Thursday, April 30, 2009

「平安のハムレット」と「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは?

紫式部著・アーサー・ウェイリー版「源氏物語4」を読んで

照る日曇る日第252回


アーサー・ウェイリーがもっとも高く評価し偏愛した源氏物語が、本巻に収められた「夢の浮橋」を含むいわゆる宇治十帖でした。

ここで活躍するヒーローは、源氏の息子、薫(しかしてその実体は、源氏の目を盗んで女三の宮と通じた柏木の息子)と匂(天皇と皇后の三男)、そしてヒロインは、八の宮の遺児である美人の三姉妹、総角(あげまき)、小芹(こぜり)、浮舟です。

とかく男はこの世では惚れた女には惚れられず、それほど好きでもない女性からは逆に愛を打ち明けられておおいに戸惑ったりいたします。薫と総角の場合は前者の典型で、男は熱愛しているものの、女の方では「いい人」カテゴリーに入れており、それでも再三再四のチャンスに強引に女をモノにすればいいのですが、草食系男子の薫にはそういう典型的な肉食系男子であるライバルの匂のような乱暴なことができません。爬虫類脳の指令が男根に直結している匂と違って、薫の内部では、大脳前頭葉からの突撃命令を下半身が拒否することが往々にしてあるのです。

その原因は彼の生誕の背後にひそむほの暗いコンプレックスであり、生存の深奥部に突き刺さったトラウマに基づくものでしょうが、このことが彼の生来身に備わったペシミズムとニヒリズムと遁世願望に根強く繋がっているのです。

生きたい。欲しい。しかし欲望できない。征服できない。このもどかしいジレンマを、この無防備なニッチを、ペニスむき出しの現世的人間、匂が激しく衝き、まず小芹が、ついで浮舟がその血祭りにあげられます。美しい想い人をキツネに奪われたカラスは無念をかみしめ己の浅はかさを厳しく責めながらますます自己滅却の衝動に駆られていくのです。

紫式部の時代からおよそ一〇〇〇年後の今も、宇治川の流れは思いがけず激しいのですが、宿命の恋のライバルに引き裂かれてこの激流に身を投じたはずの浮舟が、冥界のヴェールの底から蘇る日、薫と匂は果たしてどういう行動に出るのでしょうか? 「宇治川のオフィーリア」を待ちかまえている最後のドラマとは何なのでしょうか? 生きながら死せる存在であるわれらが「平安のハムレット」に、はたして起死回生の劇的な瞬間は訪れるのでしょうか?

あらんかぎりの幻想と夢と希望を世界に振り撒きながら、この人類史上最高最大の物語は、大団円に向かってひそやかに助走を開始したところで、まるでそれが作家の当初の計画であったかのように、不意に幕を閉じるのです。



春暗し男共皆縞縞背広 茫洋

なにゆえに男どもみな着ておるのか電車にうごめく縞縞スーツ 

男共皆縞縞背広通勤電車捕虜収容所の如し

Wednesday, April 29, 2009

西暦2009年卯月茫洋歌日記

♪ある晴れた日に 第57回


鎌倉の花の都に遊びけり

我こそは森の王なるぞおろち桜

蝶と見えまた花と見え散る桜

テポドンを嚥下しけり春の海

鰤頭とろとろ煮られ花曇り

われもまた酔って全裸で叫んでみたし

桜咲く生きてしあればそれでよし

桜散る仕出かししことの後始末

懐かしきボヘミアの歌うたうフランツカフカ

           *

8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る

見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙

酔っ払って裸になって叫ぶ人それを警察に突き出す人

君たちも一緒に裸で叫びなさいガタガタ騒ぐなアホ馬鹿マスコミ

おおアオバセセリよ お前にこんなところで出くわすとはまるで夢のようだ

口丹波由良川の水澄みわたり蚕の里をゆるゆる巡る

ついぞ知らずあわれ北条の陰謀に滅亡するとは

鳥歌い花は弾けて水緩み箱根全山笑いさざめく

懐かしき巡り合いかな地に伏して万事を捨ててなお眠る人

猫どもは恐れも知らず日溜まりに遊び戯れ眠り呆けたり

名も知らぬあまたの花が咲き乱れシュレーゲル蛙鳴く湿生花園

いちりんそう咲きにりんそう咲く花の園さんりんそう求めて池を巡りき

外輪山の雲間を裂きて薄日差しミズバショウの池蛙声さわがし

ひさかたの光のどけき花の園カタクリ散れどマメザクラ咲きたり

腰を折りマイクを振りて歌うなり息子のおはこ千の風に乗って

青池様のおかげをもちて訪れし箱根の森に広がる笑顔 

新宿直久のラーメン&餃子セット750円喰らいおれば黄昏る黄昏る俺っちの人生が

三十六の燃ゆる瞳に見つめられ二十の春にたちかえりけり

老ゆるともカラスはカラス鶴の声宇宙の彼方にさえざえと響く

あら懐かしや狭心症の胸騒ぎ4月8日4時30分

御馴染みの狭心症の胸騒ぎ4月8日の4時半に起こる

白人の男を屠ふり金髪の女を犯さんむとして発作に襲わる

父上と母上より賜りしわが心の臓激しく震う

わが狭き心の谷間の奥底でかの臓物はぶるぶる震え

かつてわが勤めし会社よ強欲の投資ファンドの玩具餌食となりたり

段葛降り積む桜の花びらをエアメールで送りしこともありき

「そりゃあ酷ですよ」緒方拳のドラマのセリフを唱える息子

鎌倉の台の峯を訪ぬれば緑の蛙慌てて逃げおり

フィリピン210円エクアドル350円台湾420円さあどれを買おうか3つのバナナ

春の日の桜が丘の小田急に両脚切られて泣き笑う男

黄セキレイ鳴く上空に飛来しミサイル捜索準備している大型哨戒ヘリコプター

軽やかな「乙女の祈り」に変りたり4月1日鎌倉市清掃車

君の言葉君の振舞い奇妙なれど天からの贈り物とて素直に受けむ

自閉症のわが子に優しき二人の女性いずれも拒食症を病みてけるかな

曲学阿世を断固粉砕怒れる老哲学者の叫びを聴け

着古したセーターが人間より長持ちする考えてみれば不思議だなあ

ヴェテランの運行指導にそっぽ向く新米女性バス運転手かな 


              *

親戚詩集  K兄


新宿駅西口のいちばん代々木に近いトイレから、下のボタンをはめながら出てくるK兄さんと出くわした。
「おお」、と「おお」、「久しぶり」と「お久しぶり」とが期せずしてぶつかった。

折しもラッシュアワーで大混雑する駅構内、
「いまちょうど紀伊国屋でね、君の本を買いに行ってきたんだ」
「あんなくだらない本をわざわざ奥沢から買いにいらしたとは。共著のうえに短い文がちょこっとだけ出ている本だから、お送りしなかったんです。まことに申し訳ありませんでした」
と急いで詫びて、それ以上立ち話もできず、「じゃあ元気で」、「お元気で」と頭を下げたのが永の別れとなってしまった。

春ともなれば奥沢の川面を埋め尽くした桜花―
K兄さん、あなたは初めて上京した私に自由が丘一丘眺めのいい部屋を紹介してくださった。

K兄さん、誇り高き帝国の軍人よ。
一度ならず二度までも米国の駆逐艦に撃沈され、太平洋の波濤に投げ出され、そのつど奇跡的に友軍に救助された歴戦の勇士よ。

胸を張り、背筋を伸ばし、頬を紅潮させ、
「いくさに身を捧げしわが生涯に悔いなし」
と声を張り上げられた、在りし日のあなたの姿を私は忘れない。


み空よりあまたの豚ども天下り地球最後の日は近づけり 茫洋

Tuesday, April 28, 2009

「1年丸ごと夏目漱石」カレンダー

バガテルop96


今日で4月が終わる。4月が終わるととうぜん5月が来る。すると4月のカレンダーとは永久にお別れとなる。それが私にはすこうし寂しいのである。

2000年の1月にサラリーマンを辞めたので私の家ではカレンダーを手に入れるのに苦労することになった。会社員をやっていると取引先からかなりの数のカレンダーを頂ける。また当時勤めていた会社でも自社製のものを作っていたから、そんな苦労は知らずにすんだ。いわば選り取り見取りで好ましいデザインのものを自宅に持ち帰って数か所にかけていた。

ところがそういう既得権?を失ってしまうと、残るのは出入りのプロパンガス屋さんとか息子が通っている授産施設の特製?カレンダー(これは何枚も購買している)くらいしか当てがなくなり、トイレなどは失礼ながら鶴岡八幡宮の年間カレンダーで我慢することに相なってしまい、そうかこれまではずいぶんバブリーな暮らしをエンジョイしておったのだなあ、とある種の感慨を懐きつついたずらに長かった俸給生活を振り返ったことだった。

そうこうするうちにわが「茫洋亭」(陋屋のことです)のあちこちが風雨と経年変化で痛みはじめ、やむなく近所のリフォーム会社に改修工事をしてもらったのだが、そこの店長さんから去年の暮に「偉人の筆跡カレンダー」という大型の豪華版を頂戴したのである。

