Thursday, May 31, 2007

宮城谷昌光著「風は山河より第5巻」を読む

降っても照っても第19回

信長が激賞し、家康に恃まれ、信玄が欲しがった防守の名将菅沼新八郎の戦いを描く一大歴史小説がこれにて終った。

知られざる三河の戦国期をはじめて教えてくれた著者には感謝するが、これこそ竜頭蛇尾小説の典型だろう。

所詮この主人公は歴史小説の脇役に過ぎず、贔屓の引き倒しの感あり。

叙述は展開部の快速調はどこへやら、最終巻にいたって気息奄奄、失速墜落炎上の巻。

おもしろうてやがてかなしき声色屋

Wednesday, May 30, 2007

続 心に残った言葉

♪バガテル op20 

乙羽さんとは「愛妻物語」で出会い、「原爆の子」で同志となり、男女の関係を結んだ。

この時わたしには妻子があり、乙羽さんは一生日陰の人でいいから、と全身を投げ出してきた。わたしは善良な妻を裏切ることに苦しみながら、これをうけた。乙羽さんが最初の妻、久慈孝子にそっくりだったからだ。

乙羽信子とは27年間男女の関係を続け、妻と離婚して、4年後その妻が亡くなり、その翌年結婚した。結婚生活は17年続いた。

去年、乙羽信子の13回忌を行った。

ここに乙羽さんがいるはずはないが、墓の前に佇むと、センセイ、と呼びかけてきそうな気がするのだ。

わたしは宗教を信仰していない。したがって霊というものも信じていない。しかし何処からか、センセイ、と呼ばれそうな気がするのが、わたしの宗教かもしれない。

乙羽信子の骨は、半分を墓の中に入れて、半分は「裸の島」の舞台となった宿祢島の海に撒いた。

乙羽信子の作品はどれもこれも忘れられないが、とくに「裸の島」は深く心の中にある。

肥桶を担いでください、と言うと何の躊躇もなく乙羽信子は「はい」と言った。

その担げもしない重い物を、乙羽信子は担いで坂道を上がって行ったのだ。

人は死んでしまうが、死なない人もいるのだ。

新藤兼人「私の履歴書」日本経済新聞

Tuesday, May 29, 2007

心に残った言葉

♪バガテル op19 

宿祢島へ登る稲妻型の道は百五十メートルもあった。
この坂道を乙羽信子と殿山泰司は水をいっぱいに入れた肥桶を担いで毎日登ったのである。乙羽さんの肩は三度皮が剥けた。


乾いた土へ水を注ぐ。たちまち土は水を吸い込む。果てしなく水を注ぐ。
乾いた土とはわたしたちの心である。心に水をかけるのだ。水はわたしたちの心の水である。


モスクワ出発前にこの映画(裸の島)を岡本太郎に見せたところ、ラストに「しかも彼等は生きて行く」という字幕があるのを見て、こんなものを入れてはただのリアリズムだと言われ、即座にこのタイトルを取り除いた。
「裸の島」はただのリアリズムではないのだ。
新藤兼人「私の履歴書」日本経済新聞


小説は、何をどのように書いてもよい、ただ美しくなければいけない、というのが大庭(みな子)さんのよく口にする言葉だった。
その、美しい、という語に独特の強い響きがあった。
大庭さんの生は美しかった、とお別れの言葉をおくりたい。
            黒井 千次 日本経済新聞

Monday, May 28, 2007

ある丹波の老人の話(24)

第四話 株が当たった話その5

郡是は翌大正5年には100万円近い大もうけをして一挙に頽勢を挽回し、5月には優先株を抹消して資本金が200万円となり、将来の大飛躍が約束されて株価はグングン上がりました。

これはまったく波多野さんの手腕と徳望のしからしむるところ、私の予想はぴたり的中したわけです。

 大正5年3月の郡是株主名簿を見ると、3千余の株主中私は第25位の大株主になっておりました。

といっても私の持ち株はわずか78でしたが、このときの郡是はまだ何鹿郡以外には進出していない時期でして、私以上の24人の株主といえば、波多野さんをはじめ羽室家一党の人々、地方の素封家ぞろいです。

私などとは提灯と吊り鐘、月とスッポンの違いでした。

昨日まで借金取りに悩まされて日本一の貧乏人と思っておった身で、いったいこんなことでよいのだろうか? と私は迷いに迷い、波多野さんのところにお礼かたがた相談に行ったんでした。

すると波多野翁は、ありあわせの紙に「宥座の器」の絵をお描きになりました。

「宥座の器」というのは荀子の「宥座篇」に出ておりますが、魯の国の恒公の廟にあるもので、孔子がこれについて教えを垂れております。しかし波多野翁はおそらくその愛読書の「二宮翁夜話」に出ている記事からこの教えを述べられたんではないかと思っとります。

波多野さんは、私にこうおっしゃいました。

「この器は平生は傾いておる。水を注いで半ばに達すれば正しくまっすぐになる。しかしあおも注いで一杯にすれば覆ってしまう。君も自分の財産との釣り合いを考えてほどほどに株をもっとればよろしい。私などはしょうことなしに今度はぎょうさんの株をもたされて払い込みの準備などあるわけでなく、まったくこまっておる。君もいつ払い込みがあっても構わぬ程度の株をもっとるのでなくてはいけない」

Sunday, May 27, 2007

宮城谷昌光著「風は山河より第4巻」を読む

降っても照っても第18回

織田信長は桶狭間の奇襲で今川義元を屠った。

しかし義元の後を継いだ氏真の手で愛妻を惨殺された菅沼新八郎は暗愚残虐な今川を見限って源氏新田家の末裔である「得川」家康の陣につく。

掛川城に籠った氏真を東からは家康が、北からは武田信玄が衝くがそのとき武田を北条氏が圧迫したため信玄は身動きできなくなる。

その間に家康は行政手段を駆使して氏真と和議を結び、その結果小田原に退いた今川家はここに亡ぶことになるのである。

宮城谷版三河、遠江、尾張三国志はいよいよ最終巻へ。じゃんじゃあん!

