Tuesday, March 20, 2012

県立近代美術館鎌倉で「藤牧義夫回顧展」を見る

茫洋物見遊山記第80回&鎌倉ちょっと不思議な物語第259回


1935年9月、新進芸術家として各方面からの期待を集めていた弱冠24歳の藤牧義夫が失踪してから76年が経過した今、神奈川県立近代美術館でモダン都市の光と影と題する生誕100周年の回顧展が開催されています。

 群馬県館林に生まれた藤牧は少年期から絵の才能を発揮し、16歳で上京してから主に隅田川流域周辺に住んで独学で習得した木版画の制作にいそしみました。

彼が素描や木版に刻んだビルや街路や橋や河は、他の誰にも似ない大胆なフォルムとコントラスト、そして繊細でモダンな造形感覚で震災後に復興した30年代の都市東京の光と影をあざやかに凝縮しています。

会場には彼の個性的な版画と共に最長16メートルにも及ぶ隅田川流域を短時間でスケッチした「白描絵巻」が出店されていましたが、これを歩行者の速度でゆっくりと流れる巨大スクリーンで眺めていると、その余りにも生き生きとした即興的な筆致に接して、在りし日の作家の眼差しが蘇ってくるような錯覚にとらわれました。

夭折か、はたまた永久行方不明か? 謎の芸術家の足跡は、いまなお激しく追慕されています。

*同展は来る3月25日まで寂しく開催中。


君は何故9月2日に消えたのか隅田川絵巻にその謎を探す 蝶人

Monday, March 19, 2012

鎌倉地獄谷成就院付近を歩く

茫洋物見遊山記第79回&鎌倉ちょっと不思議な物語第258回

 春は名のみ。梅はようやくにして咲いたが桜はまだ河津桜だけというこの時期、東京に出かける元気はないので、地元で長く地獄谷と呼ばれた辺をちょっと散歩しようということになりました。

早朝江の電の極楽寺駅を折りたる時ならぬ人だかり。今週の木曜日に終了するフジテレビのドラマのロケを行っていました。鎌倉の市役所に勤務する中井貴一がきょんきょんと熟年の恋をするというお話で、そのタイトルはP.K.ディックの有名なSF小説「最後から二番目の真実」からの無断のパクリです。

長男が「風のガーデン」にも出演したガブさん役の中井貴一の熱烈なファンなので、わたしが早速写真を撮ろうとしたら、無意味に肥ったプロダクション・マネージャーがすっと飛んで来て「駄目駄目」というので、諦めて極楽寺に向かいました。

極楽寺を出てもまだ本番のカメラは回らず、プロマネが声をからして車や通行人を停めたりしています。その間およそ五〇人の俳優やスタッフや警官や駅員は辛抱強く待機したまま。映画でもテレビでも九割は待機時間が続くのです。

観光客目当ての鎌倉市と視聴率目当ての民放が結託した大政翼賛番組を冷ややかな視線で突き放しながら、極楽寺の近所にある成就院に向かいました。毎年梅雨時になると商魂たくましい住職が石段のまわりに植えたアジサイを見物するために各地から観光客が押しかける成就院ですが、この時期には人影もまばらです。

この坂の上のお寺は、承久元年1219年に3代執権北条泰時が都から高僧を招いて創建されましたが、新田義貞が鎌倉に攻め込んで稲村ケ崎のアサリを踏みつぶした元弘3年の戦火で焼亡し、再建されたのは江戸時代です。境内には弘法大師像や八角堂等がありますが、そんなことより境内を過ぎて見下ろす由比ヶ浜の眺望が素晴らしい。

麓の星月井の傍には同院が管理する虚空蔵堂があり、奈良時代に行基が奉ったと称される秘佛虚空蔵菩薩が安置されているので創建はこちらの方が古いのでしょう。

    鎌倉は井あり梅あり星月夜 子規

人寄せにアジサイ植えるあさましさ 蝶人

明鏡山星井寺に詣で星月井に映る名月を愛で名物力餅を食す 蝶人

Sunday, March 18, 2012

小澤征爾指揮ウイーンの「マノン・レスコー」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第251回

まだこの指揮者が元気だった05年6月13、17日のライヴ演奏です。舞台を現在のアミアン、パリ、ルアーブル、ニューオリンズに移し、モデルやカメラマン、ウインドウディスプレーなどのファッション性を大胆に取り入れた才人ロバート・カーセンの演出はなかなか面白いのですが、最後のルイジアナの無人の荒野でヒロインが息絶える第4幕が華やかな第1幕と同じ空間構成になっているのはちと解せない。

小澤の指揮はやはりオペラの本質に無知な人らしく例に因って神経質な交響的劇伴で、原曲の叙情と浪漫をいたずらに妨げているが、かといってそのダメージは致命的なところまでには至らず、それなりにプッチーニの音楽を護持してなんとかかんとか終盤までなだれ込んでいるが、問題は表題役のバーバラ・ハーヴェマンだ。

貧乏学生デ・グリューを操る魔性の女、のはずなのに、そういう容貌には程遠い謹厳実直なキャラクターを晒し続けるものだから、せっかくニール・シコフが熱演しているのに、ラストの野垂れ死に至っても全然悲しくない。勝手に死ね、という風に思えてしまうのだ。誰が決めた配役かしらないが完全なミスキャストだった。

ちなみに終幕では後の「ラ・ボエーム」「トスカ」の愁嘆場に似たアリアが登場するのが興味深い。プッチーニの手持ちのレシピはそれほど数多いものではなかったので、色々なオペラで同じようなメロディを器用に使い回していたことが分かりますね。

プッチーニのオペラ・パレットにはあんまりたくさんの絵の具が使われていない 蝶人

Saturday, March 17, 2012

パール・バック著「つなみ」を読んで

照る日曇る日第504回


パール・バックといえば「大地」を書いたノーベル賞作家ですが、かつて本邦に滞在した折、海辺の丘の中腹の小さな家屋に滞在したんだそうです。

そしてある夏の日に津波がやって来て浜辺の漁村が流され、その貴重な体験をもとにして書いたのがこの童話である、と女史自身が前書きで述べていますから、ほんとうの話なのでしょう。

物語はちょっと海彦山彦に似ていて、切り立つ火山の斜面の農家に住むキノと浜辺の漁村に住むジヤという二人の少年が主人公です。貧しいながらも平和な暮らしを楽しんでいたその村に、ある日大惨事が起こります。山も海も数日前から異変を告げていたので村人たちは思い思いに避難していたのですが、とうとう海の向こうから大津波が押し寄せ、ジヤの家族は、村のすべての漁師の家もろとも海の藻屑になってしまったのです。

たった一人生き延びたジヤは、それからはキノの家族の一員として成長するのですが、ある日キノの両親に、キノの妹セツと共に浜に降りて二人で漁師の暮らしを始めたいと決意を語ります。

間もなく完成した新婚の二人の新居は、それまでの漁師たちの家とは違って窓が海に向かって開かれていました。恐ろしい海はまたいつの日か牙をむいて、村人たちに襲いかかることでしょう。しかし若い二人はそれを承知の上で津波の再来に備えながら、ふたたび元の暮らしを再開する決意を固めたのでした。

ここには童話の体裁を取りながらも、女史が実際に見聞し、感銘を受けた鴨長明以来変わることのない私たちの自然観、人世観、死生観が感動的に描き出されています。


    来るときは来るがよかろう死ぬときは死ぬがよかろう 蝶人

Friday, March 16, 2012

川西政明著「新・日本文壇史第七巻」を読んで

照る日曇る日第503回

「戦後文学の誕生」という副題がついた本巻では、太宰治、埴谷雄高、大岡昇平、福永武彦、金石範、金時鐘、野間宏の人生と作品を取り扱っている。

 太宰の巻では、彼の妻美知子宛ての遺書「あなたをきらいになったから死ぬのでは無いのです、小説を書くのがいやになったから死ぬのです」が引用されているが、ここには彼の山崎富栄との心中事件の本質が偽らずに記されていると思われる。

昭和5年11月28日、太宰は鎌倉の小動神社裏海岸で田部あつみと心中を図ったが、その実相とこの事件を元にして彼が創作した虚構とを子細に付き合わせ、この虚実皮膜の間に太宰文学成立の原点があると喝破する著者の眼は鋭い。

 5年間かけて埴谷雄高の生原稿を削除・訂正された箇所を含めて通読した著者に因る「死霊」の要約と解説も無類に面白いが、病で生活に窮し、執筆の存続が危ぶまれたこの記念碑的大著の完成を、本多秋五をはじめとする貧乏な戦後文学派の面々が、前後六回に亘ってカンパして救助したという美談にはいささか感動したな。

 ところで私は大岡昇平の「レイテ戦記」よりも通俗恋愛小説「花影」の大の愛読者なのであるが、著者はこの小説のヒロインの実在のモデルであり、昭和33年に服毒自殺した美貌の銀座のママ、坂本睦子の数奇な運命についても執拗に追究している。

晩年の直木三十五に凌辱され、その衝撃から自虐的になっていった睦子は、菊池寛の囲い者になる。それを小林秀雄が奪って結婚を迫るが、彼女はオリンピックの十種競技の選手に走り、次いで坂口安吾、河上徹太郎に身をゆだねる。そしてその徹太郎から睦子を奪ったのが大岡昇平だった。当時の文学者たちは一人の伝説的なミューズをめぐって奇怪な愛の争奪戦を繰り広げていたようだ。

文壇の裏面を鋭く抉る本シリーズはますます面白く、元虚人のアホ馬鹿監督以上の絶好調が続いている。

文学修業とは美女を盥回しする事と見つけたり 蝶人

Wednesday, March 14, 2012

木下恵介監督の「楢山節考」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.214

深沢七郎の原作を木下恵介が1958年に最初に映画化した作品である。

むかし極貧にあえぐ山村では、口減らしのために70歳になればいくら頑健で歯が丈夫でも村の果てにある楢山に捨てられ、哀しくも残酷な最期の時を迎えさだめにあったのだ。
落葉した楢の樹海の向こうには、白い遺骨やしゃれこうべが散在し、岩山の頂きには烏が隙をうかがっている。やがて雪が降り始めた雪が老婆の肩にうずたかく積もって行くのだが、主演の田中絹代が石臼で歯をぶち折るシーンは鬼気迫るものがある。

それを思い、これを思えば、いかに国土と精神がいかに疲弊荒廃しようとも、3度3度の食事ができ、柔らかな布団で安眠できる平成の御代の有り難さが心から身にしみる映画である。

 田中絹代という人は顔容は地味だが、声に独特の個性があった。昔陋屋を訪ねてくれたジャック・ドワイヨン&ジェーン・バーキン夫妻を、かつて彼女が住んでいた鎌倉山の山椒洞に案内し、妻と四人で懐石料理を食したことがあった。茫々三〇有余年、遠く富士山を望む風光絶佳の一大文化遺産を買い上げて跡形も無く破壊したのみならず、日仏映画人
結ぶ我が家のささやかなえにしをも踏みにじった無法者は、すでに逗子に豪邸を所有するMMという金満強欲の芸能人であった。

凍水に呑まれ息絶え流されて魚に喰われし人をし思ほゆ 蝶人

Tuesday, March 13, 2012

喜劇映画「トッツィー」と「ミセス・ダウト」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.213

前者は1982年にダスティン・ホフマン主演でシドニー・ポラックが、後者は1993年にロビン・ウイリアムズ主演でクリス・コロンバスが監督した上質のコメディ映画である。

しかしてその共通点は、いずれも主演男優が女装して中年のおばさん役を好演していることで、異性に扮した芸達者な2人のその語り口やヘアメイク、衣装取り替えのどたばた劇は見る者を抱腹絶倒させずにはおかない。とりわけ同じレストランで家族と社長にダブルブッキングしてしまったロビン・ウイリアムズの悪戦苦闘ぶりには思わず手に汗を握らされる。

2番目の共通点は、いずれも主役の男性が恋する2人の女性ジェシカ・ラングとサリー・フィールドへの思いを女性に扮することでしか伝えられないことで、この矛盾がそれぞれのドラマの牽引力になっているのである。

正体がばれた後のラストはいずれも心が晴れるハッピーエンディングとなり、さわやかな観劇感に浸ることができるでありましょう。


古を振り返ることなく歩むべし 蝶人

Monday, March 12, 2012

ベルリン・フィルのデジタルコンサートを視聴して

♪音楽千夜一夜 第250回

最近は世界中のオーケストラがインターネットを通じて彼等の演奏をライヴ中継しているが、その白眉はやはりベルリン・フィルのそれだろう。しばらく前から始まったこの放送は1年間邦貨15000円程度で過去の膨大なアルヒーフを含めて自由に視聴することができるのであるが、さきごろ48時間無料のサービスがあったので、これ幸いとあれこれ視聴してみた。

まずは現在のシェフであるサイモン・ラトルのマーラーの交響曲をほぼ全部聴いてみたが、彼が以前英国のバーミンガム市響と入れた演奏と基本的には同じ解釈で、オケの性能が格段に上がっている点を差し引けばどうということはない。中途半端、前途茫洋とはこのことだろう。

ブラームスの交響曲ではかつてのカラヤン時代を彷彿させる重厚な低音を鳴らせていたが、こういう奏法では到底ライヴァルのティーレマンに敵う訳がない。内田光子とのベートーヴェンの協奏曲でも、彼女の妙に神経過敏な音楽づくりに引っ張り回されている無惨なていたらくであり、この人はまたしても大きな低迷期に突入したのではないだろうか。

一方ベルリンを卒業してルツエルンなどで自由に音楽を楽しんでいるクラウディオ・アバドのマーラーでオケの鳴り方からしてラトルとは大人と子供ほども違うのは、いかにスコアを読みこんでいるかの差が出るのだろう。絶品はアバドの棒でポリーニが弾いたモーツアルトの17番の協奏曲。小さな3つの楽章を持つ短い曲だが、私たちが自分の人世を生きるときに感受するささやかな喜びと深い悲しみをば、これほどいきいきと晴朗に唄い尽くした演奏も稀だろう。ラトルなんて青二才は、はなから勝負にならない。

所も同じフィルハーモニーで日本時間今月11日の7時から行われた早稲田大学交響楽団の演奏会もライヴで視聴しました。曲目はリヒアルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」「ティル・オイレンシュピーゲル」がメインで、かねて私が高く評価するこのアマチュアオケは、かの腐敗堕落したN響を凌ぐ立派な技術と音楽性を示していたが、残念ながら交通整理のメトロノームの役割しか果たせない凡庸な棒のせいで、その真価を発揮できずに終わっていた。

せっかくの晴れの舞台で、どうしてこんな素人同然のファルスタッフ風の指揮者を登用するのかと不可解なり。それから昔ながらの和楽器を叩くジャパネスク風の人気取り曲や鈍感リズムの「ベルリンの風」などで観衆に媚を売るのも恥ずかしさの極み。こういう旧来の陋習は、それがいくら震災追悼記念演奏にしてもいい加減にやめてほしいものである。


外国でのアンコールといえば外山のラプソディチせめて武満にしてくれえ 蝶人

Sunday, March 11, 2012

リナルド・アレッサンドリーニ指揮スカラ座の「オルフェオ」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第249回

モンティヴェルディの「オルフェオ」は生まれたてのオペラということでアリアはただの1曲もなく、全篇にわたって詠唱が延々と続くのだが、これはまたなんと美しくも雄弁な神話語りであろうか。

リナルド・アレッサンドリーニによって率いられた古楽器オケ伴に乗って好ましい喉を響かせてくれる表題役のゲオルク・ニールも素晴らしいが、なにより見事なのは簡素にして精神的な深さを鮮やかに描出し尽くしたロバート・ウィルソンの演出。青い夜空と黒い木立を背景に繰り広げられる楽人オルフェオの地獄めぐりと妻探しの道行を、これ以上ない晴朗な美しさで表現してしまった。

これはかつて天才ポネルがチューリッヒで全盛時代のアーノンクールと達成した至高の世界に追い付き、凌駕さえするほどの出来栄えであり、近来まれな映像記録として推薦できる。2009年9月の収録で画質録音とも最高である。


お前なんかに頼まれたから黙祷しているんじゃないぞ鎌倉市役所 蝶人

Saturday, March 10, 2012

バレンボイム指揮スカラ座「ワルキューレ」を見て

♪音楽千夜一夜 第248回

東洋の一視聴者の声を聴き届けたのか、二〇一〇年一二月七日に上演されたワーグナーの「指輪」の第二作ですが、指揮者も出演者も圧倒的な名演を繰り広げています。

第一幕ではウオータンの双子の兄妹が敵役のフンディングが寝入った隙に愛し合い、サイモン・オニールにおけるジークムンデ役のサイモン・オニールとジークリンデ役のワルトラウト・マイアが熱唱しますが、ここまでは序の口。

2幕のワルキューレたちの乱舞も楽しめますが、とりわけ感動的なのは第三幕のヴオータン(ヴィタリー・コワリョフ)と愛娘ブリュンヒルデ(ニナ・シュテンメ)の最後の別れの場でありまして、ここでのギー・カシアスの歌舞伎的な演出と親娘の演技とスカラ座の嗚咽するような劇伴は、涙なしには見ることも聴くこともできません。

さすがのワルトラウト・マイアにも声の衰えが隠せず、最上の配役とはいえなかったにもかかわらず、ワーグナーの楽劇の素晴らしさをとことん賞味することができました。これこそがミラノスカラ座の真骨頂というべきでしょう。(2010年12月7日収録)


電気消え信号が消え車消え星無き空に人語絶えたり 蝶人

Friday, March 09, 2012

バレンボイム指揮スカラ座「ラインの黄金」を見て

♪音楽千夜一夜 第246回

ロンドンやパリで振っていた頃はピアニスト上がりの新進気鋭のごんたくれ指揮者だったのに、あれよあれよという間にシカゴ響、ベルリン国立響、ウエスト・イースタン・ディヴァン管を手中に収めたと思ったら最近はミラノ座で押しも押されぬシェフとなり年齢を感じさせない大車輪の活躍を続行しているバレンボイムのワーグナーである。

全曲を視聴し終えての感想は彼の緩急自在の劇伴であり特に劇的なクライマックスづくりのうまさであるが、それをブルックナーでは失敗してもワーグナーの長丁場で巧みに繰り出していくのだからやはり並の指揮者ではない。

しかしワーグナーの指輪の前夜祭にあたる本曲では、冒頭の星雲状態の暗騒音の神秘感が命なのに、この序奏はあまりにも無機的かつ音符直訳態であり、いくら後半追い上げても遅すぎる。私淑するフルトベングラーのそれをもう一度謙虚に聴き直して、一から出直してもらいたいものだ。ルネ・パーペの演奏、ギー・カシアスの演出もいまひとつ精彩を欠く。

出演 ルネ・パーペ, ヤン・ブッフヴァルト, マルコ・イェンチュ, シュテファン・リューガマー, ヨハネス・マルティン・クレンツレ等(2010年5月26日収録)

