Friday, September 30, 2011

大林宣彦監督の「廃市」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.148


bsp;エドガー・アラン・ポーに関する卒論を書くためにこの地の古い旧家の旅館を訪れた大学生が、旅館の若い女性(小林聡美、名演)を通じてこの死んだように水と過去の追憶に沈み込んでいる運河の街とそこに生きる人々に魅せられてゆく。

全篇に流れる川の流れは、この風光明媚、山紫水明の地に棲む住人たちの精神に徐々に侵犯し、恐るべき諦念が色情と狂気を生むのだ。

明るくて快活なはずの娘が胸中深く秘めた恋心の行方はいずこへ? ラスト築築後柳河駅を出発する汽車に追走しながら尾美としのりがはじめて主人公にぶつける叫びが、観客の心をわしづかみにする。

日本3大映画美人の一人、入江たか子とその娘入江若葉の共演に拍手! 大林監督が作曲した弦楽の調べが、ことのほか人世の、青春の、男女の哀感を深く抉るようだ。

蝉どもは街から山山から谷へと日々退けり 蝶人昭和59年に日本のヴェネツアと称される水の街柳川で撮影された忘れ難い恋愛映画。福永武彦の原作を大林宣彦監督が心をこめて映画にしてくれました。

エドガー・アラン・ポーに関する卒論を書くためにこの地の古い旧家の旅館を訪れた大学生が、旅館の若い女性(小林聡美、名演)を通じてこの死んだように水と過去の追憶に沈み込んでいる運河の街とそこに生きる人々に魅せられてゆく。

全篇に流れる川の流れは、この風光明媚、山紫水明の地に棲む住人たちの精神に徐々に侵犯し、恐るべき諦念が色情と狂気を生むのだ。

明るくて快活なはずの娘が胸中深く秘めた恋心の行方はいずこへ? ラスト築築後柳河駅を出発する汽車に追走しながら尾美としのりがはじめて主人公にぶつける叫びが、観客の心をわしづかみにする。

