Saturday, April 30, 2011

ジョン・ギラーミン監督の「ナイル殺人事件」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.120

 名探偵ポアロがナイル川に浮かぶ豪華客船で起こった連続殺人事件を、私にはどうもいまいちよく分からない独特の推理とロジックで解き明かすお話ですが、まあそんなことはどうでもよくて、これは大スタア特別出演による風光明媚なエジプトの観光旅行映画というところでしょうか。

 ピーター・ユスチノフ扮するポアロは、僚友デヴィッド・ニーヴンと協力してベティ・デイビス、ミア・ファーロー、ジェーン・バーキン、ロイス・チャイルド、ジージョジ・ケネディなどいずれも一癖ある怪しい面々の内偵を進めますが、今回はなんと3名の女性の殺害を許したところで遅まきながらの謎解き登板となるのです。

 いずれにしても同じアガサ・クリスティ原作の「オリエント急行殺人事件」に比べるとそうとう作品の出来栄えが落ちるのが残念です。なおわが偏愛のジェーン・バーキンが、英国人の癖にガンスブールの仏語の洗礼を受けた奇妙なアクセントの英語を喋っていますが、彼女はこの映画の中ではフランス人の女中役なので、わざとそうしているのだと思います。

          連休やB級映画の愉楽かな 茫洋

Friday, April 29, 2011

西暦2011年卯月 茫洋狂歌三昧

♪ある晴れた日に 第90回


一匹の大蛇の上の花見かな

この桜見せてあげたし二万人

非国民と言われし人の花見かな

わが庵に咲くやこの花オオシマザクラ

上野にて桜咲く日に母逝きたり

憂いつつタンポポの道を歩みたり

気前よくCD買うのも国のため

四月馬鹿慎太郎も馬鹿都民も馬鹿

人間はカッコつけたら終わりです

        *

四月は残酷な季節

朝はコーヒーとトースト、昼は「笑っていいとも」を見ながら生協の関西風キツネうどん、夜は肉じゃがとご飯とみそ汁とデザートにイチゴを食べて、寅さんの映画を一本見てからお風呂に入り、「いろいろあったけど、今日もなんとか一日終わったね」などと言いながら、親子三人枕を並べて朝の七時までぐっすり寝ていたかったという声も確かに聞こえた。

私には今日もいろいろあってそれなりに楽しかったが、そのいろいろが突然無くなる日が誰にも訪れると改めて知った。

しかし波一つない海岸には大きく傾いた一本の松の木だけがしきりにそよいでいるだけ。神の不在は、いつまでも続くのであるか。やはりこの世には神も仏もないのであろう。

四月は残酷な季節。太陽が宙天に達した頃、カワナゴの大群が少女たちの黒髪の林を潜り抜けていく。

        *

どの指導者もこんなもんだよ俺たちのその薄っぺらさにちょうど見合って

一票を投じた党の無様さは我等自身の無様さでもある

声高に時の政府をなじる人君ならもっとうまくやるだろ

あほばかは東京都に最も多しまたぞろあほばか都知事を担ごうとする

「慎太郎」ではなく「錆びたナイフ」と書け東京都民よ

なにゆえにあのげじげじむしにいれあげるとうきょうとみんのあんぐはてなし

わが講義欠席にして帰国する留学子女に語る言葉なし

脳味噌いっぱい花が咲くオレンジスイカバナナ咲く

きことわとはきこちゃんととわちゃんがとわにあいしあうはなしです

銀行に勤めておりしこの私利子を間違えうろたえる夢

闘牛に突き殺されし夢見たりビゼーの「カルメン」を聴きし夜

モーツアルトはパン、バッハはごはん、ベートーヴェンは肉、サティはワサビ

サティって何者なんやよお分からんわとぶつぶつ言いながら弾いてるからこーゆ録音になるんじゃチッコリーニ 

死地に乗りゆくあほばか兄弟てんで恰好よく死にたいな

聖地につき犬の散歩禁ずという霊園糞が嫌なだけなのに噴

天も照覧カズ一撃みちのくに届けダンスダンスダンス

イナックスの修理の人が掻き出す耕君が捨てし硬貨の数々

小説なんかより思想書を読むんだと言うておりし先輩東京高裁長官となりき



平尾由希仙台に去りて四月尽 茫洋

メットのエド・デ・ワールト指揮「ばらの騎士」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第194夜

2010年1月19日にメトロポリタンオペラで上演されたシュトラウスの代表作をビデオで視聴しましたが、あまり景気のいい話は書けそうにありません。というものこのオランダの指揮者の音楽がリヒアルト・シュトラウスをまったく自家薬籠中に収めていないからです。

彼は長くオランダのロッテルダムのオケを率いていたベテランで、ワーグナーなどはなかなか聴きごたえのする音楽をやるのですが、終始平板な劇伴を垂れ流すのみでありました。

演出はナサニエル・メリルという聞いたこともない人ですがこのオペラハウスの巨大な空間の処理を持てあまして凡庸の極致ですし、侯爵夫人がルネ・フレミング、オクタビアンがスーザン・グレイアム、ゾフィーがクリスティーネ・シェーファー、男爵がクリティン・ジグムンドソンという布陣は、当代の歌手の水準としては上等の部類に属するのでしょうが、往年のシュワルツコップやルチア・ポップなどの歌声が焼きついた耳にとっては格別の感慨はさらさらなく、この程度の優等生的な節回しにブラボーの声を惜しまない当夜の観衆のおそまつさに呆れかえったことでした。

唯一の救いは当日のインタビュアーにプラシド・ドミンゴが登場したくらい。先だって見物した同じ劇場の「カルメン」が抜群の出来栄えだっただけに、残念無念の3時間となってしまいました。こんなことなら高橋源一郎でも読んでいたほうがよかったな。