Saturday, May 26, 2007

♪内田光子のモーツアルトの20番

♪音楽千夜一夜第22回


去年の大晦日にベルリンで行われたシルベスターコンサートのヴィデオを今頃になってようやく見た。

ベルリンフィルのシェフがアバドの頃は年に一度のこの演奏をテレビで見るのを楽しみにしていたが、ラトルになってからは初めてである。アバドについて悪口を言う人も多いが、私が嫌いな小澤よりは遥かに優れた指揮者だし、少なくともサイモン坊やに比べたらよほどまともな棒振りである。大患後の最近のルツエルンでの活躍がそれを証明している。

06年12月31日夜の演奏曲目はシュトラウスの「ドンファン」とモーツアルトのピアノ協奏曲20番と同じシュトラウスの「薔薇の騎士」最終幕の大詰めの抜粋(もちろん演奏会形式による)である。

ドンファンは思った以上に凡庸な演奏だし、薔薇の騎士もカラヤンやクライバーの足元にも及ばぬ、味の薄い、とってつけたような演奏だったが、圧巻は内田光子のモーツアルトの演奏だった。彼女がジェフリーテートの指揮でピアノコンチエルトの主要曲を録音したのは聞いていたが、このライブは素晴らしいききものであった。

当夜の内田光子は、見た目も、その内面も、おどろおどろしい女夜叉そのものであった。

序奏が開始されるやいなやピアノのうえで激しく身をよじりながらリズムを刻み、自分のテンポを取る。そしてその激烈なパッションと異様な光を放つ目の輝きと豹のようなすばやい身のこなしでベルリンフィルの面々の耳目をひきつけ、管弦楽の伴奏のイニシアチブをあっという間にラトル坊やから奪ってしまった。

そうしてそのあとは、さながらモーツアルトの再来、音楽の卑弥呼女王と化した光子女帝の生きるか死ぬか、獅子奮迅の真剣勝負のバトルが繰り広げられたのである。

とりわけ第2楽章のはじまりは、満員の聴衆が息をのむような繊細さで、録画録音とはいえ思わず涙腺が緩むのを覚えるほどの素晴らしさであった。

美しくもまた恐ろしい夜叉は、ラトルの頭越しにオーボエ奏者を召還し、甘美な愛の対話を繰り返しながらあほばかラトルが無神経に鳴らそうとする弦を、その女神アテナイの如き黄金の光る目で射すくめ、最弱音に押さえつけるのだった。

このようにしてモーツアルト・イヤー掉尾を飾る劇性を秘めた小さなオペラの演奏が終ったが、私は当代最高のモーツアルト弾きの演奏の切れ味の鋭さに圧倒されながらも、かのクララ・ハスキルの優美なモーツアルト演奏を懐かしく思い出していたことだった。

Friday, May 25, 2007

銀座和光本館よ、永遠なれ

勝手に建築観光・第15回


銀座の代表的建築といえば文句なしに服部時計店の時計台だろう。明治28年建設の初代時計台を1932年(昭和7年)に立て直したものが現在の銀座和光本館であろう。

テラコッタではなく自然石を使用したその堂々たるたたずまいは、銀座のランドマークにふさわしい。お向かいの三越と一線を画して、壁面に醜悪な屋外広告を垂らさない見識もこの由緒ある街にふさわしい。

もし銀座からこの素晴らしい建築がなくなったならと考えただけでぞっとする。

ところが、その歴史的名建築が75年ぶりに全面改修されるそうだ。

発表では、「外観は維持しつつ耐震性を強化し、内装を一新す」のだそうだが、04年の10月に三井不動産がめちゃめちゃにした福沢諭吉ゆかりの日本最初の社交クラブであった銀座交詢社のようなひどいことにならないかと心配だ。

余談ながら、私は交詢社の1階の広いフロアの右奥から差し込む日差しを浴びながら、遅い昼食をとるのが楽しみだった。

さて、歴史建造物を一部保存活用する手法は、交詢社や表参道ヒルズなど各地で多用されているが、それは結局は気休めであり、デベロッパーの乱開発の免罪符に過ぎないことを私たちは肝に銘じておくべきだ。

それにしても松坂屋と組んだかの悪名高き森ビルが、銀座中央通に百数十mの超高層ビルを建設しようとするアホバカ計画が、銀座百店会などの反対で挫折したことは、銀座と我が国の建築文化にとって格別に慶賀すべきことだった。

Thursday, May 24, 2007

拝復 神奈川県知事 松沢成文殿

先日は小生が神奈川県の「わたしの提案」に投書した民間社会福祉施設運営費補助金の問題について、さっそく懇切なるご回答を頂戴し誠にありがとうございました。

回答の文書を再読しましたが、どうもその趣旨がよく分かりません。再度お尋ねいたしますのでなにとぞよろしくお願いいたしまします。

『今後の施設は、重度・重複障害者等にとっての住まいの場としての機能に加え、レスパイトをはじめとする地域社会へのサービス提供機能など、地域で暮らす障害者への支援機能が求められています』
 という県と知事の考え方は理解できますが、

『そのため県の支援についても、施設内での障害福祉サービスだけではなく、施設が持っている障害者支援のノウハウや施設機能を活用し、多様なニーズに沿ったサービスを提供することを目的に、「障害者地域生活サポート事業」を従来の「民間社会福祉施設運営費補助金」の一部を転換するかたちで平成19年度より実施することとしています。』
というのは具体的にはどういう意味でしょうか? 要するに補助金は継続されるのですか? それとも補助金はカットして他の用途に振り向けるということなのですか? 
恐れ入りますが、その点を明確にしてその理由とあわせてご回答いただけたら幸甚です。

私は、今般の障害者自立支援法によるサービスの再編、精神障害を含めた三障害の一元化への対応を図るため、施設の機能の転換が求められ、障害者福祉サービス全体の変革が進むとしても、県が今後とも時代の変化に対応した施設機能への支援を継続していきたいとお考えになる以上は、少なくとも現在の民間社会福祉施設運営費補助金は削減すべきではないと考えます。

松沢知事は、障害者自立支援法施行後の県の社会福祉施設を実際にあなた自身の目で観察されたことがおありですか? 

障害者自立支援法は名前だけは立派でも、社会的な競争に耐えられない障碍者や障碍施設に対して強者や健常者との競合・競争を強いる法律です。

重度の障碍者に対しても街頭に出よ、生まれながらの障碍などはなかったことにして、「自分で自立して、健常者に伍して自活せよ」と命じる法律です。

金儲けなどにはとんと不向きで、ひたすら障碍者の介護と真の自立支援に献身してきた多くの勇気ある慈悲深い社会福祉スタッフの方々の働く意欲を減退させ、賃金を切り下げ、待遇を悪化させ、更なる労働強化に駆り立て、あまつさえ社会福祉とは無縁の副業に向かわせて肝心の福祉施設の本業をおろそかにさせてしまう素敵な法律です。

実際に私の息子が通っている大和市の通所施設では、障害者自立支援法の適用によって施設の収入を増加させて経営基盤を強化?する必要に迫られた施設長がとつぜん豆腐屋を始めると言い出しました。商売の素人が1個250円もする豆腐を売り出して誰が買うというのでしょうか。スーパーや生協ではその半額で売られているというのに…。

障害者自立支援法のお陰で、いま全国の施設では、豆腐屋のみならずスポーツやダンスやカルチャー教室など武士の商法ならぬ福祉のにわか商法が大流行です。

うまく行ったらお慰みですが、その大半が無残な失敗に終り、儲かるのは経営コンサルタントだけという無残な結果に終るのは目に見えています。

知事もよくご存知のように、社会福祉施設は社会の弱者をケアするのが本業です。金儲けを目的とする私企業ではありません。

それなのに国や県は施設への補助金をどんどんカットしておいて、職員の給料を増やしたいならもっと福祉の商売を上手にやりなさいと冷たく突き放しています。

そこで商売など生まれてから一度もやったことのない施設長が畑違いの副業に乗り出し、介護のプロや社会福祉士たちに慣れない豆腐作りを命じ、不毛な労働が強化されて心ある優秀な職員が絶望して施設を去り、そのために肝心のケアやサービスがいっそう低下し、施設も人も疲弊するという悪循環が繰り返されているのです。

改めて松沢知事にお尋ねしたいのですが、このような前代未聞の窮状に追い込まれ、危急存亡のときを迎えつつある県下の社会福祉施設の補助金をどうしてカットされるのですか?

