Wednesday, February 28, 2007

♪ある晴れた日に 第1回

♪ある晴れた日に 第1回


あ。朝日がのぼる。


ステンレスの上に泥だらけのジャガイモがごろっと転がってる


そんなに咳きばかりするなよ


のどが真っ赤に腫れている
ルゴールを買いにいこう


私の連鎖状球菌よ!


お母さん、ドウシヨウモナイって 何?


1・8リットルたっぷり呑んで ああ満足じゃ 真っ赤なポリバケツ


歯垢は臭い 恥垢も臭い どっちが臭い?


むんずとつかんでぐぐっとしごく


「今日のしりとり」 
あ あんたとこどこさ さる るーむ むくろ ろしあ あんてるなしおなる るどん


夕空晴れた

モーツアルト狂想曲

♪音楽千夜一夜第13回


真率あふるる音楽の言葉、心情の奥の奥の、またその奥にかすかに響く音を、私はTRAZOMに聴く。

いま流れてくるのはハ短調の幻想曲K475、そして続いて同じハ短調のピアノソナタK457、いずれも偉大なクラウデイオ・アラウの演奏で聴いている。

これらの曲はTRAZOMの最良の教え子、マリア・テレージア・トラットナーとの愛のために書かれた聴くものの心をえぐる真の傑作だ。

今度は「フィガロの結婚」をエーリッヒ・クラーバーの演奏で聴こう。

男と女のすさまじい欲望の嵐が吹き荒れる。フィガロとスザンナの熱狂の1日…。

第三幕の四重唱、五重唱、そして圧倒的な六重唱を聴け! 

そして第四幕の庭園に夜が迫り、ブルジョワの世の終わりを告げる伯爵夫人の「私は弱い女ですからすべてを許します」の一言を聴こう。

かくてオペラは終る。しかし、この突然の終結はなぜだろう?

TRAZOM、お前はどこに消えたのだ? 

劇場の人々は無となって宙吊りになり、なにかしら神のように偉大な存在が、無力な我々に降臨する。神に愛されたTRAZOMはきっとその隣にいるのだろう。

けれどもほんとうは神は不在であり、女は男をけっして許しはしなかった。

さあ今度は、ソレルスにならって「ドンジョバンニ」の序曲を聴こう。

わずか数百小節で起こるのは、婦女暴行、殺人、暴行の告白、復讐の決意…、ウイーン社交界を地獄に突き落とす疾風怒涛のオペラの幕開きだ。

初演を聴いた途端、かのカサノバは彼の有名な自叙伝を書くことを決意したそうだ。

そしてあの有名なドンジョバンニの地獄落ち。

それは1600年にローマで火あぶりになったジョルダーノ・ブルーノの最期を思わせると、ソレルスはいう。

「最期の発言で彼は以下のごとく述べた。自分は悔い改めたとは思わない。悔い改める理由がない。悔い改める材料がない。この結果、以下のものが焼き払われた。書物。それらの作者。コルクガシの枝」

ブルーノのように頑固なモーツアルトは、ヨーゼフ2世によって永久に見捨てられた。

ソレルスは語る。

「人生はひとつの音楽である。そして幻想抜きに、同時にまた必要な幻想を抱きながら過ごされるとき、人生はよりいっそう音楽となる。

こうした芸術を「楽しい知識=ゲ・サヴヴォワール」と呼ぼう。

「楽しい知識」は軽やかで悲劇的で、叙情的で、ほてりがあって、単純で複雑で、滑稽である。

精神は絶えざる運動なのだ。自由な様子、自由な愛、自由な創造。極貧状態にあったり、不幸のどん底にあったりすることを含めて…」

と。

(引用と参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」)

Monday, February 26, 2007

フランス革命、万歳!

♪音楽千夜一夜第12回


恐るべきフランス革命は、「魔笛」の夢の世界を徹底的に破壊し、音楽の真の革命家であるモーツアルトの革命的な音楽を破壊しつくした。

19世紀にはもう彼の市民権はなかった。モーツアルトと同様に、あの高雅なハイドン、ヘンデル、ヴィバルディの音楽も道連れにされた。

かの小澤征爾と同様の三流指揮者であるが、その代わりに一流音楽学者であるニコラス・アーノンクールによれば、ポスト・モーツアルトの「現実的な」音楽は、1800年ごろにパリのコンセルバトワールに生まれたという。

複雑で、対話的で、雄弁なモーツアルトのようなデリケートで知的な音楽のかわりに、例えばあの那智黒なワーグナーや男根的ヴェルディや荒川静香的プッチーニのように、アホバカ簡単単純明快音楽が、19世紀から現代までの音楽界を占拠した。

フランス革命は人々を階級社会から解放し、自由と平等の諸権利を確立したかもしれないが、ほんとうの音楽の生命を絶ち、音楽をボナパルティズム化し、いわば「軍事化」してしまったのである。

嗚呼、かのモーツアルトを虐殺したのが、サリエリではなく、あの三流音楽家ジャンジャック・ルソーという名の孤独な散歩家の夢想であったとは!

(引用と参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」)

甦ったモーツアルト

♪音楽千夜一夜第11回

音楽の唯一無二の革命児、TRAZOM。

彼の死後およそ1世紀を経て、さながらダライラマのように欧州の地に生まれ変わったのは、他ならぬアルチュール・ランボーであった。

100年後のTRAZOM、ランボーの言葉を聴こう。

「僕らの欲望には、巧みな音楽が欠けている。」

「彼は愛である。完璧な創りなおされた尺度であり、驚異的な、思いがけない理性であるような愛だ。そして永遠である。」

「より強烈な音楽のなかへのいっさいの苦しみの解消。
耳で築かれた城から、未知の音楽が流れ出る。」

「君の指が太鼓をひとはじきすれば、すべての音が放出され、新しいハーモニーがはじまる。君が1歩を踏み出せば、あたらしい人間たちが決起し、進軍がはじまる。君の頭があちらを向けば、あたらしい愛だ! 君の頭がこちらを向けば、あたらしい愛だ!
つねにやってきて、いたるところに立ち去る君。」