闘牛に突き殺されし夢見たりビゼーの「カルメン」を聴きし夜 茫洋

Wednesday, April 27, 2011

ホロビッツ爺の「独グラモフォン全集」7枚組を聴いて

♪音楽千夜一夜 第193夜


春って曙なら、ホロビッツって、顔も演奏も古狸だと思う。

ここにはその古狸がソニーから移籍して晩年に入れた7枚のCDが収められているが、どれもこれも不作為という名の作為に満ち満ちており、それが嫌になるとしばらく離れていたくもなるのだが、最近のピアニストのCDの作為がもっとあざといと気がつくと、またまた手に取ってしまうのです。

例えばカルロ・マリア・ジュリーニ&スカラ座と入れたモーツアルトのk488はまあ普通の出来だが、同時に収録されたk333は生気溌剌としている。この時の映像を見ると、古狸は「オケなんかうざったい。ソナタのほうがよっぽどいい」などと温厚なジュリーニに失礼なセリフをほざいて、収録寸前までk333をつまびいているのだが、その演奏のあざやかなこと。本番のテークよりもそっちのほうがよほどチャーミングで、そんなことはここに収められた「ホロビッツ・アット・ホーム」のビデオ収録の時も散見された。

同じライブでもかしこまった世紀録音ではなくて、ざっかけない試技の指のすさびに天才の霊感がほとばしる。モスクワでの一期一会のライブでシューマンのトロイメライを弾いたときに目をしばたたく中年の聴衆に感動した私だったが、映像なしの録音ではさほどの演奏とは思えなかった。かように音楽鑑賞には目が邪魔になることもある。


聖地につき犬の散歩禁ずという霊園糞が嫌なだけなのに噴 茫洋

クララ・ハスキルの「デッカ・エディション」全11枚組を聴いて

♪音楽千夜一夜 第192夜

心が乱れて落ち着きを失いそうになった日にはクララ・ハスキルのモーツアルトを聴くと、かなり効き目があるから不思議だ。そこには慌てず急がず、ゆっくりと己の信ずる道を歩んでいくおばあさん、酸いも甘いも嚙分けた媼の熟成の音が奏でられている。

若き血がたぎる青春の音楽はそこにはない。人生の黄昏の音楽、あるいはもはやその人は黄泉の国でみまかっていて、死から次の生への途次である中有に向かいながら二短調協奏曲のアレグロを弾いているのかも知れない。そんな音楽。

この選集にはモーツアルトのk271や466、491、459、488、595などのピアノ協奏曲がマルケビッチ、フリッチャイ、バウムガルトナー、スボボダなどの指揮で収められているが、録音の時期やオケの精度の違いはあっても、彼女の演奏の解釈はまったく変わることなく、この世の果ての中有の音楽を孤吟している。

同じモーツアルトのグリュミオーと入れた6つのヴァイオリンソナタも枯淡と優婉のあわいに絶望と希望が点滅するような演奏で、絶品というよりほかにない。そのほか彼女がかつてフィリプスに入れたシュウマン、シューベルト、スカルラッテイ、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全集も楽しめるベスト盤といえるでしょう。


モーツアルトはパン、バッハはごはん、ベートーヴェンは肉、サティはワサビ 茫洋

Tuesday, April 26, 2011

ダグラス・サーク監督の「翼に賭ける命」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.119

ウイリアム・フォークナーの原作だというので期待して見た1957年製作のハリウッド映画でしたが、出来はいまいち、今二、今三ということでさっぱりでした。

主演はお馴染み大根ロック・ハドソン。新聞記者に扮して第一次大戦の撃墜王ロバート・スックに近づくがお目当ては彼の妻のドロシー・マローン。この三角関係を軸にしがない曲芸飛行士の愛と哀しみの人情ドラマが繰り広げられていくが、役者も演技もドラマにも深みがないので、読んだこともないがフォークナーの原作にまでけちをつけたくなる超B級の飛行機映画野郎譚でありました。

事故を起こしたパイロットが群衆が群れる場所を避けて海上に墜落死するという感動のラストは、むかし実際に静岡県で起こった米軍パイロットの英雄的な最期を思い出させてくれました。彼は市街地を避けて河川に降下して亡くなったわけですが。

銀行に勤めておりしこの私利子を間違えうろたえる夢 茫洋

Monday, April 25, 2011

「田村隆一全集」第3巻を読んで

照る日曇る日 第426回&ある晴れた日に第89回


深い海の底で、もう一度桜を見たいねという声がした。

朝はコーヒーとトースト、昼は「笑っていいとも」を見ながら生協の関西風キツネうどん、夜は肉じゃがとご飯とみそ汁とデザートにイチゴを食べて、の寅さんの映画を一本見てからお風呂に入り、「いろいろあったけど、今日もなんとか一日終わったね」などと言いながら、親子三人枕を並べて朝の七時までぐっすり寝ていたかったという声も確かに聞こえた。

私には今日もいろいろあってそれなりに楽しかったが、そのいろいろが突然無くなる日が誰にも訪れると改めて知った。

しかし波一つない海岸には大きく傾いた一本の松の木だけがしきりにそよいでいるだけ。神の不在は、いつまでも続くのであるか。やはりこの世には神も仏もないのであろう。

四月は残酷な季節。太陽が宙天に達した頃、カワナゴの大群が少女たちの黒髪の林を潜り抜けていく。


憂いつつタンポポの道歩みたり 茫洋

Saturday, April 23, 2011

新国立美術館で「シュルレアリスム展」を見て


茫洋物見遊山記第55

パリ・ポンピドゥセンターに腐るほど在庫しているシュールリアリズム、ではなくてシュルレアリスム関連の絵画やドローイングや参考資料などがずらずら並んでいましたが、一等面白かったのはパリ・フォンテーヌ街にあったアンドレ・ブルトン邸のアトリエを撮影したヴィデオでした。

ここにはアジア、アフリカ、イスラムなど古今東西の美術品や骨とう品が所狭しと並べられ、しかもそれらの11点が展覧会の作品を超越するような無類の面白さで、この元祖シュルレアリストの眼力の凄さを雄弁に物語っています。ブルトンの如き既存の文明の価値観に属されない無垢の眼の持ち主であったればこそ、超現実主義なる独創的な美学を編み出すことができたということが如実にわかる映像でしたが、きけばこの貴重な世界文化財を2003年にオークションで解体してしまったとはなんと無法な振る舞いでしょう。馬鹿に付ける薬がないとはこのことです。