ロンドン、パリ、ベルリン、シカゴ、ミラノ世界の名門を制覇したブエノスアイレス生まれのユダヤ人マエストロ 蝶人

Thursday, March 08, 2012

森本恭正著「西洋音楽論」を読んで

照る日曇る日第502回&♪音楽千夜一夜 第247回


クラシックに狂気を聴け、という副題が付いているのだが、全体をつうじてこの人がいったい何を言いたいのかさっぱり分からなかった。

この人がライブやCDを聴くと演奏を聴くと、欧州人の音楽はアフタービートで、日本人は前拍なので邦人演奏家のものはすぐに分かると豪語するのであるが、ほんまかいな。

楽聖ベートーヴェンはほとんどの作品をアフタービートで書いたが第9交響曲の終楽章だけはオン・ザ・ビートで書いたとか、同曲の同楽章の冒頭で「おお友よ、このような音ではなく」とバスが歌い出す直前のオーケストラの強奏で不協和音が鳴り響くのは、「このような非整数の倍音によるノイズ音楽を諸君は受け入れるのか? いやそうじゃないだろ?」と語りかけているのだという著者の推論は、どちらかというと誇大妄想の類ではないだろうか。

しかし「君が代」は世界で唯一戦争を放棄している国家にふさわしく、ヨーロッパの旋律で作られていない(右翼的ではなく)右脳的な国歌であり、いくら軍隊に強いてもこの行進曲では歩けない反戦的な国歌であるという指摘はなかなか興味深いものがあった。


「君が代」は右翼的にあらず右脳的国歌とはつゆ知らざりき 蝶人

Wednesday, March 07, 2012

是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.212

何も知らずに見物し始めたのだが、中陰の状態にある死者に対して「あなたの一番大切な思い出をセレクトしてください。それを映像化してあげますから、それを見てから成仏してください」というサービスを提供する団体の映画だった。

しかし私は、一番大切な思い出なるものをあえて発掘する骨董趣味を持たないし、よしやそれがあったとしても後生大事にそれを胸中に懐いて黄泉の国に赴こうとする気持ちもない。

まして他人のその思い出をのぞき込んだり、ああだこうだと比較対象する興味も持ち合わせていないので、終始冷たい視線でこの才走った監督の映像をつらつら眺めていたのだが、最後まで見終わってもついにどうということはなかったな。

されど世の中には、じつにけったいなことを考え、それをわざわざ映画などにする変態的な暇人がいるものであることよ。と言っては身も蓋もないので、せめて本作には谷啓や由利徹の死の直前の演技が瞥見できるのが望外の奇貨である、と言い添えておこうか。


一寸来いと呼ばれて行けばコジュケイの家族哉 蝶人

Tuesday, March 06, 2012

円城 塔著「道化師の蝶」を読んで

照る日曇る日第501回

 飛行機の中で昆虫網を振り回したら、架空の新種の蝶アルレキヌス・アルレキヌスなる「道化師のような蝶」が採れました。

これは本書の引用ではありませんが、例えばこーゆーよーな内容のフレーズがビシバシ登場して参ります。

普通なら我が家のムクも歯牙にもかけない変態的作品が何故か芥川賞を受賞したために、やれ安部公房の真似だとかSFの下手くそな習作、超難解理系純文学とかアホ馬鹿駄文の見本などといろんな評価が乱れ飛んで、それがかえって洛陽の紙価を高騰させているようです。

がしかし、この小説のほんとうの値打ちは、やたら肩入れして「死んでいながら生きている猫を描こうとしている画期的小説!?」などと無闇に意気込んでいる川上弘美選手よりも、著者本人がいちばんよく分かっているのではないでしょうか。まあ世間がらあらあと騒ぎたてるような代物でないことは間違いありません。

私はともかく途中で居眠りはせずに最後まで紙上に乾いた視線を晒すだけの義理は果たしましたが、これは新しい文学的感興がむくむくと湧き起こるような瞬間は、ただの一度もありませんでした。

小説に因る人世の方法的制覇を目指して夢中で書いている本ご人はきっと楽しいのでしょうが、その醍醐味は架空の新種アルレキヌス・アルレキヌスよりも、春になれば郷里の里山に優雅に舞い飛ぶ超現実種のルエホドルフィア・ジャポニカを偏愛する私のような蝶保守的古典文学マニアをてんで満足させてくれはしませんでしたね。

文体やあらすじがどうのこうのと評しても意味がないので書きませんが、この醒めた唐人の寝言のような奇妙な日本語列を反芻していると、なぜか最近は誰も聴かなくなってしまったいにしえの現代音楽のことが思い出されてきました。

実際本作品には初めて12音音楽に挑んだかのシェーンベルクの懐かしい響きが聴こえてきますし、同時に芥川賞を受賞した田中選手の作品では新ウイーン学派の無調やノイズミュージックの乱入も散見されます。先駆する中原昌也の革命的な実験作も含めて、鴎外、漱石、芥川、荷風、谷崎、太宰、三島、大江、村上の正統派に反旗を翻そうとする「平成現代文学」がおそまきながら産声を上げようとしているのでしょうか。


腐敗堕落した文藝春秋社賞なぞによりかかることなく、犀のやうに文学路地を歩め 蝶人

Monday, March 05, 2012

北杜夫著「巴里茫々」を読んで

照る日曇る日第500回


どくとるマンボウ氏の落ち穂拾い2作です。

「巴里茫々」では著者が夢の中で仏蘭西語など全然知らないのに、仏蘭西の国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌ったというくだりが出てきます。それはそれで面白いのだが、改めてこの歌詞を読んでみると物凄い内容であります。

♪圧政者どもよ、身震いするがいい! お前ら裏切り者共もだ。
あらゆる陣営の恥さらし! 恐れるがいい! お前らの反逆計画は最後には報いを受けるのだ!

そして、
♪この残虐な奴らは皆、情け容赦なく、自分の母親の胸を引き裂くのだ!

と来るのですからね。

著者はそのあまりにも軍国主義的で勇壮という野蛮な内容に辟易してとうとう歌うのをやめてしまうと、隣にいた仏蘭西人から「このジャップの小鼠め!」と罵られます。

されど本邦でもそのうち「君が代」を歌わないでいると、同じように泣く子も黙る大阪の禿童市長から「この非国民め!」と罵られたうえに、全員牢屋に入れられるようになるでしょう。桑原桑原。

もうひとつの「カラコルムふたたび」は名作「白きたおやかな峰」に出てきたヒマラヤの村を再訪し、懐かしい案内人と再会するほろ苦い話です。


ギョエテは詩は機会詩だというが機会がないので詩が生まれないよ 蝶人

Sunday, March 04, 2012

田中慎弥著「共喰い」を読んで

照る日曇る日第499回

この人の作品を初めて読んだが、褒めるとすれば、なんといっても語り口に強烈な陰影があるのがよい、ということになるんだろう。何を書いても奇妙なエグさと野蛮さがそこはかとなくどぶの臭いのように立ち上っているぜ。

次に題名の「共喰い」だが、これはヤクザな父親と17歳のヤクザな主人公が同じ女と「共喰い」するとも、汚染された河口の淡水と海の水とが混淆して共喰いするとも、その濁水を川底に棲息する巨大ウナギとそれを釣る父親が「共喰い」ならぬ共呑みしている状況を指すのであろうよ。

17歳といえば女を見なくとも、花を見ても蝶を見てもペニスがおったつ季節であり、そこから派生する欲情や焦燥や攪乱を、作者はおのが自家生理中のものとして巧みに描き出しているな。

んでもって、その文章はかなり日本語の文法を無視した強引な省略と接合の離れ業で成り立っており、この作家は平成の井原西鶴を思わせる独特の文体で、このたびの芥川賞をかっさらったのである。パチパチ。

あと、セックス中の殴る蹴るとか締めるとか、義手の女が突然何の必然性もないのに、出刃包丁を持っていけない男を追っかける等のあざといプロットは、全部これ江崎グリコの取って付けたるおまけ也。この作者、小沢以上の剛腕の持ち主ではあるが、「共には喰えない」ごんたくれである。


性懲りもなくこいつの禍々しい三白眼を叩き売る本屋のどえらい商魂 蝶人

Saturday, March 03, 2012

マイク・ニコルズ監督の「ワーキング・ガール」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.211&勝手に建築観光第48回&ふぁっちょん幻論第68回


1988年公開のアメリカ・キャリアウーマン格闘物語であります。

メラニー・グリフィス扮する低学歴のウオール街のオフィスガールが、上司のシガニー・ウイーバーの陰謀をハリソン・フォードと結託して打ち破り鼻をあかすという他愛もないサクセウスストーリーだが、この頃はまだ国や個人の未来の成長への夢があったことに驚かされる。

ドラマの内容はともかく、今は亡き世界貿易センタービルの威容や、バブルが沸騰するアメリカの女性のビジネス環境とファッション&ライフスタイルを懐かしく回顧することができる。

メラニー・グリフィスなどの一般職は、ど派手なメイク、クジャクが羽をおっぴろげたようなカーリーヘア、肩パッドの入ったビッグシルエットのジャケットという出で立ちだが、一流大学出役のシガニー・ウイーバーはショートヘア、シンプルなアルマーニ風スーツでびっしっと決めているのが興味深い。

 また世界貿易センタービルは、インド・イスラム建築を代表するタージ・マハール寺院の立柱にインスパイアーされた日系アメリカ人ミノル・ヤマサキによって設計されたが、その名建築が、この映画が撮影された5年後に狂信的なイスラム教徒のよって爆破された。アジアの知性がアングロサクソンに注ぎ込んだイスラムの叡智が、同じイスラムの憎悪に燃える血に因って解体されたことは、もっと興味深い歴史の皮肉である。


イスラムの文化遺産の末裔をイスラムびとが自爆させたり 蝶人

Friday, March 02, 2012

ジェームズ・ブルックス監督の「恋愛小説家」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.210


流行作家のジャック・ニコルソンが行きつけのレストランのウエイトレス、ヘレン・ハントと『As Good as It Gets』になるという典型的なハリウッドのファッキンアホ馬鹿映画だ。

ハントは確かにちょっと可愛い女優だがこんな演技でアカデミー賞とはちゃんちゃらおかしい。ジェームズ・ブルックスなどという3流の監督の手にかかるとジャック・ニコルソンのような名優ですら気持ちの悪いただのオッサンに変身してしまうのである。ブリュッセウ・グリフォンとかいうちんけなあほ犬もただただウザッタイだけ。

だいたい恋愛小説を書く作家はいても、恋愛小説家など世の中に1人もいないし、こんな奇妙な日本語もまた存在しない。

それなのに、私はこの下らない映画を、それと知らずに2回も見てしまった。おお、なんという人世の無駄だったことか!


恋愛小説家がいるから知事小説家強欲小説家失楽園小説家もいるのだらう 蝶人

Thursday, March 01, 2012

マルセル・カミュ監督の「黒いオルフェ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.209


1959年にギリシャ神話の「オルフェオとエウリディーチエ」にヒントを得て製作されたブラジル版の愛の物語である。

ギリシャ神話でエウリディーチエが毒蛇に咬まれて落命したように、この映画でも薄命の美女が謎の死を遂げ、オルフェオが黄泉の国に行ってしまった愛妻を探してその名を虚しく呼ばわる挿話も引用されている。
しかしこの映画の最大の魅力は、リオのカーニバルの真っただ中に舞台を設定したことで、それによって遠い遥かな神話のなかのロマンが、第3世界の現実のなかで生々しく蘇り見事に血肉化されることになった。はかなくみまかった恋人たちの後を継ごうとする少年少女の朝のサンバで全篇の幕が閉じるのも粋なはからいである。

ただひとつ私の苦手なカルロス・ジョビンのボサノヴァが、終始ギターの弦で掻き鳴らされるのには閉口しました。


降る雪やそぞろ平成も遠き朝 蝶人

Wednesday, February 29, 2012

現代語訳「吾妻鏡11巻」を読んで

照る日曇る日第498回&鎌倉ちょっと不思議な物語第257回

暦仁元年1238年から寛元元年1244年までの鎌倉幕府の動向が、例に因って編年日記体で綴られています。

私の大好きな三大将軍実朝が暗殺され、京から藤原氏の4代将軍頼経を迎え、私が大嫌いな北条氏は着々と政権基盤を固めていきます。しかし大嫌いではあるけれど、北条義時の後を継いだ泰時という人はなかなかの人物で、家の近所の朝比奈峠に切り通しを造った張本人でもあります。

これによって鎌倉は滑川~相模湾コースとは別に、十二所から六浦の港を経て関東一円、房総半島、伊豆、東海地方、遠く宋に通じる海上交通路が切り拓かれ、各地からの物資が大量に流通するようになったのです。

この頃、天変地異は相変わらず頻発していますが、その都度京からやって来た安倍一族の陰陽師たちが御所に召集され、日食や月食などの真意の解釈をめぐってああだこうだと真面目に意見を戦わせているのが面白い。物忌みや方違えなど平安時代からの迷信や陋習が依然として必要以上に尊重され、人智を超えた大いなるものへの畏怖と信仰が、中世の闇の奥に怪しく蠢いているようです。

仁治2年1241年11月29日には若宮大路の下馬四つ角あたりで三浦一族と小山一族が大通りをはさんで呑めや歌えの大騒ぎをしていて、放たれた弓矢が原因で大喧嘩になったという妙にリアルな挿話も記録されていますが、その翌日、両家の棟梁を呼び出した北条時頼が偉そうに説教する後日談を載せて御家人の総元締めとしての権威を誇示するところが、官許「吾妻鏡」の厭らしいところです。


小川吉川岸川佐川宮川富川日本人は川の畔で生まれました 蝶人

Tuesday, February 28, 2012

西暦2012年如月 蝶人狂歌三昧

ある晴れた日に 第104回


鬼は外福は内!無限の闇に投げました

マレーシアと中国の女子学生に「日本人なんかに負けるな」と就活アドバイスしているビミョウなわたし

耕君と雪の下の小林理髪店に行き同級生の小林君に散髪してもらいました。

ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり

一匹の山猫となりて巣に潜む

どうしようもなく雄どうしようもなく雌

一握りの名作あまたの凡作込みにして名人はつねに名人

凡歌あり駄作の山ありて秀歌あり

太刀洗泉に二個のおたまが浮かんでる如月十日は春の訪れ

遺産処分のため3333万円差し上げますてふメール連日来る三井香奈子そも何者

奇声上げらあらあ泣きながら走る人憎んでいるのはこの私とは

雲見れば心哀しむまして愛犬ムクの形なればなおさら

小泉岡松伊藤大木年明けてどんどん死ぬなり鎌倉十二所村住人

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット! さあ生き抜くんだ俺たち!!

市民より情け無用にむしり取る鎌倉税務署に災いあれ

青空に孤蝶消えゆく寒さかな

要は国や世間や他人をあてにしないで歩き続けること

造花でも真花を超える花にせよ芸術は俗世を超えた仇花なれば

おお、今も昔も他人の花はなんと美しく見えることか! 

からくも冥界から蘇り宝石耀く朝を迎えし哉

カラヤンの濡れ手に粟のレガートの濡れ羽の色の気色悪さよ

国家など即「YMCA」に変えるべし全国民が立って踊って歌うだろ

横須賀のリンガハットでモザールのBGM聞きながら長崎チャンポン

横須賀の歯医者へ行けば何か出来ると思いきや一句も詠めずただ痛いだけ

われ俄かに和製サンテックスとなりてマライ半島を下りぬ

温かき布団に包まれ寝た夜に南太平洋複葉郵便機のパイロットになりし夢見る

神様の涙のようなペイズリー滅びゆく我らを優しく包まむ

コメントの無き日々に耐え日記書く

宙天に孤鳥嘯く冬の朝


吉田山田西田東田日本人は田圃の傍で生まれました 蝶人

Monday, February 27, 2012

今村昌平監督の「にあんちゃん」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.208

この作品は、佐賀県唐津の杵島炭鉱のある海辺の寒村で貧困にあえぐ在日コリアンの一家の物語を、猛将今村昌平が1959年に映画化したもの。原作は一家の次女である安本末子で題名の「にあんちゃん」とは次兄の愛称である。

両親に死なれたこの4人きょうだいを次々に襲う離散と差別、極貧の危機と苦難を、映画はこれでもか、これでもかとリアルに描くのだが、不思議なことに暗欝さはなく、どこにも希望の無さそうなこの現実と現在を達観し、目には見えないエーテルで昇華したような透明さが吹きわたっているのが不思議である。

眼前の海や池と見れば躊躇せずに真っ裸になって飛び込む幼い兄弟姉妹たち。
彼等には彼等のハンデイキャップを、社会や他人のせいにしない健康さと潔さがある。無一物の者だけに許された自由と果てしない未来への飛翔と投企がある。

被差別の最下層から上空を見上げれば、エネルギー政策の破綻に因る労働争議も、不当解雇も、恐るべき求職難も、いわば非現実界の仮相事象として無化され、原始的、動物的な人世根性論による限りない上昇志向だけがフォーカスされてくるのである。

どのような困難にもめげずボタ山の頂上めがけて登り続けるにあんちゃんの後ろ姿には、当時の貧しい日本国が盲目的に懐いていた漠然とした希望と無限のエネルギーが象徴され、そして例えばソフトバンク現社長の華々しい登場が予告されている。
役者は、長門裕之、松尾嘉代、吉行和子、殿山泰司などが出演しているが、北林谷栄の怪演が印象に残る。
要は国や世間や他人をあてにしないで歩き続けること 蝶人

Sunday, February 26, 2012

豊田四郎監督の「恍惚の人」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.207


1972年の段階で老人性痴呆という医学を超えた社会問題に着目した原作者有吉佐和子の慧眼には驚嘆敬服のほかはない。

恐らくはそれ以前にも随所で発症していた障碍がこれで一挙に市民権を得た功績は大であるが、かといってその治療が大きく前進したり、家族などの介護者が楽になったという話はてんで聞かない。むしろますますその被害波及の度は増大しているように実感される。

さてこの映画では、認知症の老人が激しく物忘れをしたり、脱走・徘徊したり、入浴中に溺死しそうになったり、糞便を塗りたくったり、かなりショッキングな光景が繰り広げられるが、最終的には嫁の超人的な奮闘努力のお陰で、症者がなんとかかんとかそれなりに仕合わせな生涯を全うするという結末は、しかしいま今振り返ると、現実の酷薄さと悲惨さを直視しない曖昧模糊とした不透明さがあり、原作者の余りにも文学的&情緒的な視点が物足らない。

全ての症者が次第に理性と悟性を喪失して無垢の幼時へと退行したり、甲斐甲斐しく介護してくれる嫁を恋人や母親のように疑似童話風に思いなしたりすることはない。またあれほど迷惑を蒙った嫁が、死んだ老人を懐かしく回顧して落涙するラストも、かくあれかしと誰もが望むのは勝手だが、余りにもご都合主義だし浪漫的であり過ぎる。現実はあんな甘いものではないのである。