2008年版のそれは「美を創り、拓いた偉人」というテーマのもとに、1月千利休、2月マリー・アントワネット、3月ウイリアム・ブレーク、4月オディロン・ルドン、5月堀辰雄、8月伊藤若冲、9月ジョルジュ・サンド、11月国吉康雄、12月佐伯祐三等々の著名人が実際に書いた数字だけで当月のカレンダーが構成されているという代物で、わたくしの趣味にいたく叶ったのであった。 

そしてその翌年、つまり本年用に頂戴したのが、なんと「1年丸ごと夏目漱石」カレンダーであった。1年12枚の紙片はすべて別々の和洋の数字でデザインされており、上部の中央には漱石山房の原稿用紙やロンドン留学中に正岡子規に送った絵葉書などがさりげなく添えてある。いわば1年365日漱石と共に過ごそうという趣向がことのほか気に入って、曜日を確認するという本来の目的を離れて暇さえあればこのカランドリエに眺め入っているいつという次第。

聞くところによるとなんでもこの「偉人の筆跡カレンダー」シリーズは1988年の「世界の建築家・芸術家」編からはじまって翌年の「世界の音楽家」編、翌々年の「日本の文学者」編など通算22年の長い歴史を閲しており、毎年の全国カレンダー展で何度も栄えある金賞を獲得しているという。これまでいくつかの素敵なカレンダーに巡りあったが、個人的にはこのMホーム社のものがいちばん気に入っている。


♪フィリピン210円エクアドル350円台湾420円さあどれを買おうか3つのバナナ
茫洋

Monday, April 27, 2009

西御門の「旧里見弴邸」を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第176回&勝手に建築観光34回

鎌倉の西御門は幕府の西側の門があった場所ですが、かつてこの近辺には作家の江藤淳や外交官の加瀬俊一、そして白樺派の作家である里見弴などが住んでいました。加瀬邸は氏が最近亡くなられて間もないというのに跡形もなく取り壊されて別の安直な住宅になってしまいましたが、旧里見邸はいまなお「石川邸・西御門サローネ」として健在です。

里見弴は長兄が作家の有島武郎、次兄が画家の有島生馬で、この3人を3馬鹿トリオではなく団子三兄弟でもなく、なんと「有島芸術三兄弟」と呼びならわしております。

弴の恩師は作家の泉鏡花ですが、彼は恩師の文学世界とはあまり関係がなさそうな「善心悪心」、「多情佛心」、「極楽とんぼ」などの作品を書き、その業績はもてない男、小谷野敦氏の伝記などによって近年急速に再評価されています。

 永井龍男が随筆「里見さんの家」で書いているとおり、この建物は大正15年に作家がみずから設計しました。里見はまったく素人のくせに建築趣味があって当時完成したばかりのライトの帝国ホテルなどを熱心に研究したそうですが、この洋館のロビーや暖炉のある応接間やアールデコ風の装飾などになんとなくその影響が感じられます。

洋館の隣には彼が知り合いの大工に命じて造らせた仕事場兼茶室として使った茅葺の和室もありますが、これなら素人でもできそうです。しかし和と洋の良さを生かしきったこの快適な生活空間を建築のけの字も知らないアマチュアが設計してしまったとは驚きです。

里見弴は鎌倉のあちこちを激しく転居しています。最近取り壊されてじつにつまらない普通の家になってしまったかつての扇が谷の自邸とそのエントランスをなしていた見事な日本庭園も、いつまでもそこに居たいと感じさせる日本画のような情趣にあふれていました。

また彼は最近まで鎌倉にあり、現在では遠く長野県に移築された次兄有島生馬の住居、それから裏駅のいまスターバックスがある場所にあった漫画家横山隆一のアトリエと住居も設計したそうですが、その話を聞いた私は、横山隆一の「おとぎプロ」の入り口にあった大きな褐色のモニュメントを思い出しました。もしかするとあれも弴の作品だったのでしょうか。

♪8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る 茫洋

♪見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙

ロッシーニのオペラ・ブッファ「新聞」を視聴する

♪音楽千夜一夜第65回


スタンダールによって「ナポレオンは死んだがロッシーニが誕生した」と称された音楽家のオペラ「新聞(ガゼッタ)」をビデオで堪能しました。

 05年7月10日にスペインのリセウ歌劇場でその管弦楽団・合唱団をマウリチオ・パルバチーニが指揮した公演のライブでしたがなかなか楽しめました。

 お話の筋はここに書いてもしようがないほどいい加減なもので、ともかくイタリアのお金持ちの男が自分の娘の夫にふさわしい人物を新聞広告で募ったところ、クエーカー教徒やイスラム教徒やトルコ人、アフリカ人など世界各地から希望者がおしかけ、すでに恋人がいた娘とでたらめな父親との間にさまざまな騒動が盛り上がるのですが、最後には例によって例のごとくお決まりのハッピーエンドに滑り込むという他愛がなくとも十分に楽しめるオペラ・ブッファの傑作です。

 歌手ではヒロインの娘リゼッタ役を歌って演じているスタイル抜群で超セクシーなティレツィア・フォルラがダントツにチャーミングで、恋人のフィリッポ役のピエトロ・スパーリョともども、さながら雌雄2羽の鳥が次第次第に壮絶に鳴き交わし合うようなロッシーニお得意のクレッシェンドでは、白熱の歌合戦を繰り広げて満場の拍手喝采を呼んでいます。

 指揮者もベテランの味をたっぷり出していますが、しかしそれ以上に賞賛すべきは、この公演の美術・衣装をも担当した(ノーベル文学賞受賞者でもあるという!)ダリオ・クオーの素晴らしい演出。美しく幻想的な色彩の氾濫はそれ自身が雄弁な音楽であるといっても過言ではないと思います。

♪蝶と見えまた花と見え散る桜 茫洋

Saturday, April 25, 2009

ポネル、ベーム、ウイーンフィルの「フィガロの結婚」を視聴する

♪音楽千夜一夜第64回

これまでモーツアルトのオペラの演出はポネル、指揮はベームと長きにわたって信じ込んでいましたが、レーザーディスクからDVDに音源を移そうと久しぶりに「フィガロの結婚」を勢い込んで視聴してみたところ、やはり演奏も演出もいささか古色蒼然としていて、かつてあれほど牢固として確立していたはずのおのれの信念がかすかに揺らぐのを覚え、少し落胆しないわけにはいきませんでした。

もちろん古いものは古いなりに良いのですが、続々と登場する新しい演奏、例えば食えない狸爺のアルノンクールや嫌味な突貫小僧ハーディングなどの演奏に接し続けていると「こいつ軽佻浮薄な奴め」と思いつつもいつしかこちらの耳が馴染んできます。そして、「汚染された」その耳で過去の名演奏を聴くと、その古めかしさが厭でも耳につくのです。

しかし改めて名匠ジャン・ピエール・ポネルの演出に注目してみると、このライブではなく映画版のそれでは伯爵と従者フィガロの階級対立がじつに先鋭に描かれていることに気付きます。そして伯爵夫人を痛めつける伯爵の暴力的な攻撃の凄まじいこと。フィッシャー・ディースカウにブン殴られたキリ・テ・カナワの表情は痛々しい限りですが、こういうところがポネル以降の新進気鋭の演出家にどんどん取り入れられるようになり、ついには伯爵への意趣返しにケルビーノと寝てこの美少年を後年の色魔ドン・ジョバンニに成長させる手引を行わせるという先進的?な演出までもたらすようになったのでしょう。

細かいところでは、第2幕冒頭のこの伯爵夫人の哀切極まりないアリアの箇所などでは声は聞こえても映像の彼女は歌わず幸福であった新婚時代の回想シーンが写し出されるのですがこれはいささか通俗的に過ぎますし、終幕の夜の森のシーンでヘルマン・プライのフィガロを追おうとしてさかんにカメラがパンしたり、ズームしたりするのも気になります。

しかしカール・ベーム翁とウイーンフィルの面々の懐かしい演奏に耳を傾けると、テンポはとてもゆったりしていて、スザンナ役のミレルラ・フレーニなどの歌手たちも美しい旋律を心ゆくまで歌いあげており、ちょっとした間奏曲や行進曲のひとくさりにしても、「やはりモーツアルトはこうでなければ」という思いがしみじみとこみ上げてきます。

モーツアルト以降のえぐいロマン派の音楽と違って、モーツアルトではわずか数小節の間に恋が生まれ、死に、また蘇ります。なんの不自然さも違和感も説明もなしに。モーツアルトにおいては瞬間毎に人の世の真実が書き換えられるのです。その新鮮さに接したときの驚きがモーツアルトを聴くよろこびなのでしょう。

いずれにしてもベームも、ポネルも、名コンマスのヘッツエルも冥界の人となってしまいました。ミレルラ・フレーニはいまだ健在のようですが、かつて英国で華やかに活躍したキリは、クラシック界を去ってもうずいぶんになります。最近はいったいどうしているのだろう。それにしても、歌手の盛りは長いようでやはり今年の桜のように短いな、と思いつつ深夜のブラウン管を切ったことでした。