日本3大映画美人の一人、入江たか子とその娘入江若葉の共演に拍手! 大林監督が作曲した弦楽の調べが、ことのほか人世の、青春の、男女の哀感を深く抉るようだ。

蝉どもは街から山山から谷へと日々退けり 蝶人

Thursday, September 29, 2011

西暦2011年長月 蝶人狂歌三昧


ある晴れた日に  98

隣家で鳴く鳩時計で目覚める午睡かな

狼にロ短調ソナタ弾く少女かな

淳作と直筆サイン入りの団扇で涼をとる

ミチアンナイに案内されて登る坂

わが泉ひとつ涸れたる白露かな

蟷螂に喰われながら鳴く油蝉

死に場所を選ばぬ蝉の潔さ

晩節を全うするは難し鎌倉蝶

資生堂パーラーで四千円のランチを食べました

銀座三越でキタムラの黄色い財布が買えました

この眼脂のこの臭さがおらっちの臭さだ

くたばれガン、死病を突き刺す不滅のタクトよ

東電から20年間400億もらったことを忘れたりして

ちょっとばかだけど超キュートマリリン・モンロー・ノータリン

可哀想だた惚れたってことで悲しいってこたあ死にたいってことよ

思いきや水の底より竜立ちて末の松山波越ゆるすとは

健ちゃんにひわいな花だねといわれつつ今朝も咲きたりモミジアオイ

その蟷螂は一本の長く黒い糸をひりだして死んでいた 

健ちゃんが草を刈ったる10袋そのどこに庭鋏が紛れ込んでいるのでせう

さりながら奴隷の音楽も美しいと美しい奴隷が言うた

おいらの最後の女それはアンヌ 僕ちゃんを見捨てないでねえとゴダールが泣いた 

「お父さん、桜は薔薇科だお」「えっ、ほんと?」調べてみたらそのとおり

長崎より飛んできた風蝶十三夜に死す

はるばると長崎揚羽辿り着き我が庭で終えるつかの間の命

真夜中に玄関の鈴ピンポンと一回だけ鳴る夜もあり

介護とは終わりなき自己犠牲らし秋海棠

私たちがいなくなったらだれがこのこのつめをきってやるのだろう

とどのつまりあんたのその崇神と愛国とやらがもっともっと大切なものを滅ぼすのだよ

やっこらせカールベームが振り起こすゆらゆら揺れるフィガロの序曲よ

参人の娘に日替わりで介護される母の無上の仕合わせ

猫か幼児かそれとも私が泣いているのか 蝶人

Wednesday, September 28, 2011

9月の終わりの風吹けば


ある晴れた日に  97

9月の終わりの風吹けば

チョンザイチョンザイオイーフービー

人世毎日ドデスカデン

川の上には風がある

風の上には山がある

山の上には空がある

チョンザイチョンザイオイーフービー

人世毎日ドデスカデン

空の上には雲がある

雲の上には月がある

月の上にはうさぎさん

チョンザイチョンザイオイーフービー

人世毎日ドデスカデン

うさぎの上には耳がある

耳の上には頭あり

頭の上には天使の輪

チョンザイチョンザイオイーフービー

人世毎日ドデスカデン

輪の上には光あり

光の上にはセミがいて

セミの上には羽根がある

チョンザイチョンザイオイーフービー

人世毎日ドデスカデン

ミンミンツクツクアブラゼミ

無為の奥山けふ越えて 

ここを先途と泣き喚く

9月の終わりの風吹けば

チョンザイチョンザイオイーフービー

人世毎日ドデスカデン

その蟷螂は一本の長く黒い糸をひりだして死んでいた 蝶人

Tuesday, September 27, 2011

アイザック・スターンの「ベートーヴェン選集」を聴いて


♪音楽千夜一夜 222

スターンのヴァイオリンはいつも明朗闊達でメロディをよく歌わせるが、時折音程に不安があり、ピアノやチエロとのハーモニーに無神経なところも散見するのは、彼に私淑した徳永二男にちょっと似ている。また芸格は超一流とはいえないが、人柄が素晴らしいのはかの小澤征爾にちょっと似ている。

彼の音楽を聴いていると、拳銃をぶっ放すがなかなか的に命中しない人の良いニャロメの保安官とか、なまくら大刀を引っこ抜いてたちまち宮本武蔵に切り伏せられる吉岡清十郎を思い出すのは、さだめし私だけだろうな。

なんだか悪口ばかり書いてしまったようだが、一枚二〇〇円そこそこの九枚組でベートーヴェンの協奏曲からソナタ、トリオの全曲をくつろいだ雰囲気で聴けるのはうれしい。ユージェーヌ・イストミンのピアノがときどき指がもつれて失楽園行きになろうとするのも蝶楽しいな。

健ちゃんが草を刈ったる10そのどこに庭鋏が紛れ込んでいるのでせう 蝶人

Monday, September 26, 2011

ジョージ・セルの「ハイドン交響曲選集」を聴いて


♪音楽千夜一夜 221

ジョージ・セルはナチスから逃れてジョージョ君などと英語で呼ばれるようになったが、同じハンカリー人のゲオルク・ショルティの姓と同じ綴りなのでゲオルク・セル選手と呼んでもよろしいのでせう。

しかしこのジョージョの練習はトスカニーニよりも厳しかったようで、名演として知られるこのハイドンの演奏の奥底にも怒鳴られ叱りつけられ怯えきった楽員の恐怖と緊張が焼き込まれているようで、その室内楽的なアンサンブルは絶妙なのだが、なにやらエトナ山頂で鑑賞させて頂いているような異様さが暗に感じられてならない。

脅迫された哀れな楽員たちはセロ弾きのゴーシュのように死に物狂いで弾いてはいるが、音楽のほんとうの喜びや楽しさは微塵も感じられず、空虚な美しさが垂れ流されていく。それは名演ではあるが、しょせんは独裁者による戒厳令下の奴隷の音楽なのである。私は王侯の音楽と同様奴隷の音楽だって嫌いではないが、それがロバのような私の耳に聴き取れることが怖いのである。

セルもトスカニーニも確かに名マエストロであり、幾多の名演を残したのは事実である。しかし私の考えでは、己の膝下の楽員を鞭とミュージカル・ハラスメントで威圧しないと己が完璧と信じる演奏が成就出来ない人は、その人格に欠損があるか、その脳内で鳴る彼の音楽にいささかの自信がないかのいずれかである。

かのフルトヴェングラーやクナパーツブッシュがほとんど言葉に頼らず、ほとんど「眼の一撃」だけで彼らの理想の音楽を誕生させることができたのは、彼らが暴力と強制による音楽作りを退け、愛と参加と共生による音楽を無から想像するすべを生まれながらに心得ていたからであらう。 