しかし小説や映画はあくまで現実とは異なる異次元の世界なので、本作が時代的な制約もある中で、ある種の予定調和的なエンディングに着地したのはやむを得ない仕儀とは言え、それなら、雨の降りしきる中で老人が見惚れる垣根の白い花が見え透いた造花であるのは少なからず観客の感興を殺いでいる。森繁久弥と高峰秀子の熱演は賞賛に値するが、豊田監督のぬるい演出には疑問符が付くのである。


造花でも真花を超える花にせよ芸術は俗世を超えた仇花なれば 蝶人

Saturday, February 25, 2012

フランクリン・シャフナー監督の「パットン大戦車軍団」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.206

ジョージ・スコットが獅子奮迅の大活躍見せる第2次大戦のアメリカ陸軍大将軍物語です。

主人公の名前であり、この映画の原題でもあるパットンという将軍は典型的な体育会系の軍人で、戦争が大好き、戦史が大好きという風変わりな人物である。叩き上げの苛烈な軍人であるのみならず、カエサルやナポレオン、ライバルのロンメルの戦術論や戦闘記録も研究している立派な武人なのだが、惜しむらくは大局観と心身の冷静なバランスに欠け、一時の激情に駆られて取り返しのつかない軽挙妄動を引き起こすドンキホーテのような人物であったそうです。

彼はせっかくロンメル軍団をやっつけてイタリア戦線で赫赫たる成果を収めたというのに、野戦病院に収容されていた神経衰弱の兵士を腰ぬけ仮病人と罵って殴打したために左遷されるが、アイゼンハウアーの推盤でまた前線に再登場し、かつての部下であったブラッドレーの指揮下に入って欧州戦線でまたもや奇跡の大作戦を敢行します。

ともかくやたら好戦的で弱者への配慮どころか虐待を躊躇しない最低の人間ですが、東洋的な輪廻転生を信じ、おのれカルタゴのハンニバルの生まれ変わりと信じていたのは面白い。この映画では主演のスコットがまるでパットンの生まれ変わりのような名演技を披露しています。


カラヤンの濡れ手に粟のレガートの濡れ羽の色の気色わるさよ 蝶人

Friday, February 24, 2012

花村萬月著「信長私記」を読んで

照る日曇る日第497回

太田牛一の「信長広記」の向こうを張って、やさぐれのごんたくれ作家がいっちょでっち上げたる「信長私記」である。どうせ編集者の推挽で無理矢理書かされた連載小説なのだろうが、彼の血湧き肉踊る京都を舞台にした肉弾自叙伝と違っていまいち、いま二、いま三乗りが悪く愉しめなかった。

ごんたくれが尾張織田家のごんたくれになり代わって一族のみそっかすを打倒したり、斎藤道三の娘濃姫と濡れ場を演じたり、後年の前田利家の尻の穴を破ったり、後年の秀吉や家康の人となりを見抜いたりする戦国青春ヤッホーホイサッサのアホ馬鹿噺であるが、例に因ってくだんのごとし。面白くもおかしゅうもない。

 竹千代、すなわち当時織田家の人質になっていた家康が、「永久に戦のない世界を作ることが自分の願いである」、と語って、そんなことは阿呆鱈経の絵空事と考えている信長親子を驚かせるところが出てくるが、この家康流の信条って昔からNHKの大河ドラマの女流脚本家の決まり文句であるなあ、と思って軽くのけぞってしまいましたよ。まる。


青空に孤蝶消えゆく寒さかな 蝶人

Thursday, February 23, 2012

鎌倉国宝館で「氏家浮世絵コレクション肉筆浮世絵の美」展を見て

茫洋物見遊山記第78回&鎌倉ちょっと不思議な物語第256回


残念ながら既に終了してしまったが、今月の12日まで開催されていた恒例の「氏家コレクション」について走り書きしておこう。

「氏家浮世絵コレクション」というのは、浮世絵の海外流出を憂えた有徳のコレクター、氏家武雄氏が昭和四九年に鎌倉市と協力してここ国宝館に収蔵された世界的な浮世絵、なかんずく肉筆浮世絵の名品の数々で、今年も北斎、豊広、広重、雪鼎、長春、栄之の優品がおよそ五〇点展示されていた。

さすがに肉筆だけあって大量にプリントアウトされた通常の浮世絵とはその清新さにおいて断然優位に立ち、江戸期アーティストのカラフルで華麗な筆跡が生々しく目を射る。

どんな人物像を描いても生真面目で正攻法の硬さが抜けきらない大家葛飾北斎の「酔余美人図」や「桜に鷹図」、反対にどんな風物を描いても優雅なリリシズムを失わない広重の「御殿山の花図」、加えて西川裕信の「美人観菊図」や懐月堂安度の「美人愛猫図」など春近い古都で鑑賞するにふさわしい「無人の」展覧会であった。

それにしても、と私は思う。最近猫も杓子も大騒ぎのフェメールの良さなど私には皆目理解できず、タダで上げると言われても別に欲しくはないが、これらの肉筆画なら千万両を積んでも手元に置きたいと願うのだ。

こういう我々の先祖先輩が生みだした古拙な真の名人芸には目もくれず、舶来上等限定少数のフェルメール!?なぞにいともかんたんにうつつを抜かす軽佻浮薄な日本人のお芸術趣味が、明治以降の国産優品海外流出の惨を生んだのではないだろうか。 

おお、今も昔も他人の花はなんと美しく見えることか! 蝶人

Wednesday, February 22, 2012

増村保造監督の「暖流」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.205


原作は岸田國士だが、これは2回映画化されていまして、私が見たのは監督が増村保造、脚本は白坂依志夫、野添ひとみ、根上淳、船越英二、左幸子、山茶花究などが出演した2度目の1957年版です。

岸田は鎌倉の素敵な別荘に住んでいたので、当時の人跡稀な鎌倉や荒涼とした海岸が登場する。最後から2番目のヒロイン&ヒーローの印象的なロングショットもこのロケーションが見事に生かされておる。

お話としてはその鎌倉の名家が経営する古い病院の没落と内紛を主題としたもので、死病で余命いくばくもない病院長から経営の立て直しと一族の面倒を見ることを命じられた根上淳が獅子奮迅の大ナタ振るいをやってのけるのですが、結局やりての浪速商人の山茶花究によって追放されてしまうことになる。

 驚くべきは根上淳を異常なまでに熱愛して終始徹底的につきまとい、最後には男を根負けさせてしまう看護婦役の左幸子で、身体を張ったその猛烈な捨て身の演技は、彼女の代表作である今村昌平監督の「にっぽん昆虫記」のそれにおさおさ劣るものではない。

増村のポップな演出も次第に盛り上がりをみせ、ナカンズク病院長のアホ馬鹿長男船越英二と継母がデユエットで歌うアホ馬鹿音頭のくだりは最高にシュールである。1939年に吉村公三郎監督、高峰三枝子主演で製作された第1回目の作品も、生きている間にこの眼で見たいものだ。


横須賀のリンガハットでモザールのBGM聞きながら長崎チャンポン 蝶人

Monday, February 20, 2012

ジョージ・スティーブンス監督の「ジャイアンツ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.203

1956年に製作されたハリウッド映画の大作で、麗しのリズ・テーラーと岩のように頑丈なロック・ハドソン、そして本作を一期に泉下の人となったジェームズ・ディーンが競演しています。

人種差別を時代に先駆けて鋭く摘発したこの映画最大の見どころは、牧場王ハドソンに仕えるしがない農奴から一躍アメリカ西部を代表する石油王に躍り出たジェームズ・ディーンの嵐の中の大パーティ。ではなくて、小さなエピソードのように描かれているハドソン対バーガーインの頑固親父の人種偏見をめぐる乱闘で、溺愛する息子デニス・ホッパー。ではなくて、その妻のメキシコ人のために老体に鞭打って徹底的に殴り合うロック・ハドソンの姿と、そんな彼を熱愛するリズの夫婦愛は感動的なものがあります。

改めて鑑賞していて気がついたのは「陽のあたる場所」や「シエーン」の監督であるジョージ・スティーブンスの巧みな演出で、これによって2人の凡優の存在が見事に造形されたのでしょう。ちなみに原題は時代に抗して力強く生き抜く巨大な男ロック・ハドソンを意味する「GIANT」で邦題の「ジャイアンツ」は間違い。これでは日本プロ野球最大ののアホ馬鹿巨悪球団名になってしまう。

なおこの作品の撮影直後に急死してしまうジェームズ・ディーンは、直前の2作品に比べると背伸びした空回りの演技が目につきますが、長生きすればきっと米国を代表する名優になったことでしょう。


からくも冥界から蘇り宝石耀く朝を迎えし哉 蝶人

Sunday, February 19, 2012

文化学園服飾博物館で「ペイズリー文様 発生と展開」展を見て

ふぁっちょん幻論第67回&茫洋物見遊山記第77回

ペイズリー文様といえばただちに思い浮かべるのが1947年に製作された吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」。その前半部で原節子が着こなしていた大胆なペイズリー柄のワンピースであります。その大柄な装飾柄が、没落する桜の園でけなげに生きようとする彼女の役柄にふさわしい雰囲気を醸し出していました。

本展の資料によれば、ペイズリー文様の起源は、インド北部カシミール地方の可憐な花模様だそうですが、これがインドの染織品と共に18世紀に入った欧州で大流行を遂げ、それが更にアジア、アフリカ諸国の文様と複雑多岐に融合し、その混合物がまた全世界に波及するという一大トレンドを醸成したようです。

18世紀の末から19世紀はじめの欧州は、例のアールヌーボーの隆盛期だから、有機的なものと無機的なもの、植物と鉱物の融合を目指したこの歴史的な文化工芸運動とペイズリー文様はピッタシカンカンのコラボレーションを繰り広げたに違いありません。
当時英国で産声を上げたリバティプリント社や、のちのイタリア・エトロ社の装飾的なファブリックの源流も、すべてここから発しているのでしょう。

大きな涙を垂らしたようなペイズリー柄を見ると、生物のもっとも基本的な単位である細胞の顕微鏡写真によく似ています。ペイズリー柄は、生きとし生けるものの生命の原核を象徴するデザインであるだけでなく、それを身にまとう者に不滅の生命を賦活する呪術的な文様でもあるのでしょう。

人々と時代の生命力が限りなく沈滞し続けている現在、ペイズリー文様復興のビッグ・トレンドが深く静かに待機しているのかもしれません。なおこの展覧会は来る3月14日まで東京新宿の同博物館で開催されています。


神様の涙のようなペイズリー滅びゆく我らを優しく包まむ 蝶人

Saturday, February 18, 2012

ジョン・アーヴィング著「あの川のほとりで下」を読んで

照る日曇る日第497回

76歳になる主人公の父親を執拗につけ狙ってきた87歳の元保安官代理は、コルト45の凶弾を胸にぶちこんでついにその黒い宿願を果たすが、58歳の息子であり作家でもある主人公の20口径のウインチエスター銃の3発の散弾を浴びて息の根をとめられ、親の因果が子に報いる因縁の復讐劇はとうとう幕を下ろした。

しかしいかに元警官が冷血漢で、己の愛人を寝取られ、その殺人の濡れ衣を着せられたとはいえ、およそ半世紀に亘ってその憎悪と殺意を持続し、あらゆる困難にもめげずにその復讐を貫徹できるものだろうか? 恐らくその凶悪な暗殺者の悪への暗い情熱は、同伴し続けた作者の内奥にも不気味に蠢めいているのであろう。良きものを大切に育もうとする作者の善き情熱と同じ重さで……。

哀れ我らが主人公は、父親ばかりか最愛の息子も事故で失う。そして父親の親友で主人公の親代わりだった偉大な樵ケッチャムの悲愴な最期、9.11後の母国アメリカを覆い尽くす亡国現象……相次いで襲いかかる死と人世の虚無と無常を、著者はこれでもかこれでもかと描きだす。そう。作者に指摘されるまでもなく、世界は確実に死と滅亡に向かっているのだ。

しかしながら極寒の吹雪の大空から天使が降臨し、絶望の淵に沈む主人公に愛の光を注ぎ入れるささやかな奇跡は、私たちがかつて映画「ガープの世界」の冒頭で見たみどり児のほほえみをただちに連想させ、まるでダンテの「神曲」のように地獄と煉獄をさすらうこの神話的な長編小説が、天国への見果てぬ夢を紡ぐひとの巨人的な幻想の産物であることを思い知るのである。

冬空の下、もういちど物語の素晴らしさを信じ、もういちどそれぞれの「人生の大冒険」を始めよう、と説く作者の孤独なアジテーションが、ボブ・ディランの嗄れ声のように寥々と鳴り響いている。


宙天に孤鳥嘯く冬の朝 蝶人

Friday, February 17, 2012

岡井隆著「わが告白」を読んで

照る日曇る日第496回


歌壇の孤峰にして泰斗である当年とって84歳の著者が、かのアウグスティヌス、スタンダール、森鴎外の顰に倣い、アナトール・フランスの「エピクロスの園」に霊感を受けてものした「コンフェシオン」こそが本書である。

なにせこれまで3人の女性と離別し、32歳年下の4人目の女性と共棲している平成の大歌人が、過ぎ越し方をばゆくりなく振り返って、常の人なら墳墓の奥底にまで引き摺りこんでゆこうとする忌まわしき己の所業その罪咎を、あますところなく暴露するぞお、なーんて、宣言するのだから穏やかでない。と同時に、ますます下賤の身ゆえの好奇心がくみ取り便所の蛆虫のように湧きだしたのだが、なまなかの私小説作家の赤恥物よりスキャンダラスで面白いことは請け合いである。

 しかし著者もみずから語っているように、2009年11月に日本芸術院会員に推されてからはメスの切っ先が鈍り、秘めたる暗所への自己切開に緩みが生じたのか、私がいちばん知りたかった彼の2度に亘る突然の出奔について全く触れていないのは、羊頭狗肉とは難じられないまでも、甚だ遺憾のコンコンチキである。

 それにしても、かつてのマルキストがあろうことか天皇皇后両陛下に親しく作歌を指導する宮廷第一等の桂冠歌人となりおおせた姿は、いかに思想の上下左右転回転倒は許されているとはいうものの、アホ馬鹿単細胞のわたくしには到底理解を絶したコンコンチキであった。

末尾の挑発的な「原発擁護論」も首をかしげてしまうような奇怪な論旨であるが、ゲーテが主唱した機会詩の今日的実践として自在に引用されている自作短歌の素晴らしさは、それらの瑕瑾を補って余りあるものだ。

国家など即「YMCA」に変えるべし全国民が立って踊って歌うだろ 蝶人

Thursday, February 16, 2012

ヴィンセント・ミネリ監督の「花嫁の父」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.202

私の大好きなスペンサー・トレーシーが主演する1950年ハリウッド製作のどたばたコメディです。

長年にわたって私財を蓄えてきた弁護士が、目に入れても痛くない愛娘エリザベス・テーラーが突然結婚すると言いだして連れてきた青年にパニックとなり、はじめは反対したり、次には簡素な式を、などと注文をつけていますが、娘と妻の連合軍のペースにはまってどんどん大規模かつ物入りの挙式となり、挙句に来場者で溢れかえったホームパーティの会場で娘と別れの挨拶も出来ないままに新婚旅行に旅立ってしまいます。

映画はそのランチキパーテーが終わってへたりこむ回想シーンから始まるのですが、「男は出て行って戻らないが女の子はいつまでも家にいる」と言って、初老なれどまだそれなりに若く、美しい細君とダンスを踊るラストが心に沁みます。

それにしても当時のアメリカでは、挙式費用は全部新郎側が負担したのでしょうか? わたしんときは確か折半でしたけど。

横須賀の歯医者へ行けば何か出来ると思いきや一句も詠めずただ痛いだけ 蝶人

Wednesday, February 15, 2012

ジョン・アーヴィング著「あの川のほとりで上」を読んで

照る日曇る日第495回



現代アメリカを代表する偉大な作家の最新作の上巻を読んだところです。

この長大な(私が思うに)ビルドゥングスロマンは、1954年4月、泥の季節のニューハンプシャー州の小さな町を流れる「曲がり河」の丸太の下に沈んだ一人の少年の挿話から始まります。

そして1967年のボストン、1983年のヴァーモント州のイタリアンレストランへと舞台を移しながら、その間、氷結した川の上で2人の男のまわりで典雅なスクエアダンス踊っていた主人公の美しい母親の突然の溺死、叔母とのめくるめく性愛、主人公の父と冷酷な治安管の共通の情婦!をクマの襲撃と勘違いして!フライパンの一撃で!死に追いやった主人公!の悲嘆と一家の逃亡などの悲話を、「これが小説だあ!」とばかり銀ぎら銀にさりげなくさりげなく織り込みながら、ゆらゆる不気味に昇りつめる後楽園のジェットコースターのように次第に加速し、薔薇色の生と性の喜びと黒い死のコントラストを、父母未生以前の本源的なものにしていくのです。

作家は自らの分身である主人公とその一族の途方もない来歴を、始めは処女の泉のごとく、次には次第に激しく流れる川のごとく、佳境に達すれば悠揚迫らぬ海の満ち引きのように自由自在に語るのですが、その語りの低音部でじわじわと高まって来るこの未聞の法螺話とホラーがアマルガムに合体した恐ろしさの正体はいったい何なのでしょうか? 

それは少年時代の漱石が我知らず釣り上げてしまった巨大な怪魚の恐ろしさに少し似ていて、かつてこの作家の先達であるポーやクーパー、ホーソーンやメルヴィル、フォークナーがそれぞれの流儀で描いた世界でもあります。

果たして主人公の父ドミニクは、冷血カウボーイの魔手から逃げおおせることができるのか? そして父親と共にあっちこっちを逃亡しながらいつしか著者を思わせる有名作家になりあがった我らが主人公の運命は、これからどのように変転するのか? 

