Tuesday, March 31, 2009
梅原猛著「うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成」を読んで
能の大成者である観阿弥(世阿弥の父)の出生地は、大和ではなく断じて伊賀である。
観阿弥は伊賀に縁の深い上島家、永冨家、南朝の功労者楠正成の親類縁者として当地に生まれて能の一座を立ち上げたのちに初めて大和に進出した。
正成ゆかりの観阿弥は、とうぜん南朝の流れを汲む武士の一族であり、二人の兄を戦乱のさなかに亡くしていたが、観世音菩薩(観阿弥、世阿弥、音阿弥の命名はここから)の加護によってただひとり河原者となったが、「南北朝の調停者」であった北朝側の支配者足利義満の思惑によって引き立てられ、格上の金春座などを抜いていっきょに猿楽のスターダムにのし上がった、と著者は熱く説く。
「観阿弥伊賀出生説」はかつては学会の定説であったが、明治四二年(一九〇九年)吉田東伍が「世阿弥一六部集」を出してこれを疑い、能勢朝次の「能楽源流考」において大和説に逆転したのだが、すでに80歳を超えた梅原翁が、この大和説をうのみにする能学の権威者香西、表(岩波文庫「申楽談義」の編者)両氏に全面的には歯向い、筆鋒鋭く反論するさまは阿修羅のようにものすごく、本署の白眉である。
ここには能という孤城に閉じこもり、能の先駆者の生き方や南北朝の政治経済文化状況、仏教の本質についてあまりにも無感覚で不勉強な斯界の専門家に対する激しい憤りが感じられる。著者がみずから告白するように、この本はまさしく梅原翁に乗り移った観阿弥世阿弥の霊が書かせているような気もする。
しかし私はこのいささかエキセントリックな前半の論難部分よりも、後半でじっくりと描かれる観阿弥の能の名作「自然居士」「金礼」「卒塔婆小町」「百万」などの情意を尽くした見事な評釈の方がよりいっそう心に沁みた。
♪曲学阿世を断固粉砕怒れる老哲学者の叫びを聴け 茫洋
Monday, March 30, 2009
西暦2009年茫洋弥生歌日記
親子三人手と手を取り合い海辺の墓地に死すさながら西方浄土にあらずや
遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら
坊やさあいらっしゃいとたばら蟹のごとき両肢で僕の下半身を絡めとる高樹のぶ子
もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが
少年にして少女のかんばせカルジャが撮りし17歳のランボー
われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし
真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声
新幹線ではビュフェでカレーがいいよと教えてくれしおじもビュフェも今はなし
春の朝甲本ヒロトシャウトせり人には優しく
洛北の北白川なる重度しょうぐあい施設湯船を埋めし黄色い雲古かな
我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな
青池さんより頂戴せし土佐文旦残り3個となる惜しみて食べられず
土佐文旦手に持てばわが失いしもの程の重さかな
息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき
吾のため子のため母のためたった7年で地球を2周せしカローラの妻
北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰
言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました
隣席にどさり腰かけ携帯す若き身空でニコチンにおう
金はないのに無茶苦茶に無駄遣いしたくなる
月並みの俳句を詠みて月並みの男となりにけり
己の屁の臭い嗅ぐああ生きているな
懐かしき人死して鶯さわに鳴く
春三月わたしの園を荒らすのは誰だ
千葉県で太陽に向かって吠える男
コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな
蛇のような棒か棒のような蛇か
いつも物見の上にいる鷹のやうに
―ある回想
夢の中でKに会った。Kは言った。W大闘争を総括してみろ。
俺は答えた。あれはスポーツだったよ。
夢の中でWに会った。俺は言った。
貴様は俺をリストラしたうえ会社を目茶目茶にしてしまったな。
Wは怯えた目をして走り去った。
にんげんは過去のしがらみからはどうしても逃げられないものである。
♪新宿ビックカメラで60円で売れたCD-RWうれしいやら悲しいやら 茫洋
Sunday, March 29, 2009
浄光明寺と「地蔵やぐら」
またこの浄光明寺には、これら数多くの史跡とともに、これからご紹介する「地蔵やぐら」通称「網引きやぐら」があります。
「地蔵やぐら」の天井には天蓋をつりさげた円形とそれを支えた梁の跡の溝がみられ貴重な遺跡となっています。また安置されている地蔵像は制作年代が正和2年1313年と銘記されていることが評価されており、冷泉為相が寄進したという伝承があるそうです。母の阿仏尼の尽力に深く感謝してこのお地蔵さまを造営したのではないでしょうか。鎌倉時代から南北朝にかけては訴訟の時代であり、男性はもちろんのこと阿仏尼のような女性たちも幕府に対してどんどん異議申し立てを試みています。
さらにこの浄光明寺には徳川家ゆかりの尼寺英勝寺に仕えた水戸徳川家の家臣の墓地やぐらや、鶴岡八幡宮の神職大伴氏とその家族の純神道式の笏型墓碑が3基あり異彩を放っています。
けれども私がもっとも心を傷めたのは、つい最近亡くなられたこの浄光明寺住職にして偉大な考古学者兼中世史研究家であった方のお墓でありました。思えば今を去る20数年前、私がはじめてこのお寺を訪ねたおりに、懇切丁寧に寺院や仏様の由来について説明してくださったのは、ほかならぬ大三輪龍彦氏でありました。
私は鎌倉の歴史について多くの示唆を与えてくれたこの先学に深々と頭を垂れてから、うぐいす鳴く浄光明寺を辞したのでした。
懐かしき人死して鶯しきりに鳴く 茫洋
千葉県で太陽に向かって吠える男
Saturday, March 28, 2009
春の浄光明寺を訪ねて
浄光明寺は皇室の菩提寺である京都の泉涌寺を本山とする「準別格本山」であり、慶長3年1251年に6代目執権の北条長時が真阿上人を開山として創建したお寺ですが、それ以前に源頼朝が頼んで文覚上人が建てたお堂がそもそものはじまりだそうです。
元弘3年1333年には後醍醐天皇の勅願所となるいっぽう、真言、天台、禅、浄土の4つの勧学院を建て、学問の道場としての基礎を築きました。また足利尊氏は建武2年1335年にこの寺にこもり、後醍醐天皇に反逆することを決意したといわれており、尊氏、直義兄弟の帰依と奇進と受けたのです。兄弟が足利家執事の高師直の軍勢に十重二十重に取り囲まれたのもこの寺でした。
本堂横の収蔵庫には本尊の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩が安置されています。地蔵菩薩立像は矢拾地蔵とも呼ばれ、足利直義の守り本尊でした。篤信家の直義でしたが兄尊氏との私闘に敗れ、最後は同じ鎌倉の浄妙寺で無念にも殺されてしまいます。しかしその同じ直義が後醍醐天皇の皇子護良親王を暗殺しているのですから因果は巡る風車といったところでしょうか。
浄光明寺の裏山には、一四世紀の歌人、冷泉為相の墓(宝塔印塔)があります。為相はあの有名な歌人藤原定家の孫で、父の死後遺領の相続をめぐって異母兄と争い、その訴訟のために鎌倉へ下向した「十六夜日記」で知られる母の阿仏尼のあとを慕って当地に入ったのです。
