Monday, August 31, 2009

橋本治著「橋本治という考え方」を読んで

照る日曇る日第287回

端倪すべからざる作家とは橋本治というような人物をいうのでしょう。「ドラマというのはドラマとして存在するものではなくて、風景そのものの中に存在するこのなんじゃないか」ということだけを言いたくて始まったこの「行雲流水録」のなかには、愚かにも私が知らなかった叡智に満ちた幾多の箴言が珠玉の如く鏤められていて、しばし瞠目させられます。

 著者は、小津の映画では汚いはずの昭和の日常が「嫌なものがなに一つない」映像として切り取られていて、別段どうということもないドラマが、その隙間に突如として挿入される丸の内のビルや土手の上の青空などの「実景」の永久不滅の美しさによって昇華されていること、またアンゲロプロスの映画における「風景こそが主役だ」と思わせるヨルゴス・アルヴァニティスのカメラの素晴らしさについて具体的に指摘します。
そして、「目に見える風景の向こうにはなにかがある。あらねばならない。耳に聞こえる音の向こうにもなにかがある。それがなければなんでもない。技法というのはそういうものを実現させよう、実現させなければなんでもないと思う、その意志のことかもしれない」と結ぶ時、私たちは彼の作家としての志を親しく解き明かされたような気持になるのです。

そのほか、彼が谷崎潤一郎を師と仰ぎ、師匠と同じくすべての小説を異なるテーマと語法で書き分けてきたこと、「窯変源氏物語」のテーマが、光源氏を主人公とする「小説による小説の小説化」であるという注釈も興味深いものがありましたが、とりわけ彼の創造の源泉は、歌舞伎の命がけの舞台のすごさを、歌舞伎以外の世界で再現して「恩返し」をしてみたいと思ったことにある、という告白に深い共感を覚えました。

「菅原伝授手習鑑」の寺子屋で、松王丸が「桜丸が不憫でござる」と言って「源蔵殿、御免下され」と大泣きをするシーン、その「不条理の悔しさ」に「己の悔しさ」を見て、その悔しさをじっと我慢し続けることにこそ、この作家の発条の基軸があったのです。


♪投じたるすべての票が死なざりき 茫洋

Sunday, August 30, 2009

西暦2009年文月茫洋歌日記

♪ある晴れた日に 第64回


政権の交代求め民動く世が変わるとはかくのごとし

理非にあらず曲直も問わず遮二無二人は旧きを倒す

かねてよりのわれの望みを叶えるはわれならぬリヴァイアサンの蜂起なりしか

神の手が至高の演奏を作るなりカラヤンごっこは今日も続く

嗜虐者なるかはた被虐者なるか弦打ち鳴らす黒髪の人

蝉時雨いっさんに走り抜けるぬける熱き心よ冷たき頭よ

いとやすく大いなる便をひりだして偉大な事業なし終えたるがごとし
 
幻の鰹を求め海に出る実朝が乗りしさすらいの宋船

もう二度と見ぬ海山空花こころゆくまで眺めたり 

わが眼裏になおもうるわし庄内平野白砂青松

逗子の海潜れば群れなす魚たちメビウスのごとわれも泳ぎき

昭和20年5月23日鎌倉十二所山林に初めて焼夷弾落つと吉野秀雄書く

みなそこのわがしんちゅうにたぎるものおんとえんぬぱんちーる

受けて落ち受けても落ちる学生にぐあんばれとしか言えぬ悔しさ虚しさ
 
手を振れば車より身乗り出し両手振り返したり神奈川4区長嶋一由

魚ならば溺れることもあるまいに海空陸の大レスキュー隊

西瓜ほどおいしい果物はないいずれは君にも分かるでしょう


世の中は明日待たるるその宝船

見よ汝が心中より露頭せしもの

六人の美女訪れし月夜かな 

月の下美人が戻るお盆かな
 
老舗滅び月下美人咲く夕べかな

青蛇や青縞光らせ草に消ゆ

処暑の夜わが陰嚢の冷たさよ

名も知らぬ蝉は鳴きたり鳥海山

油蝉交接終えて身罷る

逗子の海魚に混じりてわれも泳ぎき

古書市や芥川全集3500円で叩き売る

百合の薫りあまりにも強すぎる

けふもまたちゃんちゃらおかしくいきにけり


♪生涯ただ一度の大音響を発して極楽往生せしは慶日上人 茫洋

Saturday, August 29, 2009

叫びと囁き 網野善彦著作集第14巻「中世史料学の課題」を読んで

照る日曇る日第286回


中世の人々にとって音声や楽器などの「音」はどんな意味を持っていたのでしょう。
まず著者は、寺や神社の梵鐘や鰐口は日常と聖なる世界を結びつける役割を果たしていたのではないかと指摘します。(本書「中世の音の世界」参照)

今でも私たちも鰐口を鳴らして頭を垂れてから、ご先祖に思いを致しているわけですが、勧進聖が寄付を集め、鋳物師に作らせた鐘や鰐口は、はじめから「聖なるもの」として位置づけられ、みだりに打ち鳴らすことが禁じられていたそうです。
梵鐘を造る儀式は荘厳に行なわれ、「吾妻鏡」には頼朝がその現場に立ち会うシーンが出てきます。(しかしその時はなかなか完成せず、業を煮やした頼朝は御所へ引き上げてしまったのですが)

このように聖なる場所や聖なる人物の周辺においては、法と秩序と権威を保つための「微音」が使われてきたと著者はいいます。たとえば天皇や上皇などの貴人は、囁くような小さな声で己の意思を伝え、そのメッセージは当初は脇の復唱者によって「高声」で伝達されましたが、我が国ではそのプロセス自体を次第に「文書化」するようになってしまった点がアフリカなどとは決定的に異なるのだそうです。

しかしいかなる場合にも「高声」はけしからぬこととされていたわけではなく、戦闘や強訴の際には許されていたようです。
たとえば中世の合戦では陣太鼓(攻め太鼓)を使っていました。しかし御家人たちも巨大な太鼓や銅鑼を打ち鳴らして攻めてきた蒙古軍には驚いたようです。おそらく中国大陸や朝鮮半島の楽器と当時のわが国のそれとはおなじ楽器でも相当異なる音響を発していたのではないでしょうか。たとえば韓国のサムルノリが鳴らす金管や打楽器は、私たちとは耳慣れない強烈なサウンドです。

けれどもこのような例外を除くと、中世人は心のままに高い声で発音したり、怒鳴ったりすることは「狼藉」とされ、これは現代においてもそうですが、殊に寺社仏閣では絶対的な静寂が厳しく要求されてきました。

ところがこのような「権力による音響管理」に断固として抗ったのが「高声」で歌うように、踊るように念仏を唱える親鸞や一遍、日蓮などの鎌倉仏教です。親鸞は和讃を節で歌わせ、時宗では踊躍歓喜という踊り念仏を躍らせましたが、著者はこれこそは宗教と一体になった芸能の原点であり、もしこの聖と俗、精神と肉体が一体化されたムーブメントが、朝廷や織田信長などの代々の権力者たちの弾圧を乗り越えて持続的に成長発展し続けていたなら、宗教と政治経済社会のみならず、我が国の芸能の歴史、歌謡と詩歌の歩みがこの時点で根本的に変異していただろう、とその秘められた可能性に着目しているようです。

いずれにせよ権力は囁きと静謐と秩序をひたすら好み、民衆は叫びと哄笑と歌とダンスを愛し、そのことを通じて神仏の世界、あの世とこの世を架橋しようと試みという関係は鎌倉時代から不変のものであったといえましょう。



      世の中は明日待たるるその宝船 茫洋

白砂青松

バガテルop111

明日は半世紀に一度、いやそれ以上というとっておきの楽しみがあるわけですが、今日は今日の楽しみを求めてまたもや由比が浜で泳いできました。今年17回目の海水浴です。

泳ぎながらまだ出羽三山の思い出に浸っています。いずれの山でも低地は松、その上は杉、さらにその上はブナの木が鬱蒼と茂っていて、高度と地相に合わせた植物が合目的的に生存していました。

驚いたのは庄内平野の日本海側にまだたっぷりと残されている松の大群落です。海岸線から数キロ内陸に入ってもそれはまだ美しくそびえている。白砂青松のおもかげをたたえて微笑している。その姿は感動的ですらありました。

酒田本間家などが防砂林として植林した過去の遺産の恩恵を500年後の私たちはかたじけなく享受しているということなのでしょうが、いつまでも後代に残しておきたい文化遺産だと思いました。


♪わが眼裏になおもうるわし庄内平野白砂青松 茫洋

Thursday, August 27, 2009

出羽三山を訪ねて




バガテルop110

火曜日から木曜日までの3日間、蔵王・月山・鳥海山のツアー旅行に参加してきました。出羽三山プラス鳥海山の四山探訪というわけです。

第1日は東京駅を朝の8時8分に出るやまびこに乗って福島駅まで。そこからは観光バスに運ばれて蔵王の山頂に登って眼下に広がるエメラルドグリーンの「お釜」を覗き、蔵王山麓駅からロープウエイーで蔵王高原駅に行って夏山リフトに乗り換えたあと、観松平・いろは沼を山岳ガイドさんと散策して黒姫展望台から360度のパノラマを展望、またバスに乗って蔵王温泉で宿泊しました。
この温泉は酸度が高く披露した体によく沁みとおりました。

2日目はお湯が流れる赤い巨岩が神体である湯殿山神社を訪ねたあと、急峻な坂道を猛烈なS字を描く月山高原ラインを懸命に走破して(主語はバス)月山に上り、阿弥陀ケ原湿原を山岳ガイドさんと散策したあと、今度は出羽三山のひとつである羽黒山に登り、開山から1400余年の歴史を誇る三山神社三神合祭殿に参拝し、そのあと日本海の海岸沿いの湯の浜温泉に宿泊し大きな蟹をまるごと一匹たいらげたのでした。きれいな海水がやわらかな砂浜に穏やかに打ちよせておりました。

最終日は酒田から北上して松島とならぶ九十九島・八十八潟の名所とうたわれた象潟を訪れ、松尾芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」ゆかりの地を見下ろし、一八〇四年の隆起なかりせばの思いを新たにしたことでした。その後バスは鳥海山の五合目まで登り、私たちは付近の白糸の滝を鑑賞したり、とおく岩木山の頂上を遠望したり、四囲の絶景を満喫し、最後に山形県内随一の高さ63mの玉簾の滝、安達太良山を見物して郡山駅にたどり着き、東京駅には夜一〇時、自宅には一一時半を過ぎて到着しました。

このコースは六月から運行していますが、三日間とも晴天に恵まれたのは今回がはじめてだそうですが、運よく好条件に巡り合うことができ感謝です。



♪もう二度と見ぬ海山空花こころゆくまで眺めたり 茫洋

♪名も知らぬ蝉は鳴きたり鳥海山

Monday, August 24, 2009

ロベルト・アバド指揮の「エルミオーネ」を視聴する

♪音楽千夜一夜第78回


昨年の8月にイタリアのペーザロで開催されたロッシーニ・オペラフェスティバルで上演された「エルミオーネ」を衛星放送の収録で鑑賞しました。

演奏はロベルト・アバド指揮のボローニャ市立歌劇場管弦楽団、美女ぞろいのプラハ合唱団、演出がダニエレ・アバドという組み合わせです。
ダニエレはクラウディオ・アバドの息子、ロベルトは甥。道理で指揮者の顔はなんとなくおじさんに似ていますが、演出はまずまずの出来だとしても、指揮のアバドはおじさんほどの冴えはありませんでした。歌手の出来もまずまずでした。

この作品はラシーヌの戯曲「アンドロマック」にもとづいていますが、そのもとになっているのは皆様よくご存じのトロイ戦争の後日談。トロイの木馬の詭計で敗れたトロイアの英雄ヘクトルの妻アンドローマカ(マリアンナ・ピッツォラート)は息子とともにギリシアの英雄アキレウスの息子ピルロ(グレゴリー・カンディ)の奴隷にされています。

ところがピルロはメネラオスとヘレナとの間に生まれたエルミオーネ(ソニア・ガナッシ)という婚約者がありながら、この美しく気品のあるアンドローマカに恋してしまいます。嫉妬に狂ったエルミオーネは、彼女を慕ってギリシアから派遣されてきたアガメムノンの息子オレステ(アントニーノ・シラグーザ)をそそのかして、ついにピルロを殺すに至らしめるという、聴くも涙、語るも涙の愛の大矛盾大悲劇物語です。

なんせ台本の造作が劇的なので、これこそロッシーニ随一の傑作だとほめたたえる向きもあるようですが、音楽はいつもとおんなじパンパカパーンのロッシーニ節。ほんらい彼の音形は軽喜劇にもっともふさわしいスタイルなので、血まみれの短刀でぐさりとやるようなシーンには強烈なアンバランスを醸し出します。

ロッシーニ・クレッシェンドの劇的な高まりは、その基底部に毒のある哄笑を秘めていて、ギリシア悲劇の深刻な悲嘆とは絶対に調和しないのです。
イタリアの管弦楽団が例外なくそうであるように、ボローニャのオケも最初は寝ぼけています。しかしあおりにあおるアバドに乗せられて、次第にスパークするのですが、その頂点でオペラ自体が構造的に破綻するというきわめて貴重な瞬間を私たちは目撃することができるでしょう。



♪けふもまたちゃんちゃらおかしくいきにけり 茫洋

Sunday, August 23, 2009

アップダイク著「クーデタ」を読んで

照る日曇る日第285回


アラビアのロレンスがやったように、どこか遠いところ、たとえばアフリカのサハラ砂漠の近くの発展途上国の政治経済や社会をその国の心ある人たちとともに変革することは、冒険心豊かな先進国の男たちの野心をむやみと掻き立てるようです。

ロレンスの時代ならともかく、現代ではそれはなかなかむずかしい。しかし実際にそれができなくても、フィクションなら、小説の世界でなら、その疑似行為を夢想的に体験できるだろう。なぜなら、そもそも小説とはうそっぱちを描いて、それがあたかも真実であるかのように錯覚させる高等呪術だからである。

そう考えて、その国の独裁者にわが身をなぞらえ、アラーの大義にもとづく神聖政治を宣揚してアメリカ帝国主義やソビエト社会主義に伍して自主独立の王道を貧しい国民の先頭に立ったつもり、になったのが、この小説の著者でした。

クーデタを起こして大統領に就任した主人公のエレルー大佐は、リビアのカダフィ大佐、あるいはそれ以上に魅力的な人物です。国籍の異なる4人の夫人を持ち、ほとんどなにも産物がない不毛の砂漠地帯に棲息する人民の幸福と公共の福祉のために献身的に戦い、襲い来る未曾有の旱魃を防ごうと挺身します。

そのために自分を引き上げてくれた老国王の首をちょん斬ったり、官邸の大臣や護衛などに懸命にハッパをかけて彼なりの魔術的な手腕を駆使するのですが、それらの努力は結局はカフカ的状況の中でまったく報われず、大佐はすべての権力を失墜して第3夫人とともにパリに脱出するのです。やれやれ。

エレルー大佐が信奉するイスラム社会主義は裏切り者の側近が引き入れたアメリカ帝国主義の陰謀の前に屈服するので、この小説はアフリカ大陸を席巻するアメリカ帝国主義の黒い影を描いたものであるんであるんである、などとしたり顔で解説するインテリゲンチャンもいるようですが、別段そんなに大層なイデオロギー小説ではありません。


♪処暑の夜わが陰嚢の冷たさよ 茫洋

Saturday, August 22, 2009

リヴァイアサンの蜂起

バガテルop109

きのう由比ガ浜の海で亡くなられた2人の若者に深く哀悼の意を表します。

今日その同じ海で、泳いできました。監視員が2段固めのシフトで厳重に警戒し、「膝の高さまでのところで泳いでください」と声をからして叫び、沖に出る人たちに対しては全力で駆けつけて注意していました。

海岸は遊泳注意になっていましたが、波はかなり高く、ゆっくり泳ぐことなどとうていできません。昨日は今日と同じような波でしたが、元気な4人の若者が、海岸からわずか15メートルのところで溺れてしまったのです。

この海岸は、逗子と違って浜から5メートル付近が少し深くなっており、それより先に進むと、沖の潮目の影響で日によっては左右に激しく流されてしまいます。
海の中を流れる川の勢いが水面下では激しいのです。昨日の若者も、岸に帰ろうとしてかえって沖に流されてしまったところを高波で覆われたのではないでしょうか。

私もちょうど彼らの年頃に千葉の館山海岸で調子に乗って沖に出過ぎて、いくら泳いでも岸に辿りつけなくなり、潮の流れ、海の勢いとはこんなものかと怖い思いをしたことがあります。

 海に潮流があるとすれば、陸にも激しい流れがあります。有権者が政治の流れを変えようとする強烈な力、もはや人知を超え、思惑を超え、想像を超えた特定の方向への奔流です。

この流れがどのようにして起こったのかをのちの人々はもっともらしく分析することでしょうが、そうした要素還元主義者のこざかしい屁理屈とは無関係にそれはたったいま滔々と流れています。

自公が敗北して民主が勝利するという表層の政治的変化ではなく、その深部でうごめいている激流に注目しましょう。私たちは理非曲直を超越して、政権交代という渦に飲まれ、上流から下流へと激しく流されているのです。

これが大衆の意思です。これが自然の脅威よりもある意味では恐ろしい時代を動かす民意というものであることを、私たちは身をもって体感していることを末永く記憶しておきましょう。


♪かねてよりのわれの望みを叶えるはわれならぬリヴァイアサンの蜂起なるか 茫洋

Friday, August 21, 2009

2つの美術館

バガテルop108


今日も午後から由比が浜へ行きましたら、赤旗が立って救助用のヘリコプターが2機ホバリングしています。きっと誰かが海で溺れたのでしょう。そのまま材木座へ行くと黄色い旗が風に靡いていましたが、結局青旗の逗子海岸で泳ぎました。

浜からすぐそばの浅瀬で大きなアジが2匹、3匹と見事な跳躍を連続で見せてくれます。あみがあれば晩御飯のおかずに掬ってやるのにと思ったことでした。

さて今日の本題です。美術館というところは展覧展示の中身も大事ですが、その施設を運営する体制やスタッフの心遣いもそれに劣らず重要です。

19日の水曜日に東京竹橋の国立近代美術館へ出かけて「ゴーギャン展」を楽しんだ話はすでにこのブログでも書きましたが、実はその帰りにちょっと不愉快なことがありました。使用したコインロッカーから100円玉が出てこなかったのです。次の客もこのような目に遭うと厭だろうと思い、たまたま会場の出口に投書コーナーがあったので、「展示内容は素晴らしかったが、100円玉を失ったことは残念だ」と一筆したため、何気なく電話番号を書いてポストに投函しておいたところ、なんとその翌日の午前中に同館統括のSさんという方から、「調査した結果貴殿の一〇〇円玉が機械の奥で発見された。大変申し訳ありませんでした」という電話があり、今日になってその金額相当の切手と次回の招待券二枚が同封された丁重な詫び状を頂戴しました。(本当はたかが一〇〇円だし別に返ってこなくても良かったのですが、いかが致しましょうかと聞かれて同じ金額の切手にしてもらったのは当方のとっさの恥ずかしい思いつきでした。)

私がこういう目に遭ったのも、こういう素早いフォローに遭ったのも生まれて初めてのことなので、実はビックリなのですが、日本全国の美術館がこのように顧客本位の迅速かつ親切な対応をしてくれるとは限りません。いや例外中の例外なのではないでしょうか。

というのも数年前、私はこれとまったく逆の経験をしたことがあるからです。葉山に神奈川県立近代美術館の分館が誕生した直後に障ぐあいを持つ家族と一緒にそこを訪れた私たちは、係員からじつに不愉快極まる対応を受け、障ぐあい者の受け入れ態勢がなっていないのではないか、という趣旨の書簡を同館の館長宛に送ったのですが、待てど暮らせどなしのつぶてでした。おそらく館長の目にも触れなかったのではないでしょうか。

そういう無礼千万な公共施設も存在する中で、今回の国立近代美術館の措置はまことに気持ちがよく、晩夏の午後を吹き抜ける一陣の清風のように爽快そのものでありました。
おかしなもので、私たちはちょっとしたことでうれしくなったり、悲しくなったりするのです。


♪魚ならば溺れることもあるまいに海空陸の大レスキュー隊 茫洋

Thursday, August 20, 2009

幻の魚

鎌倉ちょっと不思議な物語第203回

夏といえば海、海といえば由比ケ浜、由比ケ浜といえば鰹、鰹といえば徒然草と山口素堂でしょうか。

兼好法師は徒然草の第百十九段に「鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり」と書き始め、鎌倉の年寄りが、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と語ったことを証言し、その低級な大衆魚が「このごろ上さままで入り立つ」有様を例によって「世も末」と切って捨てています。

また江戸時代の俳人山口素堂は、この由比ケ浜にやってきて「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」と詠んだそうですが、御所見直好氏によれば、現在この海岸で獲れる八月の魚は、イシダイ、ボラ、カワハギ、メバル、カサゴ、タカノハダイ、ニザダイ、メジナ、コアジ、カマス、イセエビ、イカナゴ、シコなどであり、ソウダカツオの名はあってもカツオの名前は出てきません。彼の著書「鎌倉路」を調べてみても、春夏秋冬を通じてカツオは鎌倉の魚ではないようです。

しかし御所見直好氏が取材した当地の漁師の話では、戦争中はカツオ船が出ていたそうですが、戦後は絶えてしまったそうなので、もしかすると初夏に出漁すれば、文名高い鎌倉の鰹を一尾くらい釣り上げることができるかもしれませんね。


  ♪幻の鰹を求め海に出る実朝が乗りしさすらいの宋船 茫洋

Monday, August 17, 2009

由比が浜vs逗子海岸

バガテルop107&鎌倉ちょっと不思議な物語第203回


昨日の逗子海岸行きで今年の海水浴も12回目となりました。

例年ですとこの時期には土用波が押し寄せ、大中小のクラゲが現れるのですが、台風8号の余波と数匹のクラゲ攻撃はあったものの、概して今年の湘南の海は平穏続きであったのではないでしょうか。

 私は普段は鎌倉の由比が浜で泳いでいますが、こことか材木座、中央海岸が遊泳注意あるいは遊泳中止であったとしても、逗子海岸だけはほとんど遊泳可能です。なぜならこの海岸は岬の奥に少し引き込まれた内海なので、外海に直面した他の海水浴場が荒波に襲われていても、まるで沼のように穏やかなのです。

 それにこの海岸にはさまざまな魚たちがたくさん泳いでいる姿を浅瀬でも、沖でも見かけることができますし、潜りながら彼らに近づいていっても逃げずにのんびりと回遊しています。やわらかな砂の中にはヒトデや貝もうごめいていて、私たちの少年時代には引けをとるとしても、まだまだ豊かな自然が残されています。

ちなみにこの海岸の神奈川県による衛生検査では他の海岸を押しのけて一位でした。

またこの海岸には地元出身のミュジシャン、キマグレンが経営するライブハウスも浜辺に建っていて、海水浴以外のコンサート体験もあわせて楽しむことができるのです。
東京方面から電車に乗って来ると帰るときに鎌倉からでは絶対に座れませんが、逗子駅からだと4両を連結するので1本待てば必ず座って帰ることができますし、湘南新宿ライ始発電車もここから出ています。


ゆいいつ嫌な感じなのは、この海岸にはかの尊大傲慢都知事の「太陽の季節」碑、および海岸を見下ろす高台に彼の山荘が鎮座していることですが、それを値引いても由比が浜vs逗子海岸ではどうも後者に軍配があがりそうです。


♪逗子の海潜れば群れなす魚たちメビウスのごとわれも泳ぎき 茫洋

由比が浜vs逗子海岸

バガテルop107&鎌倉ちょっと不思議な物語第203回


昨日の逗子海岸行きで今年の海水浴も12回目となりました。

例年ですとこの時期には土用波が押し寄せ、大中小のクラゲが現れるのですが、台風8号の余波と数匹のクラゲ攻撃はあったものの、概して今年の湘南の海は平穏続きであったのではないでしょうか。

 私は普段は鎌倉の由比が浜で泳いでいますが、こことか材木座、中央海岸が遊泳注意あるいは遊泳中止であったとしても、逗子海岸だけはほとんど遊泳可能です。なぜならこの海岸は岬の奥に少し引き込まれた内海なので、外海に直面した他の海水浴場が荒波に襲われていても、まるで沼のように穏やかなのです。

 それにこの海岸にはさまざまな魚たちがたくさん泳いでいる姿を浅瀬でも、沖でも見かけることができますし、潜りながら彼らに近づいていっても逃げずにのんびりと回遊しています。やわらかな砂の中にはヒトデや貝もうごめいていて、私たちの少年時代には引けをとるとしても、まだまだ豊かな自然が残されています。

ちなみにこの海岸の神奈川県による衛生検査では他の海岸を押しのけて一位でした。

またこの海岸には地元出身のミュジシャン、キマグレンが経営するライブハウスも浜辺に建っていて、海水浴以外のコンサート体験もあわせて楽しむことができるのです。
東京方面から電車に乗って来ると帰るときに鎌倉からでは絶対に座れませんが、逗子駅からだと4両を連結するので1本待てば必ず座って帰ることができますし、湘南新宿ライ始発電車もここから出ています。


ゆいいつ嫌な感じなのは、この海岸にはかの尊大傲慢都知事の「太陽の季節」碑、および海岸を見下ろす高台に彼の山荘が鎮座していることですが、それを値引いても由比が浜vs逗子海岸ではどうも後者に軍配があがりそうです。


♪逗子の海潜れば群れなす魚たちメビウスのごとわれも泳ぎき 茫洋

平野啓一郎著「ドーン」を読んで

照る日曇る日第283回


「私小説は自慢話である。自分は絶対に書かない」ときっぱり否定するこの人。その言うや良し、です。

私が最初に読んだ彼の作品は、ショパンやドラクロワやジョルジュ・サンドがまるで史実のように動き回る面白いロマンチック小説でしたが、その実録歴史風の時代がかった衒学的な文体がことのほか気に入りました。

ところがその次に読んだ「決壊」はまるで秋葉原事件の漫画風解説本のような趣で、主題こそ当世流行のネット時代のおける現代人の悪意と殺人事件を描いてはいるものの、登場人物にまるで存在感もリアリテイもなく、でくの棒のような不自然な人物造形と人工的なプロットに、「いったいこれのどこが小説なの?」と辟易させられたものです。

そこへ今回突然ドーンと登場したのが本書で、これは2033年に人類初の火星着陸を成功させたアメリカを舞台にした近未来フィクション小説です。

アメリカはもちろん全世界の家庭や街頭には隈なく監視映像ネットが隈なく張り巡らされ、全国民が複数のアバターを分かち持ち、それらのキャラクターをTPOごとに使い分けている「1人多重人格社会」がすでに確立されています。20世紀に揺らぎ始めた自己同一性原理は完全に破壊されてしまい、人類はそのアイデンティティをいかにして再確立するかに頭を悩ませているのですが、妙案は見つからず、その苦悩と分裂は深まるばかりです。

主人公は佐野明日人という日本人宇宙飛行士兼医師なのですが、世紀の偉業達成の陰に、彼の同僚の女性飛行士の妊娠、流産事件と言う不祥事、NASAのそのスキャンダルにからんだ大統領選挙の陰謀、さらに東アフリカ融解戦争への加担から派生したテロリストによるマラリア蚊兵器の登場等々、いかにも三文小説風、アメリカ流にいうとパルプマガジン風の「いかにもな事件」が次々に起こり、主人公とその家族たちを翻弄します。

つまりここで著者が闡明しているのは、いまからさらに時間が2,30年ほど経過し、科学技術が驚異的に発達しても、世界の政治と経済は相変わらず混迷を続け、人間の愚かしさはますますその度を加え、生も死もますます難儀になるぞ、という暗い予言なのでしょう。

しかしそんな小学生でもわかっているような当たりきしゃりき車引きのお話を宇宙関係の文献やらネット資料をもっともらしくどんどこ援用して500ページになんなんとする原稿用紙を無駄にする必要が果たしてあったのでしょうか? 

