Saturday, December 30, 2006

2006年最後のメッセージ

ふあっちょん幻論 第4回


これからブランド・デザインやアパレル・ビジネスの世界に挑戦しようとする人にとって重要なのは「じぶんの志を持つ」ということではないでしょうか。

というのは、世の中に存在する数多くのブランドが、定見にない数多くの人々が少しずつ参加することによって当初は存在した志=主張=存在理由=ブランドコンセプトを雲散霧消させたわけのわからない異様な代物だからです。

私はこれからじぶんの志を持った大小無数の個性的なインデーズ・ブランドがどんどん登場することによって、現在のファッション界の「見せ掛けの飽和状態」と世界の中の「ジャパンブランドの沈滞現象」を打破できるのではないかと心から期待しております。

以前、ムラカミタカシを引き合いに出して成功のお手本にせよといいましたが、すべての若者がムラカミタカシになれるわけではありません。

一人のムラカミタカシの足元には100人、1000人、10000人のムラカミタカシになれなかった人々が累々と横たわっているのです。

しかし最大の勝者になれなかった創造者にも十分に存在価値はあります。また長期にわたるマッチレースにおいてかつての勝者が一瞬にして1敗地にまみれる光景を私たちは何度も見てきました。

「いかにしてファッションでお金儲けするか」とか「いかにして売れる商品を企画し、生産し、販売するのか」

というところからこのブランド作りにアプローチするのではなく、

「自分はどんなファッションを創造したいのか」「自分にはファッションなんて必要なのか」「自分は何のために、誰のためにファッションを企画し、生産し、販売するのか」

という風に、最初の問題を立ち上げてほしいのです。


「絶対売れる商品を開発するんだ」などと称して外国直伝の科学的なマーケティング調査だの超現代的なマーケティング理論を振りかざして登場したブランドの大半が三年以内に絶滅しています。

「じぶんの考えや理想をぜんぶ犠牲にしても、ともかく売れればいいんだ」という悲壮な決意の元で立ち上げたブランドが、売れるどころか在庫の山を築きあげている現状をみれば、むしろその自分独自の考えや理想を鋭く磨き上げる道を、たとえ困難ではあっても選ぶべきではないでしょうか。


毎日のように生まれ、そして死んでいく数多くのブランドたちの中で、この問題意識を本気で内部に抱え込んだファションはほんとうに数少ないのです。


そして世の中に増殖する腐敗し堕落した“あほばかブランド”を、皆さんの手で完膚なきまでに打倒してください。“ふぁっちょんもびじねす”もいまさらながら革命を必要としています。

そういえば中国の悪名高い、しかし偉大な革命家である毛沢東が、「若いこと、貧乏なこと、無名であること、の3つがなければ革命はできない」と名言を吐いていますが、これは時代と国境を超えて正しい。私はさらにもうひとつ「頑強な体力」を付け加えたいと思います。
 (ここから絶叫!) 若者は、午前10時の太陽です。(これも毛沢東の言葉)。
若い皆さんにはいまだけジコチュウなのではなく、死ぬまでジコチュウを貫いてほしいのです。

不肖私はこの業界で長らく悪あがきしながらほとんど何も寄与できず、間もなくくたばりますが、君たちはどうか「全世界を獲得するために」ぐあんばってくれたまえ。

Friday, December 29, 2006

Hの終わり

ふあっちょん幻論 第3回


時代はHからWに向かってゆるやかに推移し、歴史は大きな結節点を迎えようとしています。

HOWを主題とする産業の代表選手は、たとえば電通や博報堂などの広告代理店です。彼らは政府・政党・自治体などに依頼されて、「絶対に負けない、絶対に効果のあるキャンペーン」なるものを展開しますが、賢い消費者に対してかつてそんなものが1度でも成功したことがあるのでしょうか?

また彼らは民間企業に対して莫大な金額を使った市場調査や最新の学説に依拠した超現代的なマーケティング手法を提案してくれますが、果たしてそんな代物がファッションをはじめとする企業の売り上げに少しでも貢献したことがあるのでしょうか。
非常に疑問です。

ファッション業界においても、過去20年間にわたってHOWを主題とするマーケティング手法や学識者やひょーろん家がえらそうなりろんを唱えてきましたが、結局それらは経済ひょーろん家や文芸ひょーろん家とまったく同じ運命をたどることになってしまいました。(いくら評論・批評しようとまったく肝心の経済や文学や演劇や音楽そのものの動向に影響を与えることができない大多数の言論商売の人々を指す)

これに付随するのが、まず主部や主語を明確に語ろうとせず、それらを巧みに隠蔽して述語や修辞をもてあそぼうとする隠微でHな服飾文化の行き詰まりです。

主張も思想もなく、隣人や先行者や外国人の生産物をただ模写したり、文脈への配慮や注釈もなしに盗用的に引用するような手法の破産です。

半世紀近くも前の時代に、発展途上国の異邦人という立場からこのクラシックな業界に参入した諸先輩は、いかにして売れる服を作ろうかと考えたのではなく、既存の世界には絶対に存在しない服を作ろうと考えたのではないでしょうか?

不定形のHOWからではなく、WHATという始原の星雲状態から暴力的に出発したのではなかったのでしょうか?

アパレル・ビジネス業界の全域に及んできたHの終焉を見つめながら、私たちは古くて新しいWの創造の波を形成しなければならないのではないでしょうか?

Thursday, December 28, 2006

朝比奈峠往還

鎌倉ちょっと不思議な物語26回


今日も朝比奈峠を登る。

心臓破りの丘では冠雪した富士山が、熊野神社の向うには東京湾が見えた。

はるか彼方の風景は、過去の時間と接続していて、いつも遠い昔の記憶を呼び覚ます。

20億光年の彼方にまたたく遠い星を眺めた夜のように。

そうしてそれらの映像の奥底には、かつて訪れた土地とそこに住む懐かしい人々の思い出がはかなげに漂っている。

素早く逃れる耕君に追いつこうと朝比奈峠の頂上を過ぎたとき、

またしても私はこの世からあの世への境界を跨いだのであった。

ここに中世国立墓地があった

鎌倉ちょっと不思議な物語25回


昔シロツメクサ咲くこの野原で、耕君、健君、ムクたちと遊んだり、四つ葉のクローバーを探したものです。

ところが数年前にくそったれ土建屋の手であほばかマンションが建つというので、例によって市の発掘調査が行われた結果、なんとここが鎌倉時代の最大の葬儀センターであったという事実が判明しました。

つまり前回紹介した鎌倉時代のエリートたちを矢倉(やぐら)に埋葬する前に、この焼き場で僧侶が盛大に慰霊してから骨を焼いたのです。

ですからわが太刀洗周辺は、地区全体が死者をこの世からあの世に送る聖なる場所であり、鎌倉幕府いや中世最大の死者慰霊センターであったのです。

近い将来には市、県、国が資金を出し合って中世国立墓地を記念する遺跡公園にするという計画が発表されましたが、いまはこのように閉鎖され雑草が生い茂っています。

この世でもっとも貴重なものは、汚れなき魂と人に見捨てられたくさっぱら。

なので、できたら頑張って世界遺産などに登録もしないで、間もなく人類が滅びるまでこのままにしておいてほしいのですが…。

ダメ?

Wednesday, December 27, 2006

隠し砦の埋蔵金

鎌倉ちょっと不思議な物語24回


鎌倉時代の貴族や武将などのエリートが死ぬと、火葬されたあとで山麓の鎌倉石を切り開いた直方体の空間に葬られました。それが「矢倉(やぐら)」です。

エリート以外の一般大衆はというと、たとえ死んでも狭い鎌倉でそんな贅沢は許されないのでそのまま山野に遺棄されるか、海岸の砂の下に埋められました。

鎌倉には無数の矢倉がありますが、昔から我が家の近所の矢倉の中のどこかに大量の埋蔵金が隠されているという噂があります。

そこで、何を隠そうこの私も、雨が降っても、槍が降っても、また昨日のように大風が吹いても、およそ30年以上にわたってこの辺で毎日のように黄金探しを続けているのですが、どっこいそう簡単に見つかるものではありません。

写真はすでにうちの健ちゃんとムクが捜索済みの矢倉ですが、残念ながらこの立派な矢倉には埋蔵金はありませんでした。

しかしこの矢倉は幕府から六浦港に至る交通の要所に位置しているうえに、小高い丘の上にあったために、おそらく幕府の兵隊が常駐して警戒に当たっていた隠し砦であったと思われます。

ちなみに当時の兵士は刀と弓で武装していましたが、彼らは長弓の名人ぞろいでおよそ100メートルの距離からの命中率は9割以上であったそうです。

Tuesday, December 26, 2006

「元禄忠臣蔵」千秋楽を観る

「元禄忠臣蔵」千秋楽を観る

これは江戸時代の仮名手本忠臣蔵ではない。

真山青果(尾崎紅葉の高弟、小栗風葉の弟子)が昭和に入ってから書いた近現代版の忠臣蔵である。(岩波文庫で全3冊です)

歌舞伎の楽しさは、踊りと音楽とセリフの入ったお芝居(演劇)の三要素のアマルガムにあるのに、この元禄忠臣蔵には最後のものしか用意されていないからつまらない。

歌舞伎の本質である「慰霊」はあっても、「カブく」や「ケレン」や夢幻性がないから、物足りない。歌舞伎18番などの古典とは違って、新派歌舞伎、いや新劇歌舞伎なのである。


しかし坪内逍遥、築地小劇場以来のリアリズムの表現が脚本の底流にあって、そのコンテキストでいわば歌舞伎を本歌取りしているから、大石内蔵助や堀部安兵衛や磯貝十郎左衛門など個人の思想や苦悩がイプセン劇のように浮き彫りになる。
内蔵助にいたっては、討ち入りの理由は幕府への反抗ではなく浅野内匠頭のうらみをはらすことだけだ、まるでブルータスのように演説したりする。

だから役者のセリフが生命である。そこが青果の苦心であった。

そして国立劇場創立40周年記念3ヶ月連続公演「元禄忠臣蔵」は、松本幸四郎の内蔵助の、「これで初一念が届きました」の胸をえぐるような一言で、全編の大団円を告げるのであった。

Monday, December 25, 2006

野にWHATを叫ぶ者

ふあっちょん幻論 第2回

 
今年90歳になる文化服装学院元学長の小池千枝さんが六本木ヒルズでファッションショーを開催されたそうです。小池は、今も昔もファッションとは世のため、人のために服を作ることであると考えておられます。

小池さんなどの薫陶を受けた60年代から70年代までのクリエーターたちの多くが、心の奥底で、WHATやWHYを抱え込んでいました。何のために、なぜファッションをやるのか、という内的な衝動です。

例えばオーダーメイドを卒業して誰にも着られる安価な既製服を作ろうとか、日本人ならではの感性を生かしたプレタポルテを作って世界のブルジョワをびっくりさせてやろうとか、フォーマルウエアが全盛なので思いっきりカラフルなカジュアルを提案しよう、というおのれを起動させる動機のことです。
彼らはこのような非常に単純明快な旗印を掲げて当時の欧米市場に殴り込みをかけ、見事に成功しました。

これはかつて大崎の町工場で誕生した東通工(現ソニー)が世界一小さなトランジスターラジオを作ってやろうと野望を抱いて、そのあとで懸命に無謀なその夢を実現していった軌跡(奇跡)に少し似ているような気もします。

けれども現在ファッションに携わるクリエーターの多くが、いかに大量の商品をいかに効率よく消費者に売り込むか、という巨大なグローバルメカニズムの1つの小さな歯車や部品の役割に甘んじています。

つまりHOWの世界です。

アレキサンダーマックイーンや川久保玲はともかく、トムフォードやカール・ラガーフェルドなどは完璧にHOWの世界で生きています。

これはソニーやトヨタなどの大企業において消費者起点の企画、生産、販売、広告宣伝の円環をいかに無駄や無理なく回転させるかが最大のテーマとなり、その課題に最適の解を出すために、ヒト、モノ、カネを惜しみなく投入している状況に対応しています。

このように時代はWHATやWHYから完全にHOWのモードに切り替わって久しいのですが、いっけん最高に進化し、時代の先端を走っているように見える、このHOWを主題とするハイテクグローバルマーチャンダイジングに問題はないのでしょうか?

よく観察してみると、HOWに生きる人は狭い蛸壺に生きる人です。

口ではグローバルを叫びながらも古い経験と規範に固執し、流動する生命現象を直観する原始的な能力を失い、死体を解剖してその断片を顕微鏡で観察し、データをパッチワークすることが創造だと勘違いしていることが多いのです。

そういうミクロの決死圏に生きる人が世界中のあらゆる業界で大繁盛していますが、彼らが主導する経営はいたるところでその推進力を失って根幹部分で破綻し、市場における売り上げ目標の達成はおろか、その創造の担い手たちにわずかな労働のよろこびを提供することにすら失敗し続けているような気がします。

他の産業はいざしらず、HOWの専門家たちの重要性と価値観は、少なくともこれからのクリエイティブデザイン、アパレル業界では急速に減退していくのではないでしょうか?

そして再び大声でWHATやWHYを問う人や骨太に考える人、の登場が待たれているのではないでしょうか?

Sunday, December 24, 2006

銀座通りには峠の茶屋があった

鎌倉ちょっと不思議な物語23回

やっと今月最後の、そして今年最後の仕事が終ったぞお!

メリークリスマス! そして、さよならディープインパクト!

さて今日も耕君と登った朝比奈峠の頂上には、山腹の鎌倉石を切り取って作られた空間があります。

鎌倉ちょっと不思議な物語第21回で紹介した「まがい物の磨崖仏」のちょうど対角線の位置ですが、ここに明治時代の末頃まで峠の茶屋がありました。

茶屋にはとてもきれいな若い女性がいたので、彼女をお目当てにして峠を上り下りする旅人が跡をたたなかったそうです。

三代将軍の実朝も、追放された日蓮も、この鎌倉時代の銀座通りを通って、麓の六浦の港まで降りていったのでした。

Saturday, December 23, 2006

あなたと私のアホリズム その3

♪ 眼には眼を、歌には歌を

「バカの壁」の養老先生が、
「音楽家は言葉にできないことだけを音楽で語った。だから我々はその音楽について言葉で語っても仕方がない」
と、語っていた。
なるほど、それもそうだな、と思った私は、
モーツアルトの「レクイエム」を聴いたあとで、K618の「アベヴェ・ベルム・コルプス」を小さな声で歌った。


♪ カフカのアフォリズムより(池内紀訳)


1)誰一人として自分の精神的な人生の可能性以上のものをつくり出せない。食べること、着るもの、その他もろもろのために働いているように見えるが、それは二の次のことであって、目に見える1着の衣類ごとに目に見えない1着を身につけている。これが人であることのしるしというものだ。あと追い式に存在を築いているかのようだが、それは心理的な鏡(かがみ)文字のようなもの、人はまさに自分の存在の上に人生を建てている。いずれにせよ誰もが自分の人生を(あるいは同じことだが死を)正当化できなくてはならず、この課題から逃れられない。

2)お前とこの世の戦いにおいては、この世に肩入れをせよ。(この世の側に立て。)


私のアホリズムでは、とうてい過負荷のアフォリズムには勝てませんて。

Friday, December 22, 2006

九本桜土俵入り

九本桜土俵入り

鎌倉ちょっと不思議な物語22回


太刀洗には、なぜか枝分かれした樹木が多い。

これは根本から九つの枝に分岐した山桜で、春には白い小さな花弁をはらはらと散らせてくれる。

この桜の下を2002年に死んだムクとよく散歩したものだ。
 
だんだん寒くなってくるけれど、らいねんの春もどうか無事に君の花を眺めたいものだ。

九本刀で土俵入りする横綱には到底かなわないけれど、近くには八本、七本大関も両腕を広げて立っている。

Thursday, December 21, 2006

まがいの磨崖仏

鎌倉ちょっと不思議な物語21回


この磨崖仏のようなものは、朝比奈峠の頂上、鎌倉市と横浜市の境界線のすぐ傍にあります。

磨崖仏ではなく磨崖仏のようなもの、と書いたのは、これは昭和30年代に横須賀市のあるおじいさんが、自分で勝手にここで刻んだものだからです。

ところが驚いたことに、そんなことも知らないでこれが鎌倉時代や室町時代に作られた、などと、もっともらしく記述するガイドブックが最近登場したようです。

でも、よく見ると、いかにも仏様らしい、もっともらしい表情をしていますね。

Wednesday, December 20, 2006

クリスマスとジェーン・バーキン

クリスマスが近づいてくると、私の家ではちょっと贅沢な飾りものを玄関につるす長年の習慣がある。

これは1986年の初冬にフランスのジェーン・バーキンという女優さんが私の家族にプレゼントしてくれた。帝国ホテルに泊まっていた彼女が、お向かいの日比谷花壇で買い求めてくれたものである。

当時の彼女のご主人は映画監督のジャック・ドワイヨンで、バーキンはなぜだかドワイヨンと一緒に来日した。

彼女は肌身離さずからし色をしてちょっと汚れた大きなバッグを持ち歩いていたが、あとから考えてみると、これが有名な例のエルメスのバーキンの第1号なのだった。

その年、ジェーン・バーキンはテレビCMの制作でやってきたのだけれど、私はバーキンよりもまずドワイヨンの人柄に惹かれ、この人がいったい何者であるか(実際はかなり有名で実力のある映画監督でした)なんて全然知らないままに仲良くなった。

私が住んでいる鎌倉までやってきた2人を、十二所のおばあちゃんの家に案内すると、「これが日本人の普通の生活なんだ」と、とても喜んでいた。


それから大仏と長谷観音を見物したっけ…。家内がカローラを駐車場から回してくるのを光則寺で待っていたら、バーキンが鳥かごのカナリアに指を差し伸べながらなにか歌を歌っていたので、「ああ、この人はこういう人か」と思っていたら、突然、「日本で火葬が始まったのはいつごろか」とか、「どうして火葬にするの」などと矢継ぎ早に聞かれてうろたえたことを、いま思い出した。

それから以前田中絹代が住んでいた鎌倉山の日本料理屋に行って4人で昼ごはんを食べた。ところが最近この広大な庭と素晴らしい眺望を誇る和風建築が取り壊されて、あの、みのもんた氏の豪邸に変身するという。

CMの撮影は京都の大沢の池などで行われたが、そのロケの弁当のおかずにどういうわけか巨大なザリガニが出た。私はこんな不気味なものが食えるもんかとあきれ果てて食べなかったが、バーキンがミック・ジャガーのような大きな口でバリバリと食らいつくのをみてたまげた。

無事に撮影が終了して最後に有楽町のいまはなくなったツタの茂るフランス料理のレストランに行った。入り口で彼女のお得意のジーンズ姿を一瞥した店の主人が、「うちはちゃんとした服装のお客様でないとお断りしています」とぬかして来店を拒否したのも懐かしい思い出。どうして断られたのか全然分からないジェーンを引っ張って隣の普通の料理屋に入りてんぷらとウナギとすき焼きを腹いっぱい食べて別れたのだった。

