Monday, February 28, 2011

ヒッチコック監督の「フレンジー」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.101

1972年に英国で制作されたサスペンス映画の秀作です。冒頭のテムズ川上空を俯瞰するヘリ空撮から始まって川岸に寄る連続ネクタイ殺人事件の女性被害者のクロースアップまで観客の目をくぎ付けにするヒッチのキャメラワークはあざやか。

 最初は怪しい男と疑われたジョン・フィンチが犯人ではなく、フィンチにやたら親切めかしをしていたバリー・フォスターが真犯人と判るまでのストーリー展開もなめらかです。

うわべは温厚な紳士面をしていても、内面は異常性が隠されている。そんなよくあるタイプの人間性を、ヒッチはこの映画で執拗に追及します。あたかもそれが彼の隠された自画像であるがごとくに。

好みの女性を追い詰め、ソファーに押し倒し、無駄な抵抗をあきらめさせ、自分で下着を脱いだ犠牲者の乳房をいやらしく舐め上げる卑猥なキャメラ。そして仕方なくレイプされながらも、それを意識の外側に追いだすために詩を諳んじている女性の顔を執拗に映し出す視線。それがヒッチコックというfrenzyな「逆上男」なのです。

どうにも救いのないこの映画の陰惨さを救っているのが、捜査に当たるオックスフォード警部の妻。同じ女性でありながら、彼女をみつめるヒッチの視線は温かくユーモラスです。英国人でありながらフランス料理に夢中になっているこの平凡な主婦の女の直感が、この前代未聞の連続ネクタイ殺人事件を解決に導くのでした。


筆一本生きることの悲惨と栄光 茫洋

Sunday, February 27, 2011

西暦2011年如月 茫洋狂歌三昧

♪ある晴れた日に 第85回


口を「あ」の形にして死んでいった少年

その少年に僕はムクをひどいめにあわせやがってと怒鳴った

もう生きていても仕方がないのと母親が言う

エイハブの胸に迫りし白き牙明日はわれらの胸にも迫る

現代より古代が優れるもの多し文化文明人間思想

国境の彼方に二人を引き裂いて今年の夏もひまわりが咲く

くそったれ2カ月も発注がなければ自由業は干上がっちまうよ

豚食えば吐き気すこれ飽食の原罪ならむ 

僕らは思惟のみ役立たずの脳無し能無しに生きる■蟻や梨や

いたつきのために売られし司馬江漢遠近画法の海の絵いずこ

三人の鼾は全然違う

アイーダを視聴しておるのに「震度3」

ハイドンの「五度」聴き終えて春の雪

ヤマガラとメジロとシジュウカラが一度に訪れし我が庭よ

人間なのに尻尾が出たと騒ぎしが尻から出たる回虫なりき

茅ヶ崎の教会堂に響き渡る母喪いし青年の大きな泣声

母親を六九歳で喪いし自閉症青年が歌う「神共にいまして」

無能無知無価値な子の尊さわれのみぞ知る

ビデオ捨てLD捨ててDⅤDも捨て同じ映画をBDで録る

小泉福田安倍麻生鳩山菅出てくる奴は皆皆悪い

欧米で流行っていればなにごともパクリとぱくってお手柄にする

可笑しくもないのに笑うひとよと言いし女を訳も無く憎む

平然とシルバー席につく若者をふと殺したくなる冬の朝かな

立ったままジャパンタイムズを読んでいる京急バス内のインド人

スギタニルリシジミのスギタニ氏とはいかなるひとならむ

卒塔婆一本先祖代々癌の家


  佐々木眞午後六時也薄陽差 茫洋

Thursday, February 24, 2011

チャード・シッケル監督の「クリント・イーストウッドの真実」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.100

2010年にクリント・イーストウッドへのインタビューを軸としてビデオ収録されたスマートな作品回顧録。ローハイドの時代からダーティハリー、許されざる者、硫黄島、グラントリノ、09年のインビクタスまで、制作当時のエピソードを交えてリチャード・シッケルが要領よく編集している。インタビュアーはモーガン・フリーマン。

イーストウッドはゴダールと同い年の1930年生まれの老人だが当節101歳で「ブロンド少女は過激に美しく」を撮ったばかりのマノエル・デ・オリヴェイラ監督をみならってこれからもが、意欲的な新作を世に贈ってほしいものである。

番組の最後でイーストウッドは、彼がずっと住み続けている西海岸の小さな村カーメルを称え、ここが彼の活動の魂の根拠地であること告白する。太平洋の波が緑の丘陵に静かに打ち寄せるこのリゾートは、一目見ただけで彼ならずとも「ここに住みたい」と思わせるに足る風光明媚の地である。

一方、喧噪のパリから退去したゴダールが立てこもっているのは、スイスの片田舎ロールで、世間から取り残されたようなこの地ののどかさも忘れ難い。いずれも老いてなおひたすら前人未到の創造の世界に挑むシネアストにふさわしい隠れ家である。

母親を69歳で喪いし自閉症青年が歌う「神ともにいまして」 茫洋

Wednesday, February 23, 2011

デ・シーカ監督の「ひまわり」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.99


ヴィットリオ・デ・シーカ監督がお馴染みソフィア・ローレンとマルチエロ・マストロヤンニを起用して1970年に映画化した涙なしには見られない戦争悲話の決定版です。

いきなりマンシーニの主題歌が鳴り響いて黄色い無数のひまわりがスクリーンいっぱいに咲き誇れば、にわかに悲劇の予感がたちこめ、前半の能天気な2人の熱愛振り、そして後半の深刻な愛の亀裂とラストの哀切きわまりない別れまで、名匠デ・シーカのメガフォンは冴えわたります。

いつまで待っても帰ってこない夫を尋ねてソ連まで出かけた妻でしたが、愛しの夫は彼を助けてくれた若いロシア人女性と結婚して娘までもうけていたのです。夫の顔を見るや否や目の前の列車に飛び乗って帰国してしまった妻に気持ちは痛いほど分かります。

そして今度はその夫が妻の住むミラノを尋ねるのですが、時あたかも嵐の夜で停電となる。雷が鳴り、稲光が2人の顔を照らすなかでの再会でしたが、とぎれとぎれの会話が切ない。そして妻にも息子があり、その名が夫と同じアントニオ!

