照る日曇る日第452回
著述、翻訳、編集、プロデュースと八面六臂の大活躍を持続する著者の最新作が「壷中に月を求めて」と副題されたなんと526頁という浩瀚の書です。
渡辺海旭は明治5年1872年に浅草田原町の蛇骨長屋に生を享けた貧民の子でしたが、苦学力行して僧となり、長じては漱石と同時代に欧州に学び、腐敗堕落した既存仏教と教育を革新し、本邦初の社会事業を起こし、アジアの独立運動を援け、明治・大正・昭和初期を骨太に走り抜けた怪僧でした。
とくに注目すべきは、その全方位に越境し続けた海旭のマルチプレイヤーぶりです。
宗教家としては第1次浄土宗海外留生として独ストラスブルク大に赴き、泰斗ロイマン教授の元で11年間に亘ってサンスクリット語、チベット語、パーリ語を学んで比較宗教学を修め、新旧のキリスト者、社会主義者、若き日のシュバイツアー博士とも交わる第1級のコスモポリタンでしたが、帰国後は明治の近代化の中で汚泥に塗れつつ伝統仏教の再生に大きく貢献します。
教育家としては母校芝中学の校長を22年間務める傍ら東海中学、現大正大学、東洋大学、国士舘大学の設立・運営にかかわって幾多の人材を育て上げ、また労働者救済運動に宗派を超えて取り組んだ海旭は、日本で初めて「社会事業」という言葉を造語した人物といわれています。
さらに驚くべきは彼の膨大な交流ネットワークで、新宿中村屋を創業した相馬黒光、清濁併せ呑む右翼の巨怪頭山満、インド独立運動の闘士ボース、社会事業家の賀川豊彦、カルピスを創業した三島海雲、文学者の土井晩翠武田泰淳、映画監督の今井正等々、ひとつの器には到底おさまりきらない桁はずれのダイダラボッチといえましょう。
海旭没して70有余年。本書が指し示すその巨大な構想力と破天荒な行動力、融通無碍の瞬発力を目の当たりにして、幸福なる少数の読者は必ずや大いなる刺激と示唆を禅譲されることでしょう。
銀座三越でキタムラの黄色い財布が買えました 蝶人
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