ご多用中とは存じますが、諸事情ご賢察のうえ再度ご回答いただきますよう謹んでお願い申し上げる次第です。                          再拝

Wednesday, May 23, 2007

川本三郎著「名作写真と歩く昭和の東京」を読む

降っても照っても第17回


昭和の名建築がどんどん姿を消しているなかで、著者は名カメラマンが遺した名場面をダシにしながら、昭和の懐かしい記憶を思い出の玉手箱の中から一つひとつ取り出してきてはいとおしむように語る。

新宿副都心に一変した淀橋浄水場も忘れがたいが、1969年1月19日の東大安田講堂前の写真、わけても同年10月21日の国際反戦デーの夜、東大全共闘の隊列の中にいた現マガジンハウスの編集者平沢豊氏が、新宿伊勢丹会館の前でシャッターを切ったブレブレの1枚が鋭くわが心を深くえぐる。

著者が語るように、30年前の若者は、己を否定するなかから新しい道を探そうとしたが、いまの若者は、己を肯定するなかから前進を模索しようとしているようにも見える。

さうして、いずれもおんなじ馬鹿者なのであらう。

Tuesday, May 22, 2007

五木寛之「林住期」を読む

降っても照っても第16回


 古代インドでは人生を、「学生期」(青春)「家住期」(朱夏)そして「林住期」(白秋)「遊行期」(玄冬)の四期に分けていたという。

著者によれば、「林住期」とは50歳から75歳までの社会的なつとめを終えた人の自由時間、人生の真の収穫期であるという。ほんまかいな?

 もっともそんなことは昔からブッダが唱えていたことではあるが、屁異性の語り部かつ平成の憑依であらしゃいます五木寛之先生が、行く川の流れのごとくとうとうと語り尽くされたありがたきお言葉どもであるぞよ。

まあどうってことはない軽い本ですが、終わりのほうに粛然と衿を正して聞き入るほかない言葉があった。

 ソ連兵が進駐してきた敗戦直後のピヨンヤンでは、日本帝国軍隊に取り残された日本人たちがソ連の兵隊の要求に応じて女性の慰安婦を「人身御供として」差し出していた。

そこで著者がいう。

『皆がそんな話をあまりしないのは、自分たちが人身御供を差し出して生き延びて帰ってきたうしろめたさからだろうか。戦場の悲惨は小説にも書けるが、こういうことを物語にするのは許せない気持ちが自分にはある。特攻隊の物語は感動的だが、たとえ強制されたものだったにせよ、銃を持って死んだものは兵士として戦死したのだ。それはどんなに悲惨であっても名誉ある死とみなされる。映画になったり、神社に祭られたりもする。しかし、本当の戦争の悲惨さは、銃を持たなかった人間、一般人たちの体験だと思う。それを潜り抜けたものたちがみな口をとざして語ることができないような出来事こそ戦争の本質なのではあるまいか。
そんなことがかさなるうちに、やがて「世の中は思うようにならない」という信念のようなものが、いつのまにか根を下ろして私の中に定着してしまった。』

この苛烈な戦争体験が、どこから眺めても軽佻浮薄にしか見えないこの作家の根っこに鬱病のように巣くっているのである。

Monday, May 21, 2007

レイモンド・チャンドラー著、村上春樹訳「ロング・グッドバイ」を読む

降っても照っても第15回


チャンドラーが65歳でものした代表作の村上春樹ヴァージョンである。

かつての清水俊二氏の「長いお別れ」と比べてずいぶん部厚いな思っていあたら、なんと清水訳は抄訳だったらしい。ずいぶんデタラメなことをするものだ。そんな話は初めて聞いたぞ。

しかし完全訳だろうが抄訳だろうが、本書の構造じたいはまったく変わらない。

探偵のフィリップ・マーロウは相変わらずタフだし、事件の全貌は相変わらず曖昧模糊にして五里霧中。いちおうの犯罪のプロットはあり、暦とした犯罪事件は起こり、残虐な死体の1つや2つはごろごろ転がり、チャンドラー好みの政財界の大物からマフィアから謎の医師や弁護士や出版プロデューサー、ヤクザにチンピラにボディガード、謎のブロンド女やマーロウの運命のファムファタールまで陸続と面妖な人物が登場する。

だが、それがどうした。その犯罪の本質ははじめから終わりまで杳として最後の最後まで読者に知らされることは無い。

確かに犯罪者は登場し、犯罪は起こる。しかしその犯罪の動機や必然性は明確に描かれることはない。それなのに犯罪を構成する人物のデテールだけが異様に精確に描かれている。

人物が登場するたびに、チャンドラーは舌なめずりしながら彼らの姿かたちを鮮やかに描写する。彼らはドラクロアの登場人物のように強烈な光線を浴びてくっきりとして輪郭をしている。

しかしそれは犯罪の全体構造とは内的な関連をもたない。つまり事件は小説の舞台フレームとして仮に設定されているに過ぎない。

とみるまに、またしても絶世の美女が暗い部屋の片隅で全裸になり、マーロウを誘うと、我らが探偵は「まるで牡馬のように」なっちまうのであるが、このマーロウやアイリーン・ウエードの内面性はどのように描かれているのだろうかと調べてみると、ようわからんのである。

いったいマーロウが何を考えているのか、彼らの人生の喜びや悲しみや価値観は奈辺にあるかがてんでわからないのである。

つまりチャンドラーはプロットなどはどうでもよく、その瞬間ごとの人物たちのリアルな外形だけに関心があった。

マーロウやアイリーン・ウエードやテリー・レノックスたちはすべて能面冠者であり、彼らの内面は戯作者であるチャンドラー自身の内面に格納されている。かくして全体は最高に虚妄でありながら、部分部分は最高におもしろいという世にも不思議な物語が完成したのであった。