この小説に唯一救いがあるとすれば、そのタイトルの「ドーン」が英語のDAWNであり、人類の「ダウン」ではなく「夜明け」を暗示している点でしょう。


♪古書市芥川全集3500円で叩き売る 茫洋

Sunday, August 16, 2009

神奈川県立近代美術館葉山の「画家の眼差し、レンズの眼」展を見る

照る日曇る日第282回

海水浴の前に神奈川県立近代美術館の葉山分館へ行って「画家の眼差し、レンズの眼」近代日本の写真と絵画展を見ました。

高橋由一の地方の県庁などの絵がたくさん並べてありましたが、いずれもそのトーンの暗さに驚きました。ワーグマンなどから西洋絵画の基礎を学んでいた青年の心中に淀んでいた昏さとは西欧の明るさとの距離に伴う前近代性の自覚から起因するそれだったのでしょうか。

大正時代のはじめに上高地を訪れた高村光太郎が焼岳を背景にした白樺の木立を描いたセザンヌを思わせる油彩画の左隣に、資生堂初代社長の弟で我が国の写真黎明期を切り開いた福原路草の「枯木」というモノトーンの写真が並べてありました。

ほぼ同じころの同じ光景を、いっぽうは画家がリアリスティックに、もう一方では新進気鋭のフォトグラファーがシュール・リアリスティックに切り取ると、これほどにも相反する光景、心象風景が生まれてくるのかという驚きが湧いてきます。

人間の知的営為である画家の眼差しは、無機的なレンズが見ているものとは異なる景を見つめていますが、それを脳と手と道具を使って造形していくうちに、当初画家がとらまえていた景とは異なる次元の景へとどんどん変貌していくはずで、レンズが見た景などとはその出発点においても、経過点においても絶対に交わらないはずなのに、瓜二つの表現形態に落着するケースもあれば、まるで、というか当然のように愛異なる表現として定着されることもある。

写真と絵画。今回の展示は、その思いがけない接触と絶縁の様相を楽しませてくれます。


♪見よ 汝が心中より露頭せしもの 茫洋

Friday, August 14, 2009

月下美人咲く


♪ある晴れた日に 第63回


六人の美女訪れし月夜かな 茫洋



月の下美人が戻るお盆かな 



老舗滅び月下美人咲く夕べかな

西瓜の味

西瓜の味

Thursday, August 13, 2009

恐るべきトライアングル

♪音楽千夜一夜第77回

リストのピアノ協奏曲などは最近ほとんど耳にする機会もなくなりましたが、20年ほど前にはかなり人気があって時々演奏されていました。

ある日都の乾の方角にあって、教授陣の大半が2流、3流ではあるけれども、学生と演劇とオーケストラが1流であることでつとに知られる大学の、その交響楽団でチエロを弾いているK君と一緒に、くだんの曲の演奏を聴きました。
なんでも会場は新宿厚生年金会館で、ロジェストベンスキーが指揮するモスクワのやたら暴満な音響を発するオケだった、とうろ覚えに覚えています。

そしてこのやたら騒がしい名曲がいよいよ第3楽章に入ってしばらくすると、それまでは左手奥の大太鼓の影で鳴りを潜めていたトライアングルが、主役のピアノや打楽器や金管楽器ともども狂ったように打ち鳴らされ、まもなく疾風怒涛のフィナーレに突入しました。

さうして、浪漫主義者リスト特有の壮大なこけおどしのコーダの咆哮を圧して、楽堂の山顚にすっくと聳え立ったのは、超高周波数の凛乎とした鈴の音でした。
耳も割れよ、天井よ砕けよ、とばかりに大山鳴動。終わってみれば、鼠一匹、これはピアノ協奏曲ではなく、トライアングル協奏曲だったのです。

そのように私が正直に感想を漏らしますと、K君は「この曲の初演のとき、反ワーグナー派の評論家ハンスリックが君と同じ批評をしている。素人にしてはなかなかいい線いってるよ」と褒められたことを懐かしく思い出しました。
思えば彼のその一言で、私のクラシック趣味が始まったのですから、持つべきものは良き友です。

自慢話はこれくらいにして、すべての楽器のうちでもっとも遠くまで鮮明に聴こえるのが、このちっぽけな三角形の金属であることは、あまり知られていないようです。
オーケストラのフォルテッシモの演奏中でも、この打ち出の小槌をほんの小さく鳴らしただけで、ティンパニーやチューバやシンバルや、マーラーが好んで使う青銅の大太鼓などを軽々と凌駕して、会場の隅々にまで玲瓏とひびきわたりますから、作曲家は十二分に注意する必要があります。

リストの場合は極端な例外ですが、ショスタコービッチの第5番の交響曲においても夜郎自大に乱打されて、その本来の正しい奏法がなされていません。いやロマン派のすべての作曲家がこの悪弊に染まって、音色の清らかさと音楽のあたりきな伝達方法を失ってしまったことは、ハイドンやモーツアルトの温和にして乾坤一擲、じつに目の覚めるように鮮やかな鳴らし方を一聴すればあきらかでしょう。


♪過ぎたるはなお及ばざるがごとしトライアングル 茫洋

Monday, August 10, 2009

日経広告研究所編「基礎から学べる広告の総合講座」を読む

照る日曇る日第281回

日経が毎年出しているこの本は、日経広告研究所が毎年開催している有料セミナー「広告の理論と実際の総合講座」の内容を1冊にまとめたものです。
最新の「2009年版」でも20名の著者が総論から各論までの20の講義を展開していますが、タイトルは変哲がなくても、常に業界の最新動向がどっさりと盛り込まれ、講師の大半がうろんなアカデミスト連中ではなくて、現場の最前線で活躍している実務家ぞろいであることが、凡百の類書と決定的に違うところです。

たとえばいま話題のソフトバンクの林浩司氏からは同社の経営戦略とシンクロした異色の宣伝広告キャンぺーンの舞台裏を垣間見ることができます。
真夏なのに冬景色のキャメロン・ディアスが登場したり白い犬が物を言うCMの背後には、その自由なクリエイティブを支持する現場担当者と、それを後押しする寛大な経営者が存在しているのでした。

しかもそれらのキャンペーンの前提として明確な理論と日常的なデータ管理がなされ、猛烈な速度で両者の修正と再構築が展開されているようです。名実ともにベストCMの評価を勝ち得た「白戸家の人々」に満足することなく、どんな名CMであっても陳腐化し、その効果は日ごとに失われる、と冷静に認識して、ライバルから奪ったビッグタレントによる一大キャンペーンを開始したこの会社の後生は、まことに畏るべきものがあります。

サッポロビールの寺坂史明氏からは、1本のテレビコマーシャルを断行するために辞表を胸に保守的な首脳陣と渡り合う武勇伝を聞くことができます。
どんな職業の、どんな仕事であっても、担当者が命を賭ける時はあるものです。



♪男一匹生きるも死ぬもこの時ぞこの時ぞ 茫洋

Sunday, August 09, 2009

カラヤンの映像作品を視聴する

♪音楽千夜一夜第76回


このところNHKの衛星放送でカラヤンのベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーの映像記録を放映していました。いずれも1970年代の初頭にユニテルが35ミリでビデオ収録した貴重な映像です。

どこが貴重かといえば、これがライブ映像なのか録画なのか判然としないごった煮であることです。曲によってはコンサートホールの情景や聴衆の拍手なども収録されていて、一見するとライブコンサートのライブ収録のようにみなされる個所もあるのですが、各パートのクローズアップになると奇妙な映像が続々登場します。

たとえば、奏者が実際にはありえない放射線状に美しく配置されていたり、チャイコフスキーの悲愴の第三楽章の小コーダでは、第一ヴァイオリンが「起立して」演奏しているのです。こんなことを「あーだこーだ」言っても始まらないのですが、「のだめ」やダスターボ・ドゥダメルが指揮するシモン・ボリバル・ユーズ・オーケストラの華麗なパフォーマンスの原点は、ほかならぬ七〇年代のカラヤン&ベルリンにあったということがわかるのですね。

おそらく最初に演奏を全部録音しておき、コンサートホールでも再度ライブ収録を行い、最後にスタジオでも要所要所の採録を行い、この3つのデータを適宜コラージュしてできたものがくだんの作品なのでしょう。演奏のみならず映像もおのれのコンセプトに合わせて最新の科学技術で自由自在に編集加工するという「ゴッドハンドの時代」をカラヤンは先導したのです。

カラヤンは例によって暗譜を誇示するかのようにほとんど瞑目して演奏しており、それだけでもかなり異常ですが、たまたま演奏がうまくいったりすると、眼をつぶったまま、かすかに笑ったりする不気味な瞬間があるので目が離せません。晩年とは違ってキャメラはカラヤンの顔を左からも右からも比較的自由に撮らせている点にも興味をひかれます。


多くの人々は、演奏は素晴らしいけれど、映像の遊びが過ぎるこうしたカラヤンの試みに否定的でしたが、トロントのCBCのスタジオでもっとクレージーな映像ごっこに夢中になっていたグレン・グールドだけは例外で、とりわけカラヤンのベートーヴェンの五番ごっこを高く評価していたようです。


♪神の手が至高の演奏を作るなりカラヤンごっこは今日も続いて 茫洋

不純な視点

♪音楽千夜一夜第75回


パソコンに向かって仕事をしながらテレビをつけていましたら、突然モーツアルトのバイオリンソナタの変ロ長調K454の有名な旋律が流れてきました。

音程だけは正確な清潔で、まずは丁寧な演奏といえるでしょうが、言葉ありて心足らず、まるで精神的に余裕のない、ギスギスした、潤いのない演奏です。同じモーツアルトの名曲なのに、クララ・ハスキルのそれとは比較にならない低次元の演奏に驚いて振り向いて画面を見たら、サントリーホールの真ん中で、赤いドレスを着た美人が、恐ろしく神経質な表情でヴァイオリンを奏でていました。

ブラームスならともかく、ただでさえ難しいモーツアルトを、あんなこわばった顔つきで弾いて人々を感動させることなぞ絶対にできません。私は彼女が発する醜いヒステリックな音声を消してしまい、女優を思わせるこの人の、苦悶に震える細い眉のアップや、不安におののく黒い瞳、嗜虐的な欲情さえそそる冷徹な美貌にしばし見とれていました。

あまり大きな声ではいえませんが、肩、腕、背中などを露出した美しい女流奏者が、歯を食いしばり、髪を乱し、われを忘れて演奏に取り組む姿は、どこかエロチックな行為を思わせることがあります。
大きなチェロを両の肢でがしりと挟み込み、エルガーの協奏曲を狂ったように弾く若きジャクリーヌ・ヂュプレの姿は、音楽の神との崇高なインターコースと私には感じられました。

もしかすると熱狂的なコンサートゴアーの中には、美しき女性奏者との官能的なエクスタシーを体感するためにコンサートホールに通いつめる人がいるのかもしれませんし、売り出し中の若手美人ミュジシャンの中には、そのことを熟知してファッションやメイクに留意しているケースもあるのではないでしょうか。

♪嗜虐者なるかはた被虐者なるか弦打ち鳴らす黒髪の人 茫洋

Friday, August 07, 2009

残暑お見舞い申し上げます

♪音楽千夜一夜第74回


前回話に出てきたヨセフ・カイルベルトですが、去る8月3日の夜にブラームスの1番を聴き、その真率の気に満ちた演奏に驚嘆しました。1968年5月のN響とのライブですが、彼は帰国わずか2ヶ月後の7月に「トルスタンとイゾルデ」を指揮しながら世を去りますから、これはまさしくわが国の音楽ファンにたいする白鳥の歌だったといえましょう。
同じ日の放送のロブロフォン・マタチッチのベートーヴェンの7番、オトマール・スイトナーのモーツアルトの39番も絶品で、当時のN響と比べていかに今日のそれが腐敗堕落しているか、さらにこの偉大なる指揮者に続いてN響が迎えたブロムシュテットだのデュトワだのアシュケナージだのがいかに下らない三流役者であるかを雄弁に物語る演奏でした。

古典音楽を聴けば聴くほど痛感するのは、古代、縄文、新石器時代の芸術家の素晴らしさです。ベートーヴェンの交響曲全集も毎月のように発売されていますが、改めて聞いたトスカニーニのすごさは、カラヤンなど足元にも及ばぬ迫力でした。これはソニー&BGMの最新リマスター版が@200で入手できます。


ALTUSレーベルからこれは1枚1000円という高値で発売されている外来オケのライブではムラビンスキー&レニングラードフィルの「田園」&ワグナー管弦楽集、チエリビダッケ&ミュンヘンフィルのブラームスの4番、クーベリック&チエコ響のスメタナ「わが祖国」のサントリーホールの一期一会のライブが名状しがたい感興を誘います。

私がクーベリックと手兵バイエルン放響の生演奏を耳にしたのは70年代のパリ・シャンゼリゼ劇場でしたが、生まれて初めて聞いたマーラーの4番の独唱に思わず涙した日のことをいまでも懐かしく思い出します。そのクーベリックのマーラーの5番の1981年6月12日の壮絶なライブ録音は、同じく1枚1000円のaudita盤で堪能することができます。グラモフォンの全集も手元に備えるべきですが、やはりクーベリックのマーラーは、ライブで炎と燃えるのです。

こんな調子で続けていくと秋になってしまうのでもうやめますが、最後にご紹介したいのは現在世界で最も充実した演奏を繰り広げているマリス・ヤンソンスによるショスタコービッチの交響曲全集です。ベルリンフィル、ロンドンフィル、クーベリックゆかりのバイエルン放響とオーケストラはさまざまですが、ロストロ&ワシントン響盤などを圧倒する素晴らしい演奏を聞かせてくれます。これも1枚250円也。バレンボイム&ベルリンフィルによるモーツアルトの協奏曲集九枚組にショルティ、シフとの2台、3台協奏曲のDVDをおまけに付けて2800円ともどもお薦めです。

あれも聴きたい、これも聴きたい。1枚500円以下で聴きたい。聞くはいっときの快、聞かぬは一生の損。そんなアホバカマニアがいま発注しているのは、アルゲリッチの独奏&協奏曲全集全15枚。この秋も各社から超廉価CD、DVDが続々発売されるようなので目が離せません。


♪聴くはいっときの快、聴かぬは一生の損 茫洋

Thursday, August 06, 2009

続 暑中お見舞い申し上げます

♪音楽千夜一夜第73回


オペラ以外のお買い得、聞き得CDもいろいろありました。まずはドイッチエ・グラモフォンのブラームス全集全46枚組のセットです。
これまで4つの交響曲をはじめ管弦楽曲を中心にさんざん聞きかじってきたブラームスですが、このセットの大半を占める7枚の歌曲、8枚の合唱曲がことのほか新鮮でした。

歌手はジェシーノーマン、フィッシャーディスカウなどの大家にダニエル・バレンボイムが絶妙のピアノ伴奏をつけています。エディット・マチス、ビルギット・ファスベンダー、ペーター・シュライヤーのアンサンブルにカール・エンゲルが伴奏した二重唱、三重唱もまたとない盛夏の聴きものといえるでしょう。

ルドルフ・ケンプを中心としたピアノ曲、アマデウスカルテットを主力とした弦楽四重、五重奏曲、カラヤン&ベルリンフィルによる4つの交響曲もいかにもブラームスらしい重厚な演奏ですが、とりわけ若き日のアバドによる2つのセレナード、ポリーニの独奏による2つの協奏曲は本集の白眉といってよいでしょう。
ともかくブラームスを一枚三〇〇円程度で骨の髄まで享楽できる充実した全集でした。

次はこれも若き日のレオナード・バーンスタインが七〇年代にニューヨーク・フィルを振ったハイドンのロンドン$パリ交響曲集にいくつかのミサ曲とオラトリオ「天地創造」を加えた12枚組の超廉価盤。後年の重厚長大で悲愴な大演奏とは一味も二味も違う、いわば軽妙洒脱で都会的なハイドンがわずか1枚200円強で楽しめます。
ハイドンの「天地創造」はきのうカイルベルト&ケルン放響の1957年の演奏を聞きましたが、これがあの名人カイルベルトかと思う期待はずれの凡演で、ヤング・バーンスタインに軍配が上がってしまいました。

ちなみにこのカイルベルトの演奏は、現在Membranというドイツのレーベルから出されている1枚130円の廉価版のハイドンセットに入っています。ちなみついでに、私がこの10枚組シリーズで購入したのは、ハイドンのほかに「ヘンデル」「パブロ・カザルス」「エリザベス・シュワルツコップ」「ブルックナー交響曲集」の各セットで、これがどれもこれも名演奏ばかり。シュワルツコップのモーツアルトを聴いているとかたじけなさのあまりに文字通り泣けてきます。

カザルスの無伴奏チエロの2枚組は、もうおなじものを何セットも買って(買わされて)いますが、なぜだかこの安物の録音が私の耳にはいちばんしっくり届きました。カザルスってほんとうにすごいへたうま音楽家だったんですね。
またMembranの「ヘンデル」集には同じバーンスタイン&ニューヨーク・フィルによる1956年録音のメサイアが入っていて、これはハイドンをしのぐ情熱的な名演でした。いわゆるひとつの掘り出し物というやつでしょうね。

To be continued

昭和20年5月23日鎌倉十二所山林に初めて焼夷弾落つと吉野秀雄書く 茫洋

Wednesday, August 05, 2009

クロード・レヴィ=ストロース著「パロール・ドネ」を読んで

照る日曇る日第280回

「パロール・ドネ」などという正体不明のタイトルですが、なんせあの人類学の最長不倒距離翁クロード・レヴィ=ストロースさんの名著を中沢新一選手が翻訳された「渾身の本邦初訳」とあらば手に取らずにはおられません。

どこが渾身なのかは最後まで不明でしたが、ストロースさんの入魂の1冊であることだけはよくわかりました。つまり本書は現在101歳になんなんとする老学者が、40代の前半から70代の半ばまでの32年間にわたってフランスの高等研究院とコレージュ・ド・フランスで行った壮大にして野心的な超長期連続講義のレジュメ、講義録の簡略なの
です。
つまりパロール(語る)したもんをドネ(与える)したもんね、という題名だったわけですが、それなら「おいらの講義録」でよかったのではないでしょうか。

それはともかく「今日のトーテミズムと野生の思考」とか「生のものと火にかけたもの」「アメリカにおける聖杯」とか「カニバリズムと儀礼的異性装」とか、講義タイトルを眺めただけでいかにもな全世界をまたにかけた人類学の壮大にしてものすごくアカデミックな緻密な研究と考証のうんちくの限りが、延々と、かつまた淡々とつづられてゆきます。

たとえば、と101歳翁は語ります。
「アメリカ5大湖周辺に住む、ニューヨークのこていなホテルの名称にもなったアルゴンキン族ちゅうのんはな、ワグナーはんがかの「パルシファル」で描いた「聖杯伝説」によく似た興味深い神話を保持しておってのお、あるときトウモロコシを馬鹿にするアホな若者のせいで、部族の土地が大飢饉に襲われたんじゃ。ほんでな、とうとうある日、ひとりの英雄が荒地の果てまで冒険の旅に出よったんじゃ。そいでもって彼は老人の姿をしたトウモロコシの精霊―無尽蔵の富を生む大鍋の主―に出会うんじゃ。ところがのお、この老人の姿をした精霊はなんと背骨を骨折しておったんじゃ。しゃあけんどわれらが英雄は、アルゴンキン族の不幸の原因をつきとめ、自分たちの精霊の王を癒すことに成功したちゅうわけよ。めでたし、めでたし」
―「アメリカにおける聖杯1973年~1974年度」より引用し吉本興業風に脚色。

これらあまたの事例から、翁がいかにして魔術的な結論をあざやかに引き出すかは、それこそ読んでからのお楽しみです。


青蛇や青縞光らせ草に消ゆ 茫洋

Tuesday, August 04, 2009

暑中お見舞い申し上げます

♪音楽千夜一夜第72回

拝啓H様

関東地方ではずいぶん早くから梅雨明けとなり、小生も家族ともども何回か海水浴を楽しんで参りましたが、その後は晴れたり降ったり霧がかかったりでどうもすっきりしないお天気です。そちらの夏はいかがでしょうか。きっと例年に比べて涼しいのでしょうね。

今年はいちだんときびしい景気後退の影響を受けて、学生諸君の就職活動は困難を極め、景気の上下動は仕方がないにしても、同じ4年生でも1年違えば天国と地獄というこの就職格差は、むごたらしい限りです。去年なら簡単に受かっていた会社からも今年は内定が出ないという過酷な状況は年を越えても続くでしょう。

また一番学業に身を入れるべき3年生の時点で、本格的な就職活動を開始する、あるいは開始せざるをえない状況は、学生にとっても、学校、企業にとっても大きな弊害をもたらしており、一刻も放置できない由々しき問題です。今度の選挙で民社党が政権を取ったらまっさきに解決すべき教育と社会の優先課題ではないでしょうか。

暑苦しい前置きはこれくらいにして、私たちのゆいいつのお楽しみであるクラシックCDの話をいたしましょう。2009年の上期で私の耳をもっとも喜ばせてくれたのはEMIから発売されたマリア・カラスの全スタジオ・レコーディング集70枚@150円の大セットでした。彼女の海賊版を含めたライヴ録音の大半を入手していた私は、「カラスの本領はやはりライヴだ、スタジオ録音なんて死んだ缶詰音楽だ」とバカにしていたのですが、1949年の初録音以降1969年の最後のテイクに至るまでそれこそ1枚1枚舐めるように聴いていくなかで、スタジオでも死力を尽くして音楽に精魂を傾けるデイーヴァの姿に熱い感銘を受けたのでした。そのなかでもやはり恩師トリオ・セラフィンの棒に厳しく導かれた歌唱がいま耳の奥底に懐かしく響いております。

同じオペラでは、廉価版の王者ソニー&BGMが出してくれたプッチーニの全作品を収めた@350円の20枚組セットが素晴らしかった。トゥーランドットやトスカ、ボエーム、蝶々夫人などの有名オペラはもちろんですが、「妖精ヴィッリ」「エドガール」などの初期の作品、「つばめ」や「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の3部作も見事な旋律美を堪能できます。全体を通じてロリン・マゼールの熱い指揮ぶりが印象に残っています。彼はバレンボイムと並んでやたらレパートリーが広い何でもやさんですが、プッチーニの初期作品とドビッシーの「ペリアスとメリザンド」を振らせたら今でも彼にかなう指揮者はいないと断言できます。

次はグラモフォンがライバルに負けじと出したヴェルディの8つの有名オペラ作品、リゴレット、トラビアータ、トロバトーレ、仮面舞踏会、ドン・カルロ、マクベス、シモン・ボッカネグラ、アイーダに加えてレクイエムもおまけに加えた21枚組の廉価版。1枚500円を切る安価というだけではなくて、そのすべてを私が世界最高と確信するスカラ座の合唱とオーケストラがお付き合いしているという豪華版です。

異論もあるかと思いますが、これまで私が聴いてきた世界の有名オケの中で、もっとも耳朶を震撼させられた楽団こそ「ラ・スカラ」なので、このベスト盤を逸するわけがありません。指揮はアバド、ガバツエーニ、クーベリック、サンチーニ、ヴォトーですが、やはりここでも老練セラフィンのタクトと若くして死んだエットーレ・バスティアーニの透明な美声を堪能できるのがうれぴい限りです。

To be continued

 
政権の交代求め民意動く世が変わるとはかくのごときものか 茫洋
理非にあらず曲直も問わず遮二無二人は旧きを倒す

Monday, August 03, 2009

「谷川雁セレクション2・原点の幻視者」を読みながら

照る日曇る日第279回

平成天皇が百済の武寧王なら、己の出自を高麗人と宣言してはばからない南の孤高の詩人谷川雁が、これまた北の孤高の思想家宮沢賢治に透視していたもの、それは「倭」の鎮西弓張月の巨大な孤の「極北」でした。

倭を形成していた列島の縄文人の子孫たちは、朝鮮半島からやってきた鉄器を携えた弥生人によって圧伏され、半島からの新興渡来人たちは、彼らが武力で追いやった西南の琉球民族と東北のアイヌ民族と激しく抗争しながら、7世紀中葉にようやく天皇制を装備したヤマト国家を誕生させます。歴史の舞台に初めて登場した日本です。

以来14世紀の歳月を閲して、わが神国ニッポンチャチャチャは、なかなかにまつろわぬ2つの民族を飴と鞭の両面作戦で完膚なきまでに制覇したかに見えましたが、地下茎の陰微な反乱は絶えることなく継続され、南では沖縄独立運動が、北では賢治ゆかりの東北精神独立運動がつづけられているのです。

呪力を持つ縄文人であり、かつまたランボーのごとき近代の「見者」でもあった宮沢賢治は、その短い生涯にわたってその全著作を挙げて、伽藍のような巨大なドームを建設し、イーハトーブという名の聖地を立ち上げようとしました。

礼拝堂の天井には「銀河鉄道の夜」が輝き、床面は「ポラーノの広場」、壁面には「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」が置かれ、柱には「花鳥童話集」、その他「古いみちのくの断片」をちりばめた数々の小編が回廊までつづくその巨大なフラードームは、ガウディがバルセロナに建てた未完の聖家族贖罪教会大聖堂に少し似ています。