お互いがまだこんなに愛し合っているのに、時間を元に戻すことの不可能を知った2人にできることは、永遠の別離。ふたたび汽車は出てゆく煙は残る。今度見送るのはソフィア・ローレン。ミラノ中央駅の大鉄傘の向こうの青空が切なく胸に沁みる映画史屈指の名場面です。

二つの国の二組の家族の住まいが、前半は田舎で、後半は都会の無機的なコンクリート住宅に変わってしまという演出が、「時代も恋も青春もふたたび還らず」という悲劇性をいやがうえにも強調しています。ローレン、マストロヤンニの名演に加えてリュドミラ・サベーリエワが忘れ難い味わい。


国境の彼方に二人を引き裂いて今年の夏もひまわりが咲く 茫洋

Tuesday, February 22, 2011

カジャー・ドナルドソン監督の「リクルート」をみて

 
闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.98

2003年にロジャー・ドナルドソン監督が撮ったアメリカ流の就職活動映画である。

この映画のタイトルは、英語で原義は新兵とか兵隊志願というのが転じて、入社志願や志願者を指すようになった。同名の企業がわが国にあるが、この会社の創業者は本邦初の求人広告会社をつくったときに、あえてこの軍隊用語を使用したのであるが、当時もいまも平和ボケの帝国人民は、戦争とは無関係にこの言葉を平和利用して使っている。

映画の主人公は、あら懐かしやアル・パチーノ。彼はなんと影の軍隊CIAの新人採用教育係という一風変わった役柄で登場し、ほとんどパソコンメーカーのデルに採用が決まりかけていた優秀な新卒のコリン・ファレルを、国家の正義のためというご大層な美名でひっこ抜くのである。

 でもデルとCIAなら、普通はデルを選ぶのではなかろうか。私は富士通だが。素人たらしのアル・パチーノは、なんなく世間知らずの若者をリクルートしてファレルを精鋭に養成するのだが、ここから映画は思いがけないどんでん返しとなって、あれよあれよのクライマックスに突入する。

 音楽はだめだが、脚本がよく練られているので、2時間をそれなりに楽しませてくれるB級映画のB映画である。


もう生きていても仕方がないのと母親が言う 茫洋

Monday, February 21, 2011

デ・シーカ監督の「ああ結婚」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.97

1964年に名匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督が映画化した「イタリア式結婚」という原題の映画です。誰と誰が結婚するかというと、ナポリの娼婦ソフィア・ローレンが超色男のマストロヤンニと結婚するのです。

どこがイタリア式かというと、次々に新しい女に手を出すマストロヤンニに頭に来たローレンが危篤状態に陥ったふりをして「一生のお願いだから死ぬ前に結婚式を挙げて」と拝み倒してまんまと挙式してしまうところがたぶんイタリア式なのでせう。

死んだはずのお富がいきなり甦ったので与三郎は逆上しますが、お富さんはひそかに3人の息子を養育していた。そのうちの1人はマストロヤンニの子供であるとかないとかほのめかすので、与三郎はお富を亡き者にしようとさへ思ったのですが、てんでできなくなってしまいます。

「やい、てめえ、おラッチの息子はどれなんだ。いいかげんにおせえろ。おせえないとひどいめに遭わせるからな」

などとすごんで地べたでもみ合っているうちに、ふぃと眼に入ったお富の白い肌と朱色の艶な唇。ひっぱたくはずの手のひらがつい乳房と背中にまわされてぐるぐる回る草の上。何十年振りかの熱い抱擁に再び燃え上がった青春の熱き血潮と吹きあげる劣情の嵐……

その翌日、2人はもういちど第二の、そして本当の結婚式を挙げるのでした。映画は初めてマストロヤンニを「パパ」と呼んだ息子の言葉にどんな苦しい日にも流すことのなかった一掬の涙をこぼすローレンの姿でおわります。メデタシ、メデタシ。


その少年に僕はムクをひどいめにあわせやがってと怒鳴った 茫洋

Sunday, February 20, 2011

ルイ・マル監督の「恋するシャンソン」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.96

1997年にアラン・レネが撮った「この唄知ってる!?」というタイトルの、レネらしい風流な一作。アニエス・ジャウイ、ジャン・ピエール・バウイ、サビーヌ・アゼマ、アンドレ・デュソリエ、ランベール・ウイルソン、ジェーン・バーキンなどの芸達者連中がじゃんじゃん出てきて、名監督の手のひらの上で自在にタコのように踊らされる。

ストーリーなどどうでもいいから書かないが、まあ現代おフランス・コントとでもいうべき小噺の周辺で、老若男女がひっついたり離れたり、病気をしたりしなかったりするのであるが、彼らの会話のつなぎをジョセフィン・ベイカー、エディット・ピアフからジェーン・バーキンまでのフレンチポップスが続々と登場し、その歌詞を俳優たちが口パクで歌うことである。