♪北海のとどろに寄せる荒波の彼方に聳える白亜の孤峰 茫洋
Friday, March 27, 2009
バレンボイム・ベルリン国立で「コシ・ファントゥッテ」を視聴する
02年9月のバレンボイム指揮ベルリン国立ライブで「コシ・ファントゥッテ」を視聴する。
近年モーツアルトのコシはますます上演機会が増え、さまざまな演奏と演出が登場してわれわれを楽しませてくれるようになった。それはこのダポンテ・オペラの最後の作品がすばらしいアリアと女と男という現代的なテーマでわれわれの心をとらえるからに違いない。
かりそめの恋愛に絶対はなく、その恋愛の対象は時間と環境を変換すればたちどころに置き換え可能であり、その定かならざる不定性こそが男女の関係性の本質そのものであることを、この音楽と心理の天才はよく知っていた。どんな男女の間でも恋愛は可能であり、また不可能であることを歌うこのオペラの音楽の魅力は不滅であろう。
いまや押しも押されぬ大家となったバレンボイムは、手兵のベルリン国立歌劇場管弦楽団をよく掌中におさめ、そんなモーツアルトの名曲をいとしむように、楽しみながら振っている。それは彼が目指しているフルトヴェングラーの演奏とは対極にあるものだが、それなりに身をゆだねて聴くことができる。カテリーナ・カンマーローアー、ドロテア・レシュマンなどの歌唱もおおきな破綻はなく、手なれたアンサンブルが予定調和的に醸し出されるが、時代を60年代の終わりに設定したリス・テリエの演出はシャープな切れ味をみせた。
♪春三月わたしの園を荒らすのは誰だ 茫洋
Thursday, March 26, 2009
ドニゼッテイ「マリア・ストゥアルダ」を視聴する
08年1月のミラノ・スカラ座ライブでドニゼッテイ「マリア・ストゥアルダ」を視聴する
「マリア・ストゥアルダ」はて何じゃらほい、といぶかしく思う向きもあるだろうが、なんのことはない、これはスコットランドの女王、「マリー・スチュアート」のイタリア語読みである。
スコットランド併合を企む9歳年上の従姉イングランドの女王エリザベス一世と政治的に対立したばかりか、レスター伯爵をめぐって激しい恋のさや当てを演じる。そしてマリーが、宿敵エリザベスによってとらわれ、英国に18年間幽閉された挙句にとうとう断頭台で斬首刑に処せられる悲劇は、かのシュテファン・ツヴァイクの史伝「メアリー・スチュアート」などでひろく知られている。
その有名な原作を音化したドニゼッテイは、序曲から終曲のカタストロフまで朗々たる歌謡の極致を体感させ、イタリアオペラの楽しさを心ゆくまで味あわせてくれる。
エリザベス(エリザベッタ)役のアントナッチはまずまずだが、表題役を歌うマリエラ・デヴィーナのハイCがすごい。演奏はアントニーノ・フォグリアーニ指揮のミラノ・スカラ座管弦楽団で文句なし。演出・美術・衣装の3役兼ねたピエール・ルイージ・ピッツイは最後の処刑場で史実通りに真紅のドレスをマリア・ストゥアルダに纏わせ、首切り役人の一撃で鮮やかに全曲を切断してみせた。
隣席にどさり腰かけ携帯す若き身空でニコチンにおう 茫洋
Wednesday, March 25, 2009
「相馬師常やぐら」を訪ねて
相馬師常は源頼朝の重臣、千葉常胤に次男で、相馬氏の祖となった武将です。1180年(治承4年)の頼朝挙兵に父常胤と共に参加して活躍した相馬師常は、その後も奥州征伐などで多くの戦功を挙げました。念仏行者として端坐、合掌して没し(即身成仏という)多くの人々が感動した逸話でも知られています。
彼の父親の常胤は千葉県の名の元にもなった名家の出身ですが、その父親常重と頼朝の父義朝が相馬御厨の所有権を巡る騒動もあり、「吾妻鏡」にあるようにただちに三〇〇騎をもって頼朝の救援に駆け付けたわけでもないようです。
それはともかくこのやぐらは、玄室奥壁中央部の大きな龕(がん)が切り石でふさがれている独特の形態であり、玄室左奥の一石五輪塔も非常に珍しいものです。伝承とはいえ被葬者の名前が知られているきわめてまれなやぐらとして貴重です。
♪新幹線ではビュフェでカレーがいいよと教えてくれしおじもビュフェも今はなし 茫洋
Tuesday, March 24, 2009
「瓜ヶ谷やぐら」を訪ねて
今度は坂道を東にわたって田圃に降りて海蔵寺の麓あたりに位置する瓜ヶ谷やぐらに向かいます。ここは別名「東瓜ヶ谷やぐら」、五つの穴がありますが、一号穴は「地蔵やぐら」とも称される約二〇畳くらいの大型やぐらです。壁面には多くの彫刻があり、第一級のやぐらとして高く評価されています。この先の葛原岡神社付近はかつての刑場跡といわれ、このやぐらの山稜部では荼毘所の跡が発掘されているので、このやぐら近辺も一連の葬祭施設が点在していたと推測されています。
一号穴は天井の一部崩壊により造立時の床は底上げされていますが、地蔵菩薩を中心に仏殿形式が整っています。中央には地蔵菩薩坐像が鎮座しており、左腕と胸の間の溝に塗色らしきものがみられます。左壁には龕(仏像を納める厨子)と納骨穴、奥壁には高さ一六七センチの坐像、高さ一五一センチ厚肉彫の大五輪塔、龕と納骨穴がずらりと並び、右壁には鳥居と神殿、地蔵菩薩立像、神像、龕などがあり、神仏融合の面影が残っています。
二号穴は厚肉彫の大五輪塔があって梵字がよくのこっています。また三号穴は三方に石棚があって壁には五輪塔が八基刻まれており、彫りかけの状態のものもあります。
♪吾のため子のため母のため7年で地球を2周せしカローラの妻 茫洋
Monday, March 23, 2009
洋服解体新書
幕末から明治にかけて洋服の強制的な導入はさまざまな混乱をもたらした。たとえば和服は直線裁ちであるが、洋服は曲線裁ちである。曲線裁ちのできる洋服職人もそんな技術も不在だったので、足袋職人が最初の縫製士となった。足袋職人たちは外国人から仕立てを学び、洋服を解体しては組み立てて縫製を行なった。医学のみならず洋服も「解体新書」の時代があったのである。
江戸時代の洋服は「蘭服」と呼ばれていた。オランダ、阿蘭陀の蘭である。明治5年1872年学制公布の一環で詰襟背広の洋装が導入され、当時の帝大で明治19年1886年に軍服を手本として学生服が採用されたが、これは学生が着る蘭服だから、学ランと呼ばれるようになった。黒の生地に5つの金ボタンの詰襟に学帽というスタイルが以後の原型になったのである。
1980年代には日本被服工業連合組合が襟のカラーは白、ボタンは5個、装飾的な刺繍などが裏地に入らないことなどの細かな基準を決定。認証マークつけた。卒業式に女性が第2ボタンをもらう習慣の起源は武田泰淳の小説「ひかりごけ」(特攻隊員がひそかに思いを寄せていた兄嫁に軍服の第2ボタンを渡した)という説があるそうだが、そんなことが書かれていたかなあ。
(後段の情報は朝日新聞のコラムより転載しました)
♪我が風呂にゆらゆら浮かぶしょうぐあい者殿のうんちのかけらは愛しきものかな 茫洋
Sunday, March 22, 2009
母7周忌に寄せて
真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声
われのことを豚児と書かれし日もありきもいちど豚児と呼ばれたし
