Friday, November 30, 2007

♪2007年11月の歌

♪ある晴れた日に その17

学校の帰りの電車で歌いつつ踊る少女を好ましと見る
天高く鳥に告げたり残し柿
何事もなき一日ではなけれども何事もなく今日も暮れたり
斑鳩の法隆寺より柿届く子規が好みし美味しその味
柿食えど鐘は鳴らずに喰らいけりその法隆寺より送りこし柿
鐘ひとつ聴こえぬままに喰らいけりかの法隆寺より送りこし柿
バーキンにもらった飾りでクリスマス
大地震来たれば山のこの芝を燃さば大丈夫とわが妻は言う
よろばいて地低く飛ぶやヤマトシジミ
すれすれに籬の上を越えていくヤマトシジミの後姿よ
人知れず灰色の歌をうたうなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
低き声で過ぎし昔を偲ぶなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
ソット・ヴォーチェで過ぎし昔を歌うなりヤマトシジミとはよくぞ言いける
障碍者の介護に追われし三十年まだ海外に行けぬわが妻
プールには死体がひとつ浮いている
鎌倉や私の好きな古い家
鎌倉やカメラを禁ずる寺院あり
鎌倉や会うのは老人ばかりなり
瑞泉寺節子が棲みし庵あり
鎌倉や家建てる人こぼつ人
ジャックタチによく似ていた今は亡き僕の鎌倉の伯父さん
あらホントでもそんなことどうでもいいのよ
五の指を綺麗に伏せて眠る妻
人を怒鳴り黒き胆汁流れ出す
わが怒り黒き胆汁流れ出す
累々と死骸並ぶや秋の道
立冬や犬の絵を描く男あり
立冬の夜に死にたる屁こき虫
鳴きながら死んでしまった油蝉
油蝉ムンクのように叫んでいる
丸ビルをダイナマイトで爆破して元の姿に建て替えるべし
この色とこの形に惹かれてかすべての人は烏瓜盗む
何故にそなたは烏瓜に手を伸ばす橙色の卵に惹かれて
80にも90にもなりて自らを僕と書ける人の図太き神経
さびさびと霜月朔日にセミが鳴く
妻子去り寡暮らしの家ありて2階の窓にベゴニア咲きたり

Thursday, November 29, 2007

続・NHKが好き

♪バガテルop30

 昨日NHKには多少の知性があるが、民放にはそれもなくて痴性しかないと暴論を吐いた。しかしそれにはそれなりの原因がある。ドラマにせよ、ニュースにせよ、NHKと民放では制作費のスケール、そして制作費の大元である経営母体の売り上げが違うのである。

例えば民放首位のフジテレビの06年度の総売り上げは5826億、日テレ3436億、テレ朝2511億に対して、NHKは単体でも6432億、これに加えてNHK子会社は2310億の受信料収入予算をもって世間のよいこの皆さんに純良番組を提供している。
だから、その大半が民間企業からのCM収入に依拠している民放が、もしも本気でNHKの大河番組やスペシャル番組に挑んでも、はなから勝てるわけがないのである。

 もしも民放がNHKのような「世のため人のためになる番組?」を真剣につくったとしても、テレビを玩具にしながら自らも資本のペットと化しているあほばか大衆の視聴率は取れないし、取れなければ売り上げが減って会社がつぶれてしまうので、民放はますますあほ馬鹿番組の制作に血道をあげ、かくて我ひとともに文字通りの白痴となって亡国の道を疾走するしか能がないのである。

スポンサーと巨大広告代理店だけが神様である民放には、そもそも表現の自由も真実を追い求めるジャーナリズムもへったくれもはなから存在せず、普通の企業と同様の単なる熱烈な利益追求会社であるにすぎない。その点では、南京虐殺番組ひとつをとっても政府御用達のNHKのほうがまだましなマスメディアである。

聞けば、NHKの番組受信料が高すぎるからもっと安くせよ、と総務省の役人が迫っているようだが、私は年間1.5万円くらい払い続けても構わないからNHKはあまり視聴率を気にせず、いまのままでそれこそ粛々と番組つくりに精出してほしいと思っている。

問題は、あほばか番組に狂奔する民放である。

NHKは有料だが民放は無料だと思っている人がいるかもしれないが、トンでもない。06年度のテレビ広告費2兆円の実態は、すべてトヨタやサントリーや資生堂やソフトバンクなどの大企業の広告宣伝費であり、その膨大な経費の大半は、私たちが購入するカローラやウーロン茶や白つばきや携帯の価格に全額転嫁されている。

では具体的にどれくらいの金額なるのか計算してみよう。
さきほど述べたように06年のテレビ広告費はおよそ2兆円、これをわが国の総所帯数約5000万で割ると1軒当たりおよそ年間4万円を私たちは身銭を切って負担していることになる。ちなみに現在あほ馬鹿民放局は東京だと5局あるから、われらあほ馬鹿視聴者は、1局あたり年間8000円も投じてあほ馬鹿番組の制作に全面協力していることになる!

このように民放のあほばか番組は、私たちのとぼしい財布のお金を原資として、どこの誰とも知れないあほばかプロぢゅーサーとその奴隷的抑圧のくびきにあえぐ低賃金労働者たちがせっせせっせと製作しているのだから、私たち納税者ならぬ第1次スポンサーは、もっと声を大にして彼らの視聴率第1主義と拝金主義、ならびにその非人間性と低俗性と死に至るニヒリズムをテッテ的に攻撃し、「私たちが本当に見たい番組」をつくらせるようにダンコ要求するべきなのである。っっと。

もっとも「その私たち」が本当に見たい番組が、あの「オーラの泉」や「ズバリ!言うわよ」であるならば、それこそ「なにをかいわんや」なのですがね。


♪天高く鳥に告げたり残し柿

Wednesday, November 28, 2007

NHKが好き

♪バガテルop29

私は何を隠そう民放テレビ大嫌い、NHK衛星放送大好き人間である。その理由はいままでさんざん民放テレビで放送される番組、ではなくて、その番組のおまけで放映されるCMをさんざんつくってきたので、もうCMなんか二度と見たくもないからである。

CMのない番組といえばNHKしかない。そこで朝から晩までNHK、特に衛星放送のニュースと大リーグ野球と海外ドキュメンタリーとよいこの童謡とちりとてちんとFMと映画とクラシック番組を鑑賞し、あとの2種類についてはすべて録画してDVDに収めている。
恐らくその大半は墓場の中でゆっくり鑑賞することになるだろうが、それがまあ私の唯一の趣味といえば趣味である。

私はニュースもCMがみだりに乱入しないNHKの、とくに衛星第一放送の定時放送を好む。理由は第一に私の好きな冷たい美貌のひらゆき姫が出てくるからだが、美形の女子アナにかまけているのは民放も同様だから、この点ではあまり大きな違いはない。思えば80年代のテッド・タナーのCNNがこの素敵な悪趣味を先導したのだ。

理由の第二は、NHKが報道価値が高いと彼らなりに判断した価値観の順番にしたがって、つまり重厚軽薄の濃度の順に、それなりの報道人らしい秩序と規律をもって、事実だけをたんたんと普通の日本語でアナウンスするからである。

多くの民放テレビのように、ニュースと娯楽、犬と猫、味噌と糞とを混同したり、脳天を直撃するような金切り声(特にフジテレビの女子アナ)で絶叫したりしないからである。

番組の最中に食事をしたり、セックスしたり(はしないか)、実際にはその場にいないはずの人物の品格皆無の馬鹿笑いが聞こえたり、いったいどこが面白いんだか食えないメニューを美味そうに食うという虚偽を演出してぬか喜んだり、「実食!」などと奇怪で醜い造語を乱発したり、平気で漢字を間違えたり、それを絶対に訂正してお詫びもしなかったり、ナレーションの7割を体言止めにしたりしないからである。

そして第三に画面のレイアウトが、きれいとまでは言わないが、まずは普通でおとなしいからである。民放の白髪3千丈風の扇情的なテロップ、まずい食い物をマイウーとうなり、腹の中では驚いてもいないのに、ウソオーとおどろいて見せ、まともな情報は皆無でもこれでもかこれでもかと羊頭狗肉を叩き売り、朝のテレ朝の時刻表示の人を馬鹿にしているような異様な大きさを見よ!

民放のほとんどの番組は、私のような棺桶に片方の足を突っ込んでいる超保守的視聴者にとっては糞であり、奇体なガジェットであり、空虚なごらくであり、文字通り無意味な、死せる映像と音声の氾濫である。こんなもん全局今日の午後に突然なくなっても、おいらはちっとも構わないぜ。

ではあるが、しかし民放がぜんぜんだめかというとそんなこともなくて(笑)、先日ビートたけしが主演する松本清張原作のテレビドラマ「点と線」を見て、久しぶりに面白かった。

 昔原作を読んだときには1番線から15番線の間に4分間だけ見通せる時間帯があると思っていたのだが、13番線から15番線だというので、それなら40分くらい空白の時間があったのではないかと思ったりしたが、それもやはり私の寄る年波にせなのであろう。

しかし惜しむらくは演出がまるでゆるかった。音楽もおざなりであった。あれだけ制作費を投入するなら、せめて霊界で暇をもてあましているだろう野村芳太郎とか内田吐夢に演出させ、伊福部昭か武満徹に曲をつけさせたかったと思うのは、私だけだろうか。

Tuesday, November 27, 2007

吉本ばなな著「まぼろしハワイ」を読む

照る日曇る日 第76回

「だってさあ、天国に行っても、きっとお酒は飲めるし。でもそこにはきっと順番はないの。きっとさ、思ったことがさっと叶うんだよ。父さんと母さんはそういうところにいるの。きっと。まわりの空気がゆっくりと甘くて、包まれてるみたいで、ハワイみたいなところだよ。こんなところに行きたいと思ったらひゅっと行けるし、私たちの顔が見たいと思ったら、すぐに来れる。順番はないんだよ。そこには。靴をはくにはひもを結ばなくっちゃってことはないのよ。きっと。」
姉さんは言った。(同書p167)

