的文学、戦う武士を疾駆させる馬の蹄の跳躍の音、ギャロップのリズムによって置き換えられる。西方極楽浄土を揺るがす悪党たちの全身的破壊的ゲリラミュージックが日本の芸術に縄文的生命を注ぎ込んだのである。

そして結論。

人間と自然と神が三位一体で密接不可分であるというオリシア=基督教のコスモス思想はキリスト教内部のグノーシス派やマルチンルター、その後のヘーゲル、実存主義などによって崩壊し、予定調和的コスモスから疎外された個人と現代社会は孤独なままで漂流している。

その現代人と現代社会の「病気」を超克するには、一方では縄文、アイヌなど原始的な生命力の掘り起こしと同時に、革命的な科学技術の登場が必要である、と吉本は説くが、具体的な手がかりがどこかに転がっているわけではない。

ハイイメージ論以降の吉本の唯一の生産的な仕事は、近代詩の中心価値は比喩であり、直喩より隠喩を上手に駆使している詩のほうが文学的に上位にあると説く「詩学叙説」くらいのものではないだろうか。この対談においても発言内容、頻度ともに他の2人に力負けしているのは昔からの一ファンとして歯がゆい限りである。けれども、考えてみれば現代のアポリアについて白黒いずれか2分法の浅はかな回答を拙速に行なうことが優れた思想家の使命ではない。とすれば吉本氏はまことに賢明な不可知論者という道を選んだというべきだろう。

いずれにしても私は本書のタイトルではないがまったく思想などしないでただ生きている人間なので、激しく思想しているこの三人に大いなる知的刺激を受けた次第である。


空に鳥万象すべて不可知なり 亡羊

Saturday, January 26, 2008

ある丹波の女性の物語 最終回 

遥かな昔、遠い所で第69回

 生涯病弱だった継母の死は、其の4年後の63年11月に訪れた。90歳を5日後にひかえた死であった。

 夫の死後1年で創業100年余の店をとじ、殆ど床にある母と2人きりの暮らしが続いた。それでも気分の良い日には教会に出かける日もあり、継母は教会だけが生き甲斐であった。

継母も熱心な信者を父に持って教育されたが、家が仏教だったら、きっと熱心な仏教徒で終わったろうと思う。中々頑固な所もあったが、追々と私に心を開いてくれ、感謝して、生命の灯が消えるように召されて行った。

 1人残された私も昔風で云えば古稀を迎えた。高血圧の私は、いつまで生かされるか分らないが、人に迷惑をかけぬよう終わりたいと願っている。

矢内原忠雄、内村鑑三等、本棚もあさってみたが、すでに老化した脳には消化する力はない。今は教理などどうでもいい。絶対者に全てをゆだねようと思う。私を愛してくれた天上の人々との再会も又、楽しかろう。

 すべてが感謝である。子供達、孫達との想い出は、したためずとも、それぞれの心の中に沢山きざんでいるにちがいない。

 私は父のように立派な足跡は残せないが、母のように、そして夫のように、いつまでも人の心の中に優しさを残す人になりたいと願っている。


衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや  愛子       

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ 愛子


1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく  愛子

 

あとがき

ある丹波の女性、佐々木愛子は大正10年1921年2月22日に生まれ、平成14年2002年3月23日に81歳で亡くなりました。「ある丹波の老人の物語」は彼女の父の伝記でしたが、この「ある丹波の女性の物語」は1989年から1990年にかけて彼女自らの手で執筆された自らの半生記で、息子であるわたしが各回の文末に1975年頃から95年頃までの間に彼女が詠んだ80首余りの短歌と俳句をあわせて掲載しました。

母は、もちろん単なる下手の横好き、一介の市井の歌詠みでしたが、「歌は心が満ちればおのずから生まれるもの」というのが、生前枕草子や万葉集を愛した彼女の考え方でした。そのためか、どの作品も拙いながらも技巧にとらわれることなく、虚心坦懐に思ったまま,感じたままを素朴な調べに乗せて歌っている点が、身内贔屓の目には好ましく感じられます。
とりわけ最後の作品は、歳をとっても少女らしい夢を失わなかった故人の人柄が儚い虹のように美しくあらわれているような気がしてなりません。帰天した母もまた、きっと小さく青い星になって、いつまでも私たちを見守っていてくれることでしょう。


我が滅びのあと残されし子らのために何が出来るかを考えよ 亡羊

Friday, January 25, 2008

ある丹波の女性の物語 第46回 

遥かな昔、遠い所で第68回

 父が召されて28年がたってしまった。時代は移り変わり、洋装の時代となり店は縮小していった。

 夫は父の死後、株に興味を覚え、ラジオの短波放送に聞き入る事が多くなった。そして1年後には持ち株の殆どをうしなってしまったのである。38年の大暴落をまともに受けた訳である。

 しかし、長い間養子として父に押さえられていた、若い日の代償と思えば、それは安すぎるものかも知れないと思う。
 その後、夫は教会に熱心に通い、父への墓参をかかさなかった。

 その間に、長男は早稲田へ、次男は府立医大へ、娘は同志社へと進学、揃って特別奨学金も受け、アルバイトもしてくれた。

 59年、夫の死は全く夢のような出来事であった。隣の街に入院している人に、とどけものをしようと、綾部駅へ急ぐ途中心筋梗塞が起こり、自分で近くの病院へ行き、そこで息がたえたのである。出かけてほんの僅かの出来事で、とても信じられなかった。

 夫は朝のジョギングを長年つづけ、自分の健康には自信があったので、医師になった次男にも脈をとらせた事がなかった。最後の脈も、とらせる事なく召されたのである。

 夫も教会の役員となり、社会奉仕にもつとめたが、目立つ事の嫌いな人であった。しかしその優しさは、人の心にうつるものがあったようで、死後、思いがけない人々から慰めの言葉を頂いた。



水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ   愛子   (「水無月祭」は綾部の夏祭り)  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ  愛子


打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり 愛子

Thursday, January 24, 2008

ある丹波の女性の物語 第45回 

遥かな昔、遠い所で第67回

 37年6月21日、その父が突然亡くなったのである。

 大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、天に召された。

 父は自分の思う通りに生き、まさに天国への道をかけのぼっていったように思う。当時、中学2年の長女が、この祖父の死に就いて記しているが、この祖父の活きざまにひどく心を打たれたようである。

 「祖父の生涯は、祖父が好んでいた聖句―――我にとりて生くるはキリストなり、死もまた益なり―――そのもののように感じられた。」
 「私の心の中と写真の中の祖父は、今もなお、悲しい時にはなぐさめ、心配がある時には自信をつけ、嬉しい時にはいっしょに喜んでくれる。私は、永遠に、祖父の思い出、祖父の全てのことを、忘れる事はないだろう。」

父は生前好んだ白百合の花に、うずまるようにかこまれて葬られた。
 「血は水よりも濃し」というが、私は自分の生涯をふり返り、全然血のつながりのない父が、血縁のない私を心から愛してくれた事を感謝すると共に、血以上のものがあると思う。私がそう感じる一方、それ故に、父の死は夫に初めての解放感をあたえたと思う。

 父には何かの予感があったのか、死の前夜、私に色々と昔話を語り、「自分の一生は、時間に追われて暮らしているようなものだった。時間のかねが打つ度に、生命の縮まる思いで働きつづけた。お前達の一生暮らしていける貯えは充分してあるので、これからは自分達の生活を楽しみながら、ゆったりと過ごしてほしい」と語った。

 
登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては  愛子

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて  愛子

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて   愛子   (「深夜便」はNHKラジオ番組)

Wednesday, January 23, 2008

ある丹波の女性の物語 第44回 喜寿

遥かな昔、遠い所で第66回

 夫もボツボツ休みながら、仕事も出来るようになり、34年の問屋の招待旅行には、私に姉の絢ちゃんと2人で行くようにすすめてくれ、出雲大社への旅行に出かけた。
2月末なのにとてもあたたかくて、皆生温泉では私達姉妹には浜辺の離れをあてがわれ、松籟や潮騒の音をききながら、生まれて初めて、2人きりの夜を色々と話し合った。