チャンドラーは「生命を有している文章はだいたいは“みぞおち”で書かれています」)村上春樹訳)と語り、生涯そのとおりに実行した作家だった。

Sunday, May 20, 2007

ある丹波の老人の話(23)

第四話 株が当たった話その4

郡是は翌大正5年には100万円近い大もうけをして一挙に頽勢を挽回し、5月には優先株を抹消して資本金が200万円となり、将来の大飛躍が約束されて株価はグングン上がりました。

これはまったく波多野さんの手腕と徳望のしからしむるところ、私の予想はぴたり的中したわけです。

 大正5年3月の郡是株主名簿を見ると、3千余の株主中私は第25位の大株主になっておりました。

といっても私の持ち株はわずか78でしたが、このときの郡是はまだ何鹿郡以外には進出していない時期でして、私以上の24人の株主といえば、波多野さんをはじめ羽室家一党の人々、地方の素封家ぞろいです。

私などとは提灯と吊り鐘、月とスッポンの違いでした。

昨日まで借金取りに悩まされて日本一の貧乏人と思っておった身で、いったいこんなことでよいのだろうか? と私は迷いに迷い、波多野さんのところにお礼かたがた相談に行ったんでした。

Saturday, May 19, 2007

ある丹波の老人の話(22)

第四話 株が当たった話その3

郡是の新株式を買うために、私は津山へ飛んだんでした。

津山では武蔵野という一流旅館を本陣として、いきなり女中に100円のチップを渡し紀の国屋文左衛門の故智に倣って実は新聞紙が中身の札束包みを主人に預けました。

その主人の紹介で津山製紙会社の重役をしている田中、倉見という地方では信用のある人物に頼みこんで、ここいらの株主が売りたがっている優先株を、当時地方値は払い込み以下でしたが、すべて払い込み額12円50銭で買うて買うて買いまくりました。

一方蚕具の方も専門技術者には好評を博し、郡是から町村長への紹介状をもろうてきて売って回ったもんですから、こちらもよく売れました。

第1次大戦の戦局が進むに連れて、世界の金が米国に集まり、米国の好景気を反映して郡是株もぐんぐん上がっってゆきよりました。

津山ではまだ12円50銭で楽に買えるのに、綾部ではもう20円もするようになり、毎日綾部から電報で相場をいうてくるんで、「今日は1万円もうかった」と思うた日が3日も4日もありました。

しかし蚕具のほうは後に大成館が会計の不始末で破産同様になってしもうて、私は旅費は出してもろうておったのですが、売上げからもらうはずの割り前は1文ももらえませんでした。

しゃあけんど、そんなことは何でものうて、片手間の仕事の株買いのほうで大もうけしてしもうたもんやから、昨日の貧乏から一転して小型ながらも「株成金」と地元の人から言われるようになりました。

Friday, May 18, 2007

♪コジュケイの歌

♪ある晴れた日に その8


鎌倉の滝のほとりに竹生いて 四方竹とぞ村人は呼ぶ

世の中の乱がわしきこと絶えずして 四角四面になりにけるかも

したり顔のファシスト共は跳梁す 闇に消えたるテレヴィの奥で

自分が嫌じゃ、他人が嫌じゃ、日本が嫌じゃ、世界中が嫌じゃ

こっち来いこっち来い コジュケイの不意の呼び出しに我は慄く

森行けばこっち来いこっち来い 黄泉の国よりコジュケイは招く

一挺のチェロ一挺のカラシニコフを携えて ロストロポービッチは黄泉に行きたり

一瞬に我と世界を打ち砕く ただ一挺の拳銃を求めて

森の奥闇はますます深くして テロリストのパラソルついに開かず

「ありがとう」といいながら京急バスを降りていく小学生が私は好きだ

Thursday, May 17, 2007

♪続タイヤの歌

ある晴れた日に その7

ダリア咲き タイはおさしみ ダイア笑う 関東平野にタイヤころがる

ぐわーっぎゃーっつ Bang !Bomb!Gang! いまに見てろ タイヤだいばくはつ

おっぺると来たタイヤって君か やに威張ってるな 隅っこのほうでころがってな

おおタイヤ! たいやーさむざむ ごろごろん わいらあひとり ころがるんば

じゅすいタイヤ ぶぜっとタイヤどんぶりこ あろんざんふぁん ごろごろりんこ

んぎゅーD’DAN! どしーんぐららあがあ 恐竜がタイヤをPUNKさせてく

どがDANCEでっさん DANCE!DANCE! どどんぱ! 虚空は蒼白のタイヤに満ち!

ダンスはすんだので 母は死に 海と空は乾いたので タイヤは一人で泣いていた

くっそお ねむらんとしてもねられず 黒タイヤ赤タイヤ青タイヤ ぐるんぱびゅるんぱまわるまわる

めをつむってもつぶしても どたまのなかで タイヤ走ってるまわってる追ってくる

風が立ち 波が騒ぎ 無限の前でわれ知りぬ 友情に篤いのはダイヤじゃなくてタイヤだった

死ぬまでに セネガルに行きたし グアテマラに行きたし 軽きタイヤにまたがって

ぬかみその ふにゃらちんぽに はがみする いんぽてんつの ちゅうねんタイヤ

あきかぜの みにしみてうらがなし ざいもくざかいがんに タイヤがひとつ

海ゆかば お前はダリア われはタイヤ とわに水漬く花飾りかな

Wednesday, May 16, 2007

♪タイヤの歌

ある晴れた日に その6


灼熱のアスファルトを朱に染め タイヤにひれ伏す黒猫トム

黒猫トムの 背骨を輪切る横浜タイヤ 霊園前は 真っ赤なキャンバス

地下足袋をタイヤに換えた石橋さん 功成り名遂げて『近代美』寄贈す

おおブレネリ わたしはここだ 大平原 アルプスからタイヤ一輪直滑降

ううぅぴゅー 山から谷 河から村へどどししどっど タイヤが街へやってきた

どないなっとんのや ひゃくせんまん じゅうまんひゃくまん せんまんのタイヤがやってくる

いるそんタイヤ おうじゅるでゅい ぬっそんたいやき きむいるそん

でたらめだあ もうやめてけれ もうくるな だんたいそんがひきまくりタイヤ

Tuesday, May 15, 2007

秋山駿著「私小説という人生」を読む

降っても照っても第14回

「自分のことをもう一度行き直してみよう」という年齢に達した著者が、眦をけっして向き合った日本文学の名作再読記であるが、その熱と意欲の高さに大きな刺激を受けた。

扱われているのは、田山花袋、岩野泡鳴、二葉亭四迷、樋口一葉、島崎藤村、正宗白鳥の6名で、彼らの代表作を肴にして作者は縦横無尽の独断と偏見を繰り広げている。

著者の力点は従来とかく軽視されてきた田山花袋の「蒲団」など自然主義作家たちの作品の再評価に置かれているようだ。

「人間の真実を剔出し、人生の真相を視る。それが日本の自然主義文学の独特さである」と著者は結論づけるのだが、しかしそういう定義なら、漱石も鴎外も荷風も谷崎も三島も両村上もなにもかもが同じ自然派の範疇に入ってしまうのではないだろうか? 