著者の日本語は、いつものようにわれらにしみじみとした滋味豊かな世界を髣髴させてくれる。登場人物の表白のあとに、どの人物がその主体であるかをあえてことごとしく明示する文体もそれなりに個性的であり、最近朝日新聞での連載が終わった萩原浩?の座敷童子?やその後で始まった長島有?の(私にとっては)たったの1行すら読むに値しない小説の無残な出来栄えに比べれば、まるで月とスッポン、雲泥の違いである。


それはともかく、両親自殺や交通事故で奪われ、地上に残された子供たちが死者を忘れるために訪れ、しかし死者の思い出に引きずり込まれ、最後に再び死者たちの記憶から解放されて新しい人生に旅立っていく。それが常世の國ハワイである。らしい。

私はまだ一度も行ったことはないが、著者自身にとっても、ハワイはこの世の天国であり、もしかするとこの世とあの世をつなぐ生と死の通い路なのであらう。

たしかに南国には無数の精霊がいるだろう。しかし著者は1941年に死んだ真珠湾の兵士たちの亡霊の存在だけは都合よく忘れてしまっているようだ。

私はハワイと同様グアム、サイパン、ロタなど今なお祖霊彷徨う戦死諸島に、なんら心のひっかかりさへ感じないであほ馬鹿観光に行く日本人が大嫌いだ。

しかし、世の中にはいろいろな障碍があって海外旅行など一生できない数多くの人たちがいるというのに、思いついたらハワイへ「ひゅっと行ける」人が超うらやましいな。

それにしても、ばななはどうしてこうも親を死なせる小説を書くのだろう。もしかしてファーザーズコンプレックスの持ち主なのだろうか。

ふたたび本書の引用をして終わろう。

「飲みに行ったとしましょう。居酒屋に行く、座る、マスターに挨拶、メニューを見る、飲み物から決める、相手がいたら相手とおつまみを相談する、そして注文して、それがひとつずつ来て、食べる。それが生きてるってこと。死んだらできない唯一のこと、つまり順番を追ってきちんと経ないと進まないってことだけなのよ。現実は。」
姉さんは言った。

Monday, November 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第23回 前田先生

遥かな昔、遠い所で第45回

若い日の私に一番影響をあたえたのは前田先生であろう。先生は日毎に軍国主義になって行く事への不安と批判を語られた。そして私が感じている家の宗教としての基督教への不満にこたえてくれる、唯一の人であった。

 作文は新任の横田先生が来られ、前田先生は本来の歴史の先生に戻られた。
 横田先生は前田先生のようには心酔出来なかったが、私がだんだん万葉集にひかれていったのは、この先生の影響であったろうか。時々先生は酔ったように万葉の歌を詠じられた。

 大本教弾圧につづいて、2、26事件、そして日中戦争と、大きな事件が一番感じ易い時代に次々と起こった。しかし私は幼い時からの基督教的な影響や、物事を冷静に正しく見る目を前田先生に養われていたから、時流に流される事はなかったと思う。前田先生に学ぶ歴史教室は一般教室から独立していたから、遠慮なく時局の動きに就いても正確に話してもらった。

 年号の暗記は意味のない事だ。教科書に書いてある事は自分で読めば分る。歴史の勉強とは、正しい目で事件の本質原因を究明し、結果を勉強する事だと教えられた。教科書問題を裁いた今の裁判官にもきかせてやりたい言葉だ。
その間には、京都でみて来た洋画の事や、新刊の本等の事も面白く語られ、いつも実に新鮮で興味深かった。先生の時間は楽しみで、みんな生き生きと、目をかがやかせて聞き入ったものだった。

 時局柄そうせねばならなかったのであろうが、校長先生以下国粋主義を高揚される先生方の中にあって、前田先生は全く異色の存在であった。
 先生は独身で長身、音楽が好きで、すべての点でみんなの憧れの的であった。時には孤独な身の上を語られた。また若い日に病を養いながら、日蓮宗に夢中になり、禅宗に凝り、
プロテスタントからカトリックへと動いた心の遍歴をも語ってくださった。

 信仰は与えられるものではなく、自ら求めるものであると思い、幼い日からの自分の信仰に贅沢な悩みを持っていた私は、かたくなな心がとききほぐされてゆくようなものを感じた。
先生は悩みを聞いて解決策をあたえるのではなく、聞く事によって心の重荷を軽くして下さる方であった。「病弱な自分は二十九歳まで生きられたら充分であると思っている。」等と話されると、同情も加わって、先生の人気は尚上昇した。


♪もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

♪おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

Sunday, November 25, 2007

ある丹波の女性の物語 第22回 大本教弾圧事件

遥かな昔、遠い所で第44回

 一番小さい店員さんが、満豪開拓少年団に入隊していったのもその頃だった。
 女学校でも毎朝、朝礼で軍時色の濃い歌を斉唱するようになり、月の何日かは日の丸弁当を持参するようになった。日中戦争が進展し、占領のたびに提灯行列が行われた。

 しかし女学校時代の一番強烈な事件は、やはり昭和10年12月の「大本教弾圧事件」であった。
 夜明け前に突然物々しい警察の機動隊が大本教本部を襲った。町民は何の事かと分らないまま物すごい足音に目をさました。

 通常どおり女学校の授業は続けられたが、すぐ近くで行われるすごい破壊力には肝をつぶした。五重の塔の屋根も大音響と共にサカサにひっくり返り飛んでしまった。すべての建物はこわされて行った。私はその地響きと、恐ろしさを身近で体験した。

 その頃、大本教は本宮山に十字型の長生殿を建設中で、王仁三郎さんは駕籠で上がり下りしていた。教祖は市の瀬に土まんじゅうのような墓所にまつられていたが、不敬罪という名のもとに弾圧が行われ、教主、信者多数が投獄されていった。
あまりのすさまじさに、言葉もなかったが、何だかとても大きい権力が、おおいかぶさって来るような恐ろしさを感じた。

♪花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

♪なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

Saturday, November 24, 2007

ある丹波の女性の物語 第21回 金丸先生

遥かな昔、遠い所で第43回

 近くのお菓子屋さんに下宿していた作文の金丸先生は、ずんぐりしてみかけは悪かったが、私を可愛がってくれた。

作文の研究発表会というのがあり、府下の先生達の教材に私の作文が選ばれた。橋立への修学旅行の感想文だったと思う。私はその頃かぶれていた吉田絃二郎風に書いたので、テレくさくて「どんな気持で書いたか」と言う問いに、しどろもどろになり、何と答えたのか分らなかった。

金丸先生は一年の三学期の初めに、大阪城の資料館の館長になり綾部を去られた。ニコニコした丸い顔と、マグロのさしみのような唇が印象的だった。

 その後任に前田先生が入って来られた。初めての授業の日、教壇をうつむいて動物園の熊のように行ったり来たりされた。「この新米先生、テレてるな」小さくて前列に並んでいた私はそう思った。
 これが前田先生との初めての出会いであった。

 満州国の建国もあり、世の中は動き出しているのに、私達はあまり関心がなく、友達と宝塚に夢中で、福知山線で宝塚歌劇をよく観に行った。男装の麗人、小夜福子と葦原邦子が人気を二分していたが、私は一寸しぶい汐見洋子が好きで、当時騒がれたターキー等はわざと観にいかなかった。

 父はチャップリンの「街の灯」とか、新劇の「綴方教室」「オーケストラの少女」とか、話題に上がるようなものは京都へ観に連れて行ってくれた。またヘレンケラー女史の講演会にも、学校を早退させ大阪の扇町教会で一緒に聞いた。


♪なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

♪わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

Friday, November 23, 2007

エドワード・ラジンスキー著「アレクサンドルⅡ世暗殺」を読む

照る日曇る日 第74回

ロシアを代表する人気作家エドワード・ラジンスキーが書いたロマノフ朝第12代ロシア皇帝アレクサンドル2世の治世とその暗殺を描いた、上下巻あわせて750ページのドキュメンタリー超大作である。

ロシア文学は好きだが、ソ連とかスターリンとか日ソ不可侵条約の侵犯とか、この國の暗くて寒くて陰湿きわまる国家社会の内幕には、ロマノフ朝も含めて興味も関心もなかった私だが、読んでみると非常に面白かった。

そもそもロマノフ王朝はそれまでの混乱と対立に終止符をうってかのピヨートル大帝が1682年に創生したというのだが、1725年大帝の死後この偉大なる王朝を継いだエカテリーナ1世の前身は、なんとバルト海岸に住んでいた美しい料理女マルタであるというから驚く。

エカテリーナ1世の死後、当時全権を掌握していた近衛兵に担がれて帝位を継いだのは、そのエカテリーナ1世の娘エリザベータであったが、彼女はピヨートル大帝の子ではなく、マルタの夫の子であった。
エリザベータは自分の甥を皇位継承者に任命し、このピヨートル3世に妻となるドイツの公女エカテリーナ2世を娶わせた。しかし勇猛な近衛兵アレクセイ(および近衛兵軍団)と結託したエカテリーナは、気弱な夫を暗殺して彼女の王朝を独占した。2人の間に生まれた皇子パーヴェル1世はエカテリーナの情夫アレクセイとの子供であったといわれる。

してみれば偉大なるロシア史に燦然と輝くロマノフ王朝には、じつは無名の料理女の好色な血が脈々と流れてきたことになる。ロマノフ王朝打倒を目指したデカブリストたちはこの王朝の世紀の秘密を知っていたのかもしれない。

