Saturday, June 23, 2012

古井由吉自撰作品6「仮往生伝試文」を読んで




照る日曇る日第520


「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」なぞと孔子のように悟り済ませればいいのだが、われらの人生、いつどこでどのように終わるのやら君子聖人でさえ予知できぬとあれば業平卿のごとく「ついに行く道とはかねて聞きしかどきのうきょうとは思わざりけり」とうろたえつつ、今生の暇を乞うほかはなさそうである。

しかし何事につけても事前に心の準備をしておけば、いざそのときの周章狼狽、見苦しき振舞いのいくばくかは避けられるかも知れない、などと浅間しいことを考えつくおのこがいたもので、この古井由吉なる御仁もご多分にもれずあれやこれやの前例を取り出しては畳の上の水練を敢行しようとしている。げに哀れというも愚かな話である。

しかし定家の「明月記」(漢文!)を息を凝らして読み込んで、齢90を越した父俊成のかなり長く続いた臨終を、とって43歳になった息子が執拗に追いかけているくだりはなかなかに面白い。元久元年の師走も近づいた11月の夜半に北山から届けられた雪を口に含み、

めでたき物かな、猶えもいはれぬ物かな。おもしろいものかな。

と子の親切を心から喜び、その翌日、定家が見守るうちに静かに息絶えた大歌人の大往生こそ、われらがのぞんでも果たせない理想の最期であろう。

見渡せば花も紅葉もなく、後期老齢者だけが右往左往しながら老老介護に明け暮れる今日この頃、古今の事例が縷々紹介されている本書を参考にして、自分なりの理想的な死に方を研究してみたいものである。


茣蓙の上で仰向けに往生しており忠犬ハチ公 蝶人


*日曜日の特別付録 なかなか興味深い劇評をご紹介しませう。

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