そして極めつけの1句がこれだ。


「僕は素晴らしいオペラになる。」

そして事実そのとおりになった。


(引用と参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」)

Saturday, February 24, 2007

2つの春

鎌倉ちょっと不思議な物語45回

第43回の続編です。

小さな水溜りに2種類のカエルの卵を発見しました。

笑み里さん情報によれば、一番右側がアカガエルの仲間であろう、ということです。

きのうと1昨日に見かけた割合小さい2匹が、おそらくこの卵の産みの親だったのでしょう。(でも今日は見かけませんでした)

で、左側のやつが、たぶんヒキガエルの卵だと思われます。

いずれにしてもこんなわずかな空間によくぞ生まれてくれたものです。

もし私たちが泥と葉っぱを取り除いておかなかったら、いったい彼らはどこに産卵できたのでしょう?

か弱い生物に対する奇特な人間のケアがなければ、もう在来の普通の動物ですら生存できないところにまで時至っているのかもしれませんね。


待ち待ちてついに産みけるカエルの子
ヒキと聞きつつ実はアカなり

モーツアルトの最期

♪音楽千夜一夜第10回

モーツアルトの生前の最後の作品は、1791年11月15日に書きあげられた「フリーメーソン小カンタータ」である。

いま私はそのK623をCDで聴きながら、これを書き飛ばしてる。

オロナミンCのような元気ではつらつとした音楽で「楽器たちの陽気な音が」とテノールが歌い始める。とても3週間後に死ぬ人の音楽とは思えない。

モーツアルトの妻コンスタンツエによれば、モーツアルトの健康状態は最晩年のこの時期にほぼ完全に回復し、このカンタータの初演を指揮するためにフリーメーソンの分団「新たに冠されし希望」の集会所へ足を運ぶほどだったという。

ではまるで全盛期のように活力を取り戻して「コジ・ファン・トゥッテ」、「魔笛」、「皇帝テイートの慈悲」「クラリネット協奏曲」などの傑作を書き上げたモーツアルトに、いったい何が起こったのか?

ソレルスは、モーツアルトは万全の体調で魔笛を書いていたときに、「傷んだ豚のロース」にかじりつき、それが原因で死んだと書いている。突然の病気はレクイエムの作曲に取り掛かった10月の中旬に始まり、11月の小康状態を経て、12月5日の早すぎた死に直結したわけだ。

それにしてもモーツアルトは、まるでランボーのようにおそろしく生命力の強い男だった。食欲も性欲も人並み優れたものがあり、妻コンスタンツエへの晩年の手紙には「お前の○○を思っておいらの××は机の上で猛り狂っている。どうにも我慢ができないよおお!!!」と書かれているから、それほど妻を肉体的に愛していた。妻以外の女性も含めて…。

その証拠にモーツアルトが死んだ翌々日、彼と同じフリーメーソンの会員であるホーフデーメルが、モーツアルトの子を宿した妻を殺そうとして自殺している。

一方のコンスタンツエは29歳でモーツアルトと死に別れ、その後デンマークの外交官ニッセンと再婚し、1842年に80歳で他界した。ニッセンとともにモーツアルト復興に貢献したとはいえ、他の男と浮名を流したり無駄遣いをしたりしてモーツアルトの晩年に幸福と不幸を二つながらに与えた功罪をもつ。

まあ、どっちもどっちでもいい。いろんな意味で、似合いのカップルだったのだ。
フィガロとスザンナ、タミーノとパミーノ、いやパパゲーノとパパゲーナのように…。
 

体調を崩してベルリンで療養していたコンスタンツエは、夫の死に立ち会えなかった。代わりに死の床でモーツアルトを看取ったのはコンスタンツエの義妹、ソフィーだった。

死の前夜、モーツアルトは「魔笛」有名な、「おいらは鳥刺し」の歌をほとんど聞こえないくらいのかすかな声で口ずさんだ。

そしてソフィーは空前にして絶後の天才の死を、こう語っている。

「湿布があまりにつよい衝撃を与えたために、モーツアルトの意識はもう息を引き取るまで戻りませんでした。彼の最後の吐息は、まるで自分の「レクイエム」のティンパニーを口で真似ようとしているかのようでした」

(引用と主な参考文献 フィリップ・ソレルス著「神秘のモーツアルト」、写真はAFP時事提供。1840年10月ドイツ南部アルトエッテイングのスイスの作曲家マックスの自宅前で撮影されたコンスタンツエ(前列左端)の生涯ただ1枚の歴史的な写真です)

Friday, February 23, 2007

笑々っていいとも 

鎌倉ちょっと不思議な物語44回

鎌倉でも京都でも、電線はいたるところに張り巡らされ、電柱は勝手にそそりたち、おまけにアホバカ携帯会社がおんなじ地域に3本もU字型のアンテナ塔をおったてても誰も文句をいわない。

さすがの彼らも多少は気がひけるのか、昨日の朝日の夕刊によれば、アンテナを竹に偽装したり、付属機器収納庫を山小屋に変装させているそうだが、笑止千万。
そういう小手先の「偽装」自体が醜悪な発想である。

そういえば鎌倉の東口駅前に「笑々」という、名前からしていやらしい居酒屋がある。

私の目には、その看板とネオンサインがあまりにも下品で毒々しすぎるので、いつも目をつぶって通り過ぎていた。

ところが去年だかおととしだか、たまたまそいつをまともに見た瞬間に吐き気を覚えた。

景観のみならず人間の精神の平安を著しく撹乱するこの標識はもう許せんと思った。

それでとうとう思い余った末に、ネットでHPを検索して本部の広報室長に電話をかけてみた。

「あなたの会社のC.Iデザインは酷すぎる。これでは多くの消費者を敵に回す。倒産するかもしれない。それで私が鎌倉支店用にもっとお上品なデザインとロゴを考えてあげるからこの際差し替えてみないか」