♪「そりゃあ酷ですよ」緒方拳のドラマのセリフを唱える息子 茫洋

Friday, April 24, 2009

60年代のメンズカジュアル

ふぁっちょん幻論 第49回

60年代のメンズ・カジュアルファッションといえばなんといってもジーンズでしょう。アメ横には米軍から放出された大量のジーンズが人気を集めていました。

1964年に「平凡パンチ」、66年には「週刊プレイボーイ」が創刊され、VANに代表されるアイビールックとJUNなどのコンチネンタルルックが覇を競い、TPOなる言葉が石津謙介氏によって流行語となりました。

60年代後半からはベトナム戦争が泥沼化し世界各地で反戦運動が起こります。パリの5月革命、日本の全共闘運動などを背景にカウンターカルチャーが全盛となり新しい思想文化、とりわけ先鋭的なモードが全世界で澎湃として巻き起こってきました。
例えば英国で起こった服飾の新潮流モッズはmodernの略ですが、50年代終わりのロンドンで誕生し、ビートルズなど時代の先端を行く若者や服装の代名詞となっただけでなく日本のGSにも大きな影響を与えました。

また米国原産のサイケデリックは、ヒッピーで流行したLSDによる幻覚を指し、これが現代アートに激烈に作用します。そして前記のモッズと後者のサイケがヒッピーファッションに大合流し、当時の若者の服飾の主流を形成するようになるのです。

67年に登場した新宿フーテン族、演劇では寺山修司「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」などのアングラ、そして69年には新宿西口でフォークゲリラが激発します。広告の世界では「モーレツからビューティフルへ」「フィーリング」などという言葉が流行語となる頃、モードの古典的な規範は崩壊に近づきつつありました。モードの底が、いったん抜け落ち、擬制の自由とやらにみな酔った振りをしたのです。

長髪と反アイビーの西海岸ジーンズなどが、反体制のシンボルとして定着し、「アンチ・ファッションという名のファッション」が市民権を得たわけです。続いて西海岸に発生した数々のアウトドアルック、パンク、そしてさまざまなイタリアンカジュアル。80年代まで世界中で疾風怒涛のファッド旋風が吹き荒れます。私がベルボトムをはき、ヘレンカーチス第2液を買ってきてはじめてパーマをかけたのもこの頃でした。


♪8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る 茫洋
♪見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙

Thursday, April 23, 2009

猫と辞書

バガテルop94

箱根の湿生花園で2匹の野良猫がひなたぼっこしていました。
さて、その「猫」をちょっと辞典で引いてみましょう。

「広辞苑」(岩波書店)  
広くはネコ目(食肉類)ネコ科の哺乳類のうち小形のものの総称。体はしなやかで、鞘に引き込むことのできる爪。ざらざらした舌、鋭い感覚のひげ、足うらの肉球などが特徴。一般的には家畜の猫ろいう。エジプト時代から鼠害対策としてリビアネコ(ヨーロッパヤマネコ)を飼育、家畜化したとされ、当時神聖視された。現在では愛玩用。在来種の和ネコは奈良時代に中国から渡来したとされる。古称ねこま。

「大辞泉」(小学館)
「ね」は鳴き声の擬声、「こ」は親愛の気持ちを表す接尾語。食肉目ネコ科の哺乳類。体はしなやかで、足裏に肉球があり、爪を鞘に収めることができる。口のまわりや目の上に長いひげがあり、感覚器として重要。舌はとげ状の突起で覆われ、ざらつく。夜行性で、目に反射板状の構造をもち、光って見える。瞳孔は暗所で円形に開き、明所で細く狭くなる。単独で暮らす。家猫はネズミ駆除のためリビアヤマネコやヨーロッパヤマネコなどから馴化(じゅんか)されたもの。起源はエジプト王朝時代にさかのぼり、さまざまな品種がある。日本ネコは中国から渡来したといわれ、毛色により烏猫・虎猫・三毛猫・斑(ぶち)猫などという。ネコ科にはヤマネコ・トラ・ヒョウ・ライオン・チーターなども含まれる。

「大辞林」(三省堂)
食肉目ネコ科の哺乳類。体長 50cm内外。毛色は多様。指先にはしまい込むことのできるかぎ爪がある。足裏には肉球が発達し、音をたてずに歩く。夜行性で、瞳孔は円形から針状まで大きく変化する。本来は肉食性。舌は鋭い小突起でおおわれ、ザラザラしている。長いひげは感覚器官の一つ。ペルシャネコ・シャムネコ・ビルマネコなど品種が多い。古代エジプト以来神聖な動物とされる一方、魔性のものともされる。愛玩用・ネズミ駆除用として飼われる。古名、ねこま。


 なーるほど。だいたい似たりよったり、大同小異というところ。
しかしちょっと待て。私の大好きな大槻文彦さんのを読んでみてほしい。

「新訂大言海」(冨山房)
ねこまの下略。寝高麗の義などにて韓国渡来のものか。(中略)人家に畜う小さき獣、人の知るところなり。温従にして馴れやすくまたよく鼠を捕うれば畜う。形、虎に似て2尺に足らず。睡りを好み寒を畏る。毛色、白、黒、黄、駁等、種々なり。その瞳朝は円く、次第に縮みて正午は針のごとく、午後また次第にひろがりて、晩は再び玉のごとし。陰所にては常に円し。(後略)

 どうですか。これこそが辞書らしい辞書というものでしょう。「その瞳朝は円く、次第に縮みて正午は針のごとく、午後また次第にひろがりて、晩は再び玉のごとし」などという下りなど、猫という対象を、まるでセザンヌかゴッホのように真剣に見つめて1語1語を自分の言葉で書いている。観察が鋭く、それになによりも愛情がこもっているではありませんか。

これに比べると他の辞書など生きた人間ではなくまるでロボットが代筆しているような気がしませんか。しかも現在わが国で出版されているすべての国語辞書が規範にし参考にしたのがこの大槻文彦が明治24年に出版した「言海」(ことばのうみ)であると知れば、現代の国語辞典は過去1世紀余りの間にその表現方法においてもっとも大切なものを見失ってしまったと言わざるを得ません。

♪酔っ払って裸になって叫ぶ人それをわざわざ警察に突き出す人 茫洋
♪われもまた酔って全裸で叫んでみたし
♪君たちも一緒に裸で叫びなさいガタガタ騒ぐなアホ馬鹿マスコミ

Wednesday, April 22, 2009

こんにちは、ベンジャミン

バガテルop94&鎌倉ちょっと不思議な物語第176回
 
雨上がりの午後、散歩でもしようかと玄関を出た私は思わぬ光景にびっくり仰天しました。鉢植えのスミレになんとアオバセセリが蜜を吸いにきているのです。

アオバセセリを漢字で書けば青羽挵蝶、学名choaspes benjamini。分布は青森県から八重山諸島。九州以北では年2回(5~6月、7~8月)の発生。飛び方は速く、雄は林間の空地などで長時間同じコースを飛ぶ。幼虫の食卓はアワブキ科のアワブキ、ヤマビワなど。越冬態は蛹。
などと図鑑に出ています。

この近所にはヤマビワはありませんが、アワブキならたしかどこかで見たことがあります。、燃やすと切り口から泡が出るというあの樹木の葉を食べながら育った幼虫が、この暖かさにうかうかと羽化してしまったのでしょうか。だからこんなに小さいのかしら。

私がこれまでにたった2度ほど見掛けたアオバセセリは開張45~50センチでかなり大型でしたが、これは30センチくらいの小型です。しかし、よくも私の家に迷い込んでくれたこと。同じ木を食草とするシミナガシやカアオアイを食べるギフチョウともどももう生きている間は二度とお目にかかることはないだろうと思っていただけに、私はほんとうにうれしくなりました。

最近は仕事に恵まれず、いろいろ行く末について思い悩むことが多く、毎日鬱々と朝比奈峠を猫背で歩いていた私は、これこそはさだめし天からのよき便りであろう、と久しぶりに痛む背中をますぐに伸ばして4月の青い空を仰いだことでした。

思えば今を去る01年の夏に、私はなんとなく、ほんとうに何心なくこんな俳句を詠んだことがありますが、今日はじめてアオバセセリの学名を知って、私は思わず、「ああ、僕は長い間きみに会いたかったんだ」と思ったことでした。

♪ベンジャミンてふ名の友を持ちたきこの夕べ 茫洋

Tuesday, April 21, 2009

既製服の台頭

 
ふぁっちょん幻論 第48回

昭和45年1970年ごろに米国からもたらされた、「人間工学に基づいたスーツの仕立て技術」。これがオーダーメイドを駆逐し既製服の時代を切りひらきました。

例えば故石津謙介氏が設立したVANのアイビールックは、米国式工業生産システムが生んだ胴をシェープしないボクシー(箱型)な直線的シルエットが特徴でした。そして当時はVAN、JUN、ACEなどの既製服ブランドが相次いでヤング世代のおしゃれ心をしっかりとつかみ、これが世代を超えた「注文服離れ」を惹き起こしたのです。

