照る日曇る日 第389回
キリスト教世界では聖書に次いで重要とされるとかいうこの本。これまで野上素一、寿岳文章両先生の訳で読みましたがどうにもこうにも陸に上った海鼠のように面白くもおかしくもない喰えない書物。いったいどこが世界の名著なのかと頭を悩まし続けておりましたが、このたびの平川裕弘先生の定評ある翻訳を地獄・煉獄・天国とつらつら彷徨してもさっぱり興味がわいてこないのでした。
その原因はきっと私がキリスト教徒ではなく、神も地獄も天国も信じていないからでしょう。それでも地獄の恐ろしげな描写はわが国の仏教の様々な地獄絵図でもお馴染みであり、蛇に我身を食らわれたり糞尿の海に生きながら永遠に漬けられたりすれば嫌だなあという思いはあるのですが、詩人ウェルギリウスのガイドから離れたダンテが、ゆくゆくは天国に入るための予備校として、これまでに犯した罪の清めを行う煉獄界というみょうちきりんな世界に入っていく辺りでは「その嘘ほんまかいな」という無知で無信仰な庶民の健全な良識がにょきにょき頭をもたげてこないわけにはまいりませぬ。
そもそもキリスト生誕以前に活躍したギリシア、ローマの神々やホメロス、ソクラテス、オデッセウス、アキレウスなどの偉大な詩人、哲学者、英雄が紀元1300年頃のフィレンツエで党派闘争に明け暮れていたイタリアの小詩人によって有罪宣告を受けて、哀れ地獄や煉獄に落され、なんで塗炭の苦しみを味あわなければならないのか。
いくらキリストとキリスト教が偉大であるからというて、その創始者と教義と教会がこの世に誕生すらしていない時代に生きた無数の秀いでた無信仰者たちを、地獄・煉獄・天国のアバウトな3つの境界に投げ入れることなぞ、それこそ神様お釈迦さまでも出来るわけがない。
ローマ帝国を制覇した新興勢力のキリスト教が、ギリシアローマの古い神々を皆殺しにしたあとで教会の祭壇から追放して地獄においやるという構図は、わが国のアマテラス神話を政治文学的に編集した「古事記」と瓜二つで、それと同じ宗教文学史の書き換えを、遅まきながら14世紀の西欧で美辞麗句を並べたててやってのけたのがダンテというわけです。
それにしてもはじめの地獄篇ではそこそこ読むに堪えた彼の詩文が、想い人ベアトリーチェに導かれて水星、金星、太陽と舞い上がる天国篇において急激に天与の霊感を失い、なんの変哲もない神様万歳ハレルヤ晴れるやの御託の羅列に堕するのはなぜでしょう。
思うにベアトリーチェに再会するやいなや、彼の浮気と変節を厳しくなじられてしまったダンテが思いっきり自信喪失した当然の報いかもしれません。
なんだって後出しじゃんけんで偉さうに歴史を裁くなダンテ 茫洋
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