そういう意味では、セルもトスカニーニも可哀想な指揮者であった。

さりながら奴隷の音楽も美しいと美しい奴隷が言うた 蝶人

Sunday, September 25, 2011

四方田犬彦著「ゴダールと女たち」を読んで


照る日曇る日第456

「女は俺の成熟する場所だった」という、ここに記すだに気恥ずかしい小林秀雄の顰にならって、このたび著者が用意したのは、希代の気狂い監督ゴダールの変貌常ならぬ思想と映像哲学を、もっとも分かりやすい物差しをあてがってぶった切ろうという手法で、これがある程度ハマッっているのは同慶に堪えない。

 まずは「勝手にしやがれ」で一躍ヌーヴェルヴァーグのヒロインとして世界的に名を馳せたジーン・セバーグちゃん。黒人解放運動にかかわった彼女は謎の非業の死を遂げたが、若き日のゴダールのミューズであったことは間違いない。

デンマークから赤いスカートでふわりと巴里に舞い降り「気狂いピエロ」で一世を風靡した超キュートな現役アイドル、アンナ・カリーナとの嵐の4年間が破綻すると、お次はフランソワ・モーリアックの孫娘で現在フランスを代表する作家となったアンヌ・ヴィアゼムスキー選手。ゴダールと結婚した彼女は毛沢東思想にかぶれた「中国女」を演じさせられた。

あほばかヤンキー娘のジェーンフォンダ嬢を挟んで、お次は70年代から40年間にわたって現在までゴダールに圧倒的な影響を与え続けているアンヌ・マリ・ミエヴィル女史。極左冒険主義のドツボにはまり生と芸術の隘路で立ち往生していた孤独な主人公を救済したのは彼の同伴者にして師、批判者にして愛人である聡明な美女であった。

ひとたびは死んだゴダールをよみがえらせ、新たな創造の火を点火させた最大最高にして最後の女神こそ1985年製作「マリーの本」の女流監督なのであった。

おいらの最後の女それはアンヌ 僕ちゃんを見捨てないでねえとゴダールが泣いた 蝶人


Saturday, September 24, 2011

ドイッチエ・グラモフォンの「ザ・リスト・コレクション」を聴いて


♪音楽千夜一夜 220

リストのピアノ曲、オーケストラ曲、協奏曲、合唱曲、歌曲の代表作をえりすぐった34枚組のCDセットです。例によって1枚200円という超バジェット価格に目がくらんで買ってしまった「誰も聴かない大作曲家」の音楽ですが、買って良かった、聴いて良かった。これでこの知られざるコンポーザーピアニストの全貌がだいたいつかめます。

小澤・ツイマーマンの協奏曲やいま話題のアリス=紗良・オットの『超絶技巧練習曲集』なんて犬に食われろと思うくらいつまらないが、CD6枚分の宗教曲と同じく5枚組の歌曲は素晴らしい。

特にフィッシャー=ディースカウがバレンボイムの伴奏でうたう3枚組が絶品。これを聴けただけでもう大満足でしたが、リストが最も得意としたピアノ曲を余裕たっぷりに弾いてのけるホルヘ・ボレット、ラーザリ・ベルマン、ウイルヘルム・ケンプの大人の至芸にも感銘を受けました。

いやあリストって2流の音楽家だとは思うけれど、本当に好奇心が旺盛でクラシック音楽が大好きだったんですねえ。

「お父さん、桜は薔薇科だお」「えっ、ほんと?」調べてみたらそのとおり 蝶人

Friday, September 23, 2011

青柳いづみこ著「グレン・グールド」を読んで


照る日曇る日第455

グールドといえばバッハのゴルトベルク変奏曲だが、彼を世界的に有名にした1955年の録音は我が国でも吉田秀和氏のみのすぐれた聴力によって正しく評価されたわけだが、その前年の録音ではグールドはまったく別の解釈で同曲を演奏している。

前者ではご存知のようにスタッカートの鋭い刻みが強調された快速で疾走する即物的な演奏が旧態依然たるバッハ像を刷新したのだが、後者ではもっとテンポを落として自然に旋律を歌い込んでおり、いきなりこれを聞かされてグールドと言い当てる人はいないだろう。そして1981年の彼の最後の録音ではこれがもっと遅くなりほとんどロマンチックな演奏へと変身している。

1957年にカラヤン・ベルリンフィルとライブ演奏したベートーヴェンのピアノ協奏曲3番と、その2年後にバーンスタインとスタジオ録音した同曲とを聴き比べてもずいぶん違うし、1964年に完全にコンサートをドロップアウトする前とその後のグールドの演奏はもちろん全然違う。

ではいったいどの演奏が本当のグールドなのだろうか?