その一方では、前回にも述べたように欧州の洗練された高級既製服(プレタポルテスーツ)が日本に進出し、例えばピエール・カルダンのエッフェル塔のようなパゴットラインなる最新モードも登場。その他テッド・ラピドス、サンローラン、レノマなどのフランス製のメンズモードも躍進を遂げていました。

しかし昭和48年1973年の石油ショックがオーダーメイド業界にとどめを刺しました。その影響によって最盛期には10万人を数えたテーラー人口が、その4年後にはたった1万人に激減してしまったのです。

これをデータで見ると、わが国の1969年の既製服化率はおよそ45%でしたが、当時欧米のそれは95%の多きに達しており、日本のみならずメンズスーツのプレタポルテ化現象は全世界の先進国に及んでいたということが分かります。

ちなみに現在の大手服飾メーカーの生産仕様は、90年代に採用されたドイツ縫製メーカーの「M仕様」が主流であり、ここにも依然として欧米モデルに依拠するわが国メーカーのお得意パターンがひそかに生き延びていることが分かります。

♪かつてわが勤めし会社よ強欲の投資ファンドの餌食となりたり 茫洋

Monday, April 20, 2009

ムーティ指揮スカラ座でヴェルディの「ファルスタッフ」を視聴する

♪音楽千夜一夜第63回

ジュゼッペ・ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」はシェークスピアの「ウゥンザーの陽気な女房たち」を原作にしたオペラです。

シェークスピア原作による彼のオペラはほかに「マクベス」と「オテロ」があってどれも傑作ですが、ヴェルディ最後の作品となったこの「ファルスタッフ」はそれらを凌駕するのみならず、私見では彼の最大の傑作だと思います。

そのことは処女作の1839年の「オベルト」から42年ノ「ナブッコ」、47年の「マクベス」、53年の「椿姫」、57年の「シモンボッカネグラ」、59年の「仮面舞踏会」、67年の「ドンカルロ」、71年の「アイーダ」、87年の「オテロ」、そして93年遺作となったこの「ファルスタッフ」と順番に聴き進めていくと誰の耳にも明らかになるのではないでしょうか。ヴェルディは88歳の生涯の80歳の年の最後の作品で彼の最高の作品を書いたのです。

「ファルスタッフ」は陽気で悪知恵が働き好色で酒と料理と金儲けには目がない太鼓腹のおいぼれ騎士です。なんでもこの騎士サー・ジョン・フォルスタッフの恋物語をシェークスピアはエリザベス1世のリクエストによって創作したともいわれているようですが、まことに愛すべきキャラクターではあります。

私が今回鑑賞したのは2001年4月にヴェルディの生誕地であるイタリア・ブセートのジュゼッペ・ヴェルディ劇場で行われたリッカルド・ムーティ指揮、スカラ座の公演のライヴビデオでしたが、題名役を演じるアンブロージョ・マエストリとマドンナ役であるフォード夫人アリーチェを歌うバルバラ・フリットリが好演。ムーティとスカラ座のオーケストラなら第三幕の大詰めなどもっと盛り上がるはずですが、まずまずのバックアップといえるでしょう。

かねてから世間の鼻つまみ者であるファルスタッフは、地元ウィンザーの奥方に勝手に横恋慕したところを、住民たちやかつての従者たちの陰謀にたわいなくひっかかって、よってたかって川に投げ込まれたり、真夜中の森で袋叩きにされるなど、じつに気の毒な目に遭ってしまうのですが、その途中の展開部ではシェークスピアの「真夏の夜の夢」やモーツアルトの「フィガロの結婚」を思わせる情景が繰り広げられ、喜劇的なセリフの周囲を草の蔓のようにぐるぐる巻きにすると音楽が完全に一体化して時折は無調に突入する瞬間すらあるのです。あくまでも真実を求める言葉と音楽が、そのもっともふさわしい関係に立とうとすれば、古典的な調性は破綻せざるをえない好個の例かと思われます。

オペラでは最後に「人間はみな愚か者」という陳腐なアリアを大合唱して幕が下りるのですが、シェークスピアの原作にはそんな道徳訓はこれっぽっちもありません。私が偏愛する坪内逍遙の訳では、フォード氏の次のようなセリフで非劇的な結末を迎えるのですが、これこそが本来の終わり方であったと思うのは私だけでしょうか。
「さうしませう。ジョンさん、でも、あなたは、ブルックへの約束だけはやッぱりお守りなすたんですよ。なぜなら、あの男は今夜フォードのおかみさんと寝ますよ」


♪自閉症のわが子に優しき二人の女性いずれも拒食症を病みてけるかな 茫洋

60年代のスーツ近代化

ふぁっちょん幻論 第47回

1960年代になると西欧から優れたテーラーたちが続々わが国にやってきます。また昭和30年1964年の東京オリンピック開催時には、国際注文服業者連盟国際大会も併せて開催され、翌年から若手優秀者がロンドンのサヴィル・ロウでの研修に派遣されるようになりました。

昭和36年1961年にはパリの仕立て技術者A・クリスチャーニ、昭和39年には伊ローマからアンジェロ・リトリコ(JFK、フルシチョフ、マストロヤンニの服)、英ロンドンマスターズテーラー協会理事長のパッカー、副理事長のスタンバレー(サヴィル・ロウのテーラー「キルガー・フレンチ&スタンバレー」)などの各氏が来日、欧州仕立ての真髄を披露しました。

彼らは「日本のスーツ職人は手先は器用だが、胸のドレープの表情に乏しい、スーツ全体のボリュームがなく扁平すぎる。プロポーションが悪く、アイロンが軽すぎる」などの指摘を行ない技術の改善を指導したために、スーツの仕立て技術が大きく向上しました。

こうした技術革新の波を受けて、74年には三宅一生らの「TD6」が父上がり、72年には「ブリリアント6」が結成され、上原宗市、細野信、中右茂三郎、石川栄治、今井文治などが第1回コレクションを発表。第2回からは池田茂樹、五十嵐九十九、隅谷譲次、松田法明たちも参加し、73年には上原宗市、細野信がイタリア・サンレモのテーラーデザインコンテストで1位を受賞します。しかしこうしたオーダーメードの団体活動は、既製服業界の追い上げと職人賃金の高騰などによって、昭和60年1985年には終了してしまいます。

♪鰤頭とろとろ煮られ花曇り 茫洋

Saturday, April 18, 2009

「吾妻鏡」現代語訳 5征夷大将軍を読んで

照る日曇る日第251回&鎌倉ちょっと不思議な物語第175回

建久元年1190年から同三年までは、源頼朝の絶頂期ではなかっただろうか。

平家一門、弟の義経に続いて奥州平泉の藤原氏を滅亡させたこの関東の武人は、相州鎌倉を拠点に都の後白河法皇との平和共存体制のもとで武家政権を確立し、関東以北を中心とした東国支配を貫徹していく。その後の日本国を象徴する権力の東西二重構造の出現である。

 この三年間にどんなことが起こっただろう。鶴岡八幡宮は、大火の後で現在の地に再建され、奥州中尊寺の二階大堂を模して造営された永福寺も山紫水明の地に成り、すでに完成していた父義朝を弔う勝長寿院と合わせて豪華三点セットの七堂伽藍が完成するのである。(余談ながら私の家の近所に大慈寺が建立されて四点セットが完成するのは頼朝の死後のことになる)

その永福寺は頼朝自らが建設場所を選び、恐らくは手ずから図面を描き、何度も現地に足を運んで北条義時や畠山重忠に巨石を担がせて鎌倉二階堂に建立した平安貴族風の雅やかな御殿であり、建久三年に生まれた実朝がちょうどこの季節には花見や蹴鞠を楽しんだ寺院であった。(余談ながらこの近くには晩年の江藤淳や外交官の加瀬俊一、作家の里見敦なども住んでいた)

生涯のライバルであった後白河院亡き後、頼朝は念願の征夷大将軍に就任し、その声望は天下の頂点に到達する。同年一二月三日に生後間もない実朝を両腕に抱いて千葉常胤、三浦義澄、小山朝政、和田義盛、畠山重忠、安達盛長、梶原景時など幕府叢生の苦労をともにした御家人の前に喜色満面の笑みをたたえて姿を現した頼朝は、「此嬰児鐘愛殊に甚し、各意を一にして将来を守護せしむ可きの由、慇懃の御言葉を儘され、あまつさえ盃酒を給ふ」(岩波文庫吾妻鏡三)と原文にあるように、源家の将来を託した息子への忠誠を、心と言葉を尽くして信頼する武将たちに頼んだ。

御家人衆はそれぞれが実朝を抱き、各自がそれぞれ腰刀を献上して頼朝の要請に応えることを確約したのだが、のちの北条政権の陰惨な歴史が残酷なまでに示しているように、その大閣秀吉の晩年にも似た征夷大将軍の悲願が実現される日は、ついに訪れなかったのである。


