Monday, April 30, 2012

フランシス・コッポラ監督の「コットンクラブ」を見て





闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.234

大恐慌前後、禁酒法時代のNYのエンターテインメント界とギャング社会の興隆を2つの愛の交流を軸にして描く。

当時のハーレムの歓楽スポットに集うマフィアたちやチャプリンやギャグニーやグロリア・スワンソン、デューク・エリントンなどが登場し、歌や踊りやショウの数々をたっぷり楽しめるのは結構だが、どうも活動写真的推力に欠けるのはなぜだろう。

ひとつには主役のリチャード・ギアの役柄が中途半端なのと、ダイアン・レインの素人芝居が足を引っ張り、せっかくグレゴリー・ハインズが見事なタップを見せたり、それとシンクロしてギャングの暗殺シーンを見せても、そういう手法自身にもはやなんの目新しさもないので観衆が鼻白むということがある。

70年代に大ヒットした「ゴッドファーザー」ではマフィアの抗争そのものを徹底的に描いたので、1984年に製作したこの作品では少しフォーカスをずらしてギャング噺とラブストーリーの2焦点に据えたことが裏目にでたのかもしれない。

ラストなどは噴飯もので、名監督らしからぬ不出来な上がりになったのはとても残念である。


「報連相」する間もなくて喉に落つ 蝶人

Sunday, April 29, 2012

西暦2012年卯月 蝶人狂歌三昧





ある晴れた日に 第107


キーンさん、日本人になってくれてありがとう!

ダルが投げイチローが打つ愉楽哉

梅開きにわかに蛙声聴こゆれば一首詠まずにおらりょうか

万朶関東平野駆け巡る

われ行けば万朶の関東平野

わが庵の主となりぬ島桜

桜咲く無神論者の庵哉

櫻見るなんの己が櫻哉

櫻とう櫻咲かせて歌を詠む大和心に変はりあるなし

今宵かぎりの夢撒き散らす櫻かな

浅き夢残して今朝は櫻散る

豪奢なる幻残し櫻散る

気が付けば花散里となりにけり

惜しみなく花降る道を歩みけり

論理学専門の学生部長神沢惣一郎氏大衆団交で論理が破綻

反論できない主張はなく論破されて宗旨変えする純朴な人間もいない

俳諧を第二芸術などと侮蔑した男ももう死んだ

罪咎の欠片も無しに虫けらのごとく息絶ゆ神なき人の世

われのことを三白眼の狂四郎と言いし男をまだ憎みおり

朝な夕な母と息子と余に尽くす野菊の如く可憐なる妻

門毎に春を告げゆく紋白蝶

解脱せよ解脱せよと説きながら儚くなり給えり小泉画伯

小泉画伯より頂戴したる成城風月堂のカステラを喰い尽くしたり

セザンヌは雷電に撃たれて斃れたり「庭師ヴァリエ」に白塗らんとして

100点のセザンヌより1点のアンリ・ルソー

フェルメールの良さが分からぬ男哉

視聴率を捨て最高視聴質を目指せ皆様のNHK 

フクシマの惨禍再来を待つと言うのか稼働を急ぐアホ馬鹿民主党

稼働基準の前に原発容認を国民に問え野田政権

明日は各地で落雷があるでせうと嬉しそうな顔で予報するなお天気男

アホ馬鹿と怒鳴りアホ馬鹿と罵るたびにアホ馬鹿野郎と成り果ててゆくアホ馬鹿野郎

いいねいいねと内輪褒めしているうちに沈没していく私たち

年毎に栗の匂い失いゆくかわがザアメン

粥の如き精液が出る男哉

やよ古井由吉。君は舌なめずりしながら女をペンで犯す文学者也

その男尾籠なれどもぐぇいじゅつ家

あまでうすかく語りき「万物退化す」


帰玄

君はもう見知らぬ土地へは行かないだろう
既に幾つもの風景を見てきたのだから
君は愛犬の傍らに座して思い出すだろう
あれらの土地に吹いていた風の匂いと光のいろを

君はもう本を読まないだろう
いくら朱線を引いても人の世は分からないのだから
君は海に突き出した半島の先端に立って
万巻の書物を水平線に向かって投じるだろう

君はもう音楽を聴かないだろう
どの和音も壊れたオルゴオルのように響くのだから
むしろ君は宙天高く舞い上がって
喉涸れるまで雲雀のように歌うだろう

君はもう新たな出会いを求めないだろう
胸痛む無言の別れを伝えてきたのだから
君は埃に塗れた十年連用日記を繰りながら
在りし日のあの人の面影を偲ぶだろう

君はもう夢を見ないだろう
目覚めているときにもそれを見ているのだから
君は春風に舞うギフチョウを追って
今日こそ懐かしいあの場所へ帰るのだ



星を歌う菫を愛でるわれはめでたき平成浪漫主義者 蝶人



Saturday, April 28, 2012

マリオ・バルガス=リョサ著「チボの狂宴」を読んで




照る日曇る日第512

 ドミニカ共和国を30年以上に亘って完璧に独裁したトルヒーヨの全盛時代とその栄光の座からの転落を、あざやかに描破した南米文学の最高傑作です。

 この「祖国の恩人」、「国家再建の父」が、その持って生まれた才覚と熱情と勤勉を武器に軍事政治経済社会の中枢を一身に掌握していく有様、また奴隷のように盲従する手下たちの己むを得ざる卑しさ、そして独裁に挑むテロリストの命懸けの陰謀の進行を、私たちは隣室で見聞きしているような臨場感と共に手に汗握って体感できるのです。

 しかも著者は、数多くの歴史上の実在人物が登場するこのドキュメンタリーな物語を、時系列を無視した人物ごとの複合的な視点からいくたびも語り直すので、その都度小説は新たな輝きと微妙な陰影を帯びて歴史の裏舞台からいきいきと立ち上がります。 
 
 漸くにして独裁者を斃したにもかかわらず、味方の将軍の裏切りで捕えられ、陰嚢を切断されるなど身の毛もよだつ拷問の末に惨殺されてゆく暗殺者たちの末路こそ哀れなるかな! しかもあと数カ月年生き延びれば「英雄」の称号が贈られたとあれば、歴史の皮肉と野蛮を痛感せざるをえません。