賢治もまたこれらの作品の完成を期さず、まるでグレン・グールドの「ゴルドベルク変奏曲」の演奏のように、あるいはまたメビウスの輪のように巡りめぐる精神の永劫回帰運動をそのコンセプトと定めたからです。

賢治は、この己が夢見た円天井の広大な空間に、芸術と科学を愛する少年少女を招きいれようとしました。そしてこの賢治の発想こそが、来るべき「単一世界権力」に対して無謀にもゲリラ的に対抗しようとする谷川雁の最終戦争、すなわち賢治童話を素材として使った「人体交響劇」の全面展開へとつながっていったのです。「粛々たる虚無の声が渡る」なかを……。


♪いとやすく大いなる便をひりだして偉大な事業なし終えたるがごとし 茫洋

Sunday, August 02, 2009

続「谷川雁セレクションⅠ」をめぐって

照る日曇る日第278回

「私のなかにあった『瞬間の王』は死んだ」と告知して、詩人谷川雁が永久に試作を放棄し、アルチュール・ランボオのように工作者として荒々しい現実に突入したのは1960年の1月6日のことでした。
しかし遅れてやってきた後世の若き詩人たちのためには、彼が詩と詩作について遺した「わたしの物置小屋」という珠玉のようなアフォリズムがあります。

以下本書55pから65pまでを随意に引用します。

詩作はちいさな革命、ほとんど失敗に終わる革命、夕刊の片すみで息絶える南米の革命である。

「私」と呼ばれるあいまいでちいさな星雲よりも言葉の方がほんのすこし安定しているという認識が文学の前提である。

人間が言葉をみいだすのではない。言葉が人間を計量するのだ。詩作の根本条件は選択の自由ではなくて必然性の認識である。

詩においては発端と結末が同時に存在する。つまり老人と幼児だけがおり、ほかの者はいてはならない芸術だ。

ひとつの単語は相反するすべての諧調を微量づつ含んでいる。このペンキ屋の常識すらもたない作品が横行している。

質量が小さくなればなるほど密度を増すいくつかの物質を想定せよ。作品はこの函数の和として与えられる。

ある種の級数のように、去年の決算が今年の決算の出発であるように、現在の一編は過去の百編をふくむ。

無限から一点をめざし収斂する言葉の螺旋運動――詩。小説は一点から放散して無限へ広がる。小説は特殊を、詩は無限すなわち普遍を説きあかす。

短歌は時として小説に似た放散運動を起こす。これはメロディの癖だ。短歌的抒情よりもこの方が問題だ。

短歌とは何か。私なら二行詩もしくは三行詩と答える。俳句は一行詩である。一行の長さは二十字以内とする。

一編の俳句は三ないし四個の名詞をふくむとき最も安定する。いけばなの先生がやたらに応用する椅子の原理。

漢字とひらがなの同盟が始まったとき、すなわち平安末期だか、鎌倉初期だかに、現代日本語の美感の大部分は定まったのである。

日本の詩に長所があるとすれば、それは形式の不純さである。油彩の日本画と水墨の西洋画、それらの戦慄すべき調和である。

各行の第一字目を漢字で書くか、ひらがなで書くかは視覚の均衡に重要な役割を果たす。実験したまえ。

一行のうちに少なくとも一個の運動する影像をふくむならば、印象の希薄さを避けることができよう。

音楽の強さを決定する振り子は行の長さである。一息に読みおろすことのできる行数が一行でなければならない。

作品を書くタイミングを誤らないようにせよと言いたい。同じ人生が三篇の名作をうむことも三百の駄作をうむことも可能である。

詩は習練によって上達する芸術ではない。うまい詩というものはありえない。詩をまなぶのは他のことを知るためである。

すぐれた詩は人間に対する信頼、世界に対する信頼がそのまま言葉に対する信頼に一致している、それだけのことだ。                  (引用終わり)


碩学吉本隆明氏の名著「詩学叙説」を一言にして乱暴に尽くせば、「単純で初歩的な直喩ではなく、複雑で高踏的な隠喩を多用したものが、立派な詩である」ということになるかと愚考するのですが、これは知識偏重評論家にありがちな詩の進化論ではあっても、詩の本質的な価値とはなんの関係もない物差しでしょう。
このように詩を形式主体で論じると万葉集より新古今が高級だという身も蓋もない結論に至るのです。

世に無内容な詩論は掃いて捨てるほど叩き売られていますが、ここに生々しく素描された詩の本質と詩作実践技術論こそ彗星のように現れて消えた詩の天才的工作者にふさわしいものだと思います。

♪百合の薫りあまりにも強すぎる 茫洋

「谷川雁セレクションⅠ」をめぐって

「谷川雁セレクションⅠ」をめぐって

Saturday, August 01, 2009

「大庭みな子全集」第1巻を読んで

照る日曇る日第276回&遥かな昔、遠い所で第87回

「三匹の蟹」と聞いて思い出すのは、遠い昔のある情景です。

私たち三人の孫を率いた祖父は須知山だかどこかの街道筋の山峡のバス停でいつ来るとも知れぬバスを待っていました。待っても待ってもバスは来ません。車も来なければひとっこ一人通りかかりません。
退屈し切った私たちはバス停の傍を徘徊していましたが、道端の溝に小さな水たまりがあり、その水底に何匹かの沢ガニが静止しているのに気付きました。

私は幼い弟と妹を呼んでその愛すべき生物の発見を喜びましたが、いざ捕獲しようとすると彼らが左右の武装した手で幼児の攻撃を威嚇し、防御する猛々しさにひるんでしましい、溜息をつきながら彼らが勝ち誇って発する大粒の泡を見つめるほかはありませんでした。

するといつの間にか孫たちの傍に来てその光景を眺めていた明治生まれの祖父が、いきなり持っていたステッキを水中にグイと差し入れ、しばらく左右に動かすと薄い赤と白に染め抜かれた子供の目にはかなり大きな一匹の沢ガニが杖に噛みついたまま地上に引き上げられてきたではありませんか。

私たちはワッと歓声を上げてその獲物を取り囲み、バスがやってくるまでの相当長い時間を十分に堪能することができ、それ以来私たちにとって祖父の杖は「おじいちゃんの魔法の杖」となったのでした。

しかし、この作家の文名を一躍高からしめた「三匹の蟹」に登場するのは、丹波の山奥の淡水に潜む沢ガニではなく、アメリカ産の海のカニであり、「三匹の蟹」とは六〇年代の米国に滞在している鬱屈した日本人の学者妻カニと夫カニと妻を誘う米国人男性カニの3点セットであり、最後に米国人男性カニが日本人女性カニを連れ込もうとしているバラック連れ込みモーテルの名前なのです。

夫にも嫌気がさし、異国暮らしの己の生活にも不満を覚え、訳がわからぬ外国人連中とのパーティの不毛さにも飽き果てた主婦……。触れれば落ちなんその風情は、アントニオーニの映画のヒロイン、モニカ・ヴィッテのアンニュイな世界を彷彿とさせます。

しかし、生と性のはざまで微妙に揺れ動く空虚な心と体に忍び込む「桃色のシャツの男」とは、そも何の象徴でしょうか? また、苦しげにふつふつと泡を吹く3匹のカニたちは、それからどのような運命をたどったのでしょうか? 

それを知るためには、この「三匹の蟹」の第1部「構図のない絵」と第2部「虹と浮橋」、それからその続編として書かれた「蚤の市」を併せて読む必要があります。
「三匹の蟹」という本の第3部を成し、なぜか芥川賞をかち得た「三匹の蟹」という、今読めばなんということもない古色蒼然とした短編は、著者が述べているとおり「ほんの手すさびの習作」にすぎないのです。


♪みなそこのわがしんちゅうにたぎるものおんとえんぬぱんちーる 茫洋

Friday, July 31, 2009

西暦2009年文月茫洋歌日記

♪ある晴れた日に 第62回

水無月尽今年最初の蝉がなく

水無月今年最初の仕事来る

天青は七つ咲きたりはないちもんめ

天青や天まで届けと伸びるなり

天青咲いてわたしの夏が来る

ぎすちょんが轢き殺されている道路かな

ショスタコ愛しけやチュウチュウ蛸かいな

ある人いわく「眼をまなこといふ」と

くしゃみくらい好きにやらせてくれ

墓場の中まで五輪塔持ちゆく男あり

若潮の海を沖まで泳ぎけり

若潮の塩のにがりの強きこと

好きだおと言い交わしつつ蝉が鳴く

香取草之助てふ表札ありさぞや風流な人ならむ

妻が見しオオルリ求めて彷徨えどわれが聴きしはテッペンカケタカ

欄干の小さきデザイン火と燃えて人も世界も揺り動かしつあり 

哀れ哀れ余の身代りに兇暴蜂に二度までも刺されし妻よ

道の上二匹のギースチョンが轢き殺されている

墜ちながら手をアルプスに触れざりしヴァイオリニストは哀れなるかな

赤い服着ていた女の子異人さんを連れて行っちゃった

雑草という名の草はなく虫という名の虫もない

こうてくれえこうてくれえとさけぶのでこうてやるかな

こんな日は由比ガ浜で海水浴しようといいて学生に笑わる

「では来週」「来週はお休みですよ」といわれ先生赤恥かく

月曜のロッカーに挿したるわが鍵を木曜の朝に取りにいきたり

なにかあれば大好きですと言い交わし男同士で抱き合う父子なり

今日もまた能天気にてルポをするNY特派員を訳なく憎む

環境に優しい車を買うよりも車作りを止めればよろしい

恥多き人生なら生まれてこなかったほうがいいとでもいうのか

まるでゼウスのように天気予報してやがる

ショスタコこけつまろびつ愛しけやしもいちど聴きたしチュウチュウ蛸かいな

カラムシの葉をくるりと巻きてアカタテハの幼虫は夢結びおる

アカタテハとヒメアカタテハの弁別できず昆虫少年年老いたり

弱き者相識るや自閉症の息子に優しかりし拒食症の二人の娘

大好きだよと毎日父子で言い合う父子珍しいか

ああわが青春の麗しのドモンジョいまごろどこでどうしておるか

尻の穴に指つ込めば気持ちいいぞといいし井口君アルジェリアで何しているか

ほらほら千年前の巨魁が今日も土御門邸で梅の漢詩を作っているよ道長日記

精魂をこめて描きし傑作を二足三文で手放す悲しさ

雨の中女が歩きながら本を読んでいる

太田胃散いい薬かもしれないが悪い音楽です

恥多き人生なら生まれてこなかったほうがいいとでもいうのか

この次はもう生きてはあらぬと思いつつテレビで眺むる皆既日食

何故に内定取れぬと我に問ふ真直ぐなる眼を受け止めかねつ 

本日もまた遊泳注意なりわが生への警告と聞きて沖に乗り出す

受けて落ち受けても落ちる学生にぐあんばれとしか言えぬ悔しさ 

Wednesday, July 29, 2009

フエンテス著「老いぼれグリンゴ」を読んで

照る日曇る日第275回

1842年アメリカのオハイオ州に生まれたアンブローズ・ビアスは「悪魔の辞典」、そして私の大好きな短編小説「空を飛ぶ騎手」の作者として有名ですが、南北戦争に従軍し、ジャーナリストとして活躍した後、2人の息子と妻にも先立たれ、70歳の時、傷心のままメキシコに赴き、そのまま行方不明となりました。

この小説は、この伝説の作家ビアスをモデルに、暴力と革命の地南米メキシコを舞台にした恋と血と詩と死の物語です。「死と呼ばれるものは最後の苦痛にすぎない」とビアスは語ったそうですが、すべてに幻滅したビアスを思わせる老作家は、精悍なトマス・アローヨ将軍率いるメキシコの反乱軍に身を投じ、そこで文字通り死を恐れない英雄的な戦闘を繰り広げます。

そこに登場するのがニューヨークからやってきた若くて美しい女教師ハリエット・ウインズロー。ここにお決まりの恋の鞘当て、愛の三角関係が始まる、とみせかけて実は老作家グリンゴとハリエットは実の親子なのです。

そうとは知らぬハリエットは恋敵のグリンゴを殺そうとするアローヨ将軍の人身御供となって、そのスレンダーで美しいプロポーションが眩い全裸を、野蛮人の前に惜しげもなく晒すのです。
飛んで火に入る夏の虫、蓼喰う虫も好き好き。落花狼藉を地でいく凌辱は深々と沈みゆくベッドの上で2度にわたって繰り広げられ、第1ラウンドにおいては獰猛な男が、リターンマッチにおいてはみずから2度目を求めた乙女が、当然のことながら勝利するのです。

あらすじを書いているうちに阿呆らしくなってきたのでこれくらいにしますが、いったい著者はアンブローズ・ビアスという素材を借りてきて、何を言いたいのかが、読めば読むほどわからなくなってくる世紀の迷作といえましょう。


♪この次はもう生きてはあらぬと思いつつテレビで眺むる皆既日食 茫洋

Monday, July 27, 2009

チャトウィン著「パタゴニア」を読んで

照る日曇る日第274回

パタゴニアといえば社員がいつでも海でサーフィンして構わないふとっぱらのスポーツウエアの会社ですが、これは南米のさらに南の文明の果てパタゴニア地方を旅行しながら当地ゆかりの人物とその事績を延々と追及したルポルタージュ小説です。

歩きながら思考するというこの手法は、我が国では古くは松尾芭蕉、最近では司馬遼太郎氏も試みていますが、若き行動派英国人の海の深さと山の高さをものともしない行動力には初めから勝負になりません。

古今東西の文献を博引傍証しながら、怪獣プレシオサウルス、「ビーグル号航海記」のダーウィン、コールリッジの「老水夫行」に影響を与えた難破記録、アントニー・ソートというアナーキスト、ヤガン語の辞書を作ったトーマス・ブリッジなどなど現代史の表舞台から杳として消えた足跡を荒涼の地の草の根を分けに分けて現地探索する著者の情熱の秘密はどこにあるのでしょうか?

1989年に48歳の若さでエイズで死んだ著者に直接尋ねる機会は永遠に失われたわけですが、その代わりに、たとえばジョージ・ロイ・ヒル監督の手で映画化され、「明日に向かって撃て」の主人公、プッチ・キャシディ(映画ではポール・ニューマン)、サンダンス・キッド(同ロバート・レッドフォード)、エタ・プレイス(同キャサリン・ロス)となった3人のパタゴニアでの行状をつぶさに追った著者が、プッチ・キャシディの妹に会い、警官隊の待ち伏せに遭って殺されたはずのプッチ・キャシディが、しぶとく生き延びて郷里ユタ州サークルヴィルで平穏な晩年を送ったという証言を、パタゴニアのリオピコにあるプッチ・キャシディの墓と並べて読者の前に「さあどうだ」とでも言うように差し出す時、「すべてを疑え」という彼の呟きが南の風とともに聴こえてくるような気がするのです。

そして私たちが本書に添えられたサンダンス・キッドとその情婦エタ・プレイスが優美に盛装して寄り添う夢のようにロマンチックな2ショット、映画の2人を凌駕する一世一代の美男美女の艶姿に出会う時、まさに「事実は映画より奇なり」の思いを新たにせずにはいられません。

何故に内定取れぬと我に問ふ真直ぐなる眼を受け止めかねつ 茫洋

Sunday, July 26, 2009

渚にて

バガテルop107&鎌倉ちょっと不思議な物語第201回


今日も3人揃って由井ガ浜の海に海水浴に出かけました。

午後2時過ぎに出発して2時半に海岸の傍の地下駐車場にさしかかると満車の表示が出ていたので、これはやばいと思ったのですが、しばらくすると空の文字が浮かび出て、うまく駐車できました。もっともこれらは全部お母さんの作業ですが。

海は大波、中波、小波が変わりばんこにザブンザブンと浜に打ち寄せ、中央監視所の上空には、青ではなくて黄色い旗がムクの尻尾のように強風にぶるぶる震えています。

昨日と同じように遊泳注意ということなので、僕は恐る恐る海に向かって前進し、星条旗の巨大な浮輪を抱えて波に乗りました。
ジャブーーン、ジャブッジャブジャブ、ジャブーーン、ジャブッジャブジャブ、せっかく塩辛いお風呂に浸かったと思ったら、あっという間に砂浜まで押し返されてしまいます。

僕は焦ってお父さんを呼ぼうとしましたが、隣で泳いでいたはずのお父さんはあらぬ方角に目を泳がせています。僕がその視線をたどると、お父さんは、渚で体をくねくね回転させたり、両手を青空に大きく広げてポーズをとったり、かと思うと砂に寝そべって顎を両手で支えてほほえんでいる、僕がいままで見たこともないようなすらりとした金髪の美人を口をポカンとあけてうっとりと眺めていました。

その女性は明らかに日本人ではありません。きっとお父さんの大好きなフランス人のモデルさんでしょう。そのきれいなモデルさんを渚の方からデジカメで写真を撮っているヤクザのようなおじさんがいます。
年齢はお父さんと同じかもう少し若いくらいですが、まるで動物園のマントヒヒのような獰猛な顔をして、プロレスラーのように頑丈な体つきの持ち主です。マントヒヒは白い小さなビキニを身につけたモデルさんのちょうはつてきなポーズを次々にカメラに収め、それらを撮影するたびに2人で体を寄せ合って眺めてはうれしそうに笑っています。

僕はこの2人は国際結婚をしたカップルではないかと考えましたが、それにして年が離れすぎています。きっと鎌倉に遊びにきたモデルさんが長谷の大仏あたりでマントヒヒと仲良くなって、一緒に由比ガ浜くんだりまでやってきたのではないでしょうか。

何気なくお父さんの顔を見ると、怒っているような、泣いているような、僕がいままで見たこともないようなへんてこりんな顔をしています。浮輪でプカプカ浮かんでいる僕を見ると、「今日の海水浴はどうもつまらないな」と塩水をペッと吐き出しながら言うので、僕が、「そんなことないよ。いつもと同じように楽しいよ」と言うと、「ヘン」と言ってそっぽを向いてしまいました。

どうも仕方がないお父さんです。中央監視所の上空を飛んでいる鳶が、相変わらずピーヒョロ、ピーヒョロと鳴いています。


♪本日もまた遊泳注意なりわが生への警告と聞きて沖に乗り出す 茫洋

Friday, July 24, 2009

♪ある晴れた日に 第61回

♪ある晴れた日に 第61回


ある人いわく「眼をまなこといふ」と

道の上二匹のギースチョンが轢き殺されている

雑草という名の草はなく虫という名の虫もない

こうてくれえこうてくれえとさけぶのでこうてやるかな

カラムシの葉をくるりと巻きてアカタテハの幼虫は夢結びおる

アカタテハとヒメアカタテハの弁別できず昆虫少年年老いたり

弱き者相識るや自閉症の息子に優しかりし拒食症の二人の娘

哀れ哀れ余の身代りに兇暴蜂に二度までも刺されし妻よ


♪好きだおと言い交わしつつ蝉が鳴く 茫洋

Wednesday, July 22, 2009

若杉弘氏を悼む

♪音楽千夜一夜第71回&遥かな昔、遠い所で第86回

昨日の夕方、指揮者の若杉弘さんが74歳で臓器不全で亡くなられたと聞いて、驚きかつまた悲しんでいるところです。

 私がこの人の音楽をはじめて聴いたのは、東京日比谷の日生劇場で行われた二期会の公演でした。それは獣たちが人間と同じように口をきいていたずいぶん昔の時代のことで、おそらくこれが私の生涯初のオペラ体験だったと思います。

曲はヤナーチェックの「利口な女狐の物語」でしたが、私は題名役に扮したソプラノの伊藤京子さんの抒情的で美しい歌声に強く惹かれると同時に、この作曲家が描いている「山川草木悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」の世界のいいしれぬ奥深さ、見事な美術と照明、そしてオーケストラ(おそらくは東フィル)をじょじょに加熱・加速し、最後の愁嘆場で舞台と会場全体を青白く輝く燐光でおおいつくしたこの芥川龍之介を思わせる白哲の指揮者の手腕にいたく驚嘆したことでした。

茫茫遥か四半世紀、彼が読響、都響、ラインドイツオペラ、ドレスデン国立歌劇場などの桧舞台で活躍した細身で長身の雄姿をしのびつつ、心から哀悼の意を表したいと思います。

仕込み杖のごとく長き指揮棒、広き額を振りまわしぬオペラの達人若杉弘 茫洋

Sunday, July 19, 2009

吉村昭著「生麦事件」を読んで

照る日曇る日第273回

文久2年1862年8月、生麦でイギリス人3名を切って捨てた島津久光の薩摩藩でしたが、その一年後にはどのように鮮やかな変身を遂げたか。これが本書のテーマといえるでしょう。

翌年7月の薩英戦争に敗北した薩摩藩は、その敗戦の原因が前近代的な軍備にあることをさとり、それまでのかたくなな攘夷の旗印を取り下げ、いっきに親英派に転向していくのですが、その奇妙な道行を、この作者ならではの周到な追跡取材によって綿密に跡付けていきます。

それにしても、一敗地に塗れた当の敵国に対して、軍艦の買い入れを和平の条件に挙げるとは、なんと人を食った交渉人でしょう。歴史上名高い大久保、西郷、小松などの才人のほかにも、この西南の雄藩には重野厚之丞という豪胆な外交官がいたのです。

脳裏の主観だけに依拠した尊王攘夷のイデオロギーを一夜にして打ち砕いたものは、最新鋭の戦艦とアームストロング砲の威力でした。

最後まで観念にとらわれて幕末の政治決戦にさしたる貢献ができなかった水戸藩とは対照的に、いち早く冷徹な現実の厳しさにめざめ、機敏な自己回転を完遂して政治権力のヘゲモニーを確立した薩摩藩でしたが、その15年後にはふたたび守旧的な武士道イデオロギーの泥沼に足を取られて、あにはからんやそれまでかれらが総力を挙げて戦ってきた徳川幕府の古典的理念に殉じることになるのですが、これを歴史の皮肉といわずになんと呼べばいいのでしょう。

♪香取草之助てふ表札ありさぞや風流な人ならむ 茫洋

Saturday, July 18, 2009

今年初めての海水浴

バガテルop106&鎌倉ちょっと不思議な物語第200回

ほんとうは金曜日に行きたかったんだけど、あいにくの天気だったのでそこはなんとか我慢して、今日も午前中は雨がぱらついていたけれど、午後になると少しは空も明るくなってきたので、お父さんとお母さんと僕の3人で由比ヶ浜の海に行きました。


海に向かって走っているカローラの中で、お父さんが「例の夏休みの歌を歌ってよ」とそそのかしましたが、その手は桑名の焼き蛤。僕はもう子供ではないのです。とてもじゃないけど、できませんよ。プン、プン。

いつも優しいお母さんは、走行距離がすでに地球の何巡りにも達したカローラを楽しそうに運転しながら、そんな2人のやりとりを笑いながら聞きていましたがいつものようになにもいいませんでした。

そうこうするうちに早くも由比ヶ浜です。
中央監視所の上には青い旗がへんぽんと翻っています。浜辺には去年と違ってやたら立派な海の家が立ち並んでいましたが、今日のお天気のせいもあってほとんどガラガラ状態です。

僕は浜辺につくやいなやズボンを脱いで浮輪の真ん中に太った体を突っ込むと、浜辺を全速力で走って海に飛び込みました。
あ、忘れていた。僕は金槌で全然泳げません。

が、この浮輪はものすごく大きいし、星条旗のデザインはものすごく派手でどこからも目につくし、もしも浮輪がパンクして溺れそうになったとしても、監視所のお兄さんが大きな双眼鏡で僕のことをしっかり監視していますから、すぐに駆けつけて救助してくれるに違いありません。お父さんはあてにならないけど……。

そのお父さんは、「今日は若潮という潮目で、これから小潮から大潮に向かうところだ」とお母さんに偉そうに解説していましたが、それがいったいどういうことなのか僕には全然わかりません。

いつもより少し冷たいけれど、浮輪につかまって緑青色の海に浮かんでいると、最近のきびしい世の中のことも、つらいお仕事のことも、お父さんやお母さんが死んでしまった後、僕がどうなるのかということも、嫌なことはすっかり忘れることができるのです。

気がつくと広い由比ヶ浜の海に浮かんでいるのは僕ひとりでした。ホンダワラヤヒジキやボラの親子がときどき僕のおなかの周りをすり抜けていきます。お父さんとお母さんははるか向こうの砂浜で二人揃ってクワクワとネンネグーしているようです。

僕はたった独りで相模湾という少し塩からいお風呂に入っているんだと思うと、なんだか心の底から愉快な気持ちになってきたので、僕が昔子供のころに作詞作曲した「夏休みの歌」を大海原に向かって歌いました。

♪あ、どこ行くの? あ、どこ行くの? こ、と、し、の、夏休み

若潮の海を沖まで泳ぎけり 茫洋
若潮を掻き分け沖まで泳ぎけり
若潮の塩のにがりの強きこと

Friday, July 17, 2009

吉村昭著「桜田門外の変」を読んで

照る日曇る日第272回

今となっては水戸藩徳川斉昭の尊王攘夷論に比べると、井伊大老の開国路線の方が時代に先駆けた近代性と開明性を備えた先賢の明であったように思われますが、しかし安政の大獄が猛威をふるったその時代にあっては、どちらが正しい選択肢であったのかを断じることはきわめてむずかしい。いや不可能に近かったのではないでしょうか。

ともかく朝廷の勅許を得ずに独断で米国との通商条約の締結に踏み切った井伊直弼に対して斉昭、慶篤父子を戴く水戸藩は怒り狂って反撃を開始し、とうとう朝廷から幕府討伐の勅命書を手に入れます。しかしそれ知った大老は斉昭に激しい憎悪を懐き、狂気の大獄を開始します。橋本佐内、吉田松陰、頼三樹三郎、安藤帯刀など14名が切腹、死罪、獄門の極刑に科せられ、遠島以下の刑に処せられた者は100名近くに上りました。

しかもその中には女性や幼児やまったく罪もない人々が数多く含まれていましたから、水戸藩の面々がこの残酷な仕打ちを黙って眺めていようはずもありません。藩の中央の圧力と対抗しながら、この小説の主人公関鉄之助をはじめとする水戸脱藩士17名、薩摩藩士1名の計18名の志士たちは大老暗殺のテロルを計画し、実行するのです。

しかし見事に桜田門外の変を成功させたものの、彼らの末路はあまりにも悲惨でした。討死1、自刃4、深手による死亡3、死罪7の計15名が次々に世を去るのですが、著者は彼ら一人ひとりの生きざまと死にざまに対して無限の共感を懐きつつ、それをひとことも漏らすことなく、さまざまな資料を駆使し、博引旁証の限りを見せつけながら、粛々と叙述していきます。