と、抗議兼懇切丁寧な提案までしたのだが、その広報室長らしき人物は

「そういわれても私にはなんともきゃんとも。なにぶんきゃまくら以外にも全国にお店がありますので、全国日銀会議で検討して」

 云々と、のたまわっておったなあ……。

私は絶対に、死んでも、あんな店には入りたくない。

Thursday, February 22, 2007

早すぎた春

鎌倉ちょっと不思議な物語43回


今日は家族と例の産卵場所に行って泥と木の葉をかき出して水溜りを増やしてやった。

で、鎌倉ちょっと不思議な物語42でご紹介したカエルの卵であるが、どうも違うみたい。

ヒキガエルはもっと大きなループ状になっており、ゼラチンが白いのにこいつは黄色がかっていて小さい。

さらに昨日、この卵の場所の近くで写真のような小さなカエルが2匹見つかった。

こいつは断じてヒキガエルではない。

詳しいことは図鑑を見ても分からなかったが、アマガエルかアカガエルの仲間だろう。

では卵は彼らのものだろうか?

でもアカガエルもアマガエルも2月に産卵なんかしない。もっとずっと後だ。

しかしこの超暖冬異変で2月に産んでしまったのかも知れない…。

なーんて、カエルを巡る疑問はますます深まる、余りにも早すぎる春の一日なのであった。

Wednesday, February 21, 2007

♪醜い鎌倉の私

あなたと私のアホリズム その11


おお鎌倉、お前は醜い。

東口駅前は、かなり醜い。

小町通りも、相当醜い。

ああマクドナルド、お前もひどく醜い。

そして「笑々」、おめえは余りにも、余りにも醜い。


しかし我々は、醜いものを直視しない。

そっと眼を逸らして、あらぬところを見る。

あの電線も、電柱も、看板も、横断幕も

すべてなかったことにする。

まるで裸の王様みたいに…


けれど、目に付くほとんどすべてのものが醜いと叫ぶ

この私も、相当に醜い。はずだ。

しかし、醜いものはなんたって醜いのだ!

と、星も見えない夜空に叫ぶと、

泣いていたはずのペコちゃんが、笑った。

Tuesday, February 20, 2007

ちっとも美しくない日本と日本人 

あなたと私のアホリズム その10

中島義道が説くように、日本人はそれほど美しいものを愛好しているわけではない。むしろその逆だ。
我々は、新宿や秋葉原や渋谷センター街の現代的な光景をことのほか愛している。そしてそこは醜悪でグロテスクな街だ。
三茶やシモキタや有楽町のガード下や歌舞伎町や新橋など大中少のきのおけない大衆的な雑踏を愛している。そしてそこは醜悪でグロテスクな街だ。

日本人が桂離宮や銀閣寺や高雅な北山文化を愛していないことはないのだけれど、それはよそ向きの顔であって、日常生活の中ではお気楽で猥雑で無政府的でブッチャケで混沌としたアジア的な無秩序を好むのだ。アジアの片隅の村祭りをこよなく愛しているのだ。

あるいはこうもいえる。
我々は自宅の中では西洋かぶれのおしゃれなデザイン美学を愛好しているが、一歩外に出れば建築や調度や雑貨の美しさなどもうどうでも好いのだ。

「町並みの美学」なぞ、犬にでも食われろだ。

道路も、街路も、電柱も、電線も、駅も、自転車置き場も、ゴミ捨て場同然の醜さであっても、どこかの国のアホバカ首相のように「これが日本だ、美しい祖国だ! ワンワン」と、シッポを振って喜んでいるのである。

Monday, February 19, 2007

ありがとう、ありがとう、ありがとう

遥かな昔、遠い所で 第7回

今日の日経の夕刊に嵐山光三郎の「渡辺和博氏の死」を悼む随筆が掲載されていた。

彼は10年間にわたって週刊朝日に「コンセント抜いたか」というエッセイを連載していたのだが、その相方のイラストレーターの渡辺和博氏がガンで亡くなったのである。

 3年前から肝臓ガンで入退院を繰り返していた渡辺氏は、後頭部まで転移し右目はしびれて見えなくなった目で、最後の作品、「60歳になった白髪のペコチャンの絵」を描いたという。

薄れてゆく意識のなかで、10年間続けてきた仕事を終えた渡辺氏は、亡くなる寸前、子どもみたいな声を出して、「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と奥さんに言ったという。

ここまで読んだ私は、嵐山光三郎の父君の最後の「よろしく」と書かれた言葉を思い出さずにはいられなかった。

げに死者の最後の言葉ほど、生者の胸を鋭くえぐるものはない。

私は、最後まで仕事をする人が好きだ。

私は、自分の妻を愛し、感謝する人が好きだ。

ああ、渡辺さん、遅かれ早かれ私たちも全員があなたと同じ道を辿るのです。


今朝咲きし すべての梅が枝 君に捧げん


黙祷

Saturday, February 17, 2007

四吟歌仙

遥かな昔、遠い所で 第6回


一  (新年)    パソコンを開けば思はぬ賀客かな    杉月

二  (新年)       ネットを揺らす獅子舞踊  あまでうす芒洋

三 (春)     梅林に黒猫一匹横切りて         峯女

四 (春)         主人はひとり春炬燵する    ろく水

五 (春・月)   おぼろ月異郷の家並みにかかりをり    杉月

六  (雑)       太郎は寝たが次郎目覚めつ     芒洋

(初折裏)