天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり 日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音 教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり 陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり 千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき 白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな 我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う 母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ 太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花 千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり 滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く 犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花
Saturday, March 21, 2009
「一四やぐら」を訪ねて
私たちはまず北鎌倉の「西瓜ヶ谷やぐら」を訪ねました。鎌倉時代に鎌倉とそれ以外の地を切り離している地点に十王堂橋がかかっていました。ここには関所(交番)もあり、この十王堂橋から大切岸(瓜ヶ谷やぐら)または梶原方面に抜ける切り通しがあったと伝えられています。あの一遍上人が北条時宗によって追い払われたのもまさしくこの場所ですが、私たちはここから坂を登ります。
「西瓜ヶ谷やぐら」は別名「一四やぐら」ともいわれ、このやぐらを含む森全体が遺跡とみられています。かつてここには寺院があり、埋蔵物も多いと考えられています。
ちなみにこの瓜ヶ谷という地名は、かつて源頼朝の乳母、比企の禅尼がこのあたりで瓜園を造ったからだそうです。そのせいか、この近所では都会では珍しくまだ田圃が残っています。
山麓にある「一四やぐら」は鎌倉時代後期の造立で、一級の厚肉彫五輪塔が残存しています。五輪塔とは五つの鎌倉石を積み上げた塔で、下からそれぞれ地輪、水輪、火輪、風輪、空輪と呼んでいます。
ここでは故人の冥福を祈る追善供養のために、初七日から7日ごとに五輪塔を造り、後に一周忌などの法要にさらに塔を増築したと思われます。また中央の大型の塔(四五日法要用)には梵字の一部が残っています。
板碑と五輪塔はかなり風化していますが二か所あり、上段のやぐらは左側にも広がっていると考えられます。五輪塔の下の塚は人工的に盛り土されたもので「富士塚」または「経塚」跡とみられています。
♪息をしていないよと叫ぶ妻に驚きて飛び起きし朝もありき 茫洋
Friday, March 20, 2009
早春賦
今年もまた春が来ました。亀田さんの庭に桜の花が咲き、樋口さんの庭ではだいぶ前から白いモクレンが咲き誇っています。
朝の驟雨がお昼にはおさまって青空がのぞいたので、妻君と一緒に近くの朝比奈の滝まで散歩に出かけました。土饅頭のようなうてなの上には、朝の光をさんさんと浴びて、無数のスミレが可憐な水色の花をつけています。
私は漱石の「菫程の小さき人に生まれたし」という俳句を思い出し、生まれ変わったら来世ではこの美しい植物、あるいはその上空を飛び回っていたルリタテハになりたいと念じたことでした。
漱石は絵も字も名刺までもとても小さくて細いのを好む人で、それがこの作家の独特の繊細さと狂気すれすれの神経過敏の度合いを物語っていると思います。
どうして急に漱石を思い出したかというと、私の家のカレンダーが漱石だからです。1年12か月の12枚全部が、漱石が実際に書いた和洋の数字でできているという、世にも不思議なカレンダーを毎日眺めているので、散歩しているときにもふいに漱石が出てきたのでしょう。
朝比奈の滝が昨夜来の雨で増水して音を立てて落下しています。すぐそばには鎌倉市が2,3日前に立てた「国史跡朝夷奈切通し」の看板があって、当地の由来が4カ国語で説明されています。
私たちは無人の朝比奈峠をゆっくりと登って行きました。左右の沢からは清流が勢いよく流れ下り、その音がウグイスやキセキレイのさえずりと混じってまるでこの世の極楽のような気持ちにさせてくれます。
私は妻君を落葉が散り敷いた斜面に案内し、「ほら見てごらん、今年もオタマが孵ったんだよ」と自慢げに言いました。もう10年以上前からこの一角はいろんな種類のカエルが水溜りで交尾し天然自然に産卵する、市内でも貴重な場所なのです。ところが市の土木課が突然「世界遺産にするための環境整備」と称してこの周辺の樹木を伐採し、いままであった数少ない水溜りをブルドーザーで埋めてしまいました。
仕方なく私は長靴を履き、スコップを持って汗だくで原状を回復してやったのですが、そのささやかなスペースに今年もまたいくつかのカエルの卵とそこから孵化した小さなオタマジャクシを見つけたときの喜びは、なにものにもかえがたいほどでした。
「あらまあ、おかあさんガエルがいるじゃないの」
と妻君が驚いたように言いました。見ると水溜りの中に一匹の黄色いカエルが両手と両足を少し広げるようにしてふわりと浮かんでいます。
「おやおや、これはびっくりだ。ようこそカエルさん」と私が言うとそのカエルが突き出した瞳をちょっと右に動かして私たちの方を見ました。
カエル君をあんまり驚かせるとよくないので、隣の水溜りを覗いてみると、なんとそこにももう一匹のチビガエルがあわてて水底に潜り込もうとしていました。市役所があれほど野蛮な工事を行なったので、あんきに冬眠していた動物たちは全滅したのではないかと心配していたのですが、杞憂だったようです。
「また昔のように一〇組以上のカエルが盛大に交尾するようになると楽しいよね」
と妻君が言ったので、私は「うん」と大きく頷き、
「しかしこのままだと蛇や人に見つかって全滅するおそれがあるから、ここのオタマを今のうちに分配しておこう」
と言いながら、掌に掬った小さなオタマジャクシを、近くの他の水溜りにせっせせっせと移してやりました。
家計や日本経済と同じで、こういう風にリスクヘッジしておかないと、現在またまたま繁盛している生息箇所も、初夏の旅立ちまでの長丁場に、不意に破壊されたり、死滅してしまう危険があるのです。
「やっと終わったぞ。今年もなんとか元気に生き延びてくれよな」
と、祈る思いで緑色のうるんだ卵の塊を見つめていると、
「おとうさーーん。おかあさーーん」
という野太い声が、峠の麓の方から聞こえてきました。私たちが散歩に出たと知った長男が、急いであとを追いかけてきたのでしょう。
声に驚いてウグイスが飛び立った椿の梢から、一輪の紅い花弁がぽとりと落ちました。
♪コブシとハクモクレンの見分けがつかぬ男かな 茫洋
Thursday, March 19, 2009
アーサー・ウェーリー英語訳・佐復秀樹訳「源氏物語3」を読んで
アーサー・ウェーリーによる源氏物語は谷崎などの翻訳とは一味もふた味も異なっていて、物語の進行速度がはやい。物語の推進を邪魔する枝葉の部分を大胆にカットしていること、紫式部が念入りにこさえた、どこが頭でどこが尻尾か分からない海鼠のような文章を、ここが主語、ここが述語、ここが形容句という風に因数分解して、抜群によく切れるナイフで整除しているために、そういう爽やかで明快な印象が際だつのである。
進行速度ということでは与謝野訳が早い方だが、仮にこれをモデラートとすると、ウェーリーはアレグロ、谷崎はアダージオというところだろうか。調子に乗ってもっと音楽に喩えると、谷崎版はフルトヴェングラー、ウェーリー版はトスカニーニ指揮のテンポで、この世界で3番目に偉大な交響絵巻を演奏している感じがする。(ちなみに1番は旧約聖書、2番はシェークスピア、3番の同着はプルースト)
この第3巻で源氏はあっけなく息を引き取り、物語は彼の息子の世代の活躍が始まるのだが、その疾風怒涛のプレストが、逆にこの不世出の大恋愛家にして大心理家の喪失の悲しみをそそっているのかもしれない。