しかしこの小説で一番印象に残ったのは、「チボ(発情期の雄山羊)」と呼ばれた大元帥の挫折のシーンです。美しき人身御供の無数の処女膜を強靭な男根で次々と突き破ってきた不敗の独裁者は、本書のヒロイン、ウラニア嬢のフェラチオをもってしても勃起しません。怒りにまかせてそれを指で破った後で70歳の老人はついにおいおいと泣きだすのですが、この回春の狂宴、一転して梟雄の屈辱の夜こそが、独裁制の実質的な終焉の刻だったのです。

粥の如き精液が出る男哉 蝶人

Friday, April 27, 2012

川島雄三監督の「幕末太陽傳」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.233

若くして病に斃れた奇才の代表作である。維新も間近な品川の遊郭を舞台に、遊女や町人や勤王の武士たちが終始駆けずり回る。

余命いくばくもない商人に扮したフランキー堺が、これら多士済々の登場人物を手玉に取ってそれぞれ「いいように」してやるのが本作のみどころだが、死んでたまるかとばかりに宿をあとにするフランキーの姿に夭折した川島の絶望と希望がこだましている。そしてそのBGMには滝廉太郎の遺作「憾」のピアノがうつろに鳴り響いている。ラストを冒頭と同様に現代の品川で締めなかったのが、かえすがえすも口惜しい。


いつも映画に出ると妙なことになる石原裕次郎が、これまた若死にする高杉晋作を演じてあっけらかんと嵌っているのも見ものだが、遊女のライバル左幸子(美しい!)と南田洋子の本気の嘩がすさまじい。

てなことを書き飛ばしてはみたが、川島は1963年に死ぬまでに18本もの映画を撮っているから、以て瞑すべしか。享年45


櫻散る無神論者の庵哉 蝶人

Thursday, April 26, 2012

ビリー・ワイルダー監督の「失われた週末」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.232

1945年の米ハリウッド映画です。

わが国ではアルコール依存症の患者がおよそ30万人もいるそうだが、これも小説家志望の呑んだくれの話。おのれの才能に絶望してなんども何度も酒におぼれていく弱い人間をワイルダーは冷酷に見詰めている。ここにはオーストリアに生まれユダヤ人としてナチに追われた彼のベルリン時代の記憶が、反映されているのではないだろうか。

そんな駄目男レイ・ミランを最後まで見守り励ましてくれる恋人ジェーン・ワイマン(レーガン大統領の最初の妻だった)と兄フィリップ・テリー。忍耐と慈愛に満ちた彼等がいなければ主人公はきっと破滅していたに違いない。そんな一筋の人間の絆をワイルダーは温かく見詰めている。

結局主人公は自分の過酷な体験ともういちど向き合い、痛苦に満ちた表現者となることによって新しい第2の人生を歩み始めるのである。


わが庵の主となりぬ島桜 蝶人



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Wednesday, April 25, 2012

古井由吉著「古井由吉自撰作品一」を読んで




照る日曇る日第511
 

8巻の刊行が開始された本シリーズであるが、第1巻の本書では1971年に発表された「杳子」「妻籠」、72年の「行隠れ」、76年の「聖」という著者の初期の代表作が収められている。

「杳子」では、山登りの途中で偶然行き悩んでいる杳子と知り合った男性の視点で、精神の病に冒された若い女性との神経がひりつくような激烈な交渉を描いて読者を圧倒する。なんといっても凄いのは著者の女性心理をレントゲンで透視するような鋭い観察眼で、障碍に苦しむ杳子の奇妙な行動や立ち居振る舞いを微細に冷徹に散文に定着する作家の筆の冴えは、ほとんど偏執狂に酷似する。

ただし本書86ページ上段最終行の「まるで自閉症の女みたいに、何を言われても、そっくり同じ表情で、同じ返答を依怙地にくりかえしている」という表現は、この障碍の本質の完全な誤解に基づく表現なので版元は一刻も早く訂正するか削除して欲しい。

5つの短編からなる「行隠れ」は、両親と2人の姉で構成される山方家の人々を、主人公である弟の康夫の視点で描いた連作小説である。

「その日のうちに、姉はこの世の人でなかった」

という冒頭の謎めいた1行に導かれた読者は、たちまち物語の底知れぬ深みに向かって墜ちてゆき、最後の1行までうむを言わさず読まされてしまう。これぞ昭和日本文学が打ち樹てたロマンの金字塔であり、全ての読者が小説を読むことの恐ろしさと楽しさを満喫するだろう。

ところがその「行隠れ」よりも物凄いのが「聖」の世界で、ここでは東京から迷い込んだやさぐれ中年男が、村に先祖代々伝わる聖なる放浪者サエモンヒジリの衣鉢を継ぎそうになる話だが、ここでも村の女との蛇がうねうねでんぐり返るような交情が異彩を放つ。げに古井由吉とは、舌なめずりしながら女を書き犯す文学者である。なお朝吹真理子とかいう小説家が、「史上最低の解説文」を書いているので、これまた必読ですぞ。


やよ古井由吉。君は舌なめずりしながら女を書き犯す文学者也 蝶人


*雑貨女子に告ぐ! パリ買い付けの安カワ雑貨を、高円寺で期間限定販売!