それはともかく、この本を読むと、夭折した天才プーシキンをはじめ文豪ツルゲーネフオブローモフ、トルストイ、チエーホフ、そしてドストエフスキーが生きて愛して死んだロシアという國の文化的風土というものがなんとなく分かったやうな気になる。

さうして嘉永の黒船来航から明治維新を経て西南戦争後の、つまりは日露戦争にいたるまでのこのロシアという大國を覆っていた封建制、政治的専制、農奴制、社会的後進性などの重苦しい風圧を体感することができる。やうな気がするのである。

さらには、農奴制を廃止しただけではなく、憲法発布にも鋭意取り組んでいた「英明なツアーリ」アレクサンドル2世が、自らの保身のためとはいえ、なぜ自らの首を絞めるような進歩的な自由化改革を進めたのか、さうしてその結果ナロードニキの台頭を許し、彼らの決死的自己犠牲と革命的テロルの犠牲となって王座を血まみれにして哀れな最期を遂げるにいたったかが、私の黄昏色の薄ぼんやりした脳みそにもかすかに理解されてくるからまっこと不思議である。げに恐ろしきロシアン・ドキュメンタリズムの勝利というべきか。

アレクサンドル2世は、6度繰り返された暗殺の魔手をそのつど間一髪逃れてきたが、不撓不屈のテロリストの通算7回目の企てによって、占い師の不吉な予言どおり明治14年(1881年)3月1日ついに暗殺された。

その朝必死に外出を止める新婚で最愛の皇妃エカテリーナを「公邸で陵辱する」ことによって沈黙させ、彼は死出の旅に出るのだが、最初のダイナマイトの爆発からかろうじてまぬかれたにもかかわらず、他の複数のテロリストが待機している現場を立ち去ろうとせず、ついに2度目の爆発の犠牲者となってしまう道行は、さながら飛んで火にいる蛾のように不可解であり、もう少し賢明に振舞っていれば、隻脚を失ったとしても恐らく一命を取り留めていたに違いない。

この日皇帝のおびただしい出血で血まみれになった冬宮の大理石の廊下と階段を、靴やズボンを祖父の血で汚しながら連れてこられた13歳の少年がいた。
その少年ニキは、おびただしい血の中で皇太子ニコライとなり、成人して大津で日本の巡査のサーベルで血にまみれ、そして1917年に真っ赤な血の中でロマノフ王朝最期の皇統を絶たれるのである。

当時アリーヨシャがテロリストとなる「続カラマーゾフの兄弟」を執筆していたドストエフスキーは、アレクサンドル2世が暗殺されるわずか2ヶ月前に亡くなった。
書斎で落としたペン軸を拾おうとして重い書棚を強引に動かしたために血を吐いてその完成を見ることなく、あっけなく死んでしまったのである。
ドフトエフスキーの部屋の隣には、暗殺の実行犯たちのアジトがあり、晩年の作家はテロリストたちと交流しながら続編の想を練っていた、と著者はほのめかすが、それは恐らく眉唾だろう。

しかし著者が記録するドフトエフスキーの最期の姿は、皇帝アレクサンドルの最期と同じように私たちの胸を打つ。
死の当日、彼は流刑されたデカブリストの妻たちが昔彼に贈った福音書をアンナ夫人と息子のフェージャに差し出し、有名な「放蕩息子の寓話」を声を出して読むように頼んだ。   そしてそれが終わると、彼はこう言った。

「子供たちよ、ここでたったいま聞いたことを決して忘れてはならない。主に対する一途な信仰を守り、主の許しを決してあきらめてはならない。私はお前たちをとても愛している。しかし私の愛も、主がみずからおつくりになったすべての人々に対する無限の愛と比べると、無も同然だ。忘れないでほしい。お前たちが生きているうちに犯罪に手を染めることがあったとしても、それでも主に対する希望を失ってはならない。お前たちは主の子供であり、お前たちの父に対するように主に対してへりくだり、主に許しを乞いなさい。そうすれば主は放蕩息子の帰還を喜んだように、お前たちの悔い改めをお喜びになるだろう」

ドストエフスキーが死んだというニュースは、瞬く間にペテルブルグ中を駆け巡り、彼の住居はまさに聖地巡礼の場になった。さうして死んだ作家の顔に見えるのは死の悲しみではなく、よりよき別の生の曙光だった、と伝えられている。

Thursday, November 22, 2007

ある丹波の女性の物語第20回女学生時代

遥かな昔、遠い所で第42回
 
「大学は出たけれど」と言う言葉が、流行語になるような就職難時代がやって来たけれど、私は相変わらず暖かい家庭に包まれていた。お茶の稽古に行き、初釜と云うと訪問着や絵羽織を作ってもらって喜んだりしていた。

 春には両親と揃って醍醐の花見に行き、黄檗山で普茶料理をいただいて、夜は都踊りを楽しむような何年かが続いた。父には絶対服従の母の楽しみは十二月の顔見世見物で、昼夜通しで見たあと、翌日は岡崎へ文展を見に行くのが恒例であった。

 私は昭和8年4月、京都府立綾部高等女学校へ入学した。近在から入ってくるのは村長さんか、郵便局長さんの娘さん位で、小学校の同じ組からも10人もいなかった。
 後で知った事だが、同級生の中には500円で芸者の見習いに売られた子もあったという。その頃、女学校の授業料は年間35円位、寄宿舎は1ヶ月食事を含めて10円だったと思うが、授業料の催促で事務室へ呼ばれている人もあった。先生も余っていたようで、文系の先生は京大大学院出の優秀な先生であった。

 不景気風と共に軍国主義が徐々に強まって来たがまだまだのんびりした時代であった。夏休みには丹後の小天橋に学校の臨海学舎が開かれ、私も参加して泳ぐ事を覚えた。夜になると浜辺の松林をうなりを立てて風が吹き荒れた。生まれてはじめての親と離れての経験だったが、夜はキャンプファイァーに興じたりした。友達同士の1週間は楽しかった。

 12月23日は街に待った皇太子誕生で、みんな素直に喜び、行動で「皇太子さまあ、お生まれえなした」という歌を斉唱した。


万葉植物園にて棉の実を求む
♪棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

♪いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

Wednesday, November 21, 2007

長楽寺跡を偲ぶ

鎌倉ちょっと不思議な物語90回

長楽寺はかつて長谷211番地から225番地にあった廃寺で、文応元年1260年の大火事で焼けたそうだが、その場所は、つい先日まで中原中也展が開催され、その庭園に秋バラが咲き誇っていた鎌倉文学館のすぐ傍にあった。

『鎌倉志』によればこの寺には法然の弟子で隆寛という僧が住んでいたという。『日蓮聖人御遺文』『日蓮上人註画賛』に、日蓮が眼の敵にするかなりの高僧がこの寺にいた、とあるのは、この隆寛のことではないだろうか。

以上は主にわが枕頭の書『鎌倉廃寺事典』をからの孫引きだが、もっと耳よりな情報がある。それは昔むかし、この文学館の入り口の小さな寿司屋で、若くして亡くなった人気女優Nと流行作家のIが夜な夜な逢引していたそうな。

このI氏はまごうかたなき短編の名手であるが、長編は苦手である。というのは彼は一刻も早く連載を終えて賭け事や遊びに飛んで行きたいので、あまり長くなるとプロットを忘却してしまい、死んだはずの登場人物が突如現れたり、その逆がかなりの頻度で起こる。

これは実際私が週刊新潮の連載で体験したことであるが、読者はみんな忙しい。昨日の新聞や先週の週刊誌などをひっぱりだして再確認する暇人などおそらく1000人に一人もいないだろう。それに、そもそも小説など真面目に読む人などほとんどいないので、登場人物が死のうが生き返ろうがどうでもいいのである。

そんな次第でI氏には本人にも復元が難しい数多くの幻の長編小説があるらしい。廃寺事典ならぬ廃文事件である。

Tuesday, November 20, 2007

ある丹波の女性の物語 第19回

遥かな昔、遠い所で第41回

 座敷が新築されてから、基督教の伝道に来る先生方の宿を進んでするようになり、賀川豊彦先生は5、6度も泊まられ、その他本間俊平先生など多数の先生方が宿泊された。
 今の世も何かを求める時代と言われるが、当時賀川先生の講演会等は、公会堂も超満員で、その場で受洗希望者が聴衆の中から沢山進み出た。

先生は燃えるような人であった。胸を病んでおられたから、いつも柱にもたれていられたが、睡眠時間は短く、祈りの人でもあった。父は冷静な学者タイプの先生より、行動派の先生に傾倒したようである。
今の生協の基となった「生活協同組合、共益社」を作り、父は組合長になり、日常生活品や賀川服等も一時売っていたように思う。

 私には幼児洗礼を受けさせ、物心つく頃から日曜学校に通わされたが、いつも何となく批判的で、父の祈りにこたえる事の出来ないような子であった。何か悪い事をすると親に詫びる前に、祈って神に許しをこわねばならぬのには閉口した。教育にも熱心で、玉川学園の小原国芳さんの教科書を取り寄せたり、小学生全集も揃えてくれたが、病後ハネ廻って遊ぶ事の出来なくなった私は、自然隣の本屋に入りびたり、本屋の小母さんに可愛がられることを良い事に、列んでいる雑誌を興味本位に読みまくった。

少女の友、主婦の友、婦人倶楽部、婦女会等の小説それに新青年、宝石等のミステリー物が大好きであった。牧逸馬などが当時の流行作家で色々のペンネームを持っていた。とにかく手当り次第で、何かで見た中勘助の「銀の匙」に感激したり、吉屋信子は美文調で甘すぎる等言って小母さんを苦笑させた。芥川竜之介も大好きで、自殺に憧れたりした。

 履物店は製造を止めて母の仕事となり、店員5、6人、お手伝いさんは行儀見習いのお姉さんが1人か2人いてくれた。けれど仕入れだけは父の仕事で大阪の問屋へよく連れて行ってくれた。

