Saturday, June 30, 2007

戸塚近辺をうろつく

遥かな昔、遠い所で第8回&勝手に建築観光16回

高田馬場駅前から戸塚に向かって歩いていくと思いがけず古色蒼然としたレンガ造りの小さな建物が見つかった。喫茶店のランブルである。

RUMBLEは英語で車などがガタガタ音を立てて進むという意味である。私は思いがけずこの名を目にしたとき、大通りをけたたましい響きを立てながら突っ走る都電の勇姿を思った。そうしてその頭の中の響きが、けっしてこの節の不愉快な騒音ではなく、いにしえの大都市東京に欠かせない懐かしい風物であるように感じられたのである。

今ではまるで幽霊の棲む洋館と化したこの店では、かつてクラシックの名曲レコードを客の希望に応じてかけていた。

私は学校に行かずにこの「ランブル」や野村胡堂ゆかりの「あらえびす」に入り浸って、かの出目金爺カール・ベームが指揮するヴィーンフィルのモーツアルトのト短調の交響曲やレクイエムなどを次々にリクエストしては、日がな一日サルトルやニザンなどを読んで、結局はいわゆるひとつの青春を浪費することが多かった。

ランブルのコーヒーはいたずらに濃くてまずくて苦く、私は飲むと必ず下痢をしたが、それでも通い続けた。

ランブルよりはあらえびすのほうがレコードコレクションが豊富で格調高く、黒と白の制服の処女もシックであると思はれた。それゆえ私はこの近くにあったはずのその店を探したがその所在は杳として知れなかった。

たぶんだいぶ以前に取り壊されてしまったのであらう。その代わりといっては変だが懐かしの早稲田松竹はいまなお健在だった。

Friday, June 29, 2007

宮城谷昌光著「風は山河より」第3巻を読む

降っても照っても第29回

若き日の徳川家康は父広忠の意向で今川義元の人質として差し出されたが、その途次の汐見坂で戸田正直によって誘拐され、ほんらい駿府へ行くべきところを織田弾正忠(信長の父)に売られ一時尾張城に幽閉された。天下の怪事件である。

義元の懐刀雪斎禅師は信秀の弟信広を安祥寺に攻めて降伏させ、捕虜にした信広の生命と引き換えに竹千代(家康)を織田家から奪い返すのである。落胆した信秀は嫡子信長に織田家の裁量を委ねることになる。

政治と法界と風雅の達人である雪斎は天文21年に義元と武田晴信(信玄)、北条氏康を説いて三国同盟「善得寺の会盟」を成立させたあと同24年に60歳で遷化した。そしてそれが義元の最大の不幸を招くのである。

徳川家康の祖父、松平清康も父広忠も凶手にかかって若くして暗殺されたが、その犯人を二人ながらに討ったのは植村新八郎という同じ人物であり、また二人の凶手が用いた刀は妖刀村正であった。

主君広忠を殺された天野孫次郎は暗殺を指唆した佐久間全孝に仕え、全孝が眠っている真夜中に(広忠が暗殺されたときとまったく同じ状況で)切りつけたが、どういうわけか殺害できずあわてふためいて逃げ帰ったという。

平将門の叔父五郎良文の子孫から三浦氏、上総の千葉氏、秩父の畠山氏、和田氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏が生じた。

長尾景虎が上杉謙信を名乗るのは永禄四年に鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で山内上杉の憲政から上杉家を継ぐことを許されたからである。

などを私は著者から学んだ。

最後に、著者は司馬遼太郎の遺風を継ぐ名文家であり、その漢語を生かした格調高い名文は歴史小説にふさわしいと思う。

Thursday, June 28, 2007

高田馬場駅前にて

遥かな昔、遠い所で 第7回

何年ぶりかで下車したのは、知らない間にすっかり新しくなったJR山手線の高田馬場駅である。昔はもっと暗くて重くて澱んだ空気が流れていたが今ではあっけらかんとして他の駅とあまり違わない。

地方から東京に出てきた私は、ご他聞に洩れずアルバイトで生活していた。

毎朝この駅の売店(いまではキオスクとか呼んでいるようだが)でパンと牛乳を買って急いで腹に収め、当時内幸町にあったNHKで昼飯抜きで大道具の手伝いをしてから名物のチャーシュー麺をかきこみ(当時死んだ猫のエキスをダシにしているという根強い噂があったが非常にうまかった)、それから日比谷公園の傍らで徹夜の突貫工事を行っていた東京地裁の701号法廷などの地下増築工事現場に行って朝の5時まで働き、地下鉄で高田馬場までもどってまたアンパンと牛乳を飲んで下宿にもどって死んだように眠ったものだ。

地裁のアリバイとは階下でたっぷり水分を吸って固まったセメント袋を地下2階から地上まで運びあげる仕事で体力のない脆弱な私だけは肩に担いだ重荷もろとも転落してよく現場監督に怒られたものだった。

高田馬場の駅前に出ると昔と変わらず大学に行くバスが止まっていた。

私は学生時代にこの都バスの料金が交通局によって値上げされることになり、それがけしからんというので「徒党を組んで」このバスに乗ろうとする人間を「実力で阻止」していたことをはしなくも思い出した。

今考えると相当論理にも行動にも飛躍があるが、よくも多くの学生たちがバスに乗らずに素直に歩いてくれたものだ。今の私には到底こんな行動に出る勇気も気力も体力もないが、それでももし再びやらなければならないときには、けっして徒党は組まないだろうと思う。

Wednesday, June 27, 2007

加藤廣著「明智左馬助の恋」を読む

加藤廣著「明智左馬助の恋」を読む

降っても照っても第28回

この新人老作家の「信長の棺」は「信長公記」の作者太田牛一が本能寺の変の謎に果敢に挑んで大いに面白かった。

その次の「秀吉の枷」も本能寺と南蛮寺を結ぶ抜け道で信長が蒸し焼きになるように秀吉がたくらみ死に追いやったという、「嘘か眞か死人に口なし」という論証ヌキのはちゃめちゃな破天荒さでエラン・ヴィタールしており、かなり面白かった。

そこで大いに期待してシリーズ第3作の「明智左馬助の恋」を読んだのだが、これがどうにもこうにもいっこうに面白くなかった。残念じゃあ。

それというのもこれは光秀の義理の息子が知らず秀吉の大謀略に振り回されてあたら生涯の大望を棒に振るというお話で、前の2冊、いや3冊ですでにネタがばれているものだから、おおいに盛り上がりにかける。

著者も最後は観念したのか機械的に年代を追うのみ。

それでもさすがにラストの坂本城の夫婦愛と壮絶な切腹は力が入ったが、遅きに失した。げに「はじめは脱兎のごとく終わりは処女のごとし」とはこれをいうのであろう。

結局馬鹿を見たのはクソ真面目なキンカン頭の光秀だけという、世にも哀れな物語であったが、大器晩成型の著者の次作を期して待とう。

Tuesday, June 26, 2007

初夏の光明寺を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語63回

材木座に近い光明寺は鎌倉では珍しい浄土宗の大寺で、寛元元年1243年に法然から数えて3代目の良忠上人が開いた。

光明寺には幼少時代の武者小路実篤が家族と共に夏を過ごしていたが、そんなことより毎年10月に行われる「お十夜」が有名である。

が、もっと有名なのは戦後間もなく昭和21年にこの寺の本堂と庫裏で「鎌倉アカデミア」が開設されたことだろう。(当初は鎌倉大学校といったが23年に光明寺に移転し今年創立60年の式典が開催された)

