Thursday, November 30, 2006

鎌倉の鯨が泳ぐ梶原屋敷

鎌倉ちょっと不思議な物語14回


この小さな谷戸に、鎌倉時代の有名な武将梶原景時が住んでいました。(この物語の「第1回太刀洗篇」で平広常を斬ったあの景時です)

しかし正治元年1199年、梶原景時が小山朝光を将軍の頼家に讒言したことに怒った60名の諸将が連署して景時を弾劾しました。

仕方なく景時は逃亡しましたが、結局駿河の国で吉幡小治郎に殺されてしまいました。

この梶原屋敷は同年の12月に破却され、その跡は長らくの間畑でしたが、いまは工務店の汚らしい道具置き場になっています。

屋敷の入り口の右側には梶原井戸が奇跡的に現存しています。

この井戸の底に近所の明王院の鐘が入っていたそうですが、後に引き上げられたと「十二所地誌新稿」には書いてあります。

 梶原屋敷も驚きですが、もっとびっくりするのはこの屋敷跡入り口に置いてある巨大な2頭の鯨です。きっと梶原景時の霊を慰めながら谷間を遊弋しているのでしょう。

Wednesday, November 29, 2006

公孫樹に寄す

いざともに青空称えん公孫樹

花も実も投げ捨てて後の栄華かな

ひゃくせんの黄金鳥の乱舞かな

つまとつま離れて生きて公孫樹

風立ちぬいざ生きめやも公孫樹

公孫樹黄金の手を振る別れかな

Tuesday, November 28, 2006

「不都合な真実」の試写を見た。

史上最悪の大統領ブッシュに敗れた「一瞬だけの大統領」、アル・ゴアのスライド講演をほぼそのまま映画化したのがこの作品である。

過去60億年にわたって2酸化炭素の排出と気温の上昇がシンクロしてきたこと、最近その度合いが急速にエスカレートしてきたこと、その結果南極の棚氷をはじめ世界中の氷河が猛烈な勢いで溶け出していること、これを放置しておくと南極やグリーンランド島の氷の消失によってマンハッタン島のツインタワー跡地が水没する危険があること、海水温度の上昇によって地球全体の気候が異常を来たし、集中豪雨や台風や日照りや飢饉が頻発し、これらに起因する生態系の混乱によって各種の疾病が大流行し、人類滅亡の危機が目前に迫っていることを厖大な科学調査やデータ解析の結果を踏まえてゴア自身が熱弁を振るう。

はじめのうちは再度大統領選に打って出るためのゴアの政治的プロパガンダ映画かと思っていたが、けっしてそうではなく、彼が月並みだが決死の覚悟でこの地球環境問題と格闘していることがだんだん理解されてくる。

ゴアはすでに60年代の後半からロジャー・レヴェル教授の環境問題への警告に耳を傾け、70年代後半に初の議会公聴会を手がけるようになっていたが、ゴアの息子が交通事故で死にかけたこと、タバコ栽培に従事していたゴア一家の最愛の姉が喫煙が原因でガンで亡くなったことが、この問題に全身全霊で立ち向かう大きなバネになったようだ。

それだけに世界最大の温暖化ガス排出国である自国アメリカが、依然として京都議定書に署名せずこの「不都合な事実」から目をそむけようとしている不誠実さを怒りを込めて弾劾するのである。

しかしゴアはたんにこの否定的な現実を政治的に糾弾して、「わがこと終われり」とするのではない。環境問題は小手先の政治問題ではなく、地球上に生きるすべての人間のモラルの問題だと断じるのである。

皆さん、このまま人類は滅びてもいいのですか? 
この素晴らしい地球をなんとか無事に子孫に手渡そうではありませんか。
子どもたちは「地球を壊さないで」と両親にいいましょう。
人はとかく否定から絶望に走ってしまうがそれはよくない。
「祈るときには必ず行動しよう」というアフリカのことわざに学びましょう。
われわれの一人ひとりが3つのRをはじめ省エネやエコドライブや植樹をすれば必ず危機は救われます。
アメリカの独立戦争にも、ブルジョワ打倒のフランス革命にも、第2次大戦の反ファシズムの戦いにも、私たちは勝利してきたではありませんか。
さあ、すべての地球人よ地球救済運動にいますぐ立ち上がりましょう。
この映画を見て地球の危機について知り、お友達にも勧めましょう!

と、矢継ぎ早に語りつつ、ゴア流現状分析→問題点指摘→超具体的行動方針提起、にいたる怒涛のような1時間半が終る。

正義の熱血漢、環境宣教師、男1匹ゴアが行く―
いまどき世にも珍しい正攻法の環境問題直接行動宣伝映画である。

まるで古き良き時代のアメリカが突然帰ってきたような懐かしさを覚えた私だが、こういう強速球もブッシュ政権のアメリカには必要であろう。

けれどもアメリカは、ゴアの言うように一日も早く中国、インド、豪州などとともに京都議定書を批准し、地球市民共同戦線の輪に入って欲しいものである。

きくところによるとわが国の環境省が、ことしの冬はオフィスの暖房を全部止めるそうだが、じつに見上げた環境運動ではないか。
色々な意味で内部腐敗・溶解・崩壊が近づいてきたわが帝国であるが、こと環境問題にかんしてはまだまだブッシュ帝国なんかには負けていないと思う。そしてこのゴア氏の熱い要請を真摯に受け止めて、私たちに可能な新たな取り組みを始めようではありませんか。

それにしても私の謎は残る。

あのブッシュなんかより人間的にも政治的にも百層倍も立派なゴアを、どうしてアメリカ国民は大統領に選ばなかったのだろうか? 

あ、日本もそうか、トホホ。

Monday, November 27, 2006

夢は第2の人生である。

*1997/3/25の2週間前の夢


若い米国の青年である私は海で漁をしていた。

えいっとばかりに銛を突き立てると、網の中から金粉で覆われた半魚のアフロディーテが血を流しながら姿を現した。


*2005/3/25の夢


俺は集英社か小学館の広告の人(たぶん梅沢さん )と銀座、新橋、御茶ノ水辺をうろついていた。
あるビルの中で柱によりかかる山本大介に会うが、その顔はのっぺらぼうだ。