日曜日に行くと、午前中は大阪の教会で礼拝を守るのには不服であったが、昼食はレストランやホテルでフルコースの食べ方を教えられる事もあり、心斎橋の洋服店のウインドに出ている流行の服も買ってくれた。

 戦争前の履物問屋街は、実にひどい所が多かった。今はすっかり焼けてその面影もないが、種類によっては被差別部落の問屋のある裏通りへも行った。父はどんな店へ行っても態度を変えず、パリッとした背広で、きたない座ぶとんに腰かけ、差し出されるお茶もおいしそうに飲み、私にも飲ませた。

♪かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり  愛子

Monday, November 19, 2007

ある丹波の女性の物語 第18回

遥かな昔、遠い所で第40回

 4年生の頃と思うが、夏休みの後半の夜中から私は40度を越す高熱がつづいた。何人もの医師をかえても熱は下がらず、医師の合議の結果、腎盂炎らしいという事になり、頭とおなかを冷やし、絶対安静の一ヶ月を送った。

その頃は今のように抗生物質の薬品がなく、そうするより療法がなかったのである。窓に西日が射しはじめると、ああ又熱が出るのかと悲しかった。その後京都の病院で、自分の尿から自家ワクチンを作ってもらい、長い間注射に通った。二学期の殆どを休みそれ以後、急激な運動は出来なくなった。

 父は一日中忙しく過ごす人であったが、忙中閑ありと云うのか、若い頃から俳句をたしなみ、句会で選に入り碧梧洞の「槻(つき)(トネリコ)の根に巣立ちして、落ちている」という軸をもらっている。何だか変な句と思うが、前田夕暮さんに師事していた隣の本屋の小父さんも、字がサカサになったり、斜めになるような詩を作っていたから、そういう時代だったのかも知れない。

童謡を作る事もはやったようで、私も作文の後の頁に童謡らしきものを、よく書いた覚えがある。父は書画骨董にも興味があり、丹波焼をも収集し、佐々木ガン(我)流と称して投げ入れを楽しんだ。

謡曲、仕舞も宝生流をよくし、私と一緒に入浴すると、羽衣や西玉母をうたってくれた。私も仕舞の手ほどきを受けたが、父の多忙というより、私の不熱心でいつ頃か止めてしまった。先日テレビの「謡曲入門」で一寸真似てみたら、案外すらすらと自然に声が出るのには驚いた。

 父は政治運動にも感心があり、土地の民政党の代議士を応援し、選挙になると、町田さんとか若槻さん等に選挙資金をもらいに行った。金銭に対しても皆から絶対の信頼があったからである。 
当時、政友会と民生党が二大政党で、選挙に負けた方の違反が摘発され、警察署長もその結果で更迭された。昔の議員は井戸塀と言い、自分の全財産をなげうって選挙を戦い、私欲を肥やす事はなかったように思う。昔日の感がある。

犬養木堂さんも丹波へ来られたようで、自筆の額が今も家にある。
 父は自分自身も町会議員選に出、郡是社長、大本教幹部に続いて第3位で当選した。当選の夜の異常な興奮と華やぎを今も思い出す事が出来る。私は選挙の不思議さと面白さを、小さい時から冷静に眺めていたようである。

♪子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人  愛子

Sunday, November 18, 2007

ある丹波の女性の物語 第17回

遥かな昔、遠い所で第39回

 父の訪米は父自身の人生の一大転機となった。機を見る事にさとかった父は、かねてから履物業には見切りをつけていたので、アメリカ人の家庭の洋服ダンスの中の沢山のネクタイ、婦人のかつら靴下等が、その時々の服に合わせて使用されているのに驚き、これからの自分の事業はこれだと決めたそうである。

 帰国後、直ちに西陣にネクタイの製織工場を作り、資本金の多くいる靴下は、関係のある郡是製糸で作るように提言し、塚口工場が出来た。色々の曲折はあったが、ネクタイ会社も郡是と同じ基督教精神を基とし、京都に工場、大阪に本社、東京八重洲口にも支店を、後には上海にも出張所を持つまでになった。

 翌昭和4年5月、家の改築をする事になり、裏座敷から始まった。座敷の天井は謡曲の声がやわらかく共鳴するようにと桐張りにしたり、炊事場は関西では珍しい板バリで、食料品の貯蔵庫として六丈位の地下室があり、水は日立のモーターで屋上のタンクに貯えられ、炊事場、風呂場、洗面所、二階のトイレ等にまで配水された。

炊事場の屋上はコンクリートの物干し場となり、当時の田舎では超モダンで、参考にと見に来る人が多かった。トイレ、風呂場のタイルも60年たった今も健在で、昔の職人の入念さが偲ばれる。
 三階建ての店舗の設計図も残っていたが、母がすっかり疲れ切ってしまい、中断のままになってしまった。

 その年にはアメリカから親善人形が送られ歓迎の学芸会が行われた。それぞれの生徒も市松人形を持ち寄り、西洋人形と一緒に飾り、その前で私もお遊戯をした。

 綾部にデパートが出来たのもその頃と記憶する。町の呉服店3軒が合併して出来たのである。鉄筋コンクリート三階建て、その上に展望台もあった。京都府下では最初の百貨店である。中々繁盛し、日曜日等には郡是製糸神栄製糸の女工さん達で賑わった。

三階には催場があり、何の宣伝だったか市丸さんも来て、歌ったり踊ったりしたのを思い出す。勢いにのって福知山にも、エレベーターのある支店まで作るようになった。

♪うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむる 愛子

Saturday, November 17, 2007

ある丹波の女性の物語 第16回 小学校時代

遥かな昔、遠い所で第38回

 「しょうわあ、しょうわあ、しょうわのこどもよ、ぼくたちわ」

歌いながら一年生の私達は、運動会でお遊戯をした。
 昭和元年は年末の僅か6日間で、昭和2年になってしまったのである。

 その年に丹後大地震が起こった。丁度、店員さんに交じって夕食を食べていたら、電灯が「パタッ」と消え「グラグラッ」と大揺れが来た。気がついてみたらお箸をにぎったまま、番頭の兼さんにおぶさって新開地の方へ逃げていた。紫にピンクの椿柄のメリンスの羽織を着ていたから冬だったと思う。その晩は何回も余震があり、店の表にむしろを敷き火鉢を出して、大人は寝ずの番であった。

 城崎方面の被害は甚大で、家屋全壊の報が入り、丹陽教会では慰問品をつのり、父も大きな袋をしょって被災地へ出かけて行った。温泉にはいったまま死んでいる人もあったそうであるが、それについては父は多くを語らなかった。生まれてはじめての恐ろしい出来事であった。

 翌3年、春休みに両親と揃って別府温泉へいった。大阪の天保山から船に乗って出かけた。瀬戸内海の島々が見えかくれして絵のように美しかった。日本海は橋立とか高浜へ海水浴に行きよく知っていたが、陽光に光る瀬戸内の海の色や、松の美しさにどれほど感動した事か。温泉めぐり、砂風呂も楽しかったが盆地育ちの私には、船の展望台から見たあのきらめくような明るい瀬戸内の波の美しさが忘れられなかった。

 同年6月、父はロサンゼルスで開催される世界日曜学校大会に、友人と二人、丹陽教会の代員として、他の教会の信者と共に天洋丸に乗って渡米した。片道2週間位はかかったと思う。60年前の当地としては大旅行であった。

世界各国の人々と大きな輪になり手をつなぎ合ったそうである。会の後、ミラーさん等の招待で各地を見て歩いたらしい。いつ帰国したか覚えていないが、帰国後は各地で招かれて講演をした。高度な文明や、建築物の事などを語ったであろうが、ナイヤガラの瀑布、ヨセミテ公園の巨大な木の事など、神の御業(みわざ)の偉大さを話したように思う。

 私にはハワイが此の世ながらの楽園であった事を語り、是非ハワイに住まわせたい等と言った。ハワイで食べたアイスクリームやハネジューが如何に美味しかったか顔をほころばせて話してくれた。
 帰ってからは、朝はオートミルか食パン。パンも大阪の木村家から取り寄せ、M.J.Bのコーヒーをパーコレーターで沸かして飲んだ。母は、ぶどう、苺、いちじくでジャムを上手に作ってくれた。

 又、アメリカの野外礼拝堂のすばらしさに感激したようで、友人と協力して、山に大きな十字架をコンクリートで作り、その麓に基督教の共同墓地を作った。イースターにはその十字架の下で昇天祈祷会が例年行われた。今は周囲の木が茂り見えにくくなったが、当時は山陰線の車中から見える十字架は偉観であった。


♪あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし 愛子

Friday, November 16, 2007

ある丹波の女性の物語 第15回

遥かな昔、遠い所で第37回

 大正15年4月、私は隣の本屋の幸ちゃんと綾部幼稚園に入園した。幸ちゃんは男のくせに色白で、よく風邪をひき、いつも着物で冬はくびに真綿を巻いていた。2人とも朝寝坊でよく遅刻した。誰も通らなくなった通学路の坂道を2人で上がっていった。坂を上りつめた所には大きな榎の木が二本立っていた。もう暫く行けば幼稚園なのである。

 2人とも教会の日曜学校へ通っていたので、その木の大きな根元に腰かけて「どうぞ幼稚園の時計がおくれていて、遅刻になりませんようお守り下さい。アーメン」とよくお祈りをしたものである。

 榎の枝の間から見える教会の十字架は、まるで額ぶちにおさまった絵のように美しかった。写生の良い材料になったが、その大木も、交互に植わっていた桜と紅葉の並木も、いつの間にか切り倒されて今はない。
 幸ちゃんも戦争に征く事もなく、20歳を待たずに急死した。

