Tuesday, June 22, 2010

レーモンド・カーヴァー著「ビギナーズ」を読んで

照る日曇る日 第350回

アメリカの作家レーモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」という短編集を読んだ時、それが当時の「ニューヨーカー」の辣腕編集者ゴードン・リッシュによって原文のおよそ半分がカットされ、残された部分も徹底的に切り張りされた代物であり、その奇妙なタイトルさえも、くだんの編集者によって命名されていたことを、私はこの本の翻訳者村上春樹のあとがきによってはじめて知りました。

当時アル中で小説を書くどころか、死に瀕していた無名の作家にとって、自作を改変されることは屈辱的ではありましたが、その改変が原作よりも優れた成果を収めていたり、改変されたその協調性に欠けた共著が著名出版社から世に出たり、ましてや江湖の文学ファンから歓迎されてベストセラーになるに及んでは、それこそ功罪相半ばということになって、長くお互いの「企業秘密」になったことは、門外漢の私にもわかるような気がします。

さて文学者である妻テス・ギャラガーの協力を得て限りなく当初のオリジナル原稿に忠実に復刻された「愛について語るときに我々の語ること」改め「ビギナーズ」の読後感はどうかと聞かれたら、収録作品ごとに優劣はあるにせよ、原作も良ければ改訂版も悪くないことあたかもブルックナーの交響曲のごとし、と答えるしかありません。

たとえば表題作の「ビギナーズ」は改訂版である「愛について語るときに我々の語ること」の倍の分量に復活したために、交通事故から奇蹟的に生還した老夫婦の再会のシーンで大きな感動を与えられたり、作者の思いがけないゆったりとした語り口に小さな驚きを味わったりすることができるわけですが、その反面、あちこちの冗長な描写が気になるだけでなく、カーヴァーの最大の特徴である生の真髄に冷酷無比に切り込む鋭い筆鋒が失われている不満を感じないわけにはいられません。まるで泡のないサイダーを飲まされているような味気なさといえばいいのでしょうか。

やがて腐れ縁で結ばれたこの2人は、切れろ切れないのすったもんだを繰り返したあげくようやく決別し、晴れて独立して自由の身になったこの20世紀アメリカ文学の旗手は、短すぎた生涯の最晩年を彩る「大聖堂」などの心に重く沁み込む傑作を遺して1988年に亡くなったわけですが、その文壇デビュー以来の前半生を創造したのは作家以上に作家を知る編集者との二人三脚であったことを思うと、複雑な感慨に誘われます。

おそらく私たちはこの作家の内部にキメラやミノタウロスの残骸を見出し、その作品の内部に棲息するジキルとハイド氏の対話を読まされているのではないでしょうか。


かにかくに資本の走狗と成り果てて会社会社と喚く君(俺)たち 茫洋

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