Sunday, May 31, 2009

鎌倉文学館の特別展「有島三兄弟」を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語第186回

鎌倉文学館の「有島三兄弟 それぞれの青春」展をのぞいてきました。

ここはいつも平日はガラガラなのですが、この日は異常な混みようです。聞けば例の新型インフルエンザで遠出できなくなった関東一円の観光客がバラ園のあるこの穴場に殺到したとのこと。あきらめて帰ろうとしたのですが、前回の鎌倉の俳人展と同様結局は見ないままで会期末を迎えることをおそれて強行突破を図ったのでした。余談ながら上野の阿修羅展の馬鹿騒ぎも、これと同じ現象ではないかとふと思った次第です。

さて例によって一階と地下の二か所で飾られている展示物はそれほど多くはありません。有島武郎、生馬、里見弴の三兄弟にまつわる写真や作品や来歴を記したボードなどが要所要所に展示されていて、これらを半時間ほどざっと見物しました。

有島家の兄弟姉妹はたしか全部で五,六人いたはずですが、この三人はいずれも学習院に学び、明治四三年一九一〇年に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄たちと雑誌「白樺」に参加、小説、評論、詩、戯曲、絵画など芸術の造詣が深かったので、「有島芸術三兄弟」と呼ばれていました。

長男の武郎は札幌農学校の教師をやめて一念発起して「カインの末裔」や「生まれ出る悩み」(うまれ「でる」ではなく、「いづる」と読みます。村上某の「列島を出よ」も正しくはこれと同様に「いでよ」と読むべきで、「れっとうをでよ」は奇怪な日本語)で一躍流行作家になりました。彼の代表作「或る女」は北鎌倉の円覚寺で書かれています。若いみそらで中央公論の女性編集者と情死してしまったのは後の太宰と同様大変惜しいことをしましたが、正妻安子との間に名優森雅之が生まれたのはせめてもの慰めでしょうか。

 日本芸術院の保守的な伝統に異を唱え、二科会を興して独自の絵画の道を切り開いたのは次男の生馬。鎌倉市が所蔵している「病児」を見ると師匠の藤島武二や私淑したセザンヌの影響を感じ取ることができます。なお稲村ケ崎にあった彼の洋館は、現在長野県に移転されて有島生馬記念館になっているそうです。

 三男の里見弴は「多情仏心」「安城家の兄弟」「善心悪心」などで知られる作家で、小津安二郎と親しく、彼の依頼で映画化を前提に「彼岸花」を書き下ろしました。鎌倉市内のあちこちを転々としたことでも有名ですが、個人的には彼らよりも弴の「極楽とんぼ」に描かれた三男の隆三に最も興味を覚えます。

それから急いでお目当ての薔薇園に向かったのですが、残念ながらすこし旬を過ぎたところ。しかし腐りはじめた花もなかなか風情があってよいものです。


♪女と薔薇はすこうし腐りかけがよろし 某洋

Saturday, May 30, 2009

西暦2009年茫洋皐月歌日記

♪ある晴れた日に 第58回


春夏秋冬人生宇宙循環す

サムライとおだてられしが異国で討ち死に

両足が伸びたるおたまを池に返す

今年また蛍光りしうれしさよ

春暗し男共皆縞縞背広

妻と子の鼾楽しも春の夜

左後ろ振りさけ見れば左肩根元に走るその痛さかな

いつのまにか遠い世界になりにけりエリック・ロメールの愛の昼下がり
 
よそながらマロニエの花咲きたり麗しきかなマロニエの花

栴檀の薄紫の花も咲きたり八幡参道二の鳥居の辺りに

岐れ道の病院の垣根に咲いている黄色い花の名前は何だろう

この頃は激減したときく雀らを見かけし朝は声をかけてやる

いろいろと死にたき理由はあるらめどこの朝ばかりは飛び込むなかれ

あんじぇらあきってなんじゃらほいあんたのおんがくよおわからん

ビーケーワン書店より鉄人28号に選ばれし恍惚と不安われにあり

ミスター・ロビンソンあなたもフライデーなしには生きられなかった

きらきらと輝く銀のうろこ見せ緑の森に消えし蛇

少女なれどすでに大人の憂いあり母を見上げる愛子さん

なにゆえに男どもみな着ておるのか電車にうごめく縞縞スーツ

男共皆縞縞背広通勤電車捕虜収容所の如し

革命の光は失せて二〇〇年いずこへ消えしや自由平等博愛

珍宝が小さきゆえに取りやめし高校時代の九州旅行

人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと豚どもいきむ

人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと鼻息荒し

善きことも悪しきこともみなつながれり豚から人へ人から人へ

太平洋の彼方から吹く豚の毒人への恨みいまこそ晴らさむ

戦争を構える理由は多々あれど止める理由はただ一つしかなし

てめえ死ねと豪速球で投げつけるチョーク当たりしはわが前歯なりき

連休の朝から楓を切っている隣の主婦を激しく憎む

青々と茂りし楓の木と枝を大刀洗川にそのまま捨てたり

朝比奈の峠の上の浦島草に小便掛けし憲法記念日

朝比奈の峠の上のウグイスが貯金貯金と鳴いていました

こんにちはと誰もが挨拶交わし合う朝比奈峠を行き来する人

虫は嫌いとおっしゃるけれど美枝子さんそれはアカタテハの幼虫ですよ

黄金の大判小判の隙間からまたしてもこぼれおちるほんたうの幸福


 ♪あじけなしバーンスタインのハイドンを聴く日曜日  茫洋

Friday, May 29, 2009

葉山「日影茶屋」と新宿「大戸屋」のランチを比較して飲食業のサービスについて考える

バガテルop100

雨の金曜日、横須賀の素晴らしい歯医者さんで定期健診をして頂いてから葉山海岸沿いに建つ日影茶屋で遅めのランチをとりました。

ここはその昔伊藤野枝さんに恋人を奪われた神近市子さんが、恋に狂って大杉栄氏を刺した現場として有名ですが、当時は現在のような料亭ではなく、日本旅館として営業していたようです。
 
私が案内されたのは新館でしたが、大杉氏が刺されたのはその隣の旧館の2階だといいます。きっと恋びと同士がよろしくやっている最中にドスを呑んだ女一匹が殴り込みをかけたのでしょう。恋などと言うとなにやら優雅に聞こえますが、恋は気狂いと病気に紙一重ですから、すぐに刃傷沙汰になってしまうのです。くわばら、くわばら。

日影茶屋には眺めの良い庭があり、品のよさ気な女の店員が大勢いますが、全員きれいな着物をまとっています。ランセットはいちばん安いのが3千5、6百円くらいの弁当なので、「ルンペンプロレタリアートには少し高いなあ」と思いつつそれを頼みました。
さすがに有名なお店らしく冷たい茶碗蒸しなど結構なお味です。四点くらいの各種お惣菜をどんどんかたづけ、そろそろ食べ終わろうかという頃に、なぜかお椀が出ていないことに気付きました。

きれいなオベベをお召しになったお嬢さんに「お吸い物はついていないの」と尋ねるとさっと顔色を変えて「大変申し訳ございません。すぐにお持ちします」と答えてから調理場に飛んで行きました。ど忘れしていたのですね。上司の女将さんもすぐにやってきて丁重に詫びるのですが、とかく食い物の恨みは恐ろしい。「お前たちはいったいどういう仕事をしているのだ、サービスをどういうものだと心得ているのだ」とせっかくの料理の味はもはやけし飛んで「後味が悪い」というのはこういうことかと思いいたった次第でした。

そこで思い出したのは、新宿スバルビル内の「大戸屋」のランチのことでした。あちらの3千何00円に比べてこちらはたったの620円。味も格式も違います。しかしここ大戸屋では、少なくとも日影茶屋のように不愉快な目に遭ったことなぞ一度もありません。

レジに寄って最初にお金を払うと、レジの担当者が、「どこでもお好きなところにお座りください」と言います。それで空いている座席を探して勝手にどこかに座っていると、すぐさま店員が水を持ってきます。(席まで案内されることもありますが)
さらにしばらく待っていると、頼んだメニューをたがえずに店員が席まで持ってきます。
どんなに混んでいてもこのやり方に破綻がない。お客の顔と席とメニューをどのようにお互いに確認しているのか不可思議です。

さらに驚くべきことは、ランチが終わりに近づいたちょうどその頃に、別の店員がお茶を持ってくるのです。最近は水だけで済ます店が多いなか、これはちょっとうれしいサービスです。味はそりゃあ一流料亭のそれではありませんが、ここの調理の基本は「普通の家庭料理」なのでいわば希少価値があります。喫煙客が猛毒を流している居酒屋や普通のレストランよりも清潔でおいしい。とくに野菜が新鮮です。