 坂の上から見晴らしのよくなった十字架を見るたびに、幸ちゃんと過ごした幼い日がよみがえって来る。

♪もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ  愛子

Thursday, November 15, 2007

ある丹波の女性の物語 第14回

遥かな昔、遠い所で第36回

 叔母の夫は、結婚した当時から妾宅に子供があった。毎晩のように出かけて行く夫を見送り、夜中に迎えねばならなかったそうで、辛抱に辛抱を重ねた叔母の発病だったので、父は如何様にしてもいたわってやりたかったのであろうが、折角の新築の家に住む事もなく叔母は天国へ旅立ってしまった。

 それから後祖父は3、4年生きていたであろうか。目は全然見えなくなり、杖をつかねば歩けなかったが、芝居見物やラジオを聞くこと、レコードで義太夫を聞くことが楽しみで、娘義太夫をひいきにしていた。

「一太郎やあい」と言うのも良く聞いた。祖父は訪れた人には「家の嫁のような親孝行者はない。優しい嫁じゃ。新聞に書くように言うて下され」とよく言っていた。それが祖父の精いっぱいの母への感謝の表現だったのであろう。

やがて祖父も中風でなくなった。3、4日の患いであった。うわ言に「らいこや、らいこや」と私の名らしい事を言った。この祖父も私を心から愛してくれていたのだろうか。

 その頃、父は教会の役員になり、色々奉仕をしていた。結婚式の仲人も夫婦で何組もつとめた。私は銀行の役員の長男、小笠原和夫さんと2人で、花束を持って、新郎新婦を先導する役であった。真っ白い不二絹にレースと造花をあしらったワンピースを作ってもらい、得意になってその役をつとめた。

 銀行は勧業銀行、百三十七銀行、高木銀行等沢山あったが、家の近くの京都銀行はその頃何鹿(いかるが)銀行(何鹿郡綾部町であったから)と言い、綾部では数少ない鉄筋コンクリート造りであった。

町では一番の繁華街の四つ角にあるので、夜になると、バイオリン弾きが来て「枯すすき」等を歌って楽譜を売った。どういう訳か赤坂小梅さんが派手な着物で、レコードの宣伝に来て歌った事もある。今のようにテレビがないので、夜の街で子供達も遊んでいた。そんなコンサート?には大勢の人が集まったものである。

 何曜日かには救世軍がやって来て、太鼓をたたいて賛美歌を歌い、“あかし”(信仰告白)をした。子供達は「たあだしんでんが来た」とみんなで見に行った。夜までよく遊んだ昔がなつかしい。

 何でも珍しいものには興味があった。琴の稽古をはじめたのもその頃であろうか。小学校、女学校のお姉さんにつれられて警察の署長さんの奥さんのところへ通った。
 琴の前に座っても先まで手がとどかず、ざぶとんを重ねてもらってやっと弾けた。数え唄、松づくし等からはじまって黒髪なども習った。

「黒髪のみだれて一人ねむる夜はーーー」などと、幼い子供が無邪気に声に出して歌いながら弾じたのだからおかしくなる。署長の転勤でお師匠さんも変わったが、六段の調べや、お姉さん達の弾いた千鳥の曲など古典はいいな、と今も思う。

♪刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる    愛子

Wednesday, November 14, 2007

友達の友達

♪バガテルop28

14日附の日経朝刊によると、法務省は来日する16歳以上の外国人に対して、指紋採取と顔画像の提供を義務付け、来る20日より全国27空港と126の港湾で実施するそうだ。新システムは特別永住者や外交官、日本国の招待者を除く全員に適用され、この措置を拒んだ外国人は入国させないそうだ。

これは鳩山“喋蝶”大好き法相の“お友達のお友達”の侵入を水際で撃退するためらしいが、私は世界で米国についで二番目にヤマト国が誇らしげに導入したこの措置に賛成しない。
というのもこうした外国人への対応は、性善説ではなく、性悪説に立っているからだ。すべての外人は警戒すべき異人であり、犯罪予備軍であり、「人を見たら泥棒と思え」という考え方に結局は基づいているからである。

その性悪説が次々に新たな敵意と反発を、さらにはそれを抑止するために創案されたはずのテロと戦争さえも生み出すことは、かつての大戦やパレスチナ戦争、相次ぐ軍拡や原水爆保有競争、つい最近の9・11同時テロに続くアフガンやイラク戦争の成り行きを見れば火を見るより明らかではないか。
つねに最初に武装する者が、次に武装する者を生むのである。

2番目の理由は、私自身がヤマト国と同じような非友好で敵意に満ちた不愉快な対応を外国の空港でされたくないからだ。お見合い写真ならともかく警備員に顔写真を撮られたり、指紋を採取されたりするくらいなら私は死ぬまで外国に行かないことを選ぶだろう。それは個人の尊厳の侵害であり冒涜である。

そのうち成田や関空に行くと、彼奴らは私のちっぽけなおちんちんも「見せろ!」と言い出すに決まっているぞ。いくらちっちゃくてもおちんちんなら見せてもいいが、ついでにオシッコひっかけてもいいけれど、指紋と写真と貞操だけは許せねえ!

私が息巻いてそういうと、「ではお前の友達の友達の中にはきっと治馬敏羅人と知恵偈原がいるに違いない」と指摘する人がきっとでてくるだろうが、何を隠そう実は彼らは私の親しい友なのだ。
だからといってヤマトに芸者遊びにやってきた2人が、私の大好きな小林旭のように

♪ダイナマイトがよお、ダイナマイトが150トン!

などと歌うわけがないだろう。
ところで、あなたの友達の友達ってみんな悪い人ですか?

さて私の最後の反対理由は、今回の措置が世界中の人間の自由を貶め、人品を卑しめるからだ。最下層遊民の私は、ヤマト国がいくら貧しくなり、人口が減り、アジアの三等国いや最低国に成り下がり、経済成長がぱったり止まってもいっこうに構わないが、ヤマト人間の根幹の矜持が腐っては困る。

かの中原中也も歌っているではないか。

♪人には自恃があればよい!
その餘はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行いを罪としない。(中原中也『盲目の秋』)

ところがヤマト国と米国は、またしても腕を組んで同伴出勤して、この人倫に悖る行為を世界で率先しようとしているのだ。この馬鹿たりが。 

テロは許されないし、容認すべきではないが、すべての外国人をテロリスト予備軍とみなすヤマト国の野蛮な措置に、私は寄る年波のその年甲斐も恩讐の彼方に投げ捨てて、断固抗議したいのですね。

さうしてヤマトは、世界の悪人と善人を等しく大切にする、世界で最も自由な國であり、できたら永世アジール夢共和国であってほしいな。

Tuesday, November 13, 2007

♪スキップする少女

♪ある晴れた日に その16

高い空から秋の夕陽が落ちてくる図書館前の路上で、少女が突然スキップしはじめた。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

そのとき、さっと母親の手を解き放った少女は、
両手を軽やかにスイングしながらイサドラのように踊る、踊る、飛ぶ、跳ねる――
御成小学校の交差点をスキップしながら走りぬけ、ほら、もう佐藤病院の前で母親が来るのを待っている。

左、左、そして右、右
小さな足が交互に弾む
ワンツー、ワンツー、
あどけなく歌いながら蝶が舞う

ジーンズのスカートに赤と黄色の刺繍が紅葉のように散り、おかっぱがつむじ風にはらはら揺れて――

そしてあっという間に、少女は江ノ電の踏み切りの向こうに消えた。
母親と一緒に見えなくなった。

私は思う。
やがて、少女は気づくに違いない。いつのまにかスキップをどこか遠いところにおき忘れてしまったことを……
そしてある朝、大人になった少女はしみじみ振り返るだろう。
その夕べこそは、生涯で最も幸福ないっときであったことを……

Monday, November 12, 2007

網野善彦著「中世東寺と東寺領荘園」を読む

降っても照っても第73回

著者の著作集第二巻に、1987年に初版が刊行された「中世東寺と東寺領荘園」が再録された。

題名の通り東寺の荘園制の歴史的変遷を、時代の推移を追って、客観的かつ実証的に執拗に追っていく。その圧巻は足掛け20年以上に及ぶ厖大な「東寺百合文書」の解読に基づく荘園内権力のありようの研究であろう。

東寺は、鎌倉幕府が成立し頼朝の支援を受けた文覚上人の活躍によってその荘園制経済と内部権力の基盤が確立された。しかし南北朝の争乱と室町幕府の成立を経て、幕府指名の守護地頭など公的権力が台頭し、かつては寺社や貴族が支配していた荘園のヘゲモニーを奪い、と同時に、荘園の内部で伸張していた供僧や農民などの下層階級の自由と権利獲得の戦いを抑圧する結果を生むことになる。

自らの立場に無自覚であった下層の民衆は、時の権力にある部分では鋭く抗いつつも、他の部分では無定見に妥協し、戦いを放棄してしまう。そのことが戦国大名による専制につながり、ひいては天皇制の存続を許す結果を生んだ、と著者はいいたいようだ。

また本書では、後醍醐天皇の建武の親政を支えた悪党たちがいつどのようにして歴史の舞台に登場したのかつぶさに知ることもできる。

例えば東寺の所領であった播磨の國矢野荘では「国中名誉悪党」と称された在地領主寺田氏が日本中に勇名を馳せ、時には東寺上層部、時には山僧とつながり、一時は貴族と肩を並べるほど成り上がりながらも、諸勢力との抗争に敗れてから姿を消していったありさまをうかがい知ることができよう。

さらに本書は、客観や実証よりもマルクスやエンゲルスのイデオロギーを盲目的に崇拝していた、かつての著者の徹底的な自己批判の書でもある。

客観的かつ実証的な学術研究を、それだけで果たして自立的な学と呼べるだろうか?
それは学問の重要な手段であることに異論はないにしても、その前提あるいはその同伴者としての主体的な思想的立場を不問にすることは許されるのだろうか? 

