音楽千夜一夜 第140夜
フィッシャー・ディースカウで思い出すのは、彼が吉田秀和翁と一緒のタクシーに乗り合わせたときの逸話です。そのタクシーのラジオからはちょうどクラシック音楽が流れていたので、まだ若き日の吉田翁が、「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番!」と言い当てると、隣の席に座っていたディースカウが、「ソロはバックハウス、オケはカールベーム指揮のウイーンンフィル」と引き取ったというのですが、ここに彼のやや神経質で律儀な性格と正確無比をモットーとするきめ細かな音楽作法の一端がうかがえるような気が致します。(ところで昭和時代の東京の運転手には高尚な音楽趣味の持ち主がいたものですね。)
世界に冠たるバリトンの帝王の地位を辞したあと、彼は第二の人生に入り、第二のクレンペラーたらんと指揮者を目指してチエコフィルハーモニーを振って独欧系の交響曲をいくつか録音しました。しかし歌曲では成功した上記の音楽術が、指揮では仇となったためでしょう、クレンペラーなどからも冷たい視線を浴びて結局雄図むなしく熟年の夢を捨てたのでした。
されど古今東西男性のバリトン歌手多しと言えども、フィッシャー・ディースカウの前にディースカウなくフィッシャー・ディースカウの後にディースカウなし。その紋切り型の定評をいやおうなしに認めさせられてしまうような11枚組のEMI盤コレクションです。
そもそも私がシューベルトの歌曲の素晴らしさにはじめて目覚めたのは、忘れもしないここに収められたフィッシャー・ディースカウがジェラルド・ムーアのピアノ伴奏で歌う「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」の3つの代表的な歌曲集のLPレコードの演奏においてでした。
ドイツ語から翻訳された日本語の歌詞をフレーズごとに辿っていたとき、この作曲家がたくまずして企図した詩と音楽の絶妙な交歓が、フィッシャー・ディースカウの知的で、滑らかで、清潔で、かゆい所に手が届くような巧みな口跡によって奇蹟的に果たされていると感じたのです。
その懐かしいシューベルトをはじめ、シューマンの「リーダークライス」やブラームスの「マゲローネによるロマンス」(リヒテルの伴奏)、マーラー、ウオルフ、シュトラウスの有名な歌曲の録音を網羅したこのコレクションは、その1枚166円というバジェット価格ともども、この不世出のバリトン歌手の魅力をあますところなく伝えてくれるでしょう。
知に働けば角が立つことあれどやっぱりフィッシャー・ディースカウには叶わない 茫洋
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