Monday, October 19, 2009

藤沢周著「キルリアン」を読む

照る日曇る日第301回

いわゆるひとりの中年の鎌倉文士?が市内の名所旧跡、たとえば夜の円覚寺の山門や化粧坂、あるいはまた亀ヶ谷のおのれのあばらや、北鎌倉の居酒屋、さらには若き日に身に覚えの道玄坂界隈などで、やたらひとりよがりな物思いにふける私小説的感慨小説です。

まず冒頭の蝶の描写が妙ですよ。

「一匹の蝶がその風に翻弄されつつも、絶命的なバランスで宙を泳いでいく。」
というのですが、およその意味はわかるけれど、この一行においてプロの文章として「絶命的」はないでしょう。せっかく勢い込んで読もうとしていたのに、この奇怪な形容動詞に面喰って「絶望的」な気分になりました。

しかし心を動かされる個所がないではありません。たとえば突然文士の陋屋を前触れもなく訪れる謎の美女。

「薄手の黒いストッキングの細い足首が見え、三和土(たたきと読む)に残ったもう一方に足が太腿の奥まで露わにしていた。茶封筒とバッグを框(かまちと読む)に置いたまま、畳を軽やかに揺らして入ってくると、布団に頽(くずお)れてくる」

なあんて、なかなかうまいもんです。おまけに文士は、こんな官能的な美女にいきなり唇を重ねられたりするのです。いいなあ。

それからこの文士の風呂場には巨大な「鎌倉蜘蛛」が棲息していて、昼でもそうとう不気味な雰囲気を醸し出しています。さらには文士の故郷新潟の友人からはなにやら幼友達の不穏なうわさ話を伝えてきます。

しかしながら、これらの諸要素がよってたかってなにか小説的核心を構成していくのかと思ってじっと我慢して読み続けていたのですが、結局はなんにも起こらない。なにもない。なにももたらされない。このサントリーの山崎的状況はいったいどういうことなのでしょう。

不得要領のまま読み終わったのですが、タイトルの意味すらわからない。仕方なくネットで調べてみると、キルリアンとは旧ソ連の科学者が唱えた「似非科学」で、高周波電界中に置かれた生物体の表面に起こるコロナ放電現象のことらしいのですが、それならこの芥川賞作家の小説って「似非小説」ではないでしょうか?

ちょうどその時でした。しかしちょっと待てよ。主題の喪失と描法の混乱こそ現代小説の2大特徴とすれば、この作家のこの作品こそは、げにそれらの特性を全開させた秀逸な収穫ではないのか?という不埒な思いつきが、私の鈍い爬虫類の脳内にあたかも天啓のように閃いたのでした。


♪不埒な女のラチもないプラチナジュエリー 茫洋

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