彼のありとあらゆる演奏、特に未発表のそれを丹念に聴きながらその正体を探り出そうとする著者の追及の手は、同業のピアニストらしく繊細にして苛烈であり、読者の関心を引きつけてやむことがない。

例えば後期ロマン派の音楽、とりわけシュトラウスを好み、若き日にはショパンを鮮やかに弾きこなしたグールドだったが、強大なフォルテを叩きだすべき右手の小指の肉が薄いうえに、彼の恩師ゲレーロが教えた「指先だけで弾く奏法」が仇となって、巨大なコンサートホールでリストやブラームス、チャイコフスキーなどのロマン派の大曲から遠ざかったと著者はいう。

身体の負荷のかからないバッハなどの演奏を、彼の大好きなロマンチックな解釈をあえて禁じて時流に先駆けた超クールでドライな高速ノンレガート奏法を採用したのは彼の音楽家としての戦略であり、この肉を切らせて骨を断つ捨て身の戦法が、「録音音楽家」としてのグールドのユニークな生き方をかろうじて成立させたのだろう。

無数の制約にがんじがらめにされ、その場限りで消えていくコンサート演奏ではなく、スタジオで録音した音楽をハイテクを駆使して独力で自由自在に編集・創造していく未来音楽の第一歩を、この天才は半世紀前に実践していたのだった。

玄関の鈴ピンポンと一回だけ鳴る夜もあり 蝶人

Thursday, September 22, 2011

ジュゼッペ・シノーポリの「マーラー交響曲全集」を聴いて


♪音楽千夜一夜 219

この人はいかにもインテリの音楽をやったヴェネツイア生まれのマエストロでありました。

ここでは1番から未完の10番までの交響曲に加えて「大地の歌」や「亡き子をしのぶ歌」など歌曲の代表作までマーラーの管弦楽曲を手兵フィルハーモニア管弦楽団の劇伴で12枚のセットに組まれ、なんと1枚300円の格安プライスで聴けます。

いずれも複雑でときどき怪奇でさえあるスコアを徹底的に読みこんだ演奏で(なんちゃって)、彼のタクトから流れ出す音の調べはいささかの晦渋さもとどめず、この曲を作ったマーラーがまるで私の隣家に住んでいる普通のオッサンのように思えてくるから不思議である。

2001年にベルリン・ドイツオペラでカルメンの第3幕を演奏中に心筋梗塞で54歳で急逝したシノーポリは80年代にはよく我が国を訪れ、お得意のマーラーなどを振っていました。

当時私はクラシックなんかよりインディーズのロックに心酔していたのですが、ある夜新宿ロフトのケラの「有頂天」の超満員酸欠ライヴで会場最前列左端のアルテックの巨大モニタースピーカーに押し付けられ、ために右耳の鼓膜を破られてしまいました。

忘れもしないその翌日がシノーポリ・フィルハーモニア管コンサートで、マーラーの5番が演奏されたのですが、いくらサントリーホールの2階席中央で耳を澄ませても4楽章のアダージェットが聞こえてこないのにはじつに閉口しました。

その思い出の5番も聴ける本全集ですが、今回私がもっとも感銘を受けたのはドレスデンのシュターツカペレとの「大地の歌」。これはワルター、クレンペラーと並ぶ名演奏だと思います。

とどのつまりあんたのその崇神と愛国とやらがもっともっと大切なものを滅ぼすのだよ

 蝶人

Wednesday, September 21, 2011

梟が鳴く森で 第3部さすらい 第20回


bowyow megalomania theater vol.1

くそ! それにしてもどうして僕とじゃなくて、あいつとなんだ! 

くそっつ、のぶいっちゃんめ! あいつだ。あいつが悪いんだ!

そうか、洋子が悪いんじゃない。のぶいちが、のぶいちのやつが洋子をそそのかして、だまくらかして、自分の思い通りにあやつっているんだ。

くそ! くそ! 許せん。許さない。

許そう。許せば。許す時。いや駄目だ。もう絶対に許せない。

よーし。ただじゃ済ませないぞ! もお絶対にのぶいちを許してはおかないからな!