それからもジェーンは毎年のように来日しているようだが、あれ以来会わない。あんなに素敵なカップルだったのにドワイヨンとはとっくに別れたそうだ。

Tuesday, December 19, 2006

ふあっちょん幻論 第1回

ファッションビジネスの混迷と停滞

私はながらく日本のアパレルメーカーに勤務していましたが、残念ながら視野が狭くて、世界の中の日本ブランドという意識が欠落していました。

社内でトップの売り上げを達成しようとか、国内でナンバーワンになろうとかは考えていましたが、本気で欧米のトップブランドに勝とうなどと思ってはいませんでした。  70年代までにわが国では(若者はいざしらず)大人が満足できるそれなりの国産衣料品や雑貨は都会の百貨店へいけばおおかた入手できました。  ところが80年代になると、国内企業が国内の消費者のウオンツを的確に把握することができなくなり、その間に海外勢力が怒涛のように侵入してきたのです。  それからさらに20年。気がつけば高級品は外資系のラグジュアリーブランドに、実用品は中国からの輸入ブランドに席巻されています。

そしてこのことは識者によって60年代から予見されていたにもかかわらず、結局現在もきちんと対抗対策の手が打たれているとはいえません。  かろうじて2年前から東京コレクションの強化とかクールビズの立ち上げなど政府主導型のアパレル振興政策が打ち出されてきましたが、ほんとに必要なのは、そういう「上からの改革」ではなく、アパレル産業関係者自身による民間主導型の「下からの改革」ではないでしょうか?  では各人が各自の立場でどうしたらいいのか? それが問題です。  私は若い世代の人々が自分流に満足できる個性的なブランドを立ち上げ、国内のみならず世界市場にどんどん進出することを心から希望し、期待するものですが、そのためには我々が30年間にわたって失敗しつづけてきた旧世代の既存のやり方をよく研究し、その批判的な検討のうえに立って再度国際競争の最前線に出ていってほしいと思うのです。  具体的にここでその方法論を述べるつもりも余地もありませんが、最近アーチストの村上隆氏が書いた「芸術起業論」がこの問題を考える上で参考になると思われます。  村上隆氏は、「芸術家は世界の本場で勝負しなければならない」と説き、そのための道のりを、1)まずは本場の欧米で認められる。2)次に欧米の権威を笠にきて日本人の好みにあわせた作品を逆輸入する、3)そしてもういちど芸術の本場に自分の持ち味を理解してもらえるように伝える。
の3段階を想定しました。  そして「スーパーフラット展」でアメリカに認められ日本で作品を展開し、05年の「リトルボーイ展」でほんらいの自分の思うリアリティを表現できた、と3段階戦略の成功を総括しています。(同書113p)  しかしそこに至るまでは食うや食わずの悲惨な貧困と努力の生活が何年も続いたわけですが、やはり今日の村上隆を作り上げた最大の要因は、こういう戦略を自分に課し、それを懸命に実行したことにあるのではないか、と思わざるをえません。  ファッション界でクリエーターを目指すのも、まったく同じことだと思います。
村上氏は37歳のときにコンビニの裏口で弁当の残り物を貰うために立っているのはつらかった、と書いていますが、そういう忍耐と辛抱強さも必要なのでしょうね。

Monday, December 18, 2006

♪魔弾の射手よ今いずこ

音楽千夜一夜 第4回


最近ウエバーWeber, Carl Maria von (1786-1826)の歌劇「魔弾の射手」をクライバー親子とマタチッチが指揮したCDで立て続けに聴きました。

3人の中ではやはりエーリッヒ・クライバー&バイエルンオペラのものがもっとも優れた演奏だと私には思えたのですが、それはこの際どうでもいいことで。

この「魔弾の射手」はドイツ人による最初の国民オペラらしいのですが、確かにそれだけのことはあってドイツ帝国成立(1871年)をめざしてひたすら前へ前へと突き進んでいくドイツ人のロマンチシズムと強烈なエネルギーはまぶしいほどです。

全編どこでも斬ればゲルマンの血がほとばしり出るような生々しい音楽と言えるかもしれません。いうなれば新興帝国の精神の応援歌でげす。


よくWagnerの音楽とナチズムの親近性を指摘する人もいますが、その源泉はすでにウエバーの目もくらむようなドイツ魂の熱血音楽の内部から湧出していたのではないでやんしょうか。

メンデルスゾーン(1809-1847)とゲーテ(1749-1832)もほぼ同時代の人ですが、このウエバーほどの手放しの若さと過激さは持ち合わせていなかったような気がします。

アジアの片隅でゆっくりと黄昏てゆく少し疲れた老大国で、このウエバー選手のような元気で単細胞な音楽を聴くと、なぜか「やれやれ」というため息が出てきます。

ドイツ音楽のいちおうの完成者はやはりベートーベン(1770-1827)ということになるのでしょうが、昨日聴いた彼の感動的な第9交響曲にしても、ほんとうはその限りなき前向きさ加減にちょっと辟易させられるところがあります。

やれやれ、おらっちもジャパンもいつの間にか年取ってしもうたなあ。

Sunday, December 17, 2006

鎌響の「第9」を聴く

音楽千夜一夜 第3回

 ことしも年末恒例のベートーヴェンの第9番の交響曲を聴いてきました。演奏はもちろん贔屓の鎌倉交響楽団です。

この演奏会場は10年ほど前に中西という自動車屋の市長が大船の旧松竹撮影所の傍に巨費を投じて作った気色悪い緑色に着色された鎌倉芸術館です。

この建物が完成したとき、当時の中西市長は自分の親戚の同じ姓の有名シャンソン作詞家をプロデユーサーにお手盛りで任命しました。ここらへんはちょっと石原知事とその息子の関係に似ているかもしれませんが、中西氏はその身内の作詞家に対してなんと年間2億だか3億円だかの法外なプロデユーサー料を(市のそれでなくても全国で有数の高額の税金から)気前よく支払ったのです。

その作詞家がやった仕事といえば、年間のコンサート計画なるものを企画立案し、東京の自分の知り合いのゲージュツカたちをこの湘南の田舎町にどんどん連れてきて好き勝手なプログラムを組んで自分勝手に「運営」したことくらいなのですが、こうした野放図な税金泥棒的行為?は心ある市民から指弾を受け、くだんの作詞家はいつのまにかこの地からいなくなってしまいました。

 ああうらやましい。じゃなくてけったくそ悪い。

そういういわくつきの会場ですが、唯一のめっけものは音響の良さです。1階は相当音が飛びますが、2階、特に3階の最前部の聴感は抜群で、どこに座っていても音響が怪しく飛散するサントリーホールよりも快適な響きで、これだけはダブルナカニシチームに心から感謝したいところです。

さて下らない前置きはともかく、今日の演奏はなかなか楽しめました。
私は前にも書いたように、プロの枯渇し疲弊しきった冷たい演奏よりも、たとえ技術的には劣ってはいても音楽への純粋な愛情と情熱では前者をはるかにしのぐアマチュアの演奏を好んでいますが、今日の鎌響もそのとおりの好演でした。

私はこれまで第9は第三楽章がいちばん気に入っていたのですが、今日はむしろ第二楽章の方が楽しく聞き応えがありました。ここでは弦と管とが華麗な舞踏を繰り広げ、踊りの輪郭が拡散しそうになると、途端にティンパニーが出てきて要所要所で音楽の形式をぴりりと引き締めます。

それがまことにカッコいい。今年亡くなった岩城さんがこの楽器の奏者であったことを思い出しましたが、ティンパニーって音を出せない指揮者に代わってああいう声を出しているのですね。

夢見るような第三楽章が終ると切れ目なく最終楽章に入ります。

しばらくとろとろ眠るがごとき音楽をまだ続けていますが、まず最初にあの有名な歓喜のテーマを深々と歌うのはチエロ、そしてコントラバスなんですね。

それから同じテーマをビオラが歌い、最後に第1と第2のヴァイオリンが高音部で高らかにうたい始める。すると木管と金管がそのシンプルなメロディーをあわてて追いかけるようにして唱和します。

やがてすべての楽器が私たちの心臓とおなじリズム、おなじメロディーでどんどん加速を強めていって、ベートーヴェンの心の音楽が堂に満ちる。そして最初の絶頂の峠の上で、ソプラノでもなくテナーでもなく、なんとバスが「おお、フロイデ」と歌いだすのです。この構成はほんとうに素晴らしく、こうなるとベートーヴェンはもはやゲーテにもナポレオンにも絶対に文句を言わせません。

じつは私はこのところ第4楽章がちょっと鼻につくようになって、リストが編曲したピアノ版第9の演奏をツアハリスの見事な演奏で楽しんでいたのですが、これを実演で聴かされるとやはり声楽入りも捨てがたい。いやそれどころではなく主にシニアの方々のものすごい咆哮は管弦楽の強奏を圧倒しました。

人間の声が最高最大の楽器とはよく言ったものですね。

Saturday, December 16, 2006

2冊の本を読んだ

♪ 半藤一利著「荷風さんの戦後」

浅草の荷風の行きつけの店。アリゾナキッチン(メトロ通り東)、尾張屋、浅草フジキッチン(雷門通り傍)、甘み所「梅園」(仲見世通り)、合羽橋どじょう「飯田屋」など。あとはつぶれた。

荷風は死の床でフランス語の本を読んでいた。仏書はアラゴン「現実世界」3部作、サルトル「嘔吐」など140冊。

荷風は邦画は自作の「つゆのあとさき」以外は洋画しか見なかった。「素直な悪女」「ヘッドライト」「リラの門」「川の女」「情欲の悪魔」「紅い風船」「トロイのヘレン」「わんわん物語」など。最後の作品は微笑ましい。

♪ 保坂和志著「小説の誕生」

何度でも繰り返し紐解きたい私の2006年随一の「小説ならざる小説」である。あるいは小説という名の悠久の生を生き直そうとする意欲的な試みである。

著者はいう。

小説とは破綻と自己解体の危険を恐れず、予定調和を拒否して、どこまでも伸びて行く1本の線である。私を虚しくし、小説をうつろな箱にすることによってその小説は優れた音楽の戦争のように、世界の何かを帯びてくるだろう。

書き手が小説に奉仕する限りにおいて小説は小説たりうる。いい小説とは遠い遥かな地点、世界の果てまでも作者=読者を連れ出し、豊かにしてくれる行為である。

小説という名の「1点突破、全面展開」の実例がここにある。

「雨がつづいた10月の久しぶりの晴天の、暖かく穏やかで風がない日の午後に、池のほとりに腰掛けてビールを飲みながら、池一面が太陽の光で金色に輝くのを見ていたら、このために本を読んだり、あれこれいろいろ考えたりしているんじゃないか、と思った」
という402pからの井の頭公園での特権的体験の描写は素晴らしい。

なお本書の中で樫村晴香という人が、自閉症について「自閉症児はリンゴや犬などの名詞を理解することはできるけれど、“美しい”を理解することはできない。あるいはリンゴを使ったセンテンスは作れるけれど、美しいを使ったセンテンスは作れない」と、著者との対談で発言したそうだが、これは事実に反する。

自閉症といってもいろいろあるのだから、そんな雑駁な言い方は非科学的である。
現にうちの耕君は立派な自閉症だが、そんなセンテンスなんかおやすい御用ですよ。

そのほかにもじっくり感想を書きたいが、残念ながら時間がない。

Friday, December 15, 2006

あなたと私のアホリズム その2

♪ Wang,Wang!

 後世の歴史家は、防衛庁が防衛省となり、教育基本法が衆院委員会を通過した日についてなんと記すだろうか? 

しかしそれよりも心配なのは、先日米国の科学者が出した「2040年に北極の氷の大半が溶けるだろう」という予測である。

間違いなくこの年までに、わが国は平和憲法をかなぐり捨てて「愛国的な核武装国」に美しく変身し、と同時に日本列島のかなりの部分が海没しているだろう。

しかしわが国のマスコミも、国民もこれらの危険性については異常なまでに平静であるか、あるいは平静を装って♪ラリラリラーン、と楽しい毎日を送っているようにみえる。

これではわが家の愛犬であったか「かわかわのムクちゃん」とおんなじ態度ではないだろうか?

Wang,Wang!



♪ ボーナス

松坂選手が6年間61億円の契約を結んだ日、月収1600円の耕くんは540円のボーナスをもらった。

松坂選手は、「うははは」と笑った。

耕くんも負けずに「あははは」と笑った。

誰にもどっちが幸せなのかは分からない。

そして、誰にも格差社会の行き着くところは見えていない。


♪ 当用漢字という名の言語ファシズム

教育基本法の前の年である昭和21年に、1850の当用漢字が制定された。

どうして妾や奸や妖や嫉や皿や鍋や釜が排除され、拷や隷が入ったのかは誰にも分からない。

どうしてその当用漢字がマスコミで「憲法」化され、難しい漢字がただそれだけでパージされるようになってしまったのか、誰にも分からない。

自分の思想をもっとも的確に表現するためには、漢字や用字用語の制限をとるはらうべきなのに、自由を恐れるマスコミは、自らの手足を縛り、執筆者にもそれを強要するにいたった。

「気狂い」ピエロがどうしてだめなの?

狂っているのは、あんたの方だろ?

それとも、おらっちなのかな? よく分からなくなっちゃった。

Thursday, December 14, 2006

冬の朝、瑞泉寺で歌う

鎌倉ちょっと不思議な物語20回



夢想国師が手塩にかけし瑞泉寺その庭園に降る紅き花花

光あればもみじはさらに輝かんもろびとこぞりて光待ちおり

紅葉の美しさはない美しい紅葉があるだけさと啖呵きりし人を嘲る紅葉

これやこの水戸黄門の御手植の天然記念物の冬桜見る

もう二度とこのお寺には来れまいと思いつつ訪ねし松陰と子規

夜間はイヌを放つゆえ要注意と立て札せる清泉小学校はあさまし

ピノチェトの棺に吐きしプラッツ陸軍司令官の孫のつばきよ

教育基本法を圧殺し高笑いするお前らの腹黒き野心はお見通しだぜ

是かまたは非なるか意思表示せぬ人をかすかに憎みつつ紅葉を見る

人も世もわれをも呪いつつ見る花のその美しさは限りもなくて

Wednesday, December 13, 2006

日々是好日

日々是好日

ともあれ、朝になったら、まずは起き上がることだ。

起きたら、ちょっと動いてみることだ。 

そして思い切っていきをして、まだぼんやりとでも生きているか自分の胸に問うてみることだ。

君の目の前にピアノがあれば、黒鍵をひとつだけ叩いてみることだ。

なにもなければ、4年前に亡くなったムクしか聞いていなくても、口笛などを微かに吹いてみることだ。

そうすれば、また新しい1日が始まったと知れるだろう。

そうしてテレヴィをつけよう。

テレヴィをつけたとき、不運のことにいきなり安部ちゃんが現れても、前の首相のライオン丸や、障子破り都知事や硫黄島のかなたの猿面冠者が現れたときのようにかんたんにゲロを吐いたりしないで、固く目をつぶったままどんどんチャンネルを回そう。

するともし運が超よければ、BS-1のニュースで平尾由美アナウンサーの切れ長の眼に会えるかもしれない。

そしたら1日超ラッキーだろう?

そしてこれはとても大事なことだが、まもなく国会で教育基本法が可決されても、やけを起こして玄関の扉を殴りつけたりしないように我慢することだ。

それからまたしばらく時間が経って、国民投票の結果現行憲法が塵芥のように闇に葬り去られても、間違っても首相官邸に凶器を携えて潜行しないように努力することだ。

なんといっても、人間辛抱だ。

ともかくようやくここまでやって来たのだから、ぜったいに軽々しく暴力に走らないように自戒することだ。


暴力は自己表現ではなく、自己否定であり、自己滅却であることを、ここでもう一度認識することだ。

いつか首相官邸に向かう坂道で、私の左の額に警棒を振り下ろした第7機動隊の若者が、私の出血を見てすぐにその凶暴な行いを後悔したように、

そしてその若者の振る舞いについてずーと考えていた私が、何年後かに彼の暴力を許したように、

ともかくできるだけ他人を憎まないようにすることだ。

アラブよ、そしてイスラエルよ。

不幸にももし誰かを憎んでしまった場合は、なんとかしてお互いに許しあうことだ。

一時的な過激な行為に走らないように注意することだ。

また、この国の指導者のみならず、この国のすべての人々がこの私に劣らず全員タコだとしても、可哀相なこれらのタコたちのことを、

「このタコ、くたばれ」とか、

「てめえ、このタコ、くそったれ」などと、

けっして下品で、醜い言葉でみだりに罵倒しないよう、今から自戒し、そのときに備えておくことだ。

そうして私は、ゆっくりとねんねぐーして死んでいくことにしよう。

そーゆーことだ。

Tuesday, December 12, 2006

雨よ降れ 草木国土悉皆成仏

鎌倉ちょっと不思議な物語19回



御成小学校の辺で雨になった。

この道は古くは大江広元が公文所に通勤するために歩いた道、

中世日本の行政センターに向かう道、

新しくは明治天皇が夏の海水浴のために馬車で運ばれた道、

緑豊かな邸宅が壊され、くだらないマンションが建ちあがりつつある道、

そしていま私がとぼとぼと図書館に向かって歩いている道…

図書館では光明寺の鎌倉アカデミアの回顧デイスプレイをやっていた。生徒は前田武彦、山口瞳、いずみたくなど、先生は林達夫など。

学長は三枝博音、1963年の国鉄鶴見事故で亡くなった。競合脱線という不可解な言葉が新聞を賑わせたことなど誰が覚えているだろう。

図書館には新刊書籍が7冊も届いていた。そのうちの1冊は1220ページの「ランボー全集」全一冊。こんなの2週間で読めるわけがない。

まてまて、花村萬月の「古都恋情百万遍」と杉本彩の「京おんな」もあったぞ。
雨足がだんだん強くなる。早くおうちに帰って彩ちゃんを読もう。

路地の奥に古いポンプがあった。

廃屋の一角で、褐色のポンプは誰かにくみ上げられるのを待っているようだった。

雨よ降れ 草木国土悉皆成仏

Monday, December 11, 2006

モーツアルトに想う

音楽千夜一夜 第2回


すぐる12月5日がモーツアルトの命日であったが、やはりシューベルトと共に惜しんでも余りある短すぎた人生だったと思う。

モーツアルトは、次のような症状で死んだ。
連鎖状球菌性伝染病、シェーンライン・ヘノッホ症候群、腎不全、瀉血、大脳の出血、最後の気管支炎性肺炎。( H・C・ロビンズ・ランドン著「モーツアルト最後の年1971」12章)

 また、モーツアルトはとてもおしゃれだった。
「モーツアルトは南京フロックコート(最新のモード)やマンチェスター(綿)のそれを所有し、さらには白地、青地、そして赤地の別のフロックコートも所有していた。このように彼は自分の経済的状況はどうであれ同時代のファッションをはっきりと意識していて、それに乗り遅れることはなかったのだ。」(同書「付録A」より)

さらに、モーツアルトの左耳の外耳はなかった。あるいは渦巻きがなかった。
これは彼の早世したあまり才能のなかった息子も同様で、医学的には、天才を象徴する「モーツアルト耳」と呼ばれる。
 
それにしても、どうして彼はハイドンの誘いに従ってロンドンに行かなかったのか? 行っても41番のジュピターを超えるシンフォニーはもう書けなかったかもしれないが、せめてハイドンの半分くらいの分量は書いて欲しかった。

いや交響曲なんかゼロでもはいいが、オペラとピアノ協奏曲を少なくともあと3曲は残してもらいたかった。

いやいや、せめてレクイエムをジュスマイヤーに補作させずにちゃんと全曲書きあげてから瞑目してほしかった。

 等々、ないものねだりが続々でてきてしまうのである。

しかし、しつこいようだが、いくら急に雨風が吹き荒れたとはいえ、どうして誰もウイーンの共同墓地の埋葬に最後まで立ち会わなかったのか? 
悪妻コンスタンツエも含めてどいつもこいつも薄情な奴ばかりで、たった独りで暗い穴の中に真っ逆様に落下していったモーツアルトが可哀相になる。

わが国も大騒ぎで、飛行機嫌いのアーノンクールが来日して3大交響曲やらレクイエムやらを演奏していった。テレビで視聴する限りではじつにくだらない演奏。FMで聴いたオペラも最低。こんなものを有難がって大金を払って殺到するウイーンやザルツブルグや東京や大阪の客の左脳も耳も狂っているのではないだろうか?