以上長々と書きましたが、名門日影茶屋の、飲食の基本が欠落している豪華ランチと安近単の大戸屋のサービスと、いったいどちらが上かは言うまでもないでしょう。それにそもそも日影茶屋の仲居さんには、大戸屋の基本動作さえ実行できないでしょう。
いつでもおいしく感じがよく、「また来よう」と素直に思えるカジュアル店と、「こんなとこ2度と来てやるものか」と思ってしまう名門店と、その星の差はあまりにも大きいと言わざるを得ません。

♪グルメなどと偉そうにほざくなかれ当り前の料理を当たり前に出せ 茫洋

Thursday, May 28, 2009

花咲地蔵と花咲爺

鎌倉ちょっと不思議な物語第185回

ここは大町の山から下りてきた一角で花を飾られた小さな地蔵尊があります。

鎌倉時代から室町中期まで、この谷に足利直冬が祖先の菩提を弔うために建立した慈恩寺がありました。その直冬の法号にちなんだ慈恩寺ですが、禅宗系の寺であるか否かはまだ識者の間で議論が続いているようですが、それはともかく、直冬が境内に四季折々の花々が絶えないようにしたためにこのあたりは現在も花ヶ谷と呼ばれています。

まことに風流なお寺もあったものです。ここは海浜にも近く、うっそうと茂った木々の間に7層の塔をのぞむ素晴らしい景観だったことでしょう。足利直冬は花咲爺でありました。

ところで直冬は足利尊氏の子ですが、側室の子であったために認知されず、僧になっていました。後に尊氏の弟、直義の養子になり、長門探題に任命されましたが、実父の尊氏と対立して挙兵し、その後は九州に逃れて南朝側の武将として室町幕府に抵抗し、嘉慶元年1387年に亡くなったと伝えられていますが詳細は詳らかではありません。

以上、おなじみの「鎌倉廃寺事典」と鎌倉ガイド協会の資料からの引用でお茶を濁しました。


春夏秋冬人生宇宙循環す 茫洋

Wednesday, May 27, 2009

「大切岸」を望む

「大切岸」を望む

鎌倉ちょっと不思議な物語第184回

法性寺のすぐ近くには逗子側に屏風のように立ちはだかっている垂直に削られた崖があり、「おおきりぎし」と呼ばれています。この崖は鎌倉の覇権を確立した北条氏が三浦半島を拠点とする三浦市の侵入を防ぐ目的で築かれた防御施設であると伝えられています。

現在ではおよそ800mほどしか残っていませんが、北東部はわたしの住んでいるところから、西南方面は住吉城跡まで続いていたといわれています。切岸と平場は2から3段のひな壇状に造られているところもあります。

崖の高さは3から5mで場所によっては10mの絶壁を構えているところもあります。今は個人の所有地(畑)となりましたが、昔の面影は十分に残っています。また切岸上の尾根道は鎌倉城外郭防衛道で鎌倉入口守備隊への物資補給路であったとか浄妙寺に通じる道であったとかいろいろいわれているようです。

ただこの大切岸は本当に防衛遺構なのかというと、それを裏ずける資料はなにもありません。防衛遺構説以前は海蝕による崖岩が隆起したものと唱えられ、現在では石切り場の跡の可能性があるとも説かれ、要するになにがなにやらよく分からないという鎌倉ちょっと不思議な場所なのです。(鎌倉ガイド協会の資料から引用)

♪サムライとおだてられしが異国で討ち死に 茫洋

Tuesday, May 26, 2009

法性寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第183回

このお寺はじつは私の家から直線距離にすればそれほど遠くありません。鎌倉逗子ハイランドの坂道を下って、横須賀線の線路にぶつかった右側に馬頭観音があり、そこが入口になっているのです。ところがこの日は海側からではなく、山側の名越切通から尾根伝いに接近したものでから、すっかり土地勘が狂ってしまいました。

以下例によって鎌倉ガイド協会の資料をほぼ丸写しいたしましょう。猿畠山法性寺はなぜだか猿の字が冠されていますが、それは前にも触れましたように、文応元年1260年、松葉ヶ谷の法難の際に、日蓮さんが名越の尾根から尾根へと逃げられたのですが、そのとき山頂にある山王権現の使いとも言われている3匹の白猿が、上人をこの法性寺の祖師堂の横にある岩窟に案内したので、日蓮さんはしばらくこの岩屋で難を避けていたと伝えられています。そして現在その場所には朗慶作と伝えられる五輪塔が安置されているのです。

後日日蓮は、これも山王権現の加護のおかげであると言ってこの地に一寺を建立して恩に報いよと弟子の日朗に命じられ、その弟子の朗慶がこの法性寺の開基となりました。

ところで日朗は晩年東京の池上本門寺に隠棲していましたが、入寂の際に幼少の砌に遊んだ懐かしい猿畠山に戻りたいと遺言したので、朗慶の手で安国論寺で荼毘に付されたのち、法性寺の山頂の四面堂に納骨されました。

現在ではこの一帯に猿は見かけませんが、鎌倉時代にはたくさん棲息していたのでしょう。

♪左後ろ振りさけ見れば左肩根元に走る痛さかな 茫洋

Monday, May 25, 2009

5万円パソコンの意義

茫洋広告戯評第4回

昨日と同じ新宿西口広場をどこかでフォーク集会でもやっていないかなとねぼけ眼で探していたら、台湾のパソコンメーカーの「パソコンは5万円で買う時代」という広告が目に入りました。やたらグリコにおまけをつけて10万、20万で売り出すのではなくて、メールやネットなど必要最小限の機能だけでグリコを安く買いましょう、という提案です。

アスース、エイサーなどがはずみをつけたこの格安ネットブックは米国のHPやデル、日本勢も追随するところとなり、ビックカメラなどの家電量販店のパソコン売り場の最前列に並んでいますが、こういう新参者の乱入を許したのはパソコンメーカーと米マイクロソフト社の多機能高付加価値製品を高価格で販売しようとする醜い商魂でしょう。

車も洋服も低価格中品質を求める消費者のニーズに懸命に対応しようとしているのに、彼らは「早い、安い、うまい」ならぬ、「遅い、高い、まずい」製品をあくまでも売りつけようとしていました。とりわけひどいのは米マイクロソフト社の現行OS、ビスタです。不要不急の機能をてんこもりにつけて、運用速度をめちゃめちゃに遅くしてしまい、それを消費者に対するサービスと考えているこの世界的大企業に対する反発が今回の格安ネットブックブームの根源に隠されているのではないでしょうか。

彼らはこの失敗を反省して新しい改訂版ソフトを年内に発売するそうですが、「大男総身に知恵が回りかね」とはよく言ったもの。ソニーのプレステが任天堂に苦杯をなめたように、とかく巨大化した企業は消費者のちょっとした心根をくみ取ることに失敗して逆、その存在理由をいつのまにか掘り崩してしまうことを深く自戒せねばなりません。


実際に5万円パソコンを使ってみるとこれが意外に使いづらく、これならもう少し割高でも多機能なノートが欲しいと思うはずで、現に市場はその方向に動きつつありますが、ともかく一寸先は真っ暗闇のビジネス戦線であります。

少女なれどすでに大人の憂いあり母を見上げる愛子さん 茫洋

ロバート・デ・ニーロと「レガシー」

茫洋広告戯評第3回

今日もまたくたびれ果てて新宿西口の交番を左折してまっすぐスバルビルに向かってよたよた歩いていると、これまたくたびれ果ててぐちゃぐちゃになった中年男の顔とぶつかりました。大きな柱を巻くようにして、だから柱巻といわれている電飾広告です。

 これはもしかして私の大好きなデニス・ホッパーかと思って近づいてよーく眺めたらロバート・デ・ニーロでした。富士重工のレガシーの新車のキャラクターとしてテレビCMや新聞、雑誌、ポスターなどに登場しているのです。

テレビCMはスタンリー・キューブリックの映画「シャイニング」の冒頭でジャック・ニコルソンが運転していたローキー山脈の断崖絶壁のシーンに似ていて、(もしかすると完全なパクリ?)そういえば同じレガシーが以前たしかメル・ギブソンを起用していた際にも、同工異曲のCMを製作していたことを思い出しました。

今回スバルではなんでも2名の有名監督を起用したそうで、この不景気にもめげず恐らくは大枚を投じて撮影されたと想像するのですが、前に述べた2つの演出に比べるとあきらかに劣りますし、それよりもこういう車にはこういうタレントを使ってこういう場所を走らせるのだ、という発想そのものが陳腐で、宣伝屋の浅知恵にはまるで進歩がないことを証明しているようでもあります。