私たちがいなくなったらだれがこのこのつめをきってやるのだろう 蝶人

Tuesday, September 20, 2011

トマス・ピンチョン著「競売ナンバー49の叫び」を読んで


照る日曇る日第454

佐藤良明の懇切丁寧な翻訳と注解に導かれて、今回はかろうじて最後まで読みおせたが、いったいこれは何なんだ。

熟れた人妻がサンフランシスコの黄昏をダシール・ハメットの探偵小説の主人公のようにさまよい始めるが、その彷徨はセリーヌの夜の果ての旅路よりも謎めいて不可解だ。

かつて淡く付き合っただけの大物実業家がヒロインに委託しようとした膨大な南加の土地、株、切手コレクション……。その莫大な遺産は、とうとうアメリカ合衆国全体へとふくれあがる。

他方では12世紀以来北イタリアに居住していたタッソ家が16世紀にブリュッセルで開始した郵便事業が次第に欧州全域に拡大し、フランスでの事業完遂を達成するためにかの仏蘭西大革命まで引き起こした!そうなんだが、野心的な一族はアメリカ大陸へも進出しようとして、ここ桑港一帯で数多くの国家権力と人民大衆を巻き込んだ一大陰謀が繰り広げられるのであるんであるんであるう……。

どうだ、驚いたか! この奇妙奇天烈荒唐無稽の阿呆馬鹿小説の野放図さに!

しかしこの古今東西にわたる複雑怪奇な世界を、形而上学的超高層から非形而上学的最深部に至るまで小さな大脳前頭葉一個で大精査想像創造し、ちびたトンボ鉛筆ただ一本で書きに書き殴るピンチョンの旺盛な作家根性には脱帽の他ない。

介護とは終わりなき自己犠牲らし秋海棠 蝶人

Monday, September 19, 2011

梟が鳴く森で 第3部さすらい 第19回


bowyow megalomania theater vol.1

12月8日 曇

昨日から洋子のやつは、のぶいっちゃんをやけに親切にします。

みだりに笑いかけたり、手を握り合って浜辺を散歩したりしています。

のぶいっちゃんはそんな洋子の髪の毛にちょっと口で触れて匂いをクンクン犬のようにかいだり、やたらと身体に触ったり、もうやたらベタベタして僕のことなんかてんで相手にしてくれません。

いったいこれはどうゆうことなんだ。これはいったいどうゆう訳なんだ。

これは僕がなにか洋子に悪いことでもしたからなんだろうか? 

それで急に僕のことがきらいになったからなんだろうか? 

いくら考えても分かりません。きのうだって洋子のやつ、僕とじゃなくのぶいっちゃんと一緒に寝やがって……

くそ!くそ!くそ! なんて悪い女なんだ! その前の夜はあんなに僕ちゃんのことを愛してくれたのに……

もう僕は女の子なんて信じられない。きっと洋子は、どんな男の子とだっていいんだ。あいつは誰とでも寝るような女なんだ、あいつは……。

晩節を全うするは難し鎌倉蝶 蝶人

Sunday, September 18, 2011

梟が鳴く森で 第3部さすらい 第18回


bowyow megalomania theater vol.1

いままで洋子も、死んだ文枝もただの女の子で、ただの友達で、特別の感情は全然抱いたことはなかったのに、どうして僕ちゃんは突然こんな訳の分からん気持ちにはまりこんでしまったのでしょうか?

ああ、たまらない、たまらない。切ないおう、切ないおう。困った。困ったおう。

こんなことは生まれてはじめてだあ。さあ、どうしよう。どういたらよいのだ。

と叫びながら、灰白色にかげってきた砂丘の頂上から盆のくぼみの奥底までぐるぐるぐるりんと自分から身投げして寝転びながら急速度で落下していくと、僕の頬も、髪の毛も、首も、胸も、パンツの中のオチンチンまでも砂だらけになってしまいました。

 

参人の娘に日替わりで介護される母の無上の仕合わせ 蝶人

Saturday, September 17, 2011

溝口健二監督の「雨月物語」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.147

上田秋成の原作をこの映画のために自在に企画・脚色した辻久一、川口松太郎、依田義賢、そして夢か現か幻かという映画世界を見事に具現化した美術、照明、撮影、音楽スタッフ、最後にヒロイン京マチ子の妖艶な美しさが光る邦画の名作です。