私の友人が2月に買い付けたフレンチ雑貨を1000円前後で超お買い得サービスするそうです。
とき 5327日  ところbecome works!! Koenji(高円寺北口徒歩2分)
 






Tuesday, April 24, 2012

ジェームズ・キャメロン監督の「アビス」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.231


「タイタニック」で知られるこの監督は、ともかくやたら海と潜りが大好きだ。沈没したタイタニック号の周辺海域には何度も潜って撮影しているし、先日は単身「ディープシー・チャレンジャー」を駆って世界最深1万911メートルのマリアナ海溝チャレンジャー海淵に着地し、3Dカメラで撮影までしてのけたのである。

 従ってこの映画でも冷戦時代のアメリカの原子力潜水艦やら軍の特殊部隊員や石油採取会社のあらくれ男女が自在に乗り回す捜査艇、おしまいにはなぜか深海で活動するクラゲ状の宇宙人と大艦隊まで出現して、てんやわんやの大騒ぎとなるが、基本的には正統的な夫婦恋愛物語であり、大山鳴動してネズミ一匹というところか。

 内容は空疎でもともかく陸海空とあくまで巨大なスケールを描こうとするこの監督の精神構造は特異なものがあり、映画よりもそこに興味を引かれる。ヒロインのメアリー・エリザベス・マストラントニオが可愛らしい。


反論できない主張はなく論破されて宗旨変えする純朴な人間もいない 蝶人

Monday, April 23, 2012

家城己代治監督の「姉妹」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.230 野添&中原の両ひとみ選手が仲の良い姉妹を共演しています。実際にはおしゃまな後者が背が高くて大人っぽい前者より僅かに年配なのですが、とてもいい配役です。 舞台は昭和30年代の信州松本という設定になっていて、貧乏、病気、痴話喧嘩、労働争議と首切りなどのいろんな挿話が積み重ねられていくのですが、いつも元気で明るく歌をうたって(日共の歌声運動の影響か?)いる愛すべき「ひとみちゃんず」に魅了され、家族の生計を慮った姉が好きな男性を思い切っておんぼろバスに乗ってお嫁入りするラストではじんわりと涙腺が緩んでくるのでした。 ただし結核に冒された家族を見舞いに行った妹が、彼らの悲惨な暮らしに同情するあまり、金持ちで不幸な知り合いの家族を引き合いに出して「きっと悪いことばかりしていたから片輪になった」なぞと口走るのは、当時としても明らかに差別発言。いちおうカトリックという設定になっているから、なおさらのことです。 それにしても昔の女子学生は貧しくとも元気よく挨拶していたようですね。当節の豊かでも元気のない若者とは大違い。きっと今の方が精神的に満たされていないのでせう。 フェルメールの良さが分からぬ男哉 蝶人

Sunday, April 22, 2012

ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.229 アンリ・ドカエのキャメラによるモノクロームに映えるジャンヌ・モローとモーリス・ロネのなんと若々しく美しいことよ! 1958年の巴里が懐かしい。 夜のアウトドア撮影、即興的な編集、マイルス・デイビスのジャズなど、当時としては斬新な演出を試みてはいるが、それは表面だけでひと肌めくれば本質的には2つの恋の破綻を描く昔ながらの世話物映画なり。 社長夫人が恋人に頼んで夫を殺させ、恋人は事故でエレベーターの中に一晩中閉じ込められる。その間に恋人の車、拳銃を盗んだ若い恋人たちが殺人事件を起こしたりするが、こういう流動する人物とプロットを最後にがっつりと受け止めカタストロフを終始させるのがリノ・バンチエラ扮する刑事の頑強な肉体で、この男が登場した途端に浮遊し情動していた行く宛てなしのドラマがやっと着地する古典的な仕掛けだ。 あとの写真現像室でのモロオの哀愁やら慨嘆なぞはグリコのおまけ。むしろこの作家の旧い古い体質をあらわにしている。 もっと旧弊な点は一見無軌道な若者たちの描き方で、彼らが睡眠薬で自殺しようとする場面で流れているのはなんとボッケリーニのメヌエットなのである。未来に絶望して自爆するゴダールの若者像などとは同じヌーベルヴァーグ作家といってもずいぶん作風が異なる。 小泉画伯より頂戴したる成城風月堂のカステラを喰い尽くしたり 蝶人

Friday, April 20, 2012

ダメダバダアエヌエッチケエ

バガテルop152&♪音楽千夜一夜 第256回 春です、新学期です、新番組でやんす。 超保守派の私は民放が嫌いで日本放送協会の放送を好むんだけど、それは同じアホ馬鹿でもアホ馬鹿度がかなり低いからだ。特にそれは報道番組や特集で顕著に現れ、「皆様のNHK」においてはそれなりのアナウンサーがそれなりに客観的にニュースを伝えているのに対して、多くの民放局では放送時間が超短く、アナウンサーの日本語の発音が歪んでいて情報の優先順位や重要度の価値観が混乱しているのみならず、報道を劇場化・芸能化・漫画化して伝えようとする傾向が甚だしいのであまり見ないようにしているのだよ。  しかし春の番組編成でNHKは訳の分からぬ新番組を始めたね。お昼のニュースの後でなぜかクイズ番組がはじまり産休明けダブルベービーの武内アナが司会を命じられているようだが、彼女はNY帰りの島津アナともどもミスキャストだす。もっと活かすポストを与えるべし。and天気予報で下らないダジャレを吐いている眼鏡男も即消えろ。 されどいわゆるひとつの音楽への無私の献身&愛情のひとかけらもなく、恐るべき主体性&音楽感性零の技術ロボットで、さなきだにそのテクも一部の優れた学生オケやアマチュア団体より下に位置する超ユルイ井の中の蛙&官許専売公社N響の「なんちゃってアワー」を止めたのは結構毛だらけ猫灰だらけで、できれば耳汚しのN響自体も明日解体し、大阪の教育文化弾圧大好きハシズム市長からいじめられている優れた民間オケに補助金として差し出してほしいものだ。 彼らやサイトウキネンが秘かにうぬぼれて日本一を自認している間にチョン・ミョンフン率いるソウル・フィルが東洋一、いな世界的水準のオーケストラを育成し、なんと独グラモフォンと契約していたなんて誰も知らないだろう。悔しかったらこの名コンビによるマーラーの交響曲1番と2番、フランス音楽の録音を聴いてみなさい。 それはともかく、一等解せないのは読書人必見の「週刊ブックレビュー」を止めたこと。司会や出演者には異論もあったが、「戦争証言記録」「世界ふれあい街歩き」とともにこれこそNHKが続けるべき番組ではなかったのか。  もっと許せないのは「サラリーマンNEO」が姿を消したことじゃ。これはお笑い無き民放の白痴低能のアホ馬鹿バラエティを巷に低く見るわが国で唯一無二の正統的コント番組であった。一日も早く復活してほしいものである。   視聴率を捨て最高視聴質を目指せ皆様のNHK 蝶人 アホ馬鹿と怒鳴りアホ馬鹿と罵るたびにアホ馬鹿野郎と成り果ててゆくアホ馬鹿野郎 蝶人