また著者が私小説を愛好する評論家であるにしても「私小説という人生」というタイトルは現代の日本語としては少しく奇異ではないだろうか? 

もちろん本書は文学論考ではない。

しかし著者は小林秀雄の文章に影響を受けた人らしく、例えば高橋源一郎や保坂和志などが文学を論じる際の繊細な手つきにくらべると論理の組み立てがいささか粗雑で時代がかっているように思われる。

そして独特の啖呵が、懐かしくも古めかしく感じられる。

もっともこれは私の頭が粗雑であるから、著者の立論についていけないのかもしれないが、何度読んでも「要するに何を言いたいのか」が理解できない個所があった。恐らく人間としての修行がまだまだ足らないのであろう。

通読してもっとも心に残ったのは、島崎藤村の項である。私は著者によって初めて藤村の随筆集の素晴らしさを知ることができた。藤村は本邦始まって以来のドビュッシーの愛好家であった。

Monday, May 14, 2007

最愛のCD

♪音楽千夜一夜第21回

先日私がこれまででもっとも感銘を受けたクラシックの生演奏について非常に興奮した記事を書いてしまったが、あほうついでにそれではCDのベストは何かといえば、そのひとつはバーンスタインの「ROMANTIC FAVORITES FOR STRINGS」といういわゆるアダージョ物の寄せ集めである。

このCDは確か国内版もCBSソニーから発売されていたように記憶するが、私が持っているのは輸入版で、若きバーンスタインがニューヨークフィルハーモニックを指揮した60年代の演奏である。

曲目はまず1910年生まれのアメリカの作曲家サミュエル・バーバーの代表作「弦楽のためのアダージョ」。

この曲は1986年に公開されたオリバーストーンのベトナム戦争映画の主題歌に使われて有名になった。ともかく弦が歌いに歌って悲壮の極みに至る。バーンスタインも、初演したトスカニーニ張りの名演で泣かせる。

次が英国の国民的作曲家ヴォーン・ウイリアムズが1570年後半に英国で流行した民謡をテーマにした「グリンスリーブズの主題による幻想曲」と同じ作曲家による「トーマス・タリスのテーマによる幻想曲」。トマース・タリスも16世紀の英国の教会音楽の作曲家であるが、ヴォーン・ウイリアムズが発掘した哀愁に満ちた懐かしい古雅な旋律を、バーンスタインは思いをこめてしみじみと歌い上げている。

それからロシアの文豪トルストイが感動したというチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番第二楽章の「アンダンテ・カンタービレ」、最後に19世紀末のウイーンで活躍した作曲家グスタフ・マーラーの交響曲第5番第四楽章の有名な「アダージエット」が演奏されてこの愛すべきコンピレーションが終る。

最後の作品はイタリアの名匠ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」のテーマ音楽で使われ、文字通り一世を風靡したがこれほどロマンチックな叙情歌も少ないだろう。

バーンスタインの演奏は後年のウイーンフィルとの演奏よりもこっちのほうが透明な悲しさが漂っている。ちなみにヴィスコンティは、わざとイタリアのローカルオケの演奏を使った。その鄙びた味わいがよい。

「アダージョ物」はカラヤンのが世界的なベストセラーになったが、バーンスタインはカラヤンや自らの後年の濃厚な味付けをいっさい廃して、恋に恋する純な若者の限りなきロマンと憧憬を、無窮の、そして無人の、海と空に向かってたった独りでひたすら奏でている。

♪ 友がみな吾より偉く見ゆる日よ 花を買いきて妻としたしむ

という石川啄木の歌があるが、このCDはそんな日に繰り返し聴くのに適している。

我が生涯の最愛の音盤である。

Sunday, May 13, 2007

鶯の歌

♪ある晴れた日に その5

長男と共に熊野神社に詣で、家に帰ってクレンペラー指揮フィルハーモニア管が伴奏するヴェートーヴェンの第三協奏曲をバレンボイムのピアノで聴いていた私は、突然そのCDのフォルテッシモをぶち破るような「ホー、ホケキョ!」という耳元の大きなさえずりにビックリ仰天してしまった。

見れば庭の柑橘樹の新緑の葉の間から渋い薄茶色の鶯が、パソコンのモニターに向かう余を見つめながら、またしても「ホー、ホケキョ!」と高らかに初夏の歌をうたうではないか。

このとき判然として余は悟った。

これやこの優美なる鶯こそは、過ぐる2002年の3月に忽然と身罷りし母上の生まれ変わりであることを……。


鶯よも一度聴かせよ母上に似たその声をもう一度

死に近き麝香揚羽よ食草をもはや選ばず産卵しおり

Saturday, May 12, 2007

母の日の歌

♪ある晴れた日に その4

一輪のカーネーションを携えて 遠き町より息子は帰宅す

息子よりカーネーションを手渡され 我を振り返る妻のその顔

いたつきに疲れ果てたる妻の眉 たちまち開く一輪の花

一輪のカーネーションを母に捧ぐ 良き息子なり天も嘉せよ

天使よりカーネーションを献じられし 妻は村の聖母となりたり

紅のカーネーションを献じたる 息子はただちに遠きに去れり

息子去り瓶に残りし紅き花 枯るることなくいつまでも咲け

一輪の花の命は果てるとも 我らの胸の花は散るまじ

窓際の瓶に挿したる紅き花 風のまにまに揺れて恥らう

我ら死に子等も死にたるある夕べ カーネーションは甦りの花

Friday, May 11, 2007

孤高の天才、チェリビダッケに寄す

♪音楽千夜一夜第20回

私が生涯で聴いた最高の名演奏は、1977年に初来日した彼が、ミュンヘンフィルではなく、わが三流オーケストラの読響を率いてのブラームスの4番だった。

全曲を通じてもっとも印象的であったのは、異様なほどの緊張を強いる最弱音の多用でとりわけ終楽章でフルートが息も絶え絶えに心臓破りの峠を上る個所では、聴衆もかたずを呑んでこの未聞の演奏の行く末を見守ったのであった。

そうして私は、かつていかなる指揮者も連れて行こうとはしなかった、とおいところに連れていかれ、そこで突然ほうりだされたことを知って驚き、呆然とした。

私は拍手をすることすら忘れて、この交響曲の知られざる真価を思い知らされたのだった。77年10月29日の夜の東京文化会館の読響は、哀れな凡才小澤の指揮するウイーンフィルよりも千層倍も素晴らしかった!