二代目の校長に就任したのが、マルクス主義哲学者として有名な三枝博音であるが、この人は不幸なことに国鉄の鶴見事故で亡くなった。

このとき確かかの有名な「競合脱線」という原因説が唱えられたが、その後いかに検証されたのだろうと、横須賀線で鶴見辺りを通過するたびに隣の東海道線をおそるおそる見守るわたしは、げにまったき過去の人なのであらう。

「鎌倉アカデミア」の教授陣は服部之総、西郷信綱、千田是也、宇野重吉、吉野秀雄、高見順、中村光夫、林達夫などの錚々たる面々。学科は、文学科、産業科、演劇科、映画科の四学科編成だったが、一度でいいから聴講したかった。

しかし、創立時からの資金難に加え、自治体や企業からの援助も得られず、哀れわずか4年半しか存続できなかったという。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

この手弁当の市民大学からは、鈴木清順、山口瞳、前田武彦、いずみたく、左幸子などが巣立っている。

どうでもいいけれど「トリスを飲んでハワイへ行こう」はサントリー宣伝部時代に山口瞳が作った名コピーである。

ちなみにアカデミアの授業料は当時の早稲田、慶応などより高かったが、大半の学生が未払いだったそうだ。

Monday, June 25, 2007

ある丹波の老人の話(35)

「第6話弟の更正 第3回」

昼ごろになると朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているからなにか食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬けを添えて出してくれました。

私はそれを食べ、最後の二銭をお礼において一文無しになって晩方に川合の大原に着きました。大原には貧しからぬ父の生家がありました。

そこで出してもらったお節句の菱餅を囲炉裏で焼く間ももどかしくまるで狐憑きのように貪り食らいそのまま炉辺で寝込んでしまいました。

弟はこの縮緬問屋へ三、四年くらいいたと思います。「アメリカへ行きたい」というて英語の独習などをやっていたがついに主家に暇をもらい神戸に行って奉公し、渡米の機会を狙っていたらしいのです。

それから朝鮮の仁川へ行ったのは神戸から密航を企てて発見され、仁川に降ろされたとかいうことでした。仁川では日本人の店につとめてなかなか重用されておったようです。

弟はそれから徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営しました。

Sunday, June 24, 2007

ある丹波の老人の話(34)

弟はメジロ捕りが上手でメジロを売って儲けた十幾銭かの金を、後生大事にこのとき京都に持っていったもんでした。

でもこの大切なお金を含めても私は家を出るとき少しばかりの旅費しかもらわなんだので一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、このとき財布には十二銭しかありまへんでした。

これでは昼飯をくうたら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのままとうとう園部に辿り着いて来る時にも泊まったかいち屋という宿屋に泊まりました。

しゃあけんど十二銭ではまともな泊まり方はできまへん。

「私は胃病やから晩御飯は食べへん」というてすぐに床に入って寝ました。

しかし裏を流れている川の瀬音が昼飯も晩飯も食べないすきっ腹にひびいて、なかなか寝付かれませんでした。私はその夜の情けなさはいまも忘れることができません。

朝は宿屋がおかゆをつくって梅干を添えて出してくれました。

私はそれを残らず食べて宿銭一〇銭を払うとあとは二銭しかありません。旅館が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と断ってはだしで出て、みちみち落ちわらじを拾ってそれをはいては歩き続けたんでした。

「第6話弟の更正 第2回」

Saturday, June 23, 2007

ある丹波の老人の話(33)

「第6話 弟の更正 第1回」

私には金三郎というたった一人の弟がありました。

この弟が十三、私が十七のとき、忘れられん思い出があります。

そのとき私は蚕業講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中でしたが、家は貧乏市までして貧窮のどん底まで落ちてしまっていたので、弟は学校をやめさせて京都に奉公にだすことにし、私が京に連れて行きました。

京都に着くと丹波宿の十二屋に落ち着き、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れて行き、私はその夜十二屋へ泊まり、朝発って帰ろうとすると弟が帰って来ていて、

「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部に帰る」

というのです。私はそれをいろいろとなだめすかして主家である下村に連れて行き、家の人にもよう頼んで逃げるようにしていったん十二屋へ戻り、なんだか弟がまたあとを追ってくるような気がするんでそれをかわすつもりで知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、たいへんな人ごみの中へまぎれこんでしまいました。

それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいやったんです。私はそこいらで少しブラブラして道を尋ねてから桂に出、丹波街道を園部へ向かって歩いたんでした。

Friday, June 22, 2007

ある丹波の老人の話(32)

妻はどこまでも父に親切でした。

独りでは寂しかろうと福知山の実家に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室をあたえて寝起きさせたんでしたが、二年ほどすると女が病死してしまいました。

すると今度は町内のさる後家さんに話して、西本町裏の小さい家に住んでもらい、そこへ父を同居させ、生活費全部をはろうて所帯をもたせてやったんでした。

その間は父も気安く私の店に出入りして、夷市などで忙しいときには、ずいぶんよく手伝いもしてくれました。

ところが、父と同居しておった未亡人が息子の朝鮮移住についていってしまいよりました。そのとき父はすでに七十を過ぎておったので私の家に引き取りました。

それからは父は孫娘の守などをしてよいおじいさんになりきり、昭和四年四月に七十五歳で亡くなったんでした。

最後の二年ほどは盲目になったんで楽しみにない父を慰めようと私はいち早くラジオを買い求めました。当時綾部にも福知山にもまだラジオは珍しく、大阪からやってきた技術者が五晩泊りで私の家に取り付けてくれました。

郷里の町では郡是、三つ丸百貨店に続く3番目でした。そして父は私の信仰に倣ってキリスト教に入り、死の前年に岡崎牧師から洗礼を受けたんでした。

今から思えば、それはどうすることもできん宿命的なものではありましたが、私はあまりにも父を憎み、父に冷たかった。 
落ちぶれ果てて隠岐から帰ってきたとき、もし妻がいなかったら、私は父を家に入れなかったかも知れない。

「おらが女房をほめるじゃないが」私は死んだ先妻に感謝せないかんことがぎょうさんあります。なかでも私が冷酷であった父に対して私の分まで孝養を尽くしてくれて私に不孝のそしりをまぬかれ、不幸の悔いを残さなんだことに対しては、妻に最大の感謝をささげたいと心から思う次第であります。            (第五話「父帰る」終)

Thursday, June 21, 2007

ある丹波の老人の話(31)

この冷たい私に対して私の妻菊枝は父に対してやさしかった。

食事を与え、着替えをさせ、暖かい寝床に横たわらせ、心から父をいたわりました。

そしてその後もけっして悪い顔などせずに機嫌よく明け暮れの世話をし、私に内緒で小遣い銭なども渡し、いつもきちんとした身なりをさせて大切にしたんでした。

ところが妻のこの仕打ちが私には苦々しかった。

「そんなにまでせんでええ」と口に出して叱ったりもしましたが、ひたすら父を哀れむ妻の純情にほだされて、さしもかたくなだった私の心も少しずつほぐれていったんでした。

父は隠岐にいた間のことをあまり話しませんでしたが、やはり腕に覚えのある桐の木買いをやりこれを加工して下駄の素材を作っていたらしいのです。

ところが運悪く火事に遭って焼け出され、おまけに連れて来た芸者にも逃げられ、よるべはなし、万策尽きてようやく松江に渡り、そこで歯医者をしていた吉美村出身の四方文吉氏に泣きついて旅費を借り、郷里まで帰ってきたらしいのです。

しばらくは乞食同様の見過ぎをしていたものとみえて体一貫のほかは一物も持たず、着のみ着のままの衣類は垢だらけシラミだらけで、これを退治するのに妻は往生したそうです。
(第五話父帰る第3回)

Wednesday, June 20, 2007

父帰る

ある丹波の老人の話(29)

大正五年の師走も近い冬の夜、丹波の小さな街には人声も絶え通りを吹きぬける寒い木枯らしがときおりガタガタと障子を震わせておりました。

真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトと叩く音がしました。静かに、あたりを憚るように…。

「どなた?」と尋ねても返事はありません。

うっかり戸を開けて泥棒だと困ると思いましたが、そういう感じでもない。そこで思い切って妻と一緒に開けると、そこに立っていたのはなんと父でした。

父帰る! 