Thursday, April 19, 2012

ある晴れた日に  第106回

帰玄 君はもう見知らぬ土地へは行かないだろう 既に幾つもの風景を見てきたのだから 君は愛犬の傍らに座して思い出すだろう あれらの土地に吹いていた風の匂いと光のいろを 君はもう本を読まないだろう いくら朱線を引いても人の世は分からないのだから 君は海に突き出した半島の先端に立って 万巻の書物を水平線に向かって投じるだろう 君はもう音楽を聴かないだろう どの和音も壊れたオルゴオルのように響くのだから むしろ君は宙天高く舞い上がって 喉涸れるまで雲雀のように歌うだろう 君はもう新たな出会いを求めないだろう 胸痛む無言の別れを伝えてきたのだから 君は埃に塗れた十年連用日記を繰りながら 在りし日のあの人の面影を偲ぶだろう 君はもう夢を見ないだろう 目覚めているときにもそれを見ているのだから 君は春風に舞うギフチョウを追って 今日こそ懐かしいあの場所へ帰るのだ 解脱せよ解脱せよと説きながら儚くなり給えり小泉画伯 蝶人

Wednesday, April 18, 2012

ロナルド・ニーム監督の「ポセイドン・アドベンチャー」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.228 一九七二年製作のパニック映画の秀作です。タイタニックを思わせる海難事故で突如沈没してしまった巨船ポセイドン。天地がさかさまになってしまった地獄絵のような状況で、ジーン・ハックマン扮する牧師が身を犠牲にして獅子奮迅の大活躍をするのですが、興味深いのはこの牧師の信仰のありかたです。 同じ映画に登場するおとなしく祈るだけの牧師とは大違い。患難汝を玉にする、ではないけれど、たえず人智を尽くして考え、あきらめずに最後の最後まで行動する点が素晴らしい。 人世誰しもいつでもどこでもこういう危機がいっぱいだけど、いざ彼等と同じ局面に陥ったら、どのように振舞えるのか。そういう究極の危機管理、自分の落とし前の付け方の教訓譚としても身につまされてお勉強になります。          罪咎の欠片も無しに虫けらのごとく息絶ゆ神なき人の世

Tuesday, April 17, 2012

日出山陽子著「尾崎翠への旅」を読んで

照る日曇る日第510回 尾崎翠という人についても、その作品についてもこの年になるまでまるで知らなかったことを激しく後悔している今日この頃ですが、世間では数多くの熱烈なる翠ファンが地下茎のようにうねうねと寂しく繁殖しているようです。 彼女の作品に魅せられて以来茫々35年。雑誌「エスプリ」昭和10年1月号の広告で尾崎翠の「短編作家としてのアラン・ポオ」という幻の原稿を発掘したり、作品全集の年譜作成まで手掛けておられる小生のミク友の著者などは、さしずめその代表選手なのでしょう。 この本には、激務の合間を縫って図書館で資料を渉猟したり、翠の生地鳥取をはじめ各地のゆかりの知人や縁者に直接面会して得られた貴重な情報や論考が、全部で9篇並んでいますが、いずれをとってもまるで地を這うような地道な作業と執拗な思索が生んだかけがえのない珠玉の労作ばかりで、そこには翠とその作品に対する著者の心の底からの愛情が感じられます。 特に7番目の「春の短文集」では、翠の同名の作品に出てくる「3時13分」という時刻をめぐる著者の推察と想像が生彩を放ち、さながら松本清張の推理小説のような面白さとリアリティを現出しています。同時代の作家林芙美子や大田洋子と翠の交友や「こほろぎ嬢」を巡る考察も「成程なあ」とじつに腑に落ちますが、翠の生涯の親友であった松下文子が生前著者に語った「尾崎翠という人」こそは、本書の白眉中の白眉ではないでしょうか。以下原文のまま引用させていただきます。 「色が白く肌がきれい、背は5尺あるかないか、痩せているが骨太、いかり肩で手が大きい、目は一重、少しウェーブのかかったやわらかな赤い髪、声はアルト。竹を割ったような性格で嘘が嫌い、内向的で社交性なし。宵っ張りの朝寝坊。散歩は嫌いだったという。」 尾崎翠とはこういう人だったのですね。そしてこのように個性的な作家はこれまでどこにも居なかったし、これからもけっして現れないのでしょうね。 惜しみなく花降る道を歩みけり 蝶人

Monday, April 16, 2012

スタンリー・クレーマー監督の「招かれざる客」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.227 人種問題などに進歩的な見解を有する新聞社の社長夫妻(スペンサー・トレーシーとキャサリン・ヘプバーン)の家に突如娘が連れてきた招かれざる黒人婚約者シドニー・ポワチエ。 おまけに彼の両親まで同家を訪れることになり、さあ血気に逸る一目惚れの若い男女を、酸いも甘いも噛み分けた大人たちがいかにしてこの海あり山あり地獄ありの難題をうまく着地させるか興味津々だが、そこはそれ才人スタンリー・クレーマーが名優トレーシーの見事なスピーチでめでたくお開きにするという鮮やかなオチをつける。 私の身内に黒人と結婚した女性がいるが、いつだったかの親戚の集まりでその二人が姿を現した瞬間、私も含めて一瞬固唾を呑んだことを思い出した。一九六七年という時点のアメリカでこういうホットなネタを映画にすること自体、かなりの勇気を必要としたに違いないが、そういうリスクも製作者を兼ねた「手錠のままの脱獄」を世に送ったクレーマーがきっちりと取っていることに改めて脱帽する。 さりながら、もしこの映画の主役の黒人(ニグロと発音されていた!)が世界的に著名な医師ではなく、ただのあんぽんたんかイカレポンチであったら、かの良心的インテリたちが最終的に結婚に同意したかどうか、なぞと考えてみるのも無意味ではないだろう。       浅き夢残して今朝は櫻散る 蝶人