七   (雑)     夢が躍る時が過ぎゆくしんしんと   峯女

八   (恋)       かどのご隠居朝帰りして     ろく水

九   (恋)     千早振る神代大夫に恋焦がれ     芒洋

十   (夏)       卯の花匂う垣根飛び越え     峯女

十一  (夏)     白球を「はてネ」と拾ふ夏帽子    ろく水

十二  (雑)       托鉢僧が独り佇む 杉月

十三  (秋・月)   列島をはるかに照らせ秋の月    芒洋

十四  (秋)       鳥島南方台風北上        杉月

十五  (秋)     コンビニの傘無残なり天高し     ろく水

十六  (雑)       幼な児追いし赤い風船      峯女

十七  (春・花)   花曇遠き日の鬱よみがえり      杉月

十八  (春)       風光る原友と進まん       峯女

(名残表)

十九  (春)     春の果て地下六尺に眠る犬      芒洋
  
二十  (雑)       漆黒の夜に連れ笑いして     ろく水 

二十一 (雑)     かがり火に馳せ集ふたり京のもののふ 杉月

二十二 (雑)       コミューンに燃えた七十二日   峯女 
 
二十三 (冬)     血塗られし壁に動かず冬の蝿     芒洋 
 
二十四 (雑)       足滑らせて尻餅をつく      ろく水
 
二十五 (恋)     宙に飛ぶ少女の腓うち震え      芒洋
  
二十六 (恋)       上げたばかりの前髪乱れ     峯女 
 
二十七 (恋)     哀しみに耐えて瞳をそらしをり    杉月 
 
二十八 (雑)       車窓はるかに望む鐘楼      ろく水
 
二十九 (夏・月)   雨上がり静かな村に月涼し      峯女 
 
三十 (夏)       わが掌の平家蛍よ        芒洋 
 
(名残裏)

三十一 (雑)     友臥せり本を命の余命いくばく    杉月 
 
三十二 (雑)       故郷の味する持参の饅頭     ろく水 

三十三 (雑)     踏み切りを渡れば唱歌聞こえ来し    杉月
  
三十四 (雑)       あろんざんふぁんなむあみだぶつ 芒洋 
 
三十五 (春・花)   つかのまの乱舞を誘う花吹雪     峯女 
 
三十六 (春)       若葉翳さす静が舞台       ろく水 

不安な春

鎌倉ちょっと不思議な物語42回


去年は3月6日に発見したヒキガエルのオタマジャクシの卵を、昨日同じ場所で見つけた。

私が知る限りヒキガエルが天然自然に繁殖しているのは、光明寺の深い池と果樹園とここだけだ。

かつては春近い季節のとある日に、突如どこかから現れた何匹もの雌雄が、激しく交尾して我々人間を驚かせ、楽しませてくれたものだ。

そうして恋の勝利者たちは、長い長い輪になった透明な寒天状の袋に入った小さな黒い斑点のような卵を、どうだ、どうだ、と勝ち誇ったように湿地や水溜りのいたるところに産み付けたものだが、ここ数年、そういう心踊る光景にはたえてお目にかかれなくなってしまった。

それにしても、今年はやはり暖冬で地球には絶対に大きな異変が起こっている。

例年なら落ち葉が沈んでかなり大きな水溜りができているはずなのに、今年は渇水のためにほとんど水がない。仕方がないので、私は少し落ち葉をかき出して、小さな池を作ってやった。

このままなんとか育って、七月上旬のニイイニイゼミの初鳴きの頃、無事に孵ってほしいと祈るような思いだ。

しかし油断はできない。

去年は忘れもしない6月28日に、近所のアホバカオートバイ野郎が、この池と草地を蹂躙して大半のオタマが死滅した。

だから、いつも私は何匹かを自宅の瓶で育てて万一に備えているのだが、今年は両生類の絶滅を招きかねないカエル・ツボカビ症が、わが国にも中南米から侵入してきた。

この「カエルのエイズ」に感染すると、カエルやサンショウウオたちは皮膚呼吸ができなくなり食欲不振、オブローモフ現象などを起こし2~5週間で9割が死んでしまう。

現に中米のパナマでは野生のカエルが全滅した地域があるそうだ。クワバラ、クワバラ。

私の大好きなカエルにも、可愛いらしいけど小生意気な木村カエラにも、どうやら明るく楽しい未来はなさそうだ。

Friday, February 16, 2007

遥かな昔、遠い所で 第5回

三歌仙

発句       鎌倉の谷戸に咲きたり岩煙草    あまでうす芒洋
脇         そぼつ五月雨烟るむらさき    ろく水
第三       早乙女の笑顔まぶしき昼下がり   峯女
四句目        誰かさんが眠っているよ小麦畑 芒洋
五句目      名月に栗も団子も間に合わず    ろく水
六句目         可不可を論ずる虫たちの声   峯女
折立        むざむざと捕えられたり秋蛍     芒洋
ニ句目         かこち顔して恋文を打つ     ろく水
三句目       ブラームスお好きかどうかと問い掛けて 峯女
四句目         セーヌ左岸で都々逸を唸る    芒洋
五句目       葡萄酒も時のかなたの偏奇館    ろく水
六句目          踊り子ひとり爪を眺める    峯女
七句目      寒月や朝まで照らせ伊豆の海     芒洋
八句目          群雲たちて風花の舞う     ろく水
九句目       浅きゆめ目に焼きつきし煌めき残す  峯女
十句目          五〇過ぎれば下天も楽し      芒洋
十一句目       北面の武士いざないし桜花      峯女
折端          草の茵の春宵値千金       ろく水
折立        太平の眠り覚ますや猫の恋        芒洋
二句目          敗れて逃げしトタン屋根かな    峯女
三句目        欲望という名の電車に飛び乗りて   ろく水
四句目          ナッシュビルにてブランチしたり  芒洋
五句目       あらまほし喉すべりゆく冷奴      峯女
六句目          今どきの娘は浴衣にサンダル   ろく水
七句目       ざんざ降り下駄の鼻緒は紅染みて   芒洋
八句目          小癪なおきゃん水仙めでる     峯女
九句目        球根のひげ根はびこる水栽培      ろく水
十句目           ワッと驚くキューリー夫人    芒洋
十一句目      ワルシャワの蒼白き月ラボ照らし    峯女
折端            貧乏書生は着重ねが好き    ろく水
折立        暗闇の坂を下れば雁が鳴く        芒洋
二句目           無縁の人になごりを惜しみ    峯女
三句目       良縁も運がいいやら悪いやら      ろく水
四句目           後の祭りは世の習いなり     峯女
五句目     浅草や雷門に花吹雪          芒洋
挙句          盛り塩清し春の夕暮れ       ろく水