葵上も、紫も、夕顔さえもが六条の御息所(「みやすんどころ」と読む)の怨霊に執拗に祟られてとり殺され、その恐るべき悲嘆が源氏のいのちを奪い去る。そしてその怨霊の呪いと祟りを当の御息所にさえ制御できなかったとすれば、平安時代の貴族や民衆の精神を支配していた魑魅魍魎の無量の闇の深さはいかばかりであったろう。
宮中を華やかに彩った美人も才子はもことごとく姿を消し、今年もまた紫の上があれほど眺めたかった桜が咲こうとしている。そして、その春の梅や桜の花々を目にした私たちは、あの美しく貞潔だった紫の儚い生涯と行方も知らぬ後生をゆくりなくも偲ぶことになる。思えば紫式部はなんという驚異の物語を遺したものだろう。
♪こぞの花いずくにありや春の風 茫洋
Wednesday, March 18, 2009
小川国夫著「イエス・キリストの生涯を読む」を読んで
イエスの言葉については郷里の丹陽教会で、S牧師をつうじて再三再四にわたって日夜聞かされたが、神やイエスの実在について、わたしはどうしても信じることができなかった。まことに失礼ながら、時折はまるで夜店の香具師のような説教だとも思ったものである。
それはこのたび小川国夫のこの聖書講義を読んでも、本当のところは同じように感じた。信じる者と信じられぬ者、神につく人とつかぬ人。彼らと私の間には、たったの1歩を隔てて、どうしても飛び越えることができない千尋の谷底が横たわっており、彼らはその谷の向こうから神聖なることどもを、さまざまに語りかけてくるのであるが、やはりそれらはすでに異界に居住する賢人、聖人の言葉であって、しょせん私のような異邦人には解しがたい言葉なのであった。
そもそも新約聖書は、神様と人類のあたらしい契約、約束の書であるから、罪を犯した人類のために犠牲となったイエスの聖なる言葉とその復活を信じない者が読んでもほんとうは意味をなさない。契約を拒んだり無視しようと決めた人間などが手にしてはならない文書であると言っても差し支えないだろう。
しかし私は、謎のようなエホバの言葉、意味が分からないけれども妙に惹かれるイエスの言葉の深遠さに文学的な面白さを感じて、新旧ふたつの聖書を折にふれてひもとくようになったのである。
例えば私は、虐げられた人々の側に立って、「あなたたちの中で罪がない者がまず石を彼女に投げつけるように」(ヨハネ伝8章)と優しい言葉をかけるイエス、そして、その反対にエルサレムの神殿に乗り込んで、牛、羊、鳩を売る者を追い出し、両替する者たちの机を覆し、「私の父の家を商いの家とするな」と怒り、「この神殿を壊すがいい」と阿修羅のように絶叫する秩序破壊者のイエスが好きだった。(P113~118)
精神の王国にしか住めないイエスは、商業による蓄財と家族による平和の絆を本心では蛇蠍のごとく忌み嫌っていたのではないだろうか。そして少年時から青年時代にかけての私は、そんな「戦うイエス」を激しく愛していたのである。
けれども私にとってキリスト教はついに異国の一神教にすぎず、神と聖霊と子は難攻不落の砦であり続けるだろう。しかし、次に掲げる「南北戦争に従事して盲目になったある南軍兵士の祈り」なら私にも理解できるし、これを“神様の御業”と讃えた亡き大伯母の気持にも素直に寄り添うことができそうだ。
「答えられた祈り」(原文英語、アイリーン・ベン投稿 左近允訳)
功績をたてるために神の力を求めたのに
謙遜に従うことを学ぶように無力にされた。
もっと大きなことをするために健康を求めたのに
もっとよいことをするように虚弱を与えられた。
幸福になるために富を求めたのに
賢くなるように貧しさを与えられた。
人々の称賛を得るために権力を求めたのに
神の必要を感じるように無力を与えられた。
人生を楽しむためにあらゆることを求めたのに
あらゆることを楽しむためにいのちを与えられた。
求めたものは何も得られなかったのに、
望んでいたものは何でも得られた。
ほとんどわたし自身にかかわりなく、わたしの無言の祈りは答えられた。
すべての人の中で、わたしは最も豊かに恵まれた。
「ああ神様、おお、しかし神様」と身もだえしながら祈りしわが父よ 茫洋
Tuesday, March 17, 2009
感傷的な日記
昨日は久しぶりに東京に出ました。お世話になっている方が先日結婚式を挙げられ、おまけに新居も完成されたというので、長男が通っている施設で作った陶器を差し上げるつもりで紙袋に入れて駅までのバスに乗ったのですが、ここでまたしてもお得意のポカをやってしまいました。座席の隅に置き忘れてしまったのです。
それに気が付いたのは駅の改札を通り抜けてしばらくしてからのこと。急いで引き返しました。スイカ・カードを入口に駅員さんに見せ、「用事が出来たので電車に乗らずに外へ出たいんだけど」と言うと、20代前半とおぼしきその若い女性は、にっこり笑って「いいですよ」と言って入場料金を消してくれました。ほんとうはこのケースでは私がスイカを改札機にくぐらせて初乗り料金を支払わなければいけないのでしょうが、彼女は私にそうしろと言う代わりに格別の配慮を示してくれたのです。
改札口を出た私は、さっき降りたバスを捜しましたが見つかりません。焦った私がうろたえていると、京急バスの職員さんが、「どうかしましたか」と尋ねるので、「これこれしかじかで困っている」と説明すると、忘れものの形と中身を確かめてからすぐに携帯でバスの駐車場を呼び出し、「すぐにこちらに向かうバスがあるので、忘れものを持ってこさせます。あなたは5番のバス停のところでしばらく待っていてください」と言いました。
待つことしばし、「大丈夫かなあ」とやきもきしていた私の前に、突然さきほどの駅員さんが現れ、「忘れ物はこれですか」とくだんの紙袋を差し出しました。「そうです、そうです、これです、これです」と私はいっぺんで嬉しくなり、「ほんとうにありがとう。助かりました」と頭を下げますと、その30代後半の職員さんも自分のことのように喜んでくれ、丁寧に帽子を取って「いえいえ、うまく出てきてよかったです」と言いつつお辞儀をしながらにっこり笑いました。
しばらくして横須賀線の車上の人となった私の心のうちに、次第にほのぼのしたものがこみあげてきました。私は、いまさらながら「親切」ということを思いました。この人たちが私に対して示してくれた親切は、企業の規則やマニュアルに従った行為ではありません。ささやかではあっても、彼らの心の裡に生まれた自発的な行ないです。目の前で人が困っている。だから助けてあげよう、という素直な気持ちです。それが私の心に響いたのです。
「小さな親切 余計なお世話」という言葉もありますが、この世知辛い世の中でさりげなく小さな親切を実行する人たちは間違いなくこの世の宝であり、社会の根っこを支えているはずです。その証拠に、昨日私が直面したトラブルを昨日の二人のようにさりげなく処理する国など、おそらく世界中のどこの国にもないでしょう。
まさに「小さな親切 大きな感動」ですね。こうして久しぶりに拙い日記を綴りながら私にとってつくづく昨日は格別に良い日であったことが振り返られ、それと同時に、その恩返しということではないのですが、私もできるだけ人には親切にしよう、と殊勝にも思ったことでした。
♪春の朝甲本ヒロトシャウトせり人には優しく 茫洋
Monday, March 16, 2009
「やぐら」はインド、中国渡来
広辞苑によれば「やぐら」とは「岩石に穴を掘って物を貯蔵しておく倉。また墓所。鎌倉付近に多い」と解説され、矢倉あるいは窟という漢字があてられ、イハクラ(岩倉)の訛りではないかと想像されています。しかしこのような即物的な記述ではこの窟の宗教的な背景を捉えそこなってしまうことは前回に申し述べたとおりです。イハクラがどうしてやぐらに転訛したのかも言語学的にはおおいに怪しまれるところです。