そしてやっとパーティが終わって部屋に帰って寝た。

眠ったはずなのに猛烈なカラスの声に目が覚めかけた。

そっと確かめるとそこはどうやら郷里の裏の2階の部屋なのだ。気のせいかさっき
まで俺の側に座っていた女性は大島の紬を着ていた確かに母だった。

しかし天井、部屋、窓の外を見回しても母はいない。

気がつけば俺は鎌倉の自宅の2階で寝ていた。

左手には母ならぬ妻の櫛をしっかり握り締めながら。


*2006年2月某日

それほど大きくないイノシシにまたがって山を下ってくると突然急停止した。

よくみるとその先には道がなく、道の下には川が流れていた。

Sunday, November 26, 2006

勝手に東京建築観光・第2回

双頭のメデューサ
あるいはゴッダムシティのツインタワー



世界のタンゲが、1986年に日本に帰還し、あの新都庁舎コンペに劇的に勝利したとき、当時72歳の孤高の建築家には、すでに分かっていたのだ。

自分がゴッダムシティにつくった新都庁ビルが、その後史上最低の知事によって占拠され、醜悪な政治の伏魔殿と化すだろうことが。

そこでわれらがタンゲは、当初の計画どおり94年に新宿パークタワーという社交界の秘密交際と性の巣窟をつくったのだった。

すると案の定、全世界の有名タレントや芸能人などがワンサカ、ワンサカやって来た。

自分のヒルトンに泊まればただなのに、あのヒルトン姉妹までやって来た。

かくして、いわゆるセレブの隠れ家となったこの最高級ホテルは、右翼方向から流れ込む政治的なパワーに、左翼から性的に対抗することによって、憎悪と愛の定立と相互調和(アウフヘーヴェン)を図ろうとした。

といっても良い子の皆さんはなんのことだかわからないだろうから、

要するに「毒をもって毒を制する」ことにしたわけ。

この2つのビルジングは、それぞれが独立した建物ではない。両々あいまってはじめて建築的価値が生まれてくる内面的なツインタワー、なのである。

それゆえに、新宿駅南口から副都心方向に向かって、かつての武蔵野を国木田独歩のように歩むひとは、政と性との世界最高峰における同時多発的バトルを眺望することができるだろう。

そして、これこそが晩年の丹下健三が企んだ秘かなランドスケープ・デザインの「きも」だったのだ。

Friday, November 24, 2006

勝手に東京建築観光・第1回

沈黙の弔鐘




まず私が大好きな高層ビルから始めよう。

東京タワーの賞味期限が切れたいま、00年代の東京のランドマークといえばなんといってもこのNTTドコモ代々木ビルであろう。

このビルにはオフィスがなく、携帯電話の巨大な乾電池プールのような役割を果たしているらしいが、なんでも毎日40,50名の見学者が訪れ、しかも日本人より外国人が多いと聞く。

ドコモ代々木ビルは、2000年にNTTの不動産部門のNTTファシリティーズによって旧国鉄操車場跡に建てられた。

その端正なシルエットはほとんど醜悪な粗大ゴミと化した新宿副都心の超高層ビル群と鋭く一線を画して、あくまでも美しい。また頂上部のルックスは、ポストモダンンなクライスラービルといったところだろうか。

設計者は02年建築のドコモ川崎ビルと同じく林雄嗣で、そのコンセプトは「現代の仏壇」である。

つまりドコモ代々木ビルは、かの偏狭な靖国神社に代わって15年戦争のすべての死者に哀悼の意を表しつつ、近未来の廃墟トーキョーに向かって沈黙の弔鐘を打ち鳴らしているのである。

夜も昼も…

Thursday, November 23, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語12回

とても危険で観光どころではない鎌倉


家の近くに温泉?がある。
といっても熱海や箱根のような迫力はない。ドラム缶の中に地面から湧くお湯が溜まっていく天然の自噴井らしい。
もしかすると鎌倉唯一のミニ温泉かもしれない。(写真1)

あまり温度は高くないが鎌倉の天然記念物くらいの値打ちはあるだろう。この家の人はたぶん温泉のお湯で洗車しているのではないかなあ。

でも、こんなところでなぜお湯が出るのだろう? それには深い訳がある。

もとよりわが国は名高い地震国だからどこを掘っても1キロくらいの深さからお湯が出る。だから鎌倉に温泉があってもちっとも不思議ではないのだが、それだけではない。

おらっちが住んでいるこの十二所付近には地下にマグマの塊が潜み、13世紀中頃の鎌倉時代にマグニチュード8クラスの大地震が起こったのである。

当時日本の首都であった鎌倉には、1)頼朝が住んでいた鶴岡八幡宮付近の大倉幕府、2)頼朝が父義朝の墓地があった勝長寿院、3)実朝が蹴鞠を楽しんだ将軍別邸の永福寺、4)そして巨大な祭儀センターの大慈寺、と合計4つの重要施設があったが、この大地震のためにわが十二所の大慈寺を拠点とする壮大な七堂伽藍は一夜にして灰塵に帰した。(写真2)

長谷の大仏以前に造られた大慈寺の有名な大仏は、このとき首がぽっきりと折れてしまい、その首の残骸がいまの光触寺(一遍上人建立。頬焼き地蔵で有名)に安置されている。(写真3)

大慈寺跡には現在どういう風の吹き回しか大きなカトリック修道院が建っているが、この裏山の阿弥陀山が崩壊し、盆地の明石谷戸(いまうちのおばあちゃんが住んでいるところ)の地下全体が液状化状態になった、

そうである。(「吾妻鏡」&鎌倉市の発掘調査による)。

あれからおよそ750年。ついこないだの関東大震災をはさんで、鎌倉温泉の温度がじりじり上昇すれば、またまた鎌倉大地震が勃発する危険性はかなり高い。

いざ釜倉、地獄の季節よ、どーんと来い!

Wednesday, November 22, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第十一話

小さな橋の上で




数年前、近所に突然ウクレレの店ができた。

ウクレレといえば牧伸二か高木ブーだが、店長さんはそのいずれでもなく50代半ばの赤ら顔のおじさんだった。

Tシャツに短パン姿でパイプをくわえながらハワイアンを弾いたり、透明なビニールハウスの中でウクレレを木から作っていた。店ははじめはガラガラだったがそのうち東京ナンバーの車でかなりのお客がやってくるようになった。おじさんは彼らにウクレレの製作を教えていた。

3年前の7月中旬の午後7時過ぎのことだった。私がこのお店の左側を入った所にかかっている小さな橋の上で自転車を停めてきょろきょろしていると、そのおじさんが「何をしているんですか?」と声を掛けてきた。

私が「ヘイケボタルを探しているんです」と、答えると、「まさか私の家の裏でホタルが出るなんて!」とおじさんはびっくりしたようだった。そしてパイプを口からはずして、自分が鎌倉の海岸の傍で生まれ育ち、少年時代にはホタル狩りをしたこともあると語った。

私が「昨日の夜もこの橋から3匹見たんですよ。でも今夜はいないですね」と言うと、彼は「もう鎌倉にはホタルなんていなくなったと思ってました。これはいいことを聞きました。今日からしっかり観察しますよ」と、大喜びであった。

私は次の夜も、そのまた次の夜も、ウクレレ屋の後の小さな橋の上で自転車を停めて滑川の上流と下流を眺めたが、それっきりホタルは現れなかった。パイプのおじさんにも会わなかった。