 36年5月5日には、みんな元気で、父の喜寿を祝う事が出来た。

 父の甥や姪など大勢を招いて、由良川沿いの小高い山にある料亭で宴を開いた。庭には藤の花房もたれ、さつきも満開、由良川の小波も陽にかがやいて美しく、父も大満足で、鼓を打ち、謡をうたった。みんなも心から父の喜寿を祝った。

 夫は発病後、煙草も、好きな囲碁の夜ふかしも止め、毎朝ジョギングを始め、発病前より以上の元気を回復した。
 父も、もっぱら教会の事、ギデオンの事に一生懸命で、高校や、病院などの聖書贈呈にいそしんだ。


級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく


藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ

Tuesday, January 22, 2008

ある丹波の女性の物語 第43回 夫の入院

遥かな昔、遠い所で第65回


 父が念のためにと、夫を京大病院の結核研究所へ連れて行った。開放性ではないが、肺炎と結核におかされているので、要入院との事で、直ちに綾部の郡是病院の結核病棟に入院した。

私はすでに覚悟はしていたけれども、入院準備はすべて終え、夫を1人ベッドにおいて帰ろうとした時、泣くまいと思うのに、涙があふれ出るのを止める事が出来なかった。しかし夫は、優等生と言われる程おとなしく闘病してくれたので、33年秋には無事退院する事が出来た。

 住み込みの女の子もよく慣れてくれていたし、父は夫の留守の間は手伝ってやると、がんばってくれた。私も皆が起きるまでに毎朝病院を訪ね、帰ってから店を開ける事にして、懸命に働いた。

 父も入院中の夫を聖書を持参してはげまし、他の患者さんにも伝道した。

 夫の退院祝に、鎌倉の兄からテレビを贈りたいとの申し出があったが、長男はすでに中学1年、次男も1年おいて中学生になるので、相談の上、毎日のお弁当作りに重宝なものをと、まだ田舎では珍しい電気冷蔵庫を、秋葉原から送ってもらった。
 子供達は3人揃って人が羨む程成績がよくて、全く心配がなく、その点ではとても恵まれていたと思っている。


浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり 愛子

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ 愛子

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり 愛子

Monday, January 21, 2008

ある丹波の女性の物語 第42回 旅行 

遥かな昔、遠い所で第64回

 翌32年も問屋の九州旅行に、私達は再び参加した。

2月は一番ヒマな時期なので、父達も心よく留守を引き受けてくれた。別府、阿蘇を経て、長崎から雲仙、三角港から熊本へと1週間の旅であった。阿蘇山上は一面の雪で、あのこおりつくような寒さは忘れられない。熊本でも積雪がある寒い冬であった。

 4月の末には倉敷の夫の実家に法事があり、兄弟姉妹、夫婦で全員集まれと言う事で、私達も店には応援の人を頼み、これにも参加した。私は倉敷へは初めての訪問であった。

鷲羽山の旅館で宴会があり、甥のバィオリンでダンスも始まった。和やかな楽しい集いであった。「春の海ひねもすのたりのたりかな」そのままに、瀬戸内の波はおだやかであった。そのベタ波を目のあたりに眺め、新鮮な魚に舌鼔をうった。夫も心からくつろぎ、みちたりたようであった。兄弟姉妹って、なんていいもんだろうと私も心から思った。

 その年の5月、高熱が出る風邪が大流行した。店もしめ、学校も休みになった。我が家も全員発熱。互い違いに、1週間程休んでおさまったのであるが、夫だけはいつまでもすっきりしなかった。





散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花 愛子

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり 愛子

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に 愛子

Sunday, January 20, 2008

モーツアルトの降臨

モーツアルトの降臨

♪音楽千夜一夜第31回&鎌倉ちょっと不思議な物語96回  
プラハの国立劇場オペラは、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」や私が偏愛する「皇帝ティトスの慈悲」を初演したオペラハウスとしても知られている。先夜私は、この中欧の凡庸とは言わないまでもローカルな、ベテランのオケをバックにだいぶとうのたったまあ2流から3流の歌手たちが奏でる「フィガロの結婚」を聴きに行った。

指揮も演奏も演出も歌手たちも私の知らない人ばかりだったがまずまずのできばえで、小沢やアーノンクールの指揮と違ってモーツアルトの音楽を聴くにはまったく問題はなかった。4幕のゴルフのシーンや虫のすだきをBGMで聞かせる演出は良くなかったが、美しい色彩のドレープの衣装がことに印象的だった。

ご存知のように、この曲の最大の聴き所は序曲と終曲にある。そしてあらゆるオペラのうちで最もオペラ的な序曲がこれである。
「さあお待ちかね、皆の衆これから胸がわくわくするような素敵なオペラが始まるよ」、といわんばかりの冒頭の数小節が、流麗な旋律、沸き立つようなリズム、そして色彩豊かなハーモニーに乗って繰り広げられるやいなや、私たちの心は早くもモーツアルトの音楽のとりこになってしまうのである。

この序曲だけで優にオペラの全曲に比肩するだろう古今随一の名曲を、モ氏は初演間際に綱渡りのように書き上げたというのだから驚く。おそらくプラハに急行する馬車の中でペンを走らせたのではないだろうか、と私はメーリケが「ドン・ジョバンニ」の初演のためにプラハに急ぐシーンから始まる「旅の日のモーツアルト」を読むたびに思うのである。
ちなみにこの本ほど読む人の心をしあわせにしてくれる書物を私は知らない。そして読むたびに彼のピアノ協奏曲第15番の第3楽章のアレグロが胸いっぱいに高鳴るのを覚えるのだ。

モ史の最初と最後の交響曲がド、ミ、ファ、レの4つの音を使っていることは有名だが、その夜私は第2幕の終わりの有名な4重唱、5重唱、6重唱、そして大団円の7重唱の掛け合いのところで彼の「レクイエム」で使われた旋律が鳴り響くのに気づいてわが耳を疑った。長調なのに短調、短調なのに長調と聴こえ、喜劇という上部構造の下部でひそかに同時並行的に進行する悲劇という重層的な音楽ドラマは、天才モ氏だけが書くことができた。

しかしいつも思うのだがフィガロの音楽は猛烈な速度で進行するのに、その演奏時間は長い。この夜は2幕の途中などで相当カットしていたがそれでも20分の休憩を挟んで160分間かかり通常は優に3時間を超える。映画「アマデウス」では、フィガロの音楽が長すぎる、音符が多すぎると感じた皇帝ヨーゼフ二世があくびをもらしたので、かのサリエリがしめたとほくそ笑むところが描かれていた。

実際フィガロの結婚話を描いたこのたった1日の朝から夜までの喜劇を描いたポーマルシェの芝居の原作もダポンテの台本もけっして長いものではない。にもかかわらず本来もっと簡単に終わるべきオペラ・ブッファの1幕から2幕、そして3幕までを、モ氏は延々と音符の限りを尽くして引き伸ばした。

何のために? 長丁場に終止符を打つ第4幕大詰めの最後の最後のフィナーレに万感の祈りを込めるためである。

封建時代の遺制である初夜権を放棄したといいながらまだフィガロの許婚スザンナに未練たっぷりな封建貴族のアルマヴィーヴァ伯爵とその従者フィガロの新旧両勢力の権力闘争を色恋沙汰を交えて描くこのどたばた悲喜劇的革命劇は、保守的で頑迷な伯爵の妻への謝罪のシーンで終わる。

第4楽章のスザンナのアリアで泣きに泣かせ、伯爵邸の夜の庭を舞台に展開されるどんちゃん騒ぎをあおりに煽り立てたオーケストラが、夜のしじまの中で一瞬全休止するとき、世界は深い闇に閉ざされ、地球はそのゆるやかな回転を突然停止する。いまやなにか神聖な時の時が訪れたことを私たちは予感する。そして私たちはモールアルトの音楽とともに、あるいはフィガロの翌年に書かれるであろうドン・ジョバンニとともに、「世界の奥底、宇宙の果て」にまで降りていくのだ。

そのとき、伯爵夫人ロジーナの前に片膝ついたアルマヴィーヴァ伯爵は、

Contessa,perdonno.(許してください伯爵夫人よ)