思えば昔々ウイーンコンツエルトムジクスを立ち上げて、バッハのカンタータを録音したり、チューリッヒの歌劇場で「オルフェオ」を目玉の松ちゃんのように夢中で楽しんでいた頃が彼の全盛時代だった。

これは極端に過ぎる言い方だが、指揮者には朝比奈やベームやバーンスタインやギュンターヴァントやチェリビダッケのように晩年になって真価を発揮する指揮者と、カラヤンや小沢やマゼールやサバリシッシュのように老いてますます音楽がだめになるタイプ、そしてわけも分からずただ懸命に棒を振っている芸術の本質とは無縁な大多数の指揮者たち、の三種類があるような気がする。

そうして現代の古典音楽業界は、広範な消費者の増大するニーズに的確にこたえるために、この3種のカテゴリーの指揮者をそれぞれに必要としているのだ。

 最後に、モーツアルトの私の最近のおすすめデイスクは、ミシェル・コルボがジュネーブのオケとライブ録音でいれた「レクイエム」(ヴァージン・クラシックスのコルボ指揮レクイエム集廉価版5枚組3000円)、DOCUMENTSの10枚組廉価版、オペラ代表作4本入って2500円)カルロスのお父さんであるエーリッヒ・クライバーがウイーンのオケを振った素晴らしい「フィガロの結婚」が聴ける。

Sunday, December 10, 2006

あなたと私のアホリズム その1

なんの己が桜かな。


60年代の終わりに構造改革派は「欲望拡大路線」という横断幕を掲げ、ブントや革協同中核派は「自己の実存のすべてをさらけだして全世界を獲得せよ」と叫んだ。

80年代の終わりに、ブルータスのある編集者は、「俺たちって、まだ一人も人を殺していないもんね」と目を輝かせて語った。
 
革命よりも、殺人よりも凶暴な存在、それは自己実現の欲望である。

百たび死んでも治らないのは、ジコチューという病気である。

Saturday, December 09, 2006

鎌倉のシェリーマン

鎌倉ちょっと不思議な物語18回


私は鎌倉に住んで足掛け30年になるが、最初はこの十二所神社のすぐ脇のアパートに住んでいた。

アパートのうしろは横浜国立大付属小学校の畑で、畑のうしろも池のある広い畑になっていた。そして子供たちはその池のザリガニを捕まえて朝から晩まで遊んだ。

 池と畑の奥には、大きなイチョウ(写真)が聳え、その巨木の下に郷土史研究でその名を知られた小丸俊雄さんの粗末な木造平屋住宅があった。

小丸さんは鎌倉や吾妻鏡の研究で成果を挙げ、晩年はこの近所の朝比奈峠や大慈寺史跡について研究していたらしいが、そんなこととは露知らない愚かな私は、氏の生前にただ1度しか会話する機会がなかったことを今頃になって悔やんでいる。

その小丸さんが著わした「鎌倉物語上下巻」(ぎょうせい刊、絶版)に印象的な記述がある。  生前の氏がある日材木座の海岸を歩いていると砂の中に白く光るものがあり、拾い上げてみるとそれは鎌倉時代に北条氏に敗れこの砂浜で死んだ畠山軍の若い武将の大臼歯であった。   60年代の鎌倉の海岸では、30センチも掘れば12世紀後半から13世紀の内戦の死亡者の遺品が大量に見つかった、というのである。
 それを知った私は、材木座や由比ガ浜の海岸を歩くたびに砂浜を忙しく両手で掘り起こしては、緋縅姿の若武者のピカピカ輝く白い歯を懸命に捜し求めたのだが、ついに発見できないでいた。

そして、かの高名なる民間考古学者の記述は、もしかすると文学的なフィクションではなかったか、と、いささか疑いの気持ちが芽生えていたのだが、先日はしなくも朝比奈峠で日大大学院松戸歯学研究科で口腔解剖学を専攻しているS氏とめぐり合い、その話をしたところ、S氏は「それはおおいにありうる話です」と断言された。

S氏は鎌倉時代の人骨、特に口腔や歯の研究をしている少壮の学徒らしく、小丸さんの証言がけっして非科学的なでっちあげではないことを保証してくれたので、私はとてもうれしかった。

鎌倉の中心部のどんな地面でも1メートル掘ってみれば江戸時代の遺跡があらわれ、3メートル掘り下げてみれば鎌倉時代が出現する。

写真は数日前から行われている浄明寺の史跡発掘の現場であるが、開発ラッシュの鎌倉市内ではいたるところでこのような光景にぶつかる。

さてここで急に話が飛ぶが、私は以前それまで働いていた会社から突然リストラされ、さあこれからいったいどうやって食べていこうか、とおおいに悩んだ時期があった。

そんなある日、たまたま当時大学前のコンビニ(その2階は黎明期の鎌倉シャツが開店していた)の隣で行われていた発掘現場で、アルバイトのおばさんが土器のかけらを楽しそうに拾い上げている姿を見て、「そうだ、俺は少年時代にはシェリーマンになりたかったんだ」、と、突然心中にひらめくものがあった。

トロイの遺跡は難しいかもしれない。しかしお日様の下で知的かつ肉体的に楽しみながら、遊びながら毎日中世の暮らしの断片と出会うこのアルバイトは悪くない。しかもこの町は遺跡の宝庫だから、仕事がなくなることは永遠にないだろう…。
と、すばやく頭を回転させ、「これこそわが理想の第二の人生だ」と、久方ぶりに胸をときまかせたのであった。

しかも、これはけっして机上の空論ではなかった。
私と同時期にリストラされたU氏の奥さんが、わがあこがれの史跡発掘のアルバイトをしていたのである。

私はその夜早速U氏に電話をした。
幸いなことに彼の奥さんも在宅していた。現場からいま帰ってきたばかりだという。

そこで私が、「この際どうしても鎌倉のシェリーマンになりたいのですが」と、切り出すと、彼女は私にみなまで言わせず、「確かに日当はもらえますがね、結局はドカタですよ。きつい肉体労働ですよ。あなたは体力に自信がありますか?」
と、どすのきいた声で突き放すように言った。

昔から虚弱体質で、肉体とか根性という言葉にもっとも弱い私は、たったその一言でなぜかへなへなになってしまった。

かくして鎌倉のシェリーマンになる夢は、ここにあえなく挫折したのである。

Friday, December 08, 2006

太刀洗の血闘

鎌倉ちょっと不思議な物語17回

曇り空の太刀洗を散歩していると、滑川の傍の電線で2羽の鳥がおしくらまんじゅうをしながらくちばしをつつきあっていた。

それは大きなカラスとトンビだった。

2羽とも大きいが、どちらかというとトンビの方が大きく強そうだった。

しかし闘争を好まないトンビに身を寄せ、攻撃を仕掛けているのは私が嫌いなカラスの方だった。

なぜ私がカラスが嫌いかというと、昔原宿の会社に通勤していたある朝、千駄ヶ谷中学の校門の前で、イチョウの木に待ち伏せしていたカラスに後頭部を鋭いくちばしでコツーンと一撃されたからである。

カラスは私が攻撃しないのに、宣戦布告もしないでいきなり襲ってきた。これは真珠湾攻撃と同じ卑劣な行為だ。

でも私はトンビに襲われたことは一度もない。

いつも大空を漂い、のどかにピーヒョロと鳴くこのうす茶色の鳥を、私はひいきにしている。

ああ、それなのに哀れトンビは敗退してしまった。醜悪なカラスの執拗な攻撃に耐えかねて、悔しそうにピーヒョロと泣きながら裏山に逃げ去っていった。
(写真は電線の上で勝ち誇るアホガラス)

それで思い出したのは、数年前の晩夏の夕方のことだった。

私が散歩から帰ろうとしてふと空を見上げると、異様な鳴き声が聞こえた。

動植物のすべて、動くものでも静止しているものでもなんでも食い荒らすタイワンリスが、「ケッツ、ケッツ」と、鋭い叫びを発しながら地上10メートルの樹上を前後左右に飛び回っている。

いったいなにを騒いでいるのかと思ってよーく観察すると、長く伸びた枝の先に約2メートルのアオダイショウが鎌首を立て、紅い舌をびらつかせ、ときおりシュー、シューと排気音を発しながらこの凶悪獣に立ち向かっていた。

このタイワンリスが逗子、藤澤方面から鎌倉に侵入してきたのはいまから10年くらいまえのことだった。

そいつは鋭い歯でたちまち鳥や動物や昆虫の幼虫などを食べつくし、植物の葉っぱはもちろん立ち木の樹皮まで剥いで枯らし、古都の自然環境をこれまた悪名高きアライグマとコラボレーション(注=これを不用意にコラボと言ってはならない。コラボは第2次大戦中の対独協力者を指す)しながら徹底的に破壊したのであった。

そんなこととは露知らず、報国寺の橋のたもとにある馬鹿なフランス料理屋では、あろうことか観光客の人寄せパンダ代わりに長年にわたって餌付けを行ってきたのである!
人間の次に獰猛で悪魔のように凶悪なこの獣を!

それはともかく、この夕べ、蘇我入鹿のような悪漢タイワンリスが、山背大兄皇子のように温和なアオダイショウを襲ったのである。

攻勢をかけるのはやはりアホリスである。アオダイショウの後に回って尻尾から食いつこうとする。そうはさせじと鎌首をもたげて反転しながら食いつくヘビチャン。しかしその時に早く、その時遅く、アホリスはもうヘビチャンの背後に回っているのである。そのパターンの繰り返しだ。

ヘビチャンも必死で健闘してはいるものの疲労困憊はなはだしく、闘いは敏捷なアホリスが圧倒的に有利である。

ああ、ここにパチンコがあったら私はあのアホリスをたったの1発で射殺すことができよう。しかしこれはハリウッド映画のやらせの決闘ではない。正真正銘の荒野の決闘なのだ。天然自然の生存競争なのだ。いくら私が「アホリス憎し」の一念に燃える魔弾の射手であっても、ここは人間の出る幕ではないだろう。

私はその場でしゃがみこんだ。そして切歯扼腕しながら、手に汗を握って文字通り食うか食われるかの死闘を見つめていた。

戦う彼らに気づいたのが午後3時ごろであった。いまは6時を過ぎている。両者の闘いは恐らくその数時間前から繰り広げられていたのではないだろうか?

夕闇がどんどん立ち込め、頭上で戦う2匹の黒い姿がおぼろになってきた。

いくら目を凝らしてもなにも見えなくなってきたので、私はアオダイショウの無事を祈りつつ太刀洗の野道を涙を飲んで引き揚げたのであった。(写真はまさにその現場です)

太刀洗の血闘

鎌倉ちょっと不思議な物語17回


曇り空の太刀洗を散歩していると、滑川の傍の電線で2羽の鳥がおしくらまんじゅうをしながらくちばしをつつきあっていた。

それは大きなカラスとトンビだった。

2羽とも大きいが、どちらかというとトンビの方が大きく強そうだった。

しかし闘争を好まないトンビに身を寄せ、攻撃を仕掛けているのは私が嫌いなカラスの方だった。

なぜ私がカラスが嫌いかというと、昔原宿の会社に通勤していたある朝、千駄ヶ谷中学の校門の前で、イチョウの木に待ち伏せしていたカラスに後頭部を鋭いくちばしでコツーンと一撃されたからである。

カラスは私が攻撃しないのに、宣戦布告もしないでいきなり襲ってきた。これは真珠湾攻撃と同じ卑劣な行為だ。

でも私はトンビに襲われたことは一度もない。

いつも大空を漂い、のどかにピーヒョロと鳴くこのうす茶色の鳥を、私はひいきにしている。

ああ、それなのに哀れトンビは敗退してしまった。醜悪なカラスの執拗な攻撃に耐えかねて、悔しそうにピーヒョロと泣きながら裏山に逃げ去っていった。
(写真は電線の上で勝ち誇るアホガラス)

それで思い出したのは、数年前の晩夏の夕方のことだった。

私が散歩から帰ろうとしてふと空を見上げると、異様な鳴き声が聞こえた。

動植物のすべて、動くものでも静止しているものでもなんでも食い荒らすタイワンリスが、「ケッツ、ケッツ」と、鋭い叫びを発しながら地上10メートルの樹上を前後左右に飛び回っている。

いったいなにを騒いでいるのかと思ってよーく観察すると、長く伸びた枝の先に約2メートルのアオダイショウが鎌首を立て、紅い舌をびらつかせ、ときおりシュー、シューと排気音を発しながらこの凶悪獣に立ち向かっていた。

このタイワンリスが逗子、藤澤方面から鎌倉に侵入してきたのはいまから10年くらいまえのことだった。

そいつは鋭い歯でたちまち鳥や動物や昆虫の幼虫などを食べつくし、植物の葉っぱはもちろん立ち木の樹皮まで剥いで枯らし、古都の自然環境をこれまた悪名高きアライグマとコラボレーション(注=これを不用意にコラボと言ってはならない。コラボは第2次大戦中の対独協力者を指す)しながら徹底的に破壊したのであった。

そんなこととは露知らず、報国寺の橋のたもとにある馬鹿なフランス料理屋では、あろうことか観光客の人寄せパンダ代わりに長年にわたって餌付けを行ってきたのである!
人間の次に獰猛で悪魔のように凶悪なこの獣を!

それはともかく、この夕べ、蘇我入鹿のような悪漢タイワンリスが、山背大兄皇子のように温和なアオダイショウを襲ったのである。

攻勢をかけるのはやはりアホリスである。アオダイショウの後に回って尻尾から食いつこうとする。そうはさせじと鎌首をもたげて反転しながら食いつくヘビチャン。しかしその時に早く、その時遅く、アホリスはもうヘビチャンの背後に回っているのである。そのパターンの繰り返しだ。

ヘビチャンも必死で健闘してはいるものの疲労困憊はなはだしく、闘いは敏捷なアホリスが圧倒的に有利である。

ああ、ここにパチンコがあったら私はあのアホリスをたったの1発で射殺すことができよう。しかしこれはハリウッド映画のやらせの決闘ではない。正真正銘の荒野の決闘なのだ。天然自然の生存競争なのだ。いくら私が「アホリス憎し」の一念に燃える魔弾の射手であっても、ここは人間の出る幕ではないだろう。

私はその場でしゃがみこんだ。そして切歯扼腕しながら、手に汗を握って文字通り食うか食われるかの死闘を見つめていた。

戦う彼らに気づいたのが午後3時ごろであった。いまは6時を過ぎている。両者の闘いは恐らくその数時間前から繰り広げられていたのではないだろうか?

夕闇がどんどん立ち込め、頭上で戦う2匹の黒い姿がおぼろになってきた。

いくら目を凝らしてもなにも見えなくなってきたので、私はアオダイショウの無事を祈りつつ太刀洗の野道を涙を飲んで引き揚げたのであった。(写真はまさにその現場です)

Thursday, December 07, 2006

アオサギとヘンゼルとグレーテル

鎌倉ちょっと不思議な物語16回


今日の午後、浄明寺郵便局に向かって道路の左端を歩いていると、イチョウサブレー製造所の入り口に大きなアオサギがいた。

道路の傍を流れている滑川にはときどきシラサギやゴイサギが魚を狙っている姿を見かけるが、こんなに大きいアオサギは初めてだ。

しかも川の中ではなくて舗装道路の上を両翼をふわりふわりと上下させながら歩いている。

私はあわてて愛用のデジカメを取り出してシャッターを切りながら、この日本産の最大のサギを追いかけた。

アオサギは軽快な足取りで民家の入り口まで前進しアーケードで覆われた屋根を見上げている。

しかし私はそれ以上追うと逃げ場を失ったアオサギが狭い空間で自傷することを恐れてその場を立ち去った。

サブレー屋さんの話では、「橋の欄干くらいまではやってくるが、こんなに接近したのは初めてだ。あんな神経質な鳥がどうしてこんな所まで」

と、とても驚いていた。

アオサギと別れてどんどん進んでいくと、泉水橋の先に奇妙な建物が見えてきた。

去年、いやおととしから気になっていた誰が建てたのかわからない謎の建造物だ。
全体はどちらかというとスペイン風の別荘のような感じである。

最初は普通の洋館かと思っていたが、どうも様子が変だ。色といい形といい、まるでヘンゼルとグレーテルのお菓子の館のようである。

本体が出来上がるまでに優に1年はかかり、それが一段落するや今度は写真左下の階段や東屋やガーデンがゆっくりゆっくり形作られていく。まるで時間も経費も気にしない手作りである。

いまでは部屋にカーテンもかけられ電気工事も終ったようだが、昼も夜も誰も住んでいない。

はじめはレストランは、ブティックか、それとも鎌倉によくある個人美術館かと想像したが、いまだもってよく分からない。

町内で話題の謎の不思議館である。

Wednesday, December 06, 2006

筑波山のガマ

耕君が福田の里に短期入所してくれたおかげで、私たちは新婚旅行以来はじめて夫婦水入らずの旅行を楽しむことができた。

最近開通したばかりの「つくばエクスプレス」に乗って、筑波山のホテルで一泊したのである。

女体山直下のホテルからは夕方も朝も関東平野を一望することができた。富士山や新宿副都心や霞ヶ浦も見えたし、雲間から浮上してくるご来光を仰ぐこともできた。

あの有名な筑波山名物のガマも見たし、日本百名山のひとつ筑波山の頂上にも立つことができた。

耕君、ありがとう。

Monday, December 04, 2006

 勝手に東京建築観光・第3回

 
魔術師は虚空を見つめる~電通本社ビル


汐留にあるこの高層ビルは、わが国を代表する巨大な広告代理店、電通の本社である。

電通はテレビ、雑誌、新聞、ラジオなどのマスメディアに食い込み、彼らの商材である媒体の販売代行を通じてその命運をひそかに握る。オリンピックやW杯、万博などのビッグイベントを自社に獲得するためには政財界との強大なコネクションが不可欠である。

また電通は、基幹産業の広告宣伝活動を代理され、主要ブランドのマーケティイグとマーチャンダイジング戦略、販促計画に大きな役割を果たしている。宣伝広告のみならず経営戦略までも代理店にげたを預ける企業すらある。

かつて私はある企業の広告宣伝部門で働いていたことがあるが、あるときその会社の歴代宣伝部長の息子や娘が電通の社員に採用されていることに気づいて今更ながらに驚いたことがあったが、これは驚くほうがうぶなので、電通は有力企業の実力者から人身御供をとることによって自らのビジネス基盤を確固たるものにしているのである。

しかし電通はあくまでもビジネスの表面に出ることを嫌う。徹底的に縁の下の力持ち、影武者としてフィクサーの役割を果たそうと涙ぐましい自己規定をしている。

したがって02年10月、ジャン・ヌーヴェル、ジョン・ジャーディによって設計された電通ビルのコンセプトは「空に消えゆくビル」、つまり普通の高層ビルにありがちなランドマーク性、記念碑性を拒否し、つまり「できるだけ目立たないこと」であった。

ジャン・ヌーヴェル自身は、「敷地内の樹木や空の雲、風景がガラスの反射と重なり合い超現実性をかもし出すこと。非永続性の変幻をもたらすこと」が狙いである、ともっともらしいことを語っているようだが、なにいくらビルだけ謙遜して黒子に甘んじようとしても、そうは問屋が許さない。