自動車の世界もデトロイトが沈没し、国産勢もそのあおりを受ける中で、かろうじてトヨタとホンダのハイブリッド車だけが気を吐いている今日この頃、この会社のこの車のこの広告はとても現実離れしたドン・キホーテ的なもので、私はその「かつての栄光よもう一度」と黄昏の夕日に向かって寂しく呟く孤独な後ろ姿が大いに気に入りました。


♪両足が伸びたるおたまを池に返す 茫洋

Saturday, May 23, 2009

ウエザーメスト指揮モーツアルトの「皇帝ティトゥスの慈悲」を視聴して

♪音楽千夜一夜第67回

モーツアルト最後のオペラである「皇帝ティトゥスの慈悲」を視聴しました。1791年12月5日にこの天才作曲家は35歳で亡くなりますが、その死の年の夏から秋冬にかけてまるで自分の死と競争するように同時進行で取り掛かっていたのがあの「魔笛」と「レクイエム」とこの作品でした。

あまりにも有名な2つの遺作に比べるとさほど高い評価を受けてこなかったこの作品ですが、05年6月チューリッヒ歌劇場管弦楽団、合唱団を率いてフランツ・ウエザーメストが指揮した公演のライヴ録画を視聴するかぎりでは、みじんも死の影を予感させない充実したモーツアルトの音楽を楽しむことができます。歌手ではセスト役のベセリーナ・カサロヴァとウィテリア役のエヴァ・メイが好演しています。

演出はジョナサン・ミラーですが、弟子のジュスマイヤーが師匠の死後に作ったと伝えられるレティタチーボをやめて全部をただのセリフにしてしまったために、逆にモ氏の音楽がそれ自体としてくっきりと際立つことになったのは思いがけない副産物でした。

さてモーツアルトは、演奏時間2時間強の二幕の全曲を、たった2か月、いや2週間で書き飛ばしたと言われているようですが、フィガロの序曲だってたった数時間で書いてしまった人ですから、速度と完成度は無関係。いたるところで素晴らしいアリアを耳にすることができるのです。

ところでモーツアルトは、なぜこの題材を彼の最後のオペラに選んだのでしょうか。

皇帝ティトゥスはあの有名なポンペイのヴェスヴィオス火山の大爆発や首都ローマの大火などの時期にわずか2年2ヶ月と20日間だけ在位し41歳で急死したローマ皇帝ですが、古来限りない慈悲に満ちた名君として喧伝されています。

スエトニウスの「ローマ皇帝伝」(岩波文庫)の第8巻を読むと、それまでは政敵を暗殺したりして尊大で横暴で放埓であったティトゥスは、父の跡を継いで皇位に昇るや突然善人に変身し、歴代皇帝中でも5指に入る人気者になってしまうのです。

ティトゥスはとかく問題のあった愛人を追放しただけでなく、市民の誰からも何一つ強奪しませんでしたし、金銭的にも清廉潔白でした。ある時、誰にも何も与えなかった日に、「諸君、私は1日を無駄にしてしまった」という世紀の名文句を吐きました。

政敵に対しては徹底的な宥和政策を貫き、統治権を狙った2人の貴族に対しても、皇位を狙った弟に対しても、「どうか私の愛情に報いたいという気持ちになってくれないか」と懇願して、寛容と忍耐と情愛の精神を終生貫き、それが、そのままこのオペラの主題になっています。

時には皇帝として復讐すべき時にも、「人をあやめるぐらいなら、むしろ自分が死にたい」と断言して敵対者を処罰しなかった奇跡の愛の人、ティトゥス。裏切った親友にも、暗殺を謀ったおろかな后妃にも死でのぞむどころか無罪放免してやった慈悲の人ティトゥス。彼こそは、モーツアルトの理想の人物だったに違いありません。

現実から手ひどい打撃を蒙りながら、それでも悪人を許そうとするティトゥスの沈痛なアリアに耳を傾けてみると、涙を流しながらペンを走らせている最晩年のモーツアルトの胸の内がなぜか分かるような気がするのです。

♪よそながらマロニエの花咲きたり麗しきかなマロニエの花 茫洋

Friday, May 22, 2009

佐藤賢一著 小説フランス革命3「聖者の戦い」を読んで

照る日曇る日第258回

名もなきパリの民衆、とりわけ下町の女性や弁護士デムーランなどの大活躍でベルサイユの国王や王妃をパリに「奪還」したわけですが、貴族たちが国外に逃亡した後の三部会、いや国民議会は肝心の憲法を制定するどころか右派と左派、そしてバチカンの顔色をうかがいながら保身にきゅうきゅうとする聖職者たちの間で、フランス革命のイニシアチブをめぐって果てしなき混迷が続けられます。

さて本巻に登場するのは、これまでにもめざましい活躍をしてきた以下の面々です。

まずはライオン丸こと伯爵ミラボー。議場で獅子吼すれば泣く子も黙るこの陰謀家は、あろうことか革命の大義を裏切ってひそかにフランス王ルイ16世に急接近しようとするのです。この術数にたけたプロバンスの貴族は、なぜかヴェルディのオペラ「椿姫」に出てくるアルフレードの父ジェルモンを思い出させます。

さらにはオータンの司教にして議会の小澤的黒幕タレイランや国民衛兵隊司令官とパリ方面軍司令官を兼務してルイ16世の覚えもめでたいアメリカ帰りの白馬の騎士ラ・ファイエット将軍。こういう海千山千の政治家たちが議会の三頭派デュポール、ラメット、バルナーヴなどの頭越しに憲政を壟断しようと暗闇でうごめいています。

のちに恐るべき独裁者に成り上がるロベスピエールやマラー、デムーラン、快男子ダントンなどはまだまだひよっこのようなちっぽけな存在ですが、やがて彼らが次第に頭角を現して彼ら守旧派の親玉たちを歴史の表舞台から退場させるのです。

過去の名著のみならず英米仏など内外の最新フランス革命史を参照しながらこれらの個性的な革命家たちの群像をあざやかに屹立させる著者の手腕は見事なものです。そしてはねっかえりの革命児サン・ジュストがロベスピエールに接近していくところで全一〇巻シリーズの第三巻が幕を閉じるのですが、続く第四巻の登場がこの秋とはなんと待ち遠しいことでしょう。


♪革命の光は失せて二〇〇年いずこへ消えしや自由平等博愛 茫洋

Thursday, May 21, 2009

いにしえの鎌倉砦「名越切通」を歩く

鎌倉ちょっと不思議な物語第182回

「名越切通」は鎌倉七切通のひとつで国の指定史跡となっています。この切通は鎌倉と三浦を結び、峠は鎌倉と逗子の市境になっています。

仁治元年一二四〇年、三代執権北条泰時の治世の際に私の近所の朝比奈切通の工事が行われたと吾妻鏡に記載されていることから推察するとおそらくこの頃にこの「名越切通」も整備されたのではないかと考えられます。

鎌倉から金沢六浦津(現在の横浜市金沢区)に向かう朝比奈切通も、この「名越切通も当時の姿をよく伝えていますが、朝比奈切通が当時の代表的な通商道路(銀座通り)であったとすれば、この「名越切通」は北条氏が最も恐れた三浦氏に対抗するために突貫工事で仕上げた軍事道路であったのではないでしょうか。

道は急峻で通行しにくく、しかもくねくねと折れ曲がり、三浦勢の攻撃と馬の進行を妨害するために巨大な岩石を埋め込んであります。峠の上からこの獣道を弓矢や岩や礫で攻撃されればそう簡単に鎌倉に攻め込むことなどできないでしょう。もっとも銀座通りの朝比奈切通にも大曲には砦になっている巨大なやぐらがあって眼下の敵ににらみをきかせていたことを忘れてはなりません。

なお「名越切通」は、現在では横須賀線と神奈川県道三一一号鎌倉葉山線がトンネル通過しており、交通路としては利用されていません。
(「鎌倉の寺」小事典、鎌倉ガイド協会資料を参考にしました)

♪今年また蛍光りしうれしさよ 茫洋

Wednesday, May 20, 2009

緑薫る「安国論寺」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第181回

名越四つ角交差点を左に入ると松葉ヶ谷。その突き当りに日蓮が安房から鎌倉に入って最初に庵をむすんだ「安国論寺」があります。彼は53歳の時に身延山に移りますが、およそ20年をこの地ですごし、その跡がこの寺になりました。

奈良旧教や他の鎌倉新仏教、とりわけ法然・親鸞の浄土宗を非難攻撃した「立正安国論」は禅宗を保護する幕府の前執権北条時頼の怒りを買いましたが、権力者の宗教政策を真正面から批判した彼が39歳の時の主著は、このお寺の「御法窟」(日蓮岩屋)で書かれました。「法華経を大切にして国難を切りぬけよ」という決死の建白書でした。

