照る日曇る日第287回
端倪すべからざる作家とは橋本治というような人物をいうのでしょう。「ドラマというのはドラマとして存在するものではなくて、風景そのものの中に存在するこのなんじゃないか」ということだけを言いたくて始まったこの「行雲流水録」のなかには、愚かにも私が知らなかった叡智に満ちた幾多の箴言が珠玉の如く鏤められていて、しばし瞠目させられます。
著者は、小津の映画では汚いはずの昭和の日常が「嫌なものがなに一つない」映像として切り取られていて、別段どうということもないドラマが、その隙間に突如として挿入される丸の内のビルや土手の上の青空などの「実景」の永久不滅の美しさによって昇華されていること、またアンゲロプロスの映画における「風景こそが主役だ」と思わせるヨルゴス・アルヴァニティスのカメラの素晴らしさについて具体的に指摘します。
そして、「目に見える風景の向こうにはなにかがある。あらねばならない。耳に聞こえる音の向こうにもなにかがある。それがなければなんでもない。技法というのはそういうものを実現させよう、実現させなければなんでもないと思う、その意志のことかもしれない」と結ぶ時、私たちは彼の作家としての志を親しく解き明かされたような気持になるのです。
そのほか、彼が谷崎潤一郎を師と仰ぎ、師匠と同じくすべての小説を異なるテーマと語法で書き分けてきたこと、「窯変源氏物語」のテーマが、光源氏を主人公とする「小説による小説の小説化」であるという注釈も興味深いものがありましたが、とりわけ彼の創造の源泉は、歌舞伎の命がけの舞台のすごさを、歌舞伎以外の世界で再現して「恩返し」をしてみたいと思ったことにある、という告白に深い共感を覚えました。
「菅原伝授手習鑑」の寺子屋で、松王丸が「桜丸が不憫でござる」と言って「源蔵殿、御免下され」と大泣きをするシーン、その「不条理の悔しさ」に「己の悔しさ」を見て、その悔しさをじっと我慢し続けることにこそ、この作家の発条の基軸があったのです。
♪投じたるすべての票が死なざりき 茫洋
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