それから1年が過ぎて、去年の7月上旬の午後7時過ぎのことだった。

私はいつものようにこの小さな橋の上に立っていた。

その日はいつもより多い6,7匹のヘイケホタルが、滑川の上にはらはらと舞う姿を私は陶然と眺めていた。

するといつのまにかウクレレ屋から一人の若い女性が出てきて、「ああ奇麗だこと」と言いながらホタルを眺めている。そこで私が思い切って、「今日はこちらのお店のご主人はいらっしゃらないのですか。あのパイプのおじさんは?」と聞いてみると、彼女は「今年の5月に突然亡くなってしまいました。あんまり急なことだったのみんなびっくりしてしまって」と、実に意外な訃報を私に伝えた。

彼女がおじさんの娘か親戚か店のスタッフなのかは分からなかったが、急死のショックは相当大きいようだった。私もあんなに元気そうだったおじさんが、と、信じられない思いだった。

私が、「おじさんにこの橋にホタルが現れることを教えたのは、私なんですよ」と言うと、彼女は、「去年の夏は毎晩ここから眺めていましたがとうとうホタルを見ることができなかったので、今年こそはと楽しみにしていたんですが…」と言い掛けて、どうやら涙を隠すためであろう、急いで店の裏の部屋へ姿を消した。

それから私は、また小さな橋の上から暗闇を自由自在に乱舞するヘイケボタルに見入った。

そしてそのホタルのうちの1匹が、あのパイプのおじさんのような気がして思わず合掌したことであった。

Tuesday, November 21, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一〇話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一〇話

鴨たちはこうしたもの

今日、散歩の途中で滑川をのぞいてみたら、鴨が二つがい浮かんでいた。
ということは、全部で4匹である。
彼らはカップルごとに移動するが、二つのカップル同士が接近して多少の混乱を招くときもあるようだ。
私はなんとなくモーツアルトの「コジ・ファン・トゥッテ」の世界を思った。

鴨のように仲睦まじく生きて死にたい

風雪に耐えゆく鴨の行方かな

Monday, November 20, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第九話

今日はトリの話です。

昨日ご紹介したヘビが出没する川の土手にはカワセミが巣を作っています。

猛烈な勢いで狭い流域を飛び回っては、また巣に戻る。

私はこのカワセミを、かの大作家ジュール・ベルヌとかの大映画作家エリック・ロメールに敬意を表して「緑の光線ちゃん」と呼んでいます。

それからこの川の中にはカモの夫婦やカメやハヤもすいすい泳いでいます。初夏には天然のへイケボタルも飛ぶのです。

トリに話を戻すと、太刀洗や熊野神社近辺ではコジュケイの家族連れに出会います。つい先日もぱったり出くわしてお互いにワアと驚いたことでした。

ここいらではすべての生物の天敵のタイワンリスが大繁殖しているというのに、よくぞ生きながらえていてくれるものです。

彼らはほとんど空を飛べずに山野を農協の団体旅行のように歩き回っているだけ。だからあの凶暴なタイワンリスに襲われればそれこそ聖徳太子の一族のように皆殺しされてしまうのです。

さて今日の午後5時過ぎ、新宿の学校から鎌倉に戻ったばかりの私は、東口駅前交番の隣に立っているクスノキの樹を撮影しておりました。

真っ暗な写真ですが、右端から飛び出していく白いものが見えませんか?

実はこれはスズメです。

そして見えない目をよーく凝らしてこの心霊写真をご覧下さい。そーするとあちこちにスズメたちが飛んだり跳ねたり鳴いたり喚いたりしている姿が見えてくるでしょう? 

なに見えない? まだまだ修業が足らないなあ。

ともかく何十羽のスズメたちがこのように集まって周囲の人々を驚かせております。

私が青池様より譲って頂いたデジカメ名機を彼らに向けていると、会社帰りのおじさんが近寄ってきて尋ねました。

おじさん「なんの鳥ですかなあ?」

私「今日はスズメです」

おじさん「じゃあ他の日にはスズメ以外のトリも止まるの」

私「はい。昔はスズメじゃないトリがやっぱりこうやって大集団でこの樹に群がっておりました。たぶんシジュウカラだと思います」

おじさん「そういえば小田急の藤沢駅前の樹でも、こうやって大騒ぎしているなあ」

このとき横合いからおばさんが登場。

おばさん「でもスズメはなにしてるのかしら?」

おじさん「街なかは人間がおおぜい居て安全だからこうやって集まってるんですよ。町の外はトンビやカラスが飛んでいて危険でしょ」

私「いやいや、彼らはああやって集まって文化服装学院FD専攻の生徒さんと同様に、熱心にお勉強しているんですよ」

おじさん&おばさん「???」

私「ほら、スズメの学校ってよくいうじゃないですか」

おじさん&おばさんは、なおもフラッシュをたきつづけている私を残して、さっさと改札口に消えていきました、とさ。

Sunday, November 19, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第八話

熊野神社付近に出没する謎の人物

 熊野神社は北条泰時が開鑿した朝比奈切通しの交通安全を祈願して紀州熊野から勧請されたという。

山腹に上下2つの社殿が築かれているが、最近下の本殿の左側に時々アマチュアの修験者が出没して無念無想の業に耽っている姿を見かける。

また本殿右側の突き当りには幻の名水を湛えた江戸時代からの井戸がある。

はるばる東京からやってきた名水マニアが汲んでいるようだが、30年前と比べてあまり清潔安全な水とはいえない。持ち帰るのは勝手だが、煮沸したほうが無難であろう。

さらにこの神社の麓付近には、サングラスをかけた青年考古学研究者?が地図を広げて待機しているので、ここらの歴史や遺跡や史跡について教えを乞うのも一興であろう。

この熊野神社は江戸時代に再興されたが、昭和初年から10年代にかけて地元の有力者によって門や狛犬などの寄進を受けた。

その多くが旧満州国の軍需産業で成功した人たちのようだが、日本帝国敗残のあと彼らは無事に母国に辿り着けたのだろうか? 

天国から地獄へ、一瞬の栄華から無限の奈落の底へ突き落とされた彼らの運命やいかに? 