本書の翻訳を担当されたわが敬愛するミク友「上野 空」さんの、セミコロン連発の複雑怪奇な原文をあざやかに紐解く達意の翻訳と相俟って、途方もない傑作への予感が胸を限りなくときめかせます。

われ俄かに和製サンテックスとなりてマライ半島を下りぬ 蝶人

Tuesday, February 14, 2012

スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.201

1989年製作のシリーズ第3作では、お馴染みハリソンフォードのジュニア時代役に急死したリバー・フェニックス、父親役にショーンコネリーが出演して一層のお楽しみ度を加えた。

ジェフリー・ボームによる脚本は、私にはなんの興味もないキリスト教の聖杯伝説にのっかった安直なナチス対決冒険譚であるが、冒頭ベネチアの図書館の地下に美女とスーツ姿で潜入して早速鼠や蛇や蠍に遭遇したり騎士の墓を見つけたり、ナチに追われて石油が燃える水面を潜ったり危機一髪一気呵成のローラーゲームに引きずりこむスピルバーグ一流のストーリー展開はめざましいものがある。

例によって例に終わるこの出来レースの中で出色の存在は紅一点、ナチの女マタハリ、ボンドガールならぬインディガール役を演じる理知的にして妖艶なるアリソン・ドウーディ選手。仕事のためにはなんとインディ・ジョーンズ親子丼を美味しく食べてしまうという積極性を示すのですからたまりません。

あとは例によって聖杯が隠されている神殿におけるナチスとの争奪戦やらミイラやら老騎士やら大崩壊やらなんやかやで、息もつかさずにラストまで引っ張ってゆきまする。


遺産処分のため3333万円差し上げますてふメール連日来る三井香奈子そも何者 蝶人

Monday, February 13, 2012

スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.200

上海のマフィアとのトラブルがインドに飛び、飛行機から命からがら脱出したり、例によって大蛇子蛇に絡みつかれたり、狂信的な邪教の徒に命を狙われたり、超高速トロッコで逃れたり、東洋少年が大活躍したり、霊験あらたかな石を持ち帰って部族の長に感激感動を与えたりするので、結局は勧善懲悪の素晴らしい映画なのだろう。

スピルバーグはこの映画のヒロイン、ケイト・キャプショーと撮影直後に結婚したそうだが、ふーんこういうタイプが好きなんだと分かってしまう映画でもある。ともかくこの監督の面白冒険活劇趣味とそれゆえの低俗さを物語る超娯楽大作です。


温かき布団に包まれ寝た夜に南太平洋複葉郵便機のパイロットになりし夢見る 蝶人

Sunday, February 12, 2012

林望訳「謹訳源氏物語七」を読んで

照る日曇る日第494回

本巻に収められたのは「柏木」「横笛」「鈴虫」「夕霧」「御法」「幻」の六つの巻です。

源氏が目に入れても痛くないほど大事にしている正室の女三の宮が、かつての頭中将の息子、柏木に犯されて子をなすくだりはまことに因果応報。若き日の源氏が桐壺帝と藤壺に対して冒したあやまちを身を以て追体験させる紫式部の冷徹な断罪は、主人公のみならず現代の読者の襟をも粛然として正しめずにはおきませぬ。

自責の念に駆られてはかなくもみまかった柏木の正妻、落葉の宮を狙うのは、今は亡き葵上との間に出来た源氏の一人息子、夕霧。さうして源氏ジュニアのいかにも不器用な横恋慕をはさんで、ようやく老境にさしかかった主人公を突如襲うのが、愛妻、紫上の死であります。

そんなに大切な妻ならもう少し生前に浮気を控えて大事にしてあげればよかったのに、と思っても、後の祭りとはこのことぞ、このことぞ。若き日の輝かしい光も急激に色褪せ、五二歳の雲隠を目前に控えた我らが主人公の落日の悲哀を、作者は残酷なまでに抉りだすのでした。

林氏の現代日本語訳は、谷崎潤一郎訳等に比べるといささか格調には欠けますが、これまでのいずれの訳者をも凌ぐ分かりやすさとテンポの明快さは素晴らしいものがあります。

太刀洗泉に二個のおたまが浮かんでる如月十日は春の訪れ 蝶人

Saturday, February 11, 2012

講談社版天皇の歴史最終巻「天皇と芸能」を読んで

照る日曇る日第493回

いつの間にかつらつら全10冊に目を通してしまったわけだが、どれも天皇と天皇に付随する制度の周縁を遠回しにぐるぐる迂回しているだけの空論閑文ばかり。天皇制を歴史的にあからめてくれようかという秘かな願いが叶えられることはただの1冊もなかった中で、落ち穂拾いのこの最終巻は予想を裏切って面白かった。

第1部の「天皇と和歌」では勅撰和歌集を逐次取り上げながら王朝和歌の特徴を具体的に論じているので、天皇をから離れた本邦歌論史としても大いに参考になる。第2部の「芸能王の系譜」では声わざの帝王としての後白河院、琵琶の帝王としての後鳥羽院、両統迭立の中で秘曲伝授を争った後深草院と後醍醐天皇等をとりあげ、第3部の「近世の天皇と和歌」では寛永文化を主導した後水尾院の和歌復興運動を、第4部の「近世の天皇と芸能」では天皇の学問・和歌と並んで茶の湯の歴史を概説しているが、この最後の小論文が私にはいっとう興味深かった。

 というのも家の近くに茶道宗徧流不審庵があったり、親戚にお茶の師匠で生計を立てている人がいたりするのだけれど、私はどうも当節の表層儀礼作法と門閥利権商売化した現代茶道というものに抜きが難い不信と偏見を抱いているからである。

かつて私は裏千家の千宗室氏が主宰する茶会なるものに臨席し、彼らが主導する作法通りに和菓子を頂いてわび茶を喫し、利休15代目の宗匠より有り難い講話?なぞも拝聴したのであるが、これが正統の茶道なりという感触のかけらすら体得できなかった記憶がある。

2畳か3畳の狭い茶室に閉じこもってちょん切られた朝顔や古臭い茶器をひっくり返して褒め殺したり、たかが1杯の茶を喫するのに長時間しびれを切らして正座したり、年代物の茶碗をぐるぐる回したり、宗匠の下らない人生訓を聴かされるのが正式な作法だと思っていたら大間違いだよ。

堺の商人や信長、秀吉、家康などがよってたかってもっともらしい禅の修行まがいに陰湿に歪めてしまったわび茶だが、茶道には平安初期の団茶、滋養茶、中世以来の衣冠を付けず裸行での乱遊飲茶や賭け茶、闘茶、嗅ぎ茶、酒席における能や少女歌舞音曲付きの回茶など、もっともっと奥が深くて開放的な楽しい喫茶文化があることを、改めて本書で学び直してほしいものである。


小泉岡松伊藤大木年明けてどんどん死ぬなり十二所村住人 蝶人

Friday, February 10, 2012

マリオ・バルガス=リョサ著「悪い娘の悪戯」を読んで

照る日曇る日第492回


ノーベル賞作家の2006年度の作品を読みました。

作家自身を思わせるペルー生まれのうぶな青年がリマ、パリ、ロンドン、東京、マドリッドを転々としながら運命の悪女を少年時代から激愛し、徹底的に入れ上げ、渇望しながら終始追いもとめ、たまにはセックスさせてもらいながらもまた逃げられ、翻弄され、日本ではヤクザのフクダに全部いいとこを持っていかれ、あまつさえ虎の子の貯金を入れ上げてもてんで悔いず、籍を作るために結婚してやり、またしても他の男に逃げられ、頭にきて娘ほど年の離れた若い女と浮気をしたり、それで頭に来た女が怒鳴りこんできたり、そうこうしているうちに2人ともどんどん歳をとり、とうとう万骨枯れて死病に取り付かれた女と再会した主人公は半世紀に及ぶ大恋愛の最後の瞬間をかのポウル・ヴァレリーが「海辺の墓地」を書いた南仏セトの海のほとりで大団円を迎えるのです。

モデルのような容姿、いたずらめいた濃いはちみつ色の瞳、ぽってりした小さな唇の持ち主にいちころで魅了された男性の半生記なのですが、そういう経験のないわたくしにはあんまり感情移入が出来ないし、このヒロインの魅力がいまいちのみこめない。でもきっとよっぽどチャーミングな小悪魔のようなファム・ファタールだったんでしょうな。

プルーストが言うように、あばたもえくぼ、すいたはれたも病のうち、虚仮の一念岩をも通す。信じる者はとうとう思いを遂げるんでしょう。されどよく出来た恋愛小説だとは思いますが、わたしにはてんで思いを馳せることすらできない絵空事の世界でした。


奇声上げらあらあ泣きながら走る人憎んでいるのはこの私とは 蝶人

Thursday, February 09, 2012

黒木和男監督の「父と暮らせば」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.199

私は仕合わせになってはいけないのですと恋人との結婚を拒む宮沢リエの娘。いやいやそんなことをしたって死んだ者は生き返るわけじゃない。その分まで幸福になっておくれと譲らぬ原田芳雄男の父。まるで歌舞伎の名場面のように江湖の紅涙をぐっしょり絞るこの映画最大の愁嘆場です。

1945年8月6日午前8時15分のその瞬間、父はまともにその光を身に受けたのですが、娘はお地蔵様の陰になって九死に一生を得る。これは近所にある鎌倉十二所の光触寺に安置された頬焼地蔵の逸話と同じです。

その父親が一人娘の身の上が心配で、死んでも死にきれない亡霊となって懐かしの我が家を出たり消えたりするという原作者井上ひさしの設定が心憎い。キャメラが家の上に移動していくと、それが原爆ドームの天井になるというラストシーンもことのほか印象的で、松村禎三の控えめな音楽もそれがかえって心を打つ。

わたしはこの秀作を世界中の人々に見てもらいたいと願わずにはいられませんでした。


雲見れば心哀しむまして愛犬ムクの形なればなおさら 蝶人

Wednesday, February 08, 2012

2011年大晦日のベルリンとウイーンの音楽会を視聴して

♪音楽千夜一夜 第245回


去年の大晦日に欧州の2つの首都で行われた年越しコンサートとオペラを録画で見物しました。

ベルリンンフィルを率いてジルベスターコンサートを振ったのはお馴染みのサイモン・ラトル。エフゲニー・キーシン迎えて演奏したグリーグの協奏曲を中心にストラビンスキーの火の鳥やラベル、ドボルザーク、ブラームス、シュトラウスなどいいとこどりのアラカルトでしたが、さしたる感銘を覚えず。

ひところの低迷を脱したかに見えたこのコンビですが、ティーレマンやヤンソンスの大活躍に比べるとそうとう格が落ちる。そろそろ別の指揮者に全トッカエしてもいいのではないでしょうか。

いっぽうウイーンでは正指揮者フランツ・ウエザー・メストを迎えた国立歌劇場で恒例の「こうもり」が上演されましたが、どこでどの曲をやってもつまらないこの謹厳実直だけが取り柄のこの人物の棒では、到底かつてのミュンヘンの夜のクライバーのシャンパンが沸騰するような喜悦感は皆無でした。

ゆいいつの目玉はその演出が当地生まれの名人オットー・シェンクだったことで、なんと御年81歳の当人が終幕のカーテンコールに登場すると、ここぞとばかりに嵐のような歓呼の声が劇場に渦巻きました。表層だけの薄っぺらな演出家が跋扈するなかで、彼のようなオーソドクスなやり方の値打ちをようやく世界のオペラファンも分かってきたのではないでしょうか。

貧乏人から情け無用とむしり取る鎌倉税務署に災いあれ 蝶人

Tuesday, February 07, 2012

コスタ・ガヴラス監督の「ミッシング」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.198

1973年に米国が軍部と結託して南米チリのアジェンダ政権をクーデターで圧殺して事件の内幕物。行方不明になった息子を案じて現地にやって来た保守的な父親が嫁と一緒に捜索するうちに米国大使館の陰謀に気づき、次第に事の真相に肉薄していく。

結局息子は米国の同意の元でチリ軍に虐殺されていたのであるが、無数の犠牲者が血まみれで横たわるサッカー場を2人が一人一人確認する場面は凄絶そのもの。おそらくこの映画が暗示するような問答無用の拉致、逮捕、拷問、処刑、殺戮が全土で繰り広げられたに違いない。

恐るべき国家犯罪の犠牲者となった息子のために父親は「われわれは、ひとつの国がその国民が無責任なせいで、共産主義化するのを無為に見ている必要はない」と述べたと言われるキッシンジャー大統領補佐官以下の政治家を訴えるのだが、結局彼らを裁くことはできなかった。

ジャック・レモンとシシー・スペイセクの渋い演技が心に残る。昔この映画の撮影監督に巴里に来たら遊びに来給えと言って名刺を貰ったがとうとう行かなかった。というのはやはり同じことを言われてノコノコ出かけた「エマニュエル夫人」のフランシス・ジャコベッティという監督が、若いスタイリストの尻ばかりを追っかけていて東洋人のわたしにつれない対応をしたからである。


ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり 蝶人

Monday, February 06, 2012

ルネ・クレマン監督の「海の牙」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.197

第2次大戦末期の北海を舞台に、あくまでも第3帝国の勝利を目指す人々のUボートの中での戦いと離反を名匠が最後までスリルとサスペンスを保ちながら演出しています。

敗色濃厚のスエーデンのオスロ港から南米脱出を図る潜水艦に乗り合わせたのはナチスドイツの将軍やゲシュタポ、ムソリーニ支持のイタリア財界人夫妻やノルウエーの学者と娘、途中で誘拐されたフランス人の医師(アンリ・ヴィダル)たち等の国際色豊かな顔ぶれが興味深い。呉越同舟の呪われた敵味方を乗せたUボート内部の息詰まる人間関係と最後の対決がみものだが、将軍の妾に扮したフロランス・マルリーが妖艶。

たった一人で潜水艦に取り残された医師が米軍によって救助され、1947年製作のこの映画のネタを執筆するという筋立てになっているが、いずれにしても潜水艦が登場する映画はすべて面白い。

一匹の山猫となりて巣に潜む 蝶人

Sunday, February 05, 2012

ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベリッシマ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.196

戦後間もない1951年製作の巨匠の初期の作品。チネチッタが映画に出演させる少女をローマ市内で公募したので、主人公の母親が愛娘を女優にしてやろうとなけなしのお金をはたいて懸命に奮闘する。

コネを作ってやると称するいんちきな青年に新居の建築資金をだまし取られたり、なぜか求愛されたり、夫に怒鳴られたりと、まるでリエママのように涙ぐましく滑稽などドタバタ劇が続くが、どういう風の吹きまわしか最終候補に勝ち残り一躍トップスターへの道が開かれるはずだったのに、それが娘の本当の仕合わせにならないと知ったイタリアのタレントママ第1号は、正気にたちもどって巨額の契約金を拒否するのでした。めでたし、めでたし!?

されど母も娘も美しい(ベリッシマ)が、あれだけ苦労した役をどぶに捨てるとはなんだかもったいない話じゃないか、という気がしないでもない。母親役のアンナ・マニャーニが強烈な存在感を発揮して今夜の夢に出てきそう。


マレーシアと中国の女子学生に「日本人なんかに負けるな」と就活アドバイスしている微妙なわたし 蝶人

Saturday, February 04, 2012

角田光代著「空の拳」を読んで

照る日曇る日第491回

日本経済新聞の夕刊に連載されていた拳闘小説がついに大団円を迎え、私は感動と一掬の涙と共にその最終回を読み終わった。小説を読んで感動の涙を流したのは遠くはロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」、近くは高橋源一郎の「官能小説家」以来だから久しぶりだが、涙は小説以外でも毎日のように大量に噴出させているからたいした話ではありませぬ。

それよりも角田光代は凄い。なんたって女だてらに草食男も三舎を避ける後楽園ホールへ日参して見事ボクシング小説を書きおおせたのだから。

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット!

リングの上では血湧き肉躍り、鍛え抜かれた肉体と肉体が激しく切りむすぶ。
主人公の立花はじめこの未聞の格闘技に魅入られた無名の青年たちが黙々と真剣勝負に挑む姿を、著者はやわな編集者空也の視線を借りてなんと生き生きと、美しく、チャーミングに造形することに成功したことか。

 立花のトレーナー、萬羽の姿もかの丹下段平をそこはかとなく忍ばせ、これは名作漫画「あしたのジョー」の平成小説版かと思う読者もいるだろうが、これはもっと身近でもっと切なく、もっともっと卑小な人間が精一杯戦い、生きる姿がいとおしくなるような、そんな素敵な現代のロマンなのである。

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット!

この作品を通じて角田光代は、苦難に満ちた現代の日本に生きている私たちに力強いエールを贈ってくれたと言うべきだろう。それにつけても、一日も早い単行本化が待たれる。 


ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット! さあ生き抜くんだ俺たち!! 蝶人

Friday, February 03, 2012

村山由佳著「放蕩記」を読んで

照る日曇る日第490回

挑発的な題名に惹かれて手に取ってみたが、いったいこの小説の主人公のどこが放蕩なのかさっぱり分からなかった。

放蕩とは広辞苑によればほしいままにふるまうこと。特に酒食に耽って品行が修まらないこと等とあるが、ヒロインは少女時代にちょっぴりレスビアンの真似をしたり、高校時代に2人のクラスメイトと先輩と致したり、大学時代に出版社勤務のリーマンとラブホテルへ行ったりするくらいで、この定義のいずれにもあてはまらない。

その後もいろんな男と寝まくったというのだが、よしんば彼女が毎晩違う男と床入りしたからといってそれを色情狂と称しても放蕩娘とは言えないだろう。それはこのヒロインンがきわめて意志強固な倫理的な志操の持ち主であり、肉欲に溺れて男を漁らざるをえないマンイーターとは鋭く一線を画しているからである。

それでも彼女は粋がって自分を放蕩娘と命名したいのかもしれないが、彼女が放蕩するのはより深く人世を知り生き抜くための方法的放蕩であって、肉が肉に溺れるほんたうの放蕩とは似て非なるものである。

本作では関西弁で饒舌に自己表現する主人公の母親が登場して大活躍するが、どこの家庭でも母と娘とはまあこんな関係だろう。そう大騒ぎして書きこむほどのことはない。花村萬月ばりの波乱万丈の放蕩記を期待したのに、出てきたのは世間でよくある母娘の葛藤話。これを平凡な文体で延々と書き連ねられると読むほうもうんざりしてくる。こんな作家がよく直木賞をもらったものだ。

鬼は外福は内!無限の闇に投げました 蝶人

Thursday, February 02, 2012

五味文彦著「西行と清盛」を読んで

照る日曇る日第489回

奇しくも元永元年(1118年)に生まれた文武2つの領域に激しく生きた人物の生涯をその生誕から死亡まで淡々と叙述した書物である。ちなみに清盛は治承5年(1181年)に64歳で、西行は文治6年(1190年)に73歳で亡くなっている。両者とも当時としてはかなり長寿であり、長きにわたって本邦の武家政治と歌道に決定的な影響を与えた偉人といえるだろう。

清盛については最近毎回6千万円の製作費を投じて製作されたという大河ドラマが始まったので逐次そちらを見物して頂くとして、この本では元は清盛と同じ武人で後に出家して勧請僧兼歌僧となった佐藤義清(のりきよ)こと西行法師の和歌を年代ごとに紹介、解説しているので参考になった。

彼の歌は「山家集」「聞書集」「残集」の3つの家集や後鳥羽上皇が勅撰した「新古今和歌集」などに治められており、とりわけ「年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」、「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」、「こころなき身にもあわれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮」などが名歌として知られている。

その他にも「死出の山越ゆる絶え間はあらじかし亡くなる人の数続きつつ」、「あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来ん世もかくや苦しかるべき」、「きりぎりす夜寒に秋のなるままによわるか声のとほざかりゆく」などが現代に生きる私たちの心情にも響く繊細な歌心を伝えているが、それ以外の膨大な和歌の大半は今日の私(たち)の目で見れば、正岡子規の習作と同様ほとんど月並みの凡歌であり、天才実朝の鋭い感性に及ぶべくもない平凡な作風である。

