Friday, June 11, 2010

梅原猛著「葬られた王朝」を読んで

照る日曇る日第347回

かつて「隠された十字架」で法隆寺は藤原不比等によって聖徳太子の怨霊を鎮魂するために再建されたと説き、「水底の歌」では柿本人麻呂は不比等によって石見の国で水死させられて怨霊となった、と説いた著者が、今度は出雲の国を訪ねて、出雲王朝の創始者である「スサノオとその子孫のオオクニヌシこそ、不比等がもっとも手厚く祀った大怨霊神なのであり、その不比等こそがヤマト王朝に敗れた出雲王朝の神々を出雲の地に封じ込めた張本人である」と高らかに宣言します。

菅原道真の怨霊を鎮めるために藤原忠平が京都の北野天満宮を建てたところ、道真の怒りは時平の子孫に向かったために忠平一族は難を逃れて摂政関白の職を独占するようになり、ついには天満宮が摂関家の守護神になってしまった話は有名ですが、怨霊鎮魂派にして藤原不比等原理主義の泰斗である著者は、今回もかなり強引にこの論法を古代出雲文明の誕生と死滅の歴史に適用して、かなりの成果?をおさめた模様です。

 およそ40年前に「神々の流竄」でヤマトで起こった物語を出雲に仮託したフィクションであると断じた著者でしたが、本書ではその誤りを全面的に認め、やはり古代出雲にはヤマト王朝にまさるとも劣らぬ偉大な文明と文化があったことを、記紀の徹底的な読み直しや最近の考古学上の遺跡・遺物発掘や郷土史研究の成果を踏まえて、威風堂々と骨太に論証しているのです。

 私は、著者のいつもながらの鋭い直観に裏打ちされた規模雄大な構想力と大胆不敵な想像力に対して、深甚なる敬意を惜しむものではありません。しかし、「縄文時代の日本(あるいは日本人)」などという明らかに非歴史科学的な用語を乱発したり、神話上の人物と実在の歴史的人物とがいともたやすく観念的に接ぎ木されてしまったり、相変わらず「古事記」の選集に従事した稗田阿礼が藤原不比等その人である、と力説している梅原翁の「論証」のやり方には、多少の粗雑さを感じないわけにはいきませんでした。

いざ行かん蛍舞う橋の袂まで 茫洋
細君と蛍見にゆく夏の夜

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