2番目の見ものは、ダリが脚本協力をしたルイス・ブニュエルの古典的名作「アンダルシアの犬」と「黄金時代」の映画上映です。冒頭で女性の眼球が剃刀で切断される前者の衝撃は制作されて83年後の今日もなお失せてはいませんし、ワーグナーのトリスタンとイゾルデの伴奏に乗って繰り広げられる「黄金時代」の抜粋は、たった5分間とはいえ当時右翼が爆弾を投げつけた理由が分かるような気がするキッチュな作品です。

肝心の本展の作品では、私の大好きなイヴ・タンギーを筆頭に、ミロ、マグリット、キリコ、ダリ、数は少ないですがピカビアとデルボーが展示されており、シュルレアリスムなどと粋がってはいても、後期印象派の明後日に描かれたことが明々白々なコレクションなのでした。

小説なんかより思想書を読むんだと言うておりし先輩東京高裁長官になりき 茫洋


Friday, April 22, 2011

ジョン・マッデン監督の「恋におちたシェークスピア」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.118

監督や主演俳優についてはヒロインのバルトロウの乳房の尖り方が美しいという以外に格別言うべきことはないが、「未来世紀ブラジル」や「太陽の帝国」の脚本を書いたトム・ストッパードの卓抜な思いつきがことのほか素晴らしい。

シェークスピアの「ハムレット」に拠る戯曲も書いている彼は、本作ではわが偏愛の奇書「ソネット集」をひとひねりして、若き日の沙翁の恋愛譚をこしらえた。

沙翁の「ソネット集」は謎の美貌の青年貴族とこれまた謎の「ダークレディ」への愛を描いているが、ストッパードはこの映画のヒロイン、ヴァイオラを男装させることによって、沙翁の両性愛、バイセクシュアリティをビジュアライズしようとしている。

すなわち、あのオスカーワイルドが着目した「ソネット20番」の、

姿かたちは男だがすべてのかたちをうちに従えている。

だからその姿が男の眼をうばい、女の魂をまよわせる。(高松雄一訳)

の艶姿に翻弄される沙翁を描こうとしたわけだが、それにしてはバルトロウも、ましてやジョセフ・ファインズも明らかに役(者)不足で、この優れたシナリオでの再映像化を望むこと切なるものがある。

しかしながら、沙翁の恋が「ロミオとジュリエット」の戯曲&上演と同時並行で生き生きと進行していくことや、ロミオ上演の成功が同時に2人の現世の恋の終わりであり、それを次作の「十二夜」のプロットへと接ぎ木していく脚本家のアイデアはこれまた秀逸で、沙翁への永遠の愛を胸に秘めたヒロインが、未踏の荒野に歩み去るラストシーンは、ほとんど感動的でさえある。

一票を投じた党の無様さは我等自身の無様さでもある 茫洋

Thursday, April 21, 2011

シュテンファン・ルツオヴィスキー監督の「ヒトラーの贋札」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.117


第2次大戦中に強制収容所のユダヤ人たちが動員されて大量のポンド紙幣を捏造する話。まさかと思ったが、実話でこの映画にも登場する印刷工の手記が原作になっている。

この原作者はもう少しでドルに成功するところだった偽札作りをサボタージュすることによってヒトラー一味に抵抗し続けるのだが、映画も観客もそんな政治的レジスタンスなんかどこ吹く風で、いつのまにか贋札製作チームに陰で声援を送っている感じになってしまうのは妙な気分だ。

なんでも1億3200万ポンドの精巧無比な偽札を作ったそうだが、それで英国政府がどれだけ打撃をこうむったかといえば、あんまり関係ないだろうな。それでもこういう映画やジッドや島田雅彦の小説などが相も変わらずつくられるのは、おそらく人間は誰しも偽札を作って蕩尽してみたいという欲望が心の底にあるからに違いない。

一夜のカジノで巨萬の偽札を失いながら、「また作るさ」と豪語する主人公が、うらやましくなってしまった。


声高に時の政府をなじる人きっと君ならうまくやるだろ 茫洋

Wednesday, April 20, 2011

メトの「カルメン」新演出ビデオを視聴して

♪音楽千夜一夜 第191夜

2010年1月16日にNYのメトロポリタンオペラで上演されたビゼーの「カルメン」のライヴを視聴しました。

まず表題役のエリーナ・ガランチャの演技と歌唱が素晴らしい。2幕では盗族仲間と見事なダンスまで踊ってのけますが、舞台で棒立ちになったままの日本人も少しはツメの垢でも飲んでください。

そしてもはや押しも押されぬ実力派になったドンホセ役のロベルトー・アラーニャが力づよい歌唱を聴かせ、ファム・ファタールへの恋の怨念を最後まで貫き通します。

この2人の主役に第3の軸として堂々と張りあうのがバルバラ・フラットリのミカエラです。とかく「カルメン」ではこのドンホセの恋人役の存在がないがしろにされて三角関係のドラマツルギーに緊張が欠けるケースが見受けられるですが、演出のリチャード・エアはこの弱点をしっかりカバーしています。

開幕の3時間前に代役を命じられたニュージーランド出身の元会計士テディ・タフ・ローズもそつのないタフな歌唱を展開し、新人指揮者のゼニック・ネガ・セガーも若者らしい情熱的な劇伴で盛り上げ、終始高水準のパフォーマンスが繰り広げられていました。

もっとも大きな感銘を与えられたのは4幕最後の演出で、凶刃に倒れたカルメンの右手にドンホセが指輪をはめている舞台がぐるりと回ると、そこはなんと闘牛場。オペラはいままさにエスカミリヨが巨大な牛を仕留めた興奮と大歓声のなかで幕を閉じるのです。

少年少女合唱団の起用といい、このオペラの読み変えを迫る前代未聞の演出といい、リチャード・エア恐るべし。いつも音楽鑑賞を妨害するあほばか演出に不平たらたらのこの私も今回ばかりは完全に脱帽です。