と厳かに歌う。すると夫の心がもはや自分を去って遠くに行ってしまった孤独と悲しさに耐えながら伯爵夫人は

Piu docili io sono
E dico di si. (素直な私ですから「はい」と申します)
とけなげに答える。

けれどもそれは夫への単なる許しの言葉ではない。人間が、生きとし生ける者たちが犯すすべての罪科に対する大いなる許しの声である。その声はその罪を胸に懐くすべての者たちの奥の奥にまで届くモーツアルトの声であり、地上で争い、憎み殺しあう者たちへの「あらかじめの許しの声」であり、こういってよければ宇宙からの、天からの声である。

私たちはこれに似た声をしばらくしてから聞くようになるだろう。世界に恒久平和を願うベートーベンの第9交響曲である。しかしシラーの歓喜の調べが高らかな直喩で歌われたのに対してモ氏の平和の歌はもっと低くもっと小さく、ほとんど聞き取れないくらいの隠喩として囁くように呟くように歌われる。それこそがモーツアルトならではの平和への祈りであり、人類と神と宇宙に向けて発せられたかそけき希望の歌なのである。
それがフィガロでモーツアルトがやりたかったただひとつの事業だった。

そうして幸いなことに私はその夜、その声を確かにこの耳で聴いたのだった。その夜モーツアルトは私(たち)の両肩の上にさながら音楽の精霊のように降臨したのである。
今晩はどんな夢見るかなと笑いつつ疾く床に就くうちの善ちゃん 亡羊

Saturday, January 19, 2008

吉本隆明・大塚英志著「だいたいで、いいじゃない。」を読む

吉本隆明・大塚英志著「だいたいで、いいじゃない。」を読む

照る日曇る日第90回

「だいたいでいいじゃない」というタイトルは悪くない、いや素晴らしいかもしれないと思ったのには理由があって、毎日のマスコミをにぎわせている政治、経済、社会などの話柄とそれを巡るとかく重箱の隅をつつくようなミクロの決死圏で、食うか食われるか、倒すか倒されるか、己が勝つかお前が勝つか、それでは負けたら腹を切るか、的な議論を目にしただけで疲労困憊してしまうすでに半死状態の私は、テロ特がどうなろうが民主が政権獲得に成功しようがはたまた失敗しようが、温暖化ガスが100倍排出されて朝青龍がモンゴルまで吹き飛ばされようが(私はこう平気で言い切れるくらいには排外的なナショナリスト兼国粋主義者だ)もうどうでもいいじゃないか、ミジンコ世界を逸脱して巨視的マグロ世界に悠久の時空の消長がうるわしく語られているのではないかと妄想した吉本氏と大塚氏の対談集であったが、結論としてはそうねえ中身は題名ほどには面白くなかったのであったが、これをしも羊頭狗肉とまで酷評するのは言いすぎであり、例えば吉本氏の「子供を殺された親が、もう俺は我慢がならねえから殺したほうの子供を殺しちゃう、って言って親がどっかで待ち伏せして刺しちゃったとか、僕はそれについては肯定的なんですよ」という発言に対しては私は全面的に賛同するどころか、もし自分の子供がそういう悲惨な目にあったなら近代の法制度や正義がどうであれおそらく10中8,9そのような直接行動に出るだろうことを予感しているがゆえに「おお吉本、いい歳とってもちっとも変わっちゃいねえじゃんかよお」と思わずやんややんやの声援を送りたくなるし、「リストラされた会社員がやるべきことは、そのような事態をもたらした会社や経営者自体をリストラすることだ!」という斬新な切り口には思わずあっとうならされるし、(でも到底実行不可能だと思うけど)、明治以降のわが国の代表的知識人は柳田國男と折口信夫であるが前者は所詮は随筆家に過ぎず、後者が日本語の祖先まで遡って「国語学編」で比較言語学を敢行しているのは凄い、と喝破しているところなぞはふむふむそういうものですかと拝聴できるが、ジャック・ラカンの受け売りで「女性はみな気ちがいであり、男性の本質は女性になることです」とうわごとのように口走ったり、「新約聖書のキリストがちょっと触ったらハンセン氏病が癒えたという箇所は信じきれないが、立てと言って手をかざしたら足萎えが立ったり、足腰の痛いのがなくなったというのは完全にありうると思っている」と語ったり、「麻原彰晃でもそれはできるでしょう」と断言するのみならず、「消費は生産である」と軽ーく強弁し、あまつさえ「農業がなくなったら天皇制はなくなる」とのたまうにいたっては「もう結構です、だいたいでいいじゃない」と思わずゴッホの絵のように黄色い装丁のこの本を遠くに投げやってしまったのだった。 正岡の子規が作りし月並みの句ほど世に好ましきものはない 亡羊

Friday, January 18, 2008

網野善彦著作集第6巻「転換期としての鎌倉末・南北朝期」を読む

照る日曇る日第89回


安達泰盛といえば蒙古来襲のみぎりに自らの首を賭けてひたすら恩賞を求めて一所懸命に戦った竹崎季長に破格の待遇と恩賞を与えた剛腹な御家人だった。しかし霜月騒動によって当時の悪党どもによって暗殺される(私のご贔屓の)悲劇の政治家である。

著者は「関東公方御教書」という論文のなかで、この執権政治とその興亡を共にし、兼好法師が「道を知る人」と評した安達泰盛への共感と偏愛を隠そうとしない。無味乾燥に堕しがちな叙述の中に、私情と詩情を平然と持ち込んで語る勇気と才知を兼ね備えていた稀有な歴史家であったことが、喪ってはじめて分かる網野善彦の魅力だった。 

多くの歴史家が否定的に論じた「悪党」や楠正成、後醍醐天皇についても著者の切り口は鮮やかである。古来諸説飛び交う「悪党」の本質を、非農業的な生業と不可分な関係にあり、遍歴性を持つ「職人」的武装集団と喝破したのは著者だけであろう。楠正成がその典型であるが、原始的な「荒々しさ」と著しい「有徳さ」とが切り離しがたく結びついて現れる状態、それが「ばさら」なのである。

鎌倉末期、繰り返される幕府からの弾圧にもめげず、自らの結びついた権門寺社内部の対立をたくみに泳ぎ回る「ばさら」たち。その権門内部対立が頂点にまで達したとき、赤松円心、楠正成、名和長年などの悪党たちの鬱屈した怒りと革命のエネルギーを見事に束ねたのが後醍醐天皇と(私のご贔屓の)護良親王だった。

なお正成の祖先は不明だが、本拠地金剛山の近くに平安時代から天皇家直轄の金剛砂(エメリーという鋼玉)を売買する商人がいたのでこれを正成に結び付けたくなると著者は告白している。

覆面して笠をつけ下駄を履く異類の「ばさら」たちを皇居に出入りさせ、非人たちを軍事力として活用し、あまつさえ現職の天皇でありながら自ら法服を着けて真言密教の祈祷を行なった後醍醐は実に異様な異常な王であった。

彼は元徳元年1329年に「聖天供」の祈祷を行なっているが、聖天供の本尊「大聖歓喜天」は有名な象頭人身の男女抱合、和合の像であり、男天は魔王、女天は十一面観音の化身といわれる。後醍醐天皇はここで人間の深奥の自然であるセックスそのものの力を自らの王権の力としたのである。(「異形の王権」P366) 

そして著者は、非人を動員し、性そのものの力を王権強化に用いることを通して日本の社会の深部に天皇を突き刺した後醍醐が、「その執念で」南朝を存続させ、室町時代から現代にいたる天皇制の運命を決した、と謎のような言説を吐いて憂き世を卒然とみまかったのであった。
我もまた穴で春待つ土竜かな 亡羊

Thursday, January 17, 2008

ことばには意味がある!?