もちろん監督や森雅之、田中絹代、小沢栄太郎、水戸光子などの役者連中も健闘していますが、この映画では私たちが戦国時代の武士や貴人のたしなみとして認知している日本的な優雅幽玄風情なるものは、外国人にはことさら魅力的な世界として映じているので、かくべつ彼らが出演していなくともヴェネツィアでは賞が獲れたことでしょう。

しかもこの映画が描こうとしているのが、ほんとうの幸福は遠い世界の富や名誉ではなく手を伸ばせば届く厩の麦の温かさにある、とする古今東西に普遍するメーテルリンクの所謂ひとつの「青い鳥」の主題であったがために、全世界の共感を呼んだのでありませう。

それにしても京マチ子のエロスの濃厚なこと! このようなにょしょうに日夜挑まれ、組み敷かれてついに身を滅ぼしてしまうことこそおのこの甲斐性ではないか、と溝口は主張しているのです。

ミチアンナイに案内されて登る坂 蝶人

Friday, September 16, 2011

夏の死


バガテルop143♪音楽千夜一夜 218

行き合いの空には入道雲、九月よ永遠に続けとばかりここを先途と泣き叫ぶ油、ミンミン、つくつく法師、そして夜はぽっかりお月さまと、なかなか秋になりそうでならないこの季節が好きである。これで仕事にありつければもっといいのであるが。

この絶好のチャンスを利用して私が取り組んでいるのが、CDの風入れである。半日天日で干したそれらを一枚一枚特製の溶液をひたした特製の繊維布で拭きとり、経年変化で消耗した盤面の塵や埃や汚れを丁寧に取り除いているのだが、驚いたことにはそのうちのかなりの部分が損傷を受け再生不可能になっていた。

例えばカール・ベーム指揮のモーツアルトのオペラの大半やリヒテル、ホロビッツなど私の愛聴してやまない名盤およそ五〇枚が全滅してしまったのである。二枚のCDの間に挿入されていたウレタン製のうすい薄茶色のソフトカバーがボロボロに腐食し、その繊維素が盤面深く喰い入って無数の穴を開けてしまったのである。

ほんらいはCDの保護をすべきものが、その逆の役割を果たし、商品価値を台なしにしてしまうとは! 悲しみのあまり呆然と立ち尽くす私の脳裏に浮かんだのは油蝉の大合唱に伴われた滝廉太郎の遺作「憾」の調べであった。

やっこらせカールベームが振り起こすゆらゆら揺れるフィガロの序曲よ 蝶人

Thursday, September 15, 2011

ウイリアム・ワイラー監督の「大いなる西部」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.146

この映画のことを初めて知ったのは1958年の秋か冬で、お隣の火星社書店の店頭に並んでいた研究社の「英語青年」を立ち読みしていたときだった。

東部からやって来た船乗りのグレゴリー・ペックが清潔可憐なジーン・シモンズが所有する広大なテキサスの牧場を買いたいと申し出る。シモンズがそれでは敵対する2つの陣営の争いが激化するのではないかと躊躇すると、ペックが「アイアム・マッケイ。ジム・マッケイ」と言ってたとえテリル家の娘婿になっても義父の言いなりにはならないと意思表示する箇所のシナリオが和訳付きで紹介されていた。

原題はテキサスの広大さを誇示する「ザ・ビッグカントリー」であるが、東部の船乗り出身であるペックは、テキサスより広い海を知っているし、テキサスのあらくれ男よりもインテリで肉体も頑強である。そして旧来の陋習に囚われて私利私欲を追及するアホ馬鹿ガンマンのただなかに丸腰で割って入って結局諸悪の根源である頭目の親分を一騎打ちに追い込んで平和をもたらすという謙虚にしてビッグな男である。

それなのに婚約者のファザコン娘カロル・ベーカーは彼の素晴らしさを見抜けずとうとうシモンズに取られてしまうのだが、そういう浅はかな女に惚れたペックもあほである。

阿呆と言えばアホ馬鹿息子を持った父親の悲哀を存分に演じ切ったビア樽男バール・アイヴスの好演がジェローム・モロスの主題歌、ソウル・バスのタイトルデザインと共に忘れ難い。

以上を要するに、海と陸、西部と東部、正義と悪、首領と手下、支配者と被支配者、自然と人間、男と男、そして男と女の対立とひとときの宥和を悠揚せまらぬ巨大なスケールで描いた西部劇の傑作である。