世間の耳目をひきつける魔術的な虚業こそが電通の実際の仕事。この大いなる矛盾を内包しながら、天下の電通ビルは今日も虚空をにらんでいるのである。

Sunday, December 03, 2006

福田の里は夕焼けだった。

福田の里は夕焼けだった。

今日から耕君が大和市の福田の里で1週間ショートステイするので、家人の運転する車で送っていった。

とても寂しい所であった。寂しい建物であった。

今日は日曜日なので、中は重度の人ばかりがうろうろしていた。

しかしこんな施設で働いている若者はえらい。尊敬します。

耕くんは背中を向けて真っ赤な西日を見ていたが、しばらくすると、「もう帰ってください」と言ったので、我々は後ろ髪を引かれるような思いで福田の里を立ち去った。

Saturday, December 02, 2006

音楽千夜一夜 第1回

よみがえる伝説のフォーク

昨夜のBS2でフォークを歌う奇妙なおじさんに出くわした。

杉田二郎という人が、じつにへんてこりんな、しかしじつに無理のない発声で自在な歌を自由に歌うのである。

北山修や加藤和彦、はしだのりひこは知っていたが、この人が70年大阪万博の年に大ヒットした「戦争を知らない子どもたち」を作曲者とは知らなかった。はしだのりひことシューベルツの名曲「風」も彼の作品だった。

1963年11月22日の金曜日の午後一時、私は左京区田中西大久保町の路地で立ちつくしていた。近所の家から聞こえてきたFEN放送が、「プレジデント・ケネディー・ワズ・アササンド! ジス・イズ・ザ・ファーイースト・ネットワーク」と叫んでいた。

そして翌年私は上京したが、さらにその翌年の1965年にザ・フォーク・クルセダーズが結成された。そして70年代初頭の京都はフォーク全盛の黄金時代を迎えた。

けれども私は、そんな京都とはまったく知らずに独りで東京に出てきてしまったので、善ちゃんの医大の同級生である偉大な北山修氏以外は知らないのである。フォークはおろかあらゆる音楽とは無縁の数年間がそのあとしばらく続いたのである。

さて、杉田二郎の歌唱はなかなかよかったが、ゲストの庄野 真代 とのデュエットもよかった。

この人は若くしてイスタンブールまで飛んでいった人だが、昔から旅行の好きな人で、私は彼女が前の旦那と世界一周旅行していたときにバハマで会ったことがある。

庄野 真代は当時に比べるともちろん年を取り、いろいろ苦労もしたのだろうが、それらがすべて歌のキャリアを形作っていた。飾りのない透き通った声で、二郎と調和の幻想を奏でた。

また若いトキハイのボーカルはとてもよい声で「戦争を知らない子どもたち」を歌い、続く二郎との協奏もよかった。

かつてはフォークなあんて、なんてばかにしていた私だが、数年前電撃的に友部正人の「1本道」が落雷し、それから耕君に吉田拓郎の魅力を教えられていらい、すっかりこのジャンルの素晴らしさに目覚めたのである。

そこには電気増幅で決定的に失われた人間の歌と楽器の原初の姿が、まだ霜日の朝顔のように人知れず輝いていた。

Friday, December 01, 2006

鎌倉霊園、そして夢。

鎌倉ちょっと不思議な物語15回

 

今朝はちちとおじさんが眠る霊園に、ははとつまの3人で出かけました。

ここはかの悪名高き西武資本が近所の鎌倉逗子ハイランドに続いていくつもの大きな山をぶっ壊してお墓にしたのです。
頂上には総帥堤康二郎氏の壮大な墓地があります。

むかし西武グループの管理職は毎日誰かがこの墓地の隣の宿舎に泊まりこんでいました。さらに毎年大晦日の夜には、すべての管理職が東京からバスに乗ってこの墓地に大集合し、元旦には遠く富士山を望みながら(写真)偉大な創始者に年頭の挨拶をしたそうです。まるで北のどこかの国の儀式のようですね。

私は鎌倉には30年くらい前に住み着いたのですが、当時お隣の家のご主人が国土の課長さんからそんな話をきいたものです。西武流通グループも崩壊し、義明氏も不祥事で退陣し、おごれるものは久しからず、ああ、昔の光いまいずこ、です。

たくさんのお墓の中にはたくさんの死者たちが眠っています。

中には帝国ホテルに住んで藤原歌劇団を設立したわれらのテナー、藤原義江などの有名人もなんねぐーしています。

その中にコークが3本も供えられている19歳で亡くなった人のお墓がありました。石碑には純と刻まれています。きっと彼はコークが大好きだったのでしょう。

また音楽院という戒名の25歳で亡くなった女性のお墓は、翔という文字が刻まれていました。いずれもご家族の気持ちが痛いほど伝わってくるようでした。

そのほか墓石には空、慈、憩などと書かれたいろいろな墓碑銘が並んでいます。
読めないアラビア語やRest here for next lifeという英語もあり、死者の不抜の信念に感銘を覚えました。

ははから、「倶会一処はなんと読むの?」と聞かれたので、「ともにいっしょにかいす、でしょう」と答えてから、帰宅して調べてみましたら、「くえいっしょ」と音読みするだそうです。「念仏者は等しく西方浄土に往生し、一つところに相会うこと。阿弥陀経に「諸上善人倶会一処」とあるところから出た仏語」と、大辞林に出ていました。でも「みんないっしょにねんねぐー」という解釈は間違ってはいませんね。

ちなみに平成9年に亡くなったうちのちちのは、「そして夢」です。家族みんなで相談してこれに決まったのでした。

Thursday, November 30, 2006

鎌倉の鯨が泳ぐ梶原屋敷

鎌倉ちょっと不思議な物語14回


この小さな谷戸に、鎌倉時代の有名な武将梶原景時が住んでいました。(この物語の「第1回太刀洗篇」で平広常を斬ったあの景時です)

しかし正治元年1199年、梶原景時が小山朝光を将軍の頼家に讒言したことに怒った60名の諸将が連署して景時を弾劾しました。

仕方なく景時は逃亡しましたが、結局駿河の国で吉幡小治郎に殺されてしまいました。

この梶原屋敷は同年の12月に破却され、その跡は長らくの間畑でしたが、いまは工務店の汚らしい道具置き場になっています。

屋敷の入り口の右側には梶原井戸が奇跡的に現存しています。

この井戸の底に近所の明王院の鐘が入っていたそうですが、後に引き上げられたと「十二所地誌新稿」には書いてあります。

 梶原屋敷も驚きですが、もっとびっくりするのはこの屋敷跡入り口に置いてある巨大な2頭の鯨です。きっと梶原景時の霊を慰めながら谷間を遊弋しているのでしょう。

Wednesday, November 29, 2006

公孫樹に寄す

いざともに青空称えん公孫樹

花も実も投げ捨てて後の栄華かな

ひゃくせんの黄金鳥の乱舞かな

つまとつま離れて生きて公孫樹

風立ちぬいざ生きめやも公孫樹

公孫樹黄金の手を振る別れかな

Tuesday, November 28, 2006

「不都合な真実」の試写を見た。

史上最悪の大統領ブッシュに敗れた「一瞬だけの大統領」、アル・ゴアのスライド講演をほぼそのまま映画化したのがこの作品である。

過去60億年にわたって2酸化炭素の排出と気温の上昇がシンクロしてきたこと、最近その度合いが急速にエスカレートしてきたこと、その結果南極の棚氷をはじめ世界中の氷河が猛烈な勢いで溶け出していること、これを放置しておくと南極やグリーンランド島の氷の消失によってマンハッタン島のツインタワー跡地が水没する危険があること、海水温度の上昇によって地球全体の気候が異常を来たし、集中豪雨や台風や日照りや飢饉が頻発し、これらに起因する生態系の混乱によって各種の疾病が大流行し、人類滅亡の危機が目前に迫っていることを厖大な科学調査やデータ解析の結果を踏まえてゴア自身が熱弁を振るう。

はじめのうちは再度大統領選に打って出るためのゴアの政治的プロパガンダ映画かと思っていたが、けっしてそうではなく、彼が月並みだが決死の覚悟でこの地球環境問題と格闘していることがだんだん理解されてくる。

ゴアはすでに60年代の後半からロジャー・レヴェル教授の環境問題への警告に耳を傾け、70年代後半に初の議会公聴会を手がけるようになっていたが、ゴアの息子が交通事故で死にかけたこと、タバコ栽培に従事していたゴア一家の最愛の姉が喫煙が原因でガンで亡くなったことが、この問題に全身全霊で立ち向かう大きなバネになったようだ。

それだけに世界最大の温暖化ガス排出国である自国アメリカが、依然として京都議定書に署名せずこの「不都合な事実」から目をそむけようとしている不誠実さを怒りを込めて弾劾するのである。

しかしゴアはたんにこの否定的な現実を政治的に糾弾して、「わがこと終われり」とするのではない。環境問題は小手先の政治問題ではなく、地球上に生きるすべての人間のモラルの問題だと断じるのである。

皆さん、このまま人類は滅びてもいいのですか? 
この素晴らしい地球をなんとか無事に子孫に手渡そうではありませんか。
子どもたちは「地球を壊さないで」と両親にいいましょう。
人はとかく否定から絶望に走ってしまうがそれはよくない。
「祈るときには必ず行動しよう」というアフリカのことわざに学びましょう。
われわれの一人ひとりが3つのRをはじめ省エネやエコドライブや植樹をすれば必ず危機は救われます。
アメリカの独立戦争にも、ブルジョワ打倒のフランス革命にも、第2次大戦の反ファシズムの戦いにも、私たちは勝利してきたではありませんか。
さあ、すべての地球人よ地球救済運動にいますぐ立ち上がりましょう。
この映画を見て地球の危機について知り、お友達にも勧めましょう!

と、矢継ぎ早に語りつつ、ゴア流現状分析→問題点指摘→超具体的行動方針提起、にいたる怒涛のような1時間半が終る。

正義の熱血漢、環境宣教師、男1匹ゴアが行く―
いまどき世にも珍しい正攻法の環境問題直接行動宣伝映画である。

まるで古き良き時代のアメリカが突然帰ってきたような懐かしさを覚えた私だが、こういう強速球もブッシュ政権のアメリカには必要であろう。

けれどもアメリカは、ゴアの言うように一日も早く中国、インド、豪州などとともに京都議定書を批准し、地球市民共同戦線の輪に入って欲しいものである。

きくところによるとわが国の環境省が、ことしの冬はオフィスの暖房を全部止めるそうだが、じつに見上げた環境運動ではないか。
色々な意味で内部腐敗・溶解・崩壊が近づいてきたわが帝国であるが、こと環境問題にかんしてはまだまだブッシュ帝国なんかには負けていないと思う。そしてこのゴア氏の熱い要請を真摯に受け止めて、私たちに可能な新たな取り組みを始めようではありませんか。

それにしても私の謎は残る。

あのブッシュなんかより人間的にも政治的にも百層倍も立派なゴアを、どうしてアメリカ国民は大統領に選ばなかったのだろうか? 

あ、日本もそうか、トホホ。

Monday, November 27, 2006

夢は第2の人生である。

*1997/3/25の2週間前の夢


若い米国の青年である私は海で漁をしていた。

えいっとばかりに銛を突き立てると、網の中から金粉で覆われた半魚のアフロディーテが血を流しながら姿を現した。


*2005/3/25の夢


俺は集英社か小学館の広告の人(たぶん梅沢さん )と銀座、新橋、御茶ノ水辺をうろついていた。
あるビルの中で柱によりかかる山本大介に会うが、その顔はのっぺらぼうだ。

そしてやっとパーティが終わって部屋に帰って寝た。

眠ったはずなのに猛烈なカラスの声に目が覚めかけた。

そっと確かめるとそこはどうやら郷里の裏の2階の部屋なのだ。気のせいかさっき
まで俺の側に座っていた女性は大島の紬を着ていた確かに母だった。

しかし天井、部屋、窓の外を見回しても母はいない。

気がつけば俺は鎌倉の自宅の2階で寝ていた。

左手には母ならぬ妻の櫛をしっかり握り締めながら。


*2006年2月某日

それほど大きくないイノシシにまたがって山を下ってくると突然急停止した。

よくみるとその先には道がなく、道の下には川が流れていた。

Sunday, November 26, 2006

勝手に東京建築観光・第2回

双頭のメデューサ
あるいはゴッダムシティのツインタワー



世界のタンゲが、1986年に日本に帰還し、あの新都庁舎コンペに劇的に勝利したとき、当時72歳の孤高の建築家には、すでに分かっていたのだ。

自分がゴッダムシティにつくった新都庁ビルが、その後史上最低の知事によって占拠され、醜悪な政治の伏魔殿と化すだろうことが。

そこでわれらがタンゲは、当初の計画どおり94年に新宿パークタワーという社交界の秘密交際と性の巣窟をつくったのだった。

すると案の定、全世界の有名タレントや芸能人などがワンサカ、ワンサカやって来た。

自分のヒルトンに泊まればただなのに、あのヒルトン姉妹までやって来た。

かくして、いわゆるセレブの隠れ家となったこの最高級ホテルは、右翼方向から流れ込む政治的なパワーに、左翼から性的に対抗することによって、憎悪と愛の定立と相互調和(アウフヘーヴェン)を図ろうとした。

といっても良い子の皆さんはなんのことだかわからないだろうから、

要するに「毒をもって毒を制する」ことにしたわけ。

この2つのビルジングは、それぞれが独立した建物ではない。両々あいまってはじめて建築的価値が生まれてくる内面的なツインタワー、なのである。

それゆえに、新宿駅南口から副都心方向に向かって、かつての武蔵野を国木田独歩のように歩むひとは、政と性との世界最高峰における同時多発的バトルを眺望することができるだろう。

そして、これこそが晩年の丹下健三が企んだ秘かなランドスケープ・デザインの「きも」だったのだ。

Friday, November 24, 2006

勝手に東京建築観光・第1回

沈黙の弔鐘




まず私が大好きな高層ビルから始めよう。

東京タワーの賞味期限が切れたいま、00年代の東京のランドマークといえばなんといってもこのNTTドコモ代々木ビルであろう。

このビルにはオフィスがなく、携帯電話の巨大な乾電池プールのような役割を果たしているらしいが、なんでも毎日40,50名の見学者が訪れ、しかも日本人より外国人が多いと聞く。

ドコモ代々木ビルは、2000年にNTTの不動産部門のNTTファシリティーズによって旧国鉄操車場跡に建てられた。

その端正なシルエットはほとんど醜悪な粗大ゴミと化した新宿副都心の超高層ビル群と鋭く一線を画して、あくまでも美しい。また頂上部のルックスは、ポストモダンンなクライスラービルといったところだろうか。

設計者は02年建築のドコモ川崎ビルと同じく林雄嗣で、そのコンセプトは「現代の仏壇」である。

つまりドコモ代々木ビルは、かの偏狭な靖国神社に代わって15年戦争のすべての死者に哀悼の意を表しつつ、近未来の廃墟トーキョーに向かって沈黙の弔鐘を打ち鳴らしているのである。

夜も昼も…

Thursday, November 23, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語12回

とても危険で観光どころではない鎌倉


家の近くに温泉?がある。
といっても熱海や箱根のような迫力はない。ドラム缶の中に地面から湧くお湯が溜まっていく天然の自噴井らしい。
もしかすると鎌倉唯一のミニ温泉かもしれない。(写真1)

あまり温度は高くないが鎌倉の天然記念物くらいの値打ちはあるだろう。この家の人はたぶん温泉のお湯で洗車しているのではないかなあ。

でも、こんなところでなぜお湯が出るのだろう? それには深い訳がある。

もとよりわが国は名高い地震国だからどこを掘っても1キロくらいの深さからお湯が出る。だから鎌倉に温泉があってもちっとも不思議ではないのだが、それだけではない。

おらっちが住んでいるこの十二所付近には地下にマグマの塊が潜み、13世紀中頃の鎌倉時代にマグニチュード8クラスの大地震が起こったのである。

当時日本の首都であった鎌倉には、1)頼朝が住んでいた鶴岡八幡宮付近の大倉幕府、2)頼朝が父義朝の墓地があった勝長寿院、3)実朝が蹴鞠を楽しんだ将軍別邸の永福寺、4)そして巨大な祭儀センターの大慈寺、と合計4つの重要施設があったが、この大地震のためにわが十二所の大慈寺を拠点とする壮大な七堂伽藍は一夜にして灰塵に帰した。(写真2)

長谷の大仏以前に造られた大慈寺の有名な大仏は、このとき首がぽっきりと折れてしまい、その首の残骸がいまの光触寺(一遍上人建立。頬焼き地蔵で有名)に安置されている。(写真3)

大慈寺跡には現在どういう風の吹き回しか大きなカトリック修道院が建っているが、この裏山の阿弥陀山が崩壊し、盆地の明石谷戸(いまうちのおばあちゃんが住んでいるところ)の地下全体が液状化状態になった、

そうである。(「吾妻鏡」&鎌倉市の発掘調査による)。

あれからおよそ750年。ついこないだの関東大震災をはさんで、鎌倉温泉の温度がじりじり上昇すれば、またまた鎌倉大地震が勃発する危険性はかなり高い。

いざ釜倉、地獄の季節よ、どーんと来い!