この寒夜に上に羽織るものもなく、四年みぬまに六十の坂を過ぎ、汚れた筒袖姿のみすぼらしい父が、しょんぼりと戸の外に立っておりました。

父はおずおずと敷居をまたいで中に入るなり、土間に身を投げ、くどくどと前非を悔いて詫び入るのですが、私の目には涙も浮かばず、私の口からはやさしいいたわりの言葉ひとつもれ出てこないのでした。                   
(第五話父帰る第2回)

Tuesday, June 19, 2007

福島泰樹著「中原中也帝都慕情」を読む

降っても照っても第27回

大正14年3月、恋人長谷川泰子を伴い関東大震災後の東京にやって来た17歳の詩人中原中也の帝都漂泊を絶叫詩人の著者が克明に追う内面的なドキュメンタリーである。

中也が東京に標した第一歩は、「東京府豊玉郡戸塚町大字源兵衛195番地林方」である。

1999年3月に同所を訪れた著者は、「一帯はゆるやかに神田川に傾斜していく鬱蒼とした田園地帯で、その面影はいまでも所々に残っている。あたりをゆっくり歩いてみたらよい」
と書いている。

その言葉にそそのかされた私は、突然その気になって、真夏日の早稲田3丁目を本書を片手にほっつき歩いてみた。

長谷川泰子はその著書『ゆきてかえらぬ』で「中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、8畳くらいの広さでした」

と語っているが、その下宿跡を、30分以上の悪戦苦闘の末に、私もようやく探し当てた。

けれども福島氏が「鬱蒼とした田園地帯」と表現しているその一画は、白いお化粧をして取り澄ましたモダン住宅と無機的な高層マンションによって埋め尽くされており、99年にこの地を訪れた著者が撮影した古い真鍋家の姿もいまや跡形も無い。

午後2時の太陽光線が私の頭上からぎらぎらと照りつけ、住民の人影もまばらだ。
ほんの申し訳程度に残されている庭や樹影を除けば、もはや詩人とその運命の女の痕跡はどこにも求めることはできなかった。

神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々とした木陰は
私の後悔を宥めてくれる       中原中也「木陰」『山羊の歌』より

突然視野に珍しいものが飛び込んできた。

高田の馬場から神田川べりの面影橋まで下る六叉路である。大正14年の春、中也と泰子が何度も上り下りしたであろう長い坂道である。

その六叉路のひとつを少し入ったところに若い二人の愛の巣があったはずだ。当時彼らの頭上を覆っていたはずの大樹の切り株だけがまるで詩人の夢のかけらのように取り残されてあった。

旧居を下れば神田川はすぐだ。そのとき面影橋を早稲田に向かって走る都電荒川線の車輪が、青空の下でおおきな軋み声をあげた。

夏は青い空に、白い雲を浮かばせ、
わが嘆きをうたふ。
わが知らぬ、とほきとほき深みにて
青空は、白い雲を呼ぶ。

わが嘆きわが悲しみよ、かうべを昂げよ。
―記憶も、去るにあらずや……
湧き起こる歓喜のためには
人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや

「夏は青い空に…」『山羊の歌』より

Monday, June 18, 2007

大塚英志著「怪談前後 柳田民俗学と自然主義」を読む

大塚英志著「怪談前後 柳田民俗学と自然主義」を読む

降っても照っても第26回

柳田國男が「遠野物語」の佐々木喜善、「蒲団」の田山花袋、同じ自然主義作家の水野葉舟との交友を通じていかにして柳田流の「自然主義」を追求し、国家社会や文芸と向き合いながら、花袋が私小説を創造したように、学としての「民俗学」を創成していったかを微視的に考察する労作である。

この本によれば明治40年代は空前の「怪談」の時代であり、例えば小泉八雲の「日本瞥見記」や徳田秋声の「あらくれ」、夏目漱石の「夢十夜」のような夢物語が異常なまでに持て囃された。

そのような怪談の時代にあって、柳田ひとりが政治的な植民地論と自然主義運動の双方の関心を抱きながら私的怪談から「山人論」を立ち上げていく。

柳田は「遠野物語」から「山の生活」そして昭和6年の「明治大正史世相篇」を発表するなかで、自らの疑わしい来歴を日本の名も無き普通の人々の歴史と同化させ、そのことを通じて民衆史の新しい書き直しに成功するのである。


大町にジャカランタ咲き和泉葉橋に最後のホタル舞い鎌倉の夏がはじまる

ある丹波の老人の話(29)

前にも述べたとおり、私の父は酒好き、遊び好きで、飲む打つ買うの三拍子をいずれ劣らず達者にやった人でした。ところがそれがいつまで経っても目が覚めず、四十過ぎても、五十子越してもまだやまず、かえってひどくなるというだらしなさです。

父はもともと商売上手と人にも言われ、世間の評判もよく、金も相当もうけてきたんでしたが、なにぶんお人よしで勝負事をしても人に取られるばかりでした。

勝負事といってもおもに花札などで本バクチには手を出してはいませんでしたが、そのくせ大きなことが好きで、米や株の相場に手を出して、またしても大穴をあけ、金のかかる女出入りも絶え間がありまへんでした。

こんな始末ですからよい目の出ようはずもなく、母が真面目に守っている履物屋商売もだんだんさびれ、借金は増える一方で家計は一日一日窮地に追い込まれていったんでした。そうして明治四十三年その火の車の中で、私の母は四十九才で病気で死んでしもうたんでした。

気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしく思えば思うほど、私は父への憎しみが深くなるのをそうすることもできませんでした。

「母のかたき!」と私の父を見る目は日増しに険しくなっていきました。

母の死後ますますやけになった父は、もはや我が家にも郷里の町にもいたたまれなくなって、前にも述べたように大正元年に五十八のよい歳をして世間には内緒で若い芸者を連れて隠岐の島へ逃げて行きました。

私は父を舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむ気持ちなどさらさらありまへんでしたし、それは父も同様でした。

前に触れたように、父を送って帰ってきた夜から、早くも債鬼は我が家に迫り、私を借金地獄に追い込んで私は貧乏暮らしのどん底で這いずり回ることになったんでした。

しかし幸いにも私はこの危機を辛うじて潜り抜けて借金もすべて返済することができました。私は家業に忠実な妻と共に下駄屋の商売も従来以上に回復させ、生活も安定させ、郡是株の強行買いが当たってだんだん好い目が見えてきたんでした。