戦争は断じていけないな、と、いつも思いながら、私は毎日のようにお気楽に散歩しているのである。

Saturday, November 18, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第七話

蛇、長すぎる。 
と、言ったのは博物誌を書いたルナールだが、最近あまり身近にこの「長モノ」を見る機会が減ったような気がする。

しかし実際にはそうでもないようで、つい2、3週間に私の妻が太刀洗で短いやつ、それから左の写真の細長い道で2メートルになんなんとする超特大のアオダイショウに遭遇したそうだ。
しかも2回も続けて出会ったそうだ。

そのとき自転車でこっちからあっちへ行こうとしていた彼女は、その超特大が右側のつつじの根本にゆっくりと移動するまで息を潜めてじっと立ち止まっていたという。

ああ惜しいことをした。そいつがしずしずとグロテスクな巨体を動かすところをぜひとも見たかった。

そう思って今日もこの道を行きつもどりつしたのだが、ついに超特大は姿を現さなかった。

もう冬眠の準備に入ったのかもしれない。

つつじの根本でねんねぐーしているのかもしれない。

この長い道の左側を流れるのは滑川だが、うちの健ちゃんは、昨日紹介したO家のマサ君たちと一緒に、少年時代によくこの川に入ってウナギ取りをしていた。

両手でウナギをつかんだと思ってよく見ると蛇だったのでびっくりして投げ捨てた、なんて楽しそうに語っていたっけ。

そういえば健ちゃんは蛇が好きだった。石切り場跡地にはヤマカガシの巣があったらしく、我が家の庭には春になると小さなヤマカガシがうじゃうじゃ出てくる。健ちゃんはそいつらを捕まえては、首に巻いたり地面で這わせたり、動くおもちゃ代わりにして何時間も遊んでいた。

そういえば我が家が新築されて間もないある日の朝、なにやら変な気配がするので私が寝たままの姿勢で頭の先に目をやると、40センチくらいの長さのアオダイショウがチラチラと舌なめずりしながら写真(中)の植木鉢のへんでうごめいていた。

思わず凍りついてしまった私は、「どうしよう、どうしよう」とうろたえてパニクったのだが、隣の部屋でねんねぐーしていた健ちゃんの名を呼んだ。

やって来た健ちゃんは、傍にあった座布団をぱっとアオダイショウの上にかぶせ、それから両手をゆっくり座布団の下に差し入れ、しばらくもぞもぞやっていたが、やがてアオダイショウの胴体をそおっと引き出し両腕に優しく抱え込んだので、私は彼のとても少年とは思えないきわめて冷静沈着なその一連の所作にいたく感動したものだった。

健ちゃんはしばらくアオダイショウと遊んでから家の前を流れる滑川に逃がしてやった。

するとアオダイショウのあおちゃんは、「ありがとう健ちゃん、さようなら。またあそぼ」
といいながら流れに消えたのだった。

私は健ちゃんと違って蛇は怖くて触れない。何回見てもおぞましいその不気味なぐねぐねを目にすると、総身にぶるぶるっつとくる。そのぶるぶるが、忘れていた生のなまなましさを思いださせてくれる。

そういえば、つい先日逗子開成高校の生徒が捕まえた蛇と遊んでいたら、何人かがそいつに咬まれてしまって保健室に行ったらはじめてマムシだと分かったそうだ。

マムシも蛇だが、これはアオダイショウが黒化した攻撃的なカラスヘビと並んでとても危険だ。

私は田舎の少年時代に昆虫採集をしていてマムシに追いかけられたことがあるが、とても恐ろしかった。

谷川でカニ取りをしていてカラスヘビに追いかけられたときも怖かった。

シューという不気味な声を上げて牙を剥きながらまるでキングコブラのように1回大きく跳躍し、また着地してからすぐに体勢を立て直してまたジャンプしながら襲い掛かってくる。思い出すだにまた怖い。

鎌倉のマムシも凶暴である。

右端の写真は朝比奈の滝であるが、この上流がその名も「蝮ケ谷」という谷戸だ。

だいぶ以前にあるカメラマンがこの谷戸にわけ入ったら案の定マムシに襲われて三脚に噛み付かれたので三脚を放り出したまま逃げだしたそうだ。

おおコワ。

Friday, November 17, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第六話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第六話

小早川家にも佐々木家にも秋が来た。O家の秋は、芸術の秋である。

長く続く塀に長い蛇のようなツタが絡み付いて独特の風情がある。

O家は江戸時代の名主の家で、この付近で切り出される鎌倉石の石切り場でもあった。

もっと遡ると中世鎌倉時代にはこの地点が鎌倉から六浦港、金澤文庫、金澤八景、そして江戸、房州に通じる基幹街道の関所であった。

 O家の向かいのちょっと高くなった土手の上に馬頭観音が鎮座しているが、この土手が関所の残骸である。現在の北鎌倉駅の大船駅寄りの土手にも同じような関所の残骸がある。あの一遍上人がもっとも鎌倉に接近したのはこの付近であった。

二つの関所を結んだ直線の真ん中が鶴岡八幡宮である。そして八幡宮からまっすぐ北上するとして半僧坊にどーんとつきあたるのだが、この半僧坊を頂点とした2等辺三角形を眺めてみると、明らかに2つの関所が当時の鎌倉幕府の都市計画に基づいて設置されたことが分かるだろう。

 O家から近い私の小さな家は、数百年の歴史と伝統に燦然と輝くO家が所有していた石切り場の跡に立っている。

そしてこの石切り場から切り出された鎌倉石は、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和30年代までの東京の民家の台所のかまど(へっつい)の素材になったわけである。

そしてそして、今は亡き愛犬ムクは、その由緒ある石切り場の跡に盛り土された小さなお庭でねんねぐーしています。

Wang!

Thursday, November 16, 2006

最近気になる日本語

最近気になる日本語

○敬愛なるベートーヴェン

今日の夕刊に「敬愛なるベートーヴェン」という映画の広告が出ていた。キャッチフレーズによれば、「第9誕生の裏に耳の聞こえないベトちゃんを支えた女性がいた」」という楽聖物語らしい。

まだ見ていないのでその内容はともかく、気になったのはその題名である。

「敬愛するベートーヴェン」とはいっても、「敬愛なるベートーヴェン」とはいわないはずだ。それをいうなら、「親愛なるベートーヴェン」だろう。

この映画の字幕翻訳はベテランの古田由紀子、字幕監修は音楽学者の平野昭、字幕アドバイザーなる者に、大汗かくけど下手くそ指揮者の佐渡裕という豪華絢爛たる(豪華絢爛なるとはいわない!)専門家がついていながら、肝心かなめの題名に奇怪な日本語をクレジットするとはどういうわけだ!? 

それともいよいよ私の頭が狂ってきたのだろうか?


○応援よろしくお願いします!

応援するのはこっちの自由だろ。

応援は、選手にリクエストされて、したりし、なかったりするものではないだろ。

おマエさんもいちおうスポーツのプロなんだろ。プロならプロらしく自分だけの言葉で語り給え。
 

○よろしくお願いします!

まだ言ってるのか。

それって挨拶なの? 挨拶なら「こんにちは」でいいでしょ。

いったい、何を、どう、よろしくして欲しいの? 

それをちゃんとした日本語で言ってみなよ。


○もう一度盛大な拍手をお願いします!