さらにその探索の手は少しも緩められることなく、生き残った3人の身の上に及びます。そして文久2年、3月3日の討ち入りのその日に鎌倉上行寺で割腹自刃した広木松之介をのぞく2名が、それぞれ明治14年10月、同36年5月まで無事に余命を全うしたことを述べて閣筆するとき、読者は政治闘争に身を捧げた人生の栄光と悲惨についてしみじみと思いを新たにするのです。


♪妻が見しオオルリ求めて彷徨えどわれが聴きしはテッペンカケタカ 茫洋

Thursday, July 16, 2009

三宅一生さんの原爆体験

ふぁちょん幻論第52回

世界的なファッションデザイナーの三宅一生さんが、先日NYタイムズにこれまで秘していた7歳の時の広島における原爆体験を明らかにしたうえで、米国のオバマ大統領に故郷広島を訪問するように呼びかけたそうです。

三宅さんは、1945年8月6日のヒロシマで母親とともに被爆し、放射線を浴びた母を3年後に亡くしたそうですが、「原爆を生き延びてきたデザイナー」というレッテルを張られるのが嫌でいつもヒロシマに関する質問は避けてきたそうですが、オバマ氏がプラハで核廃絶に触れたことが「自分の中に埋もれていた何かを呼び覚まし、体験者の一人として個人的、倫理的な責任をかつてないほど強く感じるようになった」そうです。

三宅さんは1938年広島県生まれ。63年多摩美大卆。パリとNYで学んだ後70年に三宅デザイン事務所設立。73年からパリコレに参加。98年にはパソコンの指令で特殊な編み機が一体成型の服をつくる仕組みであるA-POC=a piece of clothを藤原大さんと開発しました。
さらに06年10月にはNYのADC賞を受賞。07年4月には東京ミッドタウン内にデザイン&芸術、ものづくりの拠点めざす21_21デザインサイトを開設したこともよく知られています。
しかしなんといってもエポックメイキングだったのは、三宅さんの創作の原点である「一枚の布」の発想から生まれた生地の裁断・縫製がいらないA-POCでしょう。コンピュータであらかじめプログラミングされた編機や織機が、筒状の布をつくりだし、布地を裁断後に縫製するというインタラクティヴで新しい技法は、従来の服づくりの概念を根底からくつがえすもので、残り布などの無駄を少なくするばかりでなく、着る人がフォルムを選択でき、自分の着る服の最終デザインに参加することができるのです。大量生産とカスタム・メードという一見矛盾するように思われる二つの要素が、ハイテク技術とイマジネーションの結合によって見事に融合しているところに大きな特徴があると思います。
ところで三宅さんのこれらの輝かしい活動の原点となったのは、今回の報道と同じく広島における強烈なデザイン体験でした。広島市を象徴する平和大橋「つくる」と西平和大橋「ゆく」の2つの橋の欄干は、有名な建築家イサム・ノグチの設計にかかるものですが、三宅さんは高校時代の行き帰りに「鎮魂と再生」をテーマとするこの「心の橋」を渡りながら、みずからもなにかをつくる人になろうと決意したと語っています。

おそらく若き日の優れたデザインとの出合いこそが、その人の生涯そのものをデザインするのでしょう。

   ♪欄干の小さきデザイン火と燃えて人も世界も揺り動かしつあり 茫洋

Wednesday, July 15, 2009

「ウイーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団の芸術第2巻」を聴いて

♪音楽千夜一夜第70回

 タワーレコードと東京電化株式会社がコラボではなく、コラボラシオンして特別企画された上記のCDを8枚組2980円でゲットしました。1枚当たり300円超というお値段は、このご時勢ではなかなかグッドではないでしょうか。

 曲目はモーツアルトのハイドンセットを中心にハイドン、シューベルトの弦楽四重奏曲、さらにペーターシュミドールが加わったモーツアルトとブラームスのクラリネット5重奏曲までついてくるというワクワクのラインアップです。

ウイーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団というのは、ウイーンフィルのコンサートマスターであるライナー・キュッヒルが中心になって第2バイオリンにエクハルト・ザイフェルト、ヴィオラにハインツ・ゴル、チエロにフランツ・バルトロメイというウイーンフィルのメンバーで結成された構成された生粋のウイーンの団体で、どの曲を聴いてもさながら練絹のように柔和なハーモニーを奏でます。

シューベルトの「死と乙女」の冒頭をこれほど耳に優しく響かせた演奏はかつてありませんでした。同じウイーンでもアルベンベルクなどとは月とすっぽん、雲泥の差です。
私はシューベルトの作品の中で唯一嫌いなのがこの曲で、どこのカルテットで聴いても途中で放り出していたのですが、ウイーン・ムジークフェラインの演奏はおしまいまでBGMのように聴きおおせることができたのでした。

しかしどの曲でもこのようにはじめは処女の如く、終りも処女のごとき真綿で首を絞めるような演奏でよろしいのかといえば、たぶんよろしくないんでしょう。異論のあるかたも大勢いらっしゃるでしょうが、自分的には、もっと曲の神髄に食うか食われるか、生きるか死ぬかと切り込まないと音楽の本来としてたぶんだめなのでしょう。

同じウイーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団という名を戴いていても、その前身であるかつてのシュナイダーハン弦楽四重奏団やバリリ弦楽四重奏団との違いはそのくらいつきの甘さ、生ぬるさにあるのでしょう。
ああ、バリリ弦楽四重奏団の素晴らしさといったら! 彼らのモノラルのLPレコードを、このデジタル最新録音とどうか聴きくらべてみてください。

同じウイーンフィルのコンサートマスターをやっていたヴァルナー・ヒンクが率いるウイーン弦楽四重奏団も似たようなもので、この2つの団体がどうしてこの程度の演奏しかできないのかということは、ヒンクの間抜けな馬面やキュッヒルの計算高い銀行員のような顔を見ているとなんだかわかるような気がします。

思えば彼らの直属の上司であった偉大なるゲルハルト・ヘッツエルが、1992年7月29日に迂闊にもザルツブルグ近郊のザンクト・グルゲンで転落死して以来、日本国の自民党と同様、もはや回復不能なウイーンフィルのゆるやかな沈滞がはじまったのです。

ベームやバーンスタインとウイーンフィルの見事な演奏、黄金時代のウイーンフィルをその両手で支えていたのは、このユーゴスラビア生まれの第一コンサートマスターであったことは、こんにち彼の後継者たちの凡庸な演奏を聴けば聴くほど明らかになりつつあります。


墜ちながら手をアルプスに触れざりしヴァイオリニストは哀れなるかな 茫洋

Tuesday, July 14, 2009

文化学園服飾博物館で「赤い服」展をみる

ふぁっちょん幻論 第51回 

帝都唯一無二、本邦随一の衣服遺産の質量を誇る新宿南口甲州街道沿いの博物館が「赤い服」をテーマとした内外のコレクションを展示しています。

通常の展覧会の展示は、展示素材のそのもの=WHAT性(たとえばゴーギャン展、ルーブル展など)で集客をはかりますが、最近の傾向は、(たとえばだまし絵展、肖像画展など)素材の周辺=HOW性をテーマとするものが増えてきたようです。この「赤い服」展などはその最たるもので、この伝でいけば「白」や「黒」や「緑」などという切り口もでてくるのではないでしょうか。

会場にはわが国のみならず、アジア、アフリカ、南北アメリカ、ヨーロッパなど、時代もさまざまな世界各地の赤い民族衣装が所狭しと並んでいて壮観です。

私がはじめて外国と本邦の色の違いに気づいたのは、韓国の民族音楽「サムルノリ」の赤や黄や緑の差し物旗の目も覚めるような鮮やかさに接したときのことでしたが、本展に出品されている戦国時代の陣羽織や江戸時代の打掛、腰巻の華麗な赤にも心底驚かされました。
薄絹の赤い腰巻をじっと見つめていると、おのずとこの下着にくるまれたむっちりした下肢の乳色までもが想像され、その強烈なエロチシズムに圧倒される思いでした。当時のデザイナーはとうぜんそうした心理的機制を想定したうえでこの真っ赤な赤を紅花で染色したのでしょう。

それに比べるとアフリカやトリクメニスタンなどの中央アジアやベトナム、台湾などで使われている赤は、ここに並んでいるコレクションを見る限りは、彩度・明度・色相とも日本製よりもかなり低く、意外の感を与えます。国産のほとんどは中国やアジアからの輸入品で赤く染められていますから、このような彼我の偏りはどこからもたらされたのでしょうか?

しかし太陽や生命力の象徴である、これら大量の赤い衣服や服飾品を眺めているうちに、私は疲れきった心身に次第に生きる気力がよみがえってくるような気がしました。
ともかく理屈抜きに元気になれる展覧会であります。


♪赤い服着ていた女の子異人さんを連れて行っちゃった 茫洋

Monday, July 13, 2009

♪ある晴れた日に 第60回記念小特集

天青は七つ咲きたりはないちもんめ

天青や天まで届けと伸びるなり

まるでゼウスのように天気予報してやがる

くしゃみくらい好きにやらせてくれ

月曜のロッカーに挿したるわが鍵を木曜の朝に取りにいきたり

なにかあれば大好きですと言い交わし男同士で抱き合う父子なりき

大好きだよと毎日父子で言い合う父子珍しいか

今日もまた能天気にてルポをするNY特派員を訳なく憎む

こんな日は由比ガ浜で海水浴しようといいて学生に笑わる

「では来週」「来週はお休みですよ」といわれ赤恥かく

どうしても就活に打ちこめないんですと訴える君と別れけり

環境に優しい車を買うよりも車作りを止めればよろしい

恥多き人生が厭なら生まれてこなかったほうがよかったのか

会うを逢う町を街と書くのは精神の退廃である

一生懸命ならどんな音楽でも許されるのかそこんとこよろしく

♪虫は嫌いとおっしゃるけれど美枝子さんそれはアカタテハの幼虫ですよ 茫洋

Sunday, July 12, 2009

「ブラームスの子守歌」とわたし

♪音楽千夜一夜第69回

私は花鳥風月にだけは恵まれた田舎で育ちましたが、音楽的な体験はほとんどありませんでした。家にあったヤマハの古いオルガンで賛美歌を自己流ででたらめに弾くくらいが関の山で、家でクラシックのレコードを聴いたことなど一度もありませんでした。

ところが私が小学5年生だったころ、大本教の本山のすぐそばにあった体育館に全生徒が集められ、校長先生が「今日はアメリカからやって来られた歌手の方がみんなに歌を聴かせてくださるから、静粛にして聴くように」という前触れがあり、うらわかい、おそらくは20代のソプラノの歌手が年長の女性ピアニストとともに登壇しました。

そこで彼女が歌ったシューベルトやモーツアルトやブラームスのリートが、思えば私の音楽体験のはじまりでした。「野ばら」の愛らしさや「魔王」の恐ろしさ、「菩提樹」の旅情、とりわけコンサートの最後に歌われたブラームスの「子守唄」の、あの母胎に回帰していくような優しい旋律は、歌い終えた彼女の美しい面立ちとともにあれから幾星霜を閲した今日もありありと瞼の裏に残っています。

それからしばらくして、「サウンド・オブ・ミュージック」と同じ題材を扱った1956年製作のウォルフガング・リーベンアイナー監督のドイツ映画「菩提樹」の最後のシーンで、ナチスを逃れて無事にニューヨークでのコンサートを成功させたマリア(美貌のルート・ロイヴェリック)がこの素敵な曲を美しい声で歌っていました。(同じロイヴェリックが主演した「朝な夕なに」も、トランペットが活躍した主題歌とともに忘れがたい映画でした。)

これはおそらくルチア・ポップの吹き替えではないかと想像しているのですが、歌い終わったルート・ロイヴェリックが、まるで聖母のように微笑みながらドイツ語で「おやすみなさい」と観客(わたし)に囁いて、ザルツブルグからの逃避行が「めでたし、めでたし」で終わる無量の浄福感は、私の心に長く揺曳したものです。

それからまた長い年月が経って、この6月、私はドイツ・グラモフォンが特別限定版で発売した46枚組の全作品全集を8457円で購入し、またしても1曲1曲なめるように聴いていたある日のこと、久しぶりにこの曲に出会いました。

作品49「5つの歌曲」の4番目のこの曲を、女声ではなく、なんとバリトンのフィッシャー・ディスカウがしめやかな声で歌っています。
といううことで、どちらさまもここらでgut' Nacht



♪雨の中女が歩きながら本を読んでいる 茫洋

Saturday, July 11, 2009

手垢まみれの「ショスタコ5番」のイメージを鮮やかに塗り替えた鎌倉交響楽団

鎌倉ちょっと不思議な物語第199回&♪音楽千夜一夜第68回 

忙中閑あり。久しぶりに鎌倉交響楽団の第93回定期演奏会に駆けつけました。土曜のマチネーですから間違いなくゆったりした気分で楽しめるはずです。

前回はマーラーの5番の感動的な熱演で、私の心胆を文字通り震撼させたこのオーケストラだけにいやがうえにも期待が膨らみます。
今回の選曲は、最初がチャイコフスキーの「スラブ行進曲」、次がラフマニノフの「パガニーニの主催による変奏曲」、最後がショスタコーヴィッチの「交響曲第5番二短調」というロシア物で、しかも制作年代順に統一されています。なかなか味のあるプログラム・ビルディングといえましょう。

まず冒頭は、私が愛してやまない「鎌倉市歌」。その湘南の海と山と空を思わせる伸びやかな旋律と穏やかなハーモニーがいいしれぬ郷愁を誘います。

以前はこの名曲を演奏しても誰も拍手しなかったのですが、たった独り私が喝采するようになってから、多くの聴衆もこれに準ずるようになってきたようでまことに慶賀にタエマセン。じつはいま恥ずかしながらネットで検索してはじめて気づいたのですが、作詞の大木淳夫もすごいけれど、作曲はなんと、なんと寡作の天才矢代秋雄だったとは!
私の耳もまんざらではないと、ひそかにうぬぼれているところです。
http://www.kamakura-faq.jp/faq/attachment/698_2.pdf

それはさておき、正式の曲目に入って最初の「スラブ行進曲」は駄曲の凡演。「1815」と肩を並べる、あの大作曲家にしては出来の悪い、ただうるさいだけの下らない曲をブラスバンドのように力奏させるものですから、耳が痛くてかなわない。

中西というかつての三流市長が、中西という身内のクラシック好きの作詞家と(金銭的に)つるんでおっ建てたこの鎌倉芸術館は、私が座っている三階席で聴くと金管楽器の強奏がドンシャリになって耳を聾せんばかりに直撃するのです。

音響火事場地獄がやっと終わると、今度は難曲として定評のあるラフマニノフの「パガニーニ変奏曲」ですが、これも指揮者(山上純司)とピアニスト(土田定克)とオケが、三位一体どころかバラバラ状態。どこがどう悪いのか私にはわかりませんでしたが、例のNHKの「希望演奏会」のテーマ音楽に使われた、甘美で、浪漫的な変奏の箇所をのぞいて、残念ながらどうもしっくりきませんでした。

もっともこれは演奏家のせいではなくて、作曲家のせいかもしれません。ラフマニノフの原曲がこれほど支離滅裂で神経衰弱的なものであることを今回の演奏は赤裸々に暴きだしたともいえそうです。

やれやれ今日の籤は大外れだったかいな、と失望落胆していた私をいっきに別世界へ拉致したのは、あにはからんやショスタコーヴィッチでした。
ショスタの5番は、やれスターリンに膝を屈したあかしの曲だの、いやいや陰にこもった反社会主義魂の曲だとか、作曲者の苦労も知らずに外野席が喧しい、いわば「音楽に政治が4の字固めに絡んだいわくつきの問題作」ですが、今回の演奏はそうした不純物やいわく因縁をことごとくぬぐい去り、天才ショスタコーヴィッチの音楽の正真正銘の深さと凄さを徹底的に掘り下げて、「どうだ!」とばかりに私たち聴衆に差し出した素晴らしい音楽のご馳走でした。

第1楽章モデラートアレグロ・ノン・トロッポにおける管弦楽の憂愁と悲愴、第2楽章アレグレットにおける弦と管、管と管、管とオケとの協奏の粋と秘術を尽くしたあえかな美しさとはかなさ、第3楽章ラルゴの透明な自己喪失、そしてアレグロ・ノン・トロッポの最終楽章における、こうであるほかはない自己解体と全世界への哄笑!

私のこのような哀れな言葉では到底表現できない、とても知的で、繊細で、しかも情感豊かな音楽を、またしても鎌倉交響楽団は山上純司という若い指揮者とやってのけたのです!
そしてその演奏の新しさは、かつて私がカーネギーホールで聴いたゲオルグ・ショルティとシカゴ交響楽団のそれをあざやかに抜き去るものでした。


♪ショスタコこけつまろびつ愛しけやしもいちど聴きたしチュウチュウ蛸かいな 茫洋


書評サイト→http://www.bk1.jp/contents/shohyou/retuden181

Friday, July 10, 2009

都のオリンピック招致広告について

茫洋広告戯評第9回


先日学友諸君と東京建築観光ツアーで新宿都庁へ行きましたら、原っぱで寝そべっている小学生たちの楽しそうな電光ポスターが掲示してありました。

このビジュアルをバックに、左には「日本だからできる。あたらしいオリンピック!」、右側には「元気な子どもたちを育てる校庭の芝生化! 緑あふれるオリンピックの開催を通じて環境の大切さを世界に伝えよう!」という2本のキャッチフレーズが並んでいます。

同様のものは西口広場にもありますが、この広告は、環境を大なり小なり傷つけるに決まっているにもかかわらず、環境問題とオリンピックを結びつけ、「校庭の芝生化=緑あふれるオリンピック」と短絡化し、東京の環境への取り組みを見てもらうためにオリンピックをやるのだと強弁しているようです。

しかし校庭の芝生は、以前から児童の健康のために植えているのであって、別に2016年に競技を見に来る観光客のために植えているわけではありません。文教とスポーツというもともと無関係な2つの主題をむりやり結びつけたところに、この広告の政治的な意図が感じられます。

確か別の場所に「23区の小学校の校庭を芝生にします」というキャッチだけで構成されている広告もありましたので、これは私の想像ですが、「オリンピックを東京でやりましょう」のほうはあとから付け加えられたものではないかという気がします。

もしそうだとすれば、校庭の芝生を喜んでいる小学生の笑顔を、東京オリンピック歓迎の笑顔に勝手にすり替えてしまう。そんな前代未聞の過ちを、知事と東京都は犯していることになるでしょう。

フランスや中国や我が国の女性や老人を蔑視し、お道楽で始めた新銀行東京が大赤字を出して都民にとんでもない迷惑をかけている石原知事が、おのれの死土産として始めたのが2016年の夏季オリンピック招致運動です。

彼はこのまったく個人的な妄執に狂奔することによって新銀行破たんの政治責任の追及から逃れようと画策しているようですね。

ロンドンの後のオリンピックを東京で開催することについては、新銀行東京の赤字に追い打ちをかける財政負担となり、さらに都民の懐を痛めるだけでなく、新しい環境破壊の要因になるとして、心ある都民のみならず多くの国民が反対しています。

すでに東京は一度オリンピックをやっていますし、前回は同じアジアの北京で開催したばかりです。
ここはそれこそグローバルな視点に立って、まだ一度も世紀の祭典を体験したことのない南アメリカ代表のリオデジャネイロ(ブラジル)に譲るのが成熟した国民と政治家がとるべき大人の態度なのに、俺が俺がとまるで餓鬼大将のようにでしゃばり、あまつさえほんらいならば己が推薦するべき福岡などの国内の開催希望までたたきつぶしてしまうとは、まことに夜郎自大な振る舞いではないでしょうか。


♪墓場の中まで五輪塔持ちゆく男あり 茫洋

Thursday, July 09, 2009

五味文彦編「吾妻鏡」第6巻を読んで

照る日曇る日第271回

現代語訳吾妻鏡の第6巻は、建久4年1193年から正治2年1200年までを扱っています。

富士の巻狩における曽我兄弟の仇討、建久6年2月から6月末までに及ぶ頼朝の上京と盛大な奈良大仏供養を経て、頼朝の長男頼家の薄氷を踏むような危うい治世と梶原景時一族の殲滅までを悠揚迫らず叙述する本書は、しかしなぜか建久10年正月の頼朝の急死をふくめたおよそ3年間について完全な沈黙を守っています。

解説者は編集作業が間に合わず未完に終わったという説を採用していますが、私は北条時政一派による暗殺説を捨てきれません。思えば頼朝の近臣工藤祐経を殺害した曽我兄弟の名付け親は北条時政であり、兄弟の騒動を利用して頼朝の命を狙おうとしていたとすれば、建久9年12月の相模川の橋供養における頼朝の落馬事件による早すぎた横死も、じつはまったくの虚報で、実際は時政ファミリーによる将軍暗殺のカモフラージュであった可能性は高いと思われます。

ところで観光客がほとんどいない鎌倉の裏駅にある御成の商店街をぶらぶら歩いていますと、頼朝全盛時代の御家人の名前を大書したのぼりがたくさん立っています。
そして私のいちばん好きな畠山重忠、2番目に好きな和田義盛をはじめ、のぼりに登場する三浦義村、三浦義澄、千葉胤正、比企能員、葛西清成、大江広元、佐々木盛綱、梶原景時、小山朝政などの有力者たちの大半は、北条一門の悪辣非道な陰謀によって次々と圧殺されていきました。

まあ源家も北条家もどっちもどっちの政略家ではありますが、どっちかといえば北条家の人々の血はどす黒い。中世の東都鎌倉を血の海に沈め、暗殺の森に変えてしまいました。
尼将軍の政子もあれほど夫を愛していながら、実の息子を2名も屠ることにけっして反対ではありませんでした。結局は嫁ぎ先よりは親兄弟一族を取ったわけです。

しかし夫の跡を継いだ羽林頼家が好色の思いもだしがたく、安達景盛の妾の色香に狂って常軌を失い、景盛誅殺を命じたことを知った政子の驚愕と失望は察するに余りあります。
おそらく彼女は、この瞬間に源家の将来を見切ったのでしょう。


♪天青咲きてわたしの夏が来る 茫洋

Wednesday, July 08, 2009

神奈川県立近代美術館の「建築家坂倉準三展」を見ながら

勝手に建築観光36回&鎌倉ちょっと不思議な物語第198回

坂倉準三は大学卒業後、1929年に渡仏し、ル・コルビジュのアトリエで働き、彼の仕事をつぶさに見聞きしてそのノウハウを身につけた建築家です。

1937年にはパリの万博日本館の設計でグランプリを獲得、1939年に帰国してからはここ鎌倉に1951年に神奈川県立近代美術館を建てたり、1966年には新宿西口広場や地下駐車場のデザインを担当してフォーク集会に格好の場を提供するなど、わが国の建築史上に多大の功績を残し、全共闘運動の波動も禍々しい1969年に68歳で亡くなりました。

この人の特徴はやはり師匠ル・コルビジュ直伝のモダニズムと、そこに薄味の醤油のように加味された和風趣味のハイブリッドということではないでしょうか。それは東京市ヶ谷の日仏会館や本展が開催されている鎌倉の県立近代美術館を見ればよくわかるようなきがいたします。

市ヶ谷の高台に聳えるおふらんす文化の白亜の殿堂、東京日仏学院はそのモダンな内外装も見事ですが、その昔は語学を教える超絶的美人が何人もおりまして、当時田舎から上京したばかりの私は、最初の授業でうっかり最前列に座ったばかりに œuの発音を何度も何度もやらされました。

その金髪のミレーヌ・ドモンジョそっくりのパリジェンヌは、微笑みながら私の唇すれすれにその美しい唇を突き出して œu、 œuと繰り返しますと、シャネルの5番の香水がほのかに混じった生あたたかい息が、まともに私の顔に当たるので、私は生まれて初めて卒倒しそうになりました。

恥ずかしさに真っ赤になった私が、彼女の「口移し」でœu、 œuとうなりますと、その度に「ノン、ノン」なぞとたしなめられ、何度も何度もやり直しを命じられる。
このようにして美しき女教師ドモンジョ嬢の血祭りに上げられた三四郎は、もうこりごりと次回からの夏期講座を放棄してしまったのですが、そのおかげで女性とフランス語に対する致命的なトラウマを刻印されることになってしまったのです。

しかし、もしもあのシャネル鼻息攻勢に懸命に耐えて通っておれば、おのずとまた違った展開があったかもしれない、などと思いかえせば、いまなお恨めしき坂倉準三設計のお化け屋敷であります。

思いっ切り横道にそれてしまいましたが、八幡宮の入口右にひっそりたたずむ県立近代美術館は私のお気に入りの場所で、2階のカフェから見下ろす平家池の蓮は絶品です。なによりも土と水と緑に完全に溶け込んだ建物の、目立たなくて、上品で、温和な風情が私たちの心にしとりとなじむのでしょう。

それにしても、ル・コルビジュは、いったいどこから彼一流の高床式建築術を編み出したのでしょう。もしかするとアジアやインドシナ、南洋諸島の古い土俗的な様式から学んで、近代建築に生かそうとしたのかもしれませんね。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallTop.do?hl=k

♪ああわが青春の麗しのドモンジョいまごろどこでどうしておるか 茫洋

Tuesday, July 07, 2009

鎌倉国宝館の「お釈迦さまの美術」展を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語第196回&バガテルop106

鎌倉国宝館では7月12日まで「お釈迦さまの美術」展をやっています。
今回は建長寺の「宝冠釈迦三尊像」や寿福寺の「釈迦三尊十六善神像」などが出品されていますが、私がもっとも惹かれたのは宝戒寺と瑞泉寺の「仏涅槃図」でした。

ご存じのように「仏涅槃図」はお釈迦さまが亡くなるときの様子を描いた絵画ですが、中央に横たわるお釈迦様よりも、その涅槃を嘆き悲しむお弟子たちや隣人たち、とりわけ画面のいちばん手前で身も世もあらぬ風情でのたうちまわっている動物たちの表情にいつものことながら限りなく魅せられます。

 牛や馬や鹿はもちろんさまざまな鳥や鶏、矮鶏、魚たち、大きな蛇や象まで地面に転がってウオンウオン泣き叫んでいる。生きとし生けるもののすべてに愛され、親しまれた宗教家の面目が躍如としています。しかも愁嘆場なのになぜかおかしい。時間の流れがとまりが一世一代の名演技をしているような錯覚にとらわれ、まるで一場の大芝居を見ているようです。