 ところで偉大な歌人や芸術家にとって最も大切な要件は、富士の高嶺を人知れずゆるやかに支える広大な麓を備えていることであって、その枢要さは天を突き刺す一点の錐におさおさ劣らない。彼に高貴な頂点あることを熟知している私たちは、彼の広大な中下層ヒンターランドのゆるく凡庸な世界に安んじて遊ぶことができるのである。


凡歌あり駄作の山ありて秀歌あり 蝶人

Wednesday, February 01, 2012

吉川一義訳プルースト「失われた時を求めて3」を読んで

照る日曇る日第488回

スワンとオデットの恋が冷める果て凡庸そのもののサロン生活が開始されると、彼らの娘オデットと主人公との恋物語が延々と繰り広げられる。

そして知的な男性の片割れであるところの私は、スワンと同様その常として相変わらずおのれの前頭葉でひねくりまわした恋人の幻像に翻弄され、疲労困憊し、とうとう念願の恋を成就することなく自縄自縛に陥って自爆する。浅はかと言うも愚かで哀れな男子の所業である。

恐るべきは著者のその真情と心情に対する通暁であって、これはやはりみずからの恋愛体験とその心理的解剖の微分積分のなせるわざであろう。頁をはぐって読むだに恐ろしく涙ぐましい所業の数々がミクロの決死圏で描破され、当時の巴里の社交界ではこういう恋愛ごっこが競うように実践されていたことをうかがわせる。

されど虚飾と退廃の陰に咲く絵画や文学や演劇への愛はつねに私たちをこの世の果てへの旅に誘う。フェルメールの恐らくは最初の理解者であったプルーストのするどい審美眼が、この奇跡の書物を誕生させたのである。


どうしようもなく牡どうしようもなく牝  蝶人

Tuesday, January 31, 2012

エリア・カザン監督の「紳士協定」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.195

監督がエリア・カザン、プロデューサーはダリル・ザナック、主演がグレゴリー・ペックというハリウッド映画史上最強の黄金コンビによる堂々たるユダヤ擁護映画である。

すぐる大戦の前から私たちの先輩が故なく同じアジアの同胞をチャンコロとかチョウセンジンなどと嘲罵して故なき優越化に耽ったように、碧眼紅毛どもは短足黄班の私共をジャップと故なく蔑んだ。穢多非民部落民ユダヤ人アイヌイヌイットその他もろもろを問わず世界中で階級階層民族差別は古くから存在し、そしていまなお存続しているのである。

さうしてこの差別の真因がどこにあるのかは、その不条理を完膚なきまでに解剖し尽くしたこの映画を観終わっても、まだしかとは把握できない。非ユダヤの身でユダヤ人になりかわってその隠微な差別の根の深さを体験したグレゴリー・ペックのように、私たちも一生に何回かは民族や身分や地位を舞台衣装のように脱ぎ着できたら差月史観を肉体的に相対視できてよろしかろうが、眼前の人生劇場がそれほどドラマ仕立てに出来ていないのがまことに残念である。

新聞記者のペックの恋人が映画の最後でようやくおのが人種差別の当事者であったことに遅まきながら気がついてその差別に反対する行動を取るに至り、ついに価値観を共有するにいたった恋人がひしと抱き合うところで本作は終わるが、このいかにもヒューマニズムと理想主義の残滓芬芬たるカザンらしいエンディングを「甘い甘い」とせせら笑いながらも、かの鬼のザナックはフィルムに鋏を入れなかったのである。

ペックの恋人役のドロシー・マクガイアはつまらないが、母親役のアン・リヴィアの風貌が忘れ難い。この映画を観終わった私は、わが国が生んだ一代の梟雄豊臣秀吉が尾張名古屋の村落のしがない針売りであったことをはしなくも思い出した。

Monday, January 30, 2012

西暦2012年睦月 蝶人狂歌三昧

ある晴れた日に 第103回


正月や生死の際のひとやすみ

かのひとの縁の切れ目の年賀状

資本主義でもない社会主義でもない公正主義を空想す

二晩も塩見洋一の夢を見たり どうしているか塩見君

泣け笑え 歌え踊れ 汝幸なる魂よ

野薔薇咲く崖下の家に棲みにけり

鎌倉の改札口で美しき女性と接吻していた小泉画伯みまかりにけり

小泉画伯の遺体を乗せし霊柩車妻のカローラに別れを告げたり

倒れながらよくぞ電話をかけてきた正月6日義母92歳

この世の不条理と不如意に怒りの津波が押し寄せるとき

どこまでも君の欲望に寄生して死んでも離さぬドコモauソフトバンク

ブーと言えブーと言えこの阿呆めがとお前は今年も悪口を言うのか

不満あり無力なりされど英雄気取りのアンポンタンにわが命運をゆだねず

不満あり無力なりされどわが荷物を橋の下に投棄せず 

恋は狂気の沙汰にしてつける薬はないわいなあ

森既に黒けれど空まだ青しわれら日のあるうちに遠く歩まん

東大寺より西大寺が好きな人

ムラサキシジミとテングチョウが越冬していた枯葉となって

アラカシの枯葉に似せて横たわるムラサキシジミに幸いあれ

今日もまた貴兄のペニスうんと大きくしてあげるというメールあり

相変わらずお前はアメリカの属国だなイランの石油が要らんとは

全ての国に一個ずつ原爆与えてその直後一斉廃廃棄すればいかがでせう

光明寺に去りし隣の美女が来てナシの種呉れし満月の夜

わかりました行ってみますてふ息子の言葉を頼もしく聞く

病院に行けば病の人ばかり病ならずとも病みし心地す

「徳洲会は世界を癒す」というポスターの下でリハビリを受けている妻

リハビリは一生懸命やりなさいけどやってるうちに腱がピシッと切れる時もあると警告されている妻

なぜ樺太をサハリンなどと言い変える悪辣無法のソ連に奪われしあの島を

なぜビルマをミャンマー表記に改める軍事政権に屈した朝日とフィナンシャルタイムズよ

なにゆえに脳しょうぐあいの君だけにピアノが弾けるのとても不思議だ

お父さんドのダブルシャープはレだよとピアノを弾きながら教えてくれました

異国に咲きはかなく散った燃える恋百五十年後も匂いは失せず 

「毎日が日曜日」となっても忙しいのはなぜだろう

幸福は妻と並んで山崎のこもれびプールで平泳ぎする朝
 


墓地にあれば心慰む生きながら死につつある証か 蝶人

Sunday, January 29, 2012

黒沢明監督の「生きる」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.194


何回見ても志村喬の公園でのブランコと「♪命短し恋せよ乙女」には涙腺がぐちゃぐちゃになる。ガンに冒され余命数カ月に迫った公務員の胸中を黒沢は見事に劇化し感動的な名画を誕生させた。そこでは映画の主題とテーマ音楽「ゴンドラの唄」が絶妙な相乗効果をもたらしている。

しかし、ここからは映画の感想から逸脱するが、よく考えてみると市民課長の生涯最初にして最後の達成が、必ずしも公園の建設でなくとも構わなかったのではないかという気もしてくる。福利厚生が乏しかったあの時代に公園の存在は貴重かつ重要な意義を持っていたのかもしれないが、しかしもっと重要で喫緊の市政の課題が他にあったかもしれないな。よしんばそれが一部の住民の熱望であったとしても。

死にゆく課長にとって死力を尽くして実現した公園は、あの時点で市役所&市民課が市民の総意としてめざすべきゆいいつ絶対の理想ではなくて、課長さんの極私的な野望に突き動かされての独走暴走?であった可能性も排除できないな。

通夜の場面では助役以下の公吏が非人間的で非人情な存在として敵対的に浮き彫りされていたが、これは監督の恣意的な思い入れとセンチメンタリズムが少しくでしゃばりすぎているのではないか、というのが涙をぬぐって立ち上がったわたくしの感想でした。

どこまでも君の欲望に寄生して死んでも離さぬドコモauソフトバンク 蝶人

Saturday, January 28, 2012

ローラント・ベーア指揮スカラ座の「魔笛」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第244回

2011年3月といえば大震災の頃だが、ちょうどその頃にミラノで上演されたモーツアルトの遺作オペラの録画を視聴。さすがはスカラ座という清明な音で序曲が始まったので大いに期待しました。

さてどういう大蛇が出てくるのかと楽しみにしていたが、結局造り物は登場せずアニメみたいな映画の初期の頃のようなあめふらしの映像が出てくる。こういうやり方は最後の最後まで変わらず、ウイリアム・ケントリッジという演出家がコンピューターを駆使した最新の3Dとかに熱意を燃やすその程度の下らない奴だと知れる。衣装だって男はみな普通のスーツ、女はカジュアルなドレスをぞろぞろきているので、せっかくパパゲーノとモノタノスが出喰わしても驚くことができない。ともかく昔の物を現代に塗り変えればよいと信じ込んでいる阿呆の仕事だ。

歌手もみな2流か3流どころで、ややまともに唄えていたのは夜の女王のただひとり。魔笛というオペラの背骨は彼女のたった2つの超絶アリアで成立しているので、これが壺をはずしていると最悪だが、その点ではまあ良かった。

そんな次第でようやく幕が降りるがまだしつこくCGのお絵描きゴッコをやっている。なんの霊感もないルーチンワークの下らない演奏にラアラアと歓声を上げているスカラ座の観客を見たら、死せるトスカニーニも激怒するだろう。墜ちるところまで落ちればいつか浮かぶ瀬もあるのだろうか。

この録画放送の案内をしている顔がグチャグチャになった作曲家が、最近の研究でモーツアルトの妻コンスタンツエと彼の弟子のジュスマイアーが不倫していたことが判明したと語っていたが、ほんとななあ。

出演:サイミール・ピルグ、アリビナ・シャギムラトワ、ゲニア・キューマイア他 
指揮:ローラント・ベーア 演出ウイリアム・ケントリッジ


アラカシの枯葉に似せて横たわるムラサキシジミに幸いあれ 蝶人

Friday, January 27, 2012

ジャック・リヴェット監督の「ランジェ侯爵夫人」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.193

ヌーヴェルヴーグの生き残りリヴェットの2007年の最新作をその翌年に37歳の若さで惜しまれつつみまかったギヨーム・ドパルデューが熱演しています。原作はバルザックの短編で、原題は「斧に触れるな」です。

彼が扮する19世紀のナポレオン軍の名将軍で軍務一筋の不器用な男が、妖艶な社交界の花ランジェ侯爵夫人(ジャンヌ・バリバール)の色香に迷ってたちまち恋に落ちる。ところが侯爵夫人は彼女が知らなかった荒鷲のように無骨な男に魅せられながら、その純情をもてあそぶ。ついに男の怒りの斧に触れたのです。

業を煮やした武人は彼女を拉致して強引に愛を迫るのですが、それがかえって逆効果となり酷薄な女の前から姿を消す。すると追えば逃げ、逃げれば追うのたとえどおり、今度は女の方が失った恋の大きさに耐えかねて恥も外聞もかなぐり捨てて男を求める。

命を賭けて無二の愛を求め、それが得られずに侯爵夫人が選んだのは海の彼方の絶海の孤島でした。そして映画は息詰まるような緊迫感を保ちながら悲劇の大団円に突入するのですが、これは見てのお楽しみ。それにして男女の愛の本質をぎりぎりと抉り取るこんな珠玉の名作を夢も希望もない平成ニッポンの私たちに贈ってくれたジャック・リヴェットには感謝の他はありません。


枯葉の中にムラサキシジミとテングチョウが越冬していた枯葉となって 蝶人

Thursday, January 26, 2012

溝口健二監督の「祇園の姉妹」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.192

1936年の製作。かなりの部分のフィルムが失われてしまったが鑑賞に差し支えは無い。京の祇園の芸者として生きる2人の姉妹の物語である。

梅村蓉子が演ずる姉は倒産して無一文になった木綿問屋の主人の面倒を見るという昔ながらの義理人情を大事にする古風な女だが、当時18歳の木暮三千代演ずる妹は正反対のモダンガール。姉の情人を手切れ金で追い出して別の男とくっつけ、自分は呉服屋の若い番頭、ついでその主人を手中に収めてしまう。

万事快調、妹の凄腕の細腕一つで色ボケ親父を完璧にぎゅうじったかに思えたが、それも一瞬のこと。好事魔多しとはよく言ったもので、妹は恨んだ番頭にさんざん痛めつけられ、そのうえ主人の秘密を呉服屋の細君に内報されたために「なんで芸者なんかがこの世にあるんやろ」と恨みながらよよと泣くのが全巻のおわりだが、おのれの悲痛と悲惨をそれまでとは打って変わって社会や世の中のせいにするのは脚本の甘さであり、この映画の唯一の弱さであろう。

されど山田五十鈴の美しさと溌剌とした物言い、彼女を借りて新しい女性の生き方を打ち出そうとした脚本と演出は素晴らしくこの映画に不朽の生命を、そして随所で多用される超ロングワンショットが、この物語を遠くから客観視する視点を付与している。最後から二番目のカットのその息を呑む長回しは、映画史上空前にして絶後であろう。

ああこれあるからこそ、世界の溝口なのだ!


東大寺より西大寺が好きな人 蝶人

Wednesday, January 25, 2012

アンソニー・マン監督の「シマロン」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.191

珍しやグレン・フォードとマリア・シェルをフーチャーし一風変わった西部劇。1931年版を1960年にリメイクしたものである。

開発途上のアメリカ・オクラホマ州などでは「ランズ・ラン」という名の早い者勝ちの土地獲得競争が行われたそうな。一獲千金を夢見る全米の老若男女やアウトローや喰いつめ者が号令一発せいので荒野に飛び出していくのであるが、新婚早々のグレンとマリアもその一員。新聞社を作ってこの地に基盤を築いたが生来の冒険心を自制できないグレンは平穏な生活を求める妻子を顧みず各地を放浪していたが、ようやく帰省して知事に任命されることになる。

しかしそれが先住民の自立を妨げ開発のお先棒担ぎへの加担を意味すると知ったグレンは潔く名誉あるポストを投げ出したが、マリアは怒り狂って夫と絶縁。やがて11年の歳月が流れてマリアは新聞社を大成功に導いたが、その時グレンの最初で最後のラブレターと共に、英国女王からの訃報が届くのだった。

波乱万丈の冒険野郎の生涯と米国の開拓史をシンクロさせて描く壮大なスケールが見もの。とりわけシマロンの時代にさきがけた公民権運動が印象に残る。

病院に行けば病の人ばかり病ならずとも病みし心地す 蝶人

Tuesday, January 24, 2012

ダニエル・ハーディング指揮スカラ座のヴェリズモ・オペラ二曲を視聴する

♪音楽千夜一夜 第243回

2011年1月にミラノ・スカラ座で上演された「カヴァレリア・ルスティカーナ」(マスカーニ)と「道化師」(レオンカヴァルロ)の衛星放送の録画を鑑賞しました。指揮はどちらもダニエル・ハーディング、演出はマリオ・マルトーネという人です。

このヴェリズモ・オペラの演奏で私の脳裏に焼き付いているのは、同じスカラ座をカラヤンが指揮した映像です。劇伴は同じ名門オーケストラですが指揮者が違えばこうも印象が違うものか。両曲ともカラヤンに比べて早い速度で、あの有名な間奏曲にしてもなんの思い入れもなくあっさりと通り過ぎていきます。

楽譜の意味を深く読むこともなく表層のカッコよさだけを追い求めるこの若者の音楽はわたしのような保守反動の徒にとっては唾棄すべき代物でしたが、伝統あるオケも観衆もブーの人声もなく唯々諾々と従っている姿には驚きを通り越してただただ情けない。死せる作曲家たちやトスカニーニが聴いたら激怒するでしょう。

歌唱陣も凡庸な指揮と似たりよったりの出来栄え。ドミンゴでは聴衆の涙を誘ったレオンカヴァルロの有名なアリア「衣装をつけろ」でしたが、今回のホセ・クーラでは嘘泣きしているのはクーラだけ。こんな下手くそにブラボーと叫んでいるミラノのお客は完璧な阿呆です。マスカーニをまずは無難に唄い上げたリチートラが不慮の事故で夭折したのは残念なことでした。

というわけで総じて評価するべきはマリオ・マルトーネの演出のみ。現代の高速道路下に芝居小屋を設営した意匠は卓抜なものがありましたが、ダニエルよ、お前さんはスカラ座で振るには30年早い。



歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」(マスカーニ) & 歌劇「道化師」(レオンカヴァルロ)
指揮:ダニエル・ハーディング  演出:マリオ・マルトーネ 出演ルチアーナ・ディンティーノ、サルヴァトーレ・リチートラ、ホセ・クーラ等。


なぜ脳しょうぐあいの君だけにピアノが弾けるのとても不思議だ 蝶人

Monday, January 23, 2012

ジーン・ケリー&スタンリー・ドーネン監督の「雨に唄えば」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.190
恋する男が降りしきる雨のなかを歌って踊るシーンが有名なこの映画だが、もっと印象的なのは主人公が美脚の持ち主シド・チャリシーと繰り広げる息を呑むようなダンスメドレーの連続シーンで、広大なスタジオ狭しと繰り広げられる歌とソロと群舞、照明と場面転換の見事さは、ドナルド・オコーナーのダンスの切れ味と相俟ってこのミュージカル映画に不朽の生命力を吹きこんでいる。

当時さしたるキャリアと技量を持ち合わせていたとも思えないジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンがここで展開している演出も、見事な出来栄えで見る度に新しい発見がある。それにしてもジーン・ケリーの相手役の大女優リナ・ラモントを演じたキイキイ声のジーン・ヘイゲンはその後どうなったんだろう?