Wednesday, November 22, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第十一話

小さな橋の上で




数年前、近所に突然ウクレレの店ができた。

ウクレレといえば牧伸二か高木ブーだが、店長さんはそのいずれでもなく50代半ばの赤ら顔のおじさんだった。

Tシャツに短パン姿でパイプをくわえながらハワイアンを弾いたり、透明なビニールハウスの中でウクレレを木から作っていた。店ははじめはガラガラだったがそのうち東京ナンバーの車でかなりのお客がやってくるようになった。おじさんは彼らにウクレレの製作を教えていた。

3年前の7月中旬の午後7時過ぎのことだった。私がこのお店の左側を入った所にかかっている小さな橋の上で自転車を停めてきょろきょろしていると、そのおじさんが「何をしているんですか?」と声を掛けてきた。

私が「ヘイケボタルを探しているんです」と、答えると、「まさか私の家の裏でホタルが出るなんて!」とおじさんはびっくりしたようだった。そしてパイプを口からはずして、自分が鎌倉の海岸の傍で生まれ育ち、少年時代にはホタル狩りをしたこともあると語った。

私が「昨日の夜もこの橋から3匹見たんですよ。でも今夜はいないですね」と言うと、彼は「もう鎌倉にはホタルなんていなくなったと思ってました。これはいいことを聞きました。今日からしっかり観察しますよ」と、大喜びであった。

私は次の夜も、そのまた次の夜も、ウクレレ屋の後の小さな橋の上で自転車を停めて滑川の上流と下流を眺めたが、それっきりホタルは現れなかった。パイプのおじさんにも会わなかった。

それから1年が過ぎて、去年の7月上旬の午後7時過ぎのことだった。

私はいつものようにこの小さな橋の上に立っていた。

その日はいつもより多い6,7匹のヘイケホタルが、滑川の上にはらはらと舞う姿を私は陶然と眺めていた。

するといつのまにかウクレレ屋から一人の若い女性が出てきて、「ああ奇麗だこと」と言いながらホタルを眺めている。そこで私が思い切って、「今日はこちらのお店のご主人はいらっしゃらないのですか。あのパイプのおじさんは?」と聞いてみると、彼女は「今年の5月に突然亡くなってしまいました。あんまり急なことだったのみんなびっくりしてしまって」と、実に意外な訃報を私に伝えた。

彼女がおじさんの娘か親戚か店のスタッフなのかは分からなかったが、急死のショックは相当大きいようだった。私もあんなに元気そうだったおじさんが、と、信じられない思いだった。

私が、「おじさんにこの橋にホタルが現れることを教えたのは、私なんですよ」と言うと、彼女は、「去年の夏は毎晩ここから眺めていましたがとうとうホタルを見ることができなかったので、今年こそはと楽しみにしていたんですが…」と言い掛けて、どうやら涙を隠すためであろう、急いで店の裏の部屋へ姿を消した。

それから私は、また小さな橋の上から暗闇を自由自在に乱舞するヘイケボタルに見入った。

そしてそのホタルのうちの1匹が、あのパイプのおじさんのような気がして思わず合掌したことであった。

Tuesday, November 21, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一〇話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一〇話

鴨たちはこうしたもの

今日、散歩の途中で滑川をのぞいてみたら、鴨が二つがい浮かんでいた。
ということは、全部で4匹である。
彼らはカップルごとに移動するが、二つのカップル同士が接近して多少の混乱を招くときもあるようだ。
私はなんとなくモーツアルトの「コジ・ファン・トゥッテ」の世界を思った。

鴨のように仲睦まじく生きて死にたい

風雪に耐えゆく鴨の行方かな

Monday, November 20, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第九話

今日はトリの話です。

昨日ご紹介したヘビが出没する川の土手にはカワセミが巣を作っています。

猛烈な勢いで狭い流域を飛び回っては、また巣に戻る。

私はこのカワセミを、かの大作家ジュール・ベルヌとかの大映画作家エリック・ロメールに敬意を表して「緑の光線ちゃん」と呼んでいます。

それからこの川の中にはカモの夫婦やカメやハヤもすいすい泳いでいます。初夏には天然のへイケボタルも飛ぶのです。

トリに話を戻すと、太刀洗や熊野神社近辺ではコジュケイの家族連れに出会います。つい先日もぱったり出くわしてお互いにワアと驚いたことでした。

ここいらではすべての生物の天敵のタイワンリスが大繁殖しているというのに、よくぞ生きながらえていてくれるものです。

彼らはほとんど空を飛べずに山野を農協の団体旅行のように歩き回っているだけ。だからあの凶暴なタイワンリスに襲われればそれこそ聖徳太子の一族のように皆殺しされてしまうのです。

さて今日の午後5時過ぎ、新宿の学校から鎌倉に戻ったばかりの私は、東口駅前交番の隣に立っているクスノキの樹を撮影しておりました。

真っ暗な写真ですが、右端から飛び出していく白いものが見えませんか?

実はこれはスズメです。

そして見えない目をよーく凝らしてこの心霊写真をご覧下さい。そーするとあちこちにスズメたちが飛んだり跳ねたり鳴いたり喚いたりしている姿が見えてくるでしょう? 

なに見えない? まだまだ修業が足らないなあ。

ともかく何十羽のスズメたちがこのように集まって周囲の人々を驚かせております。

私が青池様より譲って頂いたデジカメ名機を彼らに向けていると、会社帰りのおじさんが近寄ってきて尋ねました。

おじさん「なんの鳥ですかなあ?」

私「今日はスズメです」

おじさん「じゃあ他の日にはスズメ以外のトリも止まるの」

私「はい。昔はスズメじゃないトリがやっぱりこうやって大集団でこの樹に群がっておりました。たぶんシジュウカラだと思います」

おじさん「そういえば小田急の藤沢駅前の樹でも、こうやって大騒ぎしているなあ」

このとき横合いからおばさんが登場。

おばさん「でもスズメはなにしてるのかしら?」

おじさん「街なかは人間がおおぜい居て安全だからこうやって集まってるんですよ。町の外はトンビやカラスが飛んでいて危険でしょ」

私「いやいや、彼らはああやって集まって文化服装学院FD専攻の生徒さんと同様に、熱心にお勉強しているんですよ」

おじさん&おばさん「???」

私「ほら、スズメの学校ってよくいうじゃないですか」

おじさん&おばさんは、なおもフラッシュをたきつづけている私を残して、さっさと改札口に消えていきました、とさ。

Sunday, November 19, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第八話

熊野神社付近に出没する謎の人物

 熊野神社は北条泰時が開鑿した朝比奈切通しの交通安全を祈願して紀州熊野から勧請されたという。

山腹に上下2つの社殿が築かれているが、最近下の本殿の左側に時々アマチュアの修験者が出没して無念無想の業に耽っている姿を見かける。

また本殿右側の突き当りには幻の名水を湛えた江戸時代からの井戸がある。

はるばる東京からやってきた名水マニアが汲んでいるようだが、30年前と比べてあまり清潔安全な水とはいえない。持ち帰るのは勝手だが、煮沸したほうが無難であろう。

さらにこの神社の麓付近には、サングラスをかけた青年考古学研究者?が地図を広げて待機しているので、ここらの歴史や遺跡や史跡について教えを乞うのも一興であろう。

この熊野神社は江戸時代に再興されたが、昭和初年から10年代にかけて地元の有力者によって門や狛犬などの寄進を受けた。

その多くが旧満州国の軍需産業で成功した人たちのようだが、日本帝国敗残のあと彼らは無事に母国に辿り着けたのだろうか? 

天国から地獄へ、一瞬の栄華から無限の奈落の底へ突き落とされた彼らの運命やいかに? 

戦争は断じていけないな、と、いつも思いながら、私は毎日のようにお気楽に散歩しているのである。

Saturday, November 18, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第七話

蛇、長すぎる。 
と、言ったのは博物誌を書いたルナールだが、最近あまり身近にこの「長モノ」を見る機会が減ったような気がする。

しかし実際にはそうでもないようで、つい2、3週間に私の妻が太刀洗で短いやつ、それから左の写真の細長い道で2メートルになんなんとする超特大のアオダイショウに遭遇したそうだ。
しかも2回も続けて出会ったそうだ。

そのとき自転車でこっちからあっちへ行こうとしていた彼女は、その超特大が右側のつつじの根本にゆっくりと移動するまで息を潜めてじっと立ち止まっていたという。

ああ惜しいことをした。そいつがしずしずとグロテスクな巨体を動かすところをぜひとも見たかった。

そう思って今日もこの道を行きつもどりつしたのだが、ついに超特大は姿を現さなかった。

もう冬眠の準備に入ったのかもしれない。

つつじの根本でねんねぐーしているのかもしれない。

この長い道の左側を流れるのは滑川だが、うちの健ちゃんは、昨日紹介したO家のマサ君たちと一緒に、少年時代によくこの川に入ってウナギ取りをしていた。

両手でウナギをつかんだと思ってよく見ると蛇だったのでびっくりして投げ捨てた、なんて楽しそうに語っていたっけ。

そういえば健ちゃんは蛇が好きだった。石切り場跡地にはヤマカガシの巣があったらしく、我が家の庭には春になると小さなヤマカガシがうじゃうじゃ出てくる。健ちゃんはそいつらを捕まえては、首に巻いたり地面で這わせたり、動くおもちゃ代わりにして何時間も遊んでいた。

そういえば我が家が新築されて間もないある日の朝、なにやら変な気配がするので私が寝たままの姿勢で頭の先に目をやると、40センチくらいの長さのアオダイショウがチラチラと舌なめずりしながら写真(中)の植木鉢のへんでうごめいていた。

思わず凍りついてしまった私は、「どうしよう、どうしよう」とうろたえてパニクったのだが、隣の部屋でねんねぐーしていた健ちゃんの名を呼んだ。

やって来た健ちゃんは、傍にあった座布団をぱっとアオダイショウの上にかぶせ、それから両手をゆっくり座布団の下に差し入れ、しばらくもぞもぞやっていたが、やがてアオダイショウの胴体をそおっと引き出し両腕に優しく抱え込んだので、私は彼のとても少年とは思えないきわめて冷静沈着なその一連の所作にいたく感動したものだった。

健ちゃんはしばらくアオダイショウと遊んでから家の前を流れる滑川に逃がしてやった。

するとアオダイショウのあおちゃんは、「ありがとう健ちゃん、さようなら。またあそぼ」
といいながら流れに消えたのだった。

私は健ちゃんと違って蛇は怖くて触れない。何回見てもおぞましいその不気味なぐねぐねを目にすると、総身にぶるぶるっつとくる。そのぶるぶるが、忘れていた生のなまなましさを思いださせてくれる。

そういえば、つい先日逗子開成高校の生徒が捕まえた蛇と遊んでいたら、何人かがそいつに咬まれてしまって保健室に行ったらはじめてマムシだと分かったそうだ。

マムシも蛇だが、これはアオダイショウが黒化した攻撃的なカラスヘビと並んでとても危険だ。

私は田舎の少年時代に昆虫採集をしていてマムシに追いかけられたことがあるが、とても恐ろしかった。

谷川でカニ取りをしていてカラスヘビに追いかけられたときも怖かった。

シューという不気味な声を上げて牙を剥きながらまるでキングコブラのように1回大きく跳躍し、また着地してからすぐに体勢を立て直してまたジャンプしながら襲い掛かってくる。思い出すだにまた怖い。

鎌倉のマムシも凶暴である。

右端の写真は朝比奈の滝であるが、この上流がその名も「蝮ケ谷」という谷戸だ。

だいぶ以前にあるカメラマンがこの谷戸にわけ入ったら案の定マムシに襲われて三脚に噛み付かれたので三脚を放り出したまま逃げだしたそうだ。

おおコワ。

Friday, November 17, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第六話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第六話

小早川家にも佐々木家にも秋が来た。O家の秋は、芸術の秋である。

長く続く塀に長い蛇のようなツタが絡み付いて独特の風情がある。

O家は江戸時代の名主の家で、この付近で切り出される鎌倉石の石切り場でもあった。

もっと遡ると中世鎌倉時代にはこの地点が鎌倉から六浦港、金澤文庫、金澤八景、そして江戸、房州に通じる基幹街道の関所であった。

 O家の向かいのちょっと高くなった土手の上に馬頭観音が鎮座しているが、この土手が関所の残骸である。現在の北鎌倉駅の大船駅寄りの土手にも同じような関所の残骸がある。あの一遍上人がもっとも鎌倉に接近したのはこの付近であった。

二つの関所を結んだ直線の真ん中が鶴岡八幡宮である。そして八幡宮からまっすぐ北上するとして半僧坊にどーんとつきあたるのだが、この半僧坊を頂点とした2等辺三角形を眺めてみると、明らかに2つの関所が当時の鎌倉幕府の都市計画に基づいて設置されたことが分かるだろう。

 O家から近い私の小さな家は、数百年の歴史と伝統に燦然と輝くO家が所有していた石切り場の跡に立っている。

そしてこの石切り場から切り出された鎌倉石は、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和30年代までの東京の民家の台所のかまど(へっつい)の素材になったわけである。

そしてそして、今は亡き愛犬ムクは、その由緒ある石切り場の跡に盛り土された小さなお庭でねんねぐーしています。

Wang!

Thursday, November 16, 2006

最近気になる日本語

最近気になる日本語

○敬愛なるベートーヴェン

今日の夕刊に「敬愛なるベートーヴェン」という映画の広告が出ていた。キャッチフレーズによれば、「第9誕生の裏に耳の聞こえないベトちゃんを支えた女性がいた」」という楽聖物語らしい。

まだ見ていないのでその内容はともかく、気になったのはその題名である。

「敬愛するベートーヴェン」とはいっても、「敬愛なるベートーヴェン」とはいわないはずだ。それをいうなら、「親愛なるベートーヴェン」だろう。

この映画の字幕翻訳はベテランの古田由紀子、字幕監修は音楽学者の平野昭、字幕アドバイザーなる者に、大汗かくけど下手くそ指揮者の佐渡裕という豪華絢爛たる(豪華絢爛なるとはいわない!)専門家がついていながら、肝心かなめの題名に奇怪な日本語をクレジットするとはどういうわけだ!? 

それともいよいよ私の頭が狂ってきたのだろうか?


○応援よろしくお願いします!

応援するのはこっちの自由だろ。

応援は、選手にリクエストされて、したりし、なかったりするものではないだろ。

おマエさんもいちおうスポーツのプロなんだろ。プロならプロらしく自分だけの言葉で語り給え。
 

○よろしくお願いします!

まだ言ってるのか。

それって挨拶なの? 挨拶なら「こんにちは」でいいでしょ。

いったい、何を、どう、よろしくして欲しいの? 

それをちゃんとした日本語で言ってみなよ。


○もう一度盛大な拍手をお願いします!

今度の修正日本国憲法の第9条に書いてあるでしょ。

拍手はいかなる場合にもこれを強要してはならない、って。


○元気をもらう 癒される

いま流行の?「元気をもらう」とか「癒される」という言葉を軽々しく多用する人は、じつはその言葉を挨拶代わりに使っていて、本当に元気になったり、癒されたりはしていないのだと私は思う。

他者と自分の関係をまるでロッテのバレンタイン監督が大好きなチュウーインガムのようにイージーに接着しようとしているだけだと思う。

そもそも元気はなるものであって、もらうものではない。元気は他人に与えるものであって、むやみやたらと「もらう」ものではない。

しかし行きずりのティッシュペーパーなどのようにたまたま「もらってしまう」こともあるだろう。

その場合は「元気をもらった」とはいわない。正しくは「元気づけられた」という。

もちろんあなたが本当に「元気をもらった」と思っても一向にかまわない。その恩人に対して心の中で深い感謝をささげるべきだ。しかしその奇妙な日本語をミキシィ日記に書いたり、まして人前で公然と発音してはならない。

この表現は「元気」という日本語の価値をおとしめ、自分を粗野な人間のように思わせてしまう下品なものの言い方であるということを知るべきだ。

「癒される」という言葉もそうだが、「元気をもらう」と言ったり書いたりした瞬間、あなたは恥ずかしくならないだろうか? もしそうなら、

あなたって意外と恥知らずな人なんですね。

Wednesday, November 15, 2006

拝啓 安倍内閣総理大臣殿

拝啓 安倍内閣総理大臣殿

教育基本法の国会審議等にてご多忙のところ、誠に恐縮でますが謹んで一筆啓上奉ります。
総理はご存知かどうか分かりませんが、最近世界で一番目か二番目に卑猥な古典音楽がわが神国ニッポンにて頻繁に上演され良識あるわが帝国のインテリゲンちゃんおよび婦女子の顰蹙を買っております。その音楽とは、かのリヒヤルト・シュトラウスのオペラ「薔薇の騎士」、とりわけその序曲冒頭の音楽であります。

物語の舞台はマリア・テレジア治下のウイーン。いきなり指揮棒が一旋すると、管楽器の不協和音が鳴らされ、と同時に、深紅のカーテンが左右にさっと開かれます。すると貴族の寝室のベッドに転がっているのは妖艶な元帥夫人と青年貴族オクタビアンではありませんか。

そしてこの二人があろうことか、いきなり公衆の面前で熱烈なラブシーン、いやいやそんな生易しいものではありませんぞ。な、なんとリアルな性交を繰り広げているのです。そしてリヒヤルト・シュトラウスの音楽は、その二人の性交を、まるで舌なめずりをするように、いやらしく、ねちねちと、正確無比に劇伴するんでありますよ。

(卑しくもわが日本帝国の権威をその愛嬌ある笑顔と意味不明の曖昧な言説で体現される総理に対して、こんな軽薄で露骨な言葉を安易に使っていいのか、不敬罪でニャロメの警官にすぐにもタイホされるのではないかと激しく惑うのですが)、高鳴るホルンの一撃は余りにも早すぎるペニスの勃起であり、次なる弦楽器の強奏は、成熟した年増女の「警告と教育的指導」であり、しばらく血沸き肉踊る猛烈な揉み合いが続いたあとで、全木管金管楽器が悲鳴を上げて咆哮するフォルテッシモは、若者のあまりにも性急で早すぎた射精であり、そこにすかさず分厚く覆いかぶさる弦楽器は、やむを得ず自分のエクスタシーを早めようとする元帥夫人の怒りを込めた焦りであり、やがてゆるやかに奏される序曲の終わりは、すなわちセックスの終わりとそれなりの性的満足の表明、なのですよ。

良い子の皆さん! いや安倍総理大臣閣下! こんな世にも猥褻でセックスむき出しの演芸を、馬鹿で低脳な他の国はともかく、神聖で高潔で比類なく美しいわが国の公衆の面前でオラ、オラ、オラと見せつけてよいのでしょうか?
 
今からでも遅くはありません。これ以上ジコチューで怠け者で惰弱で国民を大量生産しないためにも、天皇陛下のためにイランでもイラクでも南極でも月でも金星でもよろこんでじゃんじゃん死ねる汝忠良で愛国心に富んだ小国民を育成するためにも、とりあえず教育基本法の改正と防衛省昇格審議は後回しにして、大至急「薔薇の騎士」の公演禁止を今期の大政翼賛会にて即議決していただきたいのです。

以上、なにとぞ応援宜しくお願い致しますね。
アラアラかしこ。あまでうす拝。

*参考 R.シュトラウスの「バラの騎士」はカルロス・クラーバー指揮のウイーン国立歌劇場またはバイエルン歌劇場による演奏。同じくカラヤン指揮のウイーン国立歌劇場またはフィルハーモニア管演奏のできれば映像付の録音がおすすめです。

Tuesday, November 14, 2006

静子さんの思い出

静子さんの思い出



最初は確か小学生が死んだ。
次に、中学生が死んだ。
それから、高校生が死んだ。
校長先生も死んだ。
今度は、赤ちゃんが死んだ。
いや、殺された。

毎日毎日誰かが死んでいく。
毎日毎日誰かが殺されていく。

いったいぜんたいどうしてこんな国になったのか。
いったいぜんたいどこが美しい国なんだ。

誰だって死にたくなるときがある。
ボクだって小学生のときに死にたくなったことがある。

ほんとは死にたくなかったけれど、
きっと学校でなにかつらいことがあって、
ちょっとしたもののはずみで、「死んでやる」と言ってしまったら、
おばあちゃんの静子さんが、
「だめですよ、そんなあほなことをしたらだめですよ。神さんが絶対にお許しにならないですよ」
と、真剣な面持ちでつよくつよく言ってくれたので、
その一言のおかげでボクは死ぬことをやめることができたのだ。

死ぬことにははじまりとおわりとその真ん中があって、
そのはじまりの部分で誰かがきちっとストップをかけると
なかなか次に進めなくなることを、ボクは学んだ。

静子さんは、日本帝国が朝鮮半島を植民地にしていた時代に
現在の韓国のどこかで豊かな暮らしをしていた。らしい。
ご主人と死別した静子さんは、ボクの祖父の小太郎さんに
のぞまれて再婚し、それでボクのおばあちゃんになった。

静子さんは少しだが朝鮮語を話し、ボクたちに朝鮮語で
賛美歌を歌ってくれた。
ちょっと得意そうに歌った。
その歌を彼女の思い出のために、いまここでちょっとだけ歌ってみようか。

♪エスサーラッム、ハッシンム、ウールク ターリク、マーリルネ
ウーリードル ヤッカンナ、エスコンセ マートタ
エールサラ、ハッシン、エールサラ、ハッシンム
エールサラ、ハッシンム、エスコンセ、マートタ 

これはボクが知っている唯一の韓国語
これはボクが歌える唯一の韓国語の賛美歌461番「主われを愛す」
そして
これが静子さんの贈り物
そして
いまボクが死なないでこうやってまがりなりにも生きていること
それも静子さんの贈り物

ありがとう、静子さん
ありがとう、静子さん

そしてボクは願う。
いま猛烈に死にたくなった君たちに向かって
突然ボクの静子さんが現れ、
「だめですよ、そんなあほなことをしたらだめですよ。神さんが絶対にお許しにならないですよ」
と、つよくつよく言ってくれることを。

ボクの静子さんのような誰かが次々に現れて、
「だめですよ、そんなあほなことをしたらだめですよ。神さんが絶対にお許しにならないですよ」
と、つよくつよく言ってくれることを。

Monday, November 13, 2006

月曜日記

朝電車の中で冠雪した富士山が見え、「ああ今日はもうこれを見ただけでよし」と、満足した。
それでも引き返さずに新宿まで行って学食でまたしても650円の「海鮮丼」なるドンブリを頼んだら、なんとなんと魚のほかに私の大嫌いな納豆とやまいもをおろした奴が(おくらと一緒に)ご飯に乗っかっていた。

これって海のもんじゃなくて山のもんだろ。海鮮をやめて「海千山鮮丼」に改名しろ、と文句をいいたくなった。

おくらは食べたが結局全体の1/3は食べられなかった。もお二度と海鮮関係は発注しないからね。食い物のうらみは恐ろしいぞ!