♪バガテルop37

最近岩波書店の広辞苑10年ぶりに改訂され、新聞をメインにした第6版新発売キャンペーンが展開されているようだ。

ビジュアルに手塚治や桑田投手など意表をつくキャラクターを起用しているのはいいとしても、キャンペーンテーマのコピーが「ことばには意味がある」というのは、はてこれにはいったいどういう意味があるのか?と頭をかしげてしまう。
もしも言葉に意味がなければ、出目金に目玉はなく狸に金玉もなくなる道理だ。余りにも当たり前すぎる。意味のない言葉もあるだろうと嫌味のひとつもいいたくなるほど平板なコピーにかえって驚いてしまう。

これは昨日の燦鳥さんと違っていわゆるひとつの広告の言葉ではない。宣伝部のコピーライターではなく総務のおじさんがコクヨの便箋にメモした単なる説明である。私は流行に敏感に対応できる他の版元よりも、そんな時代遅れの岩波書店と改訳しない岩波文庫が大好きだが、美辞麗句以前の名辞を堂々と並べて見せる老舗の顧客無視の大胆さにはわれらもはや脱帽するほかはない。

余談ながら、石山茂利夫著「国語辞書事件」によればたしか「広辞苑」の元本は岩波茂雄が博文館から超安値で版権を買った「辞苑」であり、その「辞苑」は三省堂の金沢庄三郎の「大辞林」などの完璧なパクリであり、広辞苑の編者の新村出が同辞典の出版に際していかなる創造的な編集作業を行なわずにそのまま洛陽に押し出したことは彼の息子の新村猛がつとに告白しているところである。

だからということもないが、その後の「広辞苑」が大野晋などによって全面的に改稿されたとはいえ、私はあまりこの“日本を代表する大辞典”にはいっこうに信をおかず、「大辞林」や小学館の「国語大辞典」や北原保雄の「明鏡」、さらにはあらゆる日本語辞書の親本である大槻文彦の「大言海」を愛用している。

ちなみに「大言海」では昨日の「すっくと」の原意は「すくすくと」であり、直ク立チ上ガル状ナドニイフ語、と書かれています。


偲竜馬
こなくそと振り下ろしたる刀かな 亡羊 

Wednesday, January 16, 2008

スクッと立つ?

♪バガテルop36

毎年「成人の日」にはサントリーの広告が出る。確か以前は山口瞳氏がコピーを書いていて、一読なかなかのものだった。氏亡き後は伊集院静氏が担当しているが、年々その中身も表現も、ビールにたとえるとコクが失せ、切れ味が鈍くなり、全体の味が軽く、薄くなったような気がするが、それは書き手の個性の違いである以上に、この間の時代の変化によるものだろう。

年々ますます生きにくくなる時代の竿頭に立って、一人前の大人が一人前になろうとする若者たちに対して何をどう助言すればいいのか? それは誰が書くににしても至難の技であるに違いない。

ちなみに今年は、「平然と生きる人であれ」「強いをめざす君に乾杯」という伊集院氏特製のキャッチフレーズが作家の万年筆の手書きでレイアウトされているが、後者はいわゆる広告のコピーである。この広告は確かにサントリーの新年広告ではあるが、わたしが思うに、「強い」をめざす、などという広告そのものの言葉を使ってはいけない。なぜならこの広告は広告言葉をあえて排除する場所でしか成立しない変態的広告であるからだ。
元は広告のプロであった氏がこのような初歩的なミスを犯すとは意外であった。

ボディコピーもそれなりのことが縷々書き連ねてあるが、さほど強烈な説得力があるわけではない。調子に乗ってさらに重箱の隅をつつけば、文中の「スクッと立っている」は副詞をカタカナ書きにした方言ないし口語的造語と受け取れば必ずしも間違いではないが、あまり耳慣れない日本語である。

スクッと立つのはさしずめレッサーパンダくらいなもので、一人前の人間ならば「すっくと立っている」「すっくと立っている」あるいは「すくと」または「すっくり立っている」の方が人口に膾炙していてモア・ベター?ではないだろうか。
ちなみに「すっくと」は立ち上がるさまを形容するのが一般的だが、堂々と立っているさまもあわせて形容する副詞である。


♪一月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊

Tuesday, January 15, 2008

行方不明




♪バガテルop35&鎌倉ちょっと不思議な物語95回

家で寒さに震えていたらピンポーンと音がした。出てみる毛糸の帽子を被ったひとりの男が立っていた。私の近所の住人だ。
「年明けの今月の7日から自分の70代の母親が行方不明になっている。もし心当たりがあったらどんなことでも教えてほしい」といって手製のチラシを置いていかれた。

当地の行方不明者でいつも思い出すのはおよそ30年前の鎌倉花火大会のときに姿を消した戸塚の女子大生だ。当時早稲田大学の文学部に在籍していた彼女は、たしか専攻が考古学で、鎌倉の歴史古道やハイキングコースを頻繁に訪ねていたそうだが、8月10日の夜に由比ガ浜の海岸からふっつりと姿を消し、以来その行方はピーター・ウエアの映画「ピクニック・アット・ハンギングロック」の少女のように杳として知れない。

こういう言葉を安易に使いたくはないが、いわゆるひとつの神隠しにでも遭ったのであらうか。私が近くの里山を歩いている折など、ふとこの事件を思い出し、もしやここらで暴漢に襲われて谷間に転落したのではなかろうか、などと本人はもとより母独り子独りの母親のその後とあわせていつも気になっていた。

今回も地元消防団や町内会の人たち30名ほどがすぐに近くの山や川辺を捜索したのだが見つからなかったという。私も早速近所のハイキングコースをそのつもりで歩いてみたが、やはりなんの手がかりも無かった。

本人は足が悪いのでそれほど遠くにはいけないはずだが、事件発生以来すでに1週間以上が経過しているのでその生死が危ぶまれる。だれか悪い人間に誘拐されたり広域犯罪に巻き込まれた可能性がある。もしこの顔に見覚えがあれば、ぜひとも鎌倉警察署に連絡していただきたい。


♪粛々と死地に赴く銀の船 亡羊

Monday, January 14, 2008

君の瞳は6万6千ボルト

♪バガテルop34&鎌倉ちょっと不思議な物語94回

去年の暮れに兵庫県川西市の住民が携帯電話の基地局から放射される電磁波で耳鳴り、吐き気、不眠などの健康被害が出たとしてNTTドコモを訴え、ドコモ関西が撤去したという記事が出ていた。

携帯電話と健康の相関関係については諸説ある。WHO(世界保健機構)は、電磁波を浴びると頭痛やめまい、吐き気などを訴え、皮膚に赤みやチクチク感を訴える人がいることを認め、その国際電磁波プロジェクトの中で、携帯電話などの高周波電磁波についての調査を行なっており、その最終報告を早ければ来年に出すそうだ。

ところがわが国で電波行政をつかさどる総務省は、これらの症状を疾患とは認めず、あまつさえ科学的な原因調査もせずに「証拠はいっさい確認されていない」とそらとぼけているが被害者や国民不在の「あいかわらずの官僚的な態度」はいかがなものだろうか?

かててくわえて、今年に入ってNOAA(米海洋大気局)は太陽が新たな活動期に入ったことを示す焦点を観測したという。太陽活動はほぼ11年周期で変動しており、活動が活発になる今後数年はGPSの混乱や携帯電話、ATMの停止などさまざまな電子・通信機器に障害が起こる可能性があると警告している。

太陽から放出される電子や陽子などの太陽風によって、地上の送電線や電子製品の回路などに異常な電流が流れ、そのような障碍が起こるというのだが、下手をすると電磁波を上回る騒動になるかもしれない。

私が毎日のように散歩するハイキングコースの途上にある高圧電線塔も、
「今年はちょっとやばいんでねえの。あんたもあんまりおいらに近寄らないほうがいいよ」
と、心配そうに警告してくれた。

♪どすこい6万6千ボルト君の傍にはあまり近寄りたくない

Sunday, January 13, 2008

ある丹波の女性の物語 第41回 大売出し

遥かな昔、遠い所で第63回

 31年2月の問屋の招待旅行には、両親のすすめで夫婦揃って、修善寺熱海旅行に出かけた。

東京の結婚式から綾部の披露宴に帰る途中、強羅ホテル、奈良ホテルに宿泊して以来12年ぶりの事であった。三津港から眺めた富士山の姿が心に残った。帰路、鎌倉材木座に兄達を訪ね、寒い風の中、江ノ島見物をした。ついでに足を伸ばして、東京自由ヶ丘の姉の所で、次の兄や、妹達とも久し振りにあい楽しい時を過ごした。

