照る日曇る日 第351回
なにやら奇妙なタイトルに惹かれて読みだしましたら「路上」のジャック・ケルアックと「裸のランチ」のウィリアム・バロウズの、いずれも無名時代の小説だったのでちと驚きました。
この題名は当時どこかの動物園だかサーカスだかが火事で丸やけになって大勢の動物や人間が死んだというラジオのニュースを2人が聴いていたのでつけられたそうですが、命名の理由なぞ聞かないほうがよっぽどシュールで良かったね、というところ。なぜなら、この素人小説にはそれ以外の取り柄がさっぱりなかったからです。
ではカバ小説の中身といえば、これが1944年8月にニューヨークで起こった殺人事件のてきとーなカバー! 2人が偶数章と奇数章をそれぞれ書きついで完成させたというリレー方式の目新しさをのぞけば、特にどうということもない面白くもおかしくもない三文小説でした。
たまたまその年の夏、ルシアン・カーという少年が彼につきまとうデヴィッド・カラマーという年上の男をナイフで刺し、意識不明のカラマーをハドソン川に投げ落として殺害したそうですが、この2人はケルアックやバロウズやアレン・ギンズバーグなど後にビート世代を代表する文学者や詩人たちの知り合いでした。
彼らは殺害直後のカーに対して自首を勧めるどころか殺人の感想を聞いたり、逃亡の相談に乗ったりしたのでケルアックなどは牢屋にぶち込まれたり、後年になってこのカー・カマラー事件の顛末を何度も小説化していますし、バロウズなどはこの事件を参考?にして細君を銃殺しているくらいですから、若い彼らにとってはそうとうショックな事件だったとは思うのですが、読まされる方にとっては面白くもおかしくもない話だねえ、という一点に帰着するわけです。
しかしながらいまや現代小説の肝が、あらすじの面白さや主題の積極性ではなく、読み進むに従って読者の胸中に生じる不断の生命の躍動(エランヴィタール)そのものにあるとすれば、この元祖ビート小説の最大の特徴は、その生命の躍動を一歩も二歩も進めた無窮の生命の非躍動(ニル・アドミラリ)にこそあるのでしょう。お茶漬けの味にこそグルメを凌ぐ深い滋味が宿るのです。
それゆえ平成最晩期に生きるサイバーパンクな作家たちは、このニル・アドミラリの境地をこそいまいちど目指すべきではないでしょうかなう。
♪カバたちがタンクで茹で死ぬ季節こそニル・アドミラリの境地を目指さむ 茫洋
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