 ぷんぷんと怒りながらキャンパスを歩いていたら、ぱったりと文化女子大の教授をしている松平さんと遭遇。前の会社で彼女はディレクター、私はチンドン屋でペアを組んで、フランスの「ミックッマック」というブランドを大売出ししていたことがある。この方はある日突然、かの会津藩の松平容保公の直系のご子孫と結婚されたのでみんな驚いたものである。

松平妃と別れてから、文化の博物館でメンズモード展を見た。

2階の入り口にフランス革命当時のスーツが置いてあった。私の偏愛するモーツアルトの肖像そっくりであった。

私はドラクロアの自由の女神に描かれているサン・キュロット=パンタロンの第3階級服はないかとキョロキョロ探したが、それはなかった。ルイ16世の時代の貴族のよそおい、そしてモードの主権がフランスから英国に移ってからのフロックコートや燕尾服やサビルローのスーツなどがずらずらっと並んでいて壮観だった。

そうかと思えば、1947年製のリーバイス社の501XXがジーンズではなく、オーバーオールやブラウスという名前で登場。見ればパンツにリベットが打ってない。その頃わが大日本帝国との戦争中で金属の使用は中止していた、と注釈がついていた。あの物資が豊かな米国でも衣料品は節約していたのですねえ。ちょっと意外だった。

それからインターネットの進化について例によって熱血大授業を行い、いっさんに鎌倉に帰った。大船の上空でサガンの小説のような「素晴らしい雲」を見た。(カメラを忘れたのが残念)

鎌万という安売り八百屋で「海鮮丼」の口直しに好物の柿を買って、太刀洗行きの京急バスに乗ろうとしたら、突然騒がしい鳥の鳴き声。

見上げると小さな楠の木にスズメの大群がむらがってぴーちくぴーちくと鳴き騒いでいる。これこそは鎌倉13大名物のひとつであろう。(またしてもカメラを忘れたのが残念じゃ)

百匹はくだらない数のスズメたち(それ以外の鳥のケースもある)がこの季節しばしば駅前広場一帯で示威行動するのはいったいどうしてであろうか? 

隣にいたおばさんが、「いったいなんておしゃべりしているんでしょうねえ?」と尋ねるので、私が「そおですねえ。なんていっているのでしょおねえ」と懸命に言葉を探している間に、なんと乗ろうとしていた太刀洗行きが発車してしまったではないか。

その次のバスはハイランド行きで行き先が違う。仕方がないので東急ストアをうろうろしてしてからバス停に戻ると金澤八景行きが来ていた。ヤレヤレと思って乗り込むと、どこかの団体で超満員。時ならぬ通勤ラッシュの痛苦に耐えながら立ちんぼうで、やっとこ、さっとこお家に辿り着きましたとさ。

ああ、東京に出るのは疲れるなあ。

Sunday, November 12, 2006

昔の歌

昔の歌

☆西本町の歌

西本町の路地裏の遊び場で、3人の少年が地べたに座っていた。

「でんばら、でんばら、でべそ」

と、小学3年生の長井まことが歌うようにしていった。

すると、同じ3年生の出原ひでおが、同じメロディで

「なーがい、なーがい、あ、そ、こ」

と、歌った。

それから2人は、意味深長な含み笑いをしながら

一年坊主のわたしを見た。

わたしは、「あ、そ、こ」がどこであるかを理解していたが、

黙っていた。

そのとき西本町の空はゆっくりとたそがれ、

地軸はどろろ、どろろと回っていた。


☆挽歌

武満1周忌のFMを聴きながら思う。

やはりこの人の音楽はあくまでも日本の上質の音の調べなのだなあ。

現代音楽なのに、古層には弥生人の叙情が深々と歌われている。

そしてそれがそのまま世界の隅々の人々を感動させるのであるなあ。

坂本龍一君も高橋鮎生もそこを目指しているのだろうが、まだまだだなあ。

君たちは少し頭が良さすぎるよ。もっと阿呆になりたまえ。

いま武満の最高傑作の「波の盆」が私の部屋に鳴り響いている。

これは今は亡きセゾングループの、70年代日本の、青春の、その他もろもろの古きよきものたちへの挽歌です。

諸君。涙せよ!

Saturday, November 11, 2006

嵐山光三郎著「昭和出版残侠伝」を読む

嵐山氏の本はほとんどすべて読むに値する。

本書は上司の「ババボス」が不当な仕打ちを受けて退社したために義によって名門平凡社を腹きり退社した嵐山バガボンをはじめとする「仁義礼編集屋兄弟」たちが日夜繰り広げた文字通りの「昭和出版残侠伝」である。

平凡社の「太陽」の編集長であったバガボンは、退社後なんと新宿のホームレスの群れに身を投じる。

一度やってみたかったというのであるが、すごいことをするものだ。

そのうち学研の協力によって「青人社」を立ち上げたババボスが、浮浪者バガボンを誘って共に「ドリブ」などの新雑誌を編集発行するに至る。

この間バガボンの僚友の篠原勝之や南伸坊、糸井重里、鈴木いづみ、赤塚不二夫、赤瀬川原平、松田哲夫、村松友視、椎名誠などの諸氏が出入りしてバガボンを応援するのであるが、それらのメンバーのうち、私にはかつて仕事を共にしたことのある安西水丸や篠山紀信、木滑良久、小黒一三などの名前が懐かしかった。

昭和56年、梁山泊のようなこの新興出版社に集まった編集部の面々は、いずれも一騎当千の侍ぞろいだが、私は筒井ガンコ堂こと筒井泰彦氏の名前に覚えがあった。

調べてみたら太古の時代に京都大学を受験した仲間と判明し驚いた。

彼も私も全国各地からやってきた受験生とともに、府庁前のたしか松原町の安宿に泊まった。夜店が出ており、古本を売っていたことを昨日のように覚えている。

我々はすぐに仲良くなり、受験の前日だというのに同室の5,6名とともに与太話をして夜を明かした。

筒井氏は佐賀県唐津市出身のインテリゲンちゃんで眼から鼻に抜ける秀才だったが、そのほかにもユニークな人たちが多かった。

はじめのうちは筒井氏が「武士道とは死ぬことと見つけたり」という「葉隠」の話をして一堂をけむに巻いていたのだが、次第に色めいた恋だの愛だの話になった途端、非常に朴訥な東北弁の男が、「女はやればええです」とランボウな実体験を披露し始めたので、さすがのガンコ堂も私もむっつり黙り込んでしまった。

こういう問題についてこういう角度から発言できる人物がいようとは夢にも思わなかったのである。文字通りのカルチャーショックであった。

翌朝私たちは睡眠不足でふらふらの私たちは、それでも必勝を期して京大キャンパスで試験を受け、それっきり二度と再び会うことはなかった。

もともと頭の弱い私は、数学が200点満点中15点しかとれずに落第したのだが、筒井氏は見事法学部に入学し、その後上京して平凡社に入社したらしい。

2代目ドリブ編集長をつとめたのち、氏は「帰りなんいざ、田園まさしく荒れなんとす」と陶淵明の詩を書き残して郷里に帰り、佐賀新聞の論説委員を務め、今では九州のがんこ堂として超有名人になっているという。

さて急いで本書の戻ろう。

もっとも感動的なくだりは、やはり最後のババボスの不慮の死であろう。

偉大なる先輩を惜しむバガボンの弔辞は涙を誘う。

それからもうひとつ。バガボンが名門大会社を辞めた途端に、それまでの親友のほとんどが去っていった、と述べた個所は身につまされるものがあった。

Friday, November 10, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第五話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第五話


☆少年時代に耕君が作った愛犬ムクの歌

♪ムクムクムク、ムクムクムク、ムクは犬だよ~。


☆今日私が作った亡き愛犬ムクの歌

道の上には、山がある。

山の上には、神社がある。

神社の上には、空がある。

空の上には、ムクがいる。

ムクの上には、神様がいる。

ムクは神様に吠えるだろう。

WANG! WANG! WANG!

Tuesday, November 07, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第二話

数日前に山道を歩いていたら、見慣れぬ赤土が眼に飛び込んできた。

おそらく誰かがここで半日がかりで深い穴を掘って、新鮮なヤマイモを手に入れたのだろう。

この辺はヤマイモが自生している。毎年この近所でヤマイモを掘っているので、あちこちにポコポコ穴が開いている。

数年前、たぶんその人と思われるおじいさんが、スポーツカブの後に、長いヤマイモと真っすぐな鉄の棒を乗せて家に帰っていくところを見たことがある。鉄棒の先は鑿のように尖らせてあった。

しかし私は、そのおじいさんを全然うらやましくはなかった。なぜなら、私の三大苦手のひとつがトロロだから。

Monday, November 06, 2006

理想の死に方

また日経からの引用で申し訳ないが、今日の夕刊の「プロムナード」欄に出ていた話。

著者の伊藤礼氏は、父親に似て、“朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをする”人であるようだ。

そして氏の父親である小説家・詩人の伊藤整氏ももちろん稀代の眠り男で、その日も
「ああ眠い…ああ眠い…」と、言いながら眠っていたそうだ。

そこで整氏の奥様が「いいのよ、眠いときにはゆっくりおやすみなさいよ」と言うと、それで安心して、すぐ息を引き取られたそうだ。

ああ、なんと素晴らしい死に方であることよ!

そしてこの短いエッセイは、次のような言葉で閉じられる。

「命日は11月15日で、この前後はいつも晴天がつづく」

私はこのくだりを読んで、晩年の中原中也が長男文也が生まれたあとで、「数週間にわたって日本全国晴天続く」と大書した日記のことを思った。

Sunday, November 05, 2006

私の名前の謎

今日の日経の文化欄に谷川健一氏が最近亡くなった偉大な独学者、白川静氏の追悼文を書いていた。

白川氏を吉田東吾、南方熊楠、折口信夫というアンチ・アカデミズムの偉大な「狂気の人」の系譜に位置づけ、その巨大な喪失を悼む見事な文章であった。

谷川氏によれば故人と折口信夫の考え方は酷似しているそうだ。

たとえば「歌」という文字は、白川氏によると、神への誓約の文書や祝詞を入れた器を木の枝で叩き、口を開いて神に哀願し強訴する形を示したものであり、折口にとって「うたう」というのは、「うたったう」と同根の語であって、神の同情に訴えるのが歌であり、この二人の碩学に共通するのは、事物の始原に「神」、それも荒々しい怪力乱心を置いたことであるという。

それから、私の名前は眞というのだが、白川氏によれば、この字は「匕」と「県」から構成されている。

匕は人が骨と化している形であり、県は眼が大きく開いた形で、つまり眞は、「行き倒れた死人の様子」であるという。

(うーん。このイメージは柿本人麻呂みたいでかっこいいぞ!)

そして、その死者の魂を鎮めることで死者は保護霊に転化し、永遠なるもの、真実なるもの、という今使われている「眞(真)」の意味になる、というのである。

!?

すると私は、誰かに頼むか、あるいは自分で自分の霊を鎮めないと、その名に値する人物になれないのでしょうか。 

突然、父母未生以前の巨大な謎が、深い淵からゆっくりと浮かび上がってきた。

ような、気がする秋の一日であった。

Saturday, November 04, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一話

今日から「鎌倉ちょっと不思議な物語」を不定期で連載いたします。
どこが不思議なのかは誰にも分からない、というかなりへんてこりんな内容になるはずなので期待しないでね。

私の家の近所に「太刀洗」という井戸があり、それが鎌倉時代以来この付近の地名になっています。鎌倉には10箇所の名水が出る井戸があったと伝えられていますが、現在ではどこも飲めません。太刀洗は10名井には入っていませんが、上の岩盤を伝って2口の水が流れ、それぞれ水質を異にしているそうです。これを飲もうと思えば飲めます。しかし、その安全性は保証しかねます。

どうしてこの流水を太刀洗というのでしょう。それはこの井戸のすぐ右上の丘の上に千葉出身の大豪族平広常の屋敷があり、その屋敷内で梶原景時が広常を斬り殺し、その血刀をこの井戸水で洗ったからだ、と「吾妻鏡」には書いてあります。

2人とも源頼朝の家来だったのですが、どうも広常は頼朝に信頼されていなかったようです。広常は平家打倒に立ち上がった頼朝の助っ人のなかでは最大武装集団だったのですが、なかなか鎌倉に到着せず、景時などをやきもきさせました。そして武家政権成立後も頼朝からみれば不穏な動きもあったので、恐らくは頼朝の意を体した景時が将棋か碁をうちながら広常の油断をみすましていきなり殺してしまったらしいのです。

ちょうど去年の今頃でした。その景時がおよそ800年前に血まみれの刀を抱えて大刀洗の井戸にやってきた、であろうその場所に、大きなスズメバチの巣ができました。すでに2回こいつに刺され、もう1回刺されたらあの世行きだと医者から警告されている私は、すぐに市役所に連絡して撤去していただきました。

Friday, November 03, 2006

ある晴れた日に

ある晴れた日に

「ああ、中央線の空を飛んであの子の胸に突き刺され!」
と、いまさっき友部正人が叫んでいたね。

ちょうど20年前の昨日も東京は晴れていた。

その日、渋い2枚目俳優のケイリー・グラントが82歳で死んだ。

ちょうどその日、同じ英国生まれの女優ジェーン・バーキンが来日していて、私は帝国ホテルに滞在していた彼女からそのニュースを聞いたのだった。

ジャパンタイムズを両手で握り締めた彼女は、猛烈な勢いで、フランス語ではなく英語で彼女とグラントとの思い出について語ってくれた、ようであったが、残念なことにどういうエピソードであったのか私の貧弱な語学力ではまるで理解できなかった。

彼女の名前はBirkinなのに、私が間違えてホテルのレシートにVirkinとサインしたのを見ると、彼女は何度も「ヴウワーキン」と発音しながら、ミックジャガーそっくりの顔をして、私を横目で見て首を振った。
ことを思い出した。

Thursday, November 02, 2006

Itの降臨

今日は、まず出光美術館の国宝「伴大納言絵巻」をざっと見物してから(超満員)、文化の文化祭に行きました。

今年のファッションショーは「中心軸を広げよう」というテーマのもとで遠藤記念館にて開催されました。

この記念館はいまでは再建されてふつうのコンクリの建物になってしまいましたが、昔はけっこう開放感に満ち、音響に秀でた木造建築でした。

あるとき私の僚友がここでファッションショーをやったのですが、そのとき会場で小型飛行機を飛ばしたのがおおうけしたことをはしなくも思い出しました。

今回は今流行のかわいい系からエスニック、ジャパネスク、ゴシック、ロマネスク、ピカレスク等々、さまざまなトレンドが多彩な切り口で展開され、過去、現在、未来のモードを小さな箱庭に凝縮して手際よく見せていました。

私のクラスの学生諸君も「La Sainte Priere」というネーミングで、宗教儀式をモチーフにしたブラックゴシック調に意欲的に取り組み、見るべき成果を挙げていました。先日本物を見たばかりの「風神雷神図屏風」をあしらった和洋折衷の高雅な世界を創造した「雅」も面白かった。

 文化服装は服飾の専門学校であるとはいえ、けっしてプロフェッショナルではありません。

アマチュアの人たちがつたない技術をありあまる情熱とプロを凌ぐ鋭い感性でカバーしながら、自分たちが好きで好きでしようがないものを全身全霊をこめて作り上げ、それを私たちに見せてくれるのです。

だから既成デザイナーのショーはとは違う生まれたばかりの新鮮さと生命力にあふれているのです。

例えば東コレの超ベテランデザイナーのショーを見ても、感心こそすれ感動などはこれっぽっちもしません。何年もショーをやればやるほど作り手はアイデアが枯渇し、疲労困憊し、作品を作ることに喜びではなく苦痛を思えるようになるのです。

それはクラシックのオーケストラも同じです。

例えば日本でもっとも優秀だといわれているNHK交響楽団と私の地元の全国的にはほとんど無名の鎌倉交響楽団。どちらが良い演奏、つまり人間を感動させる演奏をしているでしょうか? 