お父さんドのダブルシャープはレだよとピアノを弾きながら教えてくれました 蝶人

Sunday, January 22, 2012

「橋下主義を許すな!」を読んで

照る日曇る日第487回

大阪市民の絶大な支持を受けて市長に就任した橋下氏の政治手法について内田樹、香山リカ、山口二郎氏などがこもごも批判しています。

私は橋下氏が府と市の経費の重複を無くしようとしていることには反対しませんが、教育に偏屈な政治的イデオロギーを持ちこんだり、旧軍隊的規律と上意下達の中央集権的介入を強行したり、市場競争や経済効率論理を導入して大阪府・市の教育基本条例を改訂しようとするような独裁的で夜郎自大な手法には反対です。

我々がこよなく愛するこの自由な国家ではいつでもどこでも誰でも自由な見解の表明を妨げられず、時の権力者に反対したりげんざいの国歌や国旗に異議を唱えたり起立を強制されても罰せられるはずがなく、気に喰わなければ黙って座っていることも許されますし、それを非国民だと罵る人こそが本来の意味の非国民なのです。

橋下氏がしようとしていることについて内田氏は、宇沢弘文氏の「教育=社会的共通資本論」を引き合いに出し、共同体の存立にかかわる自然環境、社会的インフラ、教育、医療、司法、行政に対する政治の中央集権的介入を強く戒めていますが、これはイデオロギーの左右を超えた常識というべきで、政権が交代する度に学校のカリキュラムや医療システムがころころ変わっては国民はたまったものではありません。

政権が交代しても物事が劇的に改革改善されないために、早くも民主党に幻滅してとっくの昔に政治生命が終焉したアホ馬鹿自民党への回帰を妄想したり橋下氏一派を軸とした新政治勢力に過大な期待を寄せたりするドンキホーテな人たちがいるようですが、民主政治というのは膨大な討議と時間と経費を蕩尽し、果てしない議論と辛気臭い交渉と不条理な妥協と紆余曲折を経ててやっとこさっとことおちつくところに落ち着く誰もが不平と不満を抱かざるを得ない超不完全なシステムだということが戦後60年以上経過してもまだ理解されていないようですね。

これに激怒したり愛想を尽かしておのれの主体的な思考を放棄して、ヒトラーもどきのチンピラに運命の下駄を預けたくなる気持ちも分かりますが、なに2年もすれば化けの皮がはがれるはず。ハシズムなどと慌てず騒がず放置しておけばよいのです。


不満あり無力なりされどわが荷物を橋の下に投棄せず 蝶人

Saturday, January 21, 2012

吉川一義訳「失われた時を求めて2」を読んで

照る日曇る日第486回

はじめはどうということのない女(男)だったが、そのうちに妙に気になり、ある日ある時の四囲の自他の状況の偶発的必然性(後から考えた)の相対的因果関係にからめとられる形で、当該の男と女のいずれかが絶対的恋愛関係の磁場に吸着されることは往々にしてあるようだ。

本巻で開陳されるスワンとオデットの人情肉布団もまさにそれ。しかも当初は男性が優位に展開していたはずのインターコースが途中で完全に逆転し、男は女の思
いのままに翻弄トイトイされてゆく。昔風の差別用語を使うなら、誰とでも寝る裏社会の女郎風情に毎月五百万円!をみつぎながら社交界の人気ダントツ男が下賤のライバルに寝取られてコキュに甘んじるのだから世話はない。

 されどこれこそが現世の修羅場をあいわたるしがない渡世人の世は情け西洋人情裏話。何が何として何とやら。親の因果が報いたか。それとも前世の因縁か。天に唾すれど答えなく。地に尋ねてもいらえなく。夕べになるともい寝られず。懊悩転転朝が来て。悩みは深き恋の井戸。あれ聴こゆるはフランクの。ヴィオロンの音ではないかいなあ。テテツレテン。テテツレトン。テテツレテン。テテツレトン。ついに男は阿鼻叫喚、果てなき無限地獄へ堕ちるのじゃあ。はれ堕ちるのじゃあ……

     恋は狂気の沙汰にしてつける薬はないわいなあ 蝶人

Friday, January 20, 2012

フランソワ・トリュフォー監督の「突然炎の如く」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.189

久しぶりに見返したがやっぱり素晴らしい作品だ。トリュフォーは映像をスタッカートのように歯切れよく切り刻む。それがシーンごとの意味を切れる寸前に浮かび上がらせ、これを推力にして次のシークエンスへと自然につながるのだ。この自然さは完全に人工的にして計画的な手法であり、ゴダールなど他のヌーベルヴァーグの作家もよく使った。

 この演出に乗ってジュールとジムの物語とカトリーヌの狂熱の恋は猛烈な速度で前進し、戦争で急停止し、また再出発して蝮のように絡み合い、河の上の橋を落下する自動車と共に終わる。

はずだったが、それは普通の映画のやることで、トリュフォーは死んだ二人の棺桶が荼毘に付され、それが業火で焼かれて白い骨となり、骨壺に入れられて冷暗所に安置されるところまできちんと見届ける。この冷静な視線こそトリュフォーだ。

ジュールは2人の骨を混ぜてやろうと望み、カトリーヌは自分の骨を風に撒いて欲しいと願っていたが、この映画では出来なかったことがいまでは出来るようになった。40年間かかって、人類もそれくらいには進歩したといえるだろう。

余談ながら「突然炎の如く」なぞという軽薄で胡散臭い邦題を誰がつけたのか知らないが、今からでも遅くはない。これは原題の通りに「ジュールとジム」に即刻戻すべきだろう。

光明寺に去りし隣の美女が来てナシの種呉れし満月の夜 蝶人

Thursday, January 19, 2012

マイケル・ケイトン・ジョーンズ監督の「ジャッカル」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.188

1997年製作のハリウッド映画です。題名は「ジャッカルの日」をリメイクしたただの「ジャッカル」。その名で呼ばれる物凄い能力を持つ殺し屋が、チエチェンのテログループに大金で雇われて米ロ連合の捜索チームの追及をかわして大統領夫人を暗殺しようとするが……。

いつもは正義の味方のブルース。ウイルスがここでは札付きの殺人鬼に扮してどんどん刃向かう敵を殺していく。米FBIとロシア内務省の要請で牢屋から特別に出してもらったリチャード・ギアがかなり良い線までジャッカルを追い詰めたんだが……。

今日はなぜだか……が多いなあ。……が続く映画です。



なぜ樺太をサハリンなどと言い変える悪辣無法ソ連に奪われし島を 蝶人

Wednesday, January 18, 2012

ロジャー・ドナルドソン監督の「カクテル」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.187

除隊したあとグレイハウンドに乗って一旗揚げようとニュヨークに乗り込んできたトム・クルーズがお勉強を放棄して人気者バーテンダーになる。ジャマイカで運命の女性に出会ったのだが、運命のいたずらで運に見放されもう駄目かと思ったけれど最後に幸運の女神が微笑むという恋と成功のカクテルストーリー。

1988年現在の肩に力の入ったファッションや糞面白くもないダンスミュージックがてんこもり。若い2人を彩るMTⅤみたいな映画です。

師匠役のブライアン・ブラウンと組んで見せるフレアバーテンディングが笑えます。役者の演技はみな未熟、監督の演出も稚拙だがジャマイカのリゾートが出てきて懐かしかった。こういうアホ馬鹿時代はきっともう戻ってこないんだろうな。


リハビリは一生懸命やりなさいけどやってるうちに腱がピシッと切れる時もあると警告されている妻 蝶人

Tuesday, January 17, 2012

吉川一義訳「失われた時を求めて1」を読んで

照る日曇る日第485回

岩波文庫からプルーストの「失われた時を求めて」の全訳が出始めたので読んでみた。第1編「スワン家のほうへ」の第1部「コンブレー」が収められたその第1分冊である。

私は以前井上究一郎氏の旧訳でこれを読み、とても面白かった。眠れないままにかつて横たわったすべてのベッドやそこをよぎったすべての想念を思い出そうとする主人公はまことに親しい存在と感じられたし、マドレーヌに浸された紅茶の味から心中に湧きおこる過去の思い出、思いがけない場所から様々な姿を見せる教会の鐘楼、むせぶような薔薇色のサンザシの芳香、カシスの葉に放たれ生まれて初めての一筋の精液、そして一瞥しただけで美しい少女ジルベルトへの恋に陥る少年の感じやすい心が我がことのように思われたからである。

多くの読者がプルースト特有の長すぎるセンテンスに辟易して読書を放棄するようだが、それはじつにもったいないことだ。なぜなら「失われた時を求めて」は読めば読むほど下世話な意味でもおもしろくなり、失われた時も空間も当初の茫漠なありようから一転してリアルな像を結ぶようになり、最終巻を閉じる際には誰しも異様なぶんがく的感銘に圧倒されること請け合いだからだ。

吉川氏の訳は井上訳の文学的曖昧模糊とした香気には多少欠けるが、その代わりに語学的・史実的な正確さと現代感覚が読む者の理解を大いに助けてくれる。願わくばこの平成の大事業がつつがなく全14巻の大尾を全うすることができますように。

森既に黒けれど空まだ青しわれら日のあるうちに遠く歩まん 蝶人

Monday, January 16, 2012

津村節子著「紅梅」を読んで

照る日曇る日第484回

作家である夫吉村昭の発病から死までを、同じ作家である妻が、事実にもとづいた小説にしたもの。舌ガンの治療の途中で膵臓ガンが発見され、その手術が行われた結果膵臓全体と十二指腸、胃の半分を失った夫を懸命に看護する妻の真情が随所で伝わって来る。

その日録の通奏低音はマーラーの「大地の歌」の生も暗く、死もまた暗いという陰陰滅滅たる黄泉の国の調べ。この夫婦の周囲では多くの人々がガンで斃れているのだ。

終始冷静な筆致で描かれてきたこのドキュメンタリータッチの私小説は、最後の最期になって大きな衝撃と動揺と共に劇的な転調をみせる。突如夫は「もう死ぬ」と告げて胸に埋め込まれたカテーテルポートを引きちぎる。それはこれ以上の延命治療を拒んだ作家の決死的な行為、というよりどこか渡辺崋山を思わせる潔い侍の自裁であった。

完璧な遺書をあらかじめ用意し、自分の文学館を作りたいといって来たある町の役人に対して、そういう目的のために税金を投入するのは恐れ多いといって辞退するこの作家は、おのれの恣意で周囲に迷惑を及ぼすことを好まず、人並み外れた廉恥の心の持ち主だったのだろう。

 死を待つのではなくみずから死を準備し、実行し、無意識のうちに南枕を北に変えようと身をねじる夫の姿は壮絶なものがある。しかし「残る力をふりしぼって身体を半回転させたのは情の薄い妻を拒否したからであり、自分はこの責めを死ぬまで負ってゆくのだ」と書く妻は、少し自分を責めすぎではないだろうか。

わたしはあえて言いたい。「節子さん、それはあなたの考え過ぎです。ご主人は混濁した意識の中で誰の助けも借りずに死者になろうとしたのです。あなたは最後まで妻としての義務を果たしたのですよ」と。


幸福は妻と並んで山崎のこもれびプールで平泳ぎする朝 蝶人

Sunday, January 15, 2012

カン・ジェギュ監督の「シュリ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.186

朝鮮半島の緊張が高まる中で北の工作員が南に潜入し、テロ活動を繰り広げる。そしてなんと両国共同開催の世界サッカー戦のさなかに両国首脳を暗殺しようというハチャメチャな話になるのだが、この国家テロルのスリルとサスぺンスに北の最強の美女と南のハンサム捜査員の運命的な恋がからんで、物語は最後のクライマックスを迎える。

んでもって、結局わがロメオは泣く泣く愛するジュリエットを葬り去るんですが、この映画は、酷薄な国家間の対立と戦闘が続く限り、個人のささやかな幸福など虫けらのように押しつぶされてしまうんだ、というひとつの事例を提出して、一日も早く憎悪ではなく愛を、戦争ではなく平和を、と願う反戦映画のようなスタンスをとってはいるものの、そのフィルムの下半身を染めているのは刺激の強い見世物、底の浅いエンターテインメント性ではないだろうか?

戦争以来両国激烈な対立が続いて多くの死者が出ているというのに、その一方の当事者が、この冷酷で悲惨な現実を、一種の見せもの、娯楽としての映画に祭り上げている図太い神経がわたしのような門外漢にはてんで分からない。見ようによっては図太い骨太の反戦映画なのかもしれないが、じっさいに両国の暴力装置が一触即発の国家的対決に明け暮れているさなかにこんな能天気な戦争映画を見物することには、超右翼で保守派の私にはちょっとした抵抗がありました。

わかりました行ってみますてふ息子の言葉を頼もしく聞く 蝶人

Saturday, January 14, 2012

トマス・ピンチョン著「ヴァインランド」を読んで

照る日曇る日第483回

マイケル・ティルソン・トマス指揮、サンフランシスコ交響楽団演奏会のFM放送を聴きながらこの駄文を書いているところ。ヘンリー・カウエル作曲「シンクロニー」の演奏が終わって、今度はクリスティアン・テツラフの独奏によるアルバンベルクのバイオリン協奏曲が始まったが、クールなくせに甘い素敵な演奏だ。いかにもサンフランシスコらしい渋い味を出している。

この小説の舞台は、その北米の都市の北に想定された古き良き時代の架空の街である。この逃げた女房に未練たらたらの子連れの住民ゾイドが、生活保護金めあてにショップのショーウインドウに突撃する1984年夏のシーンから始まって、物語は彼らが黄金色の革命伝説に青春を燃やした60年代、その幻想が露と消えたニクソンの70年代、国家主義が肥大してゆくレーガンの80年代を、その胸奥の苦い記憶を断ち切ろうとするかのように怒涛のように回想し、またしても酒歌女マリファナ乱交の悪夢を再来させながら、LAからハワイ、東京からヴェトナム、メキシコからハリウッド、ラスヴェガス、そしてまたヴァインランドへと登場人物たちを遍歴させ、ひと度は幻視した世界がよみがえる美しい夢を、自虐的に再生しようと虚しくも試みている。らしい。

 醜悪な現実が犯した途方もない愚行を、作者はおのれの大脳前頭葉が全面展開させたこれまた途方もない壮大な虚構と対比させ、「さあどっちが真実だ。ほらほらこっちの方がほんまもんの正史じゃろが」とすごんでみせているようだ。

ふと気が付けば、マイケルとサンフランシスコ響はベト5の太鼓を狂ったように乱打しているぜ。


全ての国に一個ずつ原爆与えてその直後一斉廃棄すればどうでせう 蝶人

Friday, January 13, 2012

東博の「北京故宮博物館200選」を見て

茫洋物見遊山記第76回

寒い寒い木曜日の午前11時に到着して長い列の最後に並びました。会場の入り口に到着するまでに1時間、次いで場内で立ちん棒となって時たまゆるゆると歩むこと3時間、2冊の小説を読了しつつ都合4時間かかって目視することができたのはこの博物館の至宝と称する「清明上河図巻」でした。

10メートルくらいの長さのこの墨絵の絵巻物は、精妙な筆致と巧みな造形で当時の北宋の商都の大川端のにぎわいを描いていましたが、人物も船も橋も街の甍も小さすぎていくらガラス越しに両目を近づけてもろくろく見えやしない。道理でその周囲には大きな拡大図が張り巡らしてありましたが、それとこの本物は色も違うしバランスも異なる。結局見たのやら見なかったのやら分からないままその特別室を出てしまいました。

張拓端筆と称されるこのどこかレオナルドを思わせる写実的な筆致には魅せられましたが、これが中国一の名品かどうかはうかつに語れない。同時代の本邦は平安時代の後期ですが「信貴山縁起」「伴大納言絵巻」「源氏物語絵巻」のようにもっと芸術的に価値の高い優れた絵巻物を輩出していました。

後代の南宋や元の図巻も並んでいましたが最近の琳派の絵画になじんだこちとらの心眼にはどうもしっくりこない。出品の3分の2くらいは清朝の絵や衣装や装飾品やインテリアなどでしたが、わたくし的にはこんなものは豚にでもくれろと言う代物でまったくつまらない。期待していた陶磁器もろくなものがない。多少とも評価できるのは北宋南宋から元にかけての行書のコレクションでした。

中国の国宝的逸物を200も選りすぐったという触れ込みですが、これではまるで羊頭狗肉。新年早々のワーストコレクション。もっともっと凄い作品がこの博物館には秘蔵されているはずです。もしそうでなければ……。

もしそうでなければ、唐天竺の影響を脱して見事に生まれ変わった本邦の諸芸術の価値は、わたくしが考えている以上に、天下無双のレベルに到達しているのでしょう。



相変わらずお前はアメリカの属国だなイランの石油が要らんとは 蝶人

Thursday, January 12, 2012

金子修介監督の「毎日が夏休み」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.185

どうにも会社の生活が性に合わなくなったリーマンと中学でのいじめで登校拒否状態に陥った娘が母親のとまどいや反対を押し切って「なんでもやりますお助け隊」を結成して自主独立していく愛と涙と感動?の物語。

大島弓子の少女漫画が原作なのでどうしても漫画的な描き方になってしまうが、金子監督は手慣れた職人感覚で山あり谷あり最後に栄光ありのハッピーエンディングストーリーを映像化していく。

父親役の佐野史郎もとぼけた味を出しているが、娘役の佐伯日菜子が可愛らしい。たまにはこういう毒気のない映画を見るのもいいものだ。

「毎日が日曜日」となっても忙しいのはなぜだろう 蝶人

Wednesday, January 11, 2012

ジャック・ドレー監督の「フリックストーリー」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.184

アランドロンが1975年に製作・主演した刑事ものサスペンスドラマ。フランスでは国家警察と警視庁の2大警察機構があって昔から仲が悪いそうだが、これは前者に属した実在の刑事が書いた実話を「ボルサリーノ2」の監督が映画化した。

ドロン刑事が追うホシは名優ジャン・ルイ・トランティニャンで、なんでも36件の殺人事件を起こした名うての凶悪犯らしいが、こいつはすぐに拳銃をぶっ放して人殺しをするくせにかっこいい。官僚組織の中でいつも上司のプレッシャーを受けているドロン刑事がいつしか共感を覚えるのも分かるような気がする。

レストランのピアノでピアフの曲を弾いているドロンの恋人役のクローディーヌ・オージェに近づくシーンなどもあやしい緊張感があり、彼女が犯人の眼が優しいと語る箇所もあってこの2人は以前関係があったのではないかという気もしたが、そういうあいまいな演出をしてみせたのであろう。

結局さしもの凶悪犯もドロン刑事の大陰謀にひっかかって捕えられ、死刑に処せられるのだが、全篇に流れるニヒルでアンニュイなモードが好ましい。大取りものとは関係なくキャメラが映し出すパリの街頭や路地やメトロの風景とゆるい時間の流れがかつてのフランス映画の魅力であったが、いまや絶滅に近い希少種となってしまった。ドロンもいつもと違ってあまりカッコつけずに駄目刑事振りを披露していて好感が持てる。


鎌倉の改札口で美しき女性と接吻していた小泉画伯みまかりにけり 蝶人

Tuesday, January 10, 2012

サンクトペテルブルク白夜祭のゲルギエフ指揮「春の祭典」「火の鳥」「結婚」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第242回

これはロシアの指揮者ゲルギエフが創始したサンクトペテルブルグ白夜祭の2008年6月の公演で、ストラビンスキーの有名な3曲が演奏され踊られている。

さいきんいくつかのバレエ団の公演をビデオで視聴したが、いずれもその劇伴音楽がひどい。ともかく美男美女が上手に踊っていればいいという料簡がみえみえで、その結果総合芸術としては無惨な出来で終わっていたのに対し、ここで見られるヴァレリー・ゲルギエフの指揮とマリインスキー劇場管弦楽団、そしてマリインスキー劇場バレエ団の三位一体のパフォーマンスは素晴らしいというも愚かなものがある。

しかし「春の祭典」と「火の鳥」の演奏は思ったよりも大人しいもので、私はいつか耳にしたモントウーと作曲家ストラビンスキー自身による安定した演奏を思い浮かべていた。これはかつてブーレーズがCBSに入れたなにやら激烈なインパクトのある演奏とは対極的な解釈で、ブーレーズ盤では実際には踊れないのかもしれない。「春の祭典」の演出はなんとあの伝説のニジンスキーのものを復活したそうだが、そのどこか一九世紀風の長閑さも昨今の猛々しい物に比べると朴訥なロシアの村落の味わいがあって好ましかった。

「結婚」ははじめて映像で視聴したが、このバレエ団の女性は美人が多くてめっぽう楽しかった。やはりバレエも美形がよろしい。

今日もまた貴兄のペニスうんと大きくしてあげるというメールのみ 蝶人

Monday, January 09, 2012

アメリカン・バレエシアターの「ドン・キホーテ」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第241回

2011年の7月23日に行われた文化会館での来日公演です。レオン・ミンクス作曲のこのバレエはセルバンテスが書いた小説に比べるとどうしょうもなくつまらないが、踊り手に人を得、オケと指揮者を得ればそこそこ楽しめるのですが、これはどこをどうとっても見劣りがします。

そもそもこのバレエ団は世界各国からの寄せ集めで、あまり団としてのキャラにきわだつ特徴や統一感がないので、プログラムと楽団によってはそれが強みにもなれば弱みにもなることちょうどジェームズ・レヴァインとメトロポリタンオペラのごとし。

この公演では幕ごとに加治屋百合子など別々のカップルがプリマを務めるというデタラメな配役をやっているが、チャールズ・バーカー指揮の東京シティフィルが劇伴をあいつとめておりますが、まことに凡庸雑駁そのもの。とかくバレエ愛好者の大半は音楽などどうでもよいのだろうが、見るのも聴くのも退屈で、時間の浪費でした。

30年前のバレエとは男性の踊り手が黒子となって徹底的に女子の美しさを見せつけることに本質があったのに、その後随分と様変わりしたことよ。当時は女子のアウターとパンティーのカラーコーデネートさえちゃんとできていなかったものだ。

それにしても男のダンサーの恥部の異様なまでにこんもりとした盛り上がりはなんとかならないものか。誰よりも愛と平和と民主主義、そして泰平の公序良俗を尊ぶ私などは、あんな醜くけったくその悪い猥褻物をずらずら陳列するくらいなら、いっそ男役はみなあそこをちょん切った宦官だけに限定してほしいと思うのだが、どんなものだろうか?