 同年6月、27、28の両日には、「開業80周年記念半額大売出し」を行った。開店前から列が出来、朝日新聞京都版に写真入りで報じられる程の大賑わいであった。今では半額売り出し等珍しくないが、40年程前では画期的な催しであった。

正札そのままを半額にするのでレジは大変で、沢山の人に手伝ってもらったが、大盛況裡に終わった。

カレンダー 最後のページに なりしとき
 いよよますます かなしかりける 愛子

虫の音も たえだえとなり もみじばも
 色あせはてて 庭にちりしく  愛子

(深き朝霧の中)11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
 やがては深く 霧がつつみぬ  愛子

Saturday, January 12, 2008

藤原伊織著「名残り火」を読む

照る日曇る日第88回

藤原伊織の最後の長編が本書である。著者はいったん雑誌の連載を終えてさらに推敲中に没したそうで、ある意味では未完だが物語はいちおうの結末には達しており、その全貌をうかがい知るうえでの問題はないだろう。

仔細に点検すれば、殺人の動機、プロットの強引さなどの瑕瑾はあっても、登場人物の人間性は見事にえぐられているし、なによりもストーリの吸引力が抜群で、巻末まで一気に読ませてしまう筆力はただものではない。現代の代表的な企業物サスペンス小説であり、恐らくは彼の最高傑作であろう。

作者の最大の武器は、玲瓏玉のごとき音楽性に富む文体である。それは、

「口笛を吹いていたことはおぼえている。なぜ吹いていたかもおぼえている。オーティス・レディングの『ドッグ・オブ・ザ・ベイ』。危うく命をおとしかかった人物のもとに向かう途中、口ずさむものとしてふさわしいかどうか。それは考えもしなかった。自然に口もとから洩れていた。前夜にさんざ聞かされたのが、その理由だったように思う」

という冒頭を一読してもあきらかに感得できよう。

この小説の主人公は四ッ谷駅から医大病院に向かって歩きながら無意識に口笛を吹いている。さうしてその数分後には瀕死の重傷を受けた親友の死に直面し、そこからこの長編ミステリー説がおもむろにスタートするわけである。

口笛だのオーティス・レディングだのドッグ・オブ・ザ・ベイだを引っ張り出し、「さんざん」とは書かず、あえて「さんざ」といなせに記す著者のダンディズムに注目されよ。なにやら村上春樹か欧米の人気作家を思わせる、そのおしゃれで軽快な筆致が、いきなり読者を「ジャージーな」世界に引きずりこむ。

しかしそれはいいとしても、この文章はどこか嘘っぽくはないだろうか。どことなく空虚ではないだろうか?

なぜならわたしたちの人性的直観によれば、ふつうひとは無意識に口笛を吹くことはないし、仮にもしそそうしていたとしても、どういう因果関係でその日そのときその曲を吹いていたかを考察する切実さを持たない。万が一持ったにしても、そのことは人性上も小説のうえでもまったく重要性を持たない。

にもかかわらず、日常の生活感覚からは嘘であり、小説の登場人物の内面性とも無縁な単なる修辞を、著者が大長編の死命を制する冒頭の一文にあえて掲げた理由はなんだろう?

それはひとえに読者サービスのためである。この文全体のベクトルは、自己にも、愛犬ムクにも、飢餓と戦争に苦しむ世界にも、天にも向かわず、読者に向かっている。自分の小説を愛してくれる読者だけに一直線に向かっている。さうしてそのことが、(あらゆる大衆小説と同様の)一定程度の軽薄さと品性のなさにつながっているのであらう。

ちなみに作文のベクトルが自分自身に向かうものを私小説といい、読者に向かうものを大衆小説といい、犬猫座敷わらしに向かうものを童話といい、金に目がくらむものを金権小説、賞や名誉に走るものをリスペクト小説、労働者人民に向かうものを「ああ堂々の社会主義文学」、世界に向かうものを世界文学といい、最後に(なにが最後かは私にもあなたにも分からないが)宇宙もしくは「天」に向かうものを純粋文学という。

天の下に独り座し、天があなたに命じて筆を走らせ、書かせてしまう文章。そこには読者も金も名誉もない。これぞ天知る地知る純粋文学の境地であらう。

どの文学が高尚でどれが劣等という分別はできないにしても、私がもっとも好むものは
この純粋文学である。童話にして純粋文学(宮沢賢治、漱石の猫など)、私小説にして純粋文学(小島信夫など)は十分にありうると思うが、大衆小説にして純粋小説(大菩薩峠?)というのはあまりないようであるなあ。

閑話休題。急いで表題作に戻ろう。

地上から数センチではなく、数インチ浮いた国籍不明の中空の領域こそが作者の得意な、また少しく無理無体な居場所であるが、著者はこの宙ぶらりんの苦しさに耐えながらとうとう最終ページまでたどり着き、さうして結局07年5月17日に俗塵に塗れた生からけざやかに離陸したのだった。

特報「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」本日6時まで開催中!

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♪ホテルアグネスのアート展愛犬ムクの絵売れ残りたり 亡羊

Friday, January 11, 2008

ポール・セロー著「ワールズ・エンド(世界の果て)」を読む

ポール・セロー著「ワールズ・エンド(世界の果て)」を読む

照る日曇る日第87回

生まれてきて済みません、だの、ここはどこ、私は誰?といった違和感、場違い感は誰しもが人生に懐く感慨だが、ポール・セローの場合は筋金入りだ。おそらくは生まれながらにこの世界に対する複雑なねじれを感じつつこれまで生き延びてきた人なのだろう。

アメリカのマサチューセッツに生まれ、1963年に良心的反戦主義者として平和部隊に入り、アフリカに派遣されてマラウィとウガンダで英語教師をし、ケニアで知り合った英国人女性と結婚して3年間シンガポールで教職についたのちにロンドンに住むという彼の経歴ひとつとっても、あるいは本書に収められた9つの短編のどれを読んでもそのことが強烈に感じられる。

表題の「世界の果て」ではアメリカを引き上げてロンドンのワールズ・エンド(キングズロードに実在する地名)に移住した夫がようやく見出したはずの安住の地で突然見舞われる身震いするような災厄が描かれ、「緑滴る島」では二〇になるやならずで妊娠した、させたニューヨークの若いカップルが、灼熱の地プエルトリコに逃げ出し、サンファンのホテルでボーイをしながら暮らすうちにお互いの愛もさめ、ますます深刻な事態に陥る話だし、「真っ白な嘘」はボストンからアフリカにやってきた男の全身の皮膚から新種のハエの幼虫がぞろぞろ湧いて出るという、まるで悪夢のような、しかも実話である。

このようにセローは私たちがなにかの拍子に陥るかもしれない日常生活の不気味な落とし穴や不条理の裂け目を恐ろしくリアルに描写するが、だからといってどうこうするわけではない。あたかも「とかく世間は昔からこんなものですよ」とでもいうように、主人公も読者もその絶望的な状況に置き去りにして、あっというまに悲喜劇の現場から立ち去るのである。

 ポール・セローほどクールな作家は珍しい。

暗黒層を掘れど光明現れず 亡羊

Thursday, January 10, 2008

メンズウエアの現在

ふあっちょん幻論第6回


現在の小売業の市場規模はおよそ133兆円、そのうちファッションの市場はテキスタイル、アパレル、身の回り品を含めて約11兆円である。

さらにその内容を見ると婦人6兆、紳士3兆、子供ベビーなど1兆円、という大雑把な比率であるから、やはり主力はなんといってもレディスということになる。それもマスコミなどで話題になるのは外資系の婦人服や雑貨、時計、アクセサリーなどに限られ、国産の紳士服などは長らく氷河期の低迷を続けてきた。

事実メンズ市場は15年連続の前年割れに喘ぎ、中長期的にはメンズ市況の展望は暗い。
国を挙げてのクールビズ、ウオームビズ運動は多少の需要増に繋がったものの、これから団塊世代の一斉退場がスーツの売り上げを大きく奪うだろう。

メンズ専門店のアオキは店名をメンズプラザ・アオキからAOKIに変更して婦人子供服を強化。家族連れの取り込みを図っているし、青山商事なども将来はメンズ比率を5割以下に引き下げようと計画している。