と、著者は今も私たちに鋭く問いかけているようだ。

Sunday, November 11, 2007

「ヒトラー最後の12日間」を観る

降っても照っても第71回

まずはブルーノ・ガンツの怪演に驚き、そのヒトラー以上のヒトラーさに俳優の業の凄まじさとえげつなさを覚える。

演技といえばゲッペルス夫妻の最後の姿に圧倒される。5人の女の子に睡眠剤を飲ませ、(実際にはもうひとり男の子がいたはずだがこの映画には出てこなかった)さらに青酸カリの液体を口唇に注ぎ込む悪鬼のような所業には思わず身の毛もよだつ。

ゲッペルスが出たからには我らがフルトヴェングラーもぜひ顔を出してほしいところだが、そのかわり?にヒトラーお気に入りの建築家のアルベルト・シュペーアが登場してくれる。 

シュペーアが国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型をヒトラーに見せると、この独裁者は、この壮大な建築物こそが、自らの死後も第三帝国の栄光について永遠に語るだろう、と奇怪な妄想にふける。そうしてその姿が、建築と権力者の関係を雄弁に物語るのである。

いずれにしても自国の歴史の恥部を深々と覗き込み、じっくりと正視する勇気を私たちももちたいものだ。

最後に、この映画を観ての私の感想は、「おいらも自殺用の拳銃が1挺欲しいよ」。

Saturday, November 10, 2007

大澤真幸著「ナショナリズムの由来」を読んで

降っても照っても第72回&勝手に建築観光27回

ファシズムはある過剰性を帯びたナショナリズムであり、その過剰性は通時的には一種の現状変革への熱烈な欲求として、共時的には過剰な人種主義の形態をとり、共同体への亀裂を嫌い、熱狂的な指導者崇拝を伴う。

しかしそのようなファシズムは、民主主義の理想的政体と称されたワイマール共和国の内部で生み出された。ファシズムは、きわめて現代的な現象である、と著者はという。

 さらに著者は、「高さへの意志」は、ナチズムあるいはファシズムの特質のひとつではないか、と指摘している。

事実常に高さを指向するヒトラーは、政務の中心をオーバーザルツベルクの山荘におき、建築家アルベルト・シュペーアにパリの凱旋門の2倍の高さを持つベルリンの凱旋門の建設を命じ、ナチスドイツは、ロンドン空襲に顕著に見られるように、高空からの攻撃に執着した。

ちなみにナチの軍需相で建築家のシュペーアは、映画「ヒトラー最後の12日間」でも顔を出していたが、国会議事堂を中心とした彼の世界首都ゲルマニア=ベルリン都市計画模型を見ながら奇怪な妄想にふけるヒトラーの狂気の姿がリアルに描かれていた。

 かのバベルの塔の神話はさておくとしても、安土城から天下を睥睨した織田信長、大阪城の豊臣秀吉はもとより、ニューヨークの摩天楼のペントハウスの住人たち、現代ニッポンの超高層ビルの最上階に陣取るわがヒルズ族まで、「高さへの意志」をあらわにする人々は跡を絶たない。

うぞうむぞうの民衆たちが蟻のようにうごめく下賤の巷を低く見て、みずからは超高層の高みにおき、エリートだけに許された超特権意識にひたりつづける非人間性と超俗性こそは、古くて新しいファシズムの根っこかもしれない。

またヒトラーは、シュペーアが唱える「新しい建築物は、幾世紀を経ても永遠の美に輝く廃墟となるように設計されなくてはならない」という“廃墟価値の建築論”に心酔していたが、汐留や品川や六本木ヒルズや東京ミッドタウンなど現代ニッポンの最新超高層ビルジングたちは、このナチス建築の理想の忠実な信奉者によっておっ建てられているともいえるだろう。
 
後者の建築は、幾百年の経過を待たずして、「すでにあらかじめ廃墟と化している」点だけが違っているとはいえ、ここにも“現代ファシズム萌え”がちらついているようだ。

Friday, November 09, 2007

ある丹波の女性の物語 第13回

遥かな昔、遠い所で第35回

 祖父が愈々目が不自由になった頃、舞鶴の酒屋に縁づいていたつる叔母さんが、肋膜炎になり帰って来た。嫁ぎ先では養生させてもらえず、父が見かねて、二男二女を残して離縁してもらったのである。うちで養生して全快後、将来の為何か身につけたいと、神戸の外人さんに洋裁を習いに行った。

 父は末の男の子を引き取り、叔母に洋裁店を開業させようと、目抜き通りに家を新築する事にした。私は板囲いのあるその普請場へ、毎日のように父と見に行ったものである。

叔母はどれ位修行したのか分らないが、次々私のために、別珍のワンピース、レースの洋服にお対の帽子、半ズボン、毛糸編のワンピース等を作ってくれた。家が立つ間、祖父と叔母が離れのコタツに差し向かいで当たっていた事やミシンを踏んでいる束髪の叔母の後姿が目に浮かぶ。洋服は色あせた写真でしか見ることができないが、神戸土産の西洋人形は、今もテレビの上から私にほほえみかけてくれる。
 
4歳位の頃かと思うが、苺の季節に叔母は亡くなった。折角の父の心づくしもすべてが無駄になった。臨終の後、私にも口をしめらせてくれた。亡くなる前日だったか、叔母が、苺を細い指でつまんで食べさせてくれた事が忘れられない。

 不幸な叔母の為に盛んな葬式が教会で行われた。私は大勢の人が集まるのがとても嬉しくて、火葬場で飛んだり跳ねたりしたようである。帰るなり母は、みんなの前で私の背中にお灸をいくつもすえた。泣き叫んだが誰も止めてくれなかった。

♪うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く  愛子

Thursday, November 08, 2007

ある丹波の女性の物語第12回 幼児期と故郷

遥かな昔、遠い所で第34回

 「山家一万綾部が二万福知三万五千石」と福知山音頭にうたわれているように、綾部は九鬼二万石の城下町である。田町の坂を上がると大手門跡があり、それからは上は家中(かちゅう)といって士族の住居地であった。

私の幼い時は、家のある本町通りとカギの手になった西町通りが商店街であった。そのカギの手の角の家がこわされ、駅へ行く新開地が出来たのはいつだったろうか。立派な家がこわされたのは覚えているのだが、私の幼い記憶は新しい新開地の思い出に飛んでしまう。
 
 田圃の中に道路が出来、秋になると田の中に番傘を広げていなごを取った。一晩糞を吐かせて佃煮にしてもらったが、美味しいものではなかった。広場にはすすきや野菊がいっぱい咲いた。

 サーカスも来た。ジンタの天然のしらべの音楽がはじまると何となくウキウキして、テントの前につないである馬などを見に行った。時々表のカーテンがあいてサーカスのショーの一部をのぞかせてくれるが、すぐにカーテンはしまって見せ場はのぞかせてくれない。次の瞬間をみんなで待った。サーカスの子供は売られた子だとか、人さらいにあった子だとか、私達はヒソヒソ話をしたものだった。

 衛生博覧会や見せ物が、次々に原ッパで開かれたように思う。テントの杭打ちが始まるとこんどは何が来るかと楽しみだった。

 そのうち道の両側に次々家が建ちはじめ、みるみる綾部駅まで家がつまってしまった。長楽座という芝居小屋も建った。廻り舞台、両花道、早替わりのぬけ穴、舞台の両側には、はやし方がすだれの中に座っているのがのぞかれた。

 歌舞伎も、天勝も、石井漠のバレエも来た。そのたびに中の桟敷も二階席も満員になった。トイレの匂いが気になったが、花道横の一段高い所に、お茶子さんにざぶとんを敷いてもらっておいて、見に行くのは楽しみであった。有名な演し物は母がいつも連れて行ってくれた。

今ふり返ってみると大正文化の華やいだ頃というのであろうか。福知山には歩兵工兵隊、舞鶴には要港があったが、戦時色などというものはなかったように思う。

 そのうち芝居小屋はだんだん活動写真を上映する事が多くなった。舞台の下にはオーケストラボックスもあり、ピアノ、バイオリン等の楽師さんが沢山いた。今から思うとずいぶん贅沢な事だったと思う。

 綾部の町にはもう一つ帝国館という映画劇場もあった。映画はあまり見に行った覚えはないが、「二十六聖人」というキリスト教の映画、それに「何が彼女をそうさせたか」という映画の及川通子という女優さんを、とても知的で美しい人だと思った覚えがある。

綾部の町を有名にしたものには大本教もあるが、町の発展に力があったのは、やはり郡是製糸であろう。綾部には本社と本工場があり全国に沢山の分工場があった。蚕種研究所には大学出の研究者も数多くいた。社宅の子供達は皆賢かった。

 郡是製糸は基督教の精神を基として設立されたので、波多野社長の所属する丹陽教会は、その社員も多く、会社の発展によって出来た金融機関等の人や文化人も集まるようになった。矯風会支部も出来、教会婦人会などは、インテリ婦人の社交場のような雰囲気さえあった。

 又、月見町という芸妓置屋の集まる町も出来た。玉ツキ、射的場、カフェー等も出来て行った。

 大本教も盛んになっていった。開祖の、お直ばあさんを父はよく知っていた。近所に住む紙くず買いであったが、時々気が狂って大声を出してあばれるので、よく留置場に入れられたそうである。

「予言者は故郷ではいれられず」の言葉があるが、土地の信者は殆どない。養子の王仁三郎さんが生神様扱いされるようになっても、父は普通の人・王仁三郎さんとしてつきあっていた。私達もその子、孫さんと通常のつきあいである。

♪谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る 愛子

Wednesday, November 07, 2007

11/8 ある丹波の女性の物語 第11回

遥かな昔、遠い所で第33回

 最後に私を生んでくれた母と父の事を少しのべたい。

父は前述の雀部の長男儀三郎である。姉も美人であったが、父も長身、秀才、美男であった。土地の京都三中、三高、東大独法科を卒業した。田舎では有名であり自慢の息子であった。「末は大臣か―――」等という祖父母の期待を裏切って、芝川という貿易会社に就職、横浜に住んだ。