どの指導者もこんなもんだよ俺たちのその薄っぺらさにちょうど見合って 茫洋

Tuesday, April 19, 2011

佐々木恵介著「天皇の歴史03天皇と摂政・関白」を読んで

照る日曇る日 第425回


本巻では9世紀半ばの文徳天皇から11世紀半ばの後冷泉天皇までのおよそ200年間の摂関政治の時代を取り扱っているがなかなか面白かった。

ひとつは「望月のかけたることも無しと思へば」と歌った藤原道長も結構苦労を重ねていることで、次兄道兼の突然の伝染病死や長兄道隆の子伊周、隆家の失脚がなければ寛仁2年に栄華の頂点にまで上り詰めることも不可能であっただろうし、「一家三后」の空前絶後の快挙も、愛娘彰子付きの女房、紫式部が「源氏物語」を書くこともなかったであろう。しかし道長と三条天皇との確執は相当深刻だったようで、それは三条を激怒させるほど強引な画策を行ったからである。

望月の歌が詠まれたのは一六夜で、本歌は能天気な自己賛美ではなく、むしろ栄華の儚さを謳っているという指摘も、げにさもありなんと思われた。

もう一つは天皇と穢れの問題で、後一条以降、天皇は観念上は在位中は死去しない「不死の存在」となり、内裏は、国境の外部の穢れに満ち満ちた異界とは対極にある「浄」の中心となって(宇多天皇などは御簾越しに「蕃人」と対面する)、平安朝から神国思想が誕生したという指摘である。

三つ目は、この時代の怨霊の祟りの猛威で、著者は醍醐天皇を呪い殺したのは菅原道真であり、藤原道長が地獄の三丁目に突き落とされなかったのは追放した政治的ライバルの伊周や隆家の配流を一年にとどめて京に戻したり、自分が強要して皇太子を辞任させた敦明親王に対して太上天皇並みの待遇を与え、自分の娘寛子を納れたからだ、と半ば信じている気配があるのはまことに微笑ましく、これまたさもありなんと思われた。

この時代にはもはや誰が天皇になっても、摂関や蔵人所や検非違使が天皇の機能を代行できる体制が確立されたと説く著者は、それでは天皇独自の存在意義は何かと最後に自問して、大嘗祭、新嘗祭、神今食における神との共食儀礼と「神器」の保持継承であると自答し、昭和天皇は、それなくして国体が護持できない「三種の神器」の保全のためにポツダム宣言を受諾した(「昭和天皇独白録」)、と指摘している。

これを私流に換言すれば、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」と同じように、「三種の神器」を所有している者が支配者になれる訳だから、われら忠良なる臣民どもが、皇統の後継者についてとやかく詮議立てをする必要は毫もなさそうである。


わが庵に咲くやこの花オオシマザクラ 茫洋

サンソン・フランソワEMI全集全36枚組を聴いて

♪音楽千夜一夜 第190夜

フランソワなどというても10人が8人は知らないだろうが、それでよいのである。1924年に生まれ1970年に卒然として逝ったこのドイツで育ったフランス人の飲んだくれピアノを聴けば、やれホロビッツ、やれポリーニ、やれアルゲリッチ、やれリヒテル、ほうやれほ、なぞと騒いでいる人の健全な音楽観が攪乱されるだろうから。

この人のドビュッシーやラベル、とりわけシューマンが深い詩想を湛えていることはどんな小品のたった6小節を聴いても分かるが、驚くべきことはあれほど軽薄なショパンの音楽、自慰してたった1分で精髄を放出して果てるあの西洋俳句のような痙攣音楽が、なんとも偉大な大芸術として現前することである。

あれあれ、私としたことが大変尾籠な比喩で失礼しました。別の紋切り型で換言すれば、超二流の音楽家の哀しさを慈しみと共感をもって演奏することができる世にも不思議なたった二人のピアニストの一人、それがフランソワなのである。

 練習大嫌いでミスタッチは水の中の水素より多く、気分屋で、いい加減でノンシャランのように見えて比類なく繊細で、誠実で、直情的で、霊感に富み、音楽の最も大切な部分に最短距離で到達する技術、つまりは天才をこのピアノの詩人は生まれながらにして持っていた。指揮者で言えばクナパーツブッシュかクレンペラーにちょいと似ているのかもしれない。


ポリーニやアルゲリッチのショパンの中にギンギラギンにさりげなく存在しているのはえげつないポリーニやアルゲリッチだけで、純正ショパンはひとかけらもないのだが、コルトーとフランソワの演奏の中には2流の芸術家ショパンの哀しさだけが明滅していて、それで私たちは不覚にもおいおい泣かされるのである。


わが講義欠席にして帰国する留学子女に告げることなし 茫洋

Sunday, April 17, 2011

ロイヤル・フィルの「グレート・クラシカル・マスターワークス」全30枚組を聴いて

♪音楽千夜一夜 第189夜 新宿や渋谷や池袋の駅構内のワゴンセールの目玉商品として1枚250円で叩き売られていたのがこのCDですが、このたび1枚102円という爆発的廉価で全国発売されることになりました。 すでに「パート2」の30枚組もどかどかネット販売されていますが、この第1集の目玉は、今は亡き名人チャールズ・マッケラスが指揮したベルリオーズの「幻想交響曲」やリヒアルト・シュトラウスの「ツアンラストラかく語りき」、ドボルザークの「新世界」、シベリウスの第2番交響曲とフィンランディア、ショスターコヴィッチの5番シンフォニーでしょう。 この人のモーツアルトは交響曲もオペラもすべて絶品ですが、その他のレパートリーを演奏してもやはり並々ならぬ水準の音楽を聞かせてくれます。 あとはバイオリニストとしては(アイザック・スターンと同様)音程が甘く、どうにも感心できなかったユーディ・メニューインが指揮するエルガーのエニグマ変奏曲集がお奨め。晩年指揮者に転向してから録音した彼のシューベルトやベートーヴェンの交響曲全集などはじつに見事なもので、同じくバイオリニストから転身したシャンドール・ヴェーグと好一対、さらに言えば、ピアニストから転身したアシュケナージやエッシェンバッハ輩とは「悪一対」をなしています。 非国民と言われし人の花見かな 茫洋