斉藤顕一氏の見解では、やぐらという言葉自体が江戸時代になって定着したものだそうです。つまりあのような岩窟を鎌倉時代になんと呼んでいたかは分からないというのです。鎌倉時代から江戸時代までにはおよそ400年の歳月が横たわっていますが、私たちが現在鎌倉と鎌倉時代の文物についてもっともらしく語っている情報の7割以上がで出所が不明か怪しいと言われるのですから、なにを信じ、なにを退けていいのかおおいに迷います。
さてやぐらの形状については、山腹に垂直面、前面に平場、矩形の開口部、垂直の内壁と平天井、玄室・羨道・羨門という特徴を持ち、その機能としては納骨と供養をつかさどります。また火葬にされた骨を埋葬するための骨蔵器が仏像や五輪塔、宝篋印塔、板碑、壁面浮き彫りなどの傍に備え付けられており、床下には壇と龕があります。
やぐらからは華瓶、茶碗、かわらけ、小皿、写経石、古銭、鏡などが出土することが多く、内部で使用されている塗色は胡粉、漆、金泥などです。
またやぐらの起源については、鎌倉時代の宋から渡来したさまざまな文物、宗教、文化などのなかにこのやぐらという思想と建築物があって、時の幕府の要職にあった人々がこれを先進的に取り入れたのではないか、という学説が有力だそうです。ということはこうしたカルチャーはおそらく西インドのエローラ、アジャンターなどの石窟寺院や仏教文化がさまざまな仏像と共に中国に東漸し、これが朝鮮半島を経由してわが国に渡来したのでしょう。
鎌倉の立派な石窟を眺めているとE.Mフォスターの小説「インドへの道」の謎の場面が思い出されます。
♪遥かなるインドエローラ、アジャンター石窟から渡来したり鎌倉のやぐら 茫洋
Sunday, March 15, 2009
鎌倉の「やぐら」を訪ねて
鎌倉ガイド協会が主催する「やぐら」探訪シリーズの第3弾に参加しましたので、ここしばらくはその報告をしたいと思います。なお、これから記述する内容は、同協会制作の資料とツアーコンダクターの斉藤顕一氏のコメントに小生の感想を随時付け加えたものですあることをお断りしておきます。
「やぐら」とは中世鎌倉を取り巻く山稜、山腹を穿って造られた横穴式墳墓のことです。ここは小さな石造りの仏殿であり、埋葬、納骨のための墳墓窟でもありました。
この埋葬、納骨は、当時の人々が浄土を求めるひたむきな願望の表れとして営まれたものですから、やぐらは単なる岩窟ではありません。こうしたやぐらのある谷戸全体を聖なる宗教的空間としてとらえる必要があるのではないでしょうか。
さてこのやぐらに埋葬されたのはまずは僧侶たちであり、次にはその僧侶を尊崇して同じ場所に葬られたいと願っていた武士たちであると考えられています。これらのハイソサエティに属するエリートたちはその大半が火葬にされ、やぐらの内部に丁重に葬られましたが、それ以外の一般大衆はほとんどが海岸の近くに土葬にされました。彼らの身体は清浄な海の砂によって清められたと考えられます。
ちなみに現在由比ガ浜のすぐそばにある駐車場や消防署、京急バスの事務所や裁判所などの地下には、これら鎌倉時代の民衆の無数の遺体が発掘されました。私は以前これらの発掘現場に行きましたところ、由比ガ浜の地下数メートルのところに3人の親子と思しき全身の骨が、相模湾の夕日に照らされていた荘厳な光景を忘れるわけにはいきません。
親子三人手と手を取り合い海辺の墓地に死すさながら西方浄土にあらずや 茫洋
Saturday, March 14, 2009
ビゼーの「カルメン」を観たり聴いたり
ジョルジュ・ビゼーは1875年にモーツアルトと同じ35歳で死んだ。活躍した時代は1世紀近く離れており、その作風も作品の数も違うが、その音楽の純なること、歌の直截さ、そして泉のように汲めどもあふれる旋律の美しさという点では、似ていないこともない。ともかく素晴らしい音楽と歌が次々に出てくるのである。
ところで、ビゼーの歌劇「カルメン」の第4幕の大詰めでは、表題役のジプシー女(最近ではロマというそうだ)が、恋に狂う元伍長のドン・ホセに執拗に復縁を迫られるのだが、断固として哀れな男の求愛を拒否するところが、どこか騎士長に「悔い改めよ」と強要されて三度ノン、ノン、ノンと拒んでついに地獄落ちしてしまうモ氏の傑作「ドン・ジョバンニ」の終幕と似ている。もしかしてビゼーが真似(引用)をしたのではないだろうか。
ここのところを2つの映像で見ると、演出と指揮を兼ねたカラヤン・ウイーン国立歌劇場soによる1967年の劇場映画版(グレース・バンブリーのカルメン、ジョン・ヴィッカーズのドン・ホセ)よりも、07年の新国立劇場版(ジャック・デラコート指揮東フィル、マリア・ホセ・モンティエルのカルメン、ゾラン・トドロヴィッチのドン・ホセ、鵜山仁の演出)の方が第2幕の空間設定と共にはるかに勝っていた。
カラヤンという人は交響曲や管弦楽では破綻が多いが、(77年普門館日本公演ヴェートーヴェンの5番、6番の超レガート奏法でいっぺんで辟易)、ことオペラではつねに満足できる演奏をする不可思議な指揮者であるが、調子に乗って演出や映像監督に手を出すとこれがまたいつも失敗に終わるので有名だった。
そのことはビルギット・ニルソンが自伝で「彼はちっとも歌の練習をしないで舞台美術ばかり熱中している」と文句を言っていることでも分かるし、この劇場映画の第2幕のダンスでマリアンマ&スペイン舞踊団を起用したのはいいけれど、肝心の音楽と舞踊のリズムがばらばらであることにも如実に表れている。
しかしカラヤンの音楽と歌のなんと生命力にあふれていること。ジャック・デラコート指揮東フィルなぞ足元の爪の垢にも及ばない。
カラヤンは歌手をのびのびと歌わせている。後にベルリンフィルと入れた時はアグネス・パルツアだったが、この劇場映画版のカルメン役はグレース・バンブリー、1964年に同じウイーンフィルと入れた時はレオンタイン・プライス(「クリスマスの歌」の名盤あり。お相手のドン・ホセはフランコ・コレルリ、ミカエラは劇場映画版と同様ミッラ・フレーニ)でいずれも黒人だった。1987年ただ1度だけウイーンフィルの元旦コンサートに出演した時もキャスリーン・バトルという黒人のスーブレット・ソプラノを起用して「春の声」を歌わせていたから、結構黒人の声の魅力をかっていたのだろう。
そのグレース・バンブリーは2年前に来日してなんと70歳記念コンサートを行ったがすでに往年の面影はなく、時間にルーズで我儘なためにジェームズ・レバインからメットを追放されたキャスリーン・バトルも次第に活躍の場を失いつつあるようだ。
己の屁の臭い嗅ぐああ生きておる 茫洋
Friday, March 13, 2009
吉田秀和著「永遠の故郷 薄明」を読んで
冒頭に懐かしいヴィクトル・ユゴーの詩が掲げてあって、そこからこのフランス語とドイツ語と日本語が入り混じった多声的な語りに加えて、随所に手書きの楽譜が自在に挿入され、もはや小林秀雄の入眠落語を超越した吉田翁独自の音楽と文学と人生のたわむれが緩やかにはじまる。
Limmense bonte tommbait du firmament.(アクセント符号・記号等を省く)
「測り知れぬほど大きな優しさが大空から降りてきた。」(吉田秀和訳)
そういえばユゴーには、私の好きなこんな言葉もある。
「海よりも広いのは空である。空よりも広いのは、人の心である。」
新しい音は昨日の思い出を、昨日の思い出は明日の人生を、そして今日の人生がまた若き日の記憶の底へと古池の落葉のように沈んでいく。
語り部は、はたしてまだ生きているのか、それとも、もう死んでしまったのか、冥界からの子守歌のような無限旋律は、われらの心を限りなく慰藉するのである。
土佐文旦ずしりわが失いしもの程の重さかな 茫洋
青池さんより頂戴せし土佐文旦残り3個となる惜しみて食べられず
Thursday, March 12, 2009