その間私は自分のことにかまけ、父のことなぞすっかり忘れておりました。もとより父からは一度も便りはなく、人の噂にも聞かず、その消息もいっさい分からず、思い出す隙もなかったんでした。

ところがその父がひよっこり帰って来ようとは! 夢にも思わぬことでした。
(第五話父帰る第1回)

Saturday, June 16, 2007

避暑地鎌倉

鎌倉ちょっと不思議な物語62回

 大町から横須賀線の線路を境にしてそこから海岸までの一帯が材木座である。鎌倉時代に材木業者の組合=座が置かれた場所であることからこの名がつけられた。

鎌倉は明治時代から夏の避暑地として大いに活用され、まず御成に明治天皇の夏季御用邸が建てられた。それが現在の御成小学校だが、いつか書いたように大々的な発掘が行われ、中世の巨大行政センター跡地であることが初めて分かった。

当時の中西市長は当初御成小学校を鉄筋コンクリートに建て替えようとしていたのだが、市民の反対に遭ってしぶしぶ低層木造校舎に変更したが、それは大正解だった。

日本には超高層鉄筋コンクリートは似合わない。いずれ大震災が立て続けにやってくれば、私の不吉な大予言がおのおのがたの骨身にしみて理解されるだろう。

それはさておき、御成というのは、だから明治天皇の御成り通りなのである。

御成の次には、より海に近い材木座にリゾートが進出した。写真の左が正田家の別荘であったが、広大な緑の敷地は東京の本宅と同様跡形も無く取り壊されて、現在はご覧のとおり何の変哲も無い新興住宅群になった。

それから写真の真ん中の坂道を登った左手辺りに、夏目漱石一家の夏の借家があったそうだ。

夫を薬で毒殺しようとしていた(江藤淳「漱石とその時代」最終巻を参照のこと)悪妻鏡子の「漱石の思ひ出」によれば、

「小さいほんの2間かそこいらに台所のくっついている家を借りることにしました。一夏一二〇円ばかりだったと覚えております」

とあるが、当時ここいらの住民は1ヶ月二十円ほどの借家に住みながら、それをちゃっかり無知な帝都の成金貴紳たちに何層倍もの値段でふっかけて又貸しして、大もうけをしていたのである。

そんなこととは知らない漱石は、足の踏み場も無い狭い借家で雑魚寝しながら
「ここでこうやって修養しておれば、いついくら貧乏しても驚かない」などと言って、「子供たちといっしょになって海に入って泳いでいた」そうだ。

もひとつおまけの写真の日本家屋は、あの「ビルマの竪琴」を書いた竹山道雄氏邸である。

ここに立って初夏の青い空を見上げていると、「アアヤッパリジブンハカエルワケニハイカナイ」と叫んだ水島上等兵のオウムのしゃがれ声がどこかから聞こえてくるようだ。

孤高のドイツ文学者は昭和59年に亡くなったが、彼が愛したいかにも鎌倉らしい瀟洒な木造住宅は、こうやってまだ残っている。

人はすぐ死ぬが、物とその気配は、死んだ人の周辺でしばらくは残っているのだろう。

Friday, June 15, 2007

ある丹波の老人の話(28)

しかし思わぬ副産物もありました。

このとき大勢の芸者を呼んだもんですから、私は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれるようになりました。

当時私は三十三ですからまだ若かったし、うかうかするとこの誘惑に負けて父の二の舞になるんではないかと我ながら心配になりました。

次々に宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして酒に接する機会が非常に多くなったもんですから、私は急に時間と金銭の浪費が恐ろしくなりました。

かねてから何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いなしと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心惹かれておりました。思えば翁が受洗されたのは今の私と同じ三十三の年でした。私もここで入信してしっかり身を固めようと思ってそれから教会通いを始めました。

私は波多野翁から洗礼を受けたいと無理をいうておったんですが、翁は突然大正七年二月二十三日に脳溢血で急逝されたんで、私はその直後の三月十日に丹陽教会の内田正牧師から洗礼を受けました。

ですから私はいわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえばいえなくもありません。世間からもそのように見られていたようです。

思えば私は、十二歳のときに母の眼病を観音様に祈ったときから、苦しいときの神頼みさながら、稲荷様、金比羅様、座摩神社、北向きの恵比寿様と、種々雑多な神様、仏様を祈ったもんでした。

そしていずれもそれぞれ奇跡的な感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が波多野翁崇拝と結びついて私をキリスト教に行かせたんでした。結局は行くべき時に、行くべきところに行き着いたんです!

これこそは神の摂理でした。

私は、信じることによっていかなる苦痛困難も必ずみなよろこびと感謝に代えてくださる神様のお恵みを思いました。そうして、ますます信仰から信仰へと勉め励み、取るに足らないこの身ながら、いささかでも神のご栄光を顕すことに精進し、神と人への奉仕に努力しようと決意しました。          (第四話 株が当たった話 終)

Thursday, June 14, 2007

ある丹波の老人の話(27)

振り返れば、私の貧乏は父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年がもっとも酷かったんですが、三年を境目に下駄屋の商売がだんだん順調に行きだして、だいぶん楽になってきよりました。

ほんでもって大正四年、五年とお話したように株で大いにもうけて「株成金」といわれるまでになったんでした。

父についてはあとでお話しするつもりですが、大正元年に隠岐に逃げたんですが、そこでも失敗して大正五年には家に帰ってきました。

この父に対して、私はまだ十分に打ち解けることはできませんでしたが、父の代に積み重ねた莫大な借金はもはや全額きれいに返してしまいました。

最初差し押さえの封印を解いてもらうときには、ずいぶん無理を言うてまけてもろうた借金もあるので、そういう向きにはあとから改めて挨拶をしたんで、いまではどっちを向いても頭のあがらんようなことはありませんでした。

私は帰ってきた父が肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には十二分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと、思い切った大祝いをすることにしました。

まず一石の餅を一週間かけて搗き、その頃の銘酒であった清正宗と福娘の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友をこもごも招き、毎日芸者三四人をあげて一週間の盛宴を開きました。そうして株券や銀行の預金通帳を三宝に乗せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露したんでした。

私はこんなことを見栄や自慢でやったんではありまへん。ましてやこれまでさんざん痛めつけられてきた債権者や困ったときになんの助けもしてくれなかった親類縁者にあてつけをしたんでもありまへん。

あのときみんなからすげなくされたのは私にとって薬やった。父の道楽が私を貧窮のどん底に陥れたことも同じく私への良薬やった。神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し神も助け給うたのである。

こう思ったとき、いまではなにもかもが感謝であり、そのことへのほんの感謝の気持ちを表したいと思ったからでした。

Wednesday, June 13, 2007

「私が独裁者?モーツァルトこそ!」チェリビダッケ音楽語録を読む

降っても照っても第25回

「農夫が朝歌を歌うとき彼は純な音楽をやっている。彼は今日という朝がいかに美しいかを歌う。ここに芸術のもっとも深い意味がある」
「どんなテンポも表現の豊かさによって定義される。速度によってだけでなく」

「フルトヴェングラーはどんなテンポでも、間違ったテンポでさえ納得できた唯一の指揮者である」

「音楽史全体の中で、垂直に記された楽譜を、つまり同時的に生ずる音響現象の総体を、水平の流れやテンポに置き換えるそのやり方を理解していた唯一の指揮者がフルトヴェングラーである」