ところが、その翌年3月17日の横浜県民ホールのチェリビダッケと読響はもっともっと凄かったのである。

レスピーギの「ローマの松」の「アッピア街道の松」のクライマックスのところで、突然眼と頭の中が真っ赤に染まっってしまったわたしが、もうどうしようもなく興奮して、というよりも、県民ホールの舞台から2階席まで直射される凄まじい音楽の光と影のようなもの、音楽の精髄そのものに直撃され、いたたまれず、止むに止まれず、座席から立ち上がってしまった。と思いねえ。

すると驚いたことには、私の周囲の興奮しきった大勢の聴衆が次々に立ち上がって、声のない歓声をチェリと読響に向かって送り続けているのだった。

ああ、あの友川カズキや甲本ヒロトのような演奏を、もう一度でいいから死ぬまでに聴きたいものだ。

思えば、来る日も来る日も国内と外来のプロとアマのオケをさんざん聴きまくった5年間の大半が、それこそくずのくその演奏で、あれこそがたった一度のほんとうの音楽体験だったのだ。

いやよそう。魂の奥の奥までえぐる音楽の恐ろしさと美しさ、その戦慄のきわまりの果ての姿かたちを、たった一度でも経験できた、私はほんとうに幸せだった。

ありがとう、チェリビダッケ! そしてもうあれ以来訳の分からんところへ行ってしまった読響!

Thursday, May 10, 2007

中川右介「カラヤンとフルトヴェングラー」を読む

降っても照っても第13回& ♪音楽千夜一夜第19回

カラヤン対フルトヴェングラー。私はやはり前者の音楽よりは後者のそれを好むが、これほど詳しく2人の巨人の対決の様相を教えてくれた本は初めてだ。

音楽の世界に荒々しく侵入する政治と嫉妬と闘争。人間である限りは死ぬまでのがれられないその葛藤が時系列を追ってこれでもか、これでもかと描かれる本書は、クラシック評伝の白眉といえよう。

とりわけ全盛期にあって病魔と聴覚の異常に襲われ、自殺同様に死んでいくフルトヴェングラーの晩年の描写は鬼気迫るものがある。

でももう一年だけ生き延びてステレオによるワグナーの「指輪」の全曲録音を入れて欲しかったなあ。

51年夏に再開されたバイロイト音楽祭の初日に振ったフルベンの第9は、レコード史上空前にして恐らくは絶後の名演と謳われているが、この演奏の直後にかの偉大なるレコードプロデユーサー、ウオルター・レッグが終演後の楽屋を訪れてその演奏を酷評したという。

そのためにフルベンは2日間立ち直れなかったそうだが、これはレッグのほうが正しいかもしれない。あのどの奏者もついていけない気狂いじみた最終楽章は、普通のスタジオレコーデイングなら正規録音として採用されない体のものであろう。

それにしてもカラヤンとフルトヴェングラー以上に私が高く評価する天才セルゲイ・チエェリビダッケの失墜は、ほんとうに残念である。

10年間に400回以上のコンサートを指揮してベルリンの聴衆から圧倒的に喝采されたが、ベルリンフィルの団員からは圧倒的に不人気であったチェリと、戦前から数えてもたった10回しか公演していない如才の無いカラヤン。

チェリがもう少し人間的に成熟していれば、狡猾なカラヤンに代わって当然彼がこの世界最高のオーケストラの正式指揮者に任命されていたはずだ。

ああ、可哀相で限りなくあほだったチェリビダッケ。

Wednesday, May 09, 2007

大石芳野「無告の民-カンボジアの証言」展を見る

降っても照っても第12回


中野坂上の写大ギャラリーで大石芳野氏の「無告の民-カンボジアの証言」展を見る。

氏は80年から81年にかけて現地に入り、ポルポト派によって圧殺されたカンボジアの民衆の受難をモノクロームの静謐な画面に克明に定着した。

危険をものともせずに淡々と撮りあげた誠実なドキュメントである。

ポルポト派は73年から79年までおよそ300万人の無辜の民を拷問し、焼き尽くし、虐殺し尽くした。

そのためにカンボジアの医師、教師、インテリゲンチャはほとんど全滅したといわれている。

拷問で流された血潮、晒されたシャレコウベ、大量虐殺され穴に埋められたその現場…。

悲劇的な大惨事の後を尋ねて、カメラウーマンは万感を押し殺してワンカットずつシャッターを切る。

シャッターを押そうか、押すまいか、というためらいが見るものに伝わってくるようだ。
(6月3日まで、10時から8時まで。無料無休)

大船田園都市構想をもう一度

鎌倉ちょっと不思議な物語58回&勝手に建築観光・第14回

鎌倉市では現在大船駅東口市街地再開発事業を推進している。

駅周辺を再開発して商業、居住、交流機能を促進しようというものだが、そのなかで24階建て高さ90mの高層ビルを建てようとして市議会の多数派の反対にあい、予算案が否決されたので大慌て。

私のところにも市の拠点整備部再開発課というところからアンケート用紙が送られてきた。改めて市民の皆様のご意見を伺って再出発したいということなのだろう。

この街の市長は石渡徳一という人であるが、彼は最近建築業者のおおっぴらな違法行為にたいして認可の取り消しをしなかったというので住民や市議たちの反発にあい、その開発業者寄りの姿勢が、今回の予算案否決の原因になったといわれている。

元サントリー社員の彼は、私のオタマジャクシ保全や朝比奈周辺の環境汚染や産廃問題などへの回答では表向きは環境問題に理解があるように見えたが、実際はそうでもなかったようなのだ。

それはともかく、鎌倉の玄関口にあたる大船駅前の高層ビルは大変好ましくない。

京都や奈良や銀座でも高等観光地の最大の敵は高層ビルである。これあるために眺望がさえぎられ、景観が破壊される。
そのことは六本木や汐留だけでなく、全国の市街地、商業地で国民の皆さんがよくご存知のはずだ。

大船地区が鎌倉の一員であるかぎりは、鎌倉本体と同様の環境規制に従うべきだ。90メートルなんて論外である。

それにこの大船地区は、大正時代にあの有名な都市計画、大船田園都市が構想され実践された由緒ある場所なのである。

大正10年、東京渡辺銀行の渡辺六郎は、当時イギリスで生れていた田園都市構想に倣って、一面の田んぼと湿地の大船の地に、大船田園都市株式会社を興し、新鎌倉として分譲を開始した。

大船駅東口からかつて松竹大船撮影所があった駅東口一帯の土地はあの田園調布と同様にレンガ敷きの碁盤目の道路、上下水道、病院、公園などが整備されるという当時としては先進的な構想の町づくりであったが、残念ながら関東大震災や昭和初期の不景気などでこの素晴らしい都市計画は頓挫してしまった。

石渡市長は、どうしてこの緑と平和な市民生活の共存という先進的な構想を、現代の、現地において生かそうとしないのか? 