ちなみにみずからも出演しているジェーン・バーキンが、彼女のヒット曲「QUOI」を、これは口パクでなく彼女自身が歌うところも興味深いものがある。かつてこれと似てちょっと違うコンセプトの映画「ラジオデイズ」を、ウディ・アレンがあざやかに演出してのけていたが、この方面への展開としては、ゴダールが「気狂いピエロ」でやってのけたアンナ・カリーナとJ・P・ベルモンドの即興的なミュージカルシーンを凌駕するものは、これまでもなかったし、これからもないだろう。

小泉福田安倍麻生鳩山菅出てくる奴は皆皆悪い 茫洋

Saturday, February 19, 2011

イェジ・アントチャク監督の「DESIRE FOR LOVE」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.95

ショパンを主人公にした映画の試写会があるというので拝見させていただきました。原題は「愛の欲望」というのですが、邦題では「ショパン愛と哀しみの旋律」となっていて、今年3月に銀座のシネスイッチで公開されるようです。

この「DESIRE FOR LOVE」というタイトルは、この映画の本質をかなり正しく言い表していて、映画はたしかにショパンの生涯を追う音楽映画ではあるのだけれど、それは表面だけのことであって、むしろショパンの愛を求めるフランスの閨秀作家ジョルジュ・サンドとその娘ソランジュの愛の相克がテーマになっていると考えられます。

サンドとその娘はショパンへの愛の欲望をむき出しにしていますが、肝心のショパンはそうでもない。はじめのうちは人妻の濃厚な色気に夢中になりますが、だんだん肺結核が進行していくせいもあって、生の焦点が性から音楽自身に変わっていく。そうであればあるほど、ソランジュなどは一途にイケメンショパンを求めるわけです。

いっぽう下手くそな絵描きのモーリスは、最愛の母親の愛を奪う男が憎くて憎くてたまらず、折あらば恋敵の命さえ奪ってやろうと考えている。ですから1847年、ショパン37歳の年のサンドとの決別は、サンドの純愛が子供たちの複合愛に敗北した結果であるとも言えましょう。

ポーランド映画界が総力を挙げて取り組んだだけのことはあって、ふんだんに鳴り渡るピアノの詩人の名曲や、恋するファミリーが同居したスペインのマヨルカ島やフランス中部のノアンのサンド邸などの現地ロケも登場して耳目を楽しませてくれますが、どういうわけかショパン最晩年のロンドン生活と女性関係についてまったく触れられていないのが残念でした。

久しぶりにスクリーンで映画を鑑賞したのですが、普段自宅の液晶テレビで見ているブルーレイレコーダーで録画した美麗な画質に比べると著しく見劣りします。これからは劇場映画も、デジタル高画質化が要求される時代になるのではないでしょうか。


 ビデオ捨てLD捨ててDⅤDも捨て同じ映画をBDで録る 茫洋

Friday, February 18, 2011

ヒッチコック監督の「サイコ」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.94

1960年制作のヒッチのかなり怖いサスペンス映画。母親との関係がゆがんでいた二重人格的なアンソニー・パーキンスがジャネット・リーを襲うシーンは緊迫感が漂うが、このシャワー殺人の場面を映像だけで見てもそれほど怖くないのは、いかに音楽のベルナード・ハーマンが大きく貢献しているかのあかしだろう。

一説ではタイトル・デザインを担当したソウル・バスがこのシーンのコンテを描いたそうだがむべなるかな。彼はこの作品のみならず数多くの映画タイトルをデザインしたが、世界でもっともはやくCIやコーポレートデザインの考え方を提唱し、実践した人物として歴史に名をとどめている。

私はこの人の名前をはじめて耳にしたとき、「精神を内蔵したバス」を想像して面喰ったものだが、「デザインになにができるか」という仮説を立て、その考えを極限までおし進めた功績は大きい。彼はその名にふさわしい偉業をなしとげのかもしれない。

ちなみにかなり早い時代からこの御仁と提携した広告代理店の電通は、大企業にCIをやらせることで大儲けしたのであった。


欧米で流行っていればなにごともパクリとぱくってお手柄にする 茫洋

Thursday, February 17, 2011

カーティス・ハンソン監督の「LAコンフィデンシャル」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.93

1997年制作のワーナー映画でロサンジェルス市警内部の乱れに乱れた内情を内側から検証するような警察・犯罪・ギャング映画である。

日本の警察や検察も腐敗堕落の極に達しているかに見えるが、ここで描かれているそれはそんな生易しいものではない。絶対の正義と立身出世を求めて仲間を売ることも辞さない警官もいれば、赤塚不二夫の漫画に出てくる警官のように、かっとなると見境なしに発砲する兇暴なお巡りもいる。極めつけは気に入らない警察官を極秘で暗殺したりする私設テロ組織の長で、こいつがロス市の権力と癒着してよろしくやっているという構図は、恐らく50年代の現実を相当程度に反映したものだろう。

ともかくどいつが正義でどいつが悪なのかすらよく分からないまま、やたらドンパチ銃弾が飛び交い、いちおうの正義の味方がいちおうの悪の権化を背中から撃ち殺して一巻の幕となるが、このあとのロス市警はどうやって組織と市民の信頼を取り戻せたのかが非常に気になって来る「万人が万人の敵である」というホッブス流を地でいくような拳銃無宿哲学教訓映画である。

出演はケビン・スペーシー、ラセル・クロウなどでキム・ベーシンジャーが色っぽいところを見せている。

三人の鼾は全然違う 茫洋

Wednesday, February 16, 2011

クリント・イーストウッドの「パーフェクトワールド」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.92

