Thursday, September 03, 2009

吉村昭著「彦九郎山河」を読んで

照る日曇る日第288回

昔祖父に連れて行かれた、たしか京都の三条大橋の袂に、いかつい顔立ちの侍が、ものものしく平伏している巨大な銅像を見て驚いたのが、私がこの高山彦九郎という名前を聞いたはじまりでした。
それからずいぶん歳月が経ってしまいましたが、御所の賢所にいます至高の君を拝し奉っていたこの人の行跡をつぶさに知ることができたのは、著者のこの本のおかげです。

一言で尽くせば、高山彦九郎という一徹者は、ご一新の74年も前に王政復古を夢見つつ斃れた忠君愛国の儒者なのです。明治維新を地下で突き動かしたのは、ほかならぬ尊王攘夷という僭熱でしたが、彦九郎とその仲間たちは、幕府の松平定信が断行する武断政治に異を唱え、幕府や朝廷の文治派勢力と手を握りながら、およそ1世紀も早すぎた大政奉還運動に挺身したのです。

18世紀も終わろうとする寛政の御代は、列島の外ではロシアやイギリスなどの諸外国勢力が覇を唱えて四囲の海域に押し寄せようとしていましたが、内では京の朝廷と幕府の間に「尊号問題」などの軋轢が高まり、いわば明治維新のさきがけのさきがけを準備したような緊張感が二都の間にみなぎっていたようです。

そのおおらかな人柄と学識で誰からも愛された上州新田郡細谷生まれの熱血漢・高山彦九郎は、「蘭学事始」を著した前野良澤や渡辺崋山などの影響を受け、南下するロシアの実情を観察しようと蝦夷地を目指して果たせず、今度は、天皇の父を上皇に任命してもらい朝廷の政治的経済的地位を一気に向上させようと考え、儒者仲間や同好の士や公家や大納言たちとかたらい、当時から反幕勢力の中核であった薩摩藩との提携を画策したのですが、事志とたがい失敗してしまいます。

彦九郎のくわだてを見破った幕府は、そのおそるべき取締組織を総動員して、江戸から都、都から九州久留米の果てまでこの孤高の思想家を追い詰め、生き場と行き場を失った彦九郎はついに自害のやむなきに至ります。
腹に脇差を突き立て、京の方角である丑寅に向かって額を畳に押しつけた彦九郎は、「なぜの自刃かと問われるとわずかに唇を動かして「狂気」と答えて翌日息絶えました。

その辞世は「朽ち果てて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」というものですが、この国の、この時代にあって、己の思想を貫こうとした人の、その生のあまりの過酷さと壮烈さにしばし打たれない読者は誰一人いないことでしょう。


♪八幡宮長谷寺英勝寺光明寺鎌倉の寺社みな白き蓮 茫洋

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