「立正安国論」を読んだ浄土宗信者は激高してこの庵を襲いました。世に名高い「松葉ヶ谷の法難」です。危険が迫った日蓮を助けたのは1匹の白猿でした。猿はこのお寺の裏山の奥にある「南面窟」という岩屋を経て現在法性寺が建っている猿畑山に導いたと伝えられています。

日蓮は生涯に四たび法難に遭遇しています。けれども実際に日蓮が最初の法難に遭ったのはここ「安国論寺」であったのか、それとも近所の長勝寺であったのか、はたまた比企が谷の妙本寺であったのかについては諸説紛々としていて、いまなお決着がついていないようです。

「安国論寺」は創建が建長五年一二五三年ですが、それからこの「安国論寺」には増上寺から移された石灯籠、日蓮の「至高第一」と称された直弟子の日朗上人の荼毘所や日連の桜の木の杖が根付いたといわれる妙法桜、さらに土光経団連会長が私財を投じて造られた尾根の上の鐘楼もあって見逃すわけにはいきません。
(「鎌倉の寺」小事典、鎌倉ガイド協会資料を参考にしました)

♪栴檀の薄紫の花も咲きたり八幡参道二の鳥居の辺りに 茫洋

Tuesday, May 19, 2009

ユニクロの新宿西口店と広告

茫洋広告戯評第3回&勝手に建築観光35回

鳴り物入りでオープンした新宿西口のメガショップですが、なんせ元は家電のサクラヤがあった場所。構造はそのままに真っ白なペイントを施し、かっこよさをきどってみせたものの、入口のサイコロブロックのがさつさといい、各フロアの狭さといい、どうもおちつかない空間設営です。

誰が設計を担当したのか知りませんが、これで世界のファストブランドと対抗しようとはおこがましい。フラッグショップストアなら旗艦店らしい格調の高さが必要ではないでしょうか。

しかし「わたしは1枚で行く」という栗山千明のブラトップのテレビCMやPOLONOWのコピーによるポロシャツ、佐藤可士和のアートディレクションによる和洋のロゴタイプやTシャツキャンペーンなどのクリエイティブの水準は高い。

あれほど安っぽいカジュアルウエアを音楽やデザインでそれなりにおしゃれに見えるようにごまかしている技術がすごいと思います。もちろんその大本には、ユニクロの素材に最新の科学技術を取りいれた商品企画と販売、プロモーションの三位一体が厳然と存在していて、それが大不況下の奇跡の1人勝ちを生み出しているわけですが。


岐れ道の病院の垣根に咲いている黄色い花の名前は何だろう 茫洋

Monday, May 18, 2009

愛の昼下がりにいざなう「ピーチ・ジョン」

茫洋広告戯評 第2回

伝説の経営者野口美佳が経営する若い女性のおしゃれな下着の会社「ピーチ・ジョン」は全国で12店舗を運営していますが、現在は同じ下着の大手ワコールの傘下に入りました。
最近沈滞気味のワコールは、苦手な若い女性のニーズをうまくとらえて人気のあるピーチ・ジョンのマーケティング・ノウハウを獲得したかったのでしょう。

それはさておき、私がいつも新宿駅で湘南新宿ラインを待っていると、目の前にルミネとピーチ・ジョンの巨大な構内広告が掲示されているのでついつい眺めてしまうことになるのです。

ルミネはコピーライターとフォトグラファーがそれなりに頑張っていますが、コピーはお世辞にも1流とはいえません。写真もなぜかわざとピントの甘いものを多用しており、もしかするとアートディレクターが一癖ある変態者(褒め言葉です)なのかもしれませんが、じつに気になる広告ではあります。

いっぽう「ピーチ・ジョン」は、大方の予想を裏切って全然変態的ではなく、(モデルは大胆な裸で登場してはいるが)、コピーライターがかなり良い仕事をしています。
例えば今回の広告では、ご覧のように、「Lingerie is Love-Jewelry 」とダジャレで韻を踏んであります。

このような手法はタワーレコードのNo music No life(英国の諺No pain No gainのパクリ)や昔の全日空の「北海道、でっかいどお」という真木準のコピーをはじめたくさんの好例があるのですが、この即席日本製英語は、見た目も、発音も、「ランジェリーは愛の宝石ですよ」という意味付けもふくめて、なかなかのものです。

やってみろといわれても、素人には絶対に作れないキャチフレーズ。ということは、かなりの手だれの仕事でしょう。なぜともなくエリック・ロメールの映画「愛の昼下がり」にも連想が及んで、ラッシュアワーの束の間、あらぬ幻想の世界に遊ばせてくれる貴重な広告ではあります。


  ♪いつのまにか遠い世界になりにけりエリック・ロメールの愛の昼下がり 茫洋

上野榮子訳「源氏物語第八巻」を読んで

照る日曇る日第258回


私のように平安時代の日本語に不案内な読者にとっては、紫式部の自筆原稿を自力で読みこなすことなど到底できません。そこでやむなく翻訳書に手を出すことになるわけですが、これが訳者によって読後感がまるで異なるので、いったいどれが本当の紫式部のコンテンツにもっとも近いのかとおおいに面喰います。

しかしそもそも翻訳とは、翻訳者が原作者になりかわって作品を解釈する行為です。いわばイタコが原作者に憑依するような過程をたどってその言霊を私たちに表白するわけですから、谷崎にせよ与謝野にせよ、その内容が違ってくるのは当然といえましょう。
私たちはイタコたちの憑依や言霊のバリエーションを楽しむことが許されるわけです。

ところでそのイタコにも理数系のそれと文系のそれがあって、文法学者などが手掛けた翻訳は前者、文学者などによる翻訳は後者がおおいようです。前者は主語と述語、修飾句などが明確に指示されているかわりに、日本語としての表現が未熟で情緒に欠けるという短所があり、後者はその反対であることがおおく、いずれにしても帯に短し襷に長い隔靴掻痒、皮肉の嘆が消えることはありませんでした。

谷崎なども語学に自信がなかったので国語学者山田孝雄の校閲を仰ぎながらはじめて彼の源氏物語を世におくることができたのですが、通読していてときおり「主語=主体」があいまいになるくだりがあります。しかしそこは大谷崎一流の清濁併せ呑む文体で情趣豊かに切り抜けるのです。

このような行き方は、フランスの詩人ランボーの詩を大胆不敵にも昭和の初期に翻訳した中原中也や小林秀雄にも見られる「文学的な強行翻訳突破法」といえましょう。誤訳だらけの同じ詩句をたとえば宇佐美斉、鈴村和政の手になるものと読み比べてみると到底同じランボーとは思えないほどの違いです。(ただしどちらが詩人の詩魂に近いかはまた別の問題です)

前置きが長くなりましたが、上野榮子さんによる源氏の現代日本語への翻訳は、この理数系と文系のバランスがとてもうまく取れた点がなによりのお手柄ではないでしょうか。最終巻の第8巻では悲運のヒロイン浮舟が薫と匂宮の板挟みとなって苦しんだ挙句、宇治川に身を投じるという緊迫した場面が描かれています。

しかし「手習」の帖をつらつら眺めていても、彼女が自らの意志で投身、入水したという記述はどこにも現れず、この事件の真相が宇治三姉妹の長女(総角、大君とも)を血祭りにあげた物怪の殺意によるものであることがこれほど明確に印象付けられる翻訳書はなかったのではないでしょうか。

本文の中で浮舟が自分で述べているように、入水を実行できずに呆然としているところをまるで匂宮のようなイケメンが突然やってきて体を抱き上げられ、そこで意識を失ってしまったわけですから、結局「入水」は実行されなかったのです。

さらに調子に乗って書いてしまいましょうか。どの翻訳においても、薫が浮舟を発見して再び恋の炎を焦がすところで突然全巻の幕を閉じてしまうわけなのですが、本書ほど「宇治一〇帖」が“未完の傑作”であることを雄弁に物語っている翻訳本はないとも言えるでしょう。
紫式部はこの続きを書こうとして書けずに世を去ったに違いない。と本書を読めば誰しも確信するはずです。

♪この頃は激減したときく雀らを見かけし朝は声をかけてやる 茫洋

Saturday, May 16, 2009

山本兼一著「利休にたずねよ」を読んで

照る日曇る日第257回


お茶の大家である千利休さんが太閤秀吉さんに殺されるまでの顛末を、利休の運命的な恋をふとい縦軸に据え、信長、秀吉、家康、堺の茶人衆など多彩な同時代人をほそい横軸に置きながら、巧みなプロットと華麗な文体で鮮やかに描きました。