Thursday, February 15, 2007

平成風狂散人の傑作を読む 

嵐山光三郎著「よろしく」(集英社)


嵐山光三郎は不当に低く評価されている作家だが、それは間違っている。

彼の作品はすべて読むに値し、読後の深い感銘を残す。特に山田美妙や芭蕉などの文学者を素材に取り扱った際の彼の技量の冴えは鋭く、凡百のヒョーロンカどもの白痴的言説を地上はるかの高みからアハハハアと嘲笑うのである。

特に人生の黄昏を迎えた父母と暮らしながら、その1日1日の断片をいとおしむように綴ったこの作品は、もしかすると彼の最高傑作かもしれない。

この小説には著者の家族や友人、著者が住むK立市の町内に住む有名無名の住人や奇人変人が続々と登場し、殺人事件や恐喝、詐欺、痴情、暴力、警察沙汰などの大小の事件と騒動を繰り広げる。

それらの大半は事実であり、ありのままの現実の描写なのだが、著者の筆にかかるとそれらがそのまま幻想譚であり、壮大なフィクションであり、人間非喜劇と化す。

嘘か眞か、ではなくて嘘も眞も一体となり混在するまか不思議な世界へと読者は導かれる。だから、これこそはほんとうの現代文学なのでR。

彼の文章の特色は、その独特のユーモアと冷徹な無常観の共存にある。彼は面白うていつも哀しき人の世の習いを、草原を一定の速度で黙々と直進するサイのように淡々と叙述する。

その白眉が本書の第八章「月おぼろ」である。これから読まれる方のためにいっさいの情報を封印するが、ともかく黙って読んでみてほしい。285pから312pまでの28pは骨肉に徹する瞠目の大文章である。これこそが文学だ。

この偉大な平成の風狂散人は、内心では炎のような情熱と狂気と無政府主義魂が燃え滾っているのに、それをおくびにもださずに冷徹に生きる。

世間を正確に見据える鴎外のような、荷風のようなその姿勢が好ましい。

Wednesday, February 14, 2007

遥かな昔、遠い所で 第4回

両吟歌仙 「春の膳の巻」  
 

独活に蛸酢味噌よろしき春の膳      ろく水

   そよと吹き込む五弁の桜        楽斎

蝶来る窓辺に本の積まれおり        ろく

   学成り難くごろ寝するなり        同

満月を見つけし宵のうれしさよ        楽

   げにすさまじきゴッホの流星      ろく

     跳ね橋の袂に咲きたる曼珠沙華        楽

       お春恋しや沖の白雲          ろく

     バイカル号いま大桟橋を離れたり       楽

       鞄に潜めしピストル一丁        ろく

     議事堂の坂を一人で駆け上がる        楽

       チョン髷断ちたる代議士もいて     ろく

     大川の左岸は涼し夏の月           楽

       サン・ローランのパンタロン着て    ろく

     老将は死なずただ生き尽くすのみ       楽

       余寒にさする脛の古傷         ろく

     オフェリアの沈みし淵か花筏         同

       春告鳥の語尾は震えて          楽

     羅典語の教師板書で早や四十年       ろく

       ワインに厭きて蕎麦湯を愛す       楽

     碧眼の妻に古備前ねだられて        ろく

       茶髪駆け込む大門の質屋         楽

     夏草をわけて奔るや風の径         ろく

       雲の彼方の少年の夢           楽

     蒼穹の果て見て鳴くか揚げ雲雀       ろく

       虚無僧は行く蒲公英の道         楽

     罪ありて遠流されしや雛流れ        ろく
       
世阿弥をつつく鴉が一羽         楽

     砧打つ音なかぞらに月高し         ろく

       無為を楽しむ今朝の秋かな        楽

     猿沢の池を巡れば鹿が鳴く          同

       煎餅食いたし美形でいたし       ろく

     銀座に消ゆ絽に黒髪の謎のひと        楽

       真砂女に似たる猫あくびして      ろく

     わが庵に万朶の桜降りやまず         楽

       楽の音もまた春の夜の夢        ろく

Tuesday, February 13, 2007

景山民夫氏の思い出

景山民夫氏の思い出

遥かな昔、遠い所で 第3回

昔、といっても80年代の中頃のことだが、マガジンハウスの「ブルータス」という雑誌の名物編集者で、現在は「ソトコト」の編集長である小黒一三さんから景山民夫という作家を紹介された。

景山氏は長身の都会的な青年で、とても端正な顔立ちをしており、いつもおしゃれないでたちをしていた。

彼は1988年に「遠い国から来たクー」で直木賞を受賞したが、その記念パーティで挨拶に立った角川書店の見城徹(現幻冬社社長)が登壇して、そのラストシーンを二人で泣きながら書き上げたと語ったので、“へえ、小説は編集者と泣きながら共作するのか”、と思ったことがある。

その後何度か会う機会があったが、その時の話題はいつも障碍を持つお互いの子どもについてだった。

障碍といってもいろいろあるが、私の考えでは2種類しかない。親が死んでもなんとか自己責任(嫌な言葉だが)で生きていけるタイプAとそれが不可能なタイプBである。

前者の親は安んじて死ねるが後者の親は、死ぬにも死ねないし、厳密にいうとこの地上においては人間として普通の自由と安楽は許されてはいない。己が死する直前に、たとえそれが地獄であっても愛児を道連れにしようとひそかに考えている。