当時は非常な好景気で、派手な贅沢な暮らしであったようである。この癖は終生つきまとった。会社が不景気風と共に破産、その後もやはり個人で貿易をしたらしい。その間に結婚もしているが、いろいろ就職しても昔の夢が忘れられず、その後京都での市の貿易協会に招かれ得意の腕を振るう事ができたのはしあわせであった。

 母美代は東京上野下谷の生まれである。長く京都に住んだが言葉の江戸っ子は死ぬまで直らなかった。親代わりの兄は外交官等の仕立てをする高級洋服店を営んでいた。本郷に下宿していた父と、どのようにして結婚したのか、とにかく福知山の祖父母をはじめとして、田舎の親戚は大反対であった。

そんな訳で夫が失職したり、困った時は全部兄に面倒をみてもらったらしい。不義理を重ねたこの妹夫婦には兄もあいそをつかしたらしいが、晩年は江戸時計博物館などを持っている兄を訪ね、一緒に焼物などを焼いて楽しんだと言う事である。

 母は大柄でどちらかといえば、不器量であったが、父には至れり尽せりの妻であった。京では毎日のように一流料亭にバイヤーを招いていた父を、いつも満足させる味の料理をつくり、針仕事も玄人はだし、綺麗好きで家中ピカピカであった。

私が似ているといえば不器量と、花作り好き位であろうか。それでも子供の話が理解出来るよう、ラジオで中国語講座を聞いたり、野球などのスポーツも理解した。伏見の家から京の街へもほとんど出たことのない、ほんとの家庭夫人であった。

♪山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける    愛子

Tuesday, November 06, 2007

ある丹波の女性の物語 第10回

それ以来、父は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれだしたので、このままでは祖父の二の舞をやりかねないと、自分ながら不安になり尊敬する波多野社長の信ずるキリスト教は、禁酒禁煙だしそれを見習えば間違いなしと、動機はいささか不純で功利的であったが、キリスト教へと心を傾けていった。

教会通いをしているうちに、元来神信心のあつい父はキリストへの信仰に目ざめ、大正7年丹陽教会において洗礼を受けた。この頃から養蚕教師はやめていたらしい。

 そんな大きな動きのある最中、一文なしの祖父が師走の夜中に帰ってきた。前非を悔いて土下座して詫びる祖父を父は許さなかったが、母はやさしく迎え世話をする後家さんを見つけ、一緒に住まわせた。

70歳を過ぎる頃、祖父は一人になったので、家の離れに住まわせ緑内障でだんだん目が見えなくなっていく祖父の杖がわりになり、山の小屋に太鼓の響く日には、重箱にお弁当をつめて芝居小屋へ連れて行ったのを覚えている。

そんな母のやさしさに父もだんだん心がほぐれ、町では三番目にラジオも買い与えた。大阪から技師が何日も泊りがけで来た。当時のラジオは、夜になると近所の人が聞きに来るような珍しさだったのである。

 父は後年母に心から感謝し「おらが女房を誉めるじゃないが」と人によく話した。
 先になくなった祖母には誠意をつくして看護し、祖父には父の分まで孝養してくれた事を、妻のおかげで親不孝のそしりを受けなくてすんだ事は、最大の感謝であるといっていた。

♪あかあかと 師走の陽あび 山里の
  小さき柿の 枝に残れる  愛子

Monday, November 05, 2007

護良親王の首塚を遥拝す

鎌倉ちょっと不思議な物語89回

後醍醐天皇の皇子護良親王は、かの「建武の新政」で晴れて征夷大将軍となったのだが、父後醍醐のために、全知全能を傾けて、日本全国の戦場を駆け巡ったにもかかわらず、宿敵足利直義の手によって、鎌倉の大塔宮の石牢から引きずりだされて斬首された。

さぞや悔しかったことだろう。さぞや父を恨んだことだろう。

その護良親王の墓は、実朝の墓と同様、鎌倉に2箇所ある。1箇所はその大塔宮だが、もうひとつが今日ご紹介する「首塚」だ。

大塔宮(鎌倉宮)から浄明寺の第二小学校方面に迂回すると突然長大な石段が現れる。その急峻な長い長い石段を息を凝らして登っていく者は、次第に不気味な胸騒ぎを覚えるだろう。

晴れた日にも、雨の日にも、またうす曇りの日にも、春夏秋冬恒にここには「尋常ならざる何か」がある。絶対にある。あの「あほばかの泉」の水を飲んだこともなく、神仏なぞ信じたこともないこの私が言うのだから間違いない。

恨みを呑んで死んだ皇子の怨霊が800年経っても鬱蒼とした森林の中を彷徨っていることが肌寒いまでに実感できる。
さうして切り立った石段の頂上から下界を見下す者は、微かな眩暈を覚えるだろう。
そう、ここは明らかに異界である。

高鳴る動悸を抑えてさらに前進する勇気のある者は、頂上の神殿の裏手の奥を目指してみよ。
そこには、疑いもなく護良親王の生首が埋まっている。

ちなみに、鎌倉ならでは霊地はこの首塚を筆頭に、御霊神社や前にご紹介した妙本寺、北条高時腹切り矢倉など数多い。
死んだ作家の高橋和己は、余りにも短かすぎたその晩年を、あろうことか、この首塚のすぐ傍の、小さな小さな英国風の洋館で過ごしたが、幾夜どのような妖気に満ちた夢を見たことだらう。

Sunday, November 04, 2007

ある丹波の女性の物語 第9回

 そのような中にあって、祖母は胆嚢の手術をした。土地の医師を母が看護婦の経験を生かして助けたのである。妹のつる叔母を舞鶴へ嫁がせたが、金三郎叔父は職が長続きせず、しまいには朝鮮へ高飛びし、その間、三回もの結婚離婚を繰り返し、失敗する度に実家へ帰っている。

 その頃の綾部には産科の医師もなく、出産といえば取り上げ婆さんを頼む時代であったので、開業していない母なのに、むずかしいお産といえば無理に頼まれ遠い村からは駕籠が迎えに来たそうである。

 そのうち祖父は借金がかさんで綾部にいられなくなり、とうとう有り金をかき集め、若い芸者を連れて、隠岐の島に逃げてしまった。その後の両親の苦労は並大抵のものではなかったらしいが、店は母にまかせて父は養蚕教師をつづけた。

 大正の初め、土地の郡是製糸が大損をして株が大暴落し、会社の存亡が危ぶまれる事件が起こった。城丹蚕業学校の創立者であり、父を蚕糸業へ導いた大恩のある郡是の波多野鶴吉氏の窮乏を救いたい一心の父は、残されている唯一の桑園を売り、発明した蚕具でもうけた金を全部つぎこんで、どんどん安くなる郡是株を買いあさったのである。

ところが一年あまりでアメリカの好景気で郡是製糸は立ち直り、株価はどんどん上がった。義侠心でやった行為が父に大金を得させたのである。そのお陰で、払い切れぬ程の借財はすべてなしてしまい、何日も親戚、知友、隣近所を次々に招いて盛大な祝宴を開いた。母はその時買ってもらったダイヤの指輪、カシミヤのショールを終生大事にしていた。夫婦ともに33歳であった。

♪色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに    愛子

Saturday, November 03, 2007

鎌響の「カルミナ・ブラーナ」を聴く

♪音楽千夜一夜第27回&鎌倉ちょっと不思議な物語87回

久しぶりの晴天の午後、鎌倉芸術館を訪れて、わが愛するローカルオケの演奏を聴いた。創立45周年記念第90回特別演奏会である。青い空に白い雲が浮かんでいる。私の好きなマチネーである。

 鎌倉交響楽団は昭和38年6月に創立され、一の鳥居の傍にあったいまは失われた旧中央公民館で第1回の演奏会が開かれたが、その日のメインであったシューベルトの未完成交響楽(曲と書かずにわざとこう書くその理由は賢明な諸兄ならお分かりだろう)が当日の2曲目に演奏された。
1曲目は例によって八代秋雄作曲の最高に素晴らしいヘ長調の鎌倉市歌である。(http://machimelo.web.fc2.com/kamakurasika.wmv

 シューベルトのこの曲D759は昔は第八番と呼ばれたが、現在では第7番で落ち着いたらしい。昔は未完成とハ長調の第9番D944の間に未発見の大曲ガシュタイン交響曲が想定されていたが、他ならぬそのガシュタイン交響曲が第9番であることがわかって、結局9番が最後の交響曲8番となった。

 それはともかく改めて聴く未完成は完全に完成した2楽章で構成されており、2つの楽章はまるでシャム双生児のようなネガポジの関係にある。主題自身もほぼ裏返しになっていて、展開方法もまるで同じ。2つの楽章というよりは自民・民主の大連立状態に陥っている。

第三楽章の冒頭でシュベちゃんは筆を投げたが、よほど意想外のメロデイーで開始しない限り、このシンフォニーは第9番と同じ泥沼ぬかるみ団子状態になったはずだ。
最後の大曲第9番も名曲であるが、もはや全身に梅毒が回った最晩年のシュベちゃんは、往年の流麗なメロディラインの在庫に底がつき、曲想の自在な展開を盛り込むことができずに、それでも根性でリズムとハーモニーの自同率のみで勝負してなんとか終らせてはいる。
レコードで聴くなら、フルトヴェングラーはハーモニーで、トスカニーニはリズムを強調した立派な演奏でモノラルながら両盤ともおすすめできる。そんな名曲の「未完成」だが、鎌響はまずはオーソドクスに破綻もなく演奏してのけた。

驚きは次の大曲と共にやってきた。カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」である。ドイツの作曲家オルフは、中世ミュンヘンの民衆が書き残した24の自由奔放な詩歌をサンプリングしてそれらにもっと自由奔放な音楽をつけた。

キリスト教の戒律によって縛り付けられていた中世の世俗の民が、飲んで騒いで恋をする。そのアナーキーで放埓な生き方を、オルフは現代音楽にも通じるような強烈なリズムと生命力が躍動するダンスミュージックを創造したのである。

ダンス、ダンス、ダンス!  恋せよ乙女、堕ちよ、人! メメント・モリ! 酒歌煙草に一時を忘れよ。それは中世と現代、宗教と無秩序、人と獣、愛と憎悪のアマルガムであり、世俗賛歌をつむぎだす壮大な錬金術であった。

若き指揮者星野聡に率いられた100名のオケと清冽なソプラノ松原有奈、バリトンの牧野正人、テノールの山田精一、そして100名の市民混声合唱団は、この狂気をはらんだ長大な難曲を、打楽器の強打を駆使しながら巧みに導き、全曲の最後の最後に素晴らしい音楽的法悦をもたらすことに成功した。

これこそが私たちが待ち望んでいた至高の瞬間であり、音楽が人間に対してできる最大の事業を見事にやってのけた奇跡的な瞬間でもあった。さうして私たちは、じつはこの瞬間の訪れだけのために長い年月を生きているといっても過言ではないのである。

超ローカルオケ、鎌響よ! 音楽を熱愛するすべてのアマチュア音楽家たちよ、永遠なれ!