一流の音楽大学を出た優等生プロがやっている生真面目だけがとりえで、退屈で、凡庸で無個性な前者に比べて、技術的にはへたくそかもしれないけれど、音楽が好きで好きでやっているアマチュアオケの後者のほうが10層倍も100層倍もその演奏の中身は素晴らしいのです。

音楽もモードも映画もお芝居も、その他なんでも、そのパフォーマンスに接して、私たちが面白い、すごい、素晴らしいと感じるものには、「It」があります。「それ」があるのです。

演奏やパフォーマンスの瞬間に、舞台の上から「それ」が降臨する黄金の瞬間があるのです。それこそは奇跡の訪れ、芸術の法悦、もうこれで死んでもいいとすら思えるエクスタシーの瞬間です。

しかしながら「それ」は稀にしか訪れません。私はかつて2年間毎晩2つの音楽ライブに接したことがありますが、「それ」がやってきたのはたった2回でした。それでもその「It」が楽しみで、コンサートゴアーはせっせせっせと通いつめるのです。

「それ」がやってきたときには、演者にも聴衆にもすぐにわかります。しかし「それ」の訪れは誰にも予想できません。

しかし私は「それ」はプロの手だれて集団よりも、純真無垢?なアマグループの演奏やパフォーマンスからもたらされる確率が高いと確信しているのです。

Wednesday, November 01, 2006

音楽が聴こえ、演劇が見えてくる批評

私は、あまり他人の文章を読んで感激しない非人情な人間だが、例外もある。

先日畏友、北嶋孝氏(マガジン・ワンダーランド編集長)の『千秋残日抄』“第5回 青い鳥「夏の思い出」の思い出”を読んでとても心をうたれた。

劇団「青い鳥」の歴史的公演をじんわりと回顧する、知と情意が美しく調和した、ほとんど奇跡的な達意の名文である。

自分が一度も見たことがないお芝居について書かれた文章に感動するなんてはじめての経験であった。

朝日新聞では吉田秀和氏のエッセイ「音楽展望」がついに再開された。

この人が03年に亡くなられたドイツ人の奥さんと手に手をとって鎌倉の街中をゆっくり歩いている姿を時々見かけたものだ。

愛妻を亡くしたショックから徐々に立ち直りつつある音楽批評のゾシマ長老は、すでに「レコード芸術」誌上では健筆をふるっておられたが、ついに朝日にも復帰されたわけで慶賀に耐えない。

 しかも氏は、私の好きなモーツアルトについて書いている。

フルトヴェングラーが戦後再開されたザルツブルグ音楽祭で指揮をした「ドン・ジョバンニ」について氏が述べているくだりを眼にした瞬間、私の耳に、突然その指揮者特有の重々しい序曲が鳴った。

その人のたった1行の文章から実際に聴こえてくる音楽…これこそが本物の音楽批評というものだろう。

*週刊マガジン・ワンダーランド(Weekly Magazine Wonderland)は毎週水曜日発行。申し込みは
http://www.wonderlands.jp/info/subscription.html
またここに掲載された原稿は、順次
http://www.wonderlands.jp/ に転載されます。

Tuesday, October 31, 2006

宗教的情熱について

宗教的情熱について

政治と宗教に熱中することほど危険なことはない。

政治と宗教は敵に寛容ではない。「汝の敵は、殺せ!」という恐ろしい呪文を胸に、あのオウムも、クロムウエルもルターも、ジャン・カルバンもブッシュも、ビンラディンも、キリスト教の新旧両派も、イスラムの原理主義も、敵を倒し、殲滅することに昨日も今日もそして明日も情熱を傾けるのである。

政治と宗教の本質は、恋愛と同じように原因不明の病いである。

それは猛毒ウイルスの伝染病のように一世を風靡し、嵐のように来たって、また嵐のように去る。

闘争の当事者は、この嵐の来襲に理性的に対応することは不可能である。ただ嵐に向かって立ち上がり、嵐によってなぎ倒され、その間におびただしい敵を殺し、敵からも殺戮され続ける。そうしていつの間にか嵐の季節は終るのである。

私は大本教の本拠である裏日本の山陰の街に生まれ育ったが、この小さな盆地にはさまざまな流派の仏教とキリスト教、大本教から天理教、黒住教、創価学会にいたるまでの新興宗教がほとんど全部揃っていて、いわば選り取り見取りであった。

私が親の指令で通っていたプロテスタント教会のある牧師は、ある晴れた日曜日の朝、教会の窓ごしに見える巨大な新興宗教の本殿を指差して叫ばれた。

「見よ、あれなる悪魔の宮殿を。すべての多神教は邪宗である。サタンよ、退け!」

 そのマルチンルター張りの説教があまりにもかっこよすぎたために、いらい私はなぜか「一神教は多神教よりも優位に立つ」という迷信を盲目的に信心するようになり、そのデマゴギーから自らを解放するまでに長すぎた無駄な歳月を必要としたのだった。

 ところでその危険な2つの麻薬である宗教と政治をミックスした組織といえば、ドイツではキリスト教民主同盟、わが国では公明党ということになる。

いずれにせよ猛烈にエネルギッシュで触れば暴発する危険な政党である、か?、と一時は疑われた。特にかつて公明党の母体である(であった?)創価学会の布教活動は鎌倉時代の日蓮もかくやという凄まじさで、彼らの「折伏」攻勢にたじたじとなった人は数多かったものである。

私はかつて京都市左京区の百万遍をちょっと上がって、叡電の線路をまたいでからちょいと左に入った田中西大久保町に1年間下宿していたが、この家の日蓮正宗=創価学会信者のおばあちゃんの朝晩の勤行は、静かな古都の四囲に鳴り響くほどに凄かった。

ところが昔はいざ知らず、最近の学会員は奇妙なまでにおとなしい。特に正宗系の大石寺と絶縁してからは、あの名物だった勤行時間も短縮することが許され、念仏のボルテージも昔日のそれに比べていくぶんトーンダウンしているようだ。

そればかりではない。公称827万、日本人の16%が学会員というこの巨大組織の内部ではさまざまな胡乱な現象が進行しているようだ。

我が家の近所には創価学会の人が多いし、かねてからこの宗教&政治コラボレーション集団に興味のあった私は、島田裕巳著「創価学会の実力」を読んでみた。

著者によれば、創価学会はかつては日蓮宗の1派である日蓮正宗を教学の基本にしていたが、90年代のはじめにこれと決別したために宗教思想の濃厚な核を喪失してしまった。

また創価学会は、かつては大石寺参拝や宗教大会などのセレモニーを通じて宗派全体のモラルアップを果たすことができたのだが、現在では選挙以外にその効果的な機会がなくなってしまったという。

さらに公明党は最大の宗教党派であるにもかかわらず、その内部では様々な問題が横たわっており、カリスマ池田大作ですら公明党や学会内部からの規制が働いて自由に動けない。ポスト池田が大問題だ、などと説いている。

このように学会や公明党に関する(私のような素人には)斬新な知見を随所で見出すことができる本書だが、この作者の文章力と構成が弱いためか、同じくだらない話題が何度も繰り返され、原稿料を版元から稼ぎたいのであろうか、さして重要とも思えない話柄をえんえんと引き伸ばしているのが気になる。この内容なら、本書の半分の原稿量で十分であろう。

Monday, October 30, 2006

大森望・豊崎由美著「文学賞メッタ斬り!リターンズ」を読む

前作の「文学賞メッタ斬り!」が芥川賞や直木賞の内幕を暴露して面白かったので、その続編にもつい手が伸びてしまった。

ともかく渡辺淳一や石原慎太郎、津本陽とか宮本輝などの審査委員がいかにでたらめな審査をしているのかがよくわかる。

直木賞担当の津本などは毎回最終候補作を読まずに審査しているそうだ。また芥川賞の審査委員は任期がないということも初めて知った。

本書は、時代遅れの感度の鈍い老壮大家?が、新しい時代の新しい文学の芽を評価するどころかブルトーザーのように押しつぶしてきた「輝かしい歴史と実績」についてもくわしく教えてくれる。

今回は特別ゲストに文壇のハンカチ王子、いや違った、貴公子の島田雅彦が登場。そこまで語っていいのかという内輪話をスラスラと話す。

以前彼にインタビューしたときにも感じたことだが、「言語明瞭、意味明快」という言葉は、まさしく彼のような作家のためにあるのだろう。

彼はビールでくちびるを潤しながら、(「インタビューなどはビールでも飲みながらじゃないとやってらんないよ」とほざいた!)実に豊富なヴォキャブラリーを、的確かつ華麗に駆使しつつ、しかも見事なまでに論理的に語る。

最近やっと消えてくれたアホバカ小泉や、それに代わって最近やたらと出没する安倍ちょうちんの超醜い日本語とのなんという違いであることか!

よどみなく流れる島田の言葉をテープに起こすと、そのまま完璧な日本語になっているのに驚いた。彼なら太宰治がやってのけたように、ビールを飲みながら同時筆記で小説を書くことができるだろう。

第2回の「詩のボクシング大会」で優勝したときの最後の即興詩のできばえも、誠に見事なものだった。

このあいだ三島由紀夫の日本語や英語の講演(新潮社の全集にCDで入っている)を聞いたときに思ったのだが、この二人の朗読はどこか感じが似ている。まあ二人ともハンサムで頭が異常に切れる作家には違いないけど。

この点、引き合いに出して悪いが、例えばテレビ東京の「カンブリア」だか「ウンベルト」だかしらないが下らないビジネストーク番組に出演している村上龍の拙いしゃべりに比較するとそれこそ雲泥の差である。

ちなみにこの番組では小池栄子のしゃべりの方が龍よりクレバーなのも不思議だ。

もうちっとぐあんばれよ、龍。

Thursday, October 26, 2006

都築響一著「夜露死苦現代詩」を読む

まずは、本書の第11章「少年よ、いざつむえ」に掲載されている友原康博氏の「くさった世の中」という作品を紹介しよう。

「くさった世の中」

くさった
世の中は
身を
生じない
反発の
ゆれみが
のし
かかって
くる
のだ
だから
きびしく
追求する
激しい
なぞは
荒れて
いる
世の中の
くさみで
ある
ことは
決して
うそで
ないことを
実証して
いる
のだ
だから
はてない
気持が
つづくのは
さぞ
不思儀な
事は
ない
では
ないか
そこに
激しく
もみ
あう
ので
ある


著者は、生命力を喪失し、業界内部だけの自己満足で消耗の限りを尽くし、いまや仮死状態にある「現代詩」に最後の鉄槌をくだそうとしている。

高踏的な桂冠詩人の超難解な1行よりも、死刑囚の稚拙な5・7・5や、あまねく人口に膾炙されている相田みつおの「今日の言葉」や玉置宏の天才的な話芸、障碍者の輝かしい「言葉のサラダ」、肉体言語としてにラップ・ミュージックにより高いゲイジュツ価値を見出そうとする著者の考え方はじゅうぶんに説得力をもち、次々に繰り出される豊富な実例に圧倒される。

思わず、「くたばれ、現代詩。よみがえれGENDAISI!」と叫びたくなるような、パンクでファンキーな1冊である。

Wednesday, October 25, 2006

「芥川龍之介展」で思ったこと

「芥川龍之介展」で思ったこと
今日は、はとつまとわたしの3人で鎌倉文学館の芥川龍之介展に行きました。

旧前田侯爵邸でかつて佐藤栄作首相の別荘でもあったこの英国調の洋館の歴史は古く、三島由紀夫の最後の作品にインスピレーションを与えた建物としても有名です。

広い前庭にはさまざまなバラが咲き誇り、その向こうには太平洋や大島を望むことができます。(文学館の入り口右手の坂の上には、かつて長勝寺という大寺があったんだよ)

私は以前この文学館で中原中也や夏目漱石の展示に接することができました。

そして中也が生前に通ったカトリックの教会や空気銃を買った玩具屋やまだ長谷に実在していることを知り、そこを訪ねたものでした。
ちなみに私は昭和12年に彼が亡くなった病院で毎年の身体検査を受けています。(関係ないか)

それから夏目漱石の名刺のおしゃれなことにも驚きました。

現在私たちが使っているものに比べると天地も左右も短いそれは絶妙なプロポーションで構成され、使用されている日英のフォントの繊細さは、彼が好んで描いた南画の神経質すぎるほどの繊細さとあいまって私を感嘆させたものでした。

そして今日この眼で接した龍之介の「芋粥」や「鼻」や「蜘蛛の糸」、「奉公人の死」などの生原稿の筆跡は、驚いたことに私の亡くなった母の筆跡に瓜二つだったのです! 

私は思いもかけないところで母の亡霊に出会ったような気がしてちょっとショックでしたが、それだけになおいっそう芥川に親近感を抱くことができたように思います。
漱石ほどではありませんが、生真面目な書体が印象的でした。

さて現在の東京北区の滝野川に生まれた芥川は、塚本文と結婚直後の大正7年3月から1年ほど鎌倉で楽しい新婚生活をエンジョイしました。

若すぎた晩年に芥川はこの短かった鎌倉時代が最も幸福な時期だったと回想しています。

彼は最初は大町、次いで由比ガ浜の借家(野原西洋洗濯所跡)に住んで久里浜の海軍機関学校の英語教師を勤めるかたわら「蜘蛛の糸」や「邪宗門」などの短編を書いていました。
この2箇所とも漱石の夏季の借家があった近所ですね。

私にとって芥川の最高の作品は「蜜柑」です。

寒村から奉公に旅立つ少女が、上り列車の窓を開けはなって見送りに来てくれた弟たちに放り投げる別れの蜜柑の鮮やかな黄色の放物線を思っただけで、涙がにじんでくる涙腺の弱い私ですが、この名編も当時の軍用列車であった横須賀線での体験がもとになっています。

よせばよいのに東京に出て、トレンドの最前線で苦悩した挙句に「将来に対するただぼんやりとした不安」が原因で昭和2年に服毒自殺を遂げた龍之介。

おそらく彼は、満州事変から日中戦争にいたるその後の昭和日本の暗い道行きを直感し、その前途に絶望して自栽したのではないでしょうか? 

そして恐ろしいことに、芥川が懐いた「将来に対するただぼんやりとした不安」とは、平成の今に生きるわたしたちにも感じられるまったく同質の時代的不安ではないでしょうか? 

村上の龍ちゃんにも増しては、芥川の龍ちゃんは、今こそ私たちにとってリアルな存在です。

Tuesday, October 24, 2006

開運祈願

鶴岡八幡宮の本殿に登って祈祷が始まるのを待っていると、七・五・三で家族と一緒にやってきた少年の声が聞こえた。

「ねえ、神様はどこにいるの?」

すると彼の父親がおぼつかない声で答えた。

「奥のほうだよ」

少年が「あそこらへん?」と、指差しながらまた尋ねると、

「いいや、もっと奥の上のほう」

と、父親がおぼつかなげに答えるのを、私は吹き曝しの畳の上で震えながら聞いていた。

少年よ、いったい神様はどこにいるんだろうねえ?

もしかすると、私たちの正面の御簾の奥の扉の奥の、そのまた奥に、神様はいらっしゃるのかもしれないね。

あるいは、神様はもしかすると、そこにも、ここにも、どこにも、いらっしゃらないのかもしれないね。

でも、今日のお昼前、私たちの大好きな八百万の神様は、

八幡様の本殿にも、

静が踊った舞殿にも、

実朝が公暁に殺されるのを眺めていたイチョウにも、

本殿の屋根の上でやかましく鳴いている烏にも、

その烏の上にどんより広がっている曇り空の中にも、

それから、小さな掌を合わせている少年の心の中にも、

やわらかく微笑んでいたのだった。

Monday, October 23, 2006

死刑囚たちの歌

死刑囚たちの歌


よごすまじく首拭く
寒の水

布団たたみ
雑巾しぼり
別れとす

叫びたし
寒満月の
割れるほど

梅雨晴れの
光を背負い
ふりむかず

秋天に
母を殺せし
手を透かす

桜ほろほろ
死んでしまえと
降りかかる

つばくろよ
鳩よ雀よ
さようなら

絵を
描いてみたい気がする
夏の空

キャラメルで
蝿と別れの
茶をのんだ

房の蝿
いっしょにいのって
くれました

幸せは
ひとつで足りる
鬼あざみ

革命歌
小声で歌ふ
梅雨 晴間
 
以上、都築響一著「夜露死苦現代詩」(新潮社)第五章「死刑囚の俳句」より転載

Sunday, October 22, 2006

こんな夢を見た

こんな夢を見た.


おれはその会社で干されていて、毎日暗い日々を送っていた。

永代橋の近くにあるその会社の「サンプル現売所」(会社の製品見本を社員や株主に安く販売する)に配置転換されていた。

ある日人事課長の竹内から「いまから大株主のお嬢さんと一緒にそちらに向かうからよろしく」という電話があり、まもなく2人がおれが働く狭く汚い展示コーナーに現れた。
そのお嬢さんは宝塚出身の真矢みきに少し似ていたが、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いていた。

竹内が「あまでうす君、ちょっとこの児を頼むよ」と言うので、おれは断ろうとしたのだが、竹内が強引に赤ちゃんを押し付けたので、おれは仕方なく慣れない手つきで胸に抱いた。

その男の子はすこぶる元気で、両手両足を振り回し、なんとかおれから逃れようとする。おれは必死で彼をなだめようとしたが、彼は母親を求めてますます狂ったように泣き叫ぶ。

「これはダメだ。おれの手にはおえないよ」と、おれは竹内の助けを求めた。しかし二人の姿はどこにも見当たらない。

「くそお、どこに消えてしまったのか」、とおれはわが身をのろい、地団駄を踏んだが、赤ちゃんは火がついたようにますます猛り狂うばかりだ。

そこでおれは一計を案じておれの右手の人差し指を赤ちゃんの小さな口に入れ、しゃぶらせると、赤ちゃんはすぐに泣きやんだ。

「やれやれ、やっと落ち着いたか。これで安心だ」と言いながら赤ちゃんの顔を眺めたおれは驚いた。おれの腕の中には強大な黒猫がいて、凶悪な眼をらんらんと光らせ、おれの人差し指をピンク色の長いー舌でペロペロなめながら、おれをじっと見つめていたのである。

赤ちゃんはどこへ行ったのだ。こいつは猫というより、黒ヒョウだ。どうしておれは黒ヒョウをだっこしているのだ?

あせり狂ったおれは、その黒猫を一気に放り出そうとしたのだが、まずおれの指を解放するのが順序だと考え直し、右手の人差し指をそろりそろりと彼奴の獰猛な口から抜き出そうとした。

と、その途端、黒猫は彼奴の奥歯に挟んだおれの指にギリギリっと力を込めた。

「い、痛い。お前、おれの指を食いちぎるつもりか?」とおれが尋ねると、「そうさ。そうするつもりさ」と彼奴は答え、またしても上下の奥歯の力を込めてきた。

これはいかん。このままでは食われてしまう。と思うのだが、相手が猛獣ではどうしようもない。指の1本くらいはあきらめよう。そしてこれは誰でもが簡単に経験することではないビッグな椿事だから、この貴重な体験をライブで歌に詠もうと決意した。

そこで右手の人差し指を黒猫にかまれたまま、おれは、

黒猫に指はさまれし門前仲町

と1句詠むと、彼奴は、「お、いいね、いいね。地名を入れ込むとはやるじゃん。ではこうするとどうなるね?」
といいながら、おれの大事な人差し指をガブリと食いちぎったので、激痛が走り、彼奴の口の中にはおびただしい血が流れた。

そこでおれは痛みと衝撃に耐えながら、歯を食いしばって

黒猫に指食いちぎられし秋の午後

と、さらに1句詠みながら、憎っくき彼奴を地面に叩きつけると、彼奴は「うぎゃあ」と叫びながら永代橋方向へ脱兎のごとく逃げていった。

そのときやっと竹内課長が真矢みき風の女と戻ってきた。

女はおれを見、おれの周りをグルグル見回しながら、「あたしの、あたしの赤ちゃんは?」と尋ねるので、おれはこう答えた。

赤ちゃんも猫も消えたり隅田川

Friday, October 20, 2006

映画プリティ・ウーマン(PRETTY WOMAN)を観る。

ジュリア・ロバーツが大スターの仲間入りを果たしたシンデレラ・ストーリー。ウォール街でその名をとどろかせる実業家、エドワード。ふとしたことからロサンゼルスでしょう婦のビビアンと出会い、2人はパートナーとして1週間一緒に過ごす契約を交わす。そしてビジネスとしての関係だけのはずが、いつしか心ひかれていくことに・・・。ジュリア・ロバーツが徐々にエレガントな淑女へと変身していく姿が見どころの大ヒット作品。(原題:PRETTY WOMAN)〔製作〕アーノン・ミルチャン、スティーブン・ルーサー〔監督〕ゲイリー・マーシャル〔脚本〕J・F・ロートン〔撮影〕チャールズ・ミンスキー〔音楽〕ジェームズ・ニュートン・ハワード〔出演〕リチャード・ギア、ジュリア・ロバーツ、ローラ・サン・ジャコモ  ほか(1990年・アメリカ)〔英語/字幕スーパー/カラー〕

リチャード・ギアがロスからサンフランシスコまでジュリア・ロバーツを連れてきてサンフランシスコ・オペラ(日本が単独和平を結んだ会場)で「椿姫」を見せる。

ギアが、「オペラは最初に見た瞬間にその世界に入れるか否かがすぐ分かる」と偉そうなことを言って、娼婦で無教養役のジュリア・ロバーツの反応を終始傍から見守っている。

すると案の上彼女が涙する姿を見てよし、よしとうなずく。自分はまったく感動も、鑑賞もしていない。

こういうところに監督・脚本の「娼婦=無教養」という差別意識が透けてみえる。

王子様が白馬に乗ってかわいそうなシンデレラを助けにくる、というお話を臆面もなくやってのけるシーンもすごい。

80年代後半のセレブのモード(セルッテイ)が現在とあまりにも異なっていたことに驚くが、こういう典型的な悪しきハリウッド映画を馬鹿面下げて見に行った観客の顔が見てみたい。