しかし最近の伊勢丹メンズ新館のリニューアルはメンズウエアの昨対300%増につながり、婦人服が不調のアパレル大手も樫山の紳士服売上が久しぶりに昨対増に転じるなど一定程度の回復を見つつある。レディスでヒットした美脚&脚長パンツなどのメンズ版投入がそれなりに実った成果であろう。

もうひとつの要因は、シルエットの根本的な変化である。婦人服では80年代に全盛であった肩パッドを基軸にしたゆったりシルエットが流行遅れとなり、90年代前半にはボディにぴったりフィットするスリムなシルエットの時代がとっくの昔に訪れていたのだが、メンズの世界ではそのシルエットの導入がおよそ10年の長きに渡って遅れ、(私はこれを「失われた阿呆馬鹿メンズの10年」と名づけている)遅れた代わりにナロウ&フィット革命の進行がレディスよりも激烈で、その余波はいまなおヤングからアダルトのシルエット転換に及んでいる。

80年代後半の偉大なるジョルジョ・アルマーニのタック入りのゆったりシルエットは、2000年代に入ってはじめて世界の大衆から否定され、と同時にメンズデザイン業界は大いなる構造変革の時期に突入したのだが、それはわが国ではかの悪名高きライオン丸内閣の成立と期を一にしていたのである。

日本アパレル産業協議会によると、現在の成人男性の保有スーツは平均10.9着で、うち4.2着が不要になったと回答しているが、実はこれこそが女性の肩パッド入りドレスと同様のアウト・オブ・ファッション(シルエット変化による時代遅れ)物で、この偽不用品を強引に電機業界にあてはめると薄型テレビに対するブラウン管テレビに該当するだろう。

従ってもしアパレル業界がこのメンズ不況期を絶好の新規需要転換期ととらえなおし、新しいデザイン企画による新しいマーチャンダイジングとマーケティング戦略を発動すれば、禍転じて福=服となる絶好のチャンスかもしれないのである。

♪千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

Wednesday, January 09, 2008

ぐあんばれ野茂!

♪バガテルop33

長い長い蹉跌と雌伏と忘却の時期を経て、われらがヒーロー野茂英雄が大リーグのマウンドにまもなく帰ってくる。

1月4日の彼のホームページによれば、彼はカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を交わし、3年ぶりにメジャーリーグに返り咲く大きなチャンスをつかんだ。

ロイヤルズといえば昨年日本ハムを2年連続でパリーグ優勝チームに導いた有能なヒルマン監督が大リーグで初めて采配を執るチームである。万年最下位ではあるが、もう上を見上げるしかない絶望的希望のチームだ。思う存分腕を振るえるに違いない。

野茂は06年6月に右ひじを手術し、07年にはかの偉大なる文学王ガルシア・マルケスゆかりのベネズエラのチームに入団し、成績は悪かったが、黙々とトレーニングに励んでいた。最初のチャレンジャー野茂が、最後にメジャーで勝ち星を挙げたのはデビルレイズ時代の05年6月27日の対ブルージェイズ戦だが、あの火の玉竜巻投球で大リーガーをきりきり舞いさせた野茂のことだ。体調さえ良ければまだまだやってくれるだろう。

昨日の夕刊によれば同じ39歳の桑田真澄投手もパイレーツと正式にマイナー契約を交わしたそうだ。ロッテのエース黒木は去ったが、私の大好きな大洋ホエールズの斉藤もドジャースのリリーフエースとして健在だ。(岡島よりこっちの活躍のほうが凄かった!)

そして私は、松坂や両松井、イチロー、福留、黒田などの旬の選手よりも、一度、二度、そして三度と一敗地にまみれた超ベテラン選手たちが、一球入魂、今生の思い出のように死力を尽くして投げ込むその雄姿と、かなうものならその泥だらけの頬に光る一掬の涙を見たいのである。


闘争を紛争と言い換える人が嫌いだ 亡羊

Tuesday, January 08, 2008

ある丹波の女性の物語 第40回 家族の写真

遥かな昔、遠い所で第62回

昭和30年頃のアルバムの中に、京都岡崎動物園で2匹の象をバックに、私達親子5人を撮った写真がある。これが私達5人揃って外出した、最初で最後の記念写真である。
その頃の小さい個人商店では、家族揃って遊びに出る事など珍しかったのである。

 その年に、鎌倉に住む夫の兄夫婦が、綾部を訪問してくれた。私は留守居役にまわり、みんなで天橋立へ案内した。男の子達は土産物屋で、「岩見重太郎の刀」を欲しいとせがんだが、兄嫁は、平和日本には刀は不要と、買ってくれなかったそうである。如何にも東京女子大出の姉らしいと思った。

 私達夫婦は兄達を京都まで見送り、共に観光バスで京都見物をさせてもらった。土地の物は却って名所には不案内で、東本願寺、清水寺、広沢の池、嵐山の風物は、私達の心を和ませてくれた。

 その頃、店は順調に売上を伸ばし、暮れの31日には用意した商品が、すっかり売り切れるほどであった。


―リエちゃんと山新さんへ行く
病みし身も 次第にいえて 友とゆく
 秋の丹波路 楽しかりけり 愛子

山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
 きびしき秋の みのりを思ふ 愛子

雅子さんご成婚
いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして   愛子     

Monday, January 07, 2008

島田雅彦著「佳人の奇遇」を読む

照る日曇る日第86回&♪音楽千夜一夜第31回


「佳人之奇遇」なら明治時代に元會津藩士の東海散士が書いた金髪美人が大活躍する政治小説だが、島田雅彦のそれは金髪や黒髪の美人が大活躍しこそすれまったく非政治的な泰平の御世の音楽小説である。

その音楽とは、私も大好きなモーツアルトの、しかもオペラの傑作である「ドン・ジョバンニ」だから、これを読まずして「なんの己のお正月かな」である。

本作では一夜サントリーホール(コンサート方式のオペラ?)で上演される「ドン・ジョバンニ」の公演を巡る、指揮者や、ドン・オッターヴィオ役のテノールや、そのマネージャーや、会場に集う老若男女の聴衆たちを続々と登場させ、公演のライブ本番をピークとする同時多発的ラブストーリーをグランドホテル形式でいわば映画的に描いている。文体も形式も、小説というよりはまるでシナリオのように要領よく上手に書かれ、エンディングなども鮮やかな切れ味だ。

それでここからは私の想像だが、この作家は現在お金に困っている。あるいは、もっともっとお金がほしいのだ。そこで今回、恐らく著者は映画化とその著作権獲得を期待しながらこれを雑誌に連載したのだろう。

しかし不幸なことに、まだその企図は実現されていない。でももし実現されたなら、お手軽なB級恋愛映画がまたひとつ誕生することだろう。
本質的な紋切り型であり、クリシェであり、よく言えばウエルメイドの音楽ネタ、クラシックネタ、新のだめネタによるスノビッシュな恋愛譚なのだ。

島田はデビュー当初の小説でもこのオペラの登場人物ドンナ・アンナを取り上げたが、ドン・ジョバンニに犯されたドンア・アンナへの執着がこの小説でも継続していて2人のアンナを登場させ、あまつさえこないだのザルツブルク音楽祭で話題になったアンナ・ネトレプコに対しても鋭いふくらはぎフェチ視線を飛ばしているのが、いかにも、な感じだ。余談ながら、大江健三郎もこのふくらはぎフェチで、彼の初期の小説に「自涜型のふくらはぎ」へのこだわりが熱く表明されている。

登場人物のマエストロはどこかハンガリー人のゲオルク・ショルティを思わせる。シカゴ響を世界最高のオケのひとつに育てたショルティは、指揮も見るからに精力的だったがあちらのほうもお盛んで、ある日曜日に自宅にインタビューに来た30歳以上年下の美しいBBCの女子アナと一目ぼれで再婚し、たちまち子をなしたのだった。
また死ぬ前年にサントリーホールにやってきたカラヤンの知られざる姿など、クラシックファンを唸らせる数々のエピソードが、このブレヒト流三文音楽小説の気の利いたスパイスとなっている。