鎌倉の廃仏棄釈 十二所の歴史と宗教 その2
明治初年の廃仏毀釈によって鶴岡八幡宮寺の大伽藍や仏像や宝塔はことごとく廃棄され、価値ある仏像や経文の多くは市内や遠くは浅草寺にまで散逸してしまった。先日の中国清朝の彫刻やインドのガンジーの眼鏡と同様、文化財は本来の場所に返還されねばならない。
神仏分離令では一夜にして坊主が神主になり替わった。それまで縦に木魚などを叩いていた僧侶が突然横に幣を振り始めたので脇を痛めて困っている、と当時の文書に書かれているが、ともかく神道では平気で魚などを食らい殺生していたのに、仏教ではかたく禁じていたから、大きな矛盾に逢着した。そこで両者が知恵を出し合って作ったのが放生会という儀式で、まずはウナギとドジョウを食らったあとでこれらの生き物を川に逃がしてやったのである。
鶴岡八幡宮には二五坊があるが、十二所にも数多くの僧侶が二五か所の寺院に多数住んでいた二五坊が存在したのではないかと考えられる。御坊谷、御坊橋、御坊井、御坊坂など現在の地名がそれを跡付けている。二五坊というのは阿弥陀仏が来迎する際にその周囲に連なっている二五の仏にちなむ二五の寺院を指す。
太陽の神は烏であり、月の神は兎と蟇蛙である、とするのは中国の神話であるが、それが日本に入ると太陽神はやはりカラスであるが、月からはカエルが姿を消してウサギだけになった。(竹取物語)。ちなみに中国の最高神は龍であるが、本邦に入ると鯉となった。
いずれにせよ中国では日月の神は常に対になっていて、本地垂迹説によって本邦では日光、月光両菩薩のようにペアで仏が建造されることになる。十二所には御坊橋の近所に月輪(がちりん)寺の旧跡があるので、当然その付近に日輪寺もあるだろう。
あまでうす独白。
かつて私が日輪寺と想定した中世共同埋葬センターの向かいの谷戸は、三浦氏も寺院跡であると認められた
―日経連載中の小説を読んで
♪坊やさあいらっしゃいとたばら蟹のごとき両肢で僕の下半身を絡めとる高樹のぶ子 茫洋
Tuesday, March 10, 2009
十二所の歴史と宗教 その1
地元の十二所公民館に、鎌倉国宝館の三浦勝男氏が来訪され十二所の歴史と宗教について短い講演をされたので簡単に抄録しておこう。
まず鎌倉で往時の面影をいまに伝えているのは、ここ十二所と山崎と扇谷の3箇所だけである。特に十二所は滑川が流れ、船着き場があり、港へのネットワークが発達して盛んに交易を行っている点で「もっとも鎌倉らしい鎌倉」と言える。十二所は鎌倉七口のうち西御門(晩年の江藤淳が住んでいた)と並んで幕府にとってはもっとも重要な脱出口であった。(朝比奈峠から六浦を経て房総半島にいたる)
あまでうす曰く。巴里が仏蘭西にあらざるが如く、紐育が米国にあらざる如く、現在観光客が群れ集って殷賑を極めている小町通りなどは「もっとも鎌倉らしからぬ鎌倉」であろう。
次に、「十二所」(じゅうにそう)という地名は秋田県大館、兵庫県養老、福島県会津など数か所あるが、いずれも熊野信仰に基づく。当時の人々は、死ぬとその霊は「八咫烏(やたがらす)」という三本足のカラスが熊野にまで運ぶという信仰があった。だから熊野は、それらの霊を祀り穢れを清める神聖な霊場であった。また熊野神社は空海ゆかりの高野山系真言宗の本拠地でもあるが、後白河法皇などは源頼朝から金千両をせがんでは幾度も熊野に詣でた。
しかしその熊野にいます十二神をワンンセットで勧請したのは当地だけであり、そういう意味ではきわめて格式が高い。しかもそれを鎌倉の光触寺に勧請したのはほかならぬ一遍である。
一遍は時宗を興した。彼は当初は時宗ではなく「時衆」と称していたが、北条氏の弾圧により改名せざるを得なかった。時宗は同じ鎌倉新宗教の禅宗に似ていて、己の欲を断てと民衆に説き、財産や係累のすべてを捨てよと力説した。そのために光触寺の住職と懸命に資料を捜したが出てこなかった。恐らく一遍が全てを廃棄したのだろう。
その一遍は1282年に小袋坂から鎌倉に入ろうとしたが北条時宗に追い返された。親鸞も同様で、宗祖としてただ一人入鎌できたのは日蓮だけだった。大きな法難を被ったにせよ、それが可能だったのは、彼の出身が千葉の網元でそこが北条氏の領地であったことが影響していると考えられる。
月並みの俳句を詠みて月並みの男となりにけり 茫洋
追伸 昨日アップした「レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「海への新しい小径」を読む」は「滝への新しい小径」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。
Monday, March 09, 2009
レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「滝への新しい小径」を読む
五〇歳で亡くなった米国の作家の遺作詩集である。
ガンで五〇歳の男が死ななければならない、ということはどういうことか、次の詩を読むと分かる。
「若い娘」
思わずたじろいだ出来事をみんな忘れてしまおう。
室内楽にかかわることもすっかり忘れてしまおう。
日曜日の午後の美術館だとか、そういうあれこれ。
古き時代の巨匠たち。そういうものすべてを。
若い娘のことも忘れよう。なんとかしっかり忘れてしまおう。
若い娘たち。そういうあれこれすべて。 ―The Young Girls
そして、カーヴァーの最後の詩集のいちばん最後におかれたのは、次の数行だった。
「おしまいの断片」
And did you get what
You wanted from this life,even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved,to feel myself
beloved on the earth. ―LATE FRAGMENT
生涯の最後の最期である 人よ何を想うか 茫洋
Sunday, March 08, 2009
小松祐著 小学館日本の歴史「いのちと帝国日本」を読む
明治時代中期から1920年代までを取り扱う本巻は、通時的叙述ではなく、「いのちと戦争」、「いのちとデモクラシー」、「いのちと亜細亜」という3つの主題ごとに共時的にテーマを設定して人民と帝国の相関関係を骨太に追っている。そして時代を経るごとに、われら臣民の生命がどんどん精密に管理され、秩序化されていくありさまが具体的にえぐりだされていく。
まずは文明国への入学試験である日清戦争とその卒業試験である日露戦争への悪魔的な道行の過程が克明に描かれるが、もしも日本が近代日本史の試験をやりなおすことができるとすればやはりこの段階だろう。
著者によれば、当時平民社では階級的視点に立つ非戦論を唱えながら幸徳秋水、安部磯雄などがスイス、オランダ、デンマークなどの小国を理想とし、軍事大国化路線を否定して民衆生活の安定と地方自治の確立、教育・社会福祉の充実、科学技術の発展などを通じて小国自立をめざしていた。
こうした考えは歴史的には自由民権期の中江兆民や植木枝盛、明治20年代の国粋主義者三宅雪嶺にもさかのぼることができるが、すでに田中正造も「いのち」の観点に立つ非戦論を唱えていたし、与謝野晶子、大塚楠緒子流の肉親愛に立脚する非戦論、さらには宮武外骨流の良心的非戦論者なども一定の影響力を持っていた。
また同時代の柏木義円の「柔和なる小日本主義」から見れば、日露開戦の理由などまったくみあたらないし、両国が旅順や二〇三高地で大量の犠牲者を出す必要はなかった、ということになる。
スイスを理想とする柏木の思想は、のちに「東洋経済新報」に拠る石橋湛山の政治思想に影響を与え、小さくともキラリと光る国をめざした武村正義などに引き継がれて現代にいたっているが、世界のグローバル大国との熾烈な競争と徒労に満ちた角逐を放擲して、あえて「アジアの一小国」へと隠遁することも二一世紀末葉の日本の魅力的な選択肢ではないだろうか。