ついぞ知らずあわれ北条の陰謀に滅亡するとは 茫洋

Friday, April 17, 2009

網野善彦著「歴史としての戦後史学」を読んで


照る日曇る日第250回

 

映画「舞踏会の手帖」を思わせる古文書の返却の旅

 

岩波書店から孜々として刊行され続けている網野善彦著作集の第18巻である。

 

この巻の主題は、著者が後半生の最大の責務となった「古文書の返却の旅」である。戦後の観念的な極左革命運動に挺身し、おのれの人生と学問の前途に光明を失っていた著者は、1950年になって日本常民文化研究所月島分室を主宰するやはり元左翼のシベリア帰りの文書学者、宇野脩平氏の好意によって同所に勤務することになる。

 

当時宇野氏はソ連の文書館を理想とした巨大なアルヒーフ建設を夢見ており、水産庁と日本常民文化研究所を動かして日本全国の漁村の古文書をねこそぎ借用し、それらを整理、編集・刊行して我が国最初の本格的な資料館を立ち上げようという大事業を計画していたが、たまたまその成り行きに飲み込まれてしまった著者も、この前代未聞の古文書借用騒動に巻き込まれることになる。

 

月島の小さな分室はたちまち膨大なリンゴ箱であふれかえり、それらを複写、撮影、調査、整理、整頓する人材も制度も予算も枯渇していくなかで、いたずらに数十年の歳月が流れ去った。宇野氏の功績は偉大であり、そのおかげで著者は観念的な史観を脱して実証的な文献研究の重要性にめざめ中世史研究者としての基礎を叩きこまれることにもなったのだが、その反動も大きかった。文書の大半は返却されずいたずらに死蔵されたのである。

 

借用文書は各所に分散し、貴重な資料提供者や研究者の怒りと抗議が舞い込み、宇野氏はじめ多くの関係者が物故するなかで、責任を痛感した著者による、さながら映画「舞踏会の手帖」を思わせる文書返却の長い長い旅路が始まるのである。

 

ゆいいつ救われるのが、数十年振りに返還された古文書を前にした各地の資料提供者がひたすら平身低頭する著者たちに対して示す寛容な態度であり、いったいこの不始末の落とし前はどうなるのか、と息を凝らして読み進んできた読者も、やれやれと胸をなでおろすことになる。

これらの古文書を活用して、著者たちが画期的な成果をあげた中世海民の役割再評価の研究ではあったが、二度とふたたびこのような誤りを繰り返してはならないであろう。

 

余談ながら本書176pに、渋沢敬三が高く評価している民俗学者として、敬愛する磯貝勇氏の名前が出てきたのはうれしかった。渋沢敬三が序文を寄せ、磯貝氏が郷里の由良川の源流や故事や風俗についてとつとつと語った「丹波の話」(昭和31年東書房刊)こそは、わが枕頭の書なのである。

 

♪口丹波由良川の水澄みわたり蚕の里をゆるゆる巡る 茫洋

 

箱根に行ってきました

♪ある晴れた日に 第56回


鳥歌い花は弾けて水緩み箱根全山笑いさざめく

懐かしき巡り合いかな地に伏して万事を捨ててなお眠る人

猫どもは恐れも知らず日溜まりに遊び戯れ眠り呆けたり

名も知らぬあまたの花が咲き乱れシュレーゲル蛙鳴く湿生花園

いちりんそう咲きにりんそう咲く花の園さんりんそう求めて池を巡りき

外輪山の雲間を裂きて薄日差しミズバショウの池蛙声さわがし

ひさかたの光のどけき花の園カタクリ散れどマメザクラ咲きたり

腰を折りマイクを振りて歌うなり息子のおはこ千の風に乗って


青池様のおかげをもちて訪れし箱根の森に広がる笑顔 

Wednesday, April 15, 2009

偉大な指揮者 凡庸な指揮者

♪音楽千夜一夜第62回


ウィーン国立歌劇場再開50周年記念ガラコンサートの映像を見ていて思うのは、最初の一振りで、ああ、こりゃあだめだ、というできの悪い指揮者と、「おおこれは!」と声にならない感嘆の声がでてしまうかのカルロスタイプの指揮者がやはりいるなあ、という当たり前の事実であり、その証拠に前者の最たるものがわが国を代表する世界のO氏であったのは今日のこの日のハレの舞台の演奏でもまったく変わらず、冒頭の序曲レオノーレにしてもフィナーレのフィデリオの終曲の合唱にしてもリズムもアジア風?のみようちくりんなものだし、こんな強引な変拍子に無理やり付き合わされているウイーンフィルも世界に冠たる名だたる名独唱者も気の毒と言えば気の毒だったが、そーゆーお馴染みの憂鬱をぶっ飛ばしてくれたのがかのダニエレ・ガティ選手とクリスチアン・ティ-レマン選手のオペラの、「音楽とはこうゆうもんじゃ」、といわんばかりの堂に入り壺にぴたりはまった妙技であり、目も覚めるような光彩陸離たるヴェルディやワーグナーやシュトラウスやをさんざん聴かされると、やはり音楽を生かすも殺すも指揮者の棒次第だなあとまたしても思わされたのだが、現在ウィーン国立歌劇場のシェフであるO氏の後任に決まっている墺国自慢のフランツ・ウエルザー・メスト君が出てきて細長い指揮棒を一閃した直後に出てきたとんでもなくとろい音響に腰を抜かすほど驚かされ、やれやれこれではウィーンのオペラ・ファンも二代続けてかくも凡庸な指揮者の音楽を聴かされるとはじつに気の毒なことよと同情せざるを得なかったわけだが、最後に一言わが国民的アイドルであるO氏の名誉のために付け加えておくと、この人が04年6月のザルツブルク音楽祭で同じオーケストラを指揮してベンジャミン・シュミッドが独奏したコルンゴルドのバイオリン協奏曲の演奏(OEHMS)はなかなかであった。もっとも曲自体が誰が演奏しても素晴らしいうえにシュミッドの腕前が冴えわたっていたからだけど。


♪新宿直久のラーメン&餃子セット750円喰らいおれば黄昏る黄昏る俺っちの人生が 茫洋

Tuesday, April 14, 2009

メンズモードの戦中・戦後

ふぁっちょん幻論 第46回

昭和12年1937年に日中戦争、昭和16年1941年にはアジア太平洋戦争が勃発するとメンズモードも決定的な影響をこうむりました。仕立て職人たちはどんどん戦場にやられ、おしゃれもへったくれもないファッションの不毛の時代に突入したのです。

カーキ色のウールの軍服がのさばり、「国民服」が大手を振ってまかり通る暗黒時代の訪れでした。そのなかでかろうじてVゾーンだけがささやかなおしゃれのスペース、自由の証だったのかもしれません。

「五族協和」、「八紘一宇」のいんちきスローガンのもと、後発帝国主義の代表選手としてアジアに覇を唱えようとした日本は、ほとんど全世界を向こうに回して、なんの目算もなく愚かで狂気の海外侵略戦争に乗り出し、およそ310万の犠牲者を出して完膚なきまでに敗れました。

しかし朝のこない夜がないように、ファッション界にもまた新しい太陽が昇るようになりました。復興への道がようやく前途に現れたのです。昭和24年には第1回全日本紳士服技術コンクールが開催され、第1席には佃鶴次郎、第2席に中右茂三郎が入りました。そしてその翌年の朝鮮戦争による特需景気でテーラー業界は急成長を遂げます。

昭和34年の岩戸景気の頃には、既製服のスーツは生産量650万着で平均価格は8000円。これに対してオーダーメードは430万着で、価格は平均1着18000円でした。
オーダーメードが既製服の価格の2倍になったとき、双方のシェアは半々になり、4倍になるとオーダーメード需要は10%を割る。これが(業界だけで)有名な「既製服とオーダーメードの法則」といわれるものですが、その後既製服はどんどんオーダーメードに肉薄するようになるのです。

春の日の桜が丘の小田急に両脚切られて泣き笑う男 茫洋

Monday, April 13, 2009

葛原岡を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第174回

葛原岡(くずはらおか)神社の祭神は後醍醐天皇の側近、日野俊基卿です。日野家は先祖代々文章博士の家柄で俊基も当代きってのインテリ公家だったそうです。

俊基は同じ日野家の資朝卿とともに後醍醐天皇を中心とした討幕計画を進めます。修験者に扮装して紀伊の国に赴き楠正成などの武将の参画を得ようとしきりに活動していたのですが、密告により幕府に露見し、京都六波羅にとらわれの身となります。世に正中の変と称される事件です。

許された俊基はふたたび討幕計画を進めますが、これまた幕府の知るところとなり、元弘元年1331年僧文観、円観とともに捕われ(元弘の変)て鎌倉に護送され、後醍醐天皇は隠岐へ流されてしまいます。

そしてこの年の6月3日、俊基は当時刑場であったここ葛原が岡において、

秋をまたで葛原岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらむ
古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清

