Saturday, September 05, 2009

吉村昭著「長英逃亡」を読んで

照る日曇る日第289回

高野長英は仙台水沢に生まれた江戸時代を代表する洋学者です。

彼は武士の身分を捨てて長崎のシーボルトの鳴滝塾で医学と蘭学を学びました。当時英国のモリソン号が来航したのですが、「異国船打ち払いなどの強硬手段を避けて我が国の鎖国政策をよく説明し、おだやかに退去させるべし」という主張を盛り込んだ「夢物語」を書きました。

それからしばらくして、幕府は皮肉にも彼とまったく同じ政策を採用することになるのですが、長英は洋学者を毛嫌いした目付鳥居輝蔵の憎悪の対象となって、渡辺崋山などとともに「番社の獄」の災厄に見舞われます。天保10年1839年12月28日、長英は家財、家屋すべてを取り上げられ鬼神も恐れる小伝馬町の牢屋に投じられてしまいました。

本書はその悲劇の主人公が、どのようにして牢名主!となり、どのようにして脱獄し!たのか。彼がいったいどのような伝手をたどって、江戸から水沢、福島、米沢、上越、名古屋、広島、宇和島、佐倉、そして江戸への帰還と長期にわたる大逃亡生活(彼が蝦夷地を経てロシアに逃げたという説も有力だった)を敢行したのか。
その間絶望の奥底に突き落とされつつも、どのようにして孤独と風雪に耐えたのか。蘭学や医学の弟子や同僚や師匠、同好の士や名もなき庶民の友愛の絆にどのように救われたのか。窮乏と孤絶の逃亡生活の合間を縫って、どのようにしてお得意のオランダ語の翻訳を通じて宇和島藩主伊達宗城や島津斉彬の防衛外交政策、ひいては幕末の政治展開に大きく貢献できたのか、等々を克明に伝えてくれます。

手に汗握るスリルとサスペンス、実録ならでは破天荒の面白さ、加えて森鴎外の晩年の史伝の世界に通ずる生の厳粛さがここには淡々と刻印されています。

ああ、それにしてもわれらが主人公が、もしもあと2か月、善良な男に頼んで牢に放火させ、一時的な「切放」(解放)を利して脱獄せずにじっと辛抱していたら、彼の運命はどうなっていたでしょう。

天敵鳥居輝蔵は失脚して丸亀に追放になり、彼の上司の水野忠邦も左遷されて主人公と思想をおなじくする老中阿部正弘や伊達宗城、島津斉彬、江川太郎左衛門の時代に急転したわけですから、牢破りの汚名を着せられることなく、「日本一の語学の天才」として洋学派を主導するのみならず、開明派の幕閣の間に名声を確立し、決定的な影響を及ぼしていたに違いありません。

それを思えば、南町奉行遠山金之助の手下どもにとうとう青山百人町の隠れ家を突きとめられ、岡っ引きの十手で目も歯も顔も体も滅多刺しに刺されて虐殺された長英の最期ほど悲惨なものはないでしょう。

そんな一代のインテリ蘭学者の流浪の生涯を、著者は史実に限りなく忠実に、冷静無比に粛々と叙述し、そのことを通じて史実の内奥にひそむ真実を語らせることに成功したようです。

著者の「あとがき」によれば、主人公のすべての足跡をたずね歩き、史料に「松がある」と書かれていれば、それが赤松であるか黒松であるか確認し、「土ぼこりが舞いあがっていた」と書かれていれば、その土が赤いか黒いか、または砂地であるかを確かめながら執筆しつづけ、しまいには逃亡者長英になり切って悪夢にうなされ警察官の人影におびえたと記していますが、ここまで書いてもらえれば高野長英も以て瞑すべし。まさにこれぞ著者畢生の名著、入魂の傑作といえましょう。

私はこの著作を岩波書店版の吉村昭歴史小説集成第3巻で読みましたが、551ページ下段18行冒頭に誤植があるので訂正していただきたいと思います。寡永2年は1823年ではなく1849年です。

あと2年辛抱すればわが世の春神ならぬ人の悲しさ哀れさ 茫洋

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