鎌倉全市をユネスコの世界遺産に指定をめざし、歴史遺産を大切にし、その教訓に学ぼうと宣言している市長なら、まずは大正・昭和初期の先人の智恵に深く思いを致してほしいものである。

ちなみに同地区には大船田園都市株式会社が開発・分譲した小池邸と隣家の対馬邸の2軒だけが現存している。

山小屋(シャレ)風の玄関ポーチを中心とした北側正面と、複雑に重なり合うフランス瓦葺きの屋根は、大谷石の門柱や垣の石柱、前庭の樹木とともに大変魅力的な景観を形成している。(写真)

Monday, May 07, 2007

ある丹波の老人の話(21)

この天から降ったような金で、私はどん底まで下がりきって捨て値になっておった郡是の株を買いあさりました。

百姓たちは株が嫌になってしもうてタダにならんうちにと誰もかもが売り急いでおりました。私は綾部付近から和木、下原のほうへ行って買いまくりました。

買った株はすぐ抵当に入れて金を借り、その金でまた郡是株を買い続けたんでした。このときは高木銀行がよう便宜を図ってくれました。

やがて大正4年になると、郡是は窮余の策として60億円に増資し、優先株を発行しました。

その優先株が非常に有利な条件がついておったにもかかわらず、すっかり嫌われて払い込みの12円50銭ならなんぼでも買えました。

その頃私は蚕具の催青器を発明し、続いてオタフク暖炉を発明して実用新案をとり、波多野さんに推奨されて大成館(蚕種製造会社で郡是の別働隊)から発売され、私はその宣伝のために各地を回りました。

そのついでに私は三丹地方ばかりでなく、その頃分工場や乾繭場が新設されて郡是の新株式の特に多い津山、木津などへ行って優先株を買いあさったんでした。(第四話 株が当たった話その2)

見城徹著「編集者という病い」を読む

降っても照っても第10回

1972年、イスラエルのテルアビブ郊外の空港で自動小銃を乱射しながら手投げ爆弾を投げ、自らを肉片と化して死んでいった奥平剛士。
その存在が、著者の不眠不休、獅子奮迅の出版活動を支えている、らしい。

連合赤軍の決死的闘争、というよりはイデオロギーを超越した自己滅却の蛮勇に衝撃を受け、いわば死の影で、死をバネにして、死からの跳躍を試みようとしているかのようである。

そうでなければあれほどの仕事ができるわけが無いと、妙に納得できる。

日本文芸史上樗陰以来最高最大の編集者が初めて書いた自伝である。といっても序文以外はすべてどこかに書いたものの寄せ集めであるのが残念だ。

ある夜、著者は私に「それでは今度一度お茶でも飲みましょう」と語ったが、お茶はついに飲まれずにおよそ20年の歳月が流れたのであった。

Saturday, May 05, 2007

神奈川県立近代美術館を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語57回&勝手に建築観光・第13回


子どもの日は八幡様は雑踏でごったがえしていたが、一歩木立の中に入ると閑静だった。

名匠坂倉準三が設計した東急文化会館はすでに消失したが、ここ鎌倉の神奈川県立近代美術館は降り積もる歳月の底でどっしりと、そして軽やかに持ちこたえている。

最近東京のど真ん中にできた3つの美術館なぞ、犬に食われてしまっても構わないけれど、この小さな美術館だけは、どうかいつまでもこの源平池のほとりの美しい景観の中で独り静に佇んでいてほしいものだ。

ここは美術館がすでにして生きた美術でも、ある数少ない文化遺産なのである。

家族揃って開催中の「近代絵画の名品展―高橋由一から昭和初期まで」を見る。

すでに何度も見たことのある懐かしい作品たちを、明るい緑の光が差し込む部屋から部屋へとぽつりぽつりと散歩しながら見てゆくこの喜びは無上のものである。

高橋由一の「江ノ島図」、黒田清輝の「逗子五景」、青木繁の「真善美」、高村光太郎の、萬鉄五郎の、岸田劉生のひとつひとつがしみじみと胸の奥に染み込んでいく。

そうしてやはり私が好きな松本竣介の油絵が4点出ていた。「建物」、「立ち話」、「R夫人像」、「自画像」であるが、そのうち死の7年前に描かれた自画像が特に素晴らしかった。

36歳で死んだ竣介は、その聞こえない耳を澄ませて、いつまでも何者かの声に耳を傾けているのだった。

Friday, May 04, 2007

夢のような話

ある丹波の老人の話(20)

大正三年に、あの欧州大戦が勃発しました。

糸価が大暴落したので、波多野鶴吉翁の郡是製糸会社は払込資本金十四億余円に対して、三十余億円の大損をしてしまいました。

当時「これで郡是はつぶれる」という噂が高まり、二十円株がわずか四、五円の安値に落ちてしまったのです。

波多野翁に満腔の崇敬と信頼を表し、大の郡是びいきだった私は、情けなくてたまりませんでした。

波多野さんほどの人のやる仕事がつぶれるような気遣いはない。いま悪くともきっと立ち直ると確信していた私は、金があればあの際限もなく下がっていく株を片っ端から買って、郡是を救いたい。波多野さんを助けたいと思ったんやけど、まだ借金地獄にあえいでいる私に、株を買うような金なんて一文だってありはしまへんどした。

その頃、蚕業講習所拡張のため、傍にある私の所有地三畝歩あまりの桑園を売ってくれと教師の西村太洲君から話がありました。

そのとき私はようやく差し押さえを解いてもらうだけの返金はしていたとはいえ、まだ残りの借金が山ほどあって、この桑園も二重三重の抵当に入っとりましたから、売るにしてもその分を払ってからでないと不可能やったんです。

それに「そんなことをしたところで、私の手に入る金よりは債権者に渡す金が多いに違いないから、余裕のない私にはとてもできない」と断ると、西村君は、「そこはうまくやるつもりだから僕に任してくれ」というんでした。

ところが、それからしばらくすると西村君がやってきて、
「万事うまく行った。これだけ余った」と言って、五十四円という当時では少なからぬ金を私に呉れたんです。

これはそれこそまるで夢のような話で、私はなんだかタダからお釣りをもろうたような気がしたもんでした。        (第四話 株が当たった話その1)

Thursday, May 03, 2007

こんな夢を見た

子供たちは運動会のような、いや北朝鮮のマスゲームのようなものを、何者かに強制されて行っていた。

彼らは、梯子を伝って窓から大きな家の2階の部分にはいりこみ、そこから屋根に上り、指導者の合図で一斉に1階に向かって飛び降りるのだった。

1階といっても仕切りは無く、下には別のグループの子供たちが築地の市場に並べられたマグロのように無数に横たわっている。だから下の子供たちは、上の子供たちが飛び降りてくるまでに退去しないといけない。もしも速やかに退去しなければ現場は大混乱に陥り、怪我をする子も現れるだろう。