 ところが同じ偉人でもキリストなんかになるとやたら荘厳かつ近寄りがたい雰囲気になります。ベツレヘムの生誕の折には三人の東方の大博士の周囲に羊や牛などが前足を折ってひざまずいている絵などを見たことがありますが、十字架で磔にされた後、マリアや弟子たちなどの人間以外の存在から涙ながらに哀悼されるという情景はあまり絵画でもお目にかかりません。

ミケランジェロの「ピエタ」対「仏涅槃図」―。
ここに人間第一主義で動植物の生命を軽視する厳格なキリスト教と、天台本覚思想にもとづく「山川草木悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」という多義的でゆるい汎神主義をモットーとする仏教との対比を見るのも面白いかもしれません。

「仏涅槃図」のパロディで、あの伊藤若冲が野菜だけを主人公に描いた「果蔬(かそう)涅槃図」などを見せたら、ミケランジェロはなんというでしょうか。


♪人生にはいくつもの締め切りがあると知れ 茫洋

Monday, July 06, 2009

谷川俊太郎著「トロムソコラージュ」を読んで

照る日曇る日第270回&♪ある晴れた日に第60回

わたしがこのないだこの人の詩が下手くそであるという歌を詠んだのは
月いちで掲載される朝日新聞の短いものを読んでおそろしく手抜きである
あんなものなら誰でも書けると思ったからだが、
この「トロムソコラージュ」を先に読んでいれば
あんな馬鹿な短歌は作らなかったし作れなかった。

それにしてもトロムソコラージュってなんだ。ソロムコなら代打満塁ホームランだが
ノルウエーの森の向こうを張って、訳の分らぬ題名をみだりにつけるな。
しかしわたしはいちど書いたものを取り消すのは嫌だし沽券に係わるとも
感じているのであえて白紙撤回するのはやめておこう。
拍手喝采 博士は風邪だ うちのムクちゃん墓の中

その詩人は若き日の面影を濃密に湛えながらも
新宿地下鉄丸の内線のプラットホームを歩いていた。
どす黒い疲労と深い悲しみが彼の全身を覆い尽くしたが、
窪んだ眼窩の奥底で爛々と光る両の目は依然として20億光年の孤独を見つめていた。
思いのほか背が低かったが、巷を低く見ようと背筋を伸ばして歩いていた。

こんな可哀そうな老人を死んでしまえと罵ったねじめ正一は呪われてあれ!
怒った詩人は棺桶に突っ込んでいた左足をやっとこさっとこ引っ張り上げて
与えられたお題「ラジオ」による見事な即興詩をけつの穴からひりだして
傲慢なる前チャンピオンをかりそめの王座から引きずり落としたのだった。
ねじめ けじめ お前のあそこは くそだらけ

そして今度は竜虎の勢いで、
ロシア、ドイツ、モロッコ、イングランド、ウエールズ、スコットランドを次々に制覇し、赫々たる感情旅行の成果を長編詩集におさめてしまう。
土地の精霊が宿る心霊写真と共に。
いいないいな いい歳こいて いい娘を抱いて

ハレルヤ! 
永久不滅の詩のチャンピオン。
不老不死の言葉の錬金術師。
もはや勃起しない陰茎で女人を犯す。
立ち止まらないよ、君は。

ハレルヤ! 
死してはまた不死鳥のように蘇る気高き詩魂。
超低空飛行の後期浪漫主義者。
人っ子ひとりいない場所を自分の心の中につくる
立ち止まらないよ、君は。

♪尻の穴に指突っ込めば気持ちいいぞといいし井口君アルジェで何しているか 茫洋

Sunday, July 05, 2009

井上章一著「伊勢神宮 魅惑の日本建築」を読んで

照る日曇る日第269回

これは特に伊勢神宮について論じた本ではなくて、我が国の大昔の建築物は、どんな姿形をしていたかを真正面から論じた「超」の字が2つほどつく力作であり、日本の建築学にとってじつに貴重な価値をもつ書物です。

建築史には、あの築地本願寺や大倉集古館の設計で知られる伊東忠太や太田博太郎など、いくつかの定評ある名著と称されるものがありますが、著者はこの建築の起源問題に関するおよそすべての資料を記紀の時代、平安、江戸時代の文献や研究結果をまるで草の根をわけるようにして精査比較検討し、その結果として、これまでの学説の定説をほぼ全面的に否定し、著者の東大と京大の学閥にかんする興味深い観察を交えつつ556ページに及ぶ大論考を終えています。

著者によれば歴史、建築、考古学の学者や研究者の多くが、伊勢神宮に我が国の古代建築の源泉があると信じてきました。
またご承知のようにこの神宮は、大昔から社殿を20年ごとに建て替える不可思議な営みを、(戦国時代の混乱と謎や改築の際の幾多の歪曲はあるものの)、天武帝の頃からおよそ千年以上にわたって繰り返してきました。

伊勢神宮の社殿は、「棟持柱(棟木を側面から直接支える柱)をともなう高床建築」だそうです。そしてこの神明造りという建築スタイルは、七世紀の末頃まで歳月による風化や大陸からの仏教的な建築様式の影響をかたくなに排除しつつ今日まで存続してきたといわれています。
そもそも「日本」なる国家がそれまでの「倭」に代わってこの列島に登場したのはちょうどその天武帝の時代なので、この伊勢神宮の神明造りこそ日本の最古の建築様式かもしれません。

それで話が終わればめでたしめでたしなのですが、シンプルでモダンなデザインがお好きな我が国の多くの学者たちは、この「日本的な建築の祖形」を、「日本」確立以前の太古や古墳期、さらには遠く弥生、縄文時代の彼方にまで拡大し、遡らせようと「国粋的」かつタコ壺的な努力を夜郎自大に続けてきたのです。 

考古学学者の研究によれば、有史以前の日本列島には伊勢神宮のような棟持柱をともなう高床建築はたくさん建てられていたようです。ところが、これら棟持柱をともなう高床建築は昔から中国の長江や雲南省、さらにもっと南に下がってインドネシアやオセアニア地方などにもたくさん存在しています。

もしかすると伊勢神宮に代表されるこの荘重なまでに日本的な建築の祖形は、ニッポンチャチャチャ学者の大いなる期待と予想に反して、南洋諸島の海岸に立ち並んでいる高床式の簡素なニッパハウスなのかもしれません。

  
♪ご先祖は南洋ニッパハウス住まいぞニッポンチャチャチャ 茫洋

名も知れぬ南の島より流れ来しニッパハウスぞ先祖の我が家 茫洋

Saturday, July 04, 2009

藤原道長「御堂関白記」上巻(全現代語訳)を読んで

照る日曇る日第268回

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
という歌を詠んだといわれる藤原道長の自伝の現代語訳です。

 こういう手放しの自画自賛を臆面もなくやってのける奴はいったいどういう人物なのかと思って手を出したのですが、なかなか面白い本でした。
 
まず「この世をば」と即興でなぜ詠めたのかといいますと、これは道長が朝はお天道さま、夕べはお月さまを必ず観賞する人間だったからだと断言できます。
彼の日記は必ずお天気メモから始まり、夜の名月や笠置寺参拝の折の流星の記事などまるで天体観測家を思わせるほど。功なり名を遂げ摂関政治の頂点に立った自負を月に例える必然性はその日常生活の習慣からきているといえそうです。

道長は、お天気や彼の日常や身辺で起こった怪異だけでなく、14歳違いの甥の一条天皇との政治的な協調ぶりやちょっとした反発、寺院における法華八講などの盛大な法事や除目の詳細、さまざまな儀式や賀茂祭などの祭典、頻繁に行われた作文会(漢詩を作る)のテーマなどについてもくわしく書き記していて、ちょっと永井荷風の日記に似た関心の広さを示しています。次々に病に侵されるところや、連日のように相撲取りに相撲を取らせて喜んでいるところなど、とても一〇〇〇年前の人物とは思えません。

けれども荷風と違って日記の文章にはいっさい屈折も韜晦もなく、なにをどう述べても単純明快そのものであり、彼の精神がまことに健全で、西欧のルネッサンス時代の知識人のような強靭な知性と晴朗さ持ち合わせていたことを雄弁に物語っています。

面白いのは、当時の皇族や貴族たちは「毎日が物忌デー」といえるほど数々の禁忌に取り囲まれて暮らしていたということです。
たとえば甥の一条天皇が住んでいる内裏では、しょっちゅう犬や鳥、時折は身元不明の人間の死体が発見され、その度に安倍晴明などの陰陽師が呼び出されて占い、その託宣次第でさまざまなリアクションが起こります。いまから1000年目に陰陽師たちがこれほど権力者たちに重用されていたとは驚きです。

それから忘れてはならないのが、藤原道長と紫式部、源氏物語との関係です。
寛弘2年10月1005年の浄妙寺三昧堂の供養における法王・天皇をはじめすべての皇族や貴族百官や高僧たちが居並ぶなかで粛々と繰り広げられた荘重な儀式や読経、楽器の演奏などの華麗なパフォーマンスの数々、あるいはその3年後に一条帝が左大臣道長が住む土御門邸を訪ねるシーンでは、はしなくも紫式部が源氏物語で描写した華やかな式典と権力者たちの栄枯盛衰の無常をまざまざと想起させ、光源氏のモデルに擬せられる道長の存在ともども、いずれが表でいずれが裏か、いずれが真でいずれが虚か、と日記の細部に至るまでつきせぬ興味が湧いてくるのです。


♪ほらほら千年前の巨魁が今日も土御門邸で梅の漢詩を作っているよ道長日記 茫洋

Friday, July 03, 2009

杉本秀太郎著「伊東静雄」を読んで

照る日曇る日第267回

私にとって伊東静雄は、中原中也と並んでまさに「詩人の中の詩人」というべき存在です。

太陽は美しく輝き
あるひは太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った

1935年(昭和10年)、彼が若冠29歳で書いた詩集「わがひとに与ふる哀歌」を読んだ人なら、この詩人の研ぎ澄まされた知性とあまりにも繊細な感受性、その孤高に拠るエキセントリックな世界に驚嘆し、憧憬と近寄りがたさの両方の気持ちを懐くに違いありません。

彼の詩はヘルダーリンやゲーテ、古今集などから学んだ象徴的な修辞技法、とりわけ隠喩を駆使した難解ではあるけれど美しすぎる語法に最大の特徴があると思われますが、その代表作「わがひとに与ふる哀歌」を文字通り徹底的に読み解いたのがこの本です。

まず著者は、この詩集はプロットにもとづいてすべての作品を作り配列されたと断言します。次に、題名の「わがひと」とは詩人の恋愛の対象である女性ではなく、「私」という男の「半身」であるところの男性であるとし、冒頭の「晴れた日に」以下の連作は、その「私」と「私の半身」との間の応答あるいは対立と相互抵抗から生まれ、和解のないままに「放浪する半身」の入水自殺によってこの相互関係は断絶したと断定するのです。

それは確かにひとつの仮定にすぎませんが、強引とも思えるこの想定に従って読みはじめた私は、それまでは美しいけれども難解そのもので結局は意味不明であった諸作品が著者の解説と解釈によって次第に統一的な視点で像を結び、形式と意味内容ともどもが初めて腑に落ちるという類稀な詩的体験を味わうことができたのでした。

余談ながら著者は、「わがひとに与ふる哀歌」の第14番目の「詠唱」という作品を読むと、ショパンの「24の前奏曲」の第7番の曲を思い出すと書いています。

この蒼空のための日は
静かな平野へ私を迎へる
寛やかな日は
またと来ないだろう
そして蒼空は
明日も明けるだらう

というたった6行の短い詩は、あの短いイ短調のピアノ曲にまことにふさわしい境地であり、私は著者の鋭い感性にいたく共感を覚えたのですが、それがアルゲリッチやポリーニの演奏ではなく、太田胃散の悪名高きBGMとして耳朶を打ったことに激しく臍を噛んだことでした。

♪太田胃散いい薬かもしれないが悪い音楽です 茫洋

Thursday, July 02, 2009

「ゲバゲバサマーショー展」をのぞいてみたら

「ゲバゲバサマーショー展」をのぞいてみたら

バガテルop105

東京のJR大塚駅北口徒歩10分にある画廊MISAKO&ROSENで7月19日まで開催されている展覧会「ゲバゲバサマーショー」は、新進気鋭の現代作家たちのカジュアルな新作が狭い会場せましとラインアップされ、それこそゲバゲバで楽しいカオス状況をかもしだしています。

油彩、アクリル、水彩、スケッチ、肖像、いたずら書きなども交えた小品が中心ですが、アイデア満載のビデオ作品、インスタレーションなども出品されており、おもちゃ箱をひっくり返したようなハチャメチャさと新鮮さが魅力です。

参加アーティストは森田浩彰、後藤輝、服部あさ美、ディーン・サメシマ・トレバー・シミズ、今井俊介、岸本雅樹、相田可奈子、ダン・ハーズ、ウイル・ローガンなどの面々ですが、私は佐々木健が描いた2つの小さな油絵の新境地に打たれました。

この作家はここしばらくはアンプや楽器などおよそ見栄えのしない身近な物をモノトーンで描き続けてきました。そういう石ころのように地味な物を凝視し、その物の内部に肉薄し、その物の核心をつかみ取ろうと地を這うような精進を続けてきたようです。

そして作家の努力と研鑚は、描かれたただのラジオやペットボトルが、平成のアール・ヌーヴォーとでも呼ぶべきある種の生命性を獲得し、「物の精霊」それ自体が発するような不思議な燐光を発しながら静かに輝いている、そんな光景をついに出現させたのではないでしょうか。

梅雨空の下、ギャラリーの外では無情の雨が降り続いていましたが、私は名状しがたい感動につつまれてそのちっぽけなキャンバスに見入っていました。

◎ゲバゲバな4週間→http://www.misakoandrosen.com/exhibitions/09/06/

Wednesday, July 01, 2009

小栗康平監督の最新作「埋もれ木」を見る

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 6 

「埋もれ木」とは彦根の大老井伊直弼の話かと思っていたら、あにはからんや三重の鈴鹿の話でした。この町から大昔の炭化した巨木が掘り出されて話題になったので、それをタイトルにしたようですが、何千年前の壮大な森林、埋没林の威容をまざまざとしのばせてくれる黒い断木でした。

「木は切られても呼吸をしています」、とある登場人物が語りますが、すでに無くなったはずのものが、じつはまだどこかで生き残っていて、ある日突然その懐かしい面影を私たちに伝える。この映画を見ているとしばしばそんな場面に立ち会うことができます。

砂漠から町にやってきたラクダや浅瀬に迷い込んだ巨大なクジラ、森で踊っている妖精たちやトンパ文字……その思いがけないうれしさ、かけがえのなさを、この映画は手を替え品を替えまるで魔法の手品のように、サンタの贈り物のように手渡ししてくれるのです。

それにしてもこの映画の美しさは、とうていこの世のものとは思えません。1カット1カットが詩であり光と影に彩られた美しいタブローです。現実の鈴鹿の町のコンビニをキャメラがとらえたさりげない光景にしても、外国人労働者の国外退去を通告する役人の声も、どこかお伽噺のように非現実的です。

大人も子供も、男も女も、すべての人々はこの世にありながら、遠く忘れられた時代に生きている。いやもしかするとあの世とこの世を行き来しながらもの静かに暮らしている虚構の町の亡霊たちなのかもしれません。ラストの埋もれ木に取り囲まれた洞窟から放たれた赤いラクダが夜の空にゆらゆらと立ち上っていく幻想的な情景を、人は子供のころにいつかどこかで目にしたに違いありません。

鈴鹿町の住民をはじめ岸部一徳、田中裕子などの個性的な役者が出演していますが、とれわけサックス奏者にしてミジンコ研究者の坂田明のキャラクターが印象に残ります。そいいえば坂田さんは、小学館の万能キャメラマンの斉藤君をつかまえて、「ミジンコがちゃんと撮れなきゃあ一人前とはいえないぞ」と1ぱつかましたことがありました。


あの世とこの世を行き来しながらもの静かに暮らしている 茫洋

Tuesday, June 30, 2009

「アマゾンの半漁人」が消した私の書評たち

バガテルop104

これまでAmazonの書評コーナー「カスタマーレビュー」に書籍だけで60点以上、映画やDVDを加えると100点は下らない感想文を投稿してきましたが、最近確認したところ2009年4月10日に投稿したはずのT.E.ロレンス著「知恵の七柱 1 完全版 東洋文庫」などのデータがいつのまにやら消えうせています。最近書いた「高橋源一郎の「大人にはわからない日本文学史」も、2008年11月に投稿した雑賀恵子著「空腹について」と「エコ・ロゴス」の書評も同様に消去されていました。

これまで私は、書籍については同じ内容の書評をAmazonとbk1社に同じように投稿してきましたが、bk1社の延べ掲載点数が67、Amazonのそれが映画やDVDを含めてちょうど30点ということは、小生が投稿した総点数のおよそ半分をAmazonは没にしたということになります。

もとより浅学菲才の身ゆえ、悲しいかな削除された約30本は、おそらくはAmazon社の厳しい投稿基準を満たさない幼稚かつ過激な表現に満ち溢れていたのではないかと危惧した私が後学のためにAmazon 社の英明なる担当者に削除理由を尋ねたところ、それらは800字という文字制限を超えていたから削除されたという返事。あれらの作文とパソコン操作に費やされた膨大な手間暇をどうしてくれるんだと文句の一つも言いたくなりました。                      

そこで本日はアマゾンの半漁人によって無残にも消去されてしまった雑賀恵子著「空腹について」と「エコ・ロゴス 存在と食について」の書評を再掲載させていただくことといたしました。


◎雑賀恵子著「エコ・ロゴス 存在と食について」 存在を賭した精神の大旅行記
「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら私たちを未踏の領域に導いていく。「最初の食欲」では食べるということの本質が解き明かされ、「遥か故郷を離れて」ではカインとアベル以来私たちが殺してきたものを見つめ、「草の上の昼食」、「パニス・アンジェリクス」では大戦中の兵士や船長が直面した殺人と食人の現場における「倫理」のありかについて光を与え、「ふるさとに似た場所」では、私たちの生の本質は「骰子一擲」であり、その不断の歩みに回帰すべき場所はないこと、「嘔吐」では私たちが他者、他の存在とかかわる劇場の中で生きていること、「舌の戦き」では舌が他者との交通の歓びを味わい、その快楽の記憶を呼び起こす器官であること、「骸骨たちの食卓」では、私たちがたとえ檻の中に捕われたカフカの「断食芸人」であろうとも観客の眼差しとは無関係に愚鈍に生きるべきこと、「ざわめきの静寂」では私たちは瞬間毎に新たに立ち現れる存在であること、が叙事詩のように力強く、抒情詩のように美しく語られる。そして著者が終章において、まるでサッフォーのように、あるいはまた「星の海に魂の帆をかけた女」のように次のように語るとき、私たちはこの誠実で真摯な探究のひとまずの結論を、大いなる共感とともに受け止めないわけにはいかないだろう。「言語を持ったわれわれは、歴史を持つ―すなわち過去を振り返り、傷みを感じつつ検証することが出来るということでもある。わたしたちは死すべきものであるのだから、生は他者の死との連関の中で繋がれるものだから、だからなのだ、根源的な殺害の禁止は、絶対的なものであり、つまり他者の殺害ばかりではなく、自己の殺害の禁止をも含むものなのだ。」「生きるとは、ともに在ることであり、倫理とは、生きようとする意志のことだ。…言葉でもって、生きる場所の論理を語ること。確かに、それは、どれほどの試みを積み重ねても、失敗し続けるだろう。だが、言語によって、われわれは歴史をもったとともに、未来というものをわれわれの思考の中に導き入れたのだ、未来、希望というものを。」この本は、著者の存在を賭した精神の大旅行記というべきだろう。


◎雑賀恵子著「空腹について」 知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセー

新進気鋭の科学者にして社会思想家による構想雄大、真率にして繊細、知情兼ね備えた詩人哲学者の清々しいエセーである。「あらゆる人間の営為は、物質の動きによって表現される。たとえば、愛。触れ合う唇の湿り具合。絡み合う指の温度。鼓動の響き。肌の触感。あどけない笑顔からこぼれる生えかけの小さな歯。抱いた時の心地よい重み。日向くさい頬に透ける血管。留守番電話に残された「お休み、いい夢を」という囁きを反芻するせつなさ。熱で苦しんでいると、ひたとも動かず凝っと見守り、時々冷たい手の肉球を唇や頬にあててくれて鼻先を近づけそっと嘗める猫の潤んだ瞳。そういうものの積み重ねであり、個別の他者の持つ個別の記憶に支えられている」という文章に接した人は、もうどうあってもこのあまりにも魅力的な詩文ファンタジーの世界の扉を押さないわけにはいかないだろう。まず「なぜお腹が空くのか?」と考え始めた著者の夢想と空想は、次いで「なにが美味しいのか?」という考察に向かい、ここで突如「残飯をめぐる歴史的研究」に転身し、最低辺の貧民や女工がどのように悲惨な食生活を強いられていたかを一瞥し、さらに軍隊における軍用食の問題に潜入すると、ついに脚気と食物の因果関係を認めようとしなかった頑迷な陸軍軍医鴎外森林太郎が日露戦争で多くの脚気羅病者を出してしまったこと、「戦争をするために軍隊があるのではなく、膨れ上がり自国内部でもてあました空腹が他者を食いつぶすために戦争がある」と喝破するに至る。 餓島ガダルカナルにおける悲惨な戦闘と絶望的捕食に触れた著者は、さらに「食人」の問題に言及進み、我が国で古来幾多の大飢饉に際して食人が珍しくなかったにもかかわらず、わたしたちの現在の社会で食人が起こるとは想定されず、それを禁じる法律すらないという異常さを指摘する。そして「現在の地球人口と資源および生産形態から見れば、いずれ人体を食料資源として考慮に入れなければならないとする議論が確実に出てくる」とカッサンドラのように不吉な予言をするのである。 かつて学生時代のある時期に、動物実験で毎日のようにマウスやラットを数匹以上殺していたという著者は、養鶏場の近代的な工場で機械製品を作るように大量生産されるブロイラーや霜降り肉を生み出すために飼育されている大量の牛たちに対して、人間はいったいどのように向き合うべきか? 資本の論理に貫徹された食肉生産の現場において、人間が動物に対する優しさや残酷さとはいったい何か? と自問する。 最後に、飢餓をはじめとする「世界の貧困」について、その歴史的政治経済的分析を終えたあとで、著者は次のように述べる。「慎ましくも必要とされるのは、道徳ではなく、倫理である。正義の軸を設定し神殿に納め、それに礼拝跪して異教審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続けること。システム内に繋留された倫理=道徳から身をひきはがし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理から想像を他者に投げかけること。そうしたエロスの投げる網によって他者の苦痛を新しく見出す営みを持続させること。それが知るということである。他者を理解することはできない。しかし他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである」 このようにおぞましさと嘔吐と矛盾と困難と悲喜劇にみちあふれた、この毎日が世紀末の人の世を、著者は「生命体としてのわたし、身体をもつわたしに根ざしたこの倫理」をひしと抱きかかえ、冷酷非情の法-規範、道徳との狭間に立ちすくみながらも、「いま何をなすべきか?」とレーニンやハムレットのように胸に問いつつ、愛描綱吉と共に今日もけなげに前進しているのである。       ♪人の世はさはさりながら愛ありて 茫洋

Monday, June 29, 2009

西暦2009年茫洋水無月歌日記

♪ある晴れた日に 第59回


大船駅のさびた線路のすぐ傍に昼顔の花咲きいたり

余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相

わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人

隠れたってすぐ分かるぞヘイケボタル今宵も8匹見つけたり

今宵また謎の呪文をわれに告げ北斗の星と輝く蛍

おたまじゃくし1日1匹ずつ共食いすなり

毎日1匹ずつ食い殺して最後に残ったおたまじゃくし

あじきなしバーンスタインのハイドンを聴く日曜日

花も嵐も踏み越えて行きつくところまで歩むべし

玄関に片っぽうだけ転がっている妻の黒い靴

カラスアゲハが無心に太刀洗川の水を吸うておる

明治通り千駄ヶ谷小学校交差点の真紅の薔薇を撮影していたり秋山庄太郎

一生懸命ならどんな音楽でも許されるのかそこんとこよろしく

おりしも中里恒子の全集を耽読しおりき西麻布の売文家

ありがとうそしてさよならと言いつつわれら別れゆくなり

海を越え海に沈みし若者の瞳彩るジャガランダの花

南洋の桜といわれしジャカランダ桜に勝り毅然と咲きおり

わが腕を蟻が這う諦観とリリシズム捨てがたし

ミラノスカラ座より帰国せしや平成正宗後継者

親しめば親しむほど洞窟の謎は深まる

ひとたびは燃えつき果てた恋なれど43年目に燃え上がるかな

金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴

凶悪な政治の毒に窮したる二十歳の恋ははかなく散りて

万人の万人に対する戦いとく鎮めよと作家は祈る

半年間発注のない狂おしささくらば散りてあじさいの咲く

なにゆえに発注なきや半年間紫陽花の青をじっと眺むる

またしてもスイカの種は尽きにけり働き悪く金のなき日に

絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す 

腹黒き輩は腹黒き友を知る時政邸に鶯鳴きたり

大人にも本人にもよう分からん日本文学史書きたり高橋源一郎

当り前のことをとくとくと語る人なりき黒田恭一氏死す享年七十一

コラボとはナチ協力者のことなりコラボといわずコラボレーションと言え

七人の子供を残し巴里に住む恋しき夫に会いに行く女

谷川さんの下手くそな詩を読んでいると自分も書こうという気持ちが起こってくる


朋輩を皆喰い尽しておたま一匹

健ちゃんが帰ってくるようれぴいな


♪息継ぎのあわいに生まれる感傷を世に詩歌とは名付けたりける 茫洋

さようなら眞木準

遥かな昔、遠い所で第84回

既にして旧聞に属すかもしれませんが、去る22日にコピーライターの眞木準氏が急性心筋梗塞で亡くなられたことを私は読み残しの新聞を整理していてはじめて知りました。

彼の最新にしておそらく最後の作品は、宣伝会議社の「内定取り消しされた方5名まで引き受けます」でした。しかし、彼の真価は伊勢丹の企業広告や全日空の「でっかいどお。北海道」に示されるしゃれた言葉遊びの切れ味と軽妙な語呂合わせとにあって、その奥深い引出しを準備するために普段から有名無名の作家の作品を渉猟していたことは、ある日突然私が訪れた彼の西麻布の事務所の書架を眺めれば一目瞭然でした。広告文案作成業の極意が機智の駆使にありとせば、彼はその当代一流の専門家であり、人並みはずれた才知と言語操作の高等技術がそれを可能にしました。

