♪音楽千夜一夜第131回
というのが5月3日のNHKハイビジョンとFM放送局のキャッチフレーズでした。
んで映像を見たり、ラジオをつけたりしながら終日ショパン三昧を楽しませていただいたのですが、仲道郁代さんがみずから「いま三」と卑下した一気呵成殴り弾きの演奏などとても面白かったです。
しかしショパンてどうして日本で人気があるのでしょうね。もしかすると、それは彼の音楽がどこか日本人が大好きな俳句に似ているからではないでしょうか?
俳句は5・7・5で世界を描写・象徴し、諦観とリリシズムに彩られた世界認識の歌を歌います。さうしてそのようにきわめて数少ない、慎重に選びとられた文字数で世界を鋭く切り取り、短時間で性急にカタルシスをもたらそうとつとめる短詩形文学は、ショパンの短小で繊細で鋭敏な音楽にも共通する孤絶した芸術的時空ではないでしょうか。
左手で響かせる5・7・5の和音に乗せて右手が詩的に奏でる旋律は、ある時は激しく、またあるときは悲しく切ないけれど、色即是空まるで線香花火のようにあっけなく終わってしまう。俳句に翻訳すれば、例えばたとえば千代女の「朝顔に釣瓶とられてもらい水」。
故国ポーランドへの別れの曲も小犬のワルツも曲想はまったくちがうけれども、例えば漱石の「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」。おんなじ音楽語法と音楽作法で書かれてしまっているところがいかにもこの人らしい虚弱さ、痛々しくも切ない魅力的な弱さではないでしょうか。
同い年生まれのシューマンが、その矛盾に満ち満ちた内面に重々しく抱え込んだ時代精神との短歌的格闘やらライン川に飛び込まざるを得なくなった音楽技法への5・7・5・7・7的懐疑、マーラーが第九交響曲の第四楽章で延々と告げるこの世への終わりなき決別の辞など薬にしたくとも出来ない相談なのですね。
かくてわたしにとってショパンとは、五月の薫風の森で舌足らずに鳴き続ける孤独な鶯の囀りに他ならないのでした。
♪ホー、ホー、ホー、ホー ホケキョ ショパン 茫洋
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