最後のおまけだが、島田は平成の芥川である。しかも芥川と違って長編が得意だ。
されど島田は、可哀相なことに平成の小説家としてはあまりにも知が勝ちすぎるので、偉大な小説家の要件である「小説馬鹿野郎」にはけっしてなれず、そのために一流作家になれず、またそのために血が不足していると誤解されているほどだ。

卒璽ながら、私は芥川は長編が書けない自分に絶望して自殺したと考えている。

左耳の聴こえぬその歌手を音程悪しと罵りしわれ 亡羊

Sunday, January 06, 2008

「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」へのご案内

すでにご存知の方も多いと思うが、今週土日の12、13日に「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」で「A@A アート・アット・アグネス アートフェア2008」が開催される。
東京神楽坂の瀟洒なホテルの一室をギャラリーに仕立て、選りすぐりの現代美術作品が多数出品されるのだが、最近のブームを反映して毎回超満員の人気である。

4回目の開催となる今回は、コミッティーによる選考を経たベテランギャラリーをはじめ、 オープンしたての若手ギャラリストが運営するギャラリーが数多く出展し、これまでにないにぎやかで新しい顔ぶれとなっているようだ。

今回最大の目玉は、地下の「ART@BASEMENT FLOOR」で出展される「ギャラリー・カウンタック」のコーナーである。入場したらまずは地下のマーガレットホールを目指そう。

ただし入場料が1000円で、しかも入場するためには、前もって事務局のHPにネットで予約が必要なので要注意。当日いきなり現地に行ってもだめだそうです。

→ART@AGNES事務局公式HP (http://www.artatagnes.com/)


ART@AGNES アグネスホテル アートフェア2008 概要

主催:A@A実行委員会  共催:株式会社アグネス 協力:株式会社ライゾマティクス
コミッティー:オオタファインアーツ/ギャラリー小柳/児玉画廊/小山登美夫ギャラリー/シュウゴアーツ/タカ・イシイギャラリー/タロウナス/ヒロミヨシイ/山本現代/レントゲンヴェルケ

会場 東京神楽坂「アグネスホテル アンド アパートメンツ東京」
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂 2-20-1TEL: (03)3267-5505FAX: (03)3267-5513
会期:1/12(土)11:00~19:00
   1/13(日)11:00~18:00
両日ともに受付は終了の15分前まで
入場料:¥1,000


♪小便の泡で描きたる髑髏かな 亡羊

Saturday, January 05, 2008

G・ガルシア=マルケス著「迷宮の将軍」を読む

照る日曇る日第85回

ラテンアメリカ諸国の統一を夢見て1830年、サン・ペドロ・アレハンドリーナの別荘で47歳の生涯を終えた偉大な革命家であり、軍人であり、政治家であり、詩人であり、歌手でもあったシモン・ボリバールが本作の主人公である。

現在のベネズエラのカラカスに新大陸でも屈指の名家の末子に生まれたボリバールは、その生涯の大半を国内の敵対者や占領者のスペインと戦いながら、1819年36歳の暮れには現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドルを統合した大コロンビア共和国を創設し、国会によってグラン・コロンビア共和国大統領に選出される。

しかしスペインのみならずアメリカ帝国主義に対峙する巨大な南米共和国連合を目指すこの理想主義者の美しい夢は、相次ぐ内外の分離主義者の敵対と裏切りと反乱に遭遇して次第に蝕まれ、政治的にも軍事的にも後退を余儀なくされ、彼の孤独な死によってついに完膚無きまでに潰えたかに見えた。

しかしその後欧州連合の成功に刺激されたMERCOSUR(南米南部共同市場)の大同団結は、ある意味ではシモン・ボリバールの理念と理想の21世紀版ともいえるだろう。ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラで構成されたMERCOSURは、人口2億5千万、GDP1兆ドルの実力を備え、アメリカ、カナダ、メキシコのNAFTA(北米自由貿易協定)国と熾烈な競争を繰り広げているのだから。

1989年に発表されたこの小説において、マルケスは長期にわたる取材と膨大な資料の渉猟、研究をつうじて実在した英雄の生涯の最期に肉薄し、「なぜシモン・ボリバールが死に至る病に冒されていたとはいえ、過酷な政治と現実との戦いから逃避し、すべてを放擲するようにして自滅していったか」という謎を明らかにしようとしたが、その執拗なまでのエネルギッシュな追求が、将軍の心の闇に潜む迷宮の秘密を解明することに成功したとは言いがたい。

しかしながら、この小説の冒頭で、

「古くから仕えている召使のホセ・パラシオスは、薬湯を張った浴槽に将軍が素っ裸のまま目を大きく見開いてぷかぷか浮かんでいるのを見て、てっきり溺れ死んだにちがいないと思い込んだ。それが将軍の瞑想法のひとつだということは分かっていても、恍惚とした表情を浮かべて浴槽に浮かんでいる姿を見ると、とてもこの世の人間とは思えなかった」

というくだりを一瞬でも目にした読者なら、たとえ途中で日本列島に大隕石が激突し、関東大震災が再来し、悪夢の2党大連合が実現し、原節子と山口百恵が2人そろってカムバックして仲良く共同記者会見したとしても、最後の最後まで読み続けようと願うに相違ない。


♪道野辺の木の葉を拾いて河に捨つ愚かな人と蔑むなかれ

Friday, January 04, 2008

森見登美彦著「有頂天家族」を読む

照る日曇る日第84回

この人の小説は初めて読んだが、とても面白かった。

かつて私がケネディ大統領が暗殺された年に暮らしていた京都を舞台に、主人公である狸の一族と鞍馬に住む天狗と人間の3つの種族が、表向きは人間の姿かたちをしながら現実と空想が重層的に一体化された悲喜こもごも抱腹絶倒の超現実物語が展開されていく。

具体的には実際にぜひ手にとって読んでいただくしかないのだが、血沸き肉躍るカタリこそが小説の本来の魅力であることをこれほど雄弁に証明しているロマンは、この糞面白くもない平成の御世にあって数少ないのではないだろうか?

著者の内部に血肉化された古今の文藻や和漢の典籍の素養、1300年の古都の歴史や土地の記憶が、若き魔法使いの杖の一閃によって縦横無尽に出現し、またたちまちにして消え去る疾風怒濤のありさまを迎え入れ、うたた呆然と見送っているうちにこの奇跡の平安幻想ゴシック小説は大団円を迎えるのだが、とりわけ私は絶体絶命のピンチを脱した狸一族が、狸特製の「偽の叡山電鉄」にうちまたがって丸太町から寺町通りへと全速力で乗り込み、木屋町界隈を風神雷神扇子の暴風で吹き飛ばして金閣、銀閣一家をやっつけるシーンなどは思わず手に汗を握ったことであった。

ちなみにかつて京都の東大路には重厚長大な市電の6番が高野、北白川まで走っており、猛暑の8月には百万遍の交差点から叡電前辺りで鉄路がぐにゃりと曲がっていたことを覚えている。叡電はいまもなお出町柳から叡山に向けて走っているが、本書の内容には叡電よりもこの豪奢な市電のほうがふさわしかっただろう。

それはともかく、金曜倶楽部の面々や冷たい美貌のヒロイン弁天、主人公の恩師赤玉先生、元許婚の海星などなど、すべての登場人物の造型もくっきりと心に残る。作者がいうように、「ああ、面白きことは良きことなり」。小説を読む醍醐味が、ここには満載されている。 
この本の背後に古のカルガンチュアとパンタグルュエルやトリストラム・シャンディの面影を感じる読者も多いことだろう。


♪誕生日に息子が持て来しフリージア母の心に永遠に馨るよ

Thursday, January 03, 2008

ケルアック著「オン・ザ・ロード」を読む

照る日曇る日第83回

東京の明治通りの千駄ヶ谷小学校の交差点をビクターの録音スタジオ、明治公園方向に下っていくと左側の交差点に河出書房がある。じつはこの近所に私が勤務していたかなり大きな会社があって、よくここまでランチを食べに来たものだった。