私は多くのコピーライターと仕事を共にしましたが、テレビCMのダビングの現場に呼びもしないのに駆けつけてくれたのは彼だけでした。ダビングというのは撮影済みの映像にスタジオでナレーションや音楽を録音する作業ですが、コピーについてはとっくの昔に広告主との打ち合わせを経て決定しています。だからコピーライターの立会は必要がないはずなのですが、彼は「書かれたコピーがいかに良くてもそれが話し言葉になったときに当初想定されたインパクトをもたらさないことが稀にある。だから自分はここにやってきた」と言うのです。なるほど、そういうケースは何度かありましたが、「ちょっと違うなあ」と思いつつそのまま録音してしまうのが通例でした。

そこで私が、「もしそのコピーが映像に合わなければどうするの?」と尋ねますと、彼はそんなこと当り前じゃないかという顔をして「だから合うやつをその場で僕が書くんです」と答えたものでした。それを平然と言える彼の自信と仕事に対する彼の誠実さにこれほど打たれたことはありません。

また思い出すのは、私がサラリマン街道から突如放り出され路頭に迷っていた折のことです。いちはやく手を差し伸べ、「広告料金定価表」なる分厚い請求金額の相場を記した本を手渡して、ともかく中年広告売文業者として身を立てるよう「実務的に」促してくれたのも彼でした。その日から一〇年に近い歳月が流れましたが、彼と最後にパスタ屋で会った日の励ましの声は、今も耳朶の底に残っています。

ありがとう。そしてさようなら眞木準


ありがとうそしてさよならと言いつつわれら別れゆくなり 茫洋

Saturday, June 27, 2009

続々 拝啓鎌倉市長殿

バガテルop103

 
「朝夷奈切通における自転車通行問題」について3度目の市長への手紙を書きました。最新の回答と要望書はずっと後ろのほうにあります。

○5月14日付要望

時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。  さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。  ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。  そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白

○5月28日付回答

明るく住みよい鎌倉をつくるため、いつもあたたかいお力添えをいただき厚くお礼申し上げます。 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。 切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。                平成21年 5月28日 鎌倉市長 石渡德一


○6月5日付再要望

早速の回答ありがとうございました。朝夷奈切通に立て看板を設置して頂けるとのこと、大歓迎です。周辺の環境整備のためにおおいに役立つと思います。しかしながら今回頂戴したコメントのなかに一部理解・納得できない部分がありますので、再度質問と要望をさせていただきたいと存じます。

>鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。

要望その1
市がどこのハイキングコースを外部に紹介されてもそれは結構なのですが、実際には年間2000万人を超える観光客のおよそ半分が「市内全域のハイキング可能路」や7つの切通をどんどん歩いています。それらの人々の安全と安心のために自転車の交通を禁止してほしいというのが私の提案の趣旨です。いっきに即時全面禁止が難しいとしても、できる箇所から段階的に禁止すべきではないでしょうか。

>朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。

要望その2
私は毎日のように朝夷奈切通を散歩していますが、「三郎の滝」から横浜市との峠境に至る朝夷奈切通は、もっぱら観光客のハイキングコースであり、現在「生活道路」としては使用されていません。観光客以外で通行する人は(私が知る限り)存在しません。
「三郎の滝」の右側の十二所果樹園に至る道は風致地区であるにもかかわらずいくつかの土建業者や建築家があいかわらず不法占拠してモノ置き場にしたり農作業を行ったり、モノを燃やしたり、歩行者を顧みない危険な車両運転を繰り返していますが、まさかこの状態を「生活道路」と表現されているのではないでしょうね。
私は十二所果樹園へ安全な歩行を阻害し、周辺の事前環境破壊している彼らは一日も退去し、この際この道を「生活道路」であるという認識を改めて頂くとともに、2輪・4輪の交通も禁止するべきであると考えます。

>切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

要望その3
もとより理解するのにやぶさかではありません。しかし実際にその実情はどうなっているのかご存知ですか? 2輪及び4輪が我が物顔に走り回り、私が前回の投書で述べたような危険がどの切通やハイキングコースでどれくらいあるのか。まずはその実態を歩行者、観光客の身になって調査、観察、把握するべきではないでしょうか。しかるのちに即時全面禁止が無理だとしても可及的速やかに禁止や制限措置をとるべきではないでしょうか。

これらの切通は昔は生活道路でしたが、現在では豊かな自然に恵まれた歴史遺産であり国の指定史跡になっている箇所もたくさんあります。確かに一部が生活道路になっているケースもありますが、それは市や貴職が一部の住民の開発を是認して、自然と環境の破壊に手を貸した結果でもあります。
いっぽうでは市街化や生活道路化に積極的に加担しておいて、他方では環境保全やユネスコの世界遺産指定をめざすという貴殿の政策に大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。まずは地道な市民・観光客の足元の安全対策が肝要と考えます。

あまでうす茫洋敬白

○6月18日付回答
 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。この3コースについては、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。 また、上記のハイキングコースについては、定期的にパトロールしており、車両の乗り入れは確認されていませんが、パトロール中に車両の乗り入れがあった場合には、指導してまいります。 次に、十二所果樹園に至る道は、市道(幅1.29~2.42m)と私有地が混在し、その市道は、途中で終点になり、そこから果樹園までは、私道になります。したがって、市で通行の制限を行うことができません。 切通につきましては、国指定史跡の6切通(朝夷奈切通、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、仮粧坂、大仏切通、名越切通)の大部分は2輪・4輪の通行ができない状況ですが、前回ご説明させていただいた通り、切通のなかには市街化が進み、亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道となっているものですので、これらの切通全ての2輪・4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありません。 あまでうす様からいただきましたご要望につきましては、今後の市政の参考とさせていただきますので、ご理解のほどよろしくお願い申しあげます。           平成21年6月18日  鎌倉市長   石渡徳一

○6月28日付要望

拝啓鎌倉市長どの

どうも回答が典型的な役人風でいまいち要領を得ませんね。朝夷奈切通に絞って再度質問いたします。

この切通では特に土日と休日に自転車が我が物顔に走り回るので歩行者が常に傷害の危険にさらされています。そこで私は
1)まずその実態について至急調査を行ったうえで、
2)(4輪とオートバイのみならず)自転車の運転を禁止してほしい

のです。

この措置はこの道が市道であろうが国県道であろうがけもの道であろうが可能なはずです。なぜならここは国が指定する歴史的景観保全地区であり、市が希望しているユネスコの世界遺産登録指定区域であって住民や観光客の歩行の安全を守る義務があるからです。


あまでうす茫洋敬白


♪わが腕を蟻が這う諦観とリリシズム捨てがたし 茫洋

Friday, June 26, 2009

新聞広告の中身

茫洋広告戯評第8回

 朝日新聞に掲載される週刊誌の広告のなかには、しばしば朝日新聞本紙の記事の内容や会社の姿勢を非難攻撃するのみならず、誹謗中傷する見出しがデカデカと躍っています。けれどもこの新聞社は平然とこれらの広告を掲載してなんの反論や発言もしない。まるで彼らの不当な言い分をなかば肯定したかのような印象を受けることがあります。

寛容と忍耐にも限度があります。記事内容に反対する広告を差し止めれば表現の自由を抑圧することになりますが、その内容が事実無根であったり、いわれなき誹謗中傷のたぐいであれば、ただちに突き返すなり、修正させるべきでしょう。かつてバーンスタインが、グールドの演奏速度に妥協して録音したとレコードジャケットに断り書きを入れたように。

それともこの新聞社は非常にお金に困っていて、どんな陋劣なスポンサーの広告でも喉から手が出るほどほしいのでしょうか。

海を越え海に沈みし若者の瞳彩るジャガランダの花 茫洋


◎おすすめ展覧会→http://www.misakoandrosen.com/exhibitions/09/06/

Thursday, June 25, 2009

優れたサントリーの広告

茫洋広告戯評第7回

昔からサントリーという会社はCMが上手でしたが、最近は「ボス」の宇宙人ジョーンズ、「ウーロン茶」などをのぞいてかなりクリエイティブのレベルが下がっていたと思います。おそらくは会社か社長の方針が営業至上主義になってクリエーターに対してさまざまな圧力が加えられた結果、遊びの精神が枯渇してしまったのではないでしょうか。

と思っていましたら、久しぶりにこれは傑作という広告が登場しました。「いやなことはお茶に流そう」というお茶の新製品の広告です。これはもちろん「嫌なことは水に流そう」のもじりですが、単にそういう語呂合わせやパロディの領域を超えていまの生きづらい世相をさらりと無化しようと試み、ほんの一時ではあるけれど、それに成功している点が尊い。なまなかにお茶に濁したり茶化せない骨太の主張と堂々たる風格さえ備えた、さすがはサントリー、流の広告であると思います。

こんなコピーは昨日や今日のポット出には絶対に書けません。海千山千のてだれの筆のすさびでありましょう。これと同時期に「同じ水で生きている」という南アルプスの天然水の広告も出ましたが、こちらのほうはいまいち、いま2.しかしライバルのキリン生茶の「買ったら読み取るのちゃ」という広告のレベルの低さに比べれば、両社の志の高低はあきらかでしょう。

もうひとつはサンアドの葛西薫さんのディレクション、安藤隆さんのコピー「君と百まで」によるおなじみのウーロン茶の広告です。母と娘、そして茶を入れた2つのグラスをバックに、この珠玉のような、あるいは血と汗の結晶であるこのコピーが、ただそっと並んでいるだけの地味な広告ですが、眺めているうちにまたしてもかすかに涙腺がゆるむのを覚えるのは、このゴールデンコンビの手練の仕業に違いありません。


♪南洋の桜といわれしジャカランダ桜に勝り毅然と咲きおり 茫洋

Wednesday, June 24, 2009

網野善彦著作集第8巻「中世の民衆像」を読んで

照る日曇る日第266回

昨日正宗について少し触れましたが、おそらく彼も回船鋳物師と呼ばれる中世前期の代表的な職人であり、一流の刀鍛冶として鍋・釜・鍬・鋤などの鋳物師ともども、畿内を起点に瀬戸内海を経て九州、あるいは山陰・北陸に回り、琵琶湖を経て淀川に入る広大な水域を遍歴していたのでしょう。
しかし頼朝による鎌倉幕府の成立がこうした遍歴自由民の活動を制限するようになった結果、中世後期に入ってようやく定住民となって一族が鎌倉に定着したのではないでしょうか。

中世前期までは神や仏や天皇に直属する神人、寄人や道々の職人、楽人、舞人、陰陽師、医師、相撲、呪師、傀儡子、芸能人は特別な技能を持つ「聖なる存在」としてあがめられ、税を免除されて諸国を遍歴しつつ一定の自由を獲得していました。
しかし彼らは幕府や権力者によって威圧され、「悪党」とも呼ばれたある種の呪術性を喪失していくのですが、次第に勢いを失っていくこの「古くて聖なるパワー」を新たな宗教の中に生かそうとして次々に立ちあがったのが鎌倉新宗教の創設者でした。これこそが法然、親鸞、道元、一遍、日蓮たちを突き動かしていたおどろおどろしい情念だったのでしょう。

 当時は貴族と悪党どもにも多くの接点があり、たとえば後伏見天皇の妃であった広義門院が1311年に女児を出産した際には、なぜか巫女や双六打ち(博打)が産室のそば近くに待機し、その「芸能」を通じて悪霊退散の祈願を行っているのです。
いよいよその時が近づくと亀山法皇が院を背後から抱きかかえ、土器を女房たちが割り、博打が双六で戦っている出産現場には大量の「うぶすな」が撒かれたそうです。

また興味深いことに、中世前期には多くの宋人=唐人などの異民族が、さきほど例にあげた「職人」という身分と特権を持ち、国内を自由に移動しながら石工、薬売り、飴売り、櫛売りなどの商業活動に従事していました。
鎖国をしていたはずの江戸時代もそうでしたが、これは権力者の規制がどうであろうとアジアの民衆はいつの時代もたえざる交流を続けていたよい例証ではないでしょうか。
以上網野善彦著作集第8巻「中世の民衆像」より自由に引用しながら書き記しました。

健ちゃんが帰ってきたようれぴいな 茫洋

Tuesday, June 23, 2009

本覚寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第195回

鎌倉駅からほど近いこのお寺は、もとは源頼朝が幕府の守り神として建立し、天台宗系の夷堂があったのですが、永亭8年1436年に日出が日蓮宗のお寺として再建しました。2代目住持の日朝はのちに身延山久遠寺の住持になったとき、そこにあった日蓮の遺骨をこのお寺に分骨したので、本覚寺はそれから「東身延」とも呼ばれるようになった、と「鎌倉の寺小事典」には記してあります。

 またその日朝が魔の病気を患った時、法華経とみずからの治癒力で治ったという言い伝えがあるこのお寺は、「日朝さん」と親しまれ、眼病、縁結び、商売繁盛に霊験あらたかとされて人気があるそうです。
さらには、松平定信の直筆による「東身延」の額も残っているそうですが、いったいどこにあるのやら。今度行った時によく調べてみましょう。

私が個人的にいちばん興味をひかれるのは、このお寺の墓地に刀工正宗が葬られていること。正宗は、鎌倉時代に当地にあって「相州伝」という特徴を備えた数々の芸術的な名刀を鍛えただけではなく、幾多の弟子として育て上げたことであまねく知られていますが、その名人がこんなお寺に眠っているとは。

ちなみに鎌倉には正宗の子孫と称する日本刀の刀匠が現在も小町の街中で活動中(太刀を打つ現場を観察することもできる)ですし、置石や長谷の商店街には数多くの刀商が営業しています。

    ♪ミラノスカラ座より帰国せしや平成正宗後継者 茫洋

Monday, June 22, 2009

アーサー・ペン監督の「アリスのレストラン」を見て

アーサー・ペン監督の「アリスのレストラン」を見て

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 5 

原作と主演はフォーク歌手のアーロ・ガスリー。彼のヒット曲Alice's Restaurant Massacreを題材にしてアーサー・ペンが二度と帰らぬ青春の想い出を歌いあげました。

ギター、ハモニカ、バンジョー、フォークミュージック、マリファナ、ダンス、セックス、オートバイ、キリスト教会……、ベトナム戦争に行きたくないフォーク音楽好きの長髪のアメリカの青年が振り返る60年代には、やはり現代とは違う風が吹いていました。

それを自由と放浪への誘いの風と呼ぶか、法と秩序を揺さぶる不埒で放恣な逸脱の邪風と舌打ちするかは、人がこの時代をどのように生きたかによって受け止め方が違うでしょう。しかし若者を名状しがたい不安と理由もない希望に駆り立てる荒々しい風が全世界でふきつのっていましたが、この映画の中ではまぎれもなくその風が吹いていることをあれから40年以上経つのにまざまざと感じ取ることができます。

この政治的対決の時代の疾風怒涛の狂乱のさなかにあって、主人公を支えているのは心を許した女性アリスやヒッピー仲間たち、そして折にふれて彼が奏でるギターの音色です。とりわけアーロ・ガスリーとピートシガーがガスリーの父親が入院しているニューヨークの病院でハモる「♪自動車で行こう」の楽しさをなににたとえればいいのでしょうか。

この音楽とこの音楽に聴きほれるガスリーの両親の笑顔の中にこの映画の最上のシーンがあります。たとえラストシーンの編集に奇妙な躊躇と失敗があるとはいえ。

茫洋広告戯評第6回

茫洋広告戯評第6回


いよいよ裁判員制度が開始されました。法務省や最高裁の裁判員制度キャンペーンも最近はかなり円熟の度を深め、当初の堅苦しさがいくぶん和らいできたような印象を受けます。

いずれにしても行政、立法のみならず司法制度にも平成平民が直接参加して自由に意見を述べ、その意思を反映できることはまことに慶賀に堪えません。専門バカとはよく言ったもので、一握りのテクノクラートによってその運用が独占された機構は、とかく制度疲労を起こして機能が形骸化し、平民の意志とは遊離していく危険性があります。

この際できることなら裁判員だけでなくて検察員制度を新設し、専門家のみならず平民の声が直接検察活動に反映されるべきではないでしょうか。平民の平民による平民運動とは民衆の直接民主主義の運動で、歴史的には南北朝以降近世近代の天皇制国家の権力の肥大化の流れに呑み込まれてしまった平民共同体自己統治権の奪還を意味しますが、これらを中世末期の始原期に遡って回復しようとする衝動は、平民自身の直接参加による軍隊の創設にまで行き着くべき性格のものではないでしょうか。


コラボとはナチ協力者のことなりコラボといわずコラボレーションと言え 茫洋

Saturday, June 20, 2009

アルベルト・モラヴィア著「軽蔑」を読んで

照る日曇る日第267回

男のさすらいの人生の頼りの綱は女性です。もしも愛する女性に軽蔑されたら、男なんてどうやって生きていったらよいのか途方にくれてしまうでしょう。漂流しながらおんおん泣いて、ついでに海に飛び込んで死んでしまうしかないでしょう。これがこの小説の主題です。おそらくモラヴィアの実際の体験と女性観がこのテーマに色濃く反映されていることは間違いありません。


しかしこの軽蔑はいつ、どこから女の心の中にやってきたのか。それがいまひとつ最後まで読者にはよくわからない。というのは男自身もよくわからないからで、主人公がわからないのは作者がわからないからで、モラヴィアは別れた元女房の謎をわかろうとしてこの心理思弁小説を書いたのですが、苦労して書いてみても結局はよくわからなかったのではないでしょうか。

モラヴィアは仕方なくホメロスの「オデッセイア」におけるオデッセウスとペネロペの関係をフロイト的に論じ、この単純明快な問題をペダンチックに取り扱おうとします。つまりペネロペに言い寄る男たちに寛容な態度を示したオデッセウスをペネロペは軽蔑していて、それが嫌さに7年もの間故郷イタケに寄り付かなかった。夫が妻の愛を取り戻せたのは求婚者どもをオデッセウスが皆殺しにしたからだ、などと唱えるのですが、こういう暴力をこの小説の主人公が振るえるくらいなら、そもそもこんな哀れな境遇に陥っているはずもないのです。

実は主人公があまりにも草食系のインテリゲンちゃんであるために優柔不断過ぎて、妻の危機を体育会系の男からちゃんと守ってやらなかった、というよくあるとってつけたような解説も飛び出てくるのですが、どうもそれだけでは説明できない事情がどこの夫婦にもあるのです。ともかくこの小説の無残な失敗は、最後のおちの付け方を見れば一目瞭然でしょう。

なおこのモラヴィアの原作を、ゴダールがおなじタイトルの映画にしています。悩める脚本家にはミシェル・ピッコリ、辣腕プロデューサーにゴリラ男のジャック・パランス、フロイト流の「オデッセイア」を論じる映画監督には名匠フリッツ・ラング、そして単純な精神と見事な肉体の持ち主であるヒロインにはブリジット・バルドー、という豪華なキャステイング、それにカプリ島の風光明媚をあざやかに駆使して、彼一流のわかったようでわからない演出を繰り広げているのですが、これこそモラヴィアの世界にもっともふさわしい「絵解き紙芝居」だったかもしれません。


親しめば親しむほど洞窟の謎は深まる  茫洋

Friday, June 19, 2009

ミルチャ・エルアーデ著「マイトレイ」を読んで

照る日曇る日第265回

これは、ルーマニア生まれの宗教学者ミルチャ・エルアーデが、若き日にインドを訪れたときの体験を赤裸々につづった大恋愛小説です。イタリア・ルネサンス哲学の研究のためにインドを訪れた作者は、インド各地を旅行し、タゴールに会い、タントラ・ヨーガにのめりこみますが、それ以上に漆黒の肌の魅惑のベンガル女性マイトレイとの運命的な恋に遭遇します。

大きく黒い眼、厚い唇、熟れた乳房、褐色の肌……はじめはむしろ醜いとすら思えた異貌の異性にふとしたはずみに惹かれ、思いがけない深みにはまる体験は多くの方々がお持ちでしょうが、エルアーデの場合はそれがいちおう文化的に先進国であると自他ともに考えていた白哲の欧州男と亜細亜的後進周縁国の僻地に住む異文化の女性という異色の組み合わせでした。

衣食住も思想も風土も風習も宗教もすべてが面白いくらいに異なる2人が、おそらくはその違いゆえにどんどん惹かれあっていき、周囲の懸念や反発をものともせずに愛し合うありさまはよくあるタイプの初恋物語ではありますが、その文章がおそろしく事実に忠実に、青春の情熱と愉楽の限りを刻印しているために読者はぐんぐん引き込まれて、あれよあれよという間に、お決まりの悲劇的なラストまで付き合わされてしまいます。

21歳と17歳の若者の激烈な恋愛とその蹉跌が主人公たちのその後の生涯にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。燃えるような、狂うような恋をした2人は、それから43年の後に1973年シカゴで再会したそうですが、いったいそこでどのような対話が交わされたのでしょうか。エルアーデが1933年に書いた本書に応えるように、マイトレイは1976年に「愛は死なず」を世に出したと聞くと、こちらもあわせて読み比べてみたくなりますね。

♪ひとたびは燃えつき果てた恋なれど43年目に燃え上がるかな 茫洋

Thursday, June 18, 2009

青木美智男著「日本文化の原型」(小学館日本の歴史別巻)を読んで

照る日曇る日第264回

日本文化の原型は普通は室町時代にできたと考えられているようですが、著者はそれを江戸時代に求めて、民衆の視座から見た文化、とりわけ衣食住の基礎の確立のありようを事実に即して、生活の現場に即して、実態的に見定めています。高踏的な歴史叙述を避けて下から目線の文化史に挑戦した意欲はおおいに買えます。

たとえば食の革命はまさしく江戸時代になされました。醤油、清酒、出汁が発明され、庶民の食生活は一挙に味わい豊かなものになったのです。味醂は江戸時代は女性の飲み物で、これが調味料になったのは幕末になってからだと著者はいいます。

江戸時代の酢は主に相州中原(平塚市)で生産され、これが中原街道経由で江戸城に運ばれていたそうですが、江戸後期になると料理以外の需要、すなわち友禅染という絢爛豪華な絹の衣服が登場したために大量生産されるようになったそうです。酢には酢酸が3割ほど含まれており、これが友禅染の染色過程の定着剤として流用されたというのは初めて聞く話でした。絹の染色をいっそう効果的にするために出羽村山特産の紅花や阿波藍なども増産されることになりました。

わが国では平安・鎌倉・室町・戦国時代まで庶民の大半の衣服は苧麻(ちょま)でしたが、これは栽培から織り上げまでには大変な時間と手間を要し、そのために鎌倉・室町の女性は農耕に従事する余裕がなかったほどでした。そこへ登場したのが着心地も耐用性も汎用性も抜群の木綿です。戦国時代には兵衣、火縄などの軍事用に使われていたものが江戸時代に入ると急速に普及して大衆衣料の主流になりました。新品が不足したために全国に巨大な中古市場が形成され、幕府は大伝馬町の木綿問屋に独占販売権を与えて統制を図りました。幕府は武士には絹、農工商には木綿という繊維格差を押し付けることによって身分制度を固定化しようと企んだのです。

いっぽう最高級の絹織物、西陣織で身体を華美に彩ることは権力者やセレブ階級の最大の願望であり、ステータス・シンボルでありました。江戸初期の幕府は生野、石見の銀山や佐渡の金山で採掘された金や銀を代償にして中国やベトナム産の膨大な生糸や絹を買い付けた結果、かつての黄金の国ジパングはたちまち瓦礫の列島に変身してしまいました。

仕方なく幕府は銅や伊万里焼を輸出するとともに、正徳3年1713年、国内における絹生産体制の早期確立をめざすことになります。そしてその結果、信濃、上野桐生、下野足利、陸奥信夫・伊達など各地で西陣織のノウハウを移植した絹織物の産地が呱々の声を上げ、私の郷里に近い丹後半島の与謝郡でもあの有名な丹後縮緬が誕生したのです。

以上のように、ちょっとしたさわりだけでも、とても為になる1冊です。

金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴 茫洋

Wednesday, June 17, 2009

「岩船地蔵堂」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第194回


亀が谷切通を下った扇が谷の辻にぽつんと立っているのがこの地蔵堂です。ここに祀られているのは源頼朝・政子の長女大姫の持仏と伝えられています。

大姫は政略結婚で木曽義仲の息子義高と結ばれ、相思相愛の仲だったのですが、源氏同士の勢力争いがはじまって義高は頼朝の命で暗殺され、(政子はそのことに激しく怒ったと「吾妻鏡」に出ています)、愛する夫を奪われた大姫は、哀れにも強度のノイローゼに罹ってしまいます。

娘の愛を引き裂いた張本人の頼朝・政子夫妻は、大姫の回復を念じて夜な夜な浄妙寺の杉本観音から逗子の岩殿寺までの巡礼古道をたどってお百度を踏んだ、といい伝えられています。その由緒ある歴史街道を山ごとブルドーザーで引き裂いて「鎌倉逗子ハイランド」なる高級住宅街をつくって売り出したのが西武堤資本です。

大姫はその病気を案じた畠山重忠の屋敷(現在の八幡宮の東端)で療養したり、義経の愛妾静御前をいたわったりしていましたが、とうとうわずか20歳で窮死してしまいました。昔の岩船地蔵堂は木造のぼろぼろの状態で、それが薄幸の身の上の女性にふさわしい一種の物凄く、荒涼とした感じを界隈に漂わせていたのですが、いつのまにかモダーンな感じに再建されてしまいました。

余談ながらこの近所には島木健作や小林秀雄、里見弴などが住んでいて亀が谷切通の坂上にあった鉱泉に浸かっていたようです。鎌倉に温泉は珍しいのですが、私が住んでいる十二所にもぬるい天然の湯が沸いているところがあります。


    凶悪な政治の毒に窮したる二十歳の恋ははかなく散りて 茫洋

Tuesday, June 16, 2009

海蔵寺の「底脱の井」を覗く

鎌倉ちょっと不思議な物語第193回

幸いにも観光客があまり訪れない海蔵寺ですが、その閑寂な趣をさらに情趣豊かにしているのが寺院の外の2つの井戸です。

まずお寺の入口の右側に「鎌倉十井」のひとつである「底脱の井」と明治二七年五月に建立された歌碑があります。

千代能がいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらず

 この歌の作者は霜月騒動で惨殺された悲劇の武将安達泰盛の娘で無着如大という尼僧ですが、俗名を賢子、幼名を千代能といました。彼女は早くに夫に先立たれたので京の東福寺で修行を積んで「法は如大一人にて足りる」と称されるほどの大知識になりました。
彼女は素晴らしい美貌の持ち主でした。この海蔵寺の仏光国師に師事しようとしたとき、僧の修行の妨げになると断られた彼女は傍らにあった焼き鏝をその美しい顔に押し当ててやけどの傷をつくり、やっと弟子入りを許されたそうです。