1993年にクリント・イーストウッドのメガフォンと助演、ケヴィン・コスナーの主演で映画化された問題作品です。

この映画の主題は親子のパーフェクトな関係、あるいは理想的な父親像について考えてもようよ、ということだと思うのですが、映画の中でその答えがうまく出たとはいえず、ますますこんがらがってきたという印象が強いのです。

刑務所から脱走してテキサスの警官イーストウッドに追われるケヴィン・コスナーは、父親から虐待された暗い過去を持つ男です。彼が逃亡の途次でひょんなことから人質にとった少年も、早くに父親と死に別れ、「ものみの塔」に属する母親の元で育てられた影が、根深く巣食っています。

そこで奇妙なことに、いくども逃げる機会があったにもかかわらず、コスナーに理想の父のイメージを仮託し幻想した少年は、コスナーをどこまでも慕い続けるのです。しかし少年は、かつて父親に虐待された逃亡犯が、同じようにわが子を虐待する黒人に逆上していまにも殺そうとするのを見て、思わず拳銃の引き金を引いてしまいます。

この映画の中で、ケヴィン・コスナーは基本的には善人なのですが、凶悪な父親にいじめられたトラウマに災いされて、激情に駆られれば殺人も犯してしまう情動的で不安定な人格の持ち主として設定されているようです。

そのことを知っている警官イーストウッドと相棒の犯罪心理学者ローラ・ダーンは、コスナーを自首させようと最後まで務めたのですが、結局FBIの冷酷非情な銃弾で息の根を止められてしまいます。

ふだんのイーストウッド映画らしからぬ後味の悪い幕切れです。


可笑しくもないのに笑うひとよと言いし女を訳も無く憎む 茫洋

Tuesday, February 15, 2011

マリオ・バルガス=リョサ著「都会と犬ども」を読んで

照る日曇る日 第408回


はじめはちっとも面白くないガキ小説かと文句を言いながら読んでいましたら、終わりごろ、全体の4分の3くらいから俄然面白くなってきて、最後は「さすがノーベル賞作家だけのことはあるなあ」と脱帽の一冊でありました。

著者はその都会的・文学的にねじ曲がった根性を叩き直すために、ペルーの少年士官学校に放り込まれたようですが、その寄宿舎生活での体験が色濃く反映された半自伝的な小説です。

そこでは飲酒、盗難、脱走、裏切り、不純異性交遊など、若き軍人候補生同級生たちが陥る乱脈で放恣な生態が赤裸々に描かれるとともに、上司である教官たちの腐敗堕落した無様な態度も暴きだされ、いずこの国にも共通する軍隊の非人間性と気狂い部落振りが鮮やかに活写されています。

しかし地獄にも仏がいまし、泥池にも蓮の花が咲くように、娑婆から隔離されたこの煉獄にも、清く正しく美しい魂の持主がいたのです。弱い仲間をいじめ、「悪中の悪」であったはずの少年、そして愚直なまでに己の信念を貫き通す指導教官が本書の最後に交わす短い会話が、私たちの汚辱にまみれた日常生活に一条の清風を吹き込んでくれるに違いありません。


息子は一筆一筆妻は一針一針私は一字一字 茫洋

Monday, February 14, 2011

クリス・マルケル監督の「ラ・ジュテ」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.91

1962年制作のフランスのSF映画です。舞台は第3次世界大戦後のパリ。あらすじはこれもウイキペディアからまるごと引用すると、

「廃墟と化し、戦争を生き延びた数少ない人類は、勝者の支配者と敗者の奴隷に別れ、地上から地下へ逃れて暮らしていた。科学者たちは「過去」と「未来」に救済を求め、奴隷を使った人体実験で時間旅行を試みるが、実験結果は、どの奴隷も廃人になるか死亡し、失敗に終わる。しかし、新たに選ばれた、少年時代の記憶に取り憑かれた男は、人体実験の末、「過去」に送られるのだが、正常なまま帰還する。実験は繰り返され、男は何度も「過去」へと送り込まれる。彼は少年時代にオルリー空港の送迎台で、凍った太陽とある女の記憶を心に焼き付けていた。そして、記憶の中の女との再会を果たす。一連の実験の成功を受けて、男はついに「未来」から医薬品などを持ち帰る任務が与えられ、「未来」へと送られる。そして、ついには世界を救うエネルギーを「未来」から持ち帰る事に成功するのだが…」

という、分かったような分からないような、つまりは典型的なステレオタイプのSF映画といえるでしょう。普通のSFと違って特殊合成をせずに通常のロケシーンを幻想的・回顧的・未来的に見えるようにつないでゆくのですが、同じような手法で異次元へとあざやかにトリップしてみせたゴダールの「アルファビル」に比べればその出来栄えの貧弱さは一目瞭然です。

しかしもしかするとゴダールは、この実験的な作品をヒントにしてあの素晴らしいSFを短期間で完成したのかも知れません。

口を「あ」の形にして死んでいった少年 茫洋

Sunday, February 13, 2011

イングマール・ベルイマン監督の「秋のソナタ」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.90


母と娘はどうしてこれほどまでに憎み合わなければならないのか、とつくづく思わされるベルイマンの1978年制作の本作品です。

国際的に著名な歌手を演じるのは大女優イングリッド・バーグマン、そして娘役はこれまたベルイマンの昔からのお気に入りのリヴ・ウルマン。新旧スウエーデン出身の偉大な女優が名匠ベルイマンのメガフォンでガチンコの演技対決を行った結果は、ウルマンの圧勝でした。