の辞世を残し、恨みを呑んで処刑されました。

以上は「葛原岡神社由緒」からの自由な引用ですが、この地はきっと秋になれば葛の花が咲き誇りカラスアゲハが乱舞したのではないでしょうか。おそらく鎌倉時代の「異境」として商取引や芸能、そして処刑が行われたこの山の近辺には、いつ訪れてもどこか無常の風が吹き募っているように感じられます。

頂を一気に駆け下りれば、そこは新田義貞がしゃにむに攻めた化粧坂です。義貞はこの狭隘な坂道を突破することができず、遠く迂回して稲村ケ崎から鎌倉の市内に乱入したのでした。

♪三十六の燃ゆる瞳に見つめられ二十の春にたちかえりけり 茫洋

MARIA CALLAS 「The Complete Studio Recordings」を聴きながら

♪音楽千夜一夜第61回

マリア・カラスが1949年から1969年までスタジオでレコードした全69枚のCDを1枚140円のEMIの廉価盤で入手し、毎日毎晩舐めるようにして聴いています。いわゆるひとつの至福のいっときというやつでしょう。

 まずは49年11月8日から10日にかけてイタリアのトリノで録音された最初のリサイタルを聴いて驚きました。アルトゥーロ・バジーレ指揮、トリノイタリア放送交響楽団の伴奏に乗せておもむろに歌いはじめた「イゾルデの愛の死」は、録音こそ古いもののまさしくカラスの胴間声。いささか青臭く、なんとなく自信なさげで、未熟といえば未熟な歌唱ではありますが、時折聴こえてくるどすの効いた迫真のサビとうなりはすでに自家薬籠中のものとなっています。

そうなのです。ハイCで切開される鋭い線のような高音はもちろんですが、このブルブル震えるような低音こそが、カラスなのです。一度聴いたら二度と忘れられなくなる、懐かしくも恐ろしいその声。聞く者の内臓に食い入り、深々と肺腑をえぐっては泣かせる、この表情豊かで戦慄的なバスの音色こそが、カラスという人の専売特許なのです。

ベルリーニの「ノルマ」と「清教徒」からのアリアの抜粋もじつに見事なもの。まさに「栴檀は双葉より芳し」を地でいく鮮烈なデビュー振りといえるでしょう。

今度は一転して、最晩年のカラスを聴いてみることにしました。69年2月と3月にパリのサル・ワグラムで録音された本当に最終期のカラスの歌唱です。

カラスは、ニコラ・レッシーニョの指揮するオルケストラ・ドゥ・ラ・コンセルバトワール管をバックに、ヴェルディの「シチリアの晩鐘」、「アッティラ」、そして「イ・ロンバルディ」からの3つのアリアを、かすれるような声で懸命に歌っていますが、音程は下がり、あの豊かだった胴間声は激しくきしみ、さながら魔女の断末魔の叫びのようにも聴こえます。

しかしその蹌踉たる絶叫のなかに、私は無残な老醜をそれと知りつつ超克しようとする女の誇りと意地のようなものを感じ取り、一掬の涙を銀盤に灌いだことでした。


♪老ゆるともカラスはカラス鶴の声宇宙の彼方にさえざえと響く 茫洋

Saturday, April 11, 2009

「超流行上口中等洋服店」

ふぁっちょん幻論 第45回

これまで明治維新以降のわが国の洋服化の歴史について縷々述べてきましたが、実際は和服に親しむ人たちの潜勢力は根強いものがあり、ようやく大正13年の関東大震災以来、洋服が次第に定着することになったのでした。

昭和7年1932年12月16日、日本橋の白木屋本店(現在のコレド日本橋)で火災が発生し、死者14名、重傷者21名の惨事となりましたが、このとき着物を着ていて、消防夫に下からのぞかれることを苦にして逃げ遅れて亡くなった女性がいたそうですが、この話を伝え聞いた多くの人々が洋装に切り替えたといわれます。

さて「ふぁっちょん幻論43回」で木村慶一、山崎隆造、丸山幸作などメンズの偉大な師匠たちをご紹介しましたが、昭和を代表する個性的なテーラーといえば、(私の母の身内であるという身贔屓からではなく)、まずは上口愚朗(作次郎)に指を屈することになるでしょう。

上口愚朗は、明治25年に東京の谷中で生まれました。彼は小学校を卆業後、宮内省御用の大谷洋服店に弟子入りしテーラーとしての腕を磨きました。当時の慣習に従って丁稚奉公しながら自学自習に励んだようですが、ボタンホールの手縫いの精密さはピカイチだったそうです。

そして大正末期に「超流行上口中等洋服店」を開店したのですが、なんといってもこのネーミングが最高ですね。当時はモガ・モボが新古典派、和服地モーニングなどで銀座を徘徊していました。「超流行上口中等洋服店」のポリシーは、“客自らが来店しないと作らない。値段は教えない。国産生地は使わない。採寸せずに仕立てる”という猛烈なものだったそうですが、逆にこれが人気を呼んで棟方志功など熱烈な愛好者たちが谷中に殺到したそうです。

昭和初期の背広の仕立代は1着25円だったのに、この店では100円以上。ファンから稼いだ金で上口愚朗は江戸時代の大名時計や中国・韓国・日本の茶陶器を収集し、これが現在の谷中の「大名時計博物館」の貴重なコレクションになったのです。

上口愚朗は昭和13年に川喜田半泥子を訪ねて作陶に打ち込み、井戸、志野、黄瀬戸、唐津、古瀬戸、山茶碗、彫三島、天目掻落し、独創的な野獣派陶碗などを彼独自の「ウンコ哲学」で制作しましたが、昭和45年に78歳で没しました。私の祖父も、彼が作ってくれた背広を長く愛用していたそうですが、もはや影も形もないことが残念でなりません。


♪桜散るわが仕出かししことの後始末 茫洋

Friday, April 10, 2009

春の点鬼簿 K兄に

遥かな昔遠い所で第85回&♪ある晴れた日に第56回


新宿駅西口のいちばん代々木に近いトイレから、下のボタンをはめながら出てくるK兄さんと出くわした。
「おお」、と「おお」、「久しぶり」と「お久しぶり」とが期せずしてぶつかった。

折しもラッシュアワーで大混雑する駅構内、
「いまちょうど紀伊国屋でね、君の本を買いに行ってきたんだ」
「あんなくだらない本をわざわざ奥沢から買いにいらしたとは。あれは共著で短い文がちょこっとだけ出ている本だから、お送りしなかったんです。まことに申し訳ありませんでした」
と急いで詫びて、それ以上立ち話もできず、「じゃあ元気で」、「お元気で」と頭を下げたのが永の別れとなってしまった。

春ともなれば奥沢の川面を埋め尽くした桜花―
K兄さん、あなたは初めて上京した私に自由が丘で一等眺めのいい部屋を紹介してくださった。

そしてK兄さん、誇り高き帝国の軍人よ。
一度ならず二度までも米国の戦艦に撃沈され、鱶がうようよ泳いでいる太平洋の波濤に投げ出され、そのつど奇跡的に友軍に救助された歴戦の勇士よ。

胸を張り、背筋を伸ばし、頬を紅潮させ、
「いくさに身を捧げしわが生涯に悔いなし」
と声を張り上げられた、在りし日のあなたの姿を私は忘れない。


桜咲く生きてさえあればそれでよし 茫洋

Thursday, April 09, 2009

フランツ・カフカ著・池内紀訳「失踪者」を読んで

照る日曇る日第249回

以前新潮社から出ていたこの作品は、タイトルが「アメリカ」で、主人公の少年は17歳ではなく、16歳になっていました。それだけではなく物語の最後が今回の池内紀氏の翻訳とは少し違っていました。

どうしてこんなことが起こったかというと、旧訳の1927年版はカフカ全集を編集したマックス・ブロートの構成によるものでしたが、カフカの死後70年余りたった1983年になって、作家がある友人にあずけていた自筆の生原稿が出てきて、これはその貴重な手稿版の翻訳なのです。同時に題名もブロートが命名した「アメリカ」からカフカが日記にメモしていた「失踪者」に変わったというわけです。

「失踪者」はカフカの就職活動を扱った一種の「シュウカツ小説」です。世界の果てまで自分にもっともふさわしい居場所と働き場所を探し続ける若者の物語です。
そしてカフカのすべての物語がそうであるように、第1行を書き下ろすや否や、物語は後先構わずまっしぐらに前進、前進、また前進します。この前のめりの疾走感覚、失敗を恐れない無謀な前駆機動想像力こそが、この作家の最大の持ち味なのです。

カフカの分身である主人公カール・ロスマンは、いまはやりの17歳の草食動物少年です。カールは郷里プラハの実家で女中に逆レイプされて子供が出来てしまい、少年の行く末を案じた両親は、大きなトランクとこうもり傘だけを持たせて、はるばる新天地アメリカまで旅立たせます。「可愛い子には旅をさせよ」を、地で、いや海で行ったわけですが、この物語の冒頭ではどことなくドボルザークの新世界交響曲の遠い響きがこだましているような気がいたします。