ああ疲れた重き荷物を抛り投げて懐かしの峠の我が家に帰るのだ 茫洋
Saturday, March 07, 2009
橋本征子著・詩集「破船」(2004年刊)を読んで
「夏の呪文」「闇の乳房」に続く最新の第3詩集が本書である。
北の国で積み重なった幾星霜が、この詩人の思想をさらに深く沈潜させたのだろうか、その詩的世界はますます豊穣な収穫を生み出しているようにみえる。
例えば「吹雪がぴたっと止んだ夜 急にまたたき始めた星に気をとられて転んでしまった」という詩句から始まる「地底びと」を見よ。
地下鉄工事現場の覆工板から覗いた野戦病院のような灼熱の空間には、上半身裸の赤銅色のたくましい腕に青の薔薇のタトゥーをした男達が地底を掘り進めており、縄梯子を伝ってさらに下っていくと、青い海の底の部屋で籐の椅子に腰かけた若い女性が薄桃色のケープを編んでいて、よく見ればそれはいまは亡き母の姿であり、わたしはいつの間にか母となり、母はわたしと化してしまう。
さりげない日常のささやかな割れ目からするすると異界へ忍び込むと、過去の思い出や、忘れ難き幻影、懐かしき面影が茫洋と立ち上がり、詩人は遭遇した他者や「もの」たちへといともたやすく憑依して、軽々と自己滅却と自己再発見の旅へと旅立つのである。
そしてそのあとに残される風景とは、次のようなものであり、ここに詩人の詩作に対する秘法と、生の基本的な枠組みが一挙に示されているように思われる。
「もうそのひとはいない 覆工板の
間からあかあかと光が洩れているだ
けだった 地底びとよ 燃える水の
神殿に沈んだ者たちよ 地を這うわ
たしを身守れよ わたしが地の底の
眠りにつくまで 海の母乳をむさぼ
る嬰児となるまで――」
ちなみに、著者は詩誌「極光」同人で日本現代詩人会、日本詩人クラブ、北海道詩人協会の会員である。
金はないのに無茶苦茶に無駄遣いしたくなる 茫洋
Friday, March 06, 2009
橋本征子著・詩集「闇の乳房」(1999年刊)を読んで
照る日曇る日第238回
北の女流詩人による第2詩集である。
6年前に刊行された処女詩集「夏の呪文」に比べると、さらに発想が柔軟なものとなり、詩的言語はいっそう自在に駆使されるようになる。
詩人は、目の前にあるもの、たとえば、にんじん、さくらんぼ、ピーマン、すいか、茄子、しいたけ、とうもろこし、たまねぎ、トマト、胡蝶蘭、百合根、ブロッコリー、キャベツ、れんこん、クレソン、などのさまざまな野菜を取り上げて、これをしみじみと眺め、ゆっくりくりと手に取り、ざっくりと包丁を入れ、生で、あるいはたちどころに調理して、おいしそうに食べてしまう。すると見事な詩が出来上がっている。例えば次のように。
ブロッコリー
店先にこんもりと積まれたブロッ
コリーがひとつ不意にころがり落
ちた 手をのばしてつかみとると
黄緑色の太い茎から水が滴り わ
たしの掌を濡らして 指のつけ根
に暗い沼が広がった
ふつふつとたぎる湯でゆでたブロ
ッコリーを皿に盛る どこまでも
深まってゆく緑の血 かすかに開
いた無数の花蕾に悪夢の膿んだ匂
いがたちのぼってくる つぎつぎ
と引き裂くわたしの指の先に わ
たしの生まれる前のからだのしく
みがよみがえってくる
しっかりとたくわえられたゆたか
な乳房 ぽってりと厚いのびやか
な四肢 たっぷりと水をふくんだ
あまい耳 金の鍵がかかったわた
しの細胞 まあるく まあるくな
って ただ漂うだけの充ちたりた
眠り
光る刃 産道の小径は冷く 遠く
に海鳴りの音がする 生まれ得る
ために削られ えぐりとられてゆ
くわたしの王国 その凹みに 命
のさみしさが滞り 地球の自転の
かなしさが響く
熟れすぎたかたちが崩れゆく寸前
でかろうじて 生とつり合ってい
る緑の球形 ああ この昏さのな
かで育つがよい 亡くなったわた
しのからだ
この詩の第3連を読むたびに、私はこの北の女流詩人の懐かしい声音と丸い体躯と瞳に宿るいのちの烈々とした輝きを思い出さずにはいられない。
蛇のような棒か棒のような蛇か 茫洋
橋本征子著・詩集「闇の乳房」(1999年刊)を読んで
北の女流詩人による第2詩集である。
6年前に刊行された処女詩集「夏の呪文」に比べると、さらに発想が柔軟なものとなり、詩的言語はいっそう自在に駆使されるようになる。
詩人は、目の前にあるもの、たとえば、にんじん、さくらんぼ、ピーマン、すいか、茄子、しいたけ、とうもろこし、たまねぎ、トマト、胡蝶蘭、百合根、ブロッコリー、キャベツ、れんこん、クレソン、などのさまざまな野菜を取り上げて、これをしみじみと眺め、ゆっくりくりと手に取り、ざっくりと包丁を入れ、生で、あるいはたちどころに調理して、おいしそうに食べてしまう。すると見事な詩が出来上がっている。例えば次のように。
ブロッコリー
店先にこんもりと積まれたブロッ
コリーがひとつ不意にころがり落
ちた 手をのばしてつかみとると
黄緑色の太い茎から水が滴り わ
たしの掌を濡らして 指のつけ根
に暗い沼が広がった
ふつふつとたぎる湯でゆでたブロ
ッコリーを皿に盛る どこまでも
深まってゆく緑の血 かすかに開
いた無数の花蕾に悪夢の膿んだ匂
いがたちのぼってくる つぎつぎ
と引き裂くわたしの指の先に わ
たしの生まれる前のからだのしく
みがよみがえってくる
しっかりとたくわえられたゆたか
な乳房 ぽってりと厚いのびやか
な四肢 たっぷりと水をふくんだ
あまい耳 金の鍵がかかったわた
しの細胞 まあるく まあるくな
って ただ漂うだけの充ちたりた
眠り
光る刃 産道の小径は冷く 遠く
に海鳴りの音がする 生まれ得る
ために削られ えぐりとられてゆ
くわたしの王国 その凹みに 命
のさみしさが滞り 地球の自転の
かなしさが響く
熟れすぎたかたちが崩れゆく寸前
でかろうじて 生とつり合ってい
る緑の球形 ああ この昏さのな
かで育つがよい 亡くなったわた
しのからだ
この詩の第3連を読むたびに、私はこの北の女流詩人の懐かしい声音と丸い体躯と瞳に宿るいのちの烈々とした輝きを思い出さずにはいられない。
蛇のような棒か棒のような蛇か 茫洋
Thursday, March 05, 2009
鈴木和成著「ランボーとアフリカの8枚の写真」を読んで
最近詩人アルチュール・ランボーの研究は、彼が37年の短かい生涯の中でアフリカで過ごしたおよそ10年間の後半生における生活と文学活動に集中している感がある。
17歳でパリ・コンミューンに加担し、19歳で「地獄の季節」を出版し、20歳で「イリュミナシオン」を完成し、21歳でピストルで撃たれた「恋人」ヴェルレーヌと決別し、23歳で明治日本へ行こうと夢見た天才詩人は、25歳にしてはじめて東アフリカ、現エチオピアのハラルを訪れ、当地を拠点として武器弾薬、象牙、香料、コーヒー等をなんでもあつかう灼熱の砂漠の大商人として活躍するのだが、この間に友人知己、家族、地理学協会に書き送った書簡が、若き日の詩作に勝るとも劣らぬ「文学作品」として、彼のアフリカ生活と共に再評価されているようだ。
かつて黄金のように輝かしい詩篇を生み出したこの19世紀最大の詩人は、けっして詩作を断念したのではない。いっけん無味乾燥と考えられがちな、この簡潔で事務的な商業文、そしてその行間から立ち現れる「新アフリカ人」としての生活、偉大な大旅行者の足跡そのものが「生の文学」に他ならない。あの南太平洋に遁走したゴーギャンが、旧態依然たる西欧美術に弔鐘を打ち鳴らしたように、ランボーもまた、というのである。
1891年11月10日午前10時、ランボーはフランスの港町マルセイユのコンセプシオンン病院で全身がん腫に冒され、右足切断の犠牲も空しく没するが、最後の最後までアフリカに戻ること願い、その遺言は「何時に乗船すれがばいいかお知らせください」であった。ランボーは恐ろしい激痛を堪え、彼の最期の作品を死を賭してマルセイユで書いた。