「カラヤンは大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカコーラもしかり」

「ロリン・マゼール、カントを読む2歳の子供だ」

「トスカニーニは純粋な音符工場だった」

「さてと、ムターさん、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏から学んだことをすべて忘れなさい」

「ジェシー・ノーマンは凄い声だが教養の香りがない。ポエジーの感覚がない。どこか別の惑星のような声だ。Rシュトラウスの「4つの最後の歌」はまるでゴビ砂漠の春のようだった」

「ベートーベンの5番は最低クラスのアマチュアの作品だ。終楽章はまったくひどい。間違った転調に満ち満ちている。エロイカの終楽章もひどいジョークというほかはない。また第9の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。だがそんなサラダというものはある。それがドイツ的で、ドイツ的にひびくなら我慢することが出来る」

「マーラーは音楽史の中でもっとも痛ましい現象のひとつだ。彼は格好良く始めるがそうしたらもうやめられない男だ。いつも嘘ばかりついてきた無性格な男、つまりは人非人にすぎない。彼の交響曲第5番の第1楽章を理解したと主張するものはほら吹きで詐欺師というほかはない。マーラーなんかいなくってもまったく気にならないね」

「ストラビンスキーはディレタントの天才にすぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。彼はこの欠陥をいつも新しい形式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」

「チャイコフスキーは真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である。ブラームスは交響曲第1番の終楽章の冒頭のコラールでトロンボーンを用いたが、これは素人くさいやり方だ。チャイコフスキーならそれをどんなすばらしいやり方で聴かせたことか!」
「ブルックナーが存在したという事実は、わたしにとって神のもっとも大きな贈り物である。彼はあらゆる時代のもっとも偉大な交響曲作曲家である。ひびきを互いに結びつけあいながら、それを宇宙にまで形成できたものはブルックナー以外にいない」

「普通の人間にとって時間は開始と同時にはじまる。だがブルックナーの時間は終ったあとにはじまる。彼のフィナーレは全て神々しい。それは別の世界への希望、救済の希望、もういちど光をたっぷり浴びるよろこび、それは彼の音楽以外のどこにもない!」

「この男は死ぬまでとても孤独だった。彼があれほど多くの美しいものを生み出したのは自分の死を超えているということの答えだ」

「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はすばらしい。アメリカ流の打てば響くヴィルトーゾ風のオーケストラだ。しかしフルトヴェングラーの厚みのある響き、あの純ドイツ風の響きはどこへ行ったのか?」

「ウイーンフィルは凡庸だ。音楽の生き生きとした流れというもの、主題の展開や織り成し、また構造というものをまるで理解していない。ひどいごった煮ですべてはメゾフォルテだ。たんなる砂糖漬けの果物だ」

「わたしを不幸にするものは他人の不幸である」


「楽の音は美を真実に導く。音楽とは自由の体験以外の何者でもない」


―セルジュ・チェリビダッケは1996年8月14日に死去した。彼の墓はパリ郊外のラ・ヌーヴィル・シュール・エソンンヌにある。

Tuesday, June 12, 2007

ドナルド・キーン著「渡辺崋山」を読む

降っても照っても第24回

渡辺崋山は西洋流の遠近法や近代的なリアリズム手法を独自に体得した画家、とりわけ肖像画の名手として知られている。

特に文政4年に描かれた「佐藤一斎像」、国宝の「鷹見泉石像」は江戸時代の風物を精確にスケッチした「一掃百態」と共にわが国の絵画史の記念碑的な作品として高く評価されている。

彼はモデルを熟視し、その実際の顔容に酷使する「写真」を絵画の本質と考え、その考えを実作に反映した。平安時代以来崋山までは、わが国の肖像画には結局のところ“厳格なリアリズム”は存在しなかったのである。

これらの傑作の前に立つとき、我々は一人の武士の生き生きとした裸形の存在に直面し息を呑むような思いがする。

けれども意外なことに崋山は数多くの春画も描いていたし、「私は美しい女としか寝ない」と語る享楽の人でもあった。一日に数時間しか睡眠をとらず、朝から晩まで政務と画作、そして儒教の忠孝の教えの実践に勤めていた崋山の人物像は、思いもかけず多面的な広がりをもって私たちを魅了する。

ドナルド・キーンはそんな優れた画家崋山の悩み多き、悲劇的な生涯をたどりながら、三河田原藩の家老、儒家そして蘭学者でもあった崋山の思想の歩みについて鋭い分析と的確な評価を行っている。

崋山は貧しかった。終生多額の借金があった。大切な母をはじめ妻子や兄弟の生計を支えるために、崋山は無数の絵を描き、それを売ってはわずかな給金を補い、それは彼が行政のトップに近い立場にあったときにも変わらなかった。

そうしてこの不幸なアルバイトが藩主の不名誉になると妄想した彼を、最終的には自刃にまでおいやるのである。

そして無実の崋山をそこまで追いつめたのは、人格劣悪で性陰険な鳥居耀蔵であった。

いつの時代にもこういう卑劣な男がいるものだが、耀蔵は当時蘭学者仲間の間で高い声望を誇っていた開明派の崋山の存在をねたみ、崋山が海外渡航を企てたとか、大塩平八郎に同情したとか、高野長英が書いた「夢物語」の著者であるとか、幕府を誹謗中傷したとか、あらぬ言いがかりをつけて蛮社の獄に投じる。

恩師松崎慊堂の決死のとりなしによって斬首をまぬかれたものの、崋山は田原の在所蟄居に処せられ、ここで彼の芸が身をほろぼす因果な結果をうむのである。

一夜にして幕府の仇敵とみなされた崋山の元を多くの友人知己が離れていった。

伊豆韮山に隠棲した江川太郎左衛門の沈黙は許せるとしても、赤井東海、佐藤一斎、とりわけ滝沢馬琴の卑劣な裏切りは、どんなときにも逆上しない著者の物静かな声音によってきびしく弾劾されている。

悪辣非道な鳥居耀蔵とその取り巻きによって突然名誉を汚され、地位を奪われ、収入の道を途絶された崋山はみすぎよすぎの絵を描き、これらを売らなければ生活できなかった。

しかしそのことが余りにも余りにも倫理的な彼をさらに追いつめ、ついには三界に身の置き所をなくすのである。松崎慊堂の語るとおり、「崋山は杞憂を以って罪に罹り、また杞憂を以って死」んだのである。

崋山が老母の監視の目を盗んで納屋に入り、独り腹を切り、激痛を堪えながら飛び出した腸を腹に入れてから衣装を改め、さらに短刀で首を刺して自栽して果てたのが御一新までわずか二十七年の天保十二年一〇月十一日、崋山四十九歳の男盛りであった。

「不忠不幸渡邊登」と自らが大書した墓標の下でいまも眠っているこの男を、せめて幕末の大動乱まで生き延びさせたかったと思うのは、著者だけではないだろう。

Monday, June 11, 2007

乱橋から妙長寺へ

鎌倉ちょっと不思議な物語61回

「乱橋」は鎌倉十橋のひとつである。道路の端にあるのでほとんどの人が見逃すほんの小さな短い橋だが、ときおり「吾妻鏡」に登場する。

この近所には横溝正史や大仏次郎が住み夏目漱石も家族と共に訪れている。

すぐ傍にある妙長寺はすっくと夏の空に聳える日蓮像のたもとに控えている。

数年前に建て替えたために、実につまらない近代的な外観になったが、昔は鄙びた味の寺であった。北鎌倉の長寿寺と同様、今も昔も観光客には公開されていないのは立派だ。すべからく寺は全部そうあるべきだと私は思う。