それゆえにこのタイプB同士の弧絶の悩みと交流の深さは、タイプAよりも深くて濃い。
「同病相哀れむ」ではなく、「同病各自滅す」なのである。

いま世間では格差社会がどうのこうのと世間では喧しいが、真の格差とはタイプAとBとの絶対的格差を指し、それ以外の格差は格差ではない。そこにこそ為政者のなすべき仕事があるはずだ。

なーんて話を、原宿のブルーミングバーで遅くまで話し込んでいたあの景山民夫氏が、ある日突然の自宅の失火で亡くなっちまった。そのとき私は彼を悼むより残された妻子の身の上を案じたことだった。

彼には「人生には雨の日もある」というエッセイもあるせいか、雨の日には彼のことをよく思い出したが、今日は雨も降らないのに、中野坂上の青空に浮かんでいる白い雲を見ているうちに、限りなく心優しかった彼を懐かしく思い出し、死後の彼の幸福と苦悩について考えた。

余談ながら最近のこの業界?では、「障害」と書かずに、「障碍」または「障がい」と書くのがおしゃれなトレンド。

その心は、「障がい者」は、言葉のあらゆる意味において、「害的存在ではない」から(笑)。

Sunday, February 11, 2007

くたばれ!マウンティング・バイク

あなたと私のアホリズム その9


最近これはちょっとヤバイと思うのが、山道の奥の奥の杣道を猛烈な勢いで突っ走る無軌道なマウンティング・バイクである。

こっちは都会の喧騒と車が嫌で田舎に引っ込んでいるというのに、最新式の重装備自転車にまたがった奴らが、お誘い合わせの上で団体で鄙に押しかけてくる。

文字通り獣1匹しか歩けない急な小道を、地図を片手に都会からやって来たこいつらが、下に誰が歩いているかなぞまったく無頓着に、「ひよどりごえ」の義経気取りで車もろとも落下してくるのである。
恐ろしいやら、怖いやらで、おちおち山道の散歩などできるものではない。

タイワンリスが環境を破壊しているのは事実だが、こいつらは動物だ。言い聞かせても善悪が分からないから仕方がない面もある。

しかし老人、子ども連れが楽しく歩いている野道やハイキングコースに、猛スピードで自転車を乗り入れてくるのは、一人前の人間である。

お前は自分がやっていることの意味が分かっているのか? 山道は山人が歩くための道なんだ。「走る機械」が、遊びで走る場所じゃないんだ。

いくら都会の道路が危険だからといって、わざわざ人跡稀な僻地までやってくるな。

お前の身勝手な欲望のお陰で、多くの人々が迷惑を被り、怪我をしたり、大きな被害を受けているのだ。

見ろ、お前が知らずに車輪で踏みつぶした冬スミレを。お前のお蔭で人間だけではない、自然も傷ついているんだぞ。

自転車屋も自転車屋だ。環境を破壊する凶器を作るな、売るな、奨めるな!


ということで、久しぶりに“怒りのチビ太”となりました。

勝手に東京建築観光・第6回

夕中野坂上には、かの有名な中野長者の成願寺がある。

昔紀州熊野出身の鈴木九郎という男がいた。先祖はかの源義経の部下で奥州で討ち死にしたそうだが、その後裔である九郎は、いま東京タワーが建っている縄文時代の聖地芝に漂着し、葛飾の馬市で売った馬の代金を浅草の観音様に奉納したことからあれよあれよという間に大金持ちになり、いまも中野坂上に実在する成願寺に住んだので巷では「中野長者」と呼ばれる有名人になった。 有名になっている間にもどんどんお金が儲かるので、九郎はその千両箱をアルバイトに頼んで、近所の東京工芸大の付近に毎晩のように埋めていたが、その秘密の場所を知られると困るので大判小判の運搬を手伝った者たちをひそかに闇に葬っていた。  その悪行のせいだかどうだか分からないが、呪われた九郎の娘は醜い大蛇となり、ある雨の日に鎌倉の十二所ではなく西新宿の十二社の池に身を沈めてしまった。
父親の因果が子に報い、大蛇に変身した美しい娘は、まるでワーグナーの楽劇「指輪」の序夜「ラインの黄金」の冒頭に出てきて「ウララ、ウララ」と全裸で歌って踊る乙女のようだ。  しかし中野長者の金融商業資本を水底深く守護し、遊治郎どもの性的好奇心を惹きつけ、東都一の遊興の地である歌舞伎町や角筈の伊勢丹、紀伊国屋、中村屋などの商業施設を定着させたのは、なんとこの中野乙女だったのである。

以上、中沢新一氏の解説でした。

Saturday, February 10, 2007

落石に注意!

鎌倉ちょっと不思議な物語41回


おなじみの朝比奈峠に最近異変が起こっているらしい。

つい先日も市役所の史跡保存関係者の面々が上空を見上げていた。

この峠のさらに上にはハイキングコースがあって、その根本の石や土砂がいつ崩落してもいい状態にあるらしい。

実際峠には「落石に注意」の立て看板がれいれいしく置かれているし、時たま結構大きな石が落下しているのは事実であるが、では我々通行人はいったいどうやって「注意」したらいいのだろう?

朝比奈切通しの近所の釈迦堂切通しはもうずいぶん昔から崩落の危険があるということで交通禁止になっているが、近く朝比奈峠も同じ命運を辿るのだろうか?