特に主人公を取り巻く茶人武野紹鴎、山上宗二、古渓宗陳、万代屋宗安、長次郎、黒田官兵衛、今井宗久などの人物像がくっきりと浮かび上がってくる手腕は見事で、著者の努力と研鑽のあとがうかがえます。

そうして異国の運命の女との間を結ぶ一本の赤い紐がこの偉大な茶匠の芸術を生涯にわたって支え続けたのか、とあやうく思いこみそうになるほどです。

しかしよく考えてみると、そんな馬鹿な話はありません。戦国大名三好長慶の求めに応じて村田紹鴎が高麗の李氏ゆかりの美女を誘拐するというのです。これは日本帝国全盛の第2次大戦中ならば日常茶飯事でしたが、安土桃山時代では歴史的にみてもほとんどあり得ません。

その拉致し来った絶世の美女に横恋慕した若き日の利休が、彼女を盗み出し、追い詰められてわが手に掛けてしまい、それが生涯のトラウマになって……なぞというあほらしいプロットは、大胆な推理というよりは、ほとんど奇想天外な与太話の類でしょう。
それをともかく最後まで読ませる著者の旺盛な筆力には脱帽のほかはありません。さすがは本年の直木賞を受賞しただけのことはあります。

驚くべきことには、筆者はこの小説の叙述の時間的な順序を転倒し、あえて利休切腹の当日から遠い過去に向かってさかのぼるかたちで語っていきます。この斬新かつ意欲的な試みを評価することにはけっしてやぶさかではありませんが、これはあまりにも奇をてらいすぎた形式ではなかったでしょうか。

あえて時間のベクトルを逆に設定したために、累積する因果関係が不透明になってしまいました。前に進行するはずの物語は推力を失い、たえず中空にぶら下がって停滞するためにせっかくの読書の醍醐味が半減です。またタイトルも意味不明のみょうちきりんなもので、全然よくありません。堂々とノーマルスタイルで勝負してほしかったと思います。


♪いろいろと死にたき理由はあるらめどこの朝ばかりは飛び込むなかれ 茫洋

Friday, May 15, 2009

ル・クレジオ著「黄金探索者」を読んで

照る日曇る日第256回

インド洋に浮かぶモーリシャス島はセーシェル諸島のさらに南に下がったところにあり、マダガスカル島のすぐ東にあります。

モーリシャス島といえば、誰でもこの美しい南海の島を舞台にしたサン・ピエールの小説「ポールとウィルジニー」の悲恋を思い出しますが、著者はこの18世紀末のベストセラーを頭の片隅におきながら第1次大戦前後の時代を背景に、同じ島を舞台にしたある多感な少年の物語を描きだしました。

少年の思いはつねに帰っていくのです。幼い日に父母や姉たちと過ごした懐かしい家や庭や木や花々や鳥の鳴き声や海に躍る魚たちの銀鱗への郷愁に。
少年は優しく美しい母の声の響きを、緑なす谷間の奥に聞きます。そこには逃亡奴隷の大海賊が白人に投降することを拒んで身を投げた切り立った岸壁があるのです。

少年は夢想的な父親が遺した地図を頼りに、モーリシャス島の隣にあるロドリゲス島にわたって海賊が岩山の奥に隠した財宝を捜そうと何度も試みるのですが、残念ながらそれはついに発見されません。

少年が求めていたもの、それは黄金ではありませんでした。懐かしい家族との再会、ゼーダ号のプラドメール船長との最後の航海、それにもましてあの美しい少女ウーマとの愛の暮らしだったのです。

「そのときウーマがふたたびぼくとともにいて、その体臭や息が感じられ、心臓の鼓動が聞こえる。ぼくたちはいっしょにどこまで行くのだろう。(中略)世界の向こう側にあって、空に現れる前兆も、人間たちに引き起こす戦争も、もう恐れたりせずにすむ場所まで?」

ここには主人公の少年にことよせたノーベル賞作家の見果てぬ夢がこめられているようです。

♪あんじぇらあきってなんじゃらほいあんたのおんがくよおわからん 茫洋

Thursday, May 14, 2009

東勝寺橋を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第180回

東勝寺は太平記にも記されているように北条政権が最後の日を迎えたところです。

稲村ケ崎、稲瀬川方面からアサリを押しつぶして突入した新田義貞の軍勢が、最後の執権北条高時の軍勢千余騎をここ葛西が谷に追い詰め、暗い谷戸の奥の奥にある「腹切りやぐら」で武者全員が自害したことで知られていますが、東勝寺橋はその谷戸の麓を流れる滑川にかかっている瀟洒な石橋です。

ちょうどこの近くに亡くなった澁澤龍彦が住んでいて、滑川でウナギを獲っているのを見物していると、この奥に住んでいた立原正秋がベレー帽をかぶり自転車に乗ってこの橋の上を通り過ぎたというエッセイを書いており、神西清にも「腹切りやぐら」を訪ねるエッセイがあるそうです。(鎌倉文学館資料より)

また太平記によれば鎌倉時代に青砥左衛門賢政(藤綱)という武士がおり、夜この東勝寺橋を渡ろうとして銭十文を滑川に落としてしまった。そこで近くの町屋に従僕を走らせて銭五十文で松明を十把買わせて川底を捜索し、とうとうその一〇銭を見つけ出したところ、この話を聞いた人々が「一〇銭を捜そうと五〇文で松明を買うとは大損ではないか」と嘲った。すると青砥左衛門少しも騒がず、「もし私が一〇銭をそのままにすれば永久に役に立たない死銭になるだろう。しかし松明を買った五〇銭は商人のものになってずっと流通する。一〇銭と五〇銭合わせて六0銭がなくならずにずっと流通することは大きな利益ではないか」と反論したので、悪口を言った人々も深く感じ入ったといいます。個人的小利ではなく社会的大利を重んじるというこの時代には珍しい重商主義的な視点を持っていた武士だったわけですね。

青砥左衛門は歌舞伎十八番の「白波五人男」にも登場して彼らを滑川にかかった土橋の上で捕まえるのですが、青砥左衛門邸はこの東勝寺橋を流れる滑川のかなり上流にあたる浄明寺の青砥橋付近にあったと伝えられています。ちなみに私の住まいの近所です。

ちなみついでに、この近くで主婦が運営している「青砥」は、まずい高いで全国的に有名な鎌倉の和洋飲食店の中では珍しく、おいしくて値段も手頃な和食の家庭料理屋さんなので、誰にも知らせず内緒にしておきたいと思います。

♪ビーケーワン書店より鉄人28号に選ばれし恍惚と不安われにあり 茫洋

Wednesday, May 13, 2009

拝啓 鎌倉市長殿

バガテルop99&鎌倉ちょっと不思議な物語第179回


時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。

さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。

ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。

そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白
 
♪きらきらと輝く銀のうろこ見せ緑の森に消えし蛇 茫洋

Tuesday, May 12, 2009

ミシェル・トゥルニエ著「フライデーあるいは太平洋の冥界」を読んで

照る日曇る日第255回

デフォーの1719年「ロビンソン・クルーソー」は後続の1726年の「ガリヴァ旅行記」に大きな影響を与えた18世紀の冒険物語ですが、この有名な海洋漂流譚を今度は1967年になってフランスの作家ミシェル・トゥルニエが換骨奪胎してまったく新しい物語、冒険譚でありながら人間の存在の根底を問い、生と性と聖を真摯に探求する哲学の書として書き直しました。それが本書です。

同じ空想海洋小説には違いないのですが、読比べると原作の「ロビンソン・クルーソー」とはずいぶん違います。「ロビンソン・クルーソー」ではあくまで主人公はロビンソン・クルーソーですが、この本では途中から脇役のフライデーがその野性的な魅力を十二分に発揮して、むしろ主人公を食ってしまう。

とりわけ無人島エスペランザに棲息する凶暴な野生の山羊の王様と死に物狂いで戦って勝利をおさめ、その皮を剥いで大凧にして何庸の南洋の青空に飛ばしたり、妙なる音楽を奏でる楽器に変身させてしまうあたりでは物語の比重が主客転倒して、このインディオと黒人の混血の土俗的な存在感は、灼熱の太陽の直下で異様な光彩を放ちます。

それから原作ではロビンソンもフライデーも無事に本国へ帰国するのですが、この小説ではせっかく28年と2カ月と19日ぶりに救助船に発見されたというのに、ロビンソンはこの船でいじめられていた少年ともども無人島にとんぼ返りをしてしまうのです。