Sunday, April 15, 2012

国立新美術館の「セザンヌ展」を見て

茫洋物見遊山記第85回

久しぶりのセザンヌだがちっとも心に響かなかった。

この画家はあくまでも理知の人。山や画廊主やリンゴを前にしてキャンバスの上でそれらを一度解体してから、ああでもない、こうでもないと組み立てることに腐心する。

それが悪いというのじゃない。その試行錯誤が稔りにみのって後期印象派から構成主義的キュビズムとやらへの突破口を切り開いたなぞと美術史家が高く評価しているようだが、だからと言って面白くない絵は面白くねえと言おうじゃないか。

私は彼が糟糠の妻を描いた縞模様のセザンヌ夫人(横浜美術館蔵)除いてただの1点も感動しなかった。別に他の海外作品など要らなかったのである。

ああ、冷徹の絵画王よ。貴公の大芸術は遂に余の趣味には相容れぬ塵の山さ。我が家の狭い庭に眠って腹から大島桜を咲かせてくれている愛犬ムクに呉れてやろうとまでは思わぬが、盗んでも持ち帰りたいと願う作品の巡り合えない展覧会ほど虚しいものはない。

かてて加えて本展の照明は最悪じゃ。上方からのスポットライトが画面に乱反射して見難いことこの上もない。この節の展覧会はやたら細かなテーマで会場を細分化して編集することに夢中になっているようだが、そんなことは迷惑千万。すべて製作年代順に普通に陳列せよ。いったい学芸員はどういう仕事をしているのか。

なお本展は6月11日まで。他の地方での開催は不明です。


100点のセザンヌより1点のアンリ・ルソー 蝶人

Saturday, April 14, 2012

東京国立近代美術館の「ジャクソン・ボロック展」を見て

茫洋物見遊山記第84回

いわゆる「アクション・ペインティング」の元祖の作品が60点以上も見物できるというので竹橋まで出かけたら、金曜の午後だというのに人影もまばらでありました。

やはり世間の人は上野公園のパンダや桜見物には繰り出してもアメリカ人の酔っ払いの抽象表現主義の作品なんて見たくもないのでしょうね。

ハンス・ネイムスによって撮影された製作中のライヴ映像を見ると、ボロックは庭に置かれた巨大なキャンバスに向かって結構激しく塗料を垂れ流したり刷毛で殴り描きしたりしているのですが、完成された作品を見るとそういう現場の乱暴さや粗暴さはどこかに消し飛び、いくぶんかの不穏さを背後に秘めながらも、見えない神知によって整然と区画された秩序のようなものを感じるから不思議です。

アクションといわんよりは、恐るべき孤独の世界で金色の沈黙を守っているペインティングでした。
一方における人為的芸術行為と他方における非人間的偶然性とが奇跡の融合を遂げて、ここに前代未聞の複雑さと単純さ、醜さと美しさを兼ね備えた前衛美術が誕生したのです。

しかし画面全体を強烈な色彩と綾模様で制覇した時価200億円の最高傑作をしばらく眺めていると、絵の焦点がどこにもないものだからだんだん不安に駆られてくる。

私はいくら金があっても、またいくら値打ちのある傑作であっても、こういう不気味な代物を家の中に飾っておこうとは思いませぬ。それはかのメキシコの壁画が与えるめまいと吐き気に限りなく近いものを放散して已まないのです。

余りにも短すぎた生涯の最晩年に、ボロックはこの一斉風靡した一点突破全面展開画法を急転させて、黒一色の抽象画を描きはじめたようですが、どこか一休の書や白隠の禅画を思わせる東洋的な古淡の味わいこそは、私が彼にひそかに求めていた理想の画境でした。


その男尾籠なれどもぐぇいじゅつ家 蝶人

Friday, April 13, 2012

ボストン美術館「日本美術の至宝」展を見て

茫洋物見遊山記第83回


といっても米国のボストンまで行ってきたわけではありません。櫻満開の上野の東博平成館でつらつら見物したのです。

そこにはかの岡倉天心やフェノロサなどが本邦からせっせせっせと持ち運んだ国宝級の仏像、仏画、絵巻物、中世水墨画から近世絵画、染織、刀剣がワンサと並んでおりましたが、私の目をくぎ付けにしたのは、やはり「吉備大臣入唐絵巻」と「平治物語絵巻」でありまして、とりわけ後者の猛火と群衆の動的描写にはほとほと感嘆、二嘆、三嘆いたしました。

お次は長谷川等伯六八歳最晩年の傑作六曲一双の「龍虎図屏風」の圧倒的な壮観で、尾形光琳のポップモダンな「松島図屏風」も相変わらず良かったが、芸術の品格からいえばやはり等伯に軍配が挙がるでしょう。

それよりなにより奇想の芸術家と称される曽我蕭白の作品がなんと一一点も並んでいるのは春の珍事、驚異の眼福と言わずにおらりょうか。どれもこれも素晴らしいが、吾輩が一等感涙にむせんだのはやはり宝暦一三年制作の「雲龍図」で、真ん中の胴体が欠落しているのがいささか無念ではあっても、この気宇壮大なること空前絶後の恐るべき頭と尻尾をいつの間にか両の掌を合わせてつらつら眺めているうちに、嗚呼、ありがたや有り難や、あろうことか涙さえ流れてくるではありませぬか。

こんな世紀の逸品をどさくさまぎれに太平洋の彼方まで運び去ったウイリアム・スタージス・ビゲローは思えば小憎たらしい男ですが、当時の日本人なぞ及びもつかない目利きだったことが痛いほど分かります。これこそ日本芸術の最高峰であるのみならず、世界美術の最高傑作というても間違いないでせう。


気が付けば花散里となりにけり 蝶人

Thursday, April 12, 2012

内田樹&中沢新一著「日本の文脈」を読んで

照る日曇る日第509回

 新進気鋭、というよりは今や論壇の主流に躍り出て大活躍の「男のおばさん」によるアットホームな雰囲気の対談集である。

3.11の大震災が来るまでは「日本の王道」というタイトルで出版されるはずが、内田の提案でこともなげに急遽「文脈」に変更したというのであるが、ここら辺は「武士」への憧憬を隠そうともしない現役武道家の抜く手も見せぬ早業を感じさせる。