仕事にかまけ、自己中でウルマン扮する長女のみならず障碍を持つ妹の育児も放り出して歌手のキャリアとステージのスポットライトしか眼中になかった悪い母親役を、その生涯の最後に演じさせられたバーグマン。ウルマンの涙の熱演の前では完全な悪役で、気の毒というほかはありません。

しかし「カサブランカ」ではあれほどの美貌に輝いていた顔が、こうも高慢頑固なおばあさんに変容したとは、ベルイマンも非妥協的で残酷な映画を撮ったものです。この人の演出では、演技が演劇や映画の枠をはみ出して、裸形の人間同士のぎりぎりのつばぜり合い、せめぎ合いに転化する瞬間があるように思うのですが、それがベルイマンの狙いなのか、それとも天与の余慶なのかは、いつもよく分からないのです。


スギタニルリシジミのスギタニ氏とはいかなるひとならむ 茫洋

Saturday, February 12, 2011

世界文学全集「短篇コレクション2」を読んで

照る日曇る日 第407回

池澤夏樹選手が独断と偏見で選んだ全集短編の第2弾です。1回目は期待外れの内容でがっかりさせられましたが、今回は全19編のうち2本も当たりがありましたから、まずまずと言うべきでしょうかねえ。

しかし出来栄えの良し悪しはどうでもいいとして、これらの短編を作者が立ちあげる有様を眺めていると、形も色も大きさもさまざまな繭の中で、いろいろな蚕たちが頭を上下左右に振りながら細く透明な糸をおのれの周囲に吹きかけている光景が思い浮かんできました。作家だけでなく、人は生きていくために、自分だけの無数の小さな物語を紡ぎ出す必要に迫られているのかも知れません。

 さて本巻の当たりのひとつは、馬がバーでお酒を飲んだり,人間たちと楽しくお話をするレーモン・クノーの「トロイの馬」です。トロイ出身の、木馬ならぬ実物の馬がカウンターに腰掛けて、主人公の男女にジンフィズをおごったり、煙草の煙を天井に吹きあげながら、

「じいちゃんがケンタウロスで、ばあちゃんが普通の馬だったので、メンデルの法則に従ってほら、こういう結果になりました。妹の姿は「アマゾン族の戦い」という絵に描かれています」

 などと自慢するのがまったくさまになっていて、素晴らしい。ちなみにクノーは「地下鉄のザジ」の原作者でもあります。

 2本目は同じくフランスの作家ミシェル・ウエルベックが、カナリア諸島での滞在をネタに書き上げた「ランサローテ」。主人公が島で知り合った2人のドイツ人女性と行きずりのセックスをするのですが、お仲間のベルギー人男性は誘っても参加しないまま一人だけ先に帰国してしまう。

やがてパリに戻った主人公は、くだんの男性が、なにやら怪しい新興宗教団体に加盟して少女淫行に罪で起訴されたことを知る、という,はじめは楽しく終わりは物悲しい艶笑小説なのですが、主人公がレスビアンの2人の女性と3Pをやってのけるセックスシーンがとてもいきいきと描かれています。平然と「おまんこ」を連発する野崎歓の翻訳も、壺に嵌まって快感を呼びます。

豚食えば吐き気すこれ飽食の原罪ならむ 茫洋

Thursday, February 10, 2011

文化学園服飾博物館で「アンデスの染織」展をみて

茫洋物見遊山記第53回&ふぁっちょん幻論第62回

アンデスといえば私のカボチャ頭には、新宿南口でよく見かける汚らしい身なりの楽団が演奏している「コンドルは飛んで行く」やマリオ・バルガス=リョサやインカやナスカ文明くらいしか思い当たりませんが、ここいらへんではおよそ2500年に亘って独創的な文明文化が栄えてきたそうです。

現在のペルーからボリビア北部の総称であるアンデス地方では、古来良質な木綿やアルパカなどの獣毛と豊富な染料に恵まれたために、織物、編み物、染物など多種多様な染織展開されてきました。そしてこの会場を訪れた人は、紀元前1000年のチャビン期から2-4世紀のナスカ、6-7世紀のワリ、12-14世紀のタンカイやチムー、そして16世紀の有名なインカ文明の時代まで、場所と時期を移しながらその様相を変化させてきたアンデス様式の多種多様な染織のバリエーションを堪能することができるでしょう。

鮮烈な赤をバックに映える単純素朴な鳥や人物や魚、わが国の万葉時代をしのばせる貫頭衣、独特の神話的な文様などがわれらを遠い異郷へと導きます。

以上、例によって同博物館の資料を元にご紹介しました。なお同展は来る3月14日まで開催中。日曜・祝日は休館です。


現代より古代が優れるもの多し文化文明人間思想 茫洋

Wednesday, February 09, 2011

スピルバーグ監督の「ジョーズ」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.89

避暑客でにぎわう海水浴場に現れた巨大な孤影ひとつ。スピルバーグは、すでに人肉の旨みを知った人喰い鮫に立ち向かう3人の男たちの死力を尽くした戦いを壮絶に描きます。

警察署長のロイ・シャイダー、鮫研究員のロチャード・ドレファスも個性的だが、観客にもっとも強烈な印象を与えるのは地元のあらくれ漁師のロバート・ショウでしょう。1本の銛を握りしめて船首に仁王立ちになり、獰猛な人喰い鮫の頭に投げつける雄姿はハーマン・メルヴィル原作の「白鯨」の主人公エイハブ船長に酷似しています。そしてエイハブがモービーディックと銛で戦ってその腹の中に消えたように、哀れ漁師もまた人喰い鮫の餌食になるのです。