ところでこのお寺は、私の大好きな天才尾崎紅葉の弟子であって、その紅葉ほど私が好きではない泉鏡花が明治24年の夏に滞在していた。

鏡花の「星明り」には鏡花が外出した間に締め出されたときの思い出が書いてある。

「さまで大きくない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。松葉牡丹、鬼百合、夏菊雑植えの繁った中に向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さって、何時の間にか星は隠れた。門の左側に井戸が一個(現存せず)。飲み水ではないので極めて塩辛いが、底は浅い。屈んでざぶざぶ、さるぼうで汲み得らる。石畳で掘り下ろした合目には、此のあたりに産する何とかいう蟹、甲羅が黄色で、足の赤い、小さなのが数限りなく群がって動いている。」

この蟹については確か漱石も書いていた。そこいらをきょろきょろ探して見たが、残念ながらいなかった。恐らく近代化の波におぼれて絶滅してしまったのだろう。

いや待てよ。これが淡水産の蟹ではないとすれば、もしかすると材木座の海岸をくまなく探せば一匹くらいいるかもしれないな。

私の住んでいる山地にも昔は大量の蟹がいたが、最近はほとんどいなくなってしまった。しかしモクズ蟹とウナギはまだ生存している。でもどこにいるかはもう教えたくない。

というのも、先日棒を振り回して高い崖に咲くイワタバコを盗んでいる男を見たからだ。私がこいつを大声で怒鳴りつけると、この馬鹿男は恥ずかしそうにどこかへ行ってしまった。

ということでせっかくお寺の話を始めたのに、最後は血の気の多い話で終ってしまった。

材木座海岸から和賀江島を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語60回


昔も今も、由比ガ浜は遠浅で波風が高い。それで現在も多くのサーファーが集まってくるのだが、鎌倉時代はとかく難破船が多かった。

そこで勧進上人往阿弥陀仏は、貞永元年1232年の7月に築島を思い立ち、幕府に申請して認められた。時の執権(武州と称される)は北条泰時であった。

「吾妻鏡」の同年7月12日の条には、「今日、勧進上人往阿弥陀仏申請に就きて、舟船著岸の煩なからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州殊に御歓喜ありて、合力せしめたまう。諸人また助成すと云々。」とある。

また同月15日条には、「今日、和賀江嶋を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。」

さらに8月9日条には、「9日丁巳 晴る。和賀江嶋その功を終う。よって尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、諏方兵衛尉御使として巡検すと云々。」と書かれているとおり、泰時はじめ諸人の協力によって工事はわずか1ヶ月足らずで終了した。

和賀江島は江戸時代に入っても修復を行いながら活用されていたが、明治時代になって現在のように潮の干満によってほぼ水没したりかろうじて姿を現すような状態になった。

しかし国の史跡であるこの小さな人工島が日本で唯一の鎌倉時代の港であることは間違いない。(左の建物は川端康成が自殺した逗子マリーナ)

波のまにまに露頭する岩をじっと眺めていると、これが天と地、過去と現在をかりそめに繋げている夢の浮橋のような気がしてくる。
 

Sunday, June 10, 2007

鎌倉の海岸を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語59回

鎌倉には幸いにも海がある。

鎌倉の海といえば、徒然草の第百十九段に、かの兼好法師が
「鎌倉の海に、かつをと云う魚は、彼のさかひにはさうなき物にて、この頃もてなすものなり。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と書いている。

昔は下々の者も馬鹿にして食べなかったのに最近は高貴な方たちが競って口にしている。ああ世も末じゃと嘆いているのである。

これが12世紀の話だから800年後の今日ますます世も末現象が進み、カツオはマグロやアジと同様庶民の口からますます遠ざかりつつある。そのうち高級も大衆もつきまぜてあらゆる魚が世界の上ざまの人々の食卓で独占されるようになるだろう。

そんな世も末の鎌倉の海辺を歩いてみた。海の向こうに船が見えた。

鎌倉幕府の3代将軍実朝が渡宋を計画し、南宋の陳和卿に船を造ることを命じたのは建保4年1216年の11月だった。

陳和卿は12世紀の末に来日し勧進上人の重源と共に焼失した東大寺の再建に貢献した当代一流の総合技術者だったが鎌倉に下って実朝に信頼され、彼に政争相次ぐ日本を離れて大陸に逃走することをすすめた。

しかし巨費を投じて建造した巨船はあまりにも重くつくりすぎたのか数百人の人夫を水中で引かせてもいっかな動こうとせず、とうとう遠浅の海底にどっかりと座礁したままいたずらに朽ち果ててしまった。

この様子を描いた文芸作品には、太宰治の名作「右大臣実朝」や澁澤龍彦の「ダイダロス」(この2人は鎌倉に浅からぬ因縁を有している。太宰はたっぷりと腰越の海水を飲んだ)、それに吉本隆明の名著「源実朝」がある。

吉本がこの著作を書いているときに、突然思いついて夕方の鎌倉にやって来て頼朝の墓を捜し求める。けれども結果的に「一山ほど間違えて」黄昏の中で途方に暮れる個所は印象的だ。

似たようなことをしたことが私にもある。遠く若き日の直情径行振りはひたすら懐かしく、思い出の中で小さくまたたいているようだ。

Friday, June 08, 2007

富岡多恵子著「湖の南」を読む

降っても照っても第23回

明治24年5月11日に琵琶湖の南で大事件が起こった。世に名高い大津事件である。
本書は、ロシア皇太子ニコライを警護すべき立場にありながら、突然サーベルで彼の後頭部に切り付けて負傷させた警官津田三蔵の生と死を克明に追跡する。

そこでは維新後の明治が回想され、西南戦争で名誉の負傷をした津田のトラウマが指摘され、日露開戦前の両国の関係についてもあれやこれやの記述がだらだらと書き連ねられる。

これは大津事件の犯人の犯行の真相を追究するドキュメンタリーかと思ったら、突然著者につきまとう怪しい男からの手紙が紹介される。なんのことやらさっぱりわからぬ。

ドキュメンタリーだけでは読者が退屈しそうだから、私小説風の味付けをしてエンターテインしてもらおうという著者のサービス精神のあらわれであろうか?

著者は最近大津に引っ越したそうだ。買い物に行ったついでに「此附近露国皇太子遭難乃地」なる記念碑を見つけてこの散文を書きはじめたそうだ。かねがね大津事件と津田に関心があったというのだが、ほんとうだろうか? 