いっぽうフライデーはというと、主人のロビンソンを裏切って帰国する船に戻ってしまう。英国に戻ってもフランス革命目前の母国では無人島で自由に生きるエスペランザ(希望)などあり得ないと考えたロビンソンは、無人島に戻って少年の名をフアイデーならぬサーズディ(木曜日)と名付けたところで物語は終わります。

「ロビンソンはほとんど苦しいばかりの歓喜に満ちて太陽の恍惚と向かい合っていた。彼を押し包む光が前日と前夜の致命的な汚れを彼から洗い落としていた。焔の剣が彼の身内に入って、彼の全存在をつらぬいていた。」

ミシェル・トゥルニエの筆は、冒頭の難破からエスペランザ島への漂着、無人島の自然描写や野蛮人の侵入、開拓者ロビンソンの生活や人生観の移り変わりなどどこをとっても細部が比類なく充実しており、きわめて繊細で知的なもので、まるで突然私たちがロビンソンと同じようにエスペランザの大自然の真っただ中に投げ出されたような、おそろしく孤独で、それでいて自由な気持ちをありありと体感させてくれます。


♪ミスター・ロビンソンあなたもフライデーなしには生きられなかった 茫洋

Monday, May 11, 2009

大判小判の山から逃げ去る「ほんたうの幸福」

荒川章二著「豊かさへの渇望」を読んで

照る日曇る日第254回

小学館版「日本の歴史」の最終巻である本書では、1955年から現在までのおよそ半世紀のわが国とわが民衆の歩みをいっきに振り返っている。

私の頭の中では縄文時代とか鎌倉室町時代や江戸時代であれば、かなり鮮明にその時代と民衆像がフォーカスされているのだが、近現代史、しかも直近の55年体制以降の変遷については、照準がまったく定まらない。このゆうに半世紀をこえる膨大な歳月が変転常ならぬ一大カオスとしてしか認識されないのは、私がまだ歴史の本質を真剣に追及しようとしていないからだろう。困ったものである。

この本の中で著者は、敗戦の衝撃から立ち直った日本人たちが、次第に物質的な富の追及にめざめ、これを無我夢中で追及してきた疾風怒涛の欲望の爆発に焦点を合わせる。衣食住有休知美の世界を総覧し、その最上の果実を我が物にすること。それが、かの鬼畜米英を打倒して枢軸国と共に全世界の領土と植民地を獲得・再分割せんとする帝国主義的な野望にとってかわって、私たち新生民主の日本人が選び直した“ほんのささやかな欲望”だった。

そして私たちは、思いがけない短期間でこの素晴らしい目標を達成したのだが、その豊かさ満載のパンドラの黄金の箱の中には、「心の虚しさ」という獅子身中の虫が潜んでいた。私たち1億の民のほぼ全員が小さなミダス王となり、その勤勉な手に触れるものはことごとく黄金に変貌したのだが、宮沢賢治がいう「ほんたうの幸福」というものにはついぞ巡り合わなかったのである。

政治経済社会のすべてが混迷の極に達したかに思われる現在までの全プロセスを、著者は家族と労働、性や民族差別、都市と郊外、本土と沖縄の矛盾などに着目しながら、じっくりと振り返っている。

私たちはまさしくこのような道を歩んできた。そして著者がいうように、「新しい選択の可能性・萌芽は、半世紀の時代経験そのもののなかにすでに提起されている」(12p)はずだ。だから私たちは、その歴史をしっかり学び直すことを通じて、これからの血路を切り開くしかないのだろう。


♪黄金の大判小判の隙間からまたしてもこぼれおちるほんたうの幸福 茫洋

Sunday, May 10, 2009

09年鎌倉市議会議員選挙始末記

バガテルop98&鎌倉ちょっと不思議な物語第178回

先月26日に行われた鎌倉市議選の結果、新しい顔ぶれが決まりました。定数28名のところ立候補したのは36名でしたが当選者は28名。その内訳は現職18、新顔10名。党派別は自民1名、民主4名、公明3名、共産4名、神奈川ネットワーク運動4名、無所属12名ということで、やはり最大派閥は無所蔵でした。

最下位で当選した人の得票が1661票、当選率は77.77%というかなり高い数字になり、当選すれば四年間はかなり高額の俸給が出ますから、「それじゃあ俺もちょっくら出てみようかな」という一旗組が今回はかなり多かったのではないでしょうか。

次点で落選されたベテランのS氏は、かねてから私たち障ぐあい者を支援してきた方でしたので残念でしたが、もう一人軽井沢町議時代に西武堤資本によるゴルフ場建設を阻止した土方歳三の子孫と称する人物が落選したのも、ちょっと残念でした。民主党は五人目の有力な候補者を送り出したのですが、たった554票で涙をのみました。やはり小澤問題が黒い影を引いたのでしょう。

残念ついでに、私の町内でも無所属の新人が立候補しましたがわずか189票しか獲得できず惨敗でした。町内会長さんが「もっと早く挨拶に来ねえんだもん。ここだけで200所帯あるんだ」と豪語していましたが、そういう意識と発言自体がこの町の旧態依然たる政治意識を雄弁に物語っています。

前回トップ当選のご自身が障ぐあい者の方は今回は14位に後退。4750票を獲得してトップで当選した民社現職の50歳の女性は、当選の翌日白のりりしいパンツスーツ姿で鎌倉駅前に立って当選御礼の挨拶をしていましたが、そういうことをしていたのは彼女だけでした。

いずれにせよ現在人口173502名、72173世帯を数える鎌倉市民のために、私利私欲をかなぐり捨てて最大最高の貢献を果たしてほしいものです。


♪てめえ死ねと豪速球で投げつけるチョーク当たりしはわが前歯なりき 茫洋

Saturday, May 09, 2009

ビリー・ワイルダーの「昼下がりの情事」を見る

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 3

日本の男のオードリーは大嫌いですが、ベルギーで生まれた英国人女性のオードリーは大好きで、時々その映画を楽しんでいます。

ヘプバーンの代表作はなんといってもウイリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」ですが、名匠ビリー・ワイルダーによる「昼下がりの情事」も感動的なクライマックスを楽しむことができます。

いま青春の最初の花を咲かせようとしているヒロインは、パリ・コンセルバトワールでチエロを学ぶ音楽少女です。いつもチエロを持っているオードリーは、さしずめディアナ・タービンのパリ版というところか。その前に突如現れ出でたるはいままさに中年の盛りを過ぎたロマンスグレーの女たらしゲーリー・クーパー。パリはオテルリッツの4号室で貸し切りのカルテットが奏でる甘い「魅惑のワルツ」の音楽に合わせて謎のヴェールの女と踊る水も滴る色男です。
ところがこの海千山千のプレーボーイ、ほんの一夜の慰みに軽く遊んで捨て去るはずが、うぶな少女の下手な芝居にひっかかって本気で恋してしまう。もとより女は初めての恋に無我夢中。危険な火遊びの末路を案じた父親(探偵です)の警告に従って、男は断然リヨン駅で別れようとするのです。

少女はつぶらな瞳に大粒の涙を流しながら愛する男を追いかける。煙を吐いて加速する列車。あなたがいなくなっても男なんて11人もいるのよと強がりを言いながら懸命に追う女。タラップの上で激しく迷ういながらその姿をじっと見つめる長身の男。

そして絶望と悲しみに引き裂かれながらも一途に男を追わずにはいられない純情可憐な小鹿のバンビのクローズアップ! こんな姿を見せられて鬼神も泣かずにおらりょうか。

あわやプラットホームが尽きようとする刹那、その時遅く、その時早く、男は女を救いあげて汽車の中に引っ張り上げる。ここで引っ張り上げなきゃ、男ではありません。また引っ張り上げなきゃ、映画ではない。

そこで男ははじめて「アリアーヌ!」と女の名前を呼びながら接吻をするのですが、キャメラは彼女の大きな右の眼が、絶望から驚き、次いで信じられない歓喜へと変わりゆくありさまをじっと映し出すのです。

するとこれはまたどうしたことでしょう。いつの間に現れたのか、あのお馴染みの四重奏団が「魅惑のワルツ」を奏で、これまたなぜか登場した父親が、幸福な娘の姿を見届けて笑っている。
とうとう結婚することになるカップルを乗せて、汽車は出てゆく、煙は残る。めでたし、めでたし。あまりといえばあんまりなご都合主義なのですが、これがワイルダーの映画さばきなのです。

さらに私たちはこの映画で1961年に60歳で亡くなったこの名優の早すぎた晩年の、ちょっとやつがれた艶な風情をたっぷり味わうことがきます。上り坂の人と下り坂の人、若ものと老人、これから花の盛りを迎える女とまもなく悲惨な老年を迎える男。この2人を待っているのは、いかなる運命でしょうか。そんなことは百も承知のワイルダーは、この大きな年の差を乗り超えた奇跡の愛が成就したパリの昼下がりを見事に創造したのです。