そんな彼女がある日夕食のために水を汲んでいたのが、この「底脱の井」でした。突然桶の底が抜けてしまった瞬間長年の心の煩悶が一気に氷解し、そのときに詠んだのがこの歌だといわれています。

もうひとつは薬師堂の裏側の山腹にあるやぐらの中に16の穴が掘られた「十六ノ井」ですが、現在もきれいな水が湧いています。

以上は鎌倉文学館の資料をもとにリライトしました。


谷川さんの下手くそな詩を読んでいると自分も書こうという気持ちが起こってくる 茫洋

Monday, June 15, 2009

扇ヶ谷に海蔵寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第192回

扇ヶ谷のどんづまりにある瀟洒なお寺が海蔵寺です。このお寺は四季折々にさまざまな山野草が咲く鎌倉随一の花の寺として有名です。

海蔵寺は応栄元年1394年に鎌倉公方足利氏満の命を受けて、元は真言宗の寺があった跡に上杉氏定が再建しました。開山は謡曲「殺生石」で知られる心昭空外(源翁禅師)です。本殿も立派ですが、古雅な趣を湛えているのが薬師堂で、ここには胎内仏をおさめた薬師如来、別名啼薬師、児護薬師が安置されています。

ある日のこと、寺の裏から赤ん坊の泣き声がするので源翁禅師が声の主を探すと金色と甘い香りが漂う古いお墓がありました。そこで禅師が経を唱えながら掘ってみると、現れ出たのがこの薬師像だった、という言い伝えがあります。ただし胎内仏を拝めるのは61年毎とされているそうです。

それから謡曲「殺生石」では白狐のたたりで殺生をひきおこす石を源翁禅師がえいやっと杖で打ち砕きますが、かなづちを別名「げんのう」と呼ぶのはこの故事から来ているそうです。また江戸時代に建てられた茅葺の庫裏は歴史的な価値が高く、本殿の奥にある心字池と庭園の美しさとともに捨てがたいものがあります。

以上は「鎌倉の寺」(かまくら春秋社)から勝手に引用しました。


玄関に片っぽうだけ転がっている妻の黒い靴 茫洋

Sunday, June 14, 2009

阿仏尼の墓を訪ねて

                  
鎌倉ちょっと不思議な物語第191回


夜もすがら涙もふみもかきあえず磯越す浪にひとり起きゐて

これは鎌倉時代に「十六夜日記」を書いた阿仏尼の歌ですが、私たちの時代ときわめて似通った近代的な心の動きを感じ取ることができます。

阿仏尼は夫が遺してくれた荘園の権利を求めて幕府に直訴するために、おんなひとりではるばる京から鎌倉まで下向してきます。そして以前このシリーズでもご紹介したように、極楽寺の近くの月影の谷で生活しながら、おりふし海岸に打ち寄せる波の音や松に吹き寄せる風の音に耳を傾けながら都の知人に文を送り、いっこうにはかどらない訴訟の進行に耐え忍んでいたのでしょう。

そんな阿仏尼の墓が極楽寺から遠く離れた英勝寺(ここはあの山吹の歌で有名な太田道灌邸であり現在は鎌倉唯一の尼寺)の傍らにあるのは意外な気もしますが、彼女の息子冷泉為相の墓がここからほど近い浄光明寺の山頂にあることを考えれば、もしかすると江戸時代に建立された現在の英勝寺の場所に、かつては別の寺院が建てられていて、阿仏尼はその晩年をそこで過ごして葬られたのではないでしょうか。

そう考えてわが枕頭の書「鎌倉廃寺事典」をおそるおそる開いてみますと現在の英勝寺の元は智岸寺であり、やはり尼寺であったと記されています。「鎌倉志」にも「智岸寺谷は英勝寺の境内なり」とあり、「古は寺ありけれども頽敗せり。近比まで地蔵堂のみありしが是も今はなし」と述べられています。そして智岸寺はかつては尼寺、駆け込み寺として知られていた東慶寺の隠居寺的役割を果たしていたそうなので、阿仏尼が浄光明寺ではなく智岸寺でその寂しい生涯を終えた可能性はかなりたかそうです。

ちなみに地蔵堂に祀られていた地蔵菩薩は1684年当時すでに鶴岡八幡宮僧坊正覚院にあり、その後瑞泉寺に移ったことが確認されているので、私たちは瑞泉寺に行けば阿仏尼が拝んだ尊像に対面できるというわけです。

 
♪またしても「スイカ」の種は尽きにけり働き悪く金のなき日に 茫洋

Saturday, June 13, 2009

続 村上春樹著「1Q84」を読んで

照る日曇る日第263回


村上春樹がこの小説で描こうとしたのは、リトル・ピープルによって代表される眼には見えない陰険で邪悪な敵意、世界全体を覆う殺意と反感と無関心、冷酷なニヒリズムと問答無用の暴力の氾濫、狂信と原理主義の愚かさではないでしょうか。

そのために作者は、言葉という小さなチップを丁寧に並べて、壮大なドミノのタペストリーを編みました。言葉という砕片をひとつひとつ積み上げて、目のくらむような高さの虚構の大伽藍を構築しました。ほんの一押しで跡形もなく崩壊してしまう幻影の城を……。

これらは作者のおおぼら吹き、嘘八百の口から出まかせ、すなわち文学上のフィクションとは到底思えず、西欧のゴシック大聖堂に匹敵する精緻さと実在性を獲得するに至っており、作者の企画構想力と文章修飾力の膂力のほどをまざまざと示しています。とりわけ素晴らしいのは「王」と青豆との対決シーンで、その息をのむ展開はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の残照すら感じさせる白熱に燦然と輝いています。このくだりはかつてこの作者によって書かれた最良の数ページではないでしょうか。

この作家特有の細部の研磨、それからチェホフの「樺太物語」やそこに棲むギリヤーク人などの逸話に垣間見られる卓抜なユーモアとウイットも相変わらず健在で、私たち読者は、モノガタリの骨太のコンテキストから自由に逸脱して、心楽しい文学散歩を楽しむことが許されています。作者の空想と創造の一大所産であるスケルトンが時々念力不足で空中分解する懸念があることを思えば、本書の最大の魅力はむしろリフィルのディテールの充実にこそあるのかもしれません。

ところで、リトル・ピープルはジョージ・オウエルによって描かれたビッグブラザーを思わせるいわば「悪い存在」ですが、しかし彼らは本当に最後の最後まで悪役を務め、世界市民に害悪を及ぼし続けるのでしょうか。

その答えはイエスでもあればノーでもあるでしょう。なぜならリトル・ピープルとは、実は私たちの魂の奥底に潜む悪魔そのものだからなのです。私たちの内面ではリトル・ピープルとその反対勢力が絶えることなく食うか食われるかの闘争を繰り広げています。そして私たちの「内なる善」が「内なる悪」との戦いに敗北するとき、悪はますます増長して私たちの外部世界に躍り出て、百鬼夜行の大活躍を開始するでしょう。9・11以降その傾向はまさしくパンデミックなものとなりました。

私たちの内部分裂と内部での孤立無援の戦いは、同時に世界の分裂と戦いをもたらします。古くて新しい「万人の万人に対する闘争」の再開です。わが魂の骨肉の敵を私たち自身が退治しない限り、人間界も世界も、いずれは崩壊するのではないだろうか? 村上春樹はそんな焦燥に駆られてこの絶望と希望のメーセージを綴ったのではないでしょうか。

やがて善悪の相克はかろうじて相対化され、宇宙の彼方から聖なる声が朗々と高鳴る日が来るでしょう。「善から悪へ、悪から善へと御身らの輪廻は転生すべし。」
上下2巻1000頁を超えるこの長編小説を繰る中で、私がもっとも感嘆したのは、作者が引用している「平家物語」の「壇ノ浦の合戦」の朗読シーンでしたが、この小説の深部でひそかに唱えられているのは諸行無常の念仏なのかもしれません。 

万人の万人に対する戦いとく鎮まれと作家は祈る 茫洋

絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す 茫洋
 

Friday, June 12, 2009

村上春樹の「1Q84」を読んで

照る日曇る日第262回

この本を読み終わったあと、自転車に乗って涼しい風の吹く外に出てみました。梅雨に入ったばかりの夜空はとっぷりと暮れ深い藍色に染まっています。私は小説に何度も出てくる2つの月、大きな黄色い月と小さな緑の月を探しましたが見つかりませんでした。

白い道だけがほのかに浮かぶ真っ暗な森の道に乗り入れると、今夜もホタルが舞っていました。雌雄2匹が2個所で対になって、銀色の光を点滅させながらお互いに追尾しあって、ふわりふわりと円弧を描きます。私は思わずこの4匹は、小説の主人公ふかえりと天吾、青豆と天吾の2つのカップルの生まれ変わりではないかと思いました。

一瞬行方をくらませたホタルが黒い木陰を抜け出して空の高みに駆け上ると、そこで待ち受けていたのは鈍い銀色の光に輝く北斗七星の7つの星々でした。ホタルは空の星と混ざり合って、「あ、見えなくなった」と思ったら、もうどれがどれだか分らなくなってしまいました。無限大ほどのギャップがあるのに、同じ平面に鏤められた銀色の輝きがフラットに均一化されてしまう。そんな視覚的経験は初めてでしたが、ホタルと星は、この小説で繰り返し説かれている実際の1984年と幻視の中に実在している1Q84年の関係にとてもよく似ているような気がしました。

実際の1984年はすでに私たちが通過してきたはずの歴史的年度ですが、あますところなく経験され、生きつくされたはずの1984年には、しかし同時代の誰も知らなかった時空を超越した異次元の世界1Q84年に通じる幾つもの裂け目があり、そこには人類の平和や心の平安を脅かそうと企んでいる悪意の主リトル・ピープルたちが潜んでいます。

リトル・ピープルが支配する新興宗教団体の魔手から逃げ出してきた17歳の美少女ふかえりの体験をリライトした小説家の卵、天吾は、自らが描いた小説「空気さなぎ」の世界の内部にいつのまにか取り込まれ、天語の永遠の恋人である青豆と同様、「反世界」の地獄の底へと転落してゆきます。

スリルとサスペンス、ホラーとファンタジー、オペレッタとフィルム・ノワールを混淆させた作者の円熟した語り口は、それ自体が音楽性と朗読性に富み、この小説で引用されるヤナーチエックの「シンフォニエッタ」の譜面に勝るとも劣らぬ音楽的な演奏そのものであるといってもよいでしょう。よしやバッハの「マタイ受難曲」の深い思想性に欠けるとしても、この小説がかつて日本語で書かれたもっとも魅力的なロマンのひとつであることは間違いないでしょう。久しぶりに読書の快楽、物語の醍醐味を堪能できた1冊、いや2冊でした。


♪今宵また新たな呪文をわれに告げ北斗の星と輝く蛍 茫洋

Thursday, June 11, 2009

ジョージ・マーシャル監督「砂塵」を視聴して

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 4

マレーネ・ディートリッヒとジェームズ・スチュワート主演の西部劇映画を、FM放送でシューマン、CDでブラームスのリートを聞きながら見物しました。1939年アメリカ ジョー・パスターナク・プロ制作のモノクロ映画です。


原題は「DESTRY RIDES AGAIN」。直訳すれば「ディストリーが再び馬に乗る」。ディストリーは副保安官ジェームズ・スチュワートの名前です。父をならず者に殺された息子のディストリーが、悪の巣窟と化した、とある西部の町にギター片手に、馬に乗って丸腰で乗り込みます。そしていろいろあってのちに、とうとうその張本人ブライアン・ドンレヴィを倒して、町に平和を取り戻すという、きわめてありがちなデキレース西部劇です。

はじめは顔役の手下兼情婦であり、途中から副保安官に恋してしまい善人に戻る役が美貌美脚(でもよく見ると内側に湾曲してる)のマレーネ・ディートリッヒ。フレンチーという名前ですが、英語とドイツ語を足して2で割った歌を、ときどきウインクなぞしながら上手に歌って踊ります。私が大好きなB級というよりは超C級の娯楽作です。

お楽しみは悪女マレーネ・ディートリッヒと善女の酒場での大乱闘。仲裁に入ったジェームズ・スチュワート愛用のギターをめちゃめちゃに壊してしまいます。男どもの対決を町のおかみさんたちが徒党を組んでやっつけてしまうというフィナーレも印象的です。

ところでこの映画の邦題がどうして「砂塵」となっているのでしょう。名匠ニコラス・レイ監督の西部劇「大砂塵」のパクリかと思っていたら、その通りでもあり、その逆でもありました。
実は1954年に製作され、主人公ジョニー・ギターをスタンリー・ヘイドンが演じ、ジョーン・クロフォードとマーセデス・マッキャンブリッジの女性同士が決闘する「大砂塵」(原題も「ジョニー・ギター」)は、それ自体がこの「砂塵」のパクリ、というよりは巧妙な換骨奪胎作品だったのです。

それに気づいた誰かが、本作の日本語タイトルをあえて「砂塵」としたのでしょうが、さもありなん、とはたと膝を打った次第です。

♪大船駅のさびた線路のすぐ傍に昼顔の花咲きいたり 茫洋

Wednesday, June 10, 2009

流れ出るわが涙よ

バガテルop102

以前ある若い女性が、「私のお父さんがね、娘が結婚するシーンが出てくるCMを見ていたら、もう泣いているの。いやになっちゃうわ」と語っていたのを聞いて、私は彼女の父親の気持ちがなんとなくわかるような気がしていたのですが、その私自身が最近はひどく涙もろくなりました。ちょっとしたもののはずみで涙腺が緩んで塩辛い水分がにじみでるのです。

きのうバン・クライバーン氏が主宰する米国のピアノコンクールで、中国人ピアニストと1位をわかちあった全盲の辻井伸之さんが、「一度だけ目が開くならお母さんの顔が見たい」と語った、という記事を朝日新聞の「天声人語」で読むやいなや、私の乾ききった左頬にたらーりたらりと数滴の涙がにじんでは落下するのを覚え、「これはいったいどうしたことか」といぶかしみました。ほとんど無意識かつ無自覚にそういう生理的な作用が起きたことに対して、われながら驚いたのです。

そういえば先日某アホバカテレビに出演していた某アホバカ芸能人が、「1分間で泣いて見せます」と豪語したのみならず、実際に見事その通りに泣いて見せたので、私はおおいに驚いたのですが、どうやら涙という液体は、人間が意図しても、しなくても随意にも不随意にも流出する奇妙な液体であるようです。

私自身はまだ泣いてもいないのに、脳が泣けと指令すら出していないのに、末端神経が勝手に涙を流してしまう。私の理性は、泣くべきか泣かざるべきか、もしも泣くのなら適切な排出量にせよ、事態をよーく考えてから実行せよ、と戒めているのに、安物の出来の悪い感情がこれを無視して反乱を引き起こしている。これを自己崩壊といわずになんと呼べばいいのでしょうか。

そして私は、かくも安易に流出する涙というものをけっして過大評価してはならないことを肝に銘じたのですが、それと同時にその涙の排出源となっている悲哀や同情や憐憫といった感情についてもあまり重きをおいてはいけないことを学んだのでした。癒しを求める人はきっと卑しい人間なのです。


明治通り千駄ヶ谷小学校交差点の真紅の薔薇を撮影していたり秋山庄太郎 茫洋

Tuesday, June 09, 2009

「まんだら堂跡」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第190回

名越切通の近くにまんだら堂の旧跡がありますが、ここは最近発掘調査が行われており、残念ながら立ち入り禁止となっています。お堂の正体は不明であり、周辺には数多くのやぐらが散在しています。四季折おりの草花が咲き乱れるお花畑としても知られ、またお堂の下を走る逗子トンネルは昔からお化けの名所として有名です。

私の想像では、おそらくここは鎌倉時代の武将や貴族、僧侶などを葬った集団墓地であり、まんだら堂はそれらのエリートたちの一大葬祭センターだったのではないでしょうか。というのは私が住んでいる朝夷奈切通の麓に同じような中世墳墓葬祭場跡が存在しているからです。おそらく、異界へ通じる鎌倉の7つの切通のすべてに、共同墓地とそれに付属する葬式場があったに違いありません。

たとえば釈迦堂切通には以前ご紹介した「唐糸やぐら」と「日月やぐら」、そしてつい最近公開されたばかりの大町大やぐら群が横たわっています。また化粧坂切通には瓜ヶ谷やぐらと西瓜ヶ谷やぐら、巨福呂坂切通には浄光明寺やぐらと東林寺やぐら、そして亀ヶ谷切通には相馬師常やぐらがすぐ近くに存在しているので、私の想像もまんざらでたらめではないのではないでしょうか。

私は青いビニールシートに包まれたまんだら堂の旧跡を横目で眺めながら、私の残り少ない人生をこれらの切通周辺に必ず存在するはずの葬祭場捜索に捧げることを誓い、あわよくばそれらの墳墓の底深く埋葬されることを夢見たことでした。


♪カラスアゲハが無心に太刀洗川の水を吸うておる 茫洋

Monday, June 08, 2009

「釈迦堂切通」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第189回

時々この空気がひんやりと行きかうおおきな洞を訪れると鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」を思い出します。あの映画は長く鎌倉に住んでいた鈴木清順によってまさにこの場所で撮影されたのですが、その鈴木氏の長谷の旧邸に私の家内が住んでいたのでなにか不思議な縁を感じるのです。

この映画の中で監督は、かつて映画を学んだ母校「鎌倉アカデミア」があった光明寺や稲村ケ崎にあった有島生馬邸でもロケを敢行していて、さながら鎌倉懐旧物語といってもよいかもしれません。

さて釈迦堂切通は釈迦堂口洞門とも呼ばれ、洞門のなかには壁を削った小さなやぐらがあり、五輪塔が祀られています。釈迦堂の名は鎌倉幕府の3代執権北条泰時が亡父義時の追善供養のためにこの谷戸に嘉禄元年1225年に釈迦堂を建立したことから名付けられたようです。しかしその釈迦堂は現存しておらず、その場所は定かではありません。しかしその本尊は東京目黒の大円寺に安置され国の重要文化財に指定されています。


以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。


♪なにゆえに発注なきや半年間紫陽花の青をじっと眺むる 茫洋
♪半年間発注のない狂おしささくらば散りてあじさいの咲く 

Sunday, June 07, 2009

「唐糸やぐら」と「日月やぐら」を訪ねて

「唐糸やぐら」と「日月やぐら」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第188回

釈迦堂の周辺には数多くのやぐらがあります。これらは釈迦堂口やぐら群と称されていますが、その代表的なものが「唐糸やぐら」です。

唐糸の逸話は「御伽草紙」「唐糸草子」で語られているお話です。唐糸は木曾義仲の家臣手塚太郎光盛の娘で琵琶と琴の名手でしたが、義仲の命で源頼朝の命を狙おうとして失敗、とらえられて幽閉されたのがこの唐糸やぐらだと伝えられています。

これを知った唐糸の娘万寿姫は信濃から鎌倉にやってきて、母と同じように頼朝につかえます。ある日鶴岡八幡宮の舞の踊り手に選ばれた今様の名手万寿姫は見事に舞い、頼朝から賞賛されて望みのものを訊かれます。そこで頼朝に事情を打ち明け、母唐糸の釈放を願った万寿姫の願いは聞き届けられ、母子は無事に故国に戻りましたとさ。めでたし、めでたし。

もうひとつの代表作は、その近くにある「日月やぐら」で、やぐらの内部の壁面に掘られた丸い穴を日輪に、二重に掘られた穴を月輪になぞらえた絶妙なネーミングがおしゃれです。丸い穴の上には天蓋が描かれ、下には蓮座が描かれているほかにはあまり例のない珍しいやぐらとして有名ですが、この一帯は横浜の不動産屋が開発目的で買い占めているために一般に開放されていないのが残念です。

以上「鎌倉ガイド協会」の資料等を参考に記しました。


♪隠れたってすぐ分かるぞヘイケボタル今宵も8匹見つけたり 茫洋

Friday, June 05, 2009

高橋源一郎著「大人にはわからない日本文学史」を読んで

照る日曇る日第261回

文学の母は人間であり、人間が生きてきた社会ですから、その母体が地殻変動すれば文学のありかたも変わってしまいます。著者は最近のそんな文学のありようの変化を、パソコンのOSの転換にたとえて語っています。

近代小説の元祖である明治17年に刊行された円朝の「怪談牡丹灯籠」も漱石の「道草」も太宰の「津軽」も志賀の「暗夜行路」も、(一葉の「にごりえ」など数少ない例外はあっても)、「自然主義」「リアリズム」「自我の肯定と世界との闘争」「他者の不在」という牢固とした基本ソフトを駆使して書かれてきたのです。

けれども小説や芸術を取り囲む共同体の共同性自体が次第に変化した結果、このような古典的な3点セットで構成されたオペレーション・システムの耐用年数がいまや尽きかけているんだ、と著者は断言します。田山花袋が女弟子に去られてワンワン泣いたり、啄木が時代閉塞の現状を嘆いたりしたときに前提にしていた「私そのもの」の基盤である「コギト」がシロアリにやられて、いまや根こぎにされてしまったということなのでしょう。

だから見よ、最近では、小説の主体である「私」が消失してしまい、小説世界に過去も未来も、はじめもおわりもなく、ただのっぺらぼうな現在だけが即物的に描写される「非小説的小説」が登場してきたではないか、と述べて、中原昌也の「凶暴な放浪者」や前田司郎の「グレート生活アドベンチャー」のような、いまだ洛陽の紙価が定まらず、あまでうす氏などから激しく嘲笑されている作品群を俎上にのせるのです。

さうして、これらは過去の主流派OSウインドーを放棄して新しい汎用OSリナックスによって書かれた無私の小説、無意味の小説と言ってもよろしい。誰でも書けるし、どこも書き換え可能であり、まったく無意味で無価値な作品であると極言しようと思えばできるだろうが、これはもしかすると新たな共同体の登場を予感させる新たな文学のはじまりなのかもしれない。

とまでおごそかに予言されるのですが、その嘘ってほんと? 
しかし私が敬愛するほかならぬ高橋源一郎氏のおことばですから、千年経って「平成日本文学史」をえいやっと振り返ったなら「なるほどそういう事態だったんだね」、とほほえみながら総括できるかもしれませんね。もっともその頃には誰も生きてはいないけど(笑)。



   ♪大人にも本人にもよう分からん日本文学史書きたり高橋源一郎 茫洋

Thursday, June 04, 2009

続 拝啓鎌倉市長殿

バガテルop101
 
去る5月14日、私は鎌倉市長に次のような要望書を提出したところ、別記のような回答が届けられました。ある程度評価できるに内容もあったものの、納得がいかない点もあったので、再度市長への手紙を書きました。

○5月14日付要望

時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。  さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。  ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。  そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白

○5月28日付回答

明るく住みよい鎌倉をつくるため、いつもあたたかいお力添えをいただき厚くお礼申し上げます。 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。 切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。                平成21年 5月28日 鎌倉市長 石渡德一


○6月5日付再要望

早速の回答ありがとうございました。朝夷奈切通に立て看板を設置して頂けるとのこと、大歓迎です。周辺の環境整備のためにおおいに役立つと思います。しかしながら今回頂戴したコメントのなかに一部理解・納得できない部分がありますので、再度質問と要望をさせていただきたいと存じます。

>鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。

要望その1
市がどこのハイキングコースを外部に紹介されてもそれは結構なのですが、実際には年間2000万人を超える観光客のおよそ半分が「市内全域のハイキング可能路」や7つの切通をどんどん歩いています。それらの人々の安全と安心のために自転車の交通を禁止してほしいというのが私の提案の趣旨です。いっきに即時全面禁止が難しいとしても、できる箇所から段階的に禁止すべきではないでしょうか。

>朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。

要望その2
私は毎日のように朝夷奈切通を散歩していますが、「三郎の滝」から横浜市との峠境に至る朝夷奈切通は、もっぱら観光客のハイキングコースであり、現在「生活道路」としては使用されていません。観光客以外で通行する人は(私が知る限り)存在しません。
「三郎の滝」の右側の十二所果樹園に至る道は風致地区であるにもかかわらずいくつかの土建業者や建築家があいかわらず不法占拠してモノ置き場にしたり農作業を行ったり、モノを燃やしたり、歩行者を顧みない危険な車両運転を繰り返していますが、まさかこの状態を「生活道路」と表現されているのではないでしょうね。
私は十二所果樹園へ安全な歩行を阻害し、周辺の事前環境破壊している彼らは一日も退去し、この際この道を「生活道路」であるという認識を改めて頂くとともに、2輪・4輪の交通も禁止するべきであると考えます。

>切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

要望その3
もとより理解するのにやぶさかではありません。しかし実際にその実情はどうなっているのかご存知ですか? 2輪及び4輪が我が物顔に走り回り、私が前回の投書で述べたような危険がどの切通やハイキングコースでどれくらいあるのか。まずはその実態を歩行者、観光客の身になって調査、観察、把握するべきではないでしょうか。しかるのちに即時全面禁止が無理だとしても可及的速やかに禁止や制限措置をとるべきではないでしょうか。

これらの切通は昔は生活道路でしたが、現在では豊かな自然に恵まれた歴史遺産であり国の指定史跡になっている箇所もたくさんあります。確かに一部が生活道路になっているケースもありますが、それは市や貴職が一部の住民の開発を是認して、自然と環境の破壊に手を貸した結果でもあります。
いっぽうでは市街化や生活道路化に積極的に加担しておいて、他方では環境保全やユネスコの世界遺産指定をめざすという貴殿の政策に大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。まずは地道な市民・観光客の足元の安全対策が肝要と考えます。

あまでうす茫洋敬白


♪当り前のことをとくとくと語る人なりき黒田恭一氏死す享年七十一 茫洋

Wednesday, June 03, 2009

公共広告機構の広告の公共性

茫洋広告戯評第5回

たとえばサントリーが「ダカラ」の広告をするのはなんの不思議はありません。だからといって同じ会社の同じブランドが、「初夜の節電お忘れなく」とか「早寝早起き3文の得」とか「贅沢は敵だ」などというCMを流し始めたら妙なものです。しかし公共広告機構というところがスポンサーになっていろいろ立派なことを説いている一連の広告は、どうもそういううろんさ、いかがわしさを内在しているのではないでしょうか。

なんでも、あのサントリーの佐治さんが、自分の企業の広告だけではなく、たまには各社が拠金して公共的な広告を作ろうではないか、と昔々に発案され、各社の賛同を得て徐々に実施されるようになったのがこの公共広告機構(AC)らしいのですが、「あんまり当たり前のことを言うなよ」、とか「いったい誰が誰に向かってそんなセリフを吐いているんだ」と思われたことはありませんか。