もしこのテーマに関心があり、その本質に本気で切り込むつもりなら、絶対にこのような軟弱な文体といきあたりばったりな論法でこのテーマを扱うはずが無いと私は思う。

巻末には津田の書簡集やら大津事件日誌やら篠田鉱造の明治百話だの多くの参考文献が羅列されているから、著者が相当の時間と労力をかけてこれを完成?させたのだろうと推察し敬意は払うが、ほとんど見るべき成果があがっていない。

そもそもこの人は詩人ではないのか。私の考えでは詩人は最高位の文学者だから、軽々に散文に手を染めてはいけない。武士はくわねど高楊枝、で純乎たる詩藻が内部生命から湧き起こるまで静かに待機していなければならない。

いくら編集者が薦めたからといって、またいくら生活に困窮したからといって、こんなくだらない小説だか歴史物だかミステリーだかご当地ルポルタージュだか訳が分からぬ駄文書きに手を出すのは、卑しくも詩人ならけっして許されることではない。これはある種のぶんがくてきな腐敗と堕落のサンプルであろう。

私だってそれなりに忙しい。こんな無内容な作文を読まされるならエルガーの交響曲をバルビローリの演奏で聴いていたほうがよほど心身が清涼されたのに、ああもったいないことをした。

もう君には、ぶんがく関係は頼まない。私もそおゆう内的必然性がないのに、いきなり下着を脱いだり、文章を書いたりしないように注意しよう。

Thursday, June 07, 2007

ある丹波の老人の話(26)

数奇な運命にもてあそばれ、しばしば逆境にさいなまれておった私ですが、いつもすくんでおったわけでもなく、たまには青年らしく私なりに熱い血を燃やして立ち上がったこともありました。

私は案外早く貧乏暮らしから足を洗うことができるようになると、だんだん世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられるようになりました。

その頃選挙の取締りが過酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙されたとき、私は義憤に燃えて急先鋒となり、年長者で声望のある医師の吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らしたもんでした。

間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のような名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもんでした。

そのことが優先株の引き受けを容易にして郡是の危機を救うことになったのは思いがけない副産物でした。これが二日会の発端となり、この集まりはいまも続いて市民の健全かつ有力なる世論の基礎を作っておるわけです。

Wednesday, June 06, 2007

♪蟻地獄の歌

♪ある晴れた日に その9

何をする気もなくなって神社に行くと強い風が吹いていた。『風が立ち、波が騒ぎ、無限の前で腕を振る』というやつだ。

階段を上って神社の入り口の右側に直径1尺くらいの玉石がごろんと転がっていた。

こいつは文久二年に寺田屋騒動が起こったり、生麦で薩摩の武士が刀でイギリス人を切り殺したり、長州の高杉晋作が品川の英国公使館を襲撃したりしているときにも、やっぱりここでごろんと転がって青空を流れる白い雲を眺めていたのだ。無為にして化しておったのだ。

そうして年に一度の祭礼の宵には村の力持ちが。こやつを「えいやっ」と頭上高く捧げ持っては、「やんや、やんや」の喝采を浴びたりしていたのである。

私は今日は無慈悲な無神論者なので、家内安全、商売繁盛を願って神殿の前で二礼二拍一礼などする気は毛頭ない。

死んだら墓石の下にも潜らず、まして千の風にもなるつもりもない。その風に吹き飛ばされる灰塵になるつもりで神殿の縁の下をのぞいたら、あらめずらしや砂の漏斗を仕掛けた蟻地獄がひっそりとアリさんたちの到来を待ち構えていた。

私は昔幼い子供たちと一緒に、日がな一日哀れな蟻たちを凶悪無慈悲な蟻地獄の餌にくれてやったことがある。幾百のアリさんたちは、もううんともすんとも言わず、泣き声ひとつ立てずに、サソリそっくり形をした蟻地獄の餌食になって逆様の円錐の頂点めがけてズルズルと落下していくのだった。

これだから私なぞは今更どうあがいても天国には行けないだろうな。

またしてもすべてに退屈しはじめた私は、ひんやりした風が吹きぬける蟻地獄の谷に別れを告げ、神社の背後の崖にへばりつくようにしてひっそり咲きはじめた岩煙草のあえかな薄紫の花をしばらく眺めていた。

崖の上に高く聳える椎の若葉の上で、鮮やかな緋色の羽根を翻しながら2羽のゼフィルスが戯れていた。


蟻さんは左2番目の足から地獄落ち 芒洋

Tuesday, June 05, 2007

レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「大聖堂」を読む

降っても照っても第22回


アルコール依存症を辛うじて脱し、好伴侶テス・ギャラガーを得て創作に勤しむカーヴァーが書き上げた短編小説の傑作の森が本作である。

いずれもいわゆる珠玉のような完成度を誇るが村上氏が評価しているように「ささやかだけど、役に立つこと」「ぼくが電話をかけている場所」「大聖堂」の出来栄えは見事である。
「大聖堂」は妻の友人である盲人に対してはじめは冷淡だった主人公が手に手を取って大聖堂の絵を描きあげるなかで障碍者の実体を文字通り体験する感動の物語だが、導入部の冷淡さと結末の高揚の対比が少しあざといのが瑕瑾といえば瑕瑾か。

「ささやかだけど、役に立つこと」においても、最後のパン屋の告白が唐突に過ぎるように感じられる。

それに比べると「ぼくが電話をかけている場所」はJPの語りが素晴らしい。

この語りの中で私は「荒野の呼び声」のジャック・ロンドンがこの小説の舞台となった療養所に近い谷間の土地でアル中で窮死したことを知った。

どうもアル中はアル中を呼ぶらしい。

Monday, June 04, 2007

小さな橋の上で

♪バガテルop21

こんばんは。

こんばんは、今夜はどうですか?

ほら、いま飛んでるでしょ、水のうえを。

ほんとだ。木の上にも別の奴がいますね。

ほんと、さっきから見てるんだけど今日は少ないわね。7、8匹でる時もあるのよ。

ここら辺のホタルは6月初旬から中旬にかけての約2週間がピークで、晴れた日の午後7半から8時過ぎくらいしか見ることはできません。しかもそんなゴールデンタイムでも風があるとあまり出ないんです。ホタルってとってもデリケートな生き物なんです。今日は温かいけどちょっと風があるからまあこんなもんでしょう。

あっちの桜並木のほうはどうなの?

いやあ、あそこはもうだめ。先月県の土木事務所がブルドーザで川床を浚ったから
ホタルの幼虫のカワニナが全滅してしまいました。

まあ、かわいそうに。なんてことするのかしら。ちっとも知らなかったわ。

あいつらはてんで情緒を解さず、土木のことしか考えてないんです。たまたま年次予算が余っていたから滑川の川浚いでもするべえ、ってんでブルを発動させたんですね。あわてて止めたんだけどもう遅かった。あの桜並木の辺では、数年前の最盛期にはものすごい数で乱舞していたんですけどねえ。お役所は勝手に大掃除するし、町内会はやれ痴漢が出るの、防犯対策だのといって巨大な照明塔を設置したもんだから、ホタルがびびっちゃってもう二度とでてきやしませんよ。やつらには風雅の心ってもんが分かってないんだ。パチパチネオンサインをぶっこわして全員谷崎の陰影礼賛を読むべきなんだ。

あのう、そんなことより、光ってるのはオスなんですか?

いやメスも光ります。ただ雌雄それぞれの光る間隔が違うのでそれでお互いに相手を認知してコミュニーションを取り合ってるんです。ほーら、あっちのオスがこっちのメスを追っかけてるでしょ。

あーら、ほんとだ。いやらしい。あなたホタルに詳しいようだけど昆虫研究家? それともセックス方面の専門家なの? 確か昨夜もお見受けしましたよね。

いやいや、ただの通りすがりのもんです。奥さんこそ毎晩ご精勤じゃないですか?

あら、ずいぶんね。私のことをそんな風に思ってらっしゃるの?