無事にニューヨークの港に到着したものの、カールを待ち受けているのは異国の人々のおおむねは冷たい仕打ち、時折はやさしいはからいです。船中での喜劇的なやりとりのあと、カールの「アメリカの伯父さん」が突如登場して主人公を温かく迎えてくれますが、これがカフカ的不条理であっというまに掌が返され、再び放浪の身に。ようやくホテル・オクシデンタルのエレベーターボーイにありついたものの、悪友につきまとわれて首になり、流れ流れて理想のエンターテインメント施設、オクラホマ劇場の技術者として就職することになります。

オクラホマ劇場は、無理やり日本に当てはめるとディズニーランド、いや岡山の木下サーカスに似ています。ここはおそらく現役で唯一の国産サーカスで、毎年大卒を募集しています。初任給なんと26万円でフジテレビと同じですが、こんな不毛?の職場よりももっともっと夢とロマンにあふれているに違いありません。

物語の最後の場面は、かつてニューヨークのメトロポリタン歌劇場がセントラルステーションから全米夏季巡業に出発した華やかな光景を彷彿とさせ、カールの苦悩に満ち満ちた「シュウカツ」は、ここでついに幸福な結末を迎えるのです。


♪世界の果てまで自分にふさわしい仕事を探し続けたりフランツ・カフカ 茫洋

Wednesday, April 08, 2009

日本とイタリアの背広の違い

 
ふぁっちょん幻論 第44回

スーツは微妙な有機物ですから、壁紙に包まれたような着心地では絶対にだめです。人間と一緒に動く服でなければ本物ではありません。ところが明治、大正、昭和と日本のテーラーが引くパターンは、体には合うが画一的で無個性になりがちでした。

欧米のテーラーは彫刻的な造型ラインをフリーハンドで描けます。とりわけイタリアのサルトリア(仕立て屋)では1針ごとの正確さよりも全体的な柔らかな着心地にこだわるのが特徴です。例えば背広のラペルの裏側のハ刺しで襟と芯に馴染みが良くなる、というように。
ミラノの著名なサルトリアであるA・カラチェニは、フィアットの元会長ジャンニ・アニエッリや、デザイナーのジャンフランコフェレが顧客であり、ボローニャのグイド・ボージーは指揮者のカラヤンやリッカルド・ムーティが顧客でした。このいささか芸風と体格が異なる2人のマエストロが同じテーラーの製品を着て指揮棒を振るっていたとは意外ですね。

それから南に下がってナポリの「ロンドンハウス」はマリアーノ・ルナビッチの工房で映画監督のビクトリオ・デ・シーカ監督などが顧客でした。ともかくイタリアの仕立て技術は世界屈指のもの。20世紀前半に英国で完成された紳士服スタイルを現代のニーズに合わせてイタリア人がリ・デザインしたわけです。

いっぽう日本は前回にも述べたように、礼服が仕立ての最終到達点。一生ものの頑強な物作りを背広に適用したために永井荷風などが文句をいうわけです。工場にはイタリアのようにパタンメイクと縫製技術を総合的に統括する役割を担うモデリストが不在で、とにもかくにも肩くずれしない「ハンガー美人」製品ばかりがのさばるようになったのです。

それでも1957年当時の日本の背広の世界では優秀なテーラーたちがそれなりに活躍していたのですが、60年代に入ると(政治と同様に)米国既製服の下請けと化し、イタリアのように夜郎自大に自由に振舞えなかったことがいまも悔やまれます。

♪段葛降り積む桜の花びらをエアメールで送りしこともありき 茫洋

Tuesday, April 07, 2009

Monday, April 06, 2009

「東林寺跡やぐら」を尋ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語第173回

やぐら巡りの最終回は、「東林寺跡やぐら」です。

私が愛読してやまない「鎌倉廃寺事典」は、「沙石集」の記述を引用して、泉の谷にある東林寺には塔と地蔵堂があったこと、そしてそれが守る人もなく頽廃していたことを伝えています。
また、お馴染みの「鎌倉志」には、このお寺は現存する浄光明寺の向かいにあって、その開山は浄光明寺と同じく真聖国師真阿であると伝えていますが、両寺ともに律宗のお寺として栄えていたようです。東林寺には足利尊氏の教書がありましたが現在では浄光明寺の宝物となっています。

いずれにしてもいまでは由緒ある東林寺は廃寺となり、その跡地は浄光明寺の墓地となってしまいましたが、往時の栄華のよすがを伝えるように貴重なやぐらが残っています。

そのひとつは船の舟底形天井のやぐらです。これは穴全体が住居の様相を呈しており、切妻造の屋根があり、奥壁には柱の跡や梁を渡した穴の跡が見られる立派なものです。

もうひとつはまるでアパートのように重層的な構造をもったやぐらです。1階と2階が数個の個室(龕)に分かれており他では見られない豪華で貴重なものです。


♪口笛吹くような「乙女の祈り」に変りたり4月1日鎌倉市清掃車 茫洋

Sunday, April 05, 2009

スコット・フィツジェラルド著「バビロンに帰る」を読んで

 失われた世代の自己恢復の痛苦な物語 照る日曇る日第247回


村上春樹によるスコット・フィツジェラルド短編集翻訳の2巻目です。

最近米国のみならず、この稀代のアル中作家の声望が同時代の大作家ヘミングウエイのそれを次第に圧倒していると聞きますが、それもむべなるかな、という気持ちにさせられる珠玉のような名編(と偉大な失敗作ぞろい)です。

フィツジェラルドの最大の特徴は、(村上春樹選手の日本語訳で読む限り、という注釈つきですが)その文章の天才的なうまさにあるといえましょう。

例えば、最初におかれた短編「ジェリービーン」の冒頭は、

「ジム・パウエルはジェリービーン(のらくら)だった。私だって彼のことを魅力的な人物として描きたい気持ちはやまやまなのだが、でもそれでは読者に嘘をつくことになる。彼は生まれながらの、まさに骨の髄からの、99%のジェリービーンだった。」
というもので、じつにうまいものですね。

次の作品「カトグラスの鉢」のはじまりは、
「旧石器時代があり、新石器時代があり、青銅器時代があり、そして長い年月のあとにカットグラス時代がやってきた。」
というもので、こういう文章はつい真似をしたくなりますがところがどっこい、なかなか様にならないものなんですね。(ちなみに素晴らしいのは序幕だけではありません。本書100pからフィナーレまでは疑いもなくフィツジェラルドが生涯に書いた最高の数ページでしょう)

お次はパリのアメリカ人が出てくる「新緑」ですが、これは
「ブーローニュの森の屋外席で食事ができるくらいに暖かくなった。それが最初の日だった。栗の花はテーブルの上をはらはらと舞って、我がもの顔にバターやワインの上に落ちた。」
というもので、こんなのを読まされると思わずパリに行きたくなってしまいますね。

では表題作の「バビロンに帰る」がどうなっているかといいますと、これが村上選手が激賞しているようにとんでもない代物で、いきなり主人公とバーのマスターの会話からはじまります。

「それでミスタ・キャンベルは何処にいるんだろう?」とチャーリーは訊いてみた。
「スイスに行ってしまわれました。ミスタ・キャンベルは具合がおよろしくないんですよ、ミスタ・ウェールズ」

29年の世界恐慌でジャズエイジの黄金時代が一夜にして崩壊し、失われた世代の自己恢復の痛苦な物語がここからはじまるのですが、この渋くさりげないオープニングに一驚された方はぜひとも本書を手にとって頂きたいものであります。


♪テポドンを嚥下しにけり春の海 茫洋

Saturday, April 04, 2009

鎌倉の花の都に遊びけり

鎌倉ちょっと不思議な物語第172回

春の日の昼下がり、桜見物を兼ねて北鎌倉の「台(だい)の峯」に行ってきました。案内人は最近岩波書店から写真集「鎌倉の森 台峯」を出版された写真家の関戸勇さんです。

1964年、鎌倉では作家の大仏次郎などの提唱で鶴岡八幡宮の裏山一帯を市民が買い上げることに成功しました。これが日本で初めて実現したナショナルトラスト運動(貴重な歴史的自然環境を市民が買い上げる)でしたが、1998年、2回目のナショナルトラスト運動が起こりました。それがこの台(だい)の峯緑地36.7ヘクタールと広町の森38ヘクタールの保全運動です。

不動産会社が買い上げ開発しようとしていたこの広大な手つかずの自然の森を守ろうと関戸氏など自然を愛する心ある人々が立ち上がって署名と交渉と陳情を繰り返した結果、ついに2002年10月に広町を、そして2004年12月にはこの台峯を鎌倉市が不動産会社から買い取ることで合意しました。最後に残されたこの植物と動物(そして市民の)聖域を死守することができたことは、この町とこの町に住む人たちにとっての大いなる幸福と誇りであり、ユネスコの世界遺産になど登録されなくとも、後世への最大の遺産となるでしょう。