 そう思いながら手に汗を握って見つめている私の目の前で、案の定事故が起こった。

たった一人落下する集団から逃げ遅れた子どもが、苦痛に顔をゆがめながら泣き出した。顔と、そして眼から血が流れている。それは知的障碍のある私の子どもだった。

私は全速力でその場に駆けつけたが、子どもは既にぐったりとしている。たぶんもう息はないだろう。

私は子どもの担任でこのマスゲームの責任者でもある体育の教師に詰め寄って、無我夢中で彼奴の首を絞めた。

教師は減点パパにそっくりの顔つきだった。自分の責任であることが分かっていたのだろう、青白い顔をしていたが、私が全力で首を絞め続けたのでどんどん血の気が引いてゆき、とうとう紙のようになった。私は「紙のようになる」という白さの比喩のほんとうの意味を始めて知った、と思った。

しかし私は、けっして減点パパを許しはしなかった。私は死んだ息子の仇を討たねばならなかった。

突然背後でフラッシュが光った。誰かがこの光景を撮影しているらしい。

振り返ると、どこかの広告で見覚えのある長身の外国人が、三脚の上でカメラを構えていた。

その男は最近東京湾岸の移動テントでいかがわしい写真展を開いていて、芸術の何たるかを理解しない無知な人々をまるでディズニーランドか木下サーカスのように引き寄せているあやしい男だった。

ひざまずいた巨大なインド象の前で、小さな少年が読書をしている。そんな見え透いた大衆受けを狙った写真ばかりを撮っているフォニーなクリエーターだ。

私は、減点パパの首からこわばった両手をやっと振り放すと、ゆっくりその長身のカメラマンに向かっていた。血まみれの両の手をタラバガニのように動かしながら……。

Wednesday, May 02, 2007

降っても照っても 第9回

緑陰消閑


@高橋源一郎「ニッポンの小説」
「文学とは遠くにある異なったものを結びつけるあるやり方です」と、語りながら始まる高橋教授の終わりなき大文学論。その真摯な思索に脱帽す。
とうとう中原昌也、猫田通子の「うわさのベーコン」を産出するにいたったニッポンの小説。文学は、インディヴユジアルを個人ではなく、一個人民、一身ノ身持、人民各個と訳していた時代にもう一度帰らなければなるまい。
はじめは処女のごとく、終わりは脱兎の如し。著者が最後に荒川洋治の「文芸時評という感想」を読み解きながら現代日本の小説を分析するくだりは迫力がある。

@中原昌也著「KKKベストセラー」
小説家業は売春婦稼業だ。なにもアイデアなぞないのに、はした金のために身を粉にして売文を書くのが苦痛で仕方がない。卑劣な島田雅彦のような自分はハンサムなのに中原のような他人の醜い容貌を揶揄する卑劣な人権無視の小説家は大嫌いだ。ああ、嫌だ、嫌だ。早くこんな業界から足を洗いたい…。
と同封のCDでも世を呪い、己を呪う著者。
そんなに嫌なら書くのを止めろ。こんな無内容な駄文を江湖の読者に供する朝日新聞社も何を考えているのか。実に下らない。世も末だ。

@G・ガルシア・マルケス「落葉」他12編
高橋源一郎は、ニッポンの小説は100年間にわたって死について直接描こうとしなかったと説くが、これやこのマルケスこそは源ちゃんが力説する「死」を描いた小説ではないだろうか? 中篇の「落葉」は全編に死の予感、いや死そのものが主人公としてあらゆる時間と空間を占拠し、ラテンアメリカ風諸行無常の仏教観がむなしく吹き抜ける。

Tuesday, May 01, 2007

右か、左か、真ん中か

♪バガテル op18

昨日中野坂上の学校で、広告代理店を受けるという大学生から就職相談を受けたときのこと。

彼女が、「自己PRの、“どんな新聞を購読しているか”という欄に、朝日新聞と書いてもいいでしょうか?」と尋ねるので「君が実際に購読しているのなら正直にそう書けばいいじゃないか」と言うと、「読売ならともかく、朝日は左翼的な新聞だから、私落とされるのではないでしょうか?」と余計な心配をしているのでこれにはちょっと驚いた。

あのブル新(死語?)の代表選手である朝日のどこが左翼的なのか、私などは理解に苦しむが、ともかく朝日新聞が「左翼的」になってしまったこの20年について改めて感慨を新たにしたことだった。

しかしもしも朝日が左翼なら、他の新聞はどうなるのだろう?
毎日も左翼偏向で、まあまあニュウトラルの日経を挟んで読売は右翼。部数凋落につき関西では夕刊を廃止したサンケイはさしずめ超右翼であろう。

しかし私が便宜上勝手に右翼に編入した読売が、日本帝国主義の戦争責任についてしぶとく追及し、悪名高きナベツネ主筆が、意外にも?靖国神社参拝問題で朝日と同じ見解であることが判明するなど、私のこの安直な左右のレッテル張りには、多少の不安定要因もある。ただし前首相の靖国神社参拝に関して賛成しているのは、大手?新聞社中ではサンケイのみである。

新聞に続いて同じ伝で出版社にレッテルを貼ると、朝日は相変わらず左翼で、講談社は左翼偏向、ニュウトラルはよくわからないけど集英社と光文社。そして読売資本に入った中公新社はまあ右翼で、新潮、文春、小学館はみな右翼偏向ないし一部超右翼であろう。

同様にしてテレビ局においても同一資本関係での共通項は認められるが、意外と左翼的?なのはNHKであろう。しかし大半の局が娯楽番組に血道をあげ報道関係はお茶をにごす程度なので判定不能だ。

このように、もはや民放テレビ局はあらゆる意味で“社会の木鐸”(古すぎ?)やオピニオンリーダーではない。従ってテレビ画面での言説においては誰かが誰かに殺されることはないが、雑誌や新聞での意見の開陳においてはそれが頻繁に繰り返されている。(20年前の朝日新聞阪神支局の小尻知博記者)
 
言論の自由に命をかけるジャーナリストは新聞と雑誌メデイアだけにわずかに偏在し、弛緩しきった痴呆番組を垂れ流すあれらの局アナやキャスターたちの憂い無き笑顔の中には間違っても存在しないのである。

安倍政権による憲法改定の策動が露骨になるなかで、わが帝国におけるジャーナリズムの右翼的再編とファシズム勢力のあくことなき伸張、それにともなう白色テロルの横行はますます跳梁をきわめることだろう。