 私はこの文武両道、日猶兼用の思想家が唱える師レヴィナス譲りの「始原の遅れ」哲学とか、「すべての人間的営為は「贈与と反対給付」よって構成されている」などという学説には俄かに同意できないが、彼が中沢選手と共に推奨している「廃県置藩」は大賛成だ。

官僚統治の効率化をめざして急速に膨れ上がる中央集権的共同体を破壊的に再分化して司法・軍事・行政区画を再び江戸時代の藩の状態に復元したり、あるいは吉里吉里国のように三三五五自立独立化すれば、昨近の無責任政治やアホ馬鹿白痴市民の大増殖にも少しは歯止めが掛かるだろう。

沖縄にしてもヤマト&アメリカ両国と一日も早く手を切って非武装中立の新琉球国を旗揚げすれば、彼らの米軍基地問題は速やかに解決するに違いない。もし衆議一決すれば、日本やアメリカや中国やロシアや北朝鮮やインドやイスラエルやイランと張り合って核武装するも諸君の選択肢の裡にある。

 それはともかくこの座談の中でいちばん面白かったのは能の話で、バレエの主役が舞台で死んだら公演は中止になるが、能の舞台では最後までやる。シテが死んだら後見が死体を「切戸口」から出して代わりに舞うことになっているそうだ。 

能は死霊たちが出現する芸術であるとは承知していたが、「切戸口」は老子のいう「玄牝の門」(子宮口)であり、その対極線にある目付柱がファロス(男性器)であるとは知らなんだ。これを要するに、能舞台とはラカンがいう穴のあいた三間四方の無限宇宙であり、生(性)が、死霊と激しく交感するエロスの殿堂なのであった。

 
桜万朶関東平野駆け巡る 蝶人

Wednesday, April 11, 2012

鈴木杜幾子著「フランス革命の身体表象」を読んで

照る日曇る日第508回


ジェンダーから見た200年の遺産という副題が付されているように、これは人類の半分が女性である以上、美術史学もまたその事実を尊重すべしと断言する、新古典主義について造詣の深い著者に因って執拗に掘り起こされたフランス革命時代の絵画や彫刻、建築、図像等の新解釈である。

これまでの美術史はそこで出現する身体について男女の性差を考慮に入れず、いわば「普遍的なもの」として取り扱かわれてきたことに激しく異議を唱える著者は、あえて女性の観点に立った身体論の適用に因って「フランス革命史の一点突破全面書き換え作戦」に挑戦しているともいえよう。

著者が解き明かすように、ダヴィッドの代表作「マラーの死」においては、美しき女性暗殺者コルデーの姿をあえて画面に登場させないことによって、当時既に身体的にも経済的にも政治的にも限りなく死に瀕していたジャコバン派の醜男を、一挙に「不滅の男性革命家」に引き上げる政治的役割を果たしたし、ロマン派の曙を告げたドラクロワの「民衆を率いる「自由」」に描かれたもろ肌脱ぎの女神は、「自由」という観念に導かれてバリケードを越えて進むパリの、なんと「男性」!を描いているということになる。

著者がいうように、自由、平等、博愛を標榜して民衆が武装放棄したフランス革命の初期には民衆の女たちが大活躍を遂げたにもかかわらず、彼女たちはすでに革命の最中に男性革命家たちによって抹殺され、美術に登場するのは「現実の男たちと抽象的な女の凍った身体」に過ぎなかった。

このように栄光の大革命は、男が外で活躍し女は家庭内でそれを優しく支えるという男女の役割分担システムの草創期であり、その本質は「女性不在の男性革命」であったとする著者の見解は、事の真相の一端を鋭く剔抉するものではあるが、来たるべきフランス革命美術史は、男性性と女性性を止揚した男性女性性の統一的視座の元で書かれるべきではないだろうか。

男性性に依拠した美術史が女性性を武器にした新美術史によって駆逐された暁には、その双方を弁証法的に止揚し終えた男性または女性、あるいは心身ともに両性を兼備した双方向トランスジェンダーたちの手で「次代の新々美術史」が編纂されるに違いない。


ダルが投げイチローが打つ愉楽哉 蝶人

Tuesday, April 10, 2012

ドナルド・キーン著作集第1巻「日本の文学」を読んで

照る日曇る日第507回&バガテルop151

せんだってキーン翁は、晴れて我らが同胞の一員となられた。これについてわたくしは北区西ヶ原の区役所が小さな花束を贈ったことは知っているが、その他からあまり歓迎の声が掛からないのはいかなる仕儀であろうか。

わが国はアメリカなどと違って二重国籍を許さない偏狭な国家なので、すでに老境に達した異国の人が、いかに日本および日本人を愛しているとはいえ、大震災で来日に二の足を踏む外国人や原発被害で南西日本や海外に逃げ出す日本人も多い中、愛する母国アメリカを捨ててまで東洋の島国に骨を埋める決意を固められたことについて少しは思いを致し、江湖の声をひとつにしてその勇気ある決断を称えてもよいのではなかろうか。

さりながらめでたく帰化して「かけがえのない日本人の宝」のとなられたキーン翁から、改めてわが国の古典文学についての話を聞くことは、さしたる愉しみなき境涯の身のわたくしにとって、またとない悦びであった。

本巻では吉田健一の訳した「日本の文学」を皮切りに、篠田一士訳の「日本文学散歩」、大庭みな子訳の「古典の愉しみ」、そして全国各地で日本語で語りかけられた文芸講演、エンサイクロペディア・ブリタニカに掲載されている「日本文学」の英語解説まで、じつに多種多様、バライェティに富む本邦の文学、小説、詩歌、演劇などの論考や随想が載せられているが、執筆年代が少し古いにもかかわらず、いま読んでもどれも新鮮で面白い。

とりわけ「日本文学散歩」出てくる大村由己、細川幽斎、木下長嘯子、宝井其角、平田篤胤、大沼枕山、仮名垣魯文などの諸氏の文芸事績とその作品評価は、彼らについて暗いわたくしには初めて聞くことばかりで勉強になった。

芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」について、「イ音」が多いことに注目し、芭蕉はこれがセミの鳴き声に似ていることを知って意図的に詠んでいると指摘しているのも興趣深いが、ここからその時に鳴いていた蝉が、アブラゼミでもクマゼミでもヒグラシでもミンミンでもなく、ニイニンゼミであることを改めて認定できよう。

NYのメットで「アイーダ」の終幕のリハーサルをしていたトスカニーニが、主役のソプラノに「そんな悲しそうに歌うんじゃない。これは生涯のうちの喜びの瞬間なんだ。喜びをもって歌いなさい」と指示するのを聞いた瞬間、「これこそは近松の心中する主人公たちが考えたことだ」とつい思ってしまうのが、ドナルド・キーンという人なのである。

キーンさん、日本人になってくれてありがとう! 蝶人

Monday, April 09, 2012

ジョン・ヒューストン監督の「黄金」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.226

1948年製作のアメリカ映画で、黄金の欲に取り付かれ常軌を失った貧乏な浮浪者をハンフリー・ボガードが熱演している。

舞台は1920年代のメキシコで一攫千金を狙うアメリカ人の山師がメキシコ人の山賊や軍隊や現地人の目をかいくぐって暗躍するのが見どころである。

ボガードは老齢のヴェテラン、ハワードとたまたま知り合った文無しカーティンの3人組で山奥に入って首尾よく黄金を探しあてたが、その性もっとも不純にして善良な仲間たちに疑心暗鬼を抱き始めるのだが、これはボガードならずともこういう状況では誰もがこうなるのかもしれない。

そんな形で人間心理の魔に迫るジョン・ヒューストン監督の父親ウオルター・ヒューストンが、非常にいい大人の味わいを出している。


櫻見るなんの己が櫻哉 蝶人

Sunday, April 08, 2012

小林正樹監督の「人間の條件・第6部 曠野の彷徨篇」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.225

 逃亡兵を引きつれて秋深い旧満州を放浪する梶は、一人の老人(笠智衆)に率いられた女たちが住む家を見出す。その夜寄る辺なき女性たちは自らの身体を開いて男たちを招き入れたが、高峰秀子扮する人妻の誘いを、梶は断って独り朝を迎える。

 翌朝やって来たソ連兵たちを前にして梶たち日本兵は投降して捕虜となったが、ここも安住の場所には程遠く、誇り高い我らが主人公は森林鉄道の強制労働に駆りだされるが、その間に息子のように可愛がっていた新兵(川津祐介)を執念深い旧敵(金子信雄)のために殺されてしまう。

 怒り狂った梶はその伍長を殺してから収容所を脱走し、雪降る荒野の涯に小さな白い丘となって斃れる。最愛の妻美千子の名を呼びながら……。

 まことに残酷で可哀想な最期を遂げた梶ではあったが、内務班の暴力に耐え、戦場の露と消えずにここまで逃げおおせたのであれば、ソ連兵のイデオロギー攻勢になんとか耐えて、最悪はシベリア送りになったとしても命だけは取り留めて帰国出来たのかもしれない。

 ともあれ、人々の平穏な暮らしのかけがえのなさを奪い去る戦争の過酷さと愚かさを思い知らしめる比類なき反戦連作映画として、その表現技法や俳優の演技をうんぬんする以前に大きな推奨に値するだろう。


いいねいいねと内輪褒めしているうちに沈没していく私たち 蝶人

Saturday, April 07, 2012

小林正樹監督の「人間の條件・第5部死の脱出篇」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.224

 梶は生き残りの部下たちと共に妻美千代の住む方角をめがけて脱出行を試みるが、途中でソ連兵の斥候と遭遇したためにやむを得ず彼を刺殺してしまい、血に染まった右手を何度も見詰める。彼には何の恨みもないが、梶は自分が生き延びるために人を殺してしまったのである。

やがて梶は、ちりじりばらばらになった兵や民間人の逃亡者と一緒になり、喰うや喰わずの生き地獄の森の中で多くの犠牲者を出しながら辛うじて脱出したが、ようやく見つけた農家で、梶に好意を抱いていた娼婦(岸田今日子)を現地人に殺されてしまう。

彼等の急襲から逃れて偶然社会主義者の丹下一等兵(内藤武敏)と再会した梶だったが、あくまでもソ連を理想化する丹下との間には次第に溝が出来ていく。やがてまた逃亡する邦人女性の一行と出会った梶は、いたいけな少女中村玉緒の処女を仲間の兵たちに蹂躙されてしまうのであった。

本作品ではヒューマニストであるのみならずフェミニストでもある主人公の正義感振りが力強く表現されている。当時梶のようにそれなりに民間人を保護誘導し、食料を分け与えて人間並みに取り扱った兵隊が果たしてどれくらいいたのだろうか。甚だ疑問である。


俳諧を第二芸術などと侮蔑した男ももう死んだ 蝶人

Friday, April 06, 2012

小林正樹監督の「人間の條件・第4部戦雲篇」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.223


退院した梶が所属した部隊にいたのは、彼のかつての同僚影山少尉だった。影山(佐田啓二)は上等兵になった梶を初年兵教育係に任命して引きたてようとするが、部下を殴らず温情主義で育成しようとする梶は古兵たちの敵意と反感を買い、猛烈なしごきにあう。

仲代達也の証言によれば10名の古兵は本気で彼をぶん殴り、血にまみれ腫れあがった顔面をカメラマンの宮島義勇はいそいそと撮影したそうである。

古兵たちとの対立が決定的な局面を迎えることを懼れた影山は、梶を前線の別部隊に移すが、その間にソ連軍に急襲された影山とその部隊はほぼ全滅してしまう。

やがて梶の小隊にもソ連軍の戦車が襲いかかるが、自衛隊の戦車を使用した戦闘シーンは身の毛もよだつすさまじさで、梶が初年兵をひきずりこんだタコつぼの頭上を戦車は間一髪で通過していくのだった。


フクシマの惨禍再来を待つと言うのか稼働を急ぐアホ馬鹿民主党 蝶人

Thursday, April 05, 2012

小林正樹監督の「人間の條件・第3部望郷篇」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.222

大卒の満鉄エリート社員でありながら2等兵として営倉に放り込まれた梶は初年兵としての過酷な任務に耐えながら帝国陸軍のおそるべき非人間性と直面していく。この極限の世界では異端の思想者と肉体的精神的な弱者はますます差別され過酷な取り扱いを蒙るのである。