 台峯は北鎌倉の駅で下車して円覚寺の反対側の山の上に向かって20分くらい歩くとその入口に到達する北西から南東に長々と伸びた尾根、3つの谷戸と1つの池、そして中央公園と田圃を含む広大な森です。そこは四季折々に花々が咲き、樹木が茂り、チョウやホタルが乱舞する現代の秘境です。

 今日は梶原の急坂を登って鎌倉中央公園の右側の細道を進んで、関戸さんが自ら命名された巨大なお化け桜「大蛇(おろち)桜」をとっくりと観賞したあと、清水谷戸に降りて北大路魯山人旧庵の右側を通って倉久保の谷戸に入り、清らかな水を湛えた谷戸の池を抜けてふたたび高台に登りました。

眼下にさえぎるものなく隈なく見えるのは六見山とその麓の円覚寺、北鎌倉駅、そして山全体をぎっしりと埋めたソメイヨシノ、オオシマザクラ、ヤマザクラの大パノラマです。これまで私は鎌倉で最も見事な景観は円覚寺の高台から眺めた台峯の麓と信じてきましたが、あにはからんや、その上をいく光景が横須賀線を挟んでちょうど反対側にあったとは! 関戸さんが自画自賛されるまでもなく、これぞ天下の絶景、鎌倉随一の眺望でしょう。

 思う存分桜を堪能しながら春の森林浴を楽しむことおよそ3時間、私は全身に心地よい花疲れを覚えながら帰路についたことでした。

♪鎌倉や花の都に遊びけり 茫洋
♪我こそは森の王なるぞおろち桜 
♪鎌倉の台の峯を訪ぬれば緑の蛙慌てて逃げおり

Friday, April 03, 2009

大門正克著「小学館日本の歴史15巻戦争と戦後を生きる」を読んで

照る日曇る日第246回 切れば血の出る生身の人間史

これは1930年から55年にいたる4半世紀をひとつのパッケージとしていろいろな角度から観察した日本(およびアジア太平洋)の歴史です。普通の通史ですと1945年8月15日の敗戦を大きな区切りにしてその前後の断絶に強い光を当て、総力戦から帝国崩壊と一億総ざんげ、ファシズムから民主主義、抑圧の解放から自由、旧弊から改革進歩への躍進、軍国主義の蹉跌から経済成長への道行を論ずることが多いのですが、本書は必ずしもそうではありません。

ここに戦前戦後を貫く一本の電線のようなものを思い浮かべてみると、芯の部分には昔から変わらない人々の生活と生存の固有の様式があり、この中核部分を政治経済社会システムが皮膜のように十重二十重にひしと取り巻いています。そして芯と皮膜の間にはたえず激烈な相互運動が激烈に展開されていますが、著者はこの両者のインターフェースに徹底的にこだわって、双方の交渉と角逐の渦中を生きる人間像をできるだけ具体的に記述しようと努力しています。つまり歴史→人間ではなく、歴史→←人間ということですね。

そこで本書の冒頭に登場するのはこのアジア太平洋戦争と敗戦後の25年間を懸命に生き抜いた15人の日本(およびアジア)人の肉声です。あの戦争と激動の時代を生き抜いた人々の貴重な証言がこの本に精彩を加え、歴史書としての価値を高めているのではないでしょうか。いわばドキュメンタリーの魅力と迫力を兼ね備えた異色の現代史といってもいいでしょう。 

広田弘毅内閣が国策として主導した満州移民に対して現地視察を行った結果、五族協和の実態を知って分村移民に反対した村長がいたこと、その満州事変に反対した「東洋経済新報」の石橋湛山が上海事変では一転して日本軍を支持したこと、「死線を越えて」の著者でありキリスト教の社会活動家として著名な賀川豊彦が甘粕に招待されて満州に行き、武装移民を理想的と賞賛し、ついには「満州基督教開拓村」を提案、実行したこと、日本帝国の植民地では日本人と朝鮮人、現地人の間で2重3重の差別があったこと、南京虐殺など中国の戦争の実態を写した村瀬守保、戦後の日本の真実を写したジョー・オダネルの素晴らしい作品、戦争の悲惨さを鮮烈に詠んだ鶴彬の川柳、東条英機の「戦陣訓」の犯罪性、東京大空襲の先鞭をつけた日本軍の「重慶無差別空爆」、日本軍の大陸からの強制連行、1945年2月14日の「近衛講和上奏文」の重要性と昭和天皇の積極的な戦争参画(同年6月22日の最高戦争指導会議の主導、47年5月6日のマッカーサーとの会談)、戦後日本への歴史の贈り物としての日本国憲法と教育基本法などディテールの記述も興味深いものがあります。

時代を大きくえぐり取ることを義務づけられた通史でありながら、硬直した理論に振り回されず、切れば血の出る生身の人間史としてなんとか55年体制の確立のくだりまで完走できたのは著者の並々ならぬ意欲と力量の賜物でしょう。


黄セキレイ鳴く上空に飛来しミサイル捜索準備している大型哨戒ヘリコプター 茫洋

Thursday, April 02, 2009

背広の値段 

ふあっちょん幻論第42回

明治20年代当時、もりそばは1銭5厘、下宿代3円50銭、フロックコート仕立て23円、英国地フラノスーツは16円であった。そこで高価な1着であらゆるTPOに対応するべく、明治の洋服は礼服(主にフロックコート)需要に集中したのである。

明治22年、正岡子規は、「3年前に8円で作らせた軍艦羅紗の外套が粗悪品だったので12円で上等品を仕立てた」と彼の随筆「筆まかせ」に書いている。
この頃の注文服は大卒初任給の給料と同額であったが、これはその前の時代の「仕事着としての和服」を月給を前借りして1か月分の値段で仕立てていた伝統が残ったものと思われる。

ちなみに昭和3年1928年の大卒初任給は50円。これは当時のオーダーメードと同額であり、きわめて高価な「高嶺の花」ともいうべき価格であった。そこで「着心地より丈夫で長持ち」の思想が生まれる。

私の知人で最近バーバリーのコートを大枚をはたいて買った女性がいるが、「一生物を長く大切に着たいから買った」と言っていた。
衣服にも資産価値を追求する思想をinvestment clothingというが、これはファッション誌「ハーパースバザージャパン」の最新号のテーマであるから、およそ100年近く威力をふるっている衣装哲学であるといえよう。


♪着古したセーターが人間より長持ちする考えてみれば不思議だなあ 茫洋

Wednesday, April 01, 2009

「世界自閉症啓発デー」に寄せて

バガテルop93

今日は「世界自閉症啓発デー」なので、渋谷区神宮前の「東京ウイメンズプラザ」では朝からシンポジウムなど数々の記念式典が行われていることでしょう。

そもそも今を去る20年前には、自閉症とは脳の先天的な器質障碍、具体的には中枢神経系統の機能障碍を原因とする認知や知能やコミュニケーション等の多種多様な不具合であるとは誰一人思っておらず、医師も世間も10人が9人、心因性の病気だと決めつけておりました。

つまり自閉症というのは、心のどこかの具合が悪くて四畳半の押し入れの奥に引きこもる文字通り「自閉的な」病気であり、その原因は親の躾や育て方のあやまちにあると考えられていたのです。そういう意味ではこの四半世紀の私たちの孤立無援の、それこそ「必死」の取り組みは、ようやくある程度の収穫をもたらしたように思われます。

しかしこれほどの脳ブームを迎え、脳の医学的な研究が急速な進歩を遂げた現在においても、依然としてこのしょうぐあいの本当の原因は究明されていませんし、脳のどこの部位のどのような機能の障碍であるかも解明されていないことは非常にもどかしく、この無様なていたらくがいつまで続くのかと残念無念でなりません。

このしょうぐあいの人々は、いかに見かけが普通ぽくとも、天下の悪法「障害者自立支援法」が勝手に決め付けているような「一人前の健常者として自立すること」などなまなかのことではけっしてできませんし、従って彼らには「生涯にわたる介助者の同伴」が不可欠なのです。「もしも自分が死んだらいったいこの子の面倒は誰が見てくれるのか」というのが、自閉症児者を持った親たちのいちばん大きな悩みなのです。

それはさておき、最近どういう風の吹きまわしか「発達障害」なる言葉が独り歩きしているようです。

自閉症に近接すると称されているさまざまな障碍を、なんでもかんでも「発達障害」のグループに入れてわがこと足れりとする人たち。個々のしょうぐあい者の違いやきめ細かい個別的対応をぜんぶネグレクトして、やれアスペルガー症候群だの高度自閉症だの低級自閉症だののいかにももっともらしいレッテルを貼る偉い人たちがあちこちにいらっしゃるようですが、じっさい自閉症を発達障害のひとつに数えたとしても、それは言葉だけの言い換えに過ぎず、単なる気休めに過ぎません。

「発達障害ごっこ」はもうたくさん。そんなことより私たちは目の前の愛すべきしょうぐあい者と親しく向き合い、なんとかお互いのしょうぐあいを全うしたいだけなのです。

君の言葉君の振舞いいささか奇妙なれども天からの贈り物とて忝く受けむ 茫洋