最後にこの映画の唯一の欠点を強いてあげるなら、楽劇「トリスタンのイゾルデ」の上演中に案内嬢に先導されてクーパーと美女が入場してきて劇場の最前列の座席につくシーンでしょう。これは映画ならともかく、実際には絶対に許されないことです。


♪こんにちはと誰もが挨拶交わし合う朝比奈峠を行き来する人 茫洋

Friday, May 08, 2009

ヴィスコンティの「白夜」を見る

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 2

ドストエフスキー原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督による「白夜」を鑑賞しました。

これは57年に製作され、日本では翌年に公開されたモノクロ映画ですが、はじめて見たとときには運河を滑るように流れる船に乗った恋人たち(マリア・シェルとマルチエロ・マストロヤンニ)を照らす光と影の美しさに、ここはヴェネツイアかセーヌかノヴァ河かとキャメラと照明の素晴らしさにいたく感嘆したものです。

それは確か小舟が画面の左から右に動いていくシーンであったこともありありと覚えているのですが、この「白夜」を何回見てもそのカットは出てこないのです。
それどころか何回か見ているうちに、この映画は運河のロケではなくセットで撮影されており、堀割を流れる水もびくとも動かないことが理解されるにつれて次第に興が冷め、あの幻の光景はどうやら別の映画だったらしいと確信するに至りました。(どなたかそんな私の夢の映画を、それはこれだとご教示いただけたらとてもうれしいのですが)

それはともかく、この不滅の恋の物語、奇跡のような愛の物語を、ヴィスコンティはものの見事に描いています。マリア・シェルとマルチエロ・マストロヤンニのご両人は、ヴィスコンティに演出されたマリア・カラスのように好演していますが、それよりも特に印象に残るのは、マストロヤンニの恋敵に扮したジャンマレーの素晴らしさ。これは恐らくマレーの最後の映画作品だと思われますが、あの立派な顔とがっしりした体躯がスクリーンに姿を現しただけで耳目を強烈に惹きつけます。

コクトーと組んだマレーはどうも仏蘭西製の栗の花の匂いがしていただけないのですが、同じホモでもヴィスコンティと協働した時のマレーの奥深さはただものではない。人間を少し超えたギリシア神話の神さまのような神々しい存在感を漂わせながら、映画の最初と最後を彩るのです。

音楽はニノ・ロータ。大家にはまだ日が浅く、不器用に旋律を探っている初々しさが買えます。

♪朝比奈の峠の上のウグイスが貯金貯金と鳴いていました 茫洋

Thursday, May 07, 2009

サラ金CMに出演するタレントたち

広告戯評 第1回

サラ金の広告というのは、さまざまな規制もあるので、これまでその表現も露出も、多少とも遠慮がちのところがあったような気がします。やはり仕事が仕事ですし、かつて暴力団まがいの強引な取り立てを行ってお役所から営業停止をくらった会社もありましたね。

こういう会社の社長も社員の方も、天下の正業とはいえなんとなく世間に後ろめたい気持ちを少しは心の中に懐いておられるのではないかと推察している次第です。

また、おそらくこういう気持ちは、広告主や広告代理店から指名されればそれがどんな企業、どんなブランドであろうといそいそと馳せ参じる芸能人やタレントさんの心のなかだってあったに違いないのですが、多少イメージダウンになっても結局出てしまうのはやはりギャラ欲しさということでよかったでしょうか、井上和香さん。

元阪神タイガースの江本さんや女優の内田有紀さんも、やはりお金目当てではないのだろうかと下種の勘ぐりをしてしまうのは私だけでしょうか。しかしながら最近あのタモリさんまでが堂々と出演されておるのはいかなる風の吹きまわしにとるものでしょうか。お金などはうなるほどお持ちでしょうに。みしかするとあれはタモリの偽物かも。

それにしても内田有紀さんの衣装はなにやらとってつけたような風俗嬢風でして、その時代錯誤性が際だっているのは、このCMに賭けたスタイリストの時代批評精神のあらわれだったのでしょうか。


♪朝比奈の峠の上の浦島草に小便掛けし憲法記念日 茫洋

Wednesday, May 06, 2009

ベルリオーズのオペラ「トロイ人」を視聴する

♪音楽千夜一夜第66回

休日の雨の日、ベルリオーズの4時間になんなんとするオペラの超大作「トロイ人」をビデオで鑑賞しました。

この長大なオペラの原作はローマの詩人ヴェルギリウスの「アエネイス」です。これはギリシア神話に出てくるトロイ戦争をめぐるトロイ人たちの悲劇を描いた物語で、トロイの騎士アエネイスがギリシア軍のトロイの木馬による陰謀で敗れた故国を後にしてカルタゴに漂着し、この国の女王ディドーと恋に落ちるのですが、やがて神々の命に従ってイタリアに向かい、ここでローマを建国することになる。いっぽう恋人と引き裂かれたディドーはアエネイスを呪い、後継者ハンニバルによる復讐を予言しながら自刃して果てるというお話です。

 私が見たのは03年10月パリのシャトレ座におけるライヴ公演の録画で、指揮はエリオット・ガーディナー、演奏はオルケストル・レヴォルショネール・エ・ロマンティークです。指揮と演奏はまずまずというところ。肝心要の歌手ですが、全5幕の前半をもっともはなやかに歌いきったのはトロイの王女カサンドラ役のアンナ・カテリーナ・アントナッチさんで、この人は歌が上手なだけではなくて美人でした。

ちなみにカサンドラはトロイ王プリアモスと女王ヘカベの間に生まれ、長兄があの英雄ヘクトル(志賀直哉の愛犬の名前がこれ。さすが直哉さんと思ったものです)、次兄が軽薄極まりなきトロイ戦争の元凶パリスです。カサンドラは有名な預言者なのにゼウスの愛を拒んだために誰からも耳を傾けられず、トロイ陥落の際にアテナ神殿でアイアスに凌辱され、アガメムノンに拉致されてミュケナイに連れて行かれた挙句に、アガメムノンともどもクリュタイムネストラに惨殺されてしまいます。
彼女にはこれらの悲劇的な末路がぜんぶ分かっていたことを思うと、その短い生涯が哀れでなりませんが、そんな彼女のためにベルリオーズは美しいアリアを書いてやりました。

 後半のヒロインはカルタゴの女王ディドー役のスーザン・グレイアムさんです。彼女も歌はそれなりに上手ですが、美貌度も含めてアンナ・カテリーナさんには一籌を輸するといわざるを得ないのが悲しいところです。全体を出ずっぱりのアエネイス役のグレゴリー・クンデさんもヤンス・ニコスさんの演出ともども可もなく不可もなしといったところでした。

 このオペラの演奏はレバインさんやデユトワさんのもあるようですが未聴。おそらくそれらの方が楽しめるでしょう。でもいちばん聴きたかったのは、今は亡きシャルル・ミュンシュさんでした。なんといってもこの天才的指揮者のベルリオーズは最高です。

最後にベルリオーズさんに一言。あんたはオペラが下手くそだ。それに五幕四時間半はいくらなんでも長すぎる。特に四幕のくだらない舞踊はカットしたほうが良かった。その代わりにもっと交響曲を書くべきでしたね。

戦争を構える理由は多々あれど止める理由はただ一つしかなし 茫洋

Tuesday, May 05, 2009

Monday, May 04, 2009

ゴールデンウイークに「私たちの隣人、レイモンド・カーヴァー」を読むということ

照る日曇る日第254回

「黄金週間」とはよく言ったものだ。

僕たちはゆっくりと朝寝して、ブランチを食べたあとで近所の公園や遊園地まで散歩に出かけたりする。ベンチに座って深呼吸すればまぶしいほどの新緑に包まれた樹木が太陽に向かってすべての腕を伸ばしていることに気がつく。

青い空に浮かんだうすい絹のような雲が西から東に向かってゆっくり流れていくのが見える。僕たちはその瞬間毎日心身をはげしく苛んでいる仕事のことも、複雑怪奇な人間関係のこともすっかり忘れて、子供の時には喜びの声を上げて流れていた純粋な時間と透明な空間をちらりと覗いたような錯覚に陥る。

突然偽りの帰属意識から解放され、日常生活の足元にぽっかり空いた穴に吸い込まれそうな自分を感じたときの軽い眩暈と慄き。
ああ、労働と義務から解除されたあの夢のような世界にもう一度戻ることができたなら!
それが到底不可能と知りつつも、「本来そうであるべきであったところの自分」をもしかすると復元できるかもしれないという美しい幻想にとらえられる、おそらく年にただ一度の黄金の時の時なのである。