今度の修正日本国憲法の第9条に書いてあるでしょ。

拍手はいかなる場合にもこれを強要してはならない、って。


○元気をもらう 癒される

いま流行の?「元気をもらう」とか「癒される」という言葉を軽々しく多用する人は、じつはその言葉を挨拶代わりに使っていて、本当に元気になったり、癒されたりはしていないのだと私は思う。

他者と自分の関係をまるでロッテのバレンタイン監督が大好きなチュウーインガムのようにイージーに接着しようとしているだけだと思う。

そもそも元気はなるものであって、もらうものではない。元気は他人に与えるものであって、むやみやたらと「もらう」ものではない。

しかし行きずりのティッシュペーパーなどのようにたまたま「もらってしまう」こともあるだろう。

その場合は「元気をもらった」とはいわない。正しくは「元気づけられた」という。

もちろんあなたが本当に「元気をもらった」と思っても一向にかまわない。その恩人に対して心の中で深い感謝をささげるべきだ。しかしその奇妙な日本語をミキシィ日記に書いたり、まして人前で公然と発音してはならない。

この表現は「元気」という日本語の価値をおとしめ、自分を粗野な人間のように思わせてしまう下品なものの言い方であるということを知るべきだ。

「癒される」という言葉もそうだが、「元気をもらう」と言ったり書いたりした瞬間、あなたは恥ずかしくならないだろうか? もしそうなら、

あなたって意外と恥知らずな人なんですね。

Wednesday, November 15, 2006

拝啓 安倍内閣総理大臣殿

拝啓 安倍内閣総理大臣殿

教育基本法の国会審議等にてご多忙のところ、誠に恐縮でますが謹んで一筆啓上奉ります。
総理はご存知かどうか分かりませんが、最近世界で一番目か二番目に卑猥な古典音楽がわが神国ニッポンにて頻繁に上演され良識あるわが帝国のインテリゲンちゃんおよび婦女子の顰蹙を買っております。その音楽とは、かのリヒヤルト・シュトラウスのオペラ「薔薇の騎士」、とりわけその序曲冒頭の音楽であります。

物語の舞台はマリア・テレジア治下のウイーン。いきなり指揮棒が一旋すると、管楽器の不協和音が鳴らされ、と同時に、深紅のカーテンが左右にさっと開かれます。すると貴族の寝室のベッドに転がっているのは妖艶な元帥夫人と青年貴族オクタビアンではありませんか。

そしてこの二人があろうことか、いきなり公衆の面前で熱烈なラブシーン、いやいやそんな生易しいものではありませんぞ。な、なんとリアルな性交を繰り広げているのです。そしてリヒヤルト・シュトラウスの音楽は、その二人の性交を、まるで舌なめずりをするように、いやらしく、ねちねちと、正確無比に劇伴するんでありますよ。

(卑しくもわが日本帝国の権威をその愛嬌ある笑顔と意味不明の曖昧な言説で体現される総理に対して、こんな軽薄で露骨な言葉を安易に使っていいのか、不敬罪でニャロメの警官にすぐにもタイホされるのではないかと激しく惑うのですが)、高鳴るホルンの一撃は余りにも早すぎるペニスの勃起であり、次なる弦楽器の強奏は、成熟した年増女の「警告と教育的指導」であり、しばらく血沸き肉踊る猛烈な揉み合いが続いたあとで、全木管金管楽器が悲鳴を上げて咆哮するフォルテッシモは、若者のあまりにも性急で早すぎた射精であり、そこにすかさず分厚く覆いかぶさる弦楽器は、やむを得ず自分のエクスタシーを早めようとする元帥夫人の怒りを込めた焦りであり、やがてゆるやかに奏される序曲の終わりは、すなわちセックスの終わりとそれなりの性的満足の表明、なのですよ。

良い子の皆さん! いや安倍総理大臣閣下! こんな世にも猥褻でセックスむき出しの演芸を、馬鹿で低脳な他の国はともかく、神聖で高潔で比類なく美しいわが国の公衆の面前でオラ、オラ、オラと見せつけてよいのでしょうか?
 
今からでも遅くはありません。これ以上ジコチューで怠け者で惰弱で国民を大量生産しないためにも、天皇陛下のためにイランでもイラクでも南極でも月でも金星でもよろこんでじゃんじゃん死ねる汝忠良で愛国心に富んだ小国民を育成するためにも、とりあえず教育基本法の改正と防衛省昇格審議は後回しにして、大至急「薔薇の騎士」の公演禁止を今期の大政翼賛会にて即議決していただきたいのです。

以上、なにとぞ応援宜しくお願い致しますね。
アラアラかしこ。あまでうす拝。

*参考 R.シュトラウスの「バラの騎士」はカルロス・クラーバー指揮のウイーン国立歌劇場またはバイエルン歌劇場による演奏。同じくカラヤン指揮のウイーン国立歌劇場またはフィルハーモニア管演奏のできれば映像付の録音がおすすめです。

Tuesday, November 14, 2006

静子さんの思い出

静子さんの思い出



最初は確か小学生が死んだ。
次に、中学生が死んだ。
それから、高校生が死んだ。
校長先生も死んだ。
今度は、赤ちゃんが死んだ。
いや、殺された。

毎日毎日誰かが死んでいく。
毎日毎日誰かが殺されていく。

いったいぜんたいどうしてこんな国になったのか。
いったいぜんたいどこが美しい国なんだ。

誰だって死にたくなるときがある。
ボクだって小学生のときに死にたくなったことがある。

ほんとは死にたくなかったけれど、
きっと学校でなにかつらいことがあって、
ちょっとしたもののはずみで、「死んでやる」と言ってしまったら、
おばあちゃんの静子さんが、
「だめですよ、そんなあほなことをしたらだめですよ。神さんが絶対にお許しにならないですよ」
と、真剣な面持ちでつよくつよく言ってくれたので、
その一言のおかげでボクは死ぬことをやめることができたのだ。

死ぬことにははじまりとおわりとその真ん中があって、
そのはじまりの部分で誰かがきちっとストップをかけると
なかなか次に進めなくなることを、ボクは学んだ。

静子さんは、日本帝国が朝鮮半島を植民地にしていた時代に
現在の韓国のどこかで豊かな暮らしをしていた。らしい。
ご主人と死別した静子さんは、ボクの祖父の小太郎さんに
のぞまれて再婚し、それでボクのおばあちゃんになった。

静子さんは少しだが朝鮮語を話し、ボクたちに朝鮮語で
賛美歌を歌ってくれた。
ちょっと得意そうに歌った。
その歌を彼女の思い出のために、いまここでちょっとだけ歌ってみようか。

♪エスサーラッム、ハッシンム、ウールク ターリク、マーリルネ
ウーリードル ヤッカンナ、エスコンセ マートタ
エールサラ、ハッシン、エールサラ、ハッシンム
エールサラ、ハッシンム、エスコンセ、マートタ 

これはボクが知っている唯一の韓国語
これはボクが歌える唯一の韓国語の賛美歌461番「主われを愛す」
そして
これが静子さんの贈り物
そして
いまボクが死なないでこうやってまがりなりにも生きていること
それも静子さんの贈り物