キトリ:加治屋百合子 バジル:ダニール・シムキン ドン・キホーテ:ヴィクター・バービー サンチョ・パンサ:フリオ・ブラガド=ヤング ガマーシュ:アレクセイ・アグーディン メルセデス、森の精の女王:ヴェロニカ・パールト エスパーダ:コリー・スターンズ 花売り娘:サラ・レイン、イザベラ・ボイルストン キューピッド:レナータ・パヴァム他アメリカン・バレエシアター

音楽:ルードヴィヒ・ミンクス 原振付:マリウス・プティパ、アレクサンドル・ゴールスキー 改訂振付:ケヴィン・マッケンジー、スーザン・ジョーンズ 管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 指揮チャールズ馬鹿 会場:東京文化会館


小泉画伯の遺体を乗せし霊柩車妻のカローラに別れを告げたり 蝶人

Sunday, January 08, 2012

梶村啓二著「野いばら」を読んで

照る日曇る日第482回


これは日経新聞が公募したコンテストで見事グランプリを獲得した小説です。選者の中に縄田なんとかというひじょうにいかがわしいひょーろん家がいるので眉つばで読みだしたのですが、いまどき珍しい史実とロマンを表題の香り高い植物に結実させた秀作でした。なるほどこれならゆうに賞金1千万円に値する作物です。

私はよく知らなかったのですが、世の中には種子の遺伝子情報を売買する種苗産業が国際的なМ&Aを繰り広げていて、たとえば韓国では1990年代に財政破たんした際にキムチ用の固有の白菜、大根の遺伝子情報を持つ種苗会社が欧米系の種苗コングロマリットに買収されてしまったそうですが、そんなこととはつゆ知らず私たちはキムチを美味しく頂いているわけです。

沈黙の遺伝子帝国とも言われるそんな日本の種苗会社に勤務する商社マンが、偶然英国の田舎で日本風の庭園に出会い、庭園の女主人から手渡された150年前の先祖の古びた手記を開くと、そこに登場するのはアーネスト・サトウを思わせる英国の外交官と彼に日本語を教授する謎の美しい大和撫子……。幕末の動乱を舞台にした海を越えた激しく、そして清らかな恋の物語のはじまりです。

結局恋する2人には哀しい結末が待っているのですが、そのロマンスを折に触れて彩るのが本作のタイトルにもなった日本原産の野いばら(野薔薇)。春にはむせるような甘美な芳香と共に白く小さな無数の花弁を付け、秋には深紅の果実を付けるこの美しい植物は、ちょうどこのころに欧米に移植され、後にさまざまな交配を経て今日私たちが薔薇としてめでる華麗な飛躍を遂げるのですが、著者はそんな歴史的事実を踏まえつつ、いわばつぼみの時代の花と人間と国家の象徴としてこの海を渡った植物をいとおしく描写しています。

2人の主人公が囁いたように、あらゆる植物の中で小輪の野薔薇ほど美しいものはない。
それが毎年拙宅の壺庭の上に崖から咲き下る可憐な花をうっとり眺めている私たち夫婦の実感でもあります。

野薔薇咲く崖下の家に棲みにけり 蝶人

異国に咲きはかなく散った燃える恋百五十年後も匂いは失せず 蝶人

Saturday, January 07, 2012

小澤征爾×村上春樹著「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読んで

照る日曇る日第481回

クラシックとジャズに一家言ある作家だからこういう対話集を出してもおかしくはないが、それが小澤征爾とはちょっと意外だった。なんでも村上氏の細君と指揮者の娘さんが仲良くなって家族ぐるみの交際をするようになった副産物らしい。あんまり期待もしないで読み始めたのだが、これが意外なことにとてもおもしろく、あっという間に読み終えて、新年早々良い音楽を聴いたときのような軽い幸福感を味わうことができた。

対談と言ってもほぼ100%小説家が聞き手です。くだんの音楽家に3回ほど時間をとって比較的素朴な質問を発すると、それに音楽家が一生懸命誠実に答える。そのあとでテープの録音を小説家が丁寧にリライトしたものなのであるが、プライベートな時空間における対話であることと、聞き手の切り口が単純で明快で率直にして巧妙なために従来のインタビューや対談からはとうてい聞き出せなかった音楽家の偽らざる本音が、音楽と生活の両面にまたがってじゃんじゃんとこぼれおちる。私のように小澤の音楽をてんで評価しない冷たい人間にとっても望外の収穫がありました。

特に精気がみなぎるのはレコードやCDやDⅤDを視聴しながら2人で感想戦?を戦わせるくだりで、50年代にグールドとバーンスタインやカラヤンが入れたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番のレコードを聴きながら、今は亡きグールドや現役の内田光子の天才やゼルキン父子の思い出を今ここに流れている音楽に即し、ともにスコアを見ながらあれこれ具体的に語るところはものすごく説得力がある。私も彼らと同じ音源を流しながら彼らの発言を読んだが、小澤本人はもちろんだが村上春樹の音楽の読みの深さには秘かに舌を巻いた。これあるから小澤も進んでみずからを開いたのだろう。

マーラーやサイトウキネンやウイーン国立歌劇場、スイスのロール(ゴダールの居住地!)で開催されている国際音楽アカデミーのマスタークラスについても知られざる情報がてんこもり。師事したバーンスタインやカラヤンとの生々しいエピソードはもちろんだが、世界中の行く先々でオーマンディーやベーム、クライバー、ルビンシュタイン、ヨーゼフ・クリップス、ポネル、パバロッテイ、フレーニなどの音楽の先輩たちから与えられた数々の無償の好意と友情を授かったアジアの音楽快男児の持って生まれた幸運を思わずにはいられない。

小説家が、自分は音楽を作曲するようにして毎朝4時から小説を書いているとふと漏らす言葉も意味深い。そういえば漱石、荷風、潤一郎にしろ春樹、光代、弘美にせよ優れた小説家の文章の芯にはそれぞれに固有の音楽が流れているな。


倒れながらよくぞ電話をかけてきた正月6日義母92歳 蝶人

Friday, January 06, 2012

橋爪大三郎×大澤真幸著「ふしぎなキリスト教」を読んで

照る日曇る日第480回

私の家はなぜかプロテスタントであったから、幼いころから教会に通わされて牧師の説教を聞いたり讃美歌を歌わせられたりしたものだ。それで大略キリスト教についてはわかったような気がしていたのだが、本書を読んでとそんなものは一知半解の胡乱な代物のであったとはじめてわかった。

新約聖書ではマタイ・マコ・ルカの共観福音書がメインであると勝手にかんがえていたのだが、その中ではマルコ伝の記述がいっとう古くて、それをもとにマタイ伝とルカ伝が書かれたとか、それに先立って決定的に重要なのはパウロによるローマ人やコロント人などへの書簡で、有名な12人の使徒でもなく、生前のイエスに会ったこともなく、キリスト教徒を弾圧していたこのローマ在住トルコ生まれのごりごりのユダヤ教徒徒が突如イエスは救世主であったと称してその要点をレポートしたのがこの新興宗教のはじまりであり、その後であわててイエスの思い出話をかき集めたのが福音書だったとは知らなんだ。いくつになっても恥はかくものです。

私自身はげんざいは汎神論的な無神論者であり、とりわけイスラム教やユダヤ教やキリスト教などの一神教にたいしてまったく好意を抱けないのだが、それにしても古代オリエントの砂漠地帯に出没した教義すらない超ローカルな宗教が、いつのまにやらこれほど巨大な世界宗教になりあがったことが不思議でならない。

個人的には人だか神だかよく分からないイエス・キリストという人物には興味があるが、神とキリストと精霊が3にして1であるという不可解な「三位一体」説だとか、聖書にはでてこないのに市民権をえた「煉獄」、教祖パウロの後継者と称するローマ法王庁だとか、多くの反対者を異端として弾圧する公会議というのも不条理な存在ではある。

しかしいかに怪しい宗教団体であろうとも、それが西欧世界の社会的文化的中心にあって人類の発展と進歩に絶対的な影響をもたらしてきたことも事実であるから、その正体を追及するこころみもあながち無駄ではない。
本書はそもそもキリスト教とは何か? イエス・キリストとは何者か? について論客の2人が縦横に質疑応答しながら論じた後で、西洋文明の中核を貫くキリスト教の本質について考察するというきわめて時議を時宜を得たハンドブックといえるだろう。


「徳洲会は世界を癒す」というポスターの下でリハビリを受けている妻 蝶人

Thursday, January 05, 2012

内田樹著「呪いの時代」を読んで

照る日曇る日第479回

本書が誕生したきっかけは、著者がある日編集者に「現代は呪いの時代である」と呟いたからだそうだ。これを切り口にして「婚活」「草食系男子」など「日本辺境論」以降の日本および日本人の動向や病根や震災や原発に関する著者独自の文明論が続々と繰り広げられていくのだが、それはぜんぶ本書を読んでのお楽しみということにしましょう。

それで最初に戻って現代は呪いの時代かと自問すれば、わが国は平城平安の時代からずずっと呪いを基軸にして社会全体が変転してきたのだと考えられ、平成の御代になって急に呪いが時代のキーワードになりあがったのではけっしてない。呪いとそのフォローがなければ古事記も日本書紀も源氏物語も平家物語も太平記も法隆寺も北野天満宮もけっして正史に登場しなかったし、本邦の光輝ある文化文明の本源はじつにこの呪いにあるのである。

翻って我が身を顧みれば呪いこそが知情意を牽引し、そのダイナモ役を仰せつかってきたことは火を見るより明らかである。胸に手を当てて静かに考察すれば、呪いの前には優秀な他者への絶望と羨望と嫉妬が先にたち、これの不可能を知るに及んでおもむろに恐るべき呪いの発動がやってくる。

呪いは人間として最悪最低の悪い意志、否定的な情動であるが、いちばんよくないのはその核心部分に他者の全面否定と破壊と殺意が内蔵されているからである。他者への憎悪と殺意は己自身を猛毒で傷つけるのみならず、未来への希望と世界への友愛を損傷し、その挙句に、人を呪わば穴ふたつ。呪う人はみずからも墓穴を掘るのである。

著者は本書で閉塞状態にある社会と暗欝な人心に光をもたらすものは、「おはよう!」「こんにちは!」など祝福の言葉の交換交流と、クールな市場の「交換経済」から友愛あふれる「贈与経済」への転換であると力説しているが、密室の奥でどす黒い呪いに自縄自縛されているわたくしの耳目には、それがどこか遥か彼方の夢物語のように響くのであった。


資本主義でもない社会主義でもない公正主義を空想す 蝶人

Wednesday, January 04, 2012

高橋源一郎著「恋する原発」を読んで

照る日曇る日第478回

なんでもそうだが、大事件のあとで国全体、国民全体が白一色、赤一色に染まるのはよくない。それは闇世界の平成大政翼賛会が推進する精神の自由と民主主義の危機の姿であるともいえよう。

しかし9・11のNYでは「これまで見た最も美しい光景だ」と正直な感想を洩らした建築家がいたし、今度の大震災では「ぼくはこの日が来るのをずっと待っていたんだ」と語った有名人もいるそうで、世間の顰蹙や指弾をものともせずに心中に抱懐した存念を大胆かつ率直に公開するのはとても大事な民衆的行為だと思う。

それを著者も本書でやった。福島原発の大爆発と放射能汚染が帝国とその人民を瀕死の瀬戸際に追いやっているというのに、この小説の主人公の頭にあるのは売れるAⅤのアイデアだけ。来る日も来る日も腐れちんぽとおまんこと最新型ダッチワイフをめぐる下らない性愛の下半身ネタがダダの漫画のようにただただ書き連ねてある。

ここに対比され交錯し衝突しているのは絶望と希望、悲劇と笑劇、知性と痴性、大脳前頭葉と末梢神経、聖と俗、形而上と形而下の世界であり、著者がここで期待したのは相反する要素の弁証法的な調和であったが、その勇気ある壮大な意図が所期の成果を収めることなく不完全燃焼で終わってしまったのは、あらかじめ予想されたこととはいえ、いささか残念なことだった。


この世の不条理と不如意に怒りの津波が押し寄せるとき 蝶人

Tuesday, January 03, 2012

サイモン・ラトル指揮・ベルリンフィルの「フィデリオ」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第240回

2003年のザルツブルク復活音楽祭における演奏ですが、この頃のラトルの音楽は中途半端でいったい何を考え何をやりたいのかさっぱりわからず、せっかくベルリンフィルを起用しながら奏者にも戸惑いが感じられるベートーヴェンです。

演出は才人ニコラウス・レーンホフだが、どうってこともない。フロレスタンにジョン・ヴィラーズ、レオノーレにアンゲラ・デノケ、夫婦の危機をあわやというところで救済する大臣役でトーマス・クヴァストホフも出演しているが、だからと言って公演の熱がヒートアップする気配もなし。

こんな曇り時々小雨のような出しものを見せられる観客もかわいそうな気がするが、それでも終わるとブラボーなぞという手を叩いている。ブーと言え、ブーと言え、この阿呆めがと呟きながらわたしはスイッチを切りました。

ブーと言えブーと言えこの阿呆めがとお前は今年も悪口を言うのか 蝶人

Monday, January 02, 2012

ヤンソンス指揮・ウイーンフィル・ニューイヤーコンサートを視聴して

♪音楽千夜一夜 第239回


2012年の指揮棒を振るのはマリス・ヤンソンス選手。2006年に続く2回目の登場ですが今年の演奏はまことに聴きごたえがありました。前半はそれほどでもなかったが休憩後の「ピッチカート・ポルカ」は息を呑むような名演で、手あかにまみれたこの曲がこれほど新鮮に聴こえたことは一度もなかった。ついで「ペルシャ行進曲」の奇想、「うわごと」「雷鳴と電光」の動的精気、「チック・タック・ポルカ」の喜悦、そして「美しく青きドナウ」の淡麗優美までおもわず膝を正して聞きいるほどの素晴らしい名演の数々。
これまでメスト、小澤、メータ、マゼール、バレンボイム、アーノンクールなどの凡演に接してきたこのロバの耳が久しぶりにヒヒンと鳴いてよろこぶカラヤン、クライバー以来のウインナワルツの歴史的名演奏でした。

テレビの画面で見る限りちょっとやせ過ぎではないかと案じられましたがまだ68歳、バイエルン放響、ロイヤルコンセルトヘボウのシェフを務め、当代随一、現存指揮者世界最高のマエストロの治世は、これからも当分つづくのでしょう。


二晩も塩見洋一の夢を見たり どうしているか塩見君 蝶人

Sunday, January 01, 2012

ショルティ指揮・ウイーンフィルの「魔笛」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第238回

懐かしや今は亡きゲオルグ・ショルティが91年8月8日のザルツブルク音楽祭に登壇してモーツアルトの名作オペラを振っています。

この人はいつもエネルギッシュに鋭角的な切り込みをしますが、序曲もかなりあわただしくはじまる。このぶんではどうなるのかなと危ぶんでいたら幸いにも終わった所で拍手が来たので、ショルティも思わずにっこり。ここからは落ち着きを取り戻した演奏に戻りました。彼の手兵シカゴ響と違って、名代の老舗ウイーンフィルは根拠もなく強引にドライヴされるのを本能的に嫌うのです。

全体的には無難なモーツアルトに終始しましたが、面白かったのはパパゲーノが鈴を鳴らすところで、御大ショルテイみずからがハープシコードで演奏していること。思いがけないサービスに観衆は大喜びです。

しかし演奏よりも見事だったのはヨハネス・シャープの演出、それよりも優れていたのは美術、照明、衣装のアンサンブル。特にアンリルソーを思わせる舞台美術が美しく、これまで劇場やメディアで見聞した様々な意匠を上回るその完成度の高さに驚くとともに、その後20年間の演出家や美術スタッフはいったいなにをしてきたのかと疑わしくなるほどでした。

しかしその演出にも問題があって、ラストの大団円になるとフィナーレの音楽を歌いながら登場したザラストロの僧侶たちの集団が主役のタミーノやパミーノたちを覆い隠して姿が見えなくなってしまう。意味不明のやりくちにいきなりブーが飛んだのは、けだし当然の反応でした。

出演 デオン・フォン・デア・ヴァルト(タミーノ)、ルース・ツィーサク(パミーナ)、アントン・シャーリンガー(パパゲーノ)、エディット・シュミット・リンバッハ―(パミーナ)、ルチアーナ・セーラ(夜の女王)、ルネ・ハーペ(ザラストロ)、フランツ・グルントヘーバー(弁者)、ハインツ・ツェドニク(モノスタトス)演出:ヨハネス・シャープ 1991年8月8日、ザルツブルク祝祭大劇場のライヴ公演