「さすが広告大好きなサントリーさん、拍手喝采万々歳」、という人もいるかもしれませんが、私は私企業はおのれの製品やサービスを手前勝手にPRするのが正則であって、みだりに公共的な広告などに手を染めるのは邪道だと思っています。あくなき金の亡者として更なる売上と利潤の追求に正々堂々と狂奔している企業が、その罪滅ぼしだか義狭心だか知りませんが、急に正義の味方月光仮面面をして、やれ覚せい剤に手を出すな、とか乳がん撲滅だとか貧しい子供に愛の手をとか、とってつけたような正義の味方(味方)をするのはいかがなものでしょうか。

公共広告おける公共性とはいちおう世間が現時点で相当程度支持していると想像される意見や見解に基礎をおいているのでしょうが、よくよく考えてみれば、そうした公共性の基盤は世論の動向によってたえず揺れ動いており、けっして普遍不変の真理というわけではありません。

いま「地球に優しく」とか「子供に愛の手を」などと歯の浮くような愛の言葉をアピールしている公共広告機構が、おなじ公共性の名において、アジア太平洋戦争当時のように、「鬼畜○○撃ちてし止まん燃えろペチカよ火の玉だ」などという「公狂広告」の発信源に豹変する可能性はいつでも存在しているのです。

それでもどうしても「うろんな公共広告」をやりたければ、せめて同業のお仲間とつるむのではなく、1社単独で意見広告を出すなり、ユニセフに協賛するなり、メセナ事業を本気でおやりになったらいいのではないでしょうか。

♪わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人 茫洋

♪余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相 茫洋

公共広告機構の広告の公共性

茫洋広告戯評第5回

たとえばサントリーが「ダカラ」の広告をするのはなんの不思議はありません。だからといって同じ会社の同じブランドが、「初夜の節電お忘れなく」とか「早寝早起き3文の得」とか「贅沢は敵だ」などというCMを流し始めたら妙なものです。しかし公共広告機構というところがスポンサーになっていろいろ立派なことを説いている一連の広告は、どうもそういううろんさ、いかがわしさを内在しているのではないでしょうか。

なんでも、あのサントリーの佐治さんが、自分の企業の広告だけではなく、たまには各社が拠金して公共的な広告を作ろうではないか、と昔々に発案され、各社の賛同を得て徐々に実施されるようになったのがこの公共広告機構(AC)らしいのですが、「あんまり当たり前のことを言うなよ」、とか「いったい誰が誰に向かってそんなセリフを吐いているんだ」と思われたことはありませんか。

「さすが広告大好きなサントリーさん、拍手喝采万々歳」、という人もいるかもしれませんが、私は私企業はおのれの製品やサービスを手前勝手にPRするのが正則であって、みだりに公共的な広告などに手を染めるのは邪道だと思っています。あくなき金の亡者として更なる売上と利潤の追求に正々堂々と狂奔している企業が、その罪滅ぼしだか義狭心だか知りませんが、急に正義の味方月光仮面面をして、やれ覚せい剤に手を出すな、とか乳がん撲滅だとか貧しい子供に愛の手をとか、とってつけたような正義の味方(味方)をするのはいかがなものでしょうか。

公共広告おける公共性とはいちおう世間が現時点で相当程度支持していると想像される意見や見解に基礎をおいているのでしょうが、よくよく考えてみれば、そうした公共性の基盤は世論の動向によってたえず揺れ動いており、けっして普遍不変の真理というわけではありません。

いま「地球に優しく」とか「子供に愛の手を」などと歯の浮くような愛の言葉をアピールしている公共広告機構が、おなじ公共性の名において、アジア太平洋戦争当時のように、「鬼畜○○撃ちてし止まん燃えろペチカよ火の玉だ」などという「公狂広告」の発信源に豹変する可能性はいつでも存在しているのです。

それでもどうしても「うろんな公共広告」をやりたければ、せめて同業のお仲間とつるむのではなく、1社単独で意見広告を出すなり、ユニセフに協賛するなり、メセナ事業を本気でおやりになったらいいのではないでしょうか。

♪わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人 茫洋

♪余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相 茫洋

Tuesday, June 02, 2009

森まゆみ著「女三人のシベリア鉄道」を読んで

照る日曇る日第260回 

「女三人」とは与謝野晶子と中條(宮本)百合子、そして林芙美子です。この有名な文学者が時は異なるけれども同じようにシベリア鉄道に乗ってモスクワ経由でパリまで行きました。そこで著者も同じルートで彼女たちの足跡を、そのそれぞれに目覚ましい果敢な行き方ともども追跡し、あわよくば追体験しようという趣向です。

山川登美子などの強力なライバルを打倒してついに与謝野鉄幹(寛)を略奪した晶子は、歳を追うごとに創作意欲を喪失して作家生命を衰弱させていった夫をよみがえらせるためにパリにやるのですが、今度は夫の不在に耐えられなくなって、たくさんの子供を夫の妹に託して身一つでシベリア鉄道に乗り込みます。ちなみに2人の旅費と滞在費は、すべて晶子が獅子奮迅の奮闘努力で書きまくる原稿料から工面されたのです。

どうしてそんなダメ亭主を忘れられなかったのか、と自問して「寛のセックスが良かったのであろう」と答える著者に、私ははしなくも晶子さんと森まゆみさんとの共通項を見出したような気がいたしました。それは物事をまっすぐに見つめる、正直で、リアルな生活感覚です。

寛恋しさにすべてを投げ捨てて一九一二年の五月にパリに飛んで行った晶子。そのおかげで、ほんのいっときではありましたが、与謝野夫婦はかつての恋人同士の関係にかえり、「第2の青春」を取り戻しました。

ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟

という世紀の絶唱は、そのなによりのあかしではないでしょうか。私はこの句を目にするたびに紅いコクリコの花が咲き乱れる草原を白いパラソルをさした婦人がたたずむモネの絵を思い浮かべます。

そんな晶子のケースよりもっと興味深いのは、一九二七年同性の愛人湯浅芳子と共にシベリア鉄道経由でモスクワに入り、社会主義の創生期に立ち会った中條(宮本)百合子、そしてその四年後の一九三一年に、パリにいる恋人を追って国際的「放浪」の旅に出た林芙美子が繰り広げるさまざまなエピソードですが、その面白さはどうぞ本書を直接手にとって確かめて頂きたいと思います。

なおタイトルでは、「女三人」と謳ってはいますが、実際は著者自身のシベリア鉄道・パリ紀行がかなりの比重を占めていて、実際には「女四人のシベリア鉄道記」といってもよいでしょう。三人の歴史的人物以上に著者の個人的な旅行記録が少々でしゃばりすぎているように感じたのは私だけでしょうか。

♪七人の子供を残し巴里に住む恋しき夫に会いに行く女 茫洋

Monday, June 01, 2009

アジェンデ著「精霊たちの家」を読んで

照る日曇る日第259回 

花も嵐も踏み越えて恩讐の彼方から立ち上がるこの力強い言霊の威力

時代は2つの大戦をはさんで現在まで。舞台は南米最南端の国チリ。持てる者と持たざる者とが決定的な対決を迎えたこの国に、激しく生きた伝説の祖父母、父母、そして孫娘。 この小説の作者を含めた3世代の人々の苛烈な人生を悠揚迫らず描きつくした大河小説です。

緑の髪の乙女ローサを喪った祖父エステーバン・トゥエルバは、不毛の荒地を開拓して緑なす大牧場を一代で築きあげ、ローサの妹クラーラを妻に迎えます。クラーラは幻視者であり未来を予知する不思議な能力を持ち合わせていました。

この2人の祖父母から生まれた母ブランカは根っからの保守主義者トゥエルバとは180度政治的見解を異にする農場の使用人ペドロ・テルセーロと愛し合うようになり、孫娘アルバが生まれますが、彼女の恋人ミゲルもまた左翼の革命家であり、保守派の有力国会議員となった天敵の祖父トゥエルバと折り合いがつくはずがありません。そうこうするうちに南米における社会主義運動が高揚期を迎え、本人もまさかのアジェンデ政権が誕生してしまいます。

右翼や軍隊、警察と連携して左派政権の打倒を画策する祖父。彼の思惑通りについにクーデターが勃発しピノチェト軍事政権が登場するのですが、血と復讐に飢えた狂気のファシストは、アジェンデの支持者たちを徹底的に弾圧し、暴力と拷問、極刑の限りを尽くします。作者の分身アルバが逮捕監禁され、昔祖父が強姦した娘から生まれた孫(警察幹部になっています)によって強姦されるシーンなど思わず目をおおいたくなります。

しかし、その筆致はあくまでも冷静そのもの。作者の叔父が実際に米国の支持を受けたファシストたちによって虐殺されたアジェンデ大統領その人だと聞けば、「どうしてそこまで落ち着きはらっているのかしら」とじれったくもなるのですが、彼女は彼女がみずから語っているように、敵への報復や復讐のために本書を書いたのではなく、政治的な対立を超えて、この小説に登場するすべての人物の「悪魔払いの儀式として、心の中にすみついている亡霊たちを追い払うため」に書いたのです。

花も嵐も踏み越えて恩讐の彼方から立ち上がるこの力強い言霊の威力の前で、私たちは頭を垂れて、とうとうと語り続けられる人間の愚かさと素晴らしさの物語にただ耳を傾けることしかできません。


♪花も嵐も踏み越えて行きつくところまで歩むべし 茫洋

Sunday, May 31, 2009

鎌倉文学館の特別展「有島三兄弟」を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語第186回

鎌倉文学館の「有島三兄弟 それぞれの青春」展をのぞいてきました。

ここはいつも平日はガラガラなのですが、この日は異常な混みようです。聞けば例の新型インフルエンザで遠出できなくなった関東一円の観光客がバラ園のあるこの穴場に殺到したとのこと。あきらめて帰ろうとしたのですが、前回の鎌倉の俳人展と同様結局は見ないままで会期末を迎えることをおそれて強行突破を図ったのでした。余談ながら上野の阿修羅展の馬鹿騒ぎも、これと同じ現象ではないかとふと思った次第です。

さて例によって一階と地下の二か所で飾られている展示物はそれほど多くはありません。有島武郎、生馬、里見弴の三兄弟にまつわる写真や作品や来歴を記したボードなどが要所要所に展示されていて、これらを半時間ほどざっと見物しました。

有島家の兄弟姉妹はたしか全部で五,六人いたはずですが、この三人はいずれも学習院に学び、明治四三年一九一〇年に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄たちと雑誌「白樺」に参加、小説、評論、詩、戯曲、絵画など芸術の造詣が深かったので、「有島芸術三兄弟」と呼ばれていました。

長男の武郎は札幌農学校の教師をやめて一念発起して「カインの末裔」や「生まれ出る悩み」(うまれ「でる」ではなく、「いづる」と読みます。村上某の「列島を出よ」も正しくはこれと同様に「いでよ」と読むべきで、「れっとうをでよ」は奇怪な日本語)で一躍流行作家になりました。彼の代表作「或る女」は北鎌倉の円覚寺で書かれています。若いみそらで中央公論の女性編集者と情死してしまったのは後の太宰と同様大変惜しいことをしましたが、正妻安子との間に名優森雅之が生まれたのはせめてもの慰めでしょうか。

 日本芸術院の保守的な伝統に異を唱え、二科会を興して独自の絵画の道を切り開いたのは次男の生馬。鎌倉市が所蔵している「病児」を見ると師匠の藤島武二や私淑したセザンヌの影響を感じ取ることができます。なお稲村ケ崎にあった彼の洋館は、現在長野県に移転されて有島生馬記念館になっているそうです。

 三男の里見弴は「多情仏心」「安城家の兄弟」「善心悪心」などで知られる作家で、小津安二郎と親しく、彼の依頼で映画化を前提に「彼岸花」を書き下ろしました。鎌倉市内のあちこちを転々としたことでも有名ですが、個人的には彼らよりも弴の「極楽とんぼ」に描かれた三男の隆三に最も興味を覚えます。

それから急いでお目当ての薔薇園に向かったのですが、残念ながらすこし旬を過ぎたところ。しかし腐りはじめた花もなかなか風情があってよいものです。


♪女と薔薇はすこうし腐りかけがよろし 某洋

Saturday, May 30, 2009

西暦2009年茫洋皐月歌日記

♪ある晴れた日に 第58回


春夏秋冬人生宇宙循環す

サムライとおだてられしが異国で討ち死に

両足が伸びたるおたまを池に返す

今年また蛍光りしうれしさよ

春暗し男共皆縞縞背広

妻と子の鼾楽しも春の夜

左後ろ振りさけ見れば左肩根元に走るその痛さかな

いつのまにか遠い世界になりにけりエリック・ロメールの愛の昼下がり
 
よそながらマロニエの花咲きたり麗しきかなマロニエの花

栴檀の薄紫の花も咲きたり八幡参道二の鳥居の辺りに

岐れ道の病院の垣根に咲いている黄色い花の名前は何だろう

この頃は激減したときく雀らを見かけし朝は声をかけてやる

いろいろと死にたき理由はあるらめどこの朝ばかりは飛び込むなかれ

あんじぇらあきってなんじゃらほいあんたのおんがくよおわからん

ビーケーワン書店より鉄人28号に選ばれし恍惚と不安われにあり

ミスター・ロビンソンあなたもフライデーなしには生きられなかった

きらきらと輝く銀のうろこ見せ緑の森に消えし蛇

少女なれどすでに大人の憂いあり母を見上げる愛子さん

なにゆえに男どもみな着ておるのか電車にうごめく縞縞スーツ

男共皆縞縞背広通勤電車捕虜収容所の如し

革命の光は失せて二〇〇年いずこへ消えしや自由平等博愛

珍宝が小さきゆえに取りやめし高校時代の九州旅行

人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと豚どもいきむ

人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと鼻息荒し

善きことも悪しきこともみなつながれり豚から人へ人から人へ

太平洋の彼方から吹く豚の毒人への恨みいまこそ晴らさむ

戦争を構える理由は多々あれど止める理由はただ一つしかなし

てめえ死ねと豪速球で投げつけるチョーク当たりしはわが前歯なりき

連休の朝から楓を切っている隣の主婦を激しく憎む

青々と茂りし楓の木と枝を大刀洗川にそのまま捨てたり

朝比奈の峠の上の浦島草に小便掛けし憲法記念日

朝比奈の峠の上のウグイスが貯金貯金と鳴いていました

こんにちはと誰もが挨拶交わし合う朝比奈峠を行き来する人

虫は嫌いとおっしゃるけれど美枝子さんそれはアカタテハの幼虫ですよ

黄金の大判小判の隙間からまたしてもこぼれおちるほんたうの幸福


 ♪あじけなしバーンスタインのハイドンを聴く日曜日  茫洋

Friday, May 29, 2009

葉山「日影茶屋」と新宿「大戸屋」のランチを比較して飲食業のサービスについて考える

バガテルop100

雨の金曜日、横須賀の素晴らしい歯医者さんで定期健診をして頂いてから葉山海岸沿いに建つ日影茶屋で遅めのランチをとりました。

ここはその昔伊藤野枝さんに恋人を奪われた神近市子さんが、恋に狂って大杉栄氏を刺した現場として有名ですが、当時は現在のような料亭ではなく、日本旅館として営業していたようです。
 
私が案内されたのは新館でしたが、大杉氏が刺されたのはその隣の旧館の2階だといいます。きっと恋びと同士がよろしくやっている最中にドスを呑んだ女一匹が殴り込みをかけたのでしょう。恋などと言うとなにやら優雅に聞こえますが、恋は気狂いと病気に紙一重ですから、すぐに刃傷沙汰になってしまうのです。くわばら、くわばら。

日影茶屋には眺めの良い庭があり、品のよさ気な女の店員が大勢いますが、全員きれいな着物をまとっています。ランセットはいちばん安いのが3千5、6百円くらいの弁当なので、「ルンペンプロレタリアートには少し高いなあ」と思いつつそれを頼みました。
さすがに有名なお店らしく冷たい茶碗蒸しなど結構なお味です。四点くらいの各種お惣菜をどんどんかたづけ、そろそろ食べ終わろうかという頃に、なぜかお椀が出ていないことに気付きました。

きれいなオベベをお召しになったお嬢さんに「お吸い物はついていないの」と尋ねるとさっと顔色を変えて「大変申し訳ございません。すぐにお持ちします」と答えてから調理場に飛んで行きました。ど忘れしていたのですね。上司の女将さんもすぐにやってきて丁重に詫びるのですが、とかく食い物の恨みは恐ろしい。「お前たちはいったいどういう仕事をしているのだ、サービスをどういうものだと心得ているのだ」とせっかくの料理の味はもはやけし飛んで「後味が悪い」というのはこういうことかと思いいたった次第でした。

そこで思い出したのは、新宿スバルビル内の「大戸屋」のランチのことでした。あちらの3千何00円に比べてこちらはたったの620円。味も格式も違います。しかしここ大戸屋では、少なくとも日影茶屋のように不愉快な目に遭ったことなぞ一度もありません。

レジに寄って最初にお金を払うと、レジの担当者が、「どこでもお好きなところにお座りください」と言います。それで空いている座席を探して勝手にどこかに座っていると、すぐさま店員が水を持ってきます。(席まで案内されることもありますが)
さらにしばらく待っていると、頼んだメニューをたがえずに店員が席まで持ってきます。
どんなに混んでいてもこのやり方に破綻がない。お客の顔と席とメニューをどのようにお互いに確認しているのか不可思議です。

さらに驚くべきことは、ランチが終わりに近づいたちょうどその頃に、別の店員がお茶を持ってくるのです。最近は水だけで済ます店が多いなか、これはちょっとうれしいサービスです。味はそりゃあ一流料亭のそれではありませんが、ここの調理の基本は「普通の家庭料理」なのでいわば希少価値があります。喫煙客が猛毒を流している居酒屋や普通のレストランよりも清潔でおいしい。とくに野菜が新鮮です。

以上長々と書きましたが、名門日影茶屋の、飲食の基本が欠落している豪華ランチと安近単の大戸屋のサービスと、いったいどちらが上かは言うまでもないでしょう。それにそもそも日影茶屋の仲居さんには、大戸屋の基本動作さえ実行できないでしょう。
いつでもおいしく感じがよく、「また来よう」と素直に思えるカジュアル店と、「こんなとこ2度と来てやるものか」と思ってしまう名門店と、その星の差はあまりにも大きいと言わざるを得ません。

♪グルメなどと偉そうにほざくなかれ当り前の料理を当たり前に出せ 茫洋

Thursday, May 28, 2009

花咲地蔵と花咲爺

鎌倉ちょっと不思議な物語第185回

ここは大町の山から下りてきた一角で花を飾られた小さな地蔵尊があります。

鎌倉時代から室町中期まで、この谷に足利直冬が祖先の菩提を弔うために建立した慈恩寺がありました。その直冬の法号にちなんだ慈恩寺ですが、禅宗系の寺であるか否かはまだ識者の間で議論が続いているようですが、それはともかく、直冬が境内に四季折々の花々が絶えないようにしたためにこのあたりは現在も花ヶ谷と呼ばれています。

まことに風流なお寺もあったものです。ここは海浜にも近く、うっそうと茂った木々の間に7層の塔をのぞむ素晴らしい景観だったことでしょう。足利直冬は花咲爺でありました。

ところで直冬は足利尊氏の子ですが、側室の子であったために認知されず、僧になっていました。後に尊氏の弟、直義の養子になり、長門探題に任命されましたが、実父の尊氏と対立して挙兵し、その後は九州に逃れて南朝側の武将として室町幕府に抵抗し、嘉慶元年1387年に亡くなったと伝えられていますが詳細は詳らかではありません。

以上、おなじみの「鎌倉廃寺事典」と鎌倉ガイド協会の資料からの引用でお茶を濁しました。


春夏秋冬人生宇宙循環す 茫洋

Wednesday, May 27, 2009

「大切岸」を望む

「大切岸」を望む

鎌倉ちょっと不思議な物語第184回

法性寺のすぐ近くには逗子側に屏風のように立ちはだかっている垂直に削られた崖があり、「おおきりぎし」と呼ばれています。この崖は鎌倉の覇権を確立した北条氏が三浦半島を拠点とする三浦市の侵入を防ぐ目的で築かれた防御施設であると伝えられています。

現在ではおよそ800mほどしか残っていませんが、北東部はわたしの住んでいるところから、西南方面は住吉城跡まで続いていたといわれています。切岸と平場は2から3段のひな壇状に造られているところもあります。

崖の高さは3から5mで場所によっては10mの絶壁を構えているところもあります。今は個人の所有地(畑)となりましたが、昔の面影は十分に残っています。また切岸上の尾根道は鎌倉城外郭防衛道で鎌倉入口守備隊への物資補給路であったとか浄妙寺に通じる道であったとかいろいろいわれているようです。

ただこの大切岸は本当に防衛遺構なのかというと、それを裏ずける資料はなにもありません。防衛遺構説以前は海蝕による崖岩が隆起したものと唱えられ、現在では石切り場の跡の可能性があるとも説かれ、要するになにがなにやらよく分からないという鎌倉ちょっと不思議な場所なのです。(鎌倉ガイド協会の資料から引用)

♪サムライとおだてられしが異国で討ち死に 茫洋

Tuesday, May 26, 2009

法性寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第183回

このお寺はじつは私の家から直線距離にすればそれほど遠くありません。鎌倉逗子ハイランドの坂道を下って、横須賀線の線路にぶつかった右側に馬頭観音があり、そこが入口になっているのです。ところがこの日は海側からではなく、山側の名越切通から尾根伝いに接近したものでから、すっかり土地勘が狂ってしまいました。

以下例によって鎌倉ガイド協会の資料をほぼ丸写しいたしましょう。猿畠山法性寺はなぜだか猿の字が冠されていますが、それは前にも触れましたように、文応元年1260年、松葉ヶ谷の法難の際に、日蓮さんが名越の尾根から尾根へと逃げられたのですが、そのとき山頂にある山王権現の使いとも言われている3匹の白猿が、上人をこの法性寺の祖師堂の横にある岩窟に案内したので、日蓮さんはしばらくこの岩屋で難を避けていたと伝えられています。そして現在その場所には朗慶作と伝えられる五輪塔が安置されているのです。

後日日蓮は、これも山王権現の加護のおかげであると言ってこの地に一寺を建立して恩に報いよと弟子の日朗に命じられ、その弟子の朗慶がこの法性寺の開基となりました。

ところで日朗は晩年東京の池上本門寺に隠棲していましたが、入寂の際に幼少の砌に遊んだ懐かしい猿畠山に戻りたいと遺言したので、朗慶の手で安国論寺で荼毘に付されたのち、法性寺の山頂の四面堂に納骨されました。

現在ではこの一帯に猿は見かけませんが、鎌倉時代にはたくさん棲息していたのでしょう。

♪左後ろ振りさけ見れば左肩根元に走る痛さかな 茫洋

Monday, May 25, 2009

5万円パソコンの意義

茫洋広告戯評第4回

昨日と同じ新宿西口広場をどこかでフォーク集会でもやっていないかなとねぼけ眼で探していたら、台湾のパソコンメーカーの「パソコンは5万円で買う時代」という広告が目に入りました。やたらグリコにおまけをつけて10万、20万で売り出すのではなくて、メールやネットなど必要最小限の機能だけでグリコを安く買いましょう、という提案です。

アスース、エイサーなどがはずみをつけたこの格安ネットブックは米国のHPやデル、日本勢も追随するところとなり、ビックカメラなどの家電量販店のパソコン売り場の最前列に並んでいますが、こういう新参者の乱入を許したのはパソコンメーカーと米マイクロソフト社の多機能高付加価値製品を高価格で販売しようとする醜い商魂でしょう。

車も洋服も低価格中品質を求める消費者のニーズに懸命に対応しようとしているのに、彼らは「早い、安い、うまい」ならぬ、「遅い、高い、まずい」製品をあくまでも売りつけようとしていました。とりわけひどいのは米マイクロソフト社の現行OS、ビスタです。不要不急の機能をてんこもりにつけて、運用速度をめちゃめちゃに遅くしてしまい、それを消費者に対するサービスと考えているこの世界的大企業に対する反発が今回の格安ネットブックブームの根源に隠されているのではないでしょうか。

彼らはこの失敗を反省して新しい改訂版ソフトを年内に発売するそうですが、「大男総身に知恵が回りかね」とはよく言ったもの。ソニーのプレステが任天堂に苦杯をなめたように、とかく巨大化した企業は消費者のちょっとした心根をくみ取ることに失敗して逆、その存在理由をいつのまにか掘り崩してしまうことを深く自戒せねばなりません。


実際に5万円パソコンを使ってみるとこれが意外に使いづらく、これならもう少し割高でも多機能なノートが欲しいと思うはずで、現に市場はその方向に動きつつありますが、ともかく一寸先は真っ暗闇のビジネス戦線であります。

少女なれどすでに大人の憂いあり母を見上げる愛子さん 茫洋

ロバート・デ・ニーロと「レガシー」

茫洋広告戯評第3回

今日もまたくたびれ果てて新宿西口の交番を左折してまっすぐスバルビルに向かってよたよた歩いていると、これまたくたびれ果ててぐちゃぐちゃになった中年男の顔とぶつかりました。大きな柱を巻くようにして、だから柱巻といわれている電飾広告です。

 これはもしかして私の大好きなデニス・ホッパーかと思って近づいてよーく眺めたらロバート・デ・ニーロでした。富士重工のレガシーの新車のキャラクターとしてテレビCMや新聞、雑誌、ポスターなどに登場しているのです。

テレビCMはスタンリー・キューブリックの映画「シャイニング」の冒頭でジャック・ニコルソンが運転していたローキー山脈の断崖絶壁のシーンに似ていて、(もしかすると完全なパクリ?)そういえば同じレガシーが以前たしかメル・ギブソンを起用していた際にも、同工異曲のCMを製作していたことを思い出しました。

今回スバルではなんでも2名の有名監督を起用したそうで、この不景気にもめげず恐らくは大枚を投じて撮影されたと想像するのですが、前に述べた2つの演出に比べるとあきらかに劣りますし、それよりもこういう車にはこういうタレントを使ってこういう場所を走らせるのだ、という発想そのものが陳腐で、宣伝屋の浅知恵にはまるで進歩がないことを証明しているようでもあります。

自動車の世界もデトロイトが沈没し、国産勢もそのあおりを受ける中で、かろうじてトヨタとホンダのハイブリッド車だけが気を吐いている今日この頃、この会社のこの車のこの広告はとても現実離れしたドン・キホーテ的なもので、私はその「かつての栄光よもう一度」と黄昏の夕日に向かって寂しく呟く孤独な後ろ姿が大いに気に入りました。


♪両足が伸びたるおたまを池に返す 茫洋