ありがとう、静子さん
ありがとう、静子さん

そしてボクは願う。
いま猛烈に死にたくなった君たちに向かって
突然ボクの静子さんが現れ、
「だめですよ、そんなあほなことをしたらだめですよ。神さんが絶対にお許しにならないですよ」
と、つよくつよく言ってくれることを。

ボクの静子さんのような誰かが次々に現れて、
「だめですよ、そんなあほなことをしたらだめですよ。神さんが絶対にお許しにならないですよ」
と、つよくつよく言ってくれることを。

Monday, November 13, 2006

月曜日記

朝電車の中で冠雪した富士山が見え、「ああ今日はもうこれを見ただけでよし」と、満足した。
それでも引き返さずに新宿まで行って学食でまたしても650円の「海鮮丼」なるドンブリを頼んだら、なんとなんと魚のほかに私の大嫌いな納豆とやまいもをおろした奴が(おくらと一緒に)ご飯に乗っかっていた。

これって海のもんじゃなくて山のもんだろ。海鮮をやめて「海千山鮮丼」に改名しろ、と文句をいいたくなった。

おくらは食べたが結局全体の1/3は食べられなかった。もお二度と海鮮関係は発注しないからね。食い物のうらみは恐ろしいぞ!

 ぷんぷんと怒りながらキャンパスを歩いていたら、ぱったりと文化女子大の教授をしている松平さんと遭遇。前の会社で彼女はディレクター、私はチンドン屋でペアを組んで、フランスの「ミックッマック」というブランドを大売出ししていたことがある。この方はある日突然、かの会津藩の松平容保公の直系のご子孫と結婚されたのでみんな驚いたものである。

松平妃と別れてから、文化の博物館でメンズモード展を見た。

2階の入り口にフランス革命当時のスーツが置いてあった。私の偏愛するモーツアルトの肖像そっくりであった。

私はドラクロアの自由の女神に描かれているサン・キュロット=パンタロンの第3階級服はないかとキョロキョロ探したが、それはなかった。ルイ16世の時代の貴族のよそおい、そしてモードの主権がフランスから英国に移ってからのフロックコートや燕尾服やサビルローのスーツなどがずらずらっと並んでいて壮観だった。

そうかと思えば、1947年製のリーバイス社の501XXがジーンズではなく、オーバーオールやブラウスという名前で登場。見ればパンツにリベットが打ってない。その頃わが大日本帝国との戦争中で金属の使用は中止していた、と注釈がついていた。あの物資が豊かな米国でも衣料品は節約していたのですねえ。ちょっと意外だった。

それからインターネットの進化について例によって熱血大授業を行い、いっさんに鎌倉に帰った。大船の上空でサガンの小説のような「素晴らしい雲」を見た。(カメラを忘れたのが残念)

鎌万という安売り八百屋で「海鮮丼」の口直しに好物の柿を買って、太刀洗行きの京急バスに乗ろうとしたら、突然騒がしい鳥の鳴き声。

見上げると小さな楠の木にスズメの大群がむらがってぴーちくぴーちくと鳴き騒いでいる。これこそは鎌倉13大名物のひとつであろう。(またしてもカメラを忘れたのが残念じゃ)

百匹はくだらない数のスズメたち(それ以外の鳥のケースもある)がこの季節しばしば駅前広場一帯で示威行動するのはいったいどうしてであろうか? 

隣にいたおばさんが、「いったいなんておしゃべりしているんでしょうねえ?」と尋ねるので、私が「そおですねえ。なんていっているのでしょおねえ」と懸命に言葉を探している間に、なんと乗ろうとしていた太刀洗行きが発車してしまったではないか。

その次のバスはハイランド行きで行き先が違う。仕方がないので東急ストアをうろうろしてしてからバス停に戻ると金澤八景行きが来ていた。ヤレヤレと思って乗り込むと、どこかの団体で超満員。時ならぬ通勤ラッシュの痛苦に耐えながら立ちんぼうで、やっとこ、さっとこお家に辿り着きましたとさ。

ああ、東京に出るのは疲れるなあ。

Sunday, November 12, 2006

昔の歌

昔の歌

☆西本町の歌

西本町の路地裏の遊び場で、3人の少年が地べたに座っていた。

「でんばら、でんばら、でべそ」

と、小学3年生の長井まことが歌うようにしていった。

すると、同じ3年生の出原ひでおが、同じメロディで

「なーがい、なーがい、あ、そ、こ」

と、歌った。

それから2人は、意味深長な含み笑いをしながら

一年坊主のわたしを見た。

わたしは、「あ、そ、こ」がどこであるかを理解していたが、

黙っていた。

そのとき西本町の空はゆっくりとたそがれ、

地軸はどろろ、どろろと回っていた。


☆挽歌

武満1周忌のFMを聴きながら思う。

やはりこの人の音楽はあくまでも日本の上質の音の調べなのだなあ。

現代音楽なのに、古層には弥生人の叙情が深々と歌われている。

そしてそれがそのまま世界の隅々の人々を感動させるのであるなあ。

坂本龍一君も高橋鮎生もそこを目指しているのだろうが、まだまだだなあ。

君たちは少し頭が良さすぎるよ。もっと阿呆になりたまえ。

いま武満の最高傑作の「波の盆」が私の部屋に鳴り響いている。

これは今は亡きセゾングループの、70年代日本の、青春の、その他もろもろの古きよきものたちへの挽歌です。

諸君。涙せよ!

Saturday, November 11, 2006

嵐山光三郎著「昭和出版残侠伝」を読む

嵐山氏の本はほとんどすべて読むに値する。

本書は上司の「ババボス」が不当な仕打ちを受けて退社したために義によって名門平凡社を腹きり退社した嵐山バガボンをはじめとする「仁義礼編集屋兄弟」たちが日夜繰り広げた文字通りの「昭和出版残侠伝」である。

平凡社の「太陽」の編集長であったバガボンは、退社後なんと新宿のホームレスの群れに身を投じる。

一度やってみたかったというのであるが、すごいことをするものだ。

そのうち学研の協力によって「青人社」を立ち上げたババボスが、浮浪者バガボンを誘って共に「ドリブ」などの新雑誌を編集発行するに至る。

この間バガボンの僚友の篠原勝之や南伸坊、糸井重里、鈴木いづみ、赤塚不二夫、赤瀬川原平、松田哲夫、村松友視、椎名誠などの諸氏が出入りしてバガボンを応援するのであるが、それらのメンバーのうち、私にはかつて仕事を共にしたことのある安西水丸や篠山紀信、木滑良久、小黒一三などの名前が懐かしかった。