Thursday, February 08, 2007

半藤一利著「其角俳句と江戸の春」を読む

あなたと私のアホリズム その8


鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
鶯の身をさかさまに初音哉
闇の世は吉原ばかり月夜かな
わが雪と思へばかろし笠の上
夕涼みよくぞ男に生まれけり
憎まれてなかれえる人冬の蝿
いなずまやきのふは東けふは西
秋の空尾上の杉を離れたり

などで有名な宝井其角(寛文元年1661~宝永4年1707年)の含蓄ある華麗な代表作を半藤先生が講評する。国漢文に造詣の深い先生の解釈の奥深いこと、また博引傍証の凄まじさにも圧倒される。特に最後の3篇が好い。

本書で改めて学んだこと

墨東に残る江戸時代の建築は三囲神社の本殿、寿老人の白髭神社の本殿、毘沙門天の多聞寺の山門の3つ。

江戸の鐘の音は、日本橋石町、上野の山、浅草観音、芝の切り通し、市谷八幡、本所横川、四谷天龍寺、田町成満寺の9箇所で鳴った。

1日12刻を十二支で表わす。始まりの子の刻は夜の十二時で鐘の音は九つ、次の丑の刻が午前2時で鐘は8つ、以下二時間間隔で寅の刻は7つ、卯の刻6つ、昼の十二時の午の刻になるとまた9つ、午後2時の未の刻が8つ、申の刻が7つ…。お江戸日本橋7つ立ちは午前4時、などなど。

勉強になりましたぞ、なもし。

五木寛之の「仏教の旅」を読む

あなたと私のアホリズム その7


最近NHKがインドの衝撃という番組でその破竹の進撃ぶりを伝えていたが、不思議なことにこの国の最大の問題点であるカースト制度についてまったく触れていなかったのが印象に残った。

インドのカーストとは身分を分ける4つのヴァルナ(階級)のことで、最上級のバラモン(司祭、宗教指導者)にはじまり、クシャトリア(王、武士、貴族)、ヴァイシャ(農民、商人、実業家)、シュードラ(隷属民)の順に続く。

そして以上4つのヴァルナにも入れてもらえないのが不可触選民(アンタッチャブル)である。あの偉大な(マハトマ)ガンジーですら、口では博愛精神を唱えながら、実際にはヒンズー教とカーストを擁護していたが、さすがにお釈迦様は心がひろく、いかなる不可触選民もまったく差別しなかった。
たとえ相手が娼婦であれ、盗賊や殺人犯であれまったく平等にあつかった。

その偉大なブッダの最後の旅を現地を歩きながら五木寛之という作家が、独特の低音で語る。

その低い声音はテナーではなく、野太いバスで歌われる浪曲のようである。水の流れにたとえると春の小川ではなく、滔々と流れる冬のヴォルガの底流のようである。

もうけっして若くないこの作家は、虚飾を拝した散文で、とつとつと己の真情を語る。そのような言葉と精神で書かれた新作がこの本であった。

私は本書の最後に紹介されているインドに帰化した日本人仏教僧、佐々井師の壮烈な生き様に感銘を受けた。

師は不可触選民の出身にしてインド憲法の制定者でヒンズー教から仏教徒に転進したアンベードカル博士と同様に、「自利利他円満」を退け、「利他一利」を主張しているが、やはり本当の仏教は宮沢賢治と同様この境地まで達しないわけにはいかないのである。

Wednesday, February 07, 2007

未来世紀ブラジル

勝手に東京建築観光・第5回


 才人監督テリ―・ギリアムの「未来世紀ブラジル」は大好きな映画だが、ここに出てきた近未来都市さながらの光景が、中野坂上駅前のサンブライト・ツインビルの外装である。

階上に向かうエスカレーターに乗って左上方を見上げれば、おお、凄い凄い、目が眩むような景観が頭上に覆い被さる。

やたらと日本人を殺傷したり閉じ込めたりするシンドラー社製のエレベーター!?が、何本も乱高下する姿はちょっとシュールな見ものである。
 エスカレーターを捨てて広場に出てみよう。進行方向左側に立つ集合住宅ビルの外装もとても洗練されている。

安藤忠雄の表参道ヒルズなんかよりよほど高級な建築物である。

Tuesday, February 06, 2007

ザ・ビッゲスト・スリー

あなたと私のアホリズム その6


世界の三大宗教は3人の偉人の偉大な死によって始まった。

イエス・キリストは西暦28年、32歳のときポンテオ・ピラトの命によってゴルゴダの丘で十字架上で磔になり、「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし」と叫んで息絶えた。しかも彼は3日後によみがえったと言われている。

これに対してイスラム教の始祖マホメットは、西暦632年、61歳のとき愛妻アイーシャの胸に抱かれながら波乱万丈の生涯を終えた。
コーランの最後の言葉は、「言え、おすがり申す、人間の主に、人間の王者、人間の神に。そっと隠れてささやく者が、ひそひそ声で人の心にささやきかける、妖霊もささやく、人もささやく、そのささやきの悪をのがれて」である。

いっぽうゴータマ・ブッダは、紀元前480年、鍛冶工の子チュンダが献じたきのこ料理が直接の原因となってクシナーラーで80歳で涅槃し、火葬に付され、その骨の一部はわが国の名古屋市覚王山日泰寺に納められ、諸宗交替で輪番する制度になっている。

「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」
が、ブッダの最後の言葉であった。

インドでは古くから人間の一生を学ぶ学生期、家族を支える家住期、晴耕雨読の林住期、死出の旅に出る遊行期に分けるが、ブッダはその生涯を通じて「よく死ぬための旅」を敢行し、ついに旅に死んだのである。

ブッダはクシナーラーではなく、本当はその先にある自分の故郷釈迦族の都カピラヴァストゥへ向かっていた。かつて自分が妻子と国民を捨てて出た故郷へ…。

その故郷はブッダの名声をかさにきて傲慢になり、それが原因で敵国コーサラによって滅ぼされてしまう。それに対して自責の念を感じていたブッダは、最後に自らの母国を目指そうとしていたが途中で力尽きた。

3人の偉大な宗教家のなかでは、私はそんなブッダに生き方と死に方が一番好きだ。

Monday, February 05, 2007

数珠を回して

ある丹波の老人の話(4)


 その日、大広間には大勢の人たちが集まりました。

そして一同は輪になって座ると、まず願主の祈りがあり、続いて会衆は口々に南無阿弥陀仏を唱えつつ、両手で珠を送って数珠をグルグル回すのです。

珠の中には格別大きうて房の垂れたのがあって、それが老院長のところに回ってくると、老院長はうやうやしくこれを押し頂き、「戌の歳三三才女眼病平癒いたしますよう、南無阿弥陀仏の観世音菩薩…」と唱えます。それが終るとまた数珠回しが始まり、限りなく繰りかえされるんです。

