Tuesday, October 13, 2009

吉村昭「歴史小説集成第4巻」を読んで

照る日曇る日第300回

岩波書店から刊行されているシリーズの第4巻には「落日の宴」「黒船」「洋船建造」「敵討」の長短4つの作品が収められており、幕末のペリー来日の頃の幕吏の精力的な活動ぶりをつぶさに追体験することができます。


嘉永6年1853年6月、ペルリ提督率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航し、彼らが去って間もなくプチャーチン率いるロシア艦隊が長崎に入港し開港や通商を要求しました。
著者は、前者を題材とした「黒船」では小通詞堀達之助、後者を扱った「落日の宴」では交渉役を務めた川路聖謨(かわじとしあきら)を主人公として、この史上未曽有の国難に当時の幕閣がいかに誠実に、持てる全知全能をあげて対応したかを精細に描破しています。

「黒船」では、アメリカ艦隊の威嚇的な態度と、これに終始振り回される老中阿部伊勢守正弘をはじめ徳川幕府の指導者たちの態度が対照的です。
米国が強行し、日本が追認するというパターンはこの時に確立され、この恨み重なる屈辱をいっきに晴らさんとして企図されたのがかの太平洋戦争でしたが、一擲乾坤の大博打にまたしても屈辱的な敗北を喫した日本は、依然として大きなコンンプレックスをこの大国に対して懐き続けているようです。

ペルリ側の攻勢に対峙する老中阿部伊勢守正弘などの幕閣の裏舞台も興味津津ですが、それ以上に興味深いのは、小通詞堀達之助の波乱に満ち曲折に富んだ生涯です。
長崎でオランダ語をマスターした堀は、同僚の森山の誹謗中傷によって小伝馬町の牢屋敷に収監され、そこで高野長英と同様にはしなくも牢名主となって安政の大獄で斬に処せられた水戸家の家老や頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰などの悲劇を目の当たりにします。

彼の語学の才を知る古賀謹一郎によってようやく娑婆に出た堀は、英語の達人たちに追いあげながらもその習得に努め、日本人の手になる初めての英和辞書「英和対訳袖珍辞書」を完成させるのです。
ようやく函館で維新を迎えたのもつかの間、われらが主人公は今度は榎本武揚率いる幕府軍から命からがら逃げ回りながらも47歳にして愛する女性と巡り会い再婚するのですが、美人薄命の言葉通り彼女に先立たれ、やがて次第に衰えながら齢72歳で没するのです。時に明治26年でした。

「落日の宴」でロシア艦隊を率いたプチャーチンと互角以上にやりあった川路聖謨は、つとに世界情勢を熟知し、開国の必然を見抜いていた当時最高級の政治家でした。
50歳を過ぎながら三島から天城を越えて下田まで160里を1昼夜で走破した強靭な肉体と精神力、高い教養と高貴な人格は世界中で第1級の人材であると敵であるはずのプチャーチンや秘書官のゴンチャロフ(あの名作「オブローモフ」の作家ですよ!)からも激賞されています。

それにしても伊豆で沈没したロシア艦「ディアナ号」をめぐる政治折衝は猛烈無比なもので、このような重大局面をよくも川路や阿部は切り抜けたものだと感嘆せざるを得ません。
現代の歴史家は彼ら幕末の政治家を薩長の田舎者と対比してとかく優柔不断で肝が据わっていないと低く評価しがちですが、西郷、大久保、桂、岩倉などとサシになれば果たしてどちらの人物が上であったでしょうか。

徳川の世に最後まで忠誠を誓った川路聖謨は、慶応4年3月15日、江戸城が討幕軍の手に落ちるのを潔しとせず齢67歳で自決して果てました。
山田風太郎が評したごとく「徳川武士の最後の花」ともいうべきまことに見事な死にざまでありました。


腹横一文字にかっさばき晒を巻きてのち喉に短銃打ち込みたり 茫洋

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