昭和56年、梁山泊のようなこの新興出版社に集まった編集部の面々は、いずれも一騎当千の侍ぞろいだが、私は筒井ガンコ堂こと筒井泰彦氏の名前に覚えがあった。

調べてみたら太古の時代に京都大学を受験した仲間と判明し驚いた。

彼も私も全国各地からやってきた受験生とともに、府庁前のたしか松原町の安宿に泊まった。夜店が出ており、古本を売っていたことを昨日のように覚えている。

我々はすぐに仲良くなり、受験の前日だというのに同室の5,6名とともに与太話をして夜を明かした。

筒井氏は佐賀県唐津市出身のインテリゲンちゃんで眼から鼻に抜ける秀才だったが、そのほかにもユニークな人たちが多かった。

はじめのうちは筒井氏が「武士道とは死ぬことと見つけたり」という「葉隠」の話をして一堂をけむに巻いていたのだが、次第に色めいた恋だの愛だの話になった途端、非常に朴訥な東北弁の男が、「女はやればええです」とランボウな実体験を披露し始めたので、さすがのガンコ堂も私もむっつり黙り込んでしまった。

こういう問題についてこういう角度から発言できる人物がいようとは夢にも思わなかったのである。文字通りのカルチャーショックであった。

翌朝私たちは睡眠不足でふらふらの私たちは、それでも必勝を期して京大キャンパスで試験を受け、それっきり二度と再び会うことはなかった。

もともと頭の弱い私は、数学が200点満点中15点しかとれずに落第したのだが、筒井氏は見事法学部に入学し、その後上京して平凡社に入社したらしい。

2代目ドリブ編集長をつとめたのち、氏は「帰りなんいざ、田園まさしく荒れなんとす」と陶淵明の詩を書き残して郷里に帰り、佐賀新聞の論説委員を務め、今では九州のがんこ堂として超有名人になっているという。

さて急いで本書の戻ろう。

もっとも感動的なくだりは、やはり最後のババボスの不慮の死であろう。

偉大なる先輩を惜しむバガボンの弔辞は涙を誘う。

それからもうひとつ。バガボンが名門大会社を辞めた途端に、それまでの親友のほとんどが去っていった、と述べた個所は身につまされるものがあった。

Friday, November 10, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第五話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第五話


☆少年時代に耕君が作った愛犬ムクの歌

♪ムクムクムク、ムクムクムク、ムクは犬だよ~。


☆今日私が作った亡き愛犬ムクの歌

道の上には、山がある。

山の上には、神社がある。

神社の上には、空がある。

空の上には、ムクがいる。

ムクの上には、神様がいる。

ムクは神様に吠えるだろう。

WANG! WANG! WANG!

Tuesday, November 07, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第二話

数日前に山道を歩いていたら、見慣れぬ赤土が眼に飛び込んできた。

おそらく誰かがここで半日がかりで深い穴を掘って、新鮮なヤマイモを手に入れたのだろう。

この辺はヤマイモが自生している。毎年この近所でヤマイモを掘っているので、あちこちにポコポコ穴が開いている。

数年前、たぶんその人と思われるおじいさんが、スポーツカブの後に、長いヤマイモと真っすぐな鉄の棒を乗せて家に帰っていくところを見たことがある。鉄棒の先は鑿のように尖らせてあった。

しかし私は、そのおじいさんを全然うらやましくはなかった。なぜなら、私の三大苦手のひとつがトロロだから。

Monday, November 06, 2006

理想の死に方

また日経からの引用で申し訳ないが、今日の夕刊の「プロムナード」欄に出ていた話。

著者の伊藤礼氏は、父親に似て、“朝寝して宵寝するまで昼寝して時々起きて居眠りをする”人であるようだ。

そして氏の父親である小説家・詩人の伊藤整氏ももちろん稀代の眠り男で、その日も
「ああ眠い…ああ眠い…」と、言いながら眠っていたそうだ。

そこで整氏の奥様が「いいのよ、眠いときにはゆっくりおやすみなさいよ」と言うと、それで安心して、すぐ息を引き取られたそうだ。

ああ、なんと素晴らしい死に方であることよ!

そしてこの短いエッセイは、次のような言葉で閉じられる。

「命日は11月15日で、この前後はいつも晴天がつづく」

私はこのくだりを読んで、晩年の中原中也が長男文也が生まれたあとで、「数週間にわたって日本全国晴天続く」と大書した日記のことを思った。

Sunday, November 05, 2006

私の名前の謎

今日の日経の文化欄に谷川健一氏が最近亡くなった偉大な独学者、白川静氏の追悼文を書いていた。

白川氏を吉田東吾、南方熊楠、折口信夫というアンチ・アカデミズムの偉大な「狂気の人」の系譜に位置づけ、その巨大な喪失を悼む見事な文章であった。

谷川氏によれば故人と折口信夫の考え方は酷似しているそうだ。

たとえば「歌」という文字は、白川氏によると、神への誓約の文書や祝詞を入れた器を木の枝で叩き、口を開いて神に哀願し強訴する形を示したものであり、折口にとって「うたう」というのは、「うたったう」と同根の語であって、神の同情に訴えるのが歌であり、この二人の碩学に共通するのは、事物の始原に「神」、それも荒々しい怪力乱心を置いたことであるという。

それから、私の名前は眞というのだが、白川氏によれば、この字は「匕」と「県」から構成されている。

匕は人が骨と化している形であり、県は眼が大きく開いた形で、つまり眞は、「行き倒れた死人の様子」であるという。

(うーん。このイメージは柿本人麻呂みたいでかっこいいぞ!)

そして、その死者の魂を鎮めることで死者は保護霊に転化し、永遠なるもの、真実なるもの、という今使われている「眞(真)」の意味になる、というのである。

!?

すると私は、誰かに頼むか、あるいは自分で自分の霊を鎮めないと、その名に値する人物になれないのでしょうか。 

突然、父母未生以前の巨大な謎が、深い淵からゆっくりと浮かび上がってきた。

ような、気がする秋の一日であった。

Saturday, November 04, 2006

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一話

鎌倉ちょっと不思議な物語 第一話

今日から「鎌倉ちょっと不思議な物語」を不定期で連載いたします。
どこが不思議なのかは誰にも分からない、というかなりへんてこりんな内容になるはずなので期待しないでね。

私の家の近所に「太刀洗」という井戸があり、それが鎌倉時代以来この付近の地名になっています。鎌倉には10箇所の名水が出る井戸があったと伝えられていますが、現在ではどこも飲めません。太刀洗は10名井には入っていませんが、上の岩盤を伝って2口の水が流れ、それぞれ水質を異にしているそうです。これを飲もうと思えば飲めます。しかし、その安全性は保証しかねます。

どうしてこの流水を太刀洗というのでしょう。それはこの井戸のすぐ右上の丘の上に千葉出身の大豪族平広常の屋敷があり、その屋敷内で梶原景時が広常を斬り殺し、その血刀をこの井戸水で洗ったからだ、と「吾妻鏡」には書いてあります。