またランボーは、巨費を投じて当時の最新メカであったカメラと撮影機材一式をパリからハラルに送らせ、彼自身のポートレートを含めた8枚の写真を撮ったが、それが本書の執筆動機になっている。ある意味では晩年の詩人のドキュメンタリー的小説であり、ある意味ではアフリカにおけるランボー研究の最新レポートであり、またある意味ではランボー研究家が自作自演する色っぽい推理小説でもある。
色っぽいといえば、著者はヴェルレーヌとの関係において「ランボーは女であった」と断定しているが、それはどんなものだろう。アフリカにおける彼の多彩な女性関係や「地獄の季節」における性的叙述、そしてなによりも両者の詩風(男性的なランボーと女性的なヴェルレーヌ)を考えれば、その役割は逆ではなかったか、と愚考するあまでうすでありました。
少年にして少女のかんばせ カルジャが撮りし17歳のランボー 茫洋
Wednesday, March 04, 2009
網野善彦著作集第4巻「荘園・公領の地域展開」を読んで
本巻の月報で犬丸義一が若き日の網野について書いている。
1949年4月犬丸が東大に入学したとき、網野は歴研を代表して挨拶した。
この年は1月の総選挙で共産党の議席が一挙に35に伸張し、東大生の支持政党の第一位が共産党になった左翼の季節で、巷では「9月革命説」が流布していた。実際に国史学科に入った16名のうち実に9名が日共に入党している。
網野は卒業後は渋沢敬三の日本常民文化研究所に就職し歴史研究会の委員として活躍しながら、日共の指導部にいて引き続き革命運動に打ち込んだ。国民的歴史学運動の華やかな展開の中で、青年歴史家会議の議長に就任し、歴史家会議の指導部にいた石母田正、松本新八郎、藤間生大などと共闘していたのである。
当時党の地下指導部からはカーボン紙で限られた枚数だけ複写され、封をした秘密書類が配布されていたが、犬丸はそれを月島の常民文化研究所にいた網野から受け取って、民科歴史部会のグループ員に渡していたという。
53年3月、犬丸は網野らの指示によって深夜密漁漁船で当時国交のなかった共産中国に渡り、北京郊外の中国人民大学で日本近代史、労働運動、共産党史などを教え、58年7月、中国からの最後の引き揚げ船白山丸で舞鶴港に着いた。
東京に着くと密出国の罪で留置・起訴されたが最終的には懲役3か月、執行猶予1年の判決を受けたが、網野は終生このことを苦にして責任を感じていたという。
もしかすると大衆革命成就するやと一瞬妄想した日もありしが 茫洋
Tuesday, March 03, 2009
橋本征子著・詩集「夏の呪文」(1993年刊)を読んで
詩人が「あたしは」と呪文のようにつぶやくとき、地軸は停止し、世界は沈黙し、失われた遠い日の思い出が一挙に蘇る。
―とつぜん春になったので、ビルの最上階の歯科医院は歯槽膿漏の患者であふれ、エーテルの匂いのする若い歯科医はうっすらと汗ばみながら腫れた歯肉を切り裂いてゆく。
―わずかばかりの夏 あたしのひとりきりのたった一度の海 赤いビーチサンダルをはいた少年を波打ち際の砂に埋めた。少年の声は次第にうず高く積まれる砂の中で恐怖の声に変り 生温い海水の中に沈んでいった。
―ふとった女医が外科器の触れ合う音にうっとりしながら慣れた手つきで掻爬している。光は光にかみつき 次第に自滅し 太陽の手錠は少しずつずれて静かに夏は老いてゆく。
―晴れた秋の日 火葬場では人が燃え 隣のグランドでは 少年たちがラグビー球を蹴っている。
―冬が来た。けれどあたしの蹠の王国では時折夏の残照が燃えて 吹雪の夜 爪など切っていると剥きでた薄桃色の皮膚のうえに多肉植物の切り口のような緑の臭気がたちのぼってくる。
(以上は、別の作品の詩句を無断でコラージュさせていただきました)
詩人の心臓から流れ出した真紅の血潮は、乾ききった不毛の荒野を流れ流れて干天の慈雨のように私たちの魂を潤す。
天使のように優しく、悪魔のように大胆な性と聖と生の饗宴に、私たちは思わず言葉を失ってしまうだろう。
それにしても海や空を漂う夥しい嬰児の亡骸は、詩人の妄想であろうか。それとも亡霊に仮託したおのれの切実な体験であろうか。
♪言葉だけで築かれた遥かな弧城に一人の女王が棲んでいました 茫洋
半藤一利著「幕末史」を読んで その2
明治6年の征韓論騒動は、林子平、会沢正志斎、吉田松蔭、橋本佐内、藤田東湖など多くの幕末の憂国の志士達の衣鉢を継いだ西郷明治政府が引き起こした国権拡張運動だが、
大久保などの非征韓論派に反対にあって引きずり降ろされた年末に、その西郷どんが、
白髪衰顔 意とする所に非ず
壮心 剣を横たえて勲なきを愧づ
百千の窮鬼 吾何ぞ畏れん
脱出す 人間虎豹の群
などと悲愴な漢詩を詠んでいるところをみると、やはり本気で討ち死にするつもりだったのだろう。
しかし西郷を下野させたその大久保が、不平士族などの怒りを国外に解消するべく「琉球人(日本人にあらず)の保護」を名目に台湾出兵を強行するのだから、征韓論者と選ぶところはない。どっちもどっちの海外覇権侵略主義者輩の蛮行であり、これの延長線上に日清、日露、大東亜戦争の悲惨があった。逆に言うと明治時代の台湾、朝鮮への出兵、武力進出がなければ大日本帝国の成立はなかった。
わが国を地獄の底まで引きずり込んだ元凶は、軍隊による統帥権の独立独占であるが、著者によれば、これは悪知恵の働く山県有朋の陰謀によって明治22年の明治憲法発布をさかのぼる明治11年12月5日にすでに確立されていた。「国の基本骨格のできる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していた」のである。
歴史に「たられば」はないけれど、しかしもしも著者が説くように、ペリー来航以来攘夷か開国かで大揉めに揉めていた大騒動が、1865年慶応元年10月に晴れて結着した段階で幕府と朝廷が1つに結束し、薩長などの尊皇攘夷派が暴力による倒幕運動に乗り出さなければ、少なくともあの無意味で悲惨な内戦だけは避けられただろう。
戦争と夫婦喧嘩はいともたやすく開始されるが、その終息ほど困難なものはない。茫洋
Sunday, March 01, 2009
半藤一利著「幕末史」を読んで その1
東京生まれの東京育ち、しかも祖父が戊辰戦争で官軍と奮戦した越後長岡藩出身という著者ならではの、じつに面白くてとても為になる幕末・明治10年史である。
当然ながら基本的には薩長嫌いの著者は、漱石や荷風同様、明治維新を「維新」ととらえるよりは、徳川(とくせん)家の瓦解、という視点からこの「暴力革命」の日々を眺めていくことになるわけであるが、しかしご本人がそう芝居がかって意気込むわりには、西郷も大久保も木戸も坂本も否定的に描かれているわけではない。
また著者ごひいきの勝海舟を引き倒していることもない。むしろ類書よりも彼らの行蔵を温かく親切に見守っている趣もあり、この人の懐の深さが思い知られるのである。
明治史を成り上がりの薩長とそれ以外の諸藩の内紛の歴史、つまり戊辰戦争の拡大ヴァージョンとして語ることは一面的であるかもしれないが、まさしく「長の陸軍、薩の海軍」、昭和になっても官軍閥が強力に存在していたのは間違いがない。
永井荷風は「大日本帝国は薩長がつくり、薩長が滅ぼした」と語ったそうだが、太平洋戦争直前の海軍中央部は薩長の揃い踏み。こいつらが日本をめちゃめちゃにした挙句、最後の最後に国家滅亡を救ったのが関宿藩出身の鈴木貫太郎、盛岡藩の米内光政、仙台藩の井上成美の賊軍トリオという不思議な暗合も因縁めいて興味深いものがある。
著者いわく。「これら差別された賊軍出身者が、国を救ったのである。」
勝てば官軍負ければ賊軍勝たず負けず不戦で行きたし 茫洋