とかなんとか、ホラル飛ぶ橋の上の夏の夜はけふも楽しく更けていくのでした。


ホタル二つ四つに砕け水の上 芒洋

ある丹波の老人の話(25)

それから波多野翁は、若い私に向かって、“積極と消極”ということについて語られました。当時この用語はまだ一般世間では珍しかったんですが、翁はこの当時流行の新語にことよせて私に処世の要諦を説かれました。

翁は“積極”については、自分に確信があったら冒険と思われるようなことでも勇気を奮ってドンドンやれ、とおっしゃいました。

この時私が持っておった78株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が混じっていた程度だったんですが、私には「郡是はつぶれない。きっと良くなる」という確信と、財力にも多少の余裕が生まれておった関係から、翁のその言葉に励まされ、引き続き優先株買いに狂奔することができました。

そのためにはずいぶん剣の刃を渡るような冒険もやったもんでした。

思えば津山の武蔵野旅館に泊まったときも、最初は100円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えのときに旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のどてらにコロコリしたちりめんの兵児帯、そこへさらに私が脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯でした。

それを女中がていねいにたたんで衣装箱に納めるときには思わず冷や汗が出ました。

そんなことから偽装札束のトリックがばれやせんかと毎日気が気ではありまへん。時々金庫から偽装札束を出してもらって、その見た目を大きくしたり小さくしたりして、また預け入れたもんでした。

実際に金のやり繰りには格別苦心をしたもんで店で使っていた二,三人の若者を津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他の金策を機敏にやらせたものですから、“丹波紀文”はついに化けの皮を現さずに最後の最後までやりおおせて、まずは存分にもうけたもんでした。

それもこれも若さのさせたことでしたが、一は私の波多野びいき、郡是びいきのなせる業でした。それにしても波多野翁の積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこのときも何かが私に乗り移っておったような気がいたします。

Saturday, June 02, 2007

レイモンド・カーヴァー著・村上春樹訳「愛について語るときに我々の語ること」を読む

降っても照っても第20回

男がアルコールとニコチンと女を知ることは、つまりは人生を知ることだ。しかしそれは人生の毒を知ることでもある。

本書は十二分に毒が回ったカーヴァー自身の、酒と愛と辛苦と労働の日々を記念する短編集である。

とりわけ表題作は生を串刺しにするような痛々しい鋭さが印象的だ。

二組の夫婦、四人の男女の愛の形が次第に浮き彫りにされ、それぞれが現在問題なく享受しているはずの愛の居場所がじつは虚構のものであることにいやおう無く気付かされていく。

しかし私がいちばん好きなのは、加洲クレセント・シティの散髪屋での些細な出来事を描いた「静けさ」という1篇である。

ここには泣きたくなるような人生への哀切な手触りが確かに存在している。

それにしてもレイモンド・カーヴァーの小説にはどうしてこれほど多くの飲酒のシーンが出てくるのであろう。

彼は酒を浴びるほど飲むそのわずかな合間に小説を書いていたに違いない。

しかし全編アルコールまみれ、全身アルコールまみれのやけっぱちの苦界からカーヴァーは奇跡的に帰還した。そして珠玉の名品を我々に残してくれた。

アルコールといえば、私は04年の5月、神戸の北野坂でたった1口のビールを干した途端に意識を失った。あのとき確かに私も全身に毒が回っていたのだ。

人間はいつ死ぬものか知れたものではない。兼好法師が語るようにそれは突然背後から襲い掛かるのである。

あれから3年が経った。けふも窓際でうるさいほど鳴く鶯の声を耳にし、昨夜は闇に飛ぶヘイケボタルの小さな輝きを今年初めて目にすることができたこの喜びを、改めて天に感謝せずにはいられない。

Friday, June 01, 2007

小西さんと吉本さん

降っても照っても第19回

小西甚一さんが91歳で逝去された。91年に刊行された彼の「日本文藝史」はドナルド・キーンの大著「日本文学史(のちに改訂新版「日本文学の歴史」)に対抗して書かれた規模雄大な大著だが、細部はキーンのがほうがおもしろい。されど私は文学史は小西甚一の「日本文藝史」、文学論は漱石の「文学論」、この2冊があればあとは要りません。
さようなら小西さん、あなたから受けた学恩に感謝します。

もうひとり昔からお世話になってきた吉本隆明さんの「真贋」を読んだ。行き悩んだおりおりにいちばん聞きたい声のひとつが常に彼であったが、いまやその声音のなんと力弱く曖昧模糊としたものになったことよ。

子供は乳幼児期から前思春期までの母親との関係が絶対的に重要で、母と引き離されたから三島由紀夫の不幸は運命付けられていたという話や、主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価になりがちだという指摘、「業縁」があれば一人も殺せないと思っている人でも千人殺すこともある。「だから悪だから救われない、善だから救われるという考え方は間違いだ」という話などは、なるほどと思った。

また「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが俺だけにしか分からないと読者に思わせる作品です」というのも、素直にうなずける指摘である。

しかし「戦争に良いも悪いもなく、すべての戦争が悪である」と彼が断言しても、その戦争を無くすための具体的な提言は聞かれない。さらには「まずはどうでもよさそうなことから考えてみる」というのだが、それはどういう意味なのだろうか。「これまでとはちょっと違う部分を見る。そうしたことで少しは世の中の見方が変わっていく可能性があるかもしれない」などと頼りないことを言われると、こっちも不安に駆られる。

氏は例によって例のごとく、「天皇は神主の親玉であり、神社に露天が並び、我々が神社のお祭りで金魚すくいをしにゆく気持ちがある限りは天皇制はなくならない」などというが、起源を見ればものの本質が分かるというお得意の逆説的で一面的な言説を、あたかも最終結論のように語っていいのだろうか。

思えば彼は昔からマルクスや小林秀雄張りのそういう“本質還元的な詔”をさしたる根拠も証明もなく渙発し、それで複雑怪奇な現象が解決できなくなると重層的非決定?などという屁理屈を発明して遁辞してきたのではなかっただろうか?

彼にあっては、欧米が先進的で我々がアジア型農本主義的であるから、そのうち我ら貧民もいずれの日にか成熟するだろう、というような維新以来の脱亜入欧風のアプリオリな論理が、このごに及んでもまだ鉈や斧のように振り回されている。

そして最後の言葉は以下のごとし。

「もしかすると人類はだめになる危険があります。よさそうでかつ害のなさそうなことをやる、小規模でもやっていくということ以外にこの新しい時代に対処する方法はないように思います。ひとつはっきり言えるのは、いいことをいいと言ったところで無駄だということです。それは歴史が何回も証明してきました。いいか悪いかではなく、考え方の微細な筋道をたどっていかないと、解決の糸口を見失ってしまうでしょう。何はともあれ、いまは考えなければならない時代です。考えなければどうしようもないところまで人間がきてしまったということは確かなのです。人間というのは善も悪もやり尽くさない限り新しい価値観を生むことができないのかもしれません。いま行き着くところまできたからこそ、人間とは何かということをもっと根源的に考えてみる必要があるのではないかと思うのです」

私たちはもう既に十分すぎるほど十分に善も悪もやり尽くしてきたと思うのだが、この人はいったい何を寝言を言っているのだろう? これでは武者小路実篤ではないのか? 彼はかの明敏な前著「詩学叙説」を書いた人と同一人物なのだろうか?

でも私はこの“思想界の巨人”に対して「主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価」につながるような態度を示したいわけではない。

ただ、かつては空高く仰ぎ見た孤峰が、今では近所の里山のように映るこの私の目が、我ながら信じられないだけの話である。