Thursday, October 19, 2006

ジョー、満月の島へ行く

「ジョー、満月の島へ行く」を見た。

 いかにもスピルバーグの製作会社アンブリン・エンターメント映画好みのハート・ウオーミングドラマ。

 前半の名曲「16トン」をBGMにした暗く悲壮な始まりと、後半からの「マッスケナダ」などを劇伴にしたユーモラスでロマンチッックな展開が好コントラストをなす。(音楽はフランス映画でお馴染みの名人ジョルジュ・ドルリュー)

 実際にはありえない非現実的なお話を、アイデアと特撮を駆使して、後味のよいヒューマンドラマに仕上げる手法は、功罪あい半ばするハリウッド映画が受け継いだ陽性の遺伝子であろう。

トム・ハンクスとメグ・ライアンの名コンビでおくるロマンチック・コメディー。かつて消防士だったジョーは、今では嫌な上司と体調不良に悩まされるおちぶれたサラリーマン。彼はあと半年の命と医者から宣告され、やけになって億万長者と南の島の火山活動を鎮めるための“いけにえ”になる契約を交わすことに。そして社長令嬢とともに、ヨットに乗り込み島へ向かうのだが・・・。メグ・ライアンはこの作品で1人3役をこなした。(原題:JOE VERSUS THE VOLCANO)〔製作〕テリー・シュワルツ〔監督・脚本〕ジョン・パトリック・シャンリー〔撮影〕スティーブン・ゴールドブラット〔音楽〕ジョルジュ・ドルリュー〔出演〕トム・ハンクス、メグ・ライアン、ロイド・ブリッジス、ロバート・スタック ほか(1990年・アメリカ)〔英語/字幕スーパー/カラー〕ジ

Wednesday, October 18, 2006

Joseph Jaffe著「テレビCM崩壊」(翔泳社)を読む

消費者主権がますます声高に叫ばれ、消費者自体の個衆化、ミクロ化、多価値複雑分裂化現象が進行すれば、当然マス媒体とマス広告の価値と効果は減少するだろう。

本書はそのマス媒体の中でも特に米国のテレビCMに焦点をあてて最近の動向をレポートしていて参考になる。

Web2.0時代の到来のなかでテレビCMのみならず新聞・雑誌・ラジオ媒体はますます媒体としてのパワーを喪失し、その古典的な媒体形式を変容させるだろう。

しかしそれが直ちに媒体自体の「崩壊」につながるかどうかは予断を許さない。

むしろWeb2.0の進化と提携、同調する新しい形式と内容の、それこそニューメディアが続々と誕生するのではないだろうか。

Tuesday, October 17, 2006

工藤美代子の「われ巣鴨に出頭せず」を読む

工藤美代子の「われ巣鴨に出頭せず」を読む

昭和20年12月16日、GHQからの召還命令を拒否して服毒自殺した最後の公爵近衛文麿の厖大な伝記である。

まず工藤氏は、1928年の済南事件における関東軍参謀将校による謀略とされている張作霖暗殺事件および近衛内閣発足直後の1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋における日中衝突による支那事変の勃発を、スターリン=毛沢東の国際共産主義者による深謀ではないかと指摘するがもしそうだとすれば昭和史は大きな書き換えを迫られるだろう。

1940年第2次近衛内閣を組閣した近衛は、東条英機を陸軍大臣、松岡洋右を外務大臣に起用したことが裏目に出て、自らの手で日本を太平洋戦争に導く転回点を作ってしまう。しかし工藤氏によれば、更に大きな過ちを犯したのは、ポスト近衛の東条と内大臣の木戸だと断じる。

彼らが連携連合して天皇への強固な「壁」をつくり、一切の外部の情報を遮断したために、天皇は情勢を適切に判断できず、その結果終戦が遅れることになったという。

そして従来とかく優柔不断で弱虫といわれた近衛が、実は意外にも東条や木戸よりも剛毅で誠実な性格で、吉田茂などとともに最後まで終戦工作に従事し、天皇への忠勤に励んだ、と、著者は結論づけるのである。

「銀の匙をくわえて生まれてきた近衛は、時にその匙を口から放り出そうとし、また銀が少々錆びようとも気にとめない生涯だった。誤解されたまま棺の蓋を閉められた近衛だったが、その生涯は政敵をも恨まず、貶めず、ひとり内なる天皇の傍へ先立った。巣鴨に出頭しないことで護り通したものこそは、近衛の天皇への絢爛たる愛の証だったのではないだろうか。決して弱くはなかった貴種の、終戦の日が来た。(本書の感動的な結末部分より引用)

しかし、私に言わせれば近衛と天皇の友情や忠誠などはどうでもよい。近衛も木戸も東条も統帥権を総攬する昭和天皇の戦争指導の傘下にあったのであり、天皇を主犯者とする共犯者のサークルの住人であったにすぎない。

あれほど終始積極的に大東亜戦争に加担し、他の誰にもできない強力無比な戦争指導を行いながら、結局昭和天皇は戦争責任をとらなかったし、国民もまた自らの責任にほおかぶりをした。(最近では連合国による東京裁判ですら無効であると唱える歴史オンチが登場する始末だから何をかいわんやである。)

このキーポイントをはずして藤原氏の高貴な血をひく貴人宰相の功罪をきめ細かくあげつらったところでいったい何になるのだろう。
それこそ目くそ鼻くその類ではないかとけちをつけたくもなるのである。

ムクの歌

OH!アデュー 人語をはじめてに口にして 
老犬ムクは いま身罷りぬ

ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す

鎌倉の 山野を駆けし細き脚 
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり

ここで跳べ ザンブと飛び込む滑川 
ウオータードッグよ 輝きの夏

大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク


ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす 

17年 一直線に駆け去りぬ 
今一度鳴け 野太きWANG!

      
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と鎌倉保健所は葉書を寄越せり。

庭に眠る ムクのからだの腹のあたり 
濃き紫のアサガオ咲きたり

崖下の 庭の土なるムクの墓 
アオスジアゲハ 雌雄乱舞す

Sunday, October 15, 2006

愛の挨拶

『愛の挨拶』



私は世間並みに携帯電話を1個持っている。

Auの携帯である。

昔はドコモの携帯を持っていたが、3回落とした。

1回目はお茶の水のアテネ・フランセでゴダールの「映画史」の試写会があった
ときだった。
2回目はJR中央線の中だった。

親切な若い女性が拾ってくれたというので、私は8月のカンカン照りの真昼に
三鷹警察署というところに初めて行って、無事にそいつに再会したのだった。

三鷹警察は、とても寂しい野原の中に、ひとり寂しく立っていた。

しかし、新橋で落とした3回目は、とうとう出てこなかった。

そのときに詠んだ歌を紹介しておこう。


「インド人イラン人誰かが僕のケイタイ持っているよ」


あなたは、変な歌だと思うだろう。

私もそう思うが、当時イランの人たちがどっさり東京にいたのだ。

それはともかく、私は落としてばかりいるドコモがいやになって、
Auに切り替えた。

当時鎌倉では電波とアンテナの関係でドコモが入らず
東京から急な仕事の電話が入ると、私はあわてて家を飛び出して近所の丘の上で
大声を出していたのである。

隣の家の主人はそんな私の哀れな姿を見てあざ笑っていたが、
その翌日、私は私とおんなじことをしている彼の姿を見たのだった。

それから私は、吉祥寺のとあるショップでAuの携帯を買った。

それはいつも私の机の左側に置いてある。

私が新しい携帯を買ったころ、私の仕事が急に減った。

フリーランスライターの私はどこにも行かず、朝から晩まで仕事の依頼の電話を待っていた。

しかし、携帯は鳴らなかった。

まれに鳴ると、それはろくでもないやつのろくでもない用事だった。

私は、それでも我慢した。

朝から晩まで、心優しいクライアントからの用命を心待ちにしていた。

けれども、やっぱり携帯は鳴らなかった。

毎月「あなたの携帯はあと600円無料通話ができました」と請求書には書いてあった。

それでも、私の携帯は鳴らなかった。

鳴らなかったが、私はそれを捨てようとは思わなかった。

やがて私は、節約のために夜間は電源を切るようになった。

毎朝9時半になると、私は携帯の電源を入れた。

毎晩6時になると、それを切った。

けれども相変わらず、携帯は鳴らなかった。

携帯は鳴らなかったが、私は必ず充電し、毎月1600円払い続けていた。

フリーライターのたしなみとして、家にいるときも、太刀洗に散歩に出るときも、たまに東京に出かけるときも携帯を手放さなかった。


それからずいぶん長い月日が流れた。


ある日のこと、私は新宿の文化女子大の教務の部屋にいた。

するとどこかから音楽が聴こえた。

私はじっと耳を澄ませた。

いつかどこかで聴いたことがある、懐かしい音楽だった。

英国の音楽であろうとは思ったが、しかし曲の名前は分からなかった。

やがてその音はだんだん大きくなり、静かな教務の部屋全体に響きわたった。

私はやっとこの名曲の名前を思い出し、傍らの若い教務の女性に得意そうに告げた。

「エルガーですよ。これはエルガーの『愛の挨拶』です」

すると、彼女が私に言った。

「あなたのこの黒いカバンの中で鳴っているようですわ」

そのときだった。
私は、このエルガーの着信音が気に入ってこの携帯を選んだことをようやく思い出したのだった…

田草川弘著「黒澤vsハリウッド『トラ・トラ・トラ』その謎のすべて」を読む。

田草川弘著「黒澤vsハリウッド『トラ・トラ・トラ』その謎のすべて」を読む。

『トラ・トラ・トラ』は1970年9月に世界で公開された日米合作のフォックス映画である。

プロデューサーにはエルモ・ウイリアムズ、米側監督にリチャード・フライシャー、日本側監督に解任された黒澤明に代わって舛田利雄と深作欣二を迎えて日米で撮影・製作された山本五十六と真珠湾攻撃の物語だ。

本書は黒澤を敬愛する作者が、燃えるような探究心に突き動かされつつ敢行した周到厖大な日米両国での調査をもとに、黒澤がなぜフォックス社のザリル&リチャード・ザナック父子から解任されたかという謎に迫る。

ザリル・ザナックはハリウッド映画界に君臨した大プロデューサーで、かつてジョン・フォードの名作のオリジナルフィルムに遠慮なくハサミを入れた豪腕編集者としても知られる。

本書によればザリルと黒澤はお互いに気に入っていたようだ。英雄肝胆あい照らすというところか。

またエルモ・ウイリアムズは「ザ・ロンゲストデー」(邦題史上最大の作戦)の総監督兼プロデューサーで、彼もまた世界の黒澤を尊敬し、『トラ・トラ・トラ』の日本側監督にクロサワを推薦・指名したのは彼であった。

本書によれば黒澤解任に至った最大の原因は、日米双方の当事者間の恐るべき誤解、そしてお互いの文化の違いである。

そもそも黒澤は(日本古来の習慣に従って)契約書に目を通してもいなかった。契約書には、黒澤の任務は「単なる職人仕事」であり、日本撮影部分だけの映像処理にすぎなかった。それだのに黒澤は日本のみならず米国部分の監督も自分が行うものだと、勝手に解釈していたのである。

この最初の段階でのボタンの掛け違いが最後に仇となる。天才的な映像作家の黒澤が自分の契約書を目にしたのは、彼が解任された後で、しかも自分の手元を探しても見つからず、なんと契約相手のフォックス社のコピーを見せてもらったというのだから驚く。

契約や米国との交渉はすべて彼が盲目的に信頼していた青柳プロデューサーが担当していた。お人よしの黒澤は自分の飼い犬の青柳にだまされだけだともいえるし、黒澤は映像産業に従事するビジネスマンとして失格であるともいえる。

法律や契約などを無視して自分勝手に相手側の意図を忖度し、「世界の中心がおのれである」という夜郎自大で無思想かつ情動的な行きかたが、わが国をかつて大きな戦争に巻き込んでいったが、これと軌を一にする無知で、粗野で、没論理で、尊大な芸術至上主義が、世界のクロサワを自爆に追い込んでいったのである。(この間の事情をわが国の昭和史や村上隆の「芸術起業論」と比較研究すると興味深いものがあるだろう)

全部で500ページになんなんとする大著も、最後まで読むと、「なあーだ」で終ってしまいそうだが、本書ではあちこちで思いがけない指摘に出会い、黒澤に関する旧来の見方を改める機会が多々ある。

例えば日米の医師の診断書を精査した著者は、黒澤の器質的障害がゴッホやドストエフスキーにも共通するもので、こうした先天的な疾患があったからこそ彼は独創的な作品を生み出すことができたのだし、その同じ欠陥が東映京都撮影所で致命的なトラブルを引き起こしたのだ、と語っている。

そういえばかつてこの私も、保津川と嵐山に臨むこの著名な撮影所で仕事をしたことがあるが、魔都京都などで大切な作品を撮影してはいけない。そのタブーを例えば京都人の大島渚ですら理解していたのに、お馬鹿な黒澤が慣れた東宝を蹴ってヤクザが徘徊するこの伏魔殿を選んでしまったことが敗因のひとつになってしまったことは疑いをいれない。

 黒澤解任後改めて20世紀フオックスが完成させた『トラ・トラ・トラ』は、真珠湾攻撃の迫真の大活劇シーンをのぞくと、まるで人間のドラマを欠いた中途半端な駄作だが、悲劇の司令官山本五十六を主人公と考えた黒澤が、もしも、もしも、彼の思い通りの『トラ・トラ・トラ』を創り上げていたとしたなら、それは未完の「暴走機関車」と同様、素晴らしい作品になったことだけは間違いないだろう。

Thursday, October 12, 2006

Bomb,Bomb,Bomb

Bomb,Bomb,Bomb


ボム、ボム、ボム!

北の国の地下で何かがはじけた。

ボム、ボム、ボム!

これはくたびれ果てた世界からの新しい弔鐘か?

ボム、ボム、ボム!

それとも新しい終わりの時代を告げる夜明けの歌か?

ボム、ボム、ボム!

金沢八景では季節はずれの花火が上がった。

ボム、ボム、ボム!

卓ちゃんの田んぼでは、今日もウシガエルの腹が裂けた。

ボム、ボム、ボム!

亮ちゃんのベランダでは、今日もサボテンの花がはじけた。

ボム、ボム、ボム!

健ちゃんのミニ万博は、今日も千客万来だ。

ボム、ボム、ボム!

耕ちゃんの心臓は、今日も元気に血液を運んでいる。

葉っぱの王国

ラゾーナ川崎、表参道ヒルズ、六本木ヒルズなど大型商業施設が続々誕生しているが、それらに共通するコンセプトは、「町の中に町を作る」ことであろう。

既存の街づくりでは不可能な衣食住有休知美の諸要素を広大な用地のなかで人為的に結集させ、近隣からの集客を図ろうとする彼ら。そこではレストランやセレクトショップやコンサートホールや美術館や高級ホテルが効率よく組み合わされて顧客の購買意欲をいやがうえにもかき立てようとたくらまれている。

とりわけ注目に値するのは、それらコンクリートと鉄とガラスの建築物の内部と外部と周辺部に植物や樹木をとりこもうとする傾向である。安藤忠雄が設計した表参道ヒルズでは周辺のケヤキの高さを超えない低層建築が指向されたし、このビルの屋根は緑の植生が行われている。他の多くの高層建築でもアトリウムの内部には様々な樹木が繁茂しているし、ビルの最上部のならず壁面にも植物をはりめぐらせビルの温度を下げるとともに都市の二酸化炭素を吸収させることを通じて地球の温暖化を抑えようとしている。

 こうした「町の中の町」における緑化現象の進行は、まだまだ遅々としているが、これを大手町のビルの地下でひそかに行われている米の栽培(パソナ)や大都市のあちらこちらで行われている都市農業(ワタミ)の進展などとあわせて観察すると興味深いものがある。

1つのビルの内部での植物含有度が増大するということは、金属や鉱物含有度が後退するということであり、猫も杓子も鉄筋コンクリートになびきはじめた建築素材様式が、木質住宅の反騰を含めておしかえされつつある証左とも考えることができよう。

 住まいの中で絶滅寸前まで追いつめられた木や草や茎や種子や花たちが、絶対多数と思われたコンクリートと鉄とガラスを押し返し、反転攻勢に転じる転回点がじょじょに迫っているのではないだろうか。
 
 いましばらく時が流れれば、無味乾燥で非人間的で冷酷非情で、新築されたその瞬間から空虚な廃墟そのものに転化している超高層ビルジングたちは、その内部に引き入れられひそかに繁殖していく樹木やつたやつるやこけや微生物などによって侵食されるだろう。

 そして衰弱した人間たちが退去した廃墟の主人公となった植物たちは急速に繁茂するだろう。ビルの窓ガラスをつきやぶって飛び出した巨大な縄文杉のかたまりは、お互いの手と手をしっかりと握り合い、新宿を、渋谷を、六本木を、東京を、そして広大な関東平野をすべて草むした原始林に変えるだろう。

 かくして世界最大の超モダン都市は、葉っぱの王国になるのである。

 その頃熱帯と化した列島の大草原では、あの巨大なステゴザウルスが勝利の雄たけびをあげているだろう。

 ギュワーン、ギュワーン、ギュワーン!

 ああ、せめてその姿をこの目で見てから死にたいものだ。

小澤征爾の音楽

小澤氏は音楽そのものよりは、主として彼の類まれな人間性の魅力でここまで到達された方なのだと思います。

 病が癒えてまた楽壇に復帰されましたが、ウイーンでも日本でも今後彼の芸術が飛躍する可能性は残念ながらないのではないでしょうか。

 私も昔から彼のライブやCDには接してきましたが、数少ない例外を除いて心からの感銘を覚えたことはありません。  

とりわけウイーンオペラでのWagnerやモーツアルトやウインナワルツ等の演奏は思わず耳を疑うレベルのものが多く、かつてのトロント響、サンフランシスコ響との現代音楽や新日フィルとのブルックナーの交響曲第2番の演奏などがただただ懐かしいだけです。  

それよりも気になることは、これほど無残な演奏が多い割合には国内での評価がかつてのカラヤンのように異常に高すぎる!?ことです。

もしかすると日本の聴衆はくだらない演奏に対して「ぶー」をいう代わりに「ブラボー」を叫ぶ奇妙な風習があるのではないでしょうか? 私にはまったく理解できません。  

もうひとつ小澤氏の指揮を観察していますと、例えばオペラとか、ウイーンフィルとのブラームスの交響曲4番とかブルックナーの9番ライブ(余りにも悲惨な就任記念演奏!)にしても、いつも音楽の自然な流れをさえぎるような、わざと引き止めてぎくしゃくさせるような不自然な振り方をされています。

これはもしかすると、彼の恩師である有名な斉藤秀雄氏(有名な英語学者斉藤秀三郎の子)の指揮法の機械的な「たたきパターン」の悪しき面のあらわれではないかと、最近ひそかに考えている次第です。

ちなみに私は斉藤秀三郎氏の英和と和英辞典が大好きでときどきパラパラ眺めていますが、例えば、Love is like a pityという決まり文句を「可哀相だた、惚れたってことよ」と訳しています。

またうろ覚えですが、たしか漱石の「猫」だか「三四郎」の中にもほとんど同じような粋な日本語訳が出ていたと思います。二人とも落語好きの江戸っ子だったのですね。