Friday, November 02, 2007

ある丹波の女性の物語 第8回

 当時はまだ鉄道もなく、花嫁達は福知山街道を人力車にゆられて夕方、佐々木家についた。提灯の灯に浮かび上る母の姿を見て、金三郎叔父は「おお!きれいな嫁さん」と見とれて、大きなため息をついたそうである。

 売り出しには商いに店に立つ母の姿を、近在から見に来るほどであったらしい。私がそんな話を聞いて来て母にすると、困ったような顔をして、
「お父さんの所へ来たのが一番幸福だった。沢山の家からもらわれたが、他のどこの家へ縁づいても、めかけがいるような家ばかりやったから」
と心の底からそう思っているようであった。

 母が縁付いた頃は雀部家はすっかり傾き、商売がえをしてみてもうまくいかなかったが、何分ぼんぼん育ちの祖父の事で、お米はすし米、お茶は玉露というような日常であったので、使用人の多い佐々木家の大世帯の粗末な食生活にはびっくりしてしまったそうである。
麦の方が多い麦飯、それに大根も入る時があり、暫くは食べられなくて困ったそうである。

 その頃、父は養蚕教師となり、四国では日本一の成績をあげる高給取りであった。しかし借金の返済や商品の仕入れにすべてあてられ、その中でも祖父の女遊びや花札バクチが続き、いくら父が家に金を入れてもドブに捨てるような物であった。差し押さえにあい嫁入り道具類にまで札をはられた事もある、と母は言っていた。

♪梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり  愛子

Thursday, November 01, 2007

田村志津枝著「キネマと戦争 李香蘭の恋人」を読む

降っても照っても第70回

最近は昭和史の本がたくさん出ているようだが、当時の日本と中国と「偽満州国」と日本統治下の台湾において、いったいどんな映画が、誰によって、どのような条件下で作られていたのかを知る機会がほとんどなかった私は、本書によってその渇を十分に癒すことができた。

当時、上海の租界には、抗日映画を製作する数多くの中国の映画会社があり、偽満州国には、大杉栄と伊藤野枝を惨殺した甘粕正彦が2代目理事長を務め、本書のヒロイン李香蘭を擁する国策映画会社の「満映」があり、日本軍が包囲する上海には川喜多長政が日本側代表を務めた日華共同出資の映画会社「中華電影公司」があり、華北にも同様の国策会社の「華北電影公司」があり、本土には戦意高揚国策映画を大量生産し続けた「東宝」や「松竹」があって、彼らは、映画というメディアを駆使しつつそれぞれの顧客たちに対して思い思いのプロパガンダを発していたようだ。

日本と中国と偽満州国と台湾という4つの国家(地域群)を舞台に、アジア全体を巻き込んだ巨大な「戦争」と、それが「映画」界にもたらした暗く不吉な影に、著者は丁寧にスポットライトを当てていく。

厖大な資料を綿密に読み込みながら、長年にわたってじっくりと進められたに違いない著者の精密な解読作業によって、満州事変から敗戦にいたるまでの戦争と映画史の相関関係が、はじめて白日のもとに晒されたといえるのではないだろうか。

このようなアジアの戦争と映画史の骨太のドキュメンタリーを後景に据えた著者は、その気宇雄大な舞台の前景に、若き二人の主人公を登場させ、「偽の中国人俳優」を演じる日本人女性李香蘭と、皇民化政策によって強制的に「偽の日本人を演じさせられた台湾人映画監督劉吶鷗」との間に演じられたサスペンスドラマの世界を描き出し、その大小2つの世界を頻繁にカットバックする手法を採用することによって、全編にリアルな緊迫感を盛り上げている。

かつてわが国にニュージャーマンシネマ、さらには台湾映画ブームを招来させた著者らしい「映画的な構成」といえよう。

急速に広がっていく戦火と、その未曾有の混乱のなかで、ほんらい平和のうちに映画創造に献身できたはずの若者たちが次々にテロルに倒れ、ほのかな恋の炎さえもあえなく吹き消されていった。

本書によれば、劉吶鷗は前途有為な台湾生まれの映画監督&製作者であったが、1940年9月3日、上海の目抜き通り四馬路のレストラン京華酒家で何者かの手で暗殺されてしまう。

著者がいうように当時は
「抗日戦争を巡る熾烈な戦いがあり、国民党の特務機関は対日協力者潰しに躍起になり、一方で日本側および汪精衛政権の特務機関は、抗日人士を標的にして逮捕・拷問・暗殺を繰り返し、また国民党残置機関の襲撃に暗躍していた」
が、にもかかわらず、戦乱の中国にはこういう能天気で純粋な青年はいっぱいいただろう。
いや一部の確信的行動主義者をのぞけば、民衆の大半が劉吶鷗のようなノンポリかオポチュニストだったのではないだろうか?

ところで劉吶鷗が暗殺されたちょうどそのとき、李香蘭は京華酒家から遠からぬパークホテル(国際飯店)で彼が来るのを待っていたのだという。

しかし著者の調査では、映画『熱砂の誓い』の北京ロケのために東京を発つ9月5日を目前に控えた暗殺当日の9月3日に、彼女がこの場所に居ることは不可能に近い。事の真相は、彼女が勘違いしているのか、嘘をついているのか、本当に待っていたのか、のいずれしかない。

「そしてもし本当に待っていたのだとすれば、劉吶鷗の知られざるもうひとつの仕事がそこから浮かび上がり、彼の暗殺の謎を解く重要な鍵のひとつが見つかるはずだ」

この謎のサスペンスドラマを解明しようと、著者は本書の最後で、李香蘭こと山口淑子に宛てた質問状を突きつけている。

この李香蘭こと山口淑子という女性について、私はこれまで何の興味を覚えたこともなかったが、本書を読んでどうも面妖かつ不可解な人物であるように感じた。

そもそも日本人なのに中国人に成りすまし、その二重国籍をケースバイケースで使い分けてアジア各国の舞台で媚を売るという了見がよく理解できない。暗殺された劉吶鷗との関係も曖昧だし、日本軍の満州&中国侵略のお先棒を担ぎ、時の政治権力に好きなように利用され、そのことにも無自覚に、ただ時流に流され続けた愚かな芸能人なのではないだろうか?

それに比べると、私は劉吶鷗のほうによほど親しみが持てる。台湾人でありながら日本国籍を強要され、民族の二重性に引き裂かれつつも、“イデオロギーとは無関係な自由な映画作り”にあこがれ、おのが才覚を存分に発揮しながら群雄割拠する中国各地を泳ぎ回っているうちに、結果的に日本軍の映画政策に取り込まれ、それが彼の若すぎた死を招いた。

当時同じ「漢奸」の汚名を着せられたヒーローとヒロインだったが、一方は無残に殺され、他方は故国に生還して“赤い絨毯”を踏んだりしている。もしも二人の間に燃えさかる恋があったと仮定すれば、山口淑子は著者の問いかけに無関心でいられるわけがない。 

しかし私はなぜかこの公開質問に対して永遠のヒロインは永遠に回答を留保するような気がしてならない。そしてそのことを著者はどうやら予期しているようでもある。

なぜならもしも本気で彼女の回答が欲しいのであれば、著者は万難を排して彼女に直撃インタビューを敢行しただろうし、それがドキュメンタリー作家の常道というものだ。
そしてインタビューが成就してもしなくとも、著者はその結果を読者に報告して本書の執筆を終えたはずである。

それをせずになんと本書の「あとがき」の文中において、彼女からの返答期し難い宙ぶらりんの質問状を挿入したところに、私は著者の微妙な心意を忖度したいのである。
同じ「あとがき」ではしなくも洩らしているように、著者は別に劉吶鷗と李香蘭の真実を究明するためにこの本を書いたのではない。

「私は台南で生まれた。歳を重ねるに従って故郷に強く惹かれる自分を意識する。できることなら台南で暮らしたい、と思う。劉吶鷗は上海で仕事に明け暮れながら、あの南島に帰りたいとの思いを心の底に抱いていた。亡くなったとき、彼はまだ三十五歳だ。生き延びたとしたら彼はどこで何をしたのかと、思わずにはいられない」

この短い文章を眼にしたとき、私はまだ見ぬ南の島を吹く一陣の爽風を心の中に感じた。著者の望郷の思いが、『李香蘭の恋人』という侯孝賢の『悲情城市』を思わせる透き通った叙事詩を書かせたのである。