照る日曇る日第345回
一羽の胡蝶によって夢見られた酔生夢死の奇譚が、耳を傾ける人とてなく、とつとつ語り継がれております。そのさま在原業平のしどけなき恋物語を、あるときは漂泊の詩人西行法師の高雅な法話を、またあるときは耳無芳一の流麗な琵琶さばきを聴くがごとし。
いかにも面妖な食わせ者のこの老人は、古今東西いかなる風体のいかなる存在・非在のものにも軽々と身をやつして、囁くがごとく、啼くがごとく、またあるときは嗤うがごとく、風のように浮かび、水のように流れる物語のやうな独吟を臆面もなくわれわれに送ってよこすのです。
この端倪すべからざる風癲老人はまだ生きておるのか、もうとっくの昔に死んでしまっているのか、生きながらに死んでいるのか、それとも死んでいながらなお生き延びておるのか、されさえも定かならず、彼岸と此岸、男と女、仙人と童子の領域を自在に往来しながら一種の悟りごとき箴言をのたまい、弱法師の能面をつけて風雅の踊りをひとさし舞ってみせるのです。
古典文学の精華と現代文学の「これまでの蓄積」がほどよく熟成された見事な作品ではあるけれど、「いったいそれがどうしたの?」と尋ねたら、どこからも誰からも返事がなさそうな、そんな虚しさも内蔵する珠玉の短編集、であります。
それにしてもこの老人が小説の登場人物に仮託して描き出す、性と生へのあくなき執着にはほとほと感嘆せざるをえません。
ああ、このやり手爺め!
♪なにゆえぞ広告を商う君(われ)の顔卑しき 茫洋
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