大海原の主と1対1で繰り広げられる直接対決の凄まじさはこの映画のハイライトですが、その壮絶な戦いを観ているうちに、人喰い鮫は荒ぶる神やゼウスに、漁師は創造主への反抗を貫く反逆者ドン・ジョバンニ、あるいはプロメテウスのような神話の中の英雄のように思えてくるから不思議です。

しかしかつては世界中の海の王者として君臨し、かよわき人間どもを思いのままに喰い尽くしていたジョーズも、いまではその反対に餌食の人間から逃げ回る卑小で哀れな存在になり下がろうとしています。


エイハブの胸に迫りし白き牙明日はわれらの胸にも迫る 茫洋

Tuesday, February 08, 2011

鎌倉国宝館で「肉筆浮世絵の美」展をみる


鎌倉ちょっと不思議な物語第239&茫洋物見遊山記第52

新春恒例の氏家浮世絵コレクションがことしも展示されています。氏家浮世絵コレクションというのは、多年にわたり肉筆浮世絵の蒐集につとめてきた氏家武雄氏と鎌倉市が協力して昭和四九年に鎌倉国宝館内に設置された財団法人です。

かつて数多くの肉筆浮世絵の優品が海外に流出しましたが、早くからその蒐集保存に努めてこられた氏の尽力のおかげで、こうしてまた葛飾北斎、歌川広重、勝川春章、月岡雪鼎などの名作およそ五〇点をつぶさに鑑賞する機会を得たことはなにものにも代えがたいよろこびでした。

そのなかで私の眼を射ぬいたのはやはり天才北斎の「酔余美人図」や「桜に鷲図」などの写実的なくせにどこか幻想的な作品です。その大胆な構成と華麗な色彩の調和、そしてどんな憂鬱も一撃の元に吹き飛ばしてしまうアポロのように明快な作風は、どこかピカソに似た健康さを連想させます。

左右二双にわたって描かれた「鶴鸛図屏風」では、大空を軽やかに飛翔するコウノトリの脚が朱色に描かれ、とかく混同されるツルとの生物的異同を正確に描き分けているところはさすがで、観察と写生の大家の面目が躍如としていました。

なお本展は2月13日まで開催中です。

無能無知無価値な子の尊さわれのみぞ知る 茫洋

Monday, February 07, 2011

山本薩夫監督の「荷車の歌」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.87

「新宿の母」は占い師ですが、「ニッポンの母」といえばこの大河映画で主演している望月優子をおいて他にありません。

この日本を代表する大女優は、実家の縁を切られても、単身で夫、三国連太郎の元に飛び込んだ少女時代から、日清・日露と2つの大戦を経て、敗戦後の昭和にいたるまで、女だてらに1日10里の山道を荷車を曳いて貧しい暮らしをたててきた女性の生涯、帝国ニッポンの背骨を支え続けてきたある農村の女性像を、堂々と演じ切って大きな感動を呼び起こします。

なんせ1959年に山代巴の原作を依田義賢が脚色し、社会派の山本薩夫がメガフォンをとった農民ドラマですから、当節の軽佻浮薄な大河ドラマなどとは違って、大地に汗する貧農、流通業者、紡績労働者の痛苦にみちみちた労働の実態がこれでもか、これでもか、と活写されています。

そんな過酷な日常においても、けっして己を曲げないヒロインの土根性、子を思う優しさ、近隣の人々との友情などがくっきりと浮かび上がってきます。とくに妾、浦辺粂子を同居させた夫や長年にわたって嫁をいじめ続けた姑、岸輝子との激烈な戦いと、その最終的な和解のシーンなどは、ハンケチなしには眺められない大感動の出来上がりとなっており、懐かしき左幸子、左時枝、西村晃、奈良岡朋子など共演陣の巧みなバックアップとともに忘れ難い一作となっています。


ヤマガラとメジロとシジュウカラが一度に訪れし我が庭よ 茫洋

Sunday, February 06, 2011

スカラ座のロッシーニ「ランスへの旅」を視聴して

音楽千夜一夜 第180夜

2009年4月14日に行われたオターヴィオ・ダンドーニ指揮ミラノ・スカラ座の公演のライヴです。ランスの旅館に宿泊しているオーストリア、フランス、スペイン、ロシアなど世界の国々から集まった男女が、ランスで行われる戴冠式に出かけようとして勃発するくだらないさまざまなハプニングを、いわばグランドホテル形式のオペラに仕上げた才人ロッシーニの代表作です。

この知られざる大曲が、近年急速に評価されるようになった陰には、このオペラを溺愛するピアニスト、マウリチオ・ポリーニのプロモーションもあずかっているのでしょう。彼はいまから20年以上前にこのオペラを自ら指揮してドイツ・グラモフォンに録音しているほどです。

しかしポリーニで聴いてもほかのプロの指揮者で聴いても、この曲のどこがどうおもしろいのか私などにはてんでわかりません。だいたいロッシーニの音楽は、あの有名な「セビリアの理髪師」にしろ「ウイリアム・テル」にしろ、この「ランスへの旅」にしろ、音楽の内容はまったく変わりません。ちょうどブルクナーの交響曲が、0番でも9番でも本質的には変わらないように。

掛け合いの早口言葉の速度を次第にアップして、例のロッシーニ・クレシェンドで耳をくらくらさせようとする軽佻浮薄でワンパターンなアリアの連発であほばか観客を魅了しようとする作曲家の単純で幼稚な戦略はあまりにも見え透いているし、音楽の痴呆的な楽しさはあっても、バッハやモールアルトに備わっている深さなどこれっぽっちもありはしない。思想も思索もない動物脳が機械的に大量生産した阿片的・麻酔薬的無内容楽譜の集成にすぎません。そういう意味では本邦特産の演歌や最近のサランラップでくるんだ同工異曲の音楽といってもよいでしょう。