 初めのうちは数珠の回りが緩やかやったんですが、だんだんそれが早うなり、念仏の声も高くなり、会衆一同に憑き物でもしたように満場沸き返るような白熱した祈りとなりました。

私は人の情のありがたさに泣き、「これほど熱意のこもった大勢の祈りは、きっと観音さんに通じてきっとごりやくがいただけるやろう」と、なにやらひどく元気づけられたんでした。

そして母も、「きっとお陰が受けられるやろ」と言って、とてもよろこんだのでした。

Saturday, February 03, 2007

百万遍の大祈祷会

ある丹波の老人の話(3)


にわかめくらの母はなにひとつ自分ではできません。

食事の世話は箸の上げ下ろしから、便所通いにはいちいち肩を貸し、私はだいじなだいじな母、好きな好きな母のために、学校を長く休むかなしさも、友達と遊べないさびしさも忘れて、かたときもそばを離れんと介抱しました。

病院には広々とした庭があって、中には観音様のお堂があり、お参りする人が次から次に押しかけ、線香の煙の絶え間がありませんでした。

母の眼を治すために何かに祈りたい気持ちでいっぱいだった私は、「いつか母から話を聞いた柳谷も観音さん、これも同じ観音さんやから、この観音様に母の弦病平癒の願いをこめて一心に祈ってみよう」と決心しました。

毎朝母が眼を覚ますとまず一番に便所に連れて行き、それから食事をはじめ次から次に用事があります。せやからお参りは母がまだ起きないうちに済ませんとあきまへん。私は毎朝薄暗いうちに起き出して観音さんにお参りをしました。

それからお祈りをするんでも、ただ「お母さんの眼を治してください」だけでは自分の真心が観音様に通じないような気がして、いろいろ考えた末に、「私の片目をお母さんに上げますから、お母さんの片目だけでも見えるようにしてください」といいながら祈りました。

それもただ心の中で念じるだけでは通じないような気がして、声に出して祈ったんです。こんなに朝早うから誰も聞いておる人はおらんやろ、と思って、その声はだんだん高うなりました。ところがそんな私の声を聞いておる人がおったんです。

丹後の森というとこから来ていた馬場冶右衛門というおじさんと、越前から来ていた川合おえんさんというおばさんでした。

馬場さんは眼の悪い奥さんに付き添ってきていて、ひまさえあれば老院長の碁のお相手をしている心のやさしいおじさんでした。

おえんさんもやさしい世話好きの良いおばさんでした。この二人が私のことを病院中に言い触らしたので、「かわいそうなことや」「感心な息子や」などとたいへんな同情と評判を呼んでしまいました。

とりわけ老院長がすっかり感動し、おえんさんと馬場さんの奔走の結果、老病院長夫妻が願主となって私の母の回復を観音様に祈願する百万遍の大祈祷会が病院の大広間で開かれることになってしもうたんです。

Friday, February 02, 2007

鎌倉やゴッホの家に人気なし

鎌倉ちょっと不思議な物語41回


十二所の近所には、神社やお寺もあるが、いわゆるゲージュツカも住んでいる。

鷹のように眼光鋭い日本画家の小泉惇作氏は家のすぐ傍だし、和紙のきたみ工房やそのお隣の工芸家さんや岡松和夫さんという温和な顔をした芥川賞受賞作家も住んでいる。

以前に紹介したクジラが遊泳する不思議な美術家の家など最近は小さなギャラリーも増えてきた。

さらに数年前には、崖下にある私の家の上になんと「おみこし作家」なるおじさん夫婦が越してきた。時々のぞいてみると本当にお神輿が飾ってあるのでびっくり、である。

そのうえ十二所には、なんと「ゴッホの家」まで建っているのであった。

Thursday, February 01, 2007

ある丹波の老人の話(2)

  するとそのとき、母は「わたしは柳谷の観音様におこもりして“消えずのお灯明”をあげて一生一度の願を掛けてみよと思うんや。そやからどうぞわたしをそこまで連れて行っておくれやす。あとはどないなってもええさかいに、二人は家に帰っとくれ」というのです。

母はかねてこの観音様の霊験があらたかなことを聞いておりました。“消えずのお灯明”というのんは、手のひらに油を入れてお灯明をともし、一生一度の大願を掛けるんやそうです。

しゃあけんど、そんなところにこの不自由な母を置き去りにして帰れるもんやない。私と父はますます困り果てて悲嘆に暮れ、その場におった二人のカゴかきも一緒に泣いてくれたほどでした。

この愁嘆場を見るに見かねたのでしょう、十二屋の主人が親切に慰めてくれ、さらに「あのなあ、千本通り鞍馬口十二坊いうとこにどんな難病でも治すっちゅうほんまに上手な眼医者はんがおります。これからそこへ行って診てもろうたらどんなもんじゃろかな?」とすすめてくれたんでおました。

その話を聞いた途端、ワラにもすがりたい気持ちの私たちは、京の端から端まですぐにその医者のところへすっ飛んで行きました。

着いてみるとなかなか大きくて立派な病院です。院長は確か益井信という人でしたが、そのお父さんと共に開業してはる眼科の専門病院でした。

早速益井院長に診察してもろうたところ、「いかにも難病は難病やけど、もしかすると治るかも知れまへんなあ」というのです。

九死に一生を得た思いの私たちはすぐに治療と入院をお願いしたんやけど、あいにく病室は満員だというんですわ。

それをなんとか拝み倒して、せめて1週間でもよいからと必死に頼み込んで、とうとう薬瓶などを積んである狭い物置部屋に収容してもらうことに成功しましたんや。

ほいでもって父とカゴ屋はそこで引き上げ、私が独りで母の介護に残りました。
(続く)