吉川真司著「天皇の歴史02聖武天皇と仏都平城京」を読んで


照る日曇る日 第424回

いったん天智から天武に移行した王権が、文武、聖武、幸謙・称徳を経て光仁からその子桓武天皇に移った時点で、平城京は7大寺を拠点とする仏都に転化せしめられ、政治経済の拠点は長岡京を経て平安京に定着することになりました。

本書はさらに桓武以降の皇位が、平城、嵯峨、淳和、仁明に継承され、王権政治が崩壊して律令体制を基盤とする摂関政治へと転換されていくさまを分かりやすく記述しています。

私が特に興味深く読んだのは、平安京を開いた桓武天皇の事績です。自己の権威付けのために父方の天智系皇統を称揚した桓武は、今度は当時、「蕃人」視されていた百済系渡来氏族の出身である母方のイメージアップに取りかかります。

亡き母親和新笠に皇太后のおくりなを与え、交野を本拠とする百済一族に対して叙位を行い、「百済王らは朕の外戚なり」と宣言した桓武こそは、今も昔も本邦に根強く存在する朝鮮民族に対する故なき差別意識に対する史上はじめての公的挑戦者だったのではないでしょうか。

もっとも弥生時代に朝鮮半島から大量に移住してきた弥生人のDNAが私たち現日本人の血肉にどっぷり内蔵されていることを思えば、天皇桓武の賤民意識脱却の国策キャンペーンなど、はなから無意味であったわけですが。

この桜見せてあげたし二万人 茫洋

Saturday, April 16, 2011

ノーマン・ジュイソン監督の「アメリカ上陸作戦」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.116 1966年に製作された「ロシア人がやって来た」という原題の所謂ひとつの爆笑コメディです。 1966年という年はベトナム戦争開始の翌年でありいわば冷戦の真っただ中なのに、米ソ両国の政治的対立ではなく、両国民の等身大の生身の接触を面白おかしく、恐ろしく、余裕を持って描いたこの監督の知性と勇気は称賛に値します。 冒頭、アメリカのさびれた海岸で突然座礁してしまったソ連の潜水艦の艦長のキャラがもう完全な漫画で、これを引っ張る大きなボートを求めて部下たちが上陸し、小さな町の住民たちと無数のトラブルを引き起こすところからこの映画はスタートします。 そしてその次の瞬間から繰り広げられるのは、突如出現した黒船と敵国人によってもたらされた抱腹絶倒の誤解と妄想、誰しも身に覚えのある異貌の他者への敵意と殺意、一蝕即発の戦争への狂気、そしてそれらを否定的な媒介として自然発生的に生まれてきた温かで人間らしい感情と恋愛!、さらには人類の恒久平和へのほのかな希望と小さな連帯の赤襷等々……。 この芸達者な監督は、戦争と平和のカレードスコープを、これでもか、これでもかのてんこもりの大サービスで見せつけてくれるのです。  上野にて桜咲く日に母逝きたり 茫洋

Friday, April 15, 2011

ダグラス・サーク監督の「心のともしび」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.115 いかれぽんちの大金持ちの青年(ロック・ハドソン)が、水上スキーで暴走・転覆して死にかけるが心臓に持病を持つ慈悲深い医師備え付けの救命呼吸器のお陰で九死に一生を得る。 ところがまさにその同じ時間に、医師は心臓発作を起こして急死してしまう。その大事な機器を警察に貸し出していたために、多くの人をひそかに救済してきた希代の善人が死に、どうしようもないあほばかチンピラが生き残ったわけです。 さすがに慙愧に堪えない青年は、医師の妻(ジェーン・ワイマン)に詫びようと、大金を渡そうとするが当然無視され、それでも執拗に付きまとっているうちにこのあほばか男のせいで妻は交通事故に遭い、あろうことか失明してしまう。 役者もシナリオも、音楽もかなりお粗末な悪条件をものともせず、の最悪、最低の地点から、おもむろに愛と感動の物語を編みあげるのが名匠ダグラス・サークの力技をとくと堪能あれ。しかし翌1955年にも同じ2人の主演で似たような「天はすべて許し給う」を撮っているのは2匹目のドジョウを狙ったのでしょう。 ジェーン・ワイマンはロナルド・レーガン元大統領の最初の妻ですが、私が昔勤めていた会社にいた戸田さんにそっくりで、とても懐かしかった。いわばハリウッドの望月優子といったところでしょうか。 一匹の大蛇の上に桜咲く 茫洋

Thursday, April 14, 2011

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮の「ブラームス選集」を聴く

♪音楽千夜一夜 第188夜

1960年代のブラームスの録音を集大成したEMIの超廉価盤CD5枚組です。

この洒脱なイタリアの指揮者は、1978年からロサンジェルスフィルの常任になって超スローテンポのベートーヴェンの交響曲やヴェルディの「ファルスタッフ」を世に送り、その晩年にはシカゴ、ベルリン、ウイーン、スカラ座の名門オケを振ってマーラーやドボルザーク、ブルックナーの第9交響曲を録音してから91歳で亡くなりました。

 世間ではこれら最晩年の演奏を高く評価しているようですが、だからというて初期や中期の音楽が駄目なわけでは毛頭なく、そのことはここに収められたブラームスの4つの交響曲やクラウディオ・アラウと入れた2つのピアノ協奏曲が持つ軽快なテンポと表情豊かなカンタービレを耳にすれば一聴瞭然でしょう。マエストロと英国のフィルハーモニア管弦楽団との相性の良さは、例えばモーツアルトの「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」を聴いた人ならよくご存知のはずです。

 そうしてジュリーニの特徴である、あの高いインテリジェンスと胸底深く秘めたアレグロ・コンブリオ魂は、同じ北イタリア出身のクラウディオ・アバドに引き継がれているのではないでしょうか。