さうしてこの一度つぶれて新社になって再出発はしたものの、はかばかしいヒット作を出せないでいるこの小さな出版社を、「いまにつぶれるだろう、そのうちつぶれるだろう」と思っているうちに、あにはからんや私の会社のほうがどどーんと倒壊してしまい、私自身も弾き飛ばされたばかりか、いまやその社屋の跡形もない有様を見るにつけ、人の浮世のはかなさと私自身の読みの甘さとおろかさをふたつながらに痛感する次第である。

その、小さいけれど不倒翁の如きその出版社から、2度目のジャク・ケルアックの代表作が出た。前回は福田実の訳でタイトルは「路上」、今度は青山南の新訳で題名が原題をカタカナに変えた「オン・ザ・ロード」になったが、訳者や全集編集者の池澤夏樹ががたがたいうほど大きな変化があるわけではない。中身はおんなじジャク・ケルアックのロード小説である。一人の海のものとも山のものともつかない若者がなにかに憑かれたように何度も何度も北米大陸を横断する話である。

「ディーンに初めて会ったのは、妻と別れてまもない頃だった。ひどい病気から立ち直ったばかりのときだが、その話はあまりしたくないので、くたくたに疲れた別れのごたごたと、なにもかもおしまいだというぼくの気分が原因の病だった、とそのくらいにしておく。ディーン・モリアティの登場で、ぼくの人生のもうひとつの章、路上の人生とでも言えそうなものが始まったのだ」という出だしの文章を読んだだけで、村上春樹じゃないが、「やれやれ」という気分に駆られるのはなぜだろう。

なんだか分からないけれどここに人生に行き悩んだ若者がいて、その仲間もいて、ワアワア騒いでいて、突然春が来て、モンシロチョウなんぞがひらひら舞って、「そうだ、京都行こう」ならぬ「そうだ、サンフラン行こう」と喚いて無一文でヒッチハイクの旅に出る。あとはお決まりの女と酒と大冒険という、それだけの与太話である。

誰だって旅には出たいし、世界一週旅行をやりたいし、実際にやるやつはやっただろうが、そのやったリアルな話が誰にとっても面白おかしいわけではありません。同じ旅行記でもスイフトや芭蕉ならホラも交えて面白く読ませてくれるが、自分の体験よりは友人の実体験をぐだぐだ書き連ねただけの実録メモランダムが、現代の大方の読者を楽しませてくれるとは私には思えない。

なんでも英語の原文で読めば珠玉の名文であるらしいのだが、全然外国語を解しない私にはこの小説めいた駄文に1950年代という時代に生きたビート世代の生の記録以外の文学的価値があるとは到底思えない。当時の「KY」という時代の空気が彼に書かせ、時代が支持しただけの吹けば飛ぶよな一過性の文章であるよ。

訳者のあとがきによれば、ケルアックはアレン・ギンズバークの詩集「吠えるHowl」やウイリアム・バロウズの「裸のタンチNaked Lunch」も「ビート・ジェネレーション」という言葉そのものも命名したそうだ。彼の最大の手腕は、本文そのものではなく、「On the Road」というタイトル作りに存分に発揮されたのである。


♪おみくじを引かずに帰る鎌倉宮 亡羊

Wednesday, January 02, 2008

神津朝夫著「山上宗二記入門」を読む

照る日曇る日第82回

お正月といえば、なんとなく初釜やお茶の会などを思う。

もうずいぶん昔になるが、私は東京の裏千家のお茶の会の末席を汚したことがある。どんなものかと興味津々だったが、しかしてその実態は、書画や茶碗を無暗に褒めたり、その凡庸な茶碗をひっくり返して無名の銘をしかつめらしく確認したり、飲む作法にもいちいち勿体を付け、あまつさえ主人のくだらない俗悪至極のいわゆるひとつの人生訓を長々と垂れ、さらには菓子の切り方だの座り方だの、手水の使い方だのの瑣末な規則が次々に東海の粗野な蛮人(私のことです)の前途に入れ替わり立ち代り登場し、文字通り痺れが切れた私はほうほうの体でその「こていなお座敷」を逃れ去ったのだった。
以来表も裏も真ん中の千利休も千昌男も忌み嫌って茶席をごめんこうむっている。

ところが、かつて私が憎み軽蔑していた某国のトーリー党党首の獅子のごとき髪の持ち主が、「お茶なんて自分流に勝手に飲めばいいんですよ」と豪語しているのを聞いて、彼の主張と政策に対する全面的な敵対者であった私も、そのときばかりは珍しくも共感したことを覚えている。

たかがお茶である。くだらない能書きや儀式なぞ実力で粉砕して、ただぐいっと飲んじまえばいいのだ。

と思いつつ、この本を読みました。

さて山上宗二は天文13年(1544年)生まれの堺の商人兼茶人で、師匠である辻玄哉から乗り換えて兄弟子の千宗易(後の利休)に師事した。信長、秀吉に重用され一時は千宗易、津田宗及、今井宗久など堺の10人の会合衆の上位にランクされる茶道の指導的な役割を果たしたが、秀吉の小田原北条氏攻めの際に気狂い太閤の常軌を逸した怒りをかい、鼻耳を削がれつつ哀れ非業の死を遂げた。尊師利休の死に先立つことわずか一年であった。

宗二はおそらく当時唯我独尊の境地に酔っていた秀吉の行き方を批判的に直言してこのような極刑を受けたといわれているが、幸いにも日本茶道の黎明のありかを伝える一冊の本を遺した。それが「山上宗二記」で、茶の湯の歴史や茶室の変遷、古今の茶人の来歴、茶道具名物のその所有者と伝来、茶人心得などについて書かれた本邦最初の書籍である。

私は立花実山が元禄時代に編纂した利休直伝の茶道書「南方録」を一読して、これぞ茶道の極意と勝手に考えていたのであるが、著者によればこれは偽書であり、茶道の始まりは「南方録」が唱えるように足利義政ではないというので驚いた。その義政にわび茶を伝授した村田珠光が元祖であり、そのあとが大名茶の武野紹鷗、そしてそのさらにあとを否定的に継承したのが辻玄哉や千宗易、田中宗二という流れになるそうだ。

また著者によれば茶の湯は禅宗とはまったく無縁の存在で、茶道中興の祖紹鷗は浄土宗だし、そもそも禅院茶礼では釜を据えて客の前でお点前が行なわれることはないという。
 おまけに、幕末の大老井伊直弼に「茶湯一会集」という茶道本があり、ここで直弼は茶の湯の交わりは一期一会と喝破したことで有名だが、この考え方は「山上宗二記」の引用によるとものだということを、私は本書によっておそまきながら知ったのだった。

♪初日の出今年も市中に山居せむ

Tuesday, January 01, 2008

ある丹波の女性の物語 第39回 菊人形

遥かな昔、遠い所で第61回

 25年春には長男が綾部幼稚園に入園し、秋には綾部商工会議所主催の「綾部菊人形」が始まった。会場は町はずれにあるので、行き帰りの客で商店街は大賑わいであった。

催し物として「宝塚少女歌劇」の公演もあった。あんなに街中が活気にあふれた事は無い。長女がバレエで出演した事もあり、十年程菊人形も続いたが、時代も流れ移り、風水害後、復興する事も無く終わった。

 追々物価も上がって、売上金の勘定に百円札の束がかさ高くて困ったが、その頃千円札が発行され便利になった。

 26年には長男は小学1年生、次男は2年保育の幼稚園に入園した。
 長男は女の子のように可愛く、どことなく亡き母の面影があった。父はこの子を格別可愛がった。女の子も生まれたので私にかわる愛する対象物も出来、次第にやさしく、おだやかなおじいちゃんに変わり、孫達を方々の旅行にも連れて行ってくれるようになった。

 29年には末の長女も幼稚園に入園、私も育友会、参観と3人分掛けもちで忙しく、夫も商店街や自治会の仕事に追われるようになった。

 丹陽教会も戦後の基督教ブーム到来で信者も増え、父は京都府下の信徒会とか、「ギデオン」という全国的な実業家の信徒の集まりにも参加して活躍、小康状態の継母をも同伴するようになった。

村雨は 淋しきものよ 身にしみて
 秋の草花 色もすがれぬ  愛子

実らねど  なんてんの葉も  あかろみて 愛子