2人とも源頼朝の家来だったのですが、どうも広常は頼朝に信頼されていなかったようです。広常は平家打倒に立ち上がった頼朝の助っ人のなかでは最大武装集団だったのですが、なかなか鎌倉に到着せず、景時などをやきもきさせました。そして武家政権成立後も頼朝からみれば不穏な動きもあったので、恐らくは頼朝の意を体した景時が将棋か碁をうちながら広常の油断をみすましていきなり殺してしまったらしいのです。

ちょうど去年の今頃でした。その景時がおよそ800年前に血まみれの刀を抱えて大刀洗の井戸にやってきた、であろうその場所に、大きなスズメバチの巣ができました。すでに2回こいつに刺され、もう1回刺されたらあの世行きだと医者から警告されている私は、すぐに市役所に連絡して撤去していただきました。

Friday, November 03, 2006

ある晴れた日に

ある晴れた日に

「ああ、中央線の空を飛んであの子の胸に突き刺され!」
と、いまさっき友部正人が叫んでいたね。

ちょうど20年前の昨日も東京は晴れていた。

その日、渋い2枚目俳優のケイリー・グラントが82歳で死んだ。

ちょうどその日、同じ英国生まれの女優ジェーン・バーキンが来日していて、私は帝国ホテルに滞在していた彼女からそのニュースを聞いたのだった。

ジャパンタイムズを両手で握り締めた彼女は、猛烈な勢いで、フランス語ではなく英語で彼女とグラントとの思い出について語ってくれた、ようであったが、残念なことにどういうエピソードであったのか私の貧弱な語学力ではまるで理解できなかった。

彼女の名前はBirkinなのに、私が間違えてホテルのレシートにVirkinとサインしたのを見ると、彼女は何度も「ヴウワーキン」と発音しながら、ミックジャガーそっくりの顔をして、私を横目で見て首を振った。
ことを思い出した。

Thursday, November 02, 2006

Itの降臨

今日は、まず出光美術館の国宝「伴大納言絵巻」をざっと見物してから(超満員)、文化の文化祭に行きました。

今年のファッションショーは「中心軸を広げよう」というテーマのもとで遠藤記念館にて開催されました。

この記念館はいまでは再建されてふつうのコンクリの建物になってしまいましたが、昔はけっこう開放感に満ち、音響に秀でた木造建築でした。

あるとき私の僚友がここでファッションショーをやったのですが、そのとき会場で小型飛行機を飛ばしたのがおおうけしたことをはしなくも思い出しました。

今回は今流行のかわいい系からエスニック、ジャパネスク、ゴシック、ロマネスク、ピカレスク等々、さまざまなトレンドが多彩な切り口で展開され、過去、現在、未来のモードを小さな箱庭に凝縮して手際よく見せていました。

私のクラスの学生諸君も「La Sainte Priere」というネーミングで、宗教儀式をモチーフにしたブラックゴシック調に意欲的に取り組み、見るべき成果を挙げていました。先日本物を見たばかりの「風神雷神図屏風」をあしらった和洋折衷の高雅な世界を創造した「雅」も面白かった。

 文化服装は服飾の専門学校であるとはいえ、けっしてプロフェッショナルではありません。

アマチュアの人たちがつたない技術をありあまる情熱とプロを凌ぐ鋭い感性でカバーしながら、自分たちが好きで好きでしようがないものを全身全霊をこめて作り上げ、それを私たちに見せてくれるのです。

だから既成デザイナーのショーはとは違う生まれたばかりの新鮮さと生命力にあふれているのです。

例えば東コレの超ベテランデザイナーのショーを見ても、感心こそすれ感動などはこれっぽっちもしません。何年もショーをやればやるほど作り手はアイデアが枯渇し、疲労困憊し、作品を作ることに喜びではなく苦痛を思えるようになるのです。

それはクラシックのオーケストラも同じです。

例えば日本でもっとも優秀だといわれているNHK交響楽団と私の地元の全国的にはほとんど無名の鎌倉交響楽団。どちらが良い演奏、つまり人間を感動させる演奏をしているでしょうか? 

一流の音楽大学を出た優等生プロがやっている生真面目だけがとりえで、退屈で、凡庸で無個性な前者に比べて、技術的にはへたくそかもしれないけれど、音楽が好きで好きでやっているアマチュアオケの後者のほうが10層倍も100層倍もその演奏の中身は素晴らしいのです。

音楽もモードも映画もお芝居も、その他なんでも、そのパフォーマンスに接して、私たちが面白い、すごい、素晴らしいと感じるものには、「It」があります。「それ」があるのです。

演奏やパフォーマンスの瞬間に、舞台の上から「それ」が降臨する黄金の瞬間があるのです。それこそは奇跡の訪れ、芸術の法悦、もうこれで死んでもいいとすら思えるエクスタシーの瞬間です。

しかしながら「それ」は稀にしか訪れません。私はかつて2年間毎晩2つの音楽ライブに接したことがありますが、「それ」がやってきたのはたった2回でした。それでもその「It」が楽しみで、コンサートゴアーはせっせせっせと通いつめるのです。

「それ」がやってきたときには、演者にも聴衆にもすぐにわかります。しかし「それ」の訪れは誰にも予想できません。

しかし私は「それ」はプロの手だれて集団よりも、純真無垢?なアマグループの演奏やパフォーマンスからもたらされる確率が高いと確信しているのです。

Wednesday, November 01, 2006

音楽が聴こえ、演劇が見えてくる批評

私は、あまり他人の文章を読んで感激しない非人情な人間だが、例外もある。

先日畏友、北嶋孝氏(マガジン・ワンダーランド編集長)の『千秋残日抄』“第5回 青い鳥「夏の思い出」の思い出”を読んでとても心をうたれた。

劇団「青い鳥」の歴史的公演をじんわりと回顧する、知と情意が美しく調和した、ほとんど奇跡的な達意の名文である。

自分が一度も見たことがないお芝居について書かれた文章に感動するなんてはじめての経験であった。

朝日新聞では吉田秀和氏のエッセイ「音楽展望」がついに再開された。

この人が03年に亡くなられたドイツ人の奥さんと手に手をとって鎌倉の街中をゆっくり歩いている姿を時々見かけたものだ。

愛妻を亡くしたショックから徐々に立ち直りつつある音楽批評のゾシマ長老は、すでに「レコード芸術」誌上では健筆をふるっておられたが、ついに朝日にも復帰されたわけで慶賀に耐えない。

 しかも氏は、私の好きなモーツアルトについて書いている。

フルトヴェングラーが戦後再開されたザルツブルグ音楽祭で指揮をした「ドン・ジョバンニ」について氏が述べているくだりを眼にした瞬間、私の耳に、突然その指揮者特有の重々しい序曲が鳴った。

その人のたった1行の文章から実際に聴こえてくる音楽…これこそが本物の音楽批評というものだろう。

*週刊マガジン・ワンダーランド(Weekly Magazine Wonderland)は毎週水曜日発行。申し込みは
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またここに掲載された原稿は、順次
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