     死に場所を選ばぬ蝉の潔さ 蝶人

Wednesday, September 14, 2011

相米慎二監督「セーラー服と機関銃」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.145

2001年に53歳で早世したこの四トロ出身の映画監督にはもっと多くの作品のメガホンをとってもらいたかった。私は彼が一流の映画監督だとはさらさら思わないが、「台風クラブ」「魚影の群れ」などに顕著な映像アナーキズムにはおおいに惹かれるのである。

日常の平静と秩序にいら立ちを覚える彼は、それを根底から覆す嵐や騒乱などの非日常的な光景とそれに翻弄される群衆の卑小さを描くことを好んだ。世界のいたるところで洪水よ起これ。しかるのちに新しき世は訪れん、こそは彼の人世哲学であり、彼の執拗な長回しやら人物の代わりにどうでもよいセットの小物へのフォーカス、かと思えば遠大な俯瞰、痙攣的に激動する移動撮影こそ彼の生理的なアナーキズムの反映であった。

本作ではどこにでもいる普通の女子中学生がヤクザの親分になって機関銃を連射し快感を覚えるが、これこそ原作者の赤川次郎と相米慎二の見果てぬ夢であり、この安直なカタルシスは1981年の本邦の微熱社会がもっとも必要としていたたぐいのものであった。

薬師丸ひろ子が唐突に主題歌をうたい、新宿伊勢丹前の雑踏でモンローの真似をしてスカートをメトロの疾風に舞い上がらせるところに相米流のアナーキーが発露されているが、

私がこの映画でもっとも好むのは、風祭ゆきと渡瀬恒彦の激しいファックシーンであることはいうまでもない。

 しかし残念ながら三里塚の争闘が完全に収まった1998年に製作された「あ、春」では、彼のゆいいつの個性的な特色であるこのエロスとアナーキズムは完全に姿を消してしまっている。

東電から20年間400億もらったことを忘れたりして 蝶人


Tuesday, September 13, 2011

ジュシュア・ローガン監督の「バス停留所」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.144

1956年に製作されたマリリン・モンローが出演しているのに、じつにつまらないハリウッド映画。その前の年にはビリー・ワイルダーが「七年目の浮気」で彼女のもつコケットリーを上手に取り出したというのになんという演出の下手くそさよ!

だいたい冒頭と最後に出てくる主題歌が超ダサイうえに、モンローを恋する若者が役どころも演技もどんくさいので、さすがの淀川長治さんだって、この映画どこも褒めるところがないので困ったのではないかと思ってしまう。

しかしマリリン・モンローは不可思議な魅力と謎に包まれた女優であった。ジェームズ・ディーンと同様、もっと長生きしていろんな映画に出て欲しかった。

ちょっとばかだけど超キュートマリリン・モンロー・ノータリン 蝶人

Monday, September 12, 2011

東博の「空海と密教美術展」を見物して


茫洋物見遊山記第63

国宝・重文率98.9%という惹句につられてはるばる上野の森に出かけてはみたものの、猛烈な暑さと人の波で早々に退散。曼荼羅のパワーを浴びてくたびれ果てた心身が甦るどころか、もう少しで卒倒するところだった。

だいたい私は仏教に興味はあっても、そもそも密教とか曼荼羅なんかにてんで興味がないのであった。司馬遼太郎の最良の本を読んで以来人と宗教家としての弘法大師には興味を抱いてはいたが、どちらかといえば今でも伝教大師のほうが好きである。

中国から直輸入した密教の極意をライバルの最澄にすべて伝授するのを嫌がる空海の権謀術数も嫌いだし、彼の政治的策動も忌まわしさの限りだし、ついでにいえば彼の書も三筆などと世間でらあらあ騒ぐほど大したものとは思えない。

平安の二人の偉大なる宗教家死してのち現代に至る日本仏教の系譜において人々に圧倒的な影響を及ぼしたのは空海と真言宗ではなく最澄と天台宗であったことはよく知られているが、にもかかわらず平成の善男善女がこの「お大師さん」に限りない親和を感じていることだけは当日の雑踏に振り回されながらよく体感できた。

今となっては空海も最澄も、後代の法然と親鸞に否定され、乗りこえられることにおいて絶大な意義を発揮した過去の宗教思想家であろう。

蟷螂に喰われながら鳴く油蝉 蝶人