このようにそもそも阿呆な作曲家が濫作した阿呆な音楽なので、これに身を委ねるためには観客も急いで阿呆になる必要があります。「踊る阿呆に見る阿呆」とは阿波踊りだけではなく、ロッシーニの音楽についてもあてはまる屁理屈だったのです。安全保障条約が自然承認された夕べに天下のインテリゲンチャンが涙ながらに赤とんぼを歌ったという身の落とし方とも関連する次元のお話です。

だからといって私がこれらの音楽に価値がないと云うているのではありませんから念のため。「蓼食う虫も好き好きだね」と言っておるのです。それにしてもどうしてあのポリーニがアバドにさきがけて「ランスへの旅」を指揮したのでしょう?

私は音楽表現に完璧を求めるあまり、10本の指だけ達者な神経衰弱テクノクラートと化して偏頗で貧相な演奏を延々と続けてきたポリーニ(そして全盛期のミケランジェリ)のほとんど病気のピアノ演奏を昔からてんで評価できませんが、(もっとも80年代のイタリア地方都市でのモーツアルトの弾き振りなど音楽の広大な沃野へと自己を解放できた数少ないよい演奏もある)、みずからの音楽の行き詰まりを誰よりもよく知る超優等生だけに、きっと本能的に、その対極にあるロッシーニの痴呆的音楽世界に、その疲れた心身を憩わせたかったのではないでしょうか。

新進気鋭の指揮者オッタービオ・ダントーネ、ベテラン演出家のルーカ・ロンコーニを起用したこの3時間半におよぶ大演奏も、私のようなロバの耳には世界最高の名器であるスカラ座のオケの宝の持ち腐れでありました。


くそったれ2カ月も発注がなければ自由業は干上がっちまうよ 茫洋

Saturday, February 05, 2011

レヴァイン指揮メトの「ホフマン物語」をみて

音楽千夜一夜 第179夜 

オッフェンバック作曲の「ホフマン物語」は、私にはさして面白いオペラではありません。以前ヘスス・コボス指揮パリオペラ座の公演ビデオを視聴したときには怒り狂ってテレビ画面に向かって「ブウ!」を連呼し続けた私ですが、メトロポリタン管弦楽団をあのジェームズ・レヴァインが振ったライヴ映像なら見ないわけにはいきませぬ。

09年12月19日の夜、でぶでぶ太りすぎのレヴァインが指揮棒を一閃するや、かの楽団が弾き出した音楽の推進力と生命力の素晴らしさをなんと表現したらよいのでしょう。これぞオペラのドラマを力強く導いていくために必要不可欠な適切なテムポ、音の大きさと全曲の展開を見通したパースペクティブ! 脳内で快く弾むリズムが広大な空間に響き渡った瞬間、この至難の大曲の上演の成功は約されたも同然でした。

演出はバートレット・ショアですがいかにもメトらしく中庸を得たもので、基本の1幕のバーの舞台をベースに指揮者の音楽を壊さない無難な全4幕の展開です。

歌手も、詩人ホフマン役にはジョセフ・カレーハ、歌う人形オランピアにキャスリーン・キム、瀕死の歌姫アントニアにアンナ・ネトレプコ、ベネチアの娼婦ジュリエッタにエカテリーナ・グヴァノヴァ、ミューズとニクラウスにケート・リンジーという充実したラインアップで、瀕死の役どころを無視するネトレプコ、その反対に知に傾きすぎるケート・リンジー、どうということのないグヴァノヴァの歌いぶりには眉をひそめましたが、キャスリーン・キムの歌唱と演技は素晴らしい。断然彼女のこれからに注目したいと思います。

まあ演出や役者なんかどうでもよくて、これは病から復活したジェームズ・レヴァインの音楽を聴くべきオペラです。


アイーダを視聴しておるのに「震度3」 茫洋

Friday, February 04, 2011

ヒッチコック監督の「海外特派員」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.85


 1940年に製作されたこの映画は、私にはてんでわけのわからぬ映画です。

いまにも戦争が始まりそうだが、確実な情報がとれない。衝撃の事実を現地でつかんで来い、と命じられて、NYの新聞社から欧州に特派された新聞記者が、オランダやロンドンで不思議な秘密結社や政治家と接触を警察などと丁々発止のやりとりを続けるうちに、最初は味方だったはずの恋人の父親から追われる身となり、命からがらロンドンに辿りつく。

社長は「戦争勃発」の確証を具体的につかんで事前に報道せよと命じたはずなのに、特派員が欧州各地を逃げ回っているうちに、英国はナチスドイツに宣戦布告してしまう。無能の極致の特派員です。突然ですが、主演のジョエル・マクリーは現代物より西部劇が似合う俳優です。

しかし命懸け敵味方双方が秘密にしていた「特ダネ」をつかんだわれらが主人公は、ドイツ機の空襲を受けるロンドンの放送局で、その特ダネなるものを世界に向かって公表し、米国の参戦を呼び掛ける。メデタシ、メデタシ、というおめでたい映画ですが、いったいどこがおめでたいのか、おめでたい私にはさっぱり分からない。

映画の冒頭で、散華した海外特派員に捧げるという献辞がクレジットされているのは、当時の特派員が国家の諜報活動に従事して暗殺されるという事件があったからでしょうか。ともかくこの映画でも海外特派員はジャーナリストほんらいの任務を超えた政治的活動を行っているのが新鮮でもあり、意外でもありました。