   気前よくCD買うのも国のため 茫洋

Wednesday, April 13, 2011

仏エラート・クラシック「理想の大全集」全100枚を聴いて

♪音楽千夜一夜 第187夜 バッハからベートーヴェン、ショパン、ヘンデル、モーツアルト、ラベル、ヴィヴァルディ、ワーグナーまで主にエラート・レーベルの忘れられた名盤、銘盤を収めた1枚100円を切った豪華超廉価100枚組CDです。 私が大好きなモーツアルトでは、あら懐かしやパイヤール指揮室内管弦楽団のバックでランパルとラスキーヌが共演しているフルートとハープのための協奏曲や、ランスロとパイヤールによるクラリネット協奏曲、マリア・ピレシュとグシュルバウー&リスボンのオケによるピアノ協奏曲、そしてアルミン・ヨルダンとルツエルンのオケによる3大交響曲です。 極めつけはミシェル・コルボとリスボンの名コンビによるレクイエムの静謐でけがれた精神を洗われるような厳粛な演奏で、これはカール・ベームとウイーンフィルの名演と並ぶわたしのフェイヴァリトCDです。 わが偏愛のスカルラッテイのピアノソナタを恥ずかしそうに弾いているアン・ケフェレックのちょっと小粋な演奏も捨てがたい風情があって、こういう録音を出してくれるエラートがなくなってしまったのはじつに勿体ないことでした。 四月馬鹿東京も馬鹿お前も馬鹿 茫洋

Monday, April 11, 2011

大津透著「天皇の歴史01神話から歴史へ」を読んで

照る日曇る日 第424回 歴史上実在したと確認できる本邦最初の大王はワカタケルであり、この人物が「記紀」の伝える雄略天皇であることは教科書なんかにも書かれている。 しかしワカタケルのような、かつて大王と呼ばれた統治者が、その前代の卑弥呼や倭の五王などを含めて、いつ、どのような経緯と因果の関係で今日「天皇」と称されるような存在に転身していったのかについては諸説芬芬としている。 本書では天皇号の成立を、国号「日本」成立とほぼ同時期の推古女帝の時代に求めているようだが、これだってほんとうのことかどうかは五里霧中の話なのである。 大胆な仮説の提示とその情熱的な検証のない歴史書を読んでも、まるで血を血で洗うようなもので、一向に白い骨格が浮き彫りにされないから、長らくこの方面の追究を放擲していたのだが、頭の良いインテリゲンチャンが古今の高論卓説をつぎはぎだらけにレポートしたこの本を読んでも、脳味噌いっぱいに春の花が咲き誇っている愚かな私には相変わらず神話時代の歴史なんててんでよく理解できなかったのであった。 脳味噌いっぱい花が咲くオレンジスイカバナナ咲く 茫洋

♪ある晴れた日に 第88回

なにゆえにあのげじげじむしにいれあげるとうきょうとみんのあんぐはてなし  ぼうよう

Saturday, April 09, 2011

村上春樹著「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」をざっと読んで

照る日曇る日 第423回 なるほどなあと思いつつスラスラ読めてあとにはなにも残らない1997年から2009年に行われたインンタビュー集だ。 ガス抜きのペリエを飲んだときのような晴朗さと爽快さはいかにもこの作家ならではの持ち味だが、きっと苦いオリや苦悩や後悔は本編前後左右にさらりと投げ捨てられたに違いない。 しかし例えば「短編は三日間で書かねばならぬ」とか、「長編小説を書こうとする者はエッセイを書いてはならない」とか「締め切りに追われて書いてはいけない」などというセリフは、さすが実作者ならではの正鵠を射ぬいた発言と思えた。 折々の真情が卒直に語られていて好感が持てる本だが、このようにきざでこっぱずかしいタイトルをつけて恬として顧みないところに、この作家の隠された盲点があるのだろう。されど真心が籠った「あとがき」には泣かされます。 人間はカッコつけたら終わりです 茫洋

朝吹真理子著「きことわ」を読んで

照る日曇る日 第422回 せんだってこの著者の「流跡」という小説、のような女学生の駄作文を読まされて酷評した私でしたが、これはなかなかの佳作だと思いました。 まずタイトルがよろしい。ずーっと「きことわ」という奇妙な言葉と語感が妙に気になって仕方がなかった。キノコの名前かなあ、あんまり有名では古語かしら、と色々想像をたくましゅうしている間に、見事に著者の策謀の罠にとらえられてしまってわたくしは、これあるがゆえに芥川賞を貰えたんだなあ、とはたと思い当たったのでした。 じつはこれはなんとまあ「貴子さんと永遠子さん」というふたりの女性の仲良しこよしの物語なのでして、まあぺこちゃんとぽこちゃんが葉山の別荘で黒髪をわかちがたく結び合わせて眠っているありさまを、「ぺこぽこ」と呼称するに似たようなネーミングなのでした。 それは軽い冗談だとしても、この小説では緑深い海辺の別荘を舞台に少女時代の「きことわ」、そして成人してからの「きことわ」が懐かしい日々をしのび、今と昔が数珠つながりになっているように感じられるその数珠を、かったみにひとつずつまさぐるようにして確かめていく。その瞬間に呼び覚まされる幻視の切なさと鮮やかさを、散文でありながら詩語のような馨と味わいで紡いでいく名人芸に大方の選者は驚嘆したのでしょう。 こんなに若い著者なのに、まるで幸田文か宇野千代のような老成の目を備え、大人の女の機微に鋭く光らせているようです。 きことわとはきこちゃんととわちゃんがとわにあいしあうはなしです ぼうよう