朝比奈峠からの散歩を終えた僕は、FMから流れるラ・フォル・ジュルネのバッハの演奏を聴きながら、村上春樹が編んだ「私たちの隣人、レイモンド・カーヴァー」という短編を読み終えたところだ。

カーヴァーは底なしの酒飲みで、その致命的な欠陥によって人生を台無しにするところだったが、彼のどうしても詩を、小説を書かずにはいられないという執念、そしてたった一人の女性への愛がその破滅的な人生をぎりぎりのところで救った。

たった50年という短すぎた生涯ではあったけれど、それでも晩年のつかのまの幸福とあれほど見事な作品をもたらしたのは、カーヴァーという不器用な男の文学と女性への献身があればこそだった。 

文学と愛の夢に殉じた“私たちの隣人レイモンド・カーヴァー”は、「労働と義務から解除されたあの夢のような世界」にいつまでもいて、僕たちの訪れを待っているのだろう。


妻と子の鼾楽しも春の夜 茫洋

Saturday, May 02, 2009

島田雅彦著「小説作法ABC」を読んで

照る日曇る日第253回

法政大学における著者の講義を録音・加筆・編集して誕生したのが本書だそうです。じつは私は、最初こいつは世間によくある中身の薄い即席マニュアル本か、とたかをくくって読みはじめたのですが、最後の「私が小説を書く理由」のところに差し掛かると、珍しくもきちんと正座して「島田よくも書いたり!」と感嘆しながら拝読させていただいた次第です。

読み終えての感想は、これは最近新聞連載が終わった彼の大作「徒然王子」に勝るとも劣らぬ本気の作品ではなかろうか、ということでした。この本は、これまで作家が営々と蓄積してきた豊かな経験と該博な知識と教養、そして知情意のすべてを投入した見事な現代文学論であり、著者は、「風変わりな人生論」という側面をあわせ持つ本格的な小説制作の技術書兼プロ作家養成用の教科書を堂々と完成させたのです。

「小説家は死ぬまでおのが脳と肉体を実験台にして、愚行を重ね、本能や感情や論理の分析を行うアスリートである」と語る著者は、本書を全国の大学、高校、カルチャーセンターなどでテキストにしてほしいと「あとがき」で書いていますが、谷崎潤一郎の「春琴抄」の恐怖の失明シーンをはじめ、随所に続々登場する古今東西の文芸作品の引用文を味読するだけでも十分に私たちの文学趣味を満足させてくれる内容をもっています。

著者はまず第一講でいきなり文学を、神話、叙事詩、ロマンス、小説、百科全書的作品、風刺、告白の七種類に分類し、それらの代表選手としてそれぞれ「スターウオーズ」、「家なき子」、「ドラクエ」、「ドン・キホーテ」、「白鯨」、「ガリヴァ旅行記」「私小説」を挙げて私たちに軽いジャブを浴びせます。

それからおもむろに第二講で「小説の構成法」を論じ、以下「小説でなにを書くのか」「語り手の設定」「対話の技法」「小説におけるトポロジー」「描写/速度/比喩」「小説内を流れる時間」「日本語で書くということ」「創作意欲が由来するところ」までの全一〇講をよどみなく語り来たり、語り去るのです。

私はこれまで文学や小説作法を学校で教えることなど到底不可能だと決めてかかっていたのですが、もしかすると本書を読んで作家になる人が出てくるかもしれない、と思うようになりました。

そして最後の最後に著者が、
「作家は(村上春樹のように)幸福の追及に向かうか、(笙野頼子のように)夢の荒唐無稽と向き合うか、それが問題です。前者は妥協の反復を、後者は戦いの反復を強いられます」と述べ、
「しかし優れた作家たちは果敢に夢の荒唐無稽に向き合い、自分を縛る象徴システムを壊すような作品を書き続けるでしょう。その覚悟ができたら、果敢に自分の無意識の底まで下りていきましょう。そして、おのが欲望、本能を解放するのです」
と、自分自身を激しくアジテーションするとき、私は久しぶりに文学者の真骨頂に接したという熱い充足感を覚え、叶うことなら著者と共に私たちの文学の未来を信じたいと思ったことでした。

余談ながら、かつて私はたった一回だけですが、著者に仕事でインタビューしたことがあります。そのとき彼は、私が最初の質問を発する前にビールを注文し、そいつをいかにもうまそうに喉を鳴らしてごくりと一口飲んでから、「すみません、いつもインタビューを受けるときは必ずビールを飲むことにしているんです」と言いましたので、私はボードレールの「巴里の憂欝」の中に出てくるあの有名な詩を思い出しました。

『君はつねに酔っていなければならぬ。それが君のゆいいつの大事な問題だ。酔い給え。酒に、詩に、美徳に、その他何にでも。時の重さにくたばらないために……。』(拙訳)

島田雅彦は、その人生の重大事をよく心得えつつ、最長不倒距離を目指して疾駆しているあの指揮者ロリン・マゼールを想起させる超クレバーな作家と言えるでしょう。そのクレバーさが彼の芸術のゆいいつの欠点であるとはいえ。


善きことも悪しきこともみなつながれり豚から人へ人から人へ 茫洋

Friday, May 01, 2009

朝日と日経と鎌倉朝日

バガテルop97&鎌倉ちょっと不思議な物語第177回


 郷里の親がずっと朝日と日経を取っていたので、その惰性というわけでもないが、読売や産経や前進や赤旗や聖教よりはましだと思っていまも2紙を購読している。

昔の朝日は漱石以来の伝統で文芸欄、それに科学欄がことのほか充実していて面白かったが、最近は水曜日の夕刊の美術特集を除いて日経に一籌を輸するようになってしまった。日経の美術は質量とも朝日を圧倒していて読み応えがあるし、作家たち(よりもデザイナーや装丁家の方がなぜか文も内容もすぐれていること多し)が日替わりで書いている夕刊の随筆も時々切り抜いてもいいと思うような珠玉の名文が載せられているし、連載小説も渡辺淳一の腐敗堕落したアホ白痴ものを除けばいちおう水準以上のレベルに達しているのではないだろうか。

ところが朝日は、声欄の戦争体験の投書と乙川優三郎の「麗しき花実」、吉田秀和の音楽随想、それに敵陣営の雑誌広告を平気で載せる広告部の広い度量?をのぞくと、読むべきもの、評価すべきものがほとんどない。あまつさえ夕刊の株式市況も廃してしまった。

若い読者に色目をつかって藤野千夜の「親子三代犬一匹」などという箸にも棒にもかからないジュニア小説を延々と掲載しているが、あんなもの我が家の愛犬ムクでさえ生きていても読まないだろう。編集部によほど人材が払底しているに違いない。

それではどうしてそんなどうしようもない朝日を取っているのかというと、月に一回だけ付録で配達される「鎌倉朝日」があまりにも素晴らしいからである。毎月一日に姉妹紙に挟まれて配達されるこの超ローカル紙は、すでに通算362号を数えているが、毎回地域情報を要領よく紹介しながらも、清田昌弘氏の「かまくら今昔抄」、岡田泰明氏の「鳥とりどり」、赤羽根龍夫氏の「文学つれづれ」など、どうしても読み捨てにできない貴重な連載を満天下に誇っているのであるんであるんである。

赤羽根龍夫氏は芥川龍之介論に続いて現在「源氏物語」についてのエッセイを連載中であるが、紫式部と光源氏を論じてこれほど刺激的な論考も近年稀であろう。今号ではちょうど「宇治十帖」を扱っている。氏はこの巻の作者は折口信夫が唱えた隠者説に同意しつつも、その隠者は男ではなく見捨てられなんの寄る辺もなくなった老女、すなわち紫式部であると断じている。

紫式部は「宇治=憂し」を舞台として、「光」(源氏)なき後の闇の世界を匍匐前進する「薫」と「匂」の前人未踏の格闘を、それこそ手探りで書き続けた。「宇治十帖」のヒーローである薫と匂は、それぞれ光源氏の息子と孫であるが、それぞれが光源氏の分裂した2つの姿であり、薫は源氏の「まめ」を、匂は源氏の「すき」という側面を分かち持ちながらヒロインの総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟に向かっていく。そしてそのときに平安という一時代を突きぬけ現代にも通じる男と女の無明の世界が描かれていくというのであろう。続編が配達される来月の1日がいまから待ち遠しい。

そういう次第であるからして、世間には背に負うた子供に親は教えられという故事成句もあるように、落日の本紙は親孝行の才子によってかろうじて昔日の面目を保っているのである。
人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと豚どもいきむ 茫洋

人類に喰われ続けしその恨みいま晴らさんと鼻息荒し