ちなみに梶役の仲代達也は監督小林正樹の命で大船撮影所で1ヶ月間の初年兵教育を受けたそうだ。軍隊経験のあるリアリストの面目が、ここでも遺憾なく発揮されている。

しかしこの映画では、千里の道を遠しとせず兵営に駆けつけた美千子が梶と物置小屋で一夜を共にするが、当時いくらなんでもこういうことをする女性はいなかっただろうし、上層部がこういう温情で2人に配慮するようなこともなかっただろう。原作と映画の虚構に違いない。

梶と同期の小原2等兵(田中邦衛)は行軍に遅れ便所で自殺するが、もし私が当時この年齢で兵隊に取られたとしたら、きっと小原と同じ状態に追い込まれていただろう。

梶と思想を同じくする新城1等兵(佐藤慶)は隙をついて国境の彼方に脱走を図る。ソ連への過大な幻想を描く新城と疑問視する梶の違いがここで表面に出たが、新城の逃避行を成功させるために、梶は新兵を暴行する吉田上等兵の追跡を阻止し結果的に彼を死に追いやる。

負傷して入院した梶は看護婦(岩崎加根子)とほのかな慕情を交わし合うのだが、やがて運命は彼をもっと過酷な死線へと押し出していくのである。


稼働基準の前に原発容認否認を国民に問えどぜう政権 蝶人

Wednesday, April 04, 2012

小林正樹監督の「人間の條件・第2部激怒篇」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.221


部下の陰謀に因る工員と陳(石浜朗)の鉄条網感電死事件に続いて、7人の脱走者をめぐる処罰事件が引き起こされ、ヒューマニスト梶は最大の窮地に立たされる。

梶がいくら良心的な個人として振舞おうとしても、彼が支配者の一員である限り、己を滅しない限りはその支配に構造的に加担せざるを得ない関係性が冷徹にそびえたっている。

次々に憲兵軍曹渡合(安部徹)の軍刀で斬首されてゆく無実の工人を目の前にして、梶はついに立ち上がる。その決死の反抗に呼応した捕虜たちの身を呈した抗議によって、処刑は3人目の高(南原伸二)を終えたところで中止になったが、梶は憲兵たちの惨たらしい拷問を受け、ようやく帰宅を許されたものの、所長は当初の約束を反故にして召集令状をつきつけたのだった。

己の保身のために権力の走狗となる所長の老獪さと厭らしさを、三島雅夫が好演している。

明日は各地で落雷があるでせうと嬉しそうな顔で予報するなお天気男 蝶人

Tuesday, April 03, 2012

小林正樹監督の「人間の條件・第1部純愛篇」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.220

五味川純平の原作を映画化した第1作では、主人公梶の満州老虎嶺鉱山における苦闘を描く。満鉄調査部における机上の空論を過酷な現実に適用することになった梶(仲代達矢)は、現地の鉱山労働者のみならず、上司や同僚、部下、現場監督の抵抗と軍の介入のはざまで苦悩する。

強制労働と搾取に苦しむ工人の労働条件を緩和することによって労働力を向上させようと図る梶だったが、そこに北支から大勢の捕虜が送りこまれ、更に2割増産の命令が下され、理想主義者の梶は新婚まもない妻美千代(新珠三千代)との関係もぎくしゃくしてくるのだった。

佐田啓二・有馬稲子・淡島千景・南原伸二・山村聡などの当時の人気俳優が続々登場するが、娼婦の元締めを演じる淡島千景が妖艶で有馬稲子は陰が薄い。常に力みかえった熱演型の梶は私の苦手な役者だがこれが第1作なので我慢して見物。さすがに山村聡の演技はスケールが大きい。


論理学専門の学生部長神沢惣一郎氏大衆団交で論理が破綻 蝶人

Monday, April 02, 2012

オリヴィエ・ダアン監督の「エディット・ピアフ 愛の讃歌」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.219

名高いシャンソン歌手のあまりにも数奇な生涯をさまざまなエピソードを交え、時系列を無視した回想録風に映像化しています。

オランピア劇場におけるコンサートなどいずれも歌手本人の録音が使われており、「薔薇色の人生」や「愛の讃歌」「私は後悔しない」など彼女の代表作を楽しむことができるのはたいへん結構なこととはいえ、肝心のピアフを演じる役者マリオン・コティヤールの顔が気に食わない。いや、そもそもピアフはああいう顔をしていたのかしら。

昔顔、「顔、顔が嫌い」というエピック・ソニーからデビュー―した新人の作品がありましたが、芸人と政治家は顔がいのち。実際にピアフがあんな顔をしていたか否かは知りませんしどうでもよいことですが、あんなけったくその悪い泣き顔を見ているとこちとらの生きる気力も萎えてきます。

ダアンという監督の力量もいまいちで、往年のおフランス映画の輝きを知る人にとっては無惨というほかはないていたらくの出来栄えです。


われのことを三白眼の狂四郎と言いし男をまだ憎む 蝶人

Sunday, April 01, 2012

エドマンド・グールディング監督の「グランド・ホテル」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.218

1932年に製作された史上初めてのグランド・ホテル形式による映画。同じ場所に集う多くの人々の諸相を同時進行でスケッチしていく手法が、新しいドラマチックな興奮を生みだした。

従業員を奴隷視する強欲社長やその被害者で余命いくばくもないその企業の社員(ライオネル・バリモア)、泥棒や詐欺で世を渡っている女殺しの「男爵」(ジョン・バリモア)など興味深い人物が次々に登場するが、なんといってもロシアの有名バレリーナ役のグレタ・ガルボの美貌にとどめをさす。社長の秘書役でジョーン・クロフォードは完全な引き立て役に終わってしまった。

ガルボの前にガルボなく、ガルボの後ガルボなし。げにこの人こそ、古今音東西世界第一の大スタアであろう。


朝な夕な母と息子と余に尽くす野菊の如く可憐なる妻 蝶人