Thursday, April 07, 2011

フルトヴェングラーの「ワーグナーリング全曲RAI盤」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第186夜 1953年秋、ローマで当地のRAI交響楽団を指揮してアウディトリオ・デル・フォーロ・イタリーコで行われたコンサートのライヴ録音をEMI盤ではじめて耳にして感銘を受けた。 ワーグナーのリング全曲の演奏では定評あるショルティ&ウイーンフィルやクナパーツブッシュとバイロイト祝祭管をはじめ幾多の名盤が目白押しだが、私が好きなのはカール・ベームとバイロイトの名コンビによる1973年のライヴ録音で、聴けば聴くほどこの楽劇の偉大さに頭が垂れる名演奏である。 一方こちらは、例えば終曲の「神々の黄昏」では、ジークフリートがルートヴィヒ・ズートハウス、ブリュンヒルデが、マルタ・メードル、アルベリヒがアロイス・ペルネルシュトルファー、ハーゲンがヨーゼフ・グラインドル、グートルーネにセーナ・ユリナッチといった当時のベスト・オーダーが組まれており、名匠が長時間にわたって徹底的にリハーサルでしごきぬいた揚句にライヴで録音しただけに、その完成度は折り紙つきのものだが、いまひとつの白熱と光彩あらば、と無い物ねだりしたくなる瞬間も正直言って、ある。 しかしあんまり贅沢をいわずに、演奏会形式上演ならではのバランスの良いサウンドでも有名なこの演奏を、おなじ指揮者による同じイタリアのスカラ座のオケによる1950年のシュトルムウンドドランク風劇伴と聴き比べてみるのも一興であろう。個人的には音質は別にしてキルステン・フラグスタートがブリュンヒルデを歌っている後者に私の軍配は上がるのだが。 それにしてもなんという音楽をワーグナーは書いたことよ! イナックスの修理の人が掻き出す耕君が捨てし硬貨の数々 茫洋

Wednesday, April 06, 2011

イーストウッド監督の「ペールライダー」を観て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.115 1985年製作の西部劇で、題名は新約聖書ヨハネ黙示録第6章第7節に基づいている。 すなわち、「第4の封印を解き給ひたれば第4の活物の「来たれ」と言うを聞けり。われ見しに、視よ、青ざめたる馬あり、之に乗る者の名を死といひ、陰府これに随ふ。彼らは地の四分の一を支配し、剣と飢饉と死と地の獣とをもて、人を殺すことを許されたり。」 とあるを以てこの映画のキャラクターを設定し、東森選手自らがこれを演じたのであるが、どうもバイブルのカッコよさには到底叶わなかったようだ。ただし殺し屋の東森君が「牧師」に扮しているのは面白い。 それから東森君のライヴァルはお揃いの白いコートを羽織った7人の殺し屋であるが、これは黒沢選手の「7人の侍」の裏返しのパクリで、正義の味方が悪の張本人になっている。 お約束通り悪漢どもを皆殺しにした東森君が町の彼方の高い山に向かって去っていくと、彼を母親と取り合った15歳の娘が、「牧師さーーーん! アイシテルウ……」「さよならああ、ありがとおおお……」などと絶叫するが、これはかの「シェーン」のラストシーンのパクリで、さすが東森君はいろいろ古今の文献や名作をよく研究しているようだ。 「慎太郎」ではなく「錆びたナイフ」と書け東京都民よ 茫洋

Tuesday, April 05, 2011

日経広告研究所編「基礎から学べる広告の総合講座2011」を読んで

照る日曇る日 第421回 毎年夏に、日経さんが、当代の広告専門家講師による高額会費のセミナーを開催しているのだが、年末になるとそれを要領よく1冊にまとめた本が出るので愛読している。 基礎からなどと遠慮して銘打っているが、年年激しく変化するメディアや広告コミュニケーション理論と施策の現状を、それこそ現場からのホッテスト・レポートという形で生々しく伝えてくれるので、読んで面白く、またためになる実用書として広くお勧めできる好個の専門業界ハンドブックである。 電通や博報堂、大学の偉い大先生の横文字オンパレードの能書き大演説ももちろん毎回お勉強にはなるのだが、それよりもエステーという会社でユニークなホット広告を連発している鹿毛康耳司氏のクリエイティヴ苦労話やサントリーの企業経営と広告を歴代角瓶のキャンペーンなどを事例に生々しく語った久保田和昌氏、さらに東芝の液晶テレビレグザのブランディングを紹介した松本健一郎氏など、やはり宣伝販促の現場で阿修羅のように奮戦している人たちのレポートのほうが断然面白い。 とりわけ今回私の心に刻まれたのは「企業の社会的責任」についてレクチャーした梁瀬和男氏の番外編の挿話だった。 妻を亡くした高校の元校長が、四国八十八カ所巡りを終えて高知空港の和食店で昼食を取った時のこと。ビールとカマスの姿寿司を頼んだ校長が「コップを二つ下さい」というので、どうして二つなのかと不思議に思った店員がカウンターを見やると、くだんの元校長は、亡妻の小さな写真の前の置いたコップにビールを注いで、乾杯しながらなにやら話しかけていた。それと気づいた入社三年目の店員は、出来上がった寿司を持っていくついでに、箸置きと小皿も二つずつ持っていくと、元校長は思わず涙ぐんだという。 高知新聞の記者が書いた「遺影のお客様にもサービス」という99年6月3日の記事を紹介してから梁瀬氏は、「小さな店の二十歳の女子店員でも、とっさにこれだけのことができる。これこそは究極のお客様視点ではないだろうか」と語って、彼の一時間半の講義を締めくくったのであった。 亡き妻と同行二人の旅癒す心づくしの二つの小皿 茫洋