世に謀略史観という便利な切り口があります。ユダヤ人やロスチャイルド家の陰謀やハルマゲドンの予言が世界を動かしているなぞと双方向の論証抜きにしたり顔で説いたりする安直な歴史解釈ですが、この映画でも「第二次大戦防止の立役者」であるオランダの元老政治家の争奪戦が敵味方で大真面目で繰り広げられるので、思わず笑ってしまいます。


僕らは思惟のみ役立たずの脳無し能無しに生きる■蟻や梨や 茫洋

Thursday, February 03, 2011

山本薩夫監督の「箱根風雲録」をみて


  • 闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.86

    1952年に製作された箱根用水の工事をめぐる虚虚実実、波乱万丈の物語です。

    タカクラ・テルの原作を山本薩夫が監督した本作では、いまどき珍しい人民史観による反権力の闘争が感動的に描かれています。箱根用水は1666年から70年の5年間の歳月と莫大な経費と人力を投入して、箱根芦ノ湖の水を湖尻峠の地下を通って、静岡県の深良川まで1280mの暗渠で結びましたが、この作品は私財を投げ出し、農民の先頭に立ってこの難工事に従事した江戸商人、友野與右衛門夫婦(河原崎長十郎、山田五十鈴)が主人公にフユーチャーされています。

    しかし単なる徳川時代の土木工事裏話ではドラマにならないので、この大工事を徹底的に妨害する幕府の権力者や隠密、討幕をはかる浪人(中村翫右衛門)グループ、さらに農民グループ内部の対立抗争や資金作りの苦労話などのエピソードも交え、箱根の広大な大自然をバックにした戦闘シーンなどもふんだんに入れ込んで、それこそコテコテの「風雲録」に仕上がりました。

    用水の両側から掘り進んだ農民たちが土砂を崩して出会うところ、芦ノ湖の水が用水に滔々と流れ込むシーン、友野與右衛門が江戸帰還を放棄して箱根の土に身をうずめる決意を涙ながらに固めるところ、牢屋に幽閉された與右衛門が用水開通の烽火を遠望しながら哀れ役人に殺されるシーンなどなど、江湖の紅涙を絞る箇所も多々あって、これぞ立派な人情浪曲人民音頭の宣揚映画と成りおおせているのでした。

    いたつきのために売られし司馬江漢遠近画法の海の絵いずこ 茫洋

Wednesday, February 02, 2011

ガイ・ハミルトン監督の「クリスタル殺人事件」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.84

おなじみアガサクリステイ原作の1980年制作の殺人謎解き物です。老嬢ミス・マープルが我々の予想もしなかった名推理で真犯人を上げるのはいつもことですが、注目すべきは大スター役で出演しているエリザベス・テーラーとわがご贔屓のキム・ノヴァクの対決。

2人はほぼ同い歳。もちろんキャリアからいえばテーラーに軍配が上がって当然なのでしょうが、映画のスクリーンの上では、まるで豚と真珠、月とスッポン、掃きでだめと鶴の違いでキム・ノヴァクのかわらぬ美貌、引き締まった体躯、そしてぐわーんと盛り上がるおっぱいに魅了されてしまいます。

2人がどのようなボデイ・コントロールを行ってきたか一目瞭然なのですが、不倶戴天のライバル女優役を演じる2人が、デブだのブスだの売り言葉に買い言葉で面罵するシーンもワクワク、ハラハラさせられます。

というわけで、改めて早すぎたノヴァクの引退が惜しまれる一作となって、別にリズには恨みがなくとも辛くなってしまった私の採点ですが、彼女はあの「ジャイアンツ」で共演したロック・ハドソンと久々の夫婦役を演じることができて感慨無量だったのではないでしょうか。

立ったままジャパンタイムズを読んでいる京急バス内のインド人 茫洋

Tuesday, February 01, 2011

ジョン・カサベテス監督の「フェイシズ」をみて

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.83


1968年制作のモノクロ映画の内部に、この時代の自由とアナーキーと人間の孤独がずっしりと刻印されている優れた作品で、ここに後年の名作「壊れゆく女」の源泉がある。

 最初は愛し合っていた男女の間にいつのまにか忍びこんだ異分子が静かに増殖し、彼らの生と性を中性化させ、無化し、徐々に腐敗させていき、それらがある閾値に達するや相互関係性の矛盾が爆発、沸騰するありさまを、カサベテスは1組の夫婦を題材にする化学実験者のような冷徹な視点で息長く追跡していく。

 初老の夫を演じるジョン・マーレー、年下の妻を演じるリン・カーリンを基軸にした「第2の恋の物語」の歯車がぎりぎり回るたびに、2人のそれぞれの相手役のジーナ・ローランズとシーモア・カッセルの立場も微妙に変化する。長年連れ添った妻を捨て、愛する娼婦ジーナとの一夜を終えて帰宅した夫が見たもの、それは若者とのアヴァンチュールに走ったものの睡眠薬自殺を図った妻の哀れな姿だった。

 いったん壊れた愛を捨てて新たな愛を見出したはずの2人に、はたしてどのような未来が待ち受けているのか。「それは2人の問題だ。勝手に決めればいいさ」と言いながら、カサベテスは突然フィルムを終わらせる。するとこの2人の抱え込んだ問題が、そのまま私たちの問題になるというように、映画は巧みに設計されている。

それにしても昔から世界中のどこにも転がっているありふれた人々の愛の様相を、この監督は、なんとあざやかに切り取ることか。


ハイドンの「五度」聴き終えて春の雪 茫洋