Monday, April 04, 2011

エロール・モリス監督「フォッグ・オブ・ウオー」を観て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.115 フォードの社長就任5週間後にケネディ大統領に請われてアメリカの国防長官に就任し、ジョンソン大統領に仕えてベトナム戦争を指導し、1968年~81年まで世界銀行の総裁を務めたマクナマラのロングインタビューが2003年に映画化された。 ここでは彼が波乱の生涯から学んだ11の教訓に準じて、11のパーツがうまく編集されているのが面白い。 例えば「敵に感情移入せよ」というテーゼがあったからこそケネディはフルシチョフとの間で一触即発の危機を避けられた、とか、「戦争にもバランスが必要だ」という命題を無視したから彼の上官のルメイは1晩で10万人の東京人を虐殺した、とか、「理性は頼りにならない」からこそ冷戦中に3度核戦争の瀬戸際まで行ったが、「自己を超える何かがある」からこそ、地球滅亡を避けられたという塩梅に過去が自在に想起されるのである。 しかし彼は原爆投下や投球大空襲、北ベトナム爆撃などに対する一定の責任を認めつつも、その最終責任はつねに彼の上級管理職であるルメイやジョンソンになすりつけ、己の主体的な自己批判はいっさい回避して口を噤むあたりが、卑怯でもあり老獪でもあり、人間的であるとも映るのであるが、それにしてもインタビュアーのキャメラのレンズにまともに向き合い、正々堂々と批判に答える態度はいさぎよくて男らしさも感じる。 彼は過去に多くの失敗を犯したことを認めながら、しかしその失敗を「後知恵」で反省し、再度の失敗を防止しようと願ってこの映画に出演したのである。 マクナマラの教訓の第10番目は、Never say never。そして最後に「人間の本質は変えられない」と来てこの映像回顧録は幕を閉じるのだが、彼の提案を受け入れ、ベトナム戦争からの撤兵を受け入れた直後に暗殺されたケネディの思い出を語るとき、突然の驟雨に濡れそぼるマクナマラの真っ赤な目に、彼のJFKへの忠誠と献身を感じないわけにはいかなかった。 決して「決して」とは言うなとマクナマラ語りき 茫洋

Sunday, April 03, 2011

ルービンシュタインの「ブラームス選集」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第185夜 このソニーの1枚298円の廉価盤9枚組には2つの協奏曲をはじめソナタ、カルテットなどブラームスのピアノ曲の大半が収められており、文字通りの巨匠ルービンシュタインの名演奏をこころゆくまで享楽することができる。  ルービンシュタインはベートーヴェンもモーツアルトもシューマンもショパンでさえもみなみないいが、とりわけこのブラームスの演奏で、彼の晦渋な音譜の内奥の秘密を噛んで含めるように弾き明かしてくれる。 とりわけシェリングとのバイオリンソナタや、ピアテゴルスキーとのチエロソナタ、そしてシェリング、フルニエとのピアノトリオにおいては彼の明鏡止水のようなピアノが、鬱屈した作曲家の心にそっと寄り添うような優しい表情を湛えて鳴り響き、後の二名が心をひとつにして精妙なアンサンブルを奏でていくありさまは、思わずこれが音楽だあ、とため息がでるようで、実際に出てしまう。 ああ、なんという素晴らしいブラームスであろう。 とかくこの国では、このアメリカの名ピアニストの音楽について、かの天才ホロビッツなどと比較して一籌を輸する、なぞとほざくあほばか者が多いようだが、とんでもない。ロバの耳を底までほじってこの超廉価CDを聴いてほしいものだ。 あほばかは東京都に最も多しまたぞろあほばか都知事を担ごうとする 茫洋

Saturday, April 02, 2011

イーストウッド監督の「ミリオンダラー・ベイビー」を観て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.114 はじめは歯牙にもかけなかった31歳のボクシング大好き貧乏娘を手塩にかけて育て上げ、とうとう世界チャンピオンに手が届いたその瞬間に、予期せぬアクシデントが起きて、そこから物語はぐんぐん深まる。 しがない初老のジムオーナーとブスなちんころ姉ちゃんの凸凹コンビであったはずなのに、それが師妹の関係を超え、もっともっと深い人間と人間の絆そのものが琴瑟相和して捩じれていう有様をここまで見せつけられると、われらの涙腺もついつい胡乱に取り乱す仕儀と相なるが、こういう通俗性満載のストーリー展開がもう完全に東森監督の自家薬籠中の手なれたものになっていることに賛嘆のほかはない。 強いて揚げ足をとりにいくとすれば、いくら名うての悪役ボクサーだってプロレスではあるまいしあんな反則行為をするわけがない。しかし映画はまさにありえないその起点から離陸して寝たきりヒロインへの献身や尊厳死や安楽死をめぐる葛藤へと進展していくわけだからなおさらのことだ。私としては、ヒロインが晴れてチャンピオンになった後の2人の関係を映画にしてほしかったなあ。 「おまえは私の親愛なる者、おまえは私の血」というゲール語が全編の隠されたキーワードになっていて、最後の最後で鮮やかに終止符を打つ。見事というも愚かなり。ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマンが好演を見せている。 天も照覧カズ一撃みちのくに届けダンスダンスダンス 茫洋

Friday, April 01, 2011

チッコリーニの「サティのピアノ作品集」全5枚組を聴いて

♪音楽千夜一夜 第184夜 サティは不思議な作曲家で、モーツアルトやバッハやベートーヴェンばかり聴いていると猛烈にこの人の音楽、のよおなものを耳にしたくなるときがある。パンやご飯やそばやパスタばかりでなくてたまには山葵を口にしたくなるよおなもんだ。  Je te yeux とかsix gnossiennesとか、とかく機会音楽、機械音楽、環境音楽の元祖のように考えられているのだろおが、それはそれで当時画期的な発想であったんであり、もっと言えば旧来の音楽の和声と調性に対する方法的制覇を組織したシャンソニエーの革命的テロリストだったんだろお。にもかかわらずそいつがいかなる内容の映画やドラマのBGM音楽にもなりうる融通無碍じゅげむジュゲム振りを内蔵しているところにこの人の隔絶した個性があるんであるんで、あるん。 サティ、この選集はEMIの廉価盤だが、5枚組1683円だったから1枚336円とゆうことにあいなってかなり割安であるし、演奏は若き日のチッコリーニだから最上のバルビエとまではいかなくとも平均75点の優れた演奏で、最上と次善の違いはとゆうと、詩魂のあるのとないのんの差であるんで、あるんで、あるんだった。  5枚目の演奏だけは確信に満ち満ちたピアノの鳴りっぷりをしており、異質とゆうか、一皮抜けきったとゆうよおな特色があるが、はてそれがサティの音楽の本質に近いか遠いかは、弾いたご本人にも分からんじゃろう。 サティって何者なんやよお分からんわとぶつぶつ言いながら弾いてるからこーゆ録音になるんじゃチッコリーニ 茫洋