泣け笑え 歌え踊れ 汝幸なる魂よ 蝶人

ショルティ指揮・ウイーンフィルの「魔笛」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第238回

懐かしや今は亡きゲオルグ・ショルティが91年8月8日のザルツブルク音楽祭に登壇してモーツアルトの名作オペラを振っています。

この人はいつもエネルギッシュに鋭角的な切り込みをしますが、序曲もかなりあわただしくはじまる。このぶんではどうなるのかなと危ぶんでいたら幸いにも終わった所で拍手が来たので、ショルティも思わずにっこり。ここからは落ち着きを取り戻した演奏に戻りました。彼の手兵シカゴ響と違って、名代の老舗ウイーンフィルは根拠もなく強引にドライヴされるのを本能的に嫌うのです。

全体的には無難なモーツアルトに終始しましたが、面白かったのはパパゲーノが鈴を鳴らすところで、御大ショルテイみずからがハープシコードで演奏していること。思いがけないサービスに観衆は大喜びです。

しかし演奏よりも見事だったのはヨハネス・シャープの演出、それよりも優れていたのは美術、照明、衣装のアンサンブル。特にアンリルソーを思わせる舞台美術が美しく、これまで劇場やメディアで見聞した様々な意匠を上回るその完成度の高さに驚くとともに、その後20年間の演出家や美術スタッフはいったいなにをしてきたのかと疑わしくなるほどでした。

しかしその演出にも問題があって、ラストの大団円になるとフィナーレの音楽を歌いながら登場したザラストロの僧侶たちの集団が主役のタミーノやパミーノたちを覆い隠して姿が見えなくなってしまう。意味不明のやりくちにいきなりブーが飛んだのは、けだし当然の反応でした。

出演 デオン・フォン・デア・ヴァルト(タミーノ)、ルース・ツィーサク(パミーナ)、アントン・シャーリンガー(パパゲーノ)、エディット・シュミット・リンバッハ―(パミーナ)、ルチアーナ・セーラ(夜の女王)、ルネ・ハーペ(ザラストロ)、フランツ・グルントヘーバー(弁者)、ハインツ・ツェドニク(モノスタトス)演出:ヨハネス・シャープ 1991年8月8日、ザルツブルク祝祭大劇場のライヴ公演

泣け笑え 歌え踊れ 汝幸なる魂よ 蝶人

Saturday, December 31, 2011

謹賀新年

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


正月や生死の際のひとやすみ 蝶人

Friday, December 30, 2011

西暦2011年師走 蝶人狂歌三昧

ある晴れた日に 第102回


「カチューシャ」の転調していくところが好き なんだかワクワクしてくるから
生きる悦びを感じるから

マーラーを好きでも嫌いでもない人がマーラーを名演してもこりゃ詮無いわなあ

痩身長躯で躁鬱でユダヤ人のくせにカトリックで最期にユダヤ教に戻ったクレンペラーのマーラーを聴け

マーラーに神は見えずブルックナーはバッハと同様神を見た人

ハーレムの奴隷となりしデートリッヒ今宵コーランをひとり読むらん

男一匹金玉二つてんでカッコよく死んでやろうじゃん

病院では年齢と生年月日を言わせる。もひとつ「老若男女」と言わせてみなさい

お母さんと西友行きます!お母さんと瀬西友行きます!と叫ぶ君 そうかいもうお父さんとは行かないのかね 行ってくれないのかね 僕の息子のくせに

おいらはイサムノグチの提灯なんて要らないけれど、あの簾だけは欲しい。欲しい。欲しい。

耳を聾せんばかりの大声で電車の遅延を伝えたり鎌倉駅の駅員め

夢の無き国に住まいて夢を見る

一機89億のF35を買わなければいろいろ買えるがな

僻村の孤老となりて冬籠り

喉ちんこ赤く腫れたり午前二時

玉虫を尋ねて行かむ幾千里

ガガズミの赤は野薔薇の赤より紅くしてサネカズラ、ピラカンサ我が家は赤い

じんせいなんてつうつうれろれろつうれれろ 

世の中や粗にして野にして卑なる奴ばかり
 
午前二時また玄関の鐘が鳴る

ダイアナ妃を恋人もろとものみ込みし巴里の暗虚はここにもありしか

WinWinの関係があたくしのコンセプトなどと抜かすこの女狐社長

鎌倉の駅前広場の赤とんぼわれひとともにたそがれてゆく

卑小なる己を神に擬しいと高きところめざす者に呪いあれ

西陽差すしやうぐあい施設の六畳間息子を託し黙して帰りぬ

長身でモデルのように美しい隣家の妻が越す明日かな

年の瀬やバーキンが呉れしリースを飾る

貧すれど貪するなかれ羊雲

かにかくに平成の世も暮れかかる

神仏を一縷の望みと頼りけり


最悪の年がようやく明けたれば少しはましな年が来るらむ 蝶人

Thursday, December 29, 2011

吉田郁子主演・英国ロイヤルオペラの「ロメオとジュリエット」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第236回

このところ毎日バッハのカンタータを聴いていますが、歳末になるとやっぱりバレエがみたくなる。というわけで吉田郁子主演・英国ロイヤルオペラの「ロメオとジュリエット」日本公演の映像を視聴してみました。

お馴染みプロコフィエフの悲恋物語を踊るのは、長らくこのバレエ団でプリンシパルとして活躍したという吉田嬢。まわりはみな巨大な毛唐ばかり。こんなに背丈が低くてちっぽけで痩せっぽちで大丈夫なのかなと心配でしたが、最後まで見事に踊りきったのでやっと安心しました。

この人の技量や迫力が抜群とはさらさら思えないが(その点ではロメオ役のスティーヴン・マックレーは素晴らしい!)彼女の最大の持ち味はそのパフォーマンスの繊細さと相手の男性側の高度の操作性にあるのですね。これが普通の毛唐女であればこんなに軽々と持ち上げたりぶっ飛ばせたりできっこない。パ・ド・ドゥの曲芸的な軽業はじつに彼女あってのものなのです。

私はプロコフィエフの音楽をあまり高く評価できません。本作でも特定の主題を乱用しすぎてくどいし、ピーターと狼のテーマまで流用する必要はないだろう。じつに下らない3流の作曲家だ。演奏はポリス・クルジーン指揮の東フィルでいずれも水準以下の凡演(「ティボルトの死」でも全然盛り上がらない)、ケネス・マクミランの演出はまずまずの出来でした。

出演
ジュリエット:吉田都、ロメオ:スティーヴン・マックレー、ティボルト:トーマス・ホワイトヘッド、べンヴォーリオ:セルゲイ・ポルーニン、パリス:ヨハネス・ステパネク 
2010年6月29日  東京文化会館(東京・上野)


   長身でモデルのように美しい隣家の佳人が越す朝かな 蝶人

Wednesday, December 28, 2011

ジェームズ・ブリッジス監督の「チャイナ・シンドローム」を観て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.183


スリーマイル島の、チエルノブイリの、そして東電福島の原発事故を予見した記念碑的な1979年のハリウッド映画である。

ここでは監督のジェームズ・ブリッジスよりもまず製作者兼フリーキャメラマン役で出演のマイケル・ダグラスの先見の名に深甚なる敬意を表したい。

 テレビ局のキャスター役のジェーン・フォンダも珍しく素直に好演しているが、原発を愛しながら原発の安全性と原発会社の秘密隠ぺい体質に疑問を抱いて苦悩するジャック・レモンの演技が素晴らしい。

フォンダやダグラスの外部からの突っ込みに対して、原発会社の身内のレモンがあるときは会社人間の、またあるときは正義と真実を追及する公正な市民の立場のあいだを揺れ動くさまが、見る者の共感をさそう。そもそも原発で喰っている人間がどうして原発を根本的に批判することができようか。それをあえて身体を張ってやろうとする男を観客は手に汗を握って見詰めるのである。

そして次なる原発着工を目前に控え、事故の真相を隠蔽しようと焦るアメリカ東電は、既存の政治権力と結託してスパイ、脅迫、あまつさえ身内の粛清さえ図ろうとするのだが、これって日本東電の醜悪な現況をなんと30年前に予言していたといえないだろうか?


神仏を一縷の望みと頼りけり 蝶人

Tuesday, December 27, 2011

シドニー・ルメット監督の「ネットワーク」を観て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.182

「12人の怒れる男」「狼たちの午後」「評決」のシドニー・ルメットが今年の4月に86歳で死んでいたなんてぜんぜん知らなかったよ。

彼はつとに社会派の巨匠と評価されているようだが、そんなことよりどんな作品でも役者の存在感を最大限に発揮させている点が評価できる。

テレビというメディアの腐敗と堕落を厳しく糾弾したこの作品では、視聴率獲得のためには人殺しさえも辞さないフェイ・ダナウエイーのあざとい魅力、おのれの主客の立場を喪失して狂っていく人気キャスターのピーター・フィンチの異常なペルソナ肥大、老練ウイリアム・ホールデンの死に際に渋い花を咲かせた演出の膂力が素晴らしい。

 そして1976年という時点でテレビと言うメデイアの本質を鋭く洞察したバディ・チャイエフスキーの脚本にも拍手を惜しんではならない。そして俺たちは
 I'm as mad as hell, and I'm not going to take this anymore!
という叫びをもう一度取り戻そうではないか!


喉ちんこ赤く腫れたり午前二時 蝶人

Monday, December 26, 2011

スピルバーグ監督の「レイダース 失われた聖櫃」を観て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.181

1981年に製作されたこの監督の得意な波乱万丈一大冒険絵巻でやす。

ハリソン・フォード扮するいかがわしい考古学学者インディ・ジョーンズがナチの陰謀と戦いながら世界中を股に掛けて大活躍致しやす。

陸海空を駆け抜ける間にご都合主義のつじつま合わせがあったり死んだはずのヒロインが生きていたりするデタラメもまあ御愛嬌。まずは大人も子供も大口開いて見物できる無害衛生の動く動画。されど何百匹もの実物の毒蛇を登場させているが、たった1匹の蛇で観客を恐怖させたヒッチコックの爪の垢でも呑ませたいものである。

しかし振り返ってみればこのインディ・ジョーンズ、最初から最後までお宝をライバルに奪われっぱなしだったなあ。特にラストで聖櫃の怒りに触れずヒロインと2人だけ命が助かったのはどうしてだろう。聖櫃はナチと非ナチを見分ける叡智を持っていたから?

こんな下らない娯楽映画の大ヒットが名作「ブレードランナー」の興行成績を不振に終わらせたという話があるが、それがもし本当なら残念なことだ。


一機89億のF35を買わなければいろいろ買えるがな 蝶人

Sunday, December 25, 2011

リドリー・スコット監督の「ブレードランナー」を観て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.180

ディックの原作も面白かったが、もっと素晴らしいのがこの映像で、全篇を流れる終末観と虚無感がたまらなくいい。

人間が自分勝手な理由で製造したレプリカンが人間と見まがうような内容と外観に近接すればとうぜん生みの親に反逆するに決まっているが、昨日の友は今日の敵。今度は一転して人類の宿敵となったレプリカンをブレードランナー(ハリソン・フォード)が抹殺を命じられるというお話からして救いようがないのだが、最高の科学技術で精製されたくせに短命な美貌のレプリカン(ショーン・ヤング)がフォードに恋をするとくるから、その切なさもここに極まる。

特に印象的なのは女性レプリカン、ダリル・ハンナを屠ったフォードが強敵ルトガー・ハウアーに徹底的に追い詰められ、あわやというところでハウアーの寿命が尽きてさながら「あしたのジョー」のように雨の中に白く燃え尽きるシーン。見るべき程のことを見、人間フォードの見たこともない光景を見た彼は、平知盛のように世を去るのである。

そうしてラストのフォード&ヤングの逃避行はまるで「心中天網島」の道行きのように哀れで儚い。強力「わかもと」を服用しながら早くも21世紀末の纏綿たる情緒に浸ろうではないか。

夢の無き国に住まひて夢を見る 蝶人

Saturday, December 24, 2011

よしもとばなな著「スウィート・ヒアアフター」

照る日曇る日第476回

震災で亡くなった大勢の無辜の民を悼むために、この作家がみずからも亡き人の在ます世界に沈入して懐かしい人たちとの交わりを深めようとするのは善い事であるし、それは小説家だけに許された特権かもしれない。

京都に住むアーチストとヒロインが乗った車は上賀茂に帰宅する途中で交通事故に遭いあっけなくこの世をみまかる。フリーダ・カーロのように腹に鉄棒を喰らった彼女だけは一命を取り留め、最大の不幸と絶望の中から再生を試みようとするのだが、もしかすると彼女も彼と一緒に死んだのかもしれないし、生きていながら2つの世界を往還する霊魂の背負子のような存在なのかもしれない。

著者がそういう霊界の存在に寛容な人物であることは事実なのだろうが、ここで書かれているような生者死者を超越した父母未生以前の世界を、私は断固否定しようとはいまでは思わない。しかもそれは往々にして私に周辺でも実際に起こっているのだから、なおさらのことだ。

人世は死ねば終りではなく、あの世でかれらも私たちの身内も生きており、その気になればいつでも会って話してなぐさめあう事が出来るという考え方は、私たちにいわば2層倍のおおいなる精神の自由をもたらす。だからガリガリの無神論者たちも霊的なるものの存在を完全には否定したがらないのであろう。

けれども30年以上も前に同じ京都の比叡山ドライブウエイから谷底に転落した知人がたまたま車体頑強なボルボに乗っていたために九死に一生を得たことも知っておく必要があるのだろう。

午前二時また玄関の鐘が鳴る 蝶人

Friday, December 23, 2011

福永武彦著「福永武彦戦後日記」を読んで

照る日曇る日第475回

「廃市」「海市」「死の島」の作者、というよりも池澤夏樹の父である福永武彦の若き日の日記である。

1945年、46年、47年のほぼ3年間におよぶ日記を読んでみると、敗戦直後の生活苦、病苦、芸術苦、世界苦、とりわけ恋愛苦によってこの文学青年が強烈なダメージを蒙り、それがのちの彼の芸術に決定的な影響を、というより傷を残したということがよく分かる。

福永武彦の運命を決定づけたのは若き日に小説も書いていた「マチネ・ポエティック」の同人であった詩人・原條あき子で、この青年の生涯最大の危機をあるときは永遠の毒婦の如く加速させ、またあるときは永遠の童女のごとく回避させた運命的なヒロインが息子夏樹をこの世に誕生させたのだが、この夫婦の対峙関係はどこか島尾敏雄とその妻ミホのそれを思わせる。

1947年の日記は二人の実存がぎりぎりのところで軋み合う有様を、息苦しい緊迫感と臨場感とともに伝え、ある意味では下手な小説以上の迫力であるが、著者が自画自賛する内容を持つ「1949年日記」が発見されたと言うが、その上梓が一日千秋の思いで待たれるのである。


僻村の孤老となりて冬籠り 蝶人

Thursday, December 22, 2011

五木寛之著「私訳歎異抄」を読んで

照る日曇る日第474回

浄土宗と浄土真宗はつくづく革命的な宗教だと思う。仏や悟りや成仏について自力であれこれ苦労してかんがえたり悩んだり難行に取り組んだりするひつようはごうもない。ただただ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えればどんな人間でも極楽往生できるというのだから。即身成仏をめざす真言宗や六根清浄をねがう天台、法華一乗の徒が怒り狂って朝廷に強訴したのもとうぜんだろう。

それまでの宗教がことごとく自力本願であり、近代以降も人間力の根幹は自己の主体性の涵養であったことをおもうと、この他力本願の思想の簡明さと平民性と思考放棄のラジカリズムにはつねに圧倒される。

されど南無阿弥陀仏だけでくよくよ悩まずに天国に行けたらいいけれど、そんな簡単なことで大丈夫なんだろうか、とかえって心配になってくるほどだ。さらに「悪人なほもつて往生をとぐ。いはんや善人をや。」ということになると、いささか行きすぎのようにも思えてくる。

だがさにあらず。親鸞にとってすべての人間はたまには善人にもなることができる悪人であったから、まずそうゆう普通の悪人がはやく現生を卒業して来世で仏になってはやく現世に戻ってきてくれれば、教祖としてはハッピーなのであった。

 ちなみに歎異抄とは親鸞の著作ではない。開祖没後三〇年、その教説をめぐって数多くの「異」説が登場して相争う状況を「歎」いた直弟子唯円のメモランダムなのである。


年の瀬やバーキンが呉れしリースを飾る 蝶人

Wednesday, December 21, 2011

細川重男著「北条氏と鎌倉幕府」を読んで

照る日曇る日第475回$鎌倉ちょっと不思議な物語第255回


「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか?」と自問して始まった本書が、最後の最後に「北条氏得宗は鎌倉将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、またなりたくもなかったのである」と答えて終わると、「なんだそれは?んなこと最初から分かっていた話じゃないか」と文句の一つも言いたくなります。

しかし得宗とは元は「徳崇」であり、それは時頼期以降に贈られた禅宗系の追号であるとか、北条義時は武内宿禰の再誕であり北条時宗が恐怖の独裁者であったとか、そこに行くまでのお話がなかなか面白い。

これは恐らく著者が「あとがき」で真島昌利の名言として引いている
「難しいことはわかりやすく
わかりやすいことは面白く、
面白いことは深く」
という言葉を実践してやろうと気合を入れてぐあんばったからなのでしょう。

しかしながらこの名言の出所は、このギタリストがこの世に生まれおちる前から劇作家の井上ひさし氏が折に触れて唱えていた
「むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをおもしろく
おもしろいことをまじめに
まじめなことをゆかいに
ゆかいなことをいっそうゆかいに」 
という名言のパクリであることは、歴然としています。

歴史の専門家でインテリゲンチャンのはしくれである著者が、そんなこととも知らずに感動しているこのミュジシャンは、かつての「ブルーハーツ」、現在の「クロマニヨンズ」におけるわが偏愛の天才パンク・ロッカー甲本ヒロトのベスト・パートナーなのですが、その彼がヒロトの足元にも及ばぬ凡才であることもきっとご存知ないのでしょうね。


じんせいなんてつうつうれろれろつうれれろ 蝶人

Tuesday, December 20, 2011

小林正樹監督の「切腹」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.179

仲代達矢が主演する格調高い時代劇。寛永6年に井伊家の屋敷で腹を切りたいと貧乏侍が頼みに来る。当時商人を中心とした貨幣経済の波が下層武士階級を食うや食わずの悲惨な状態に突き落としていたが、困り果てた侍がそういう名目で大家を訪れ、いくばくかの金子を貰って引き揚げるケースが頻発していたんだそうだ。

しかしそんな風潮に業を煮やした井伊家の代官(三国連太郎)とその手下たちは、訪問者(仲代達也の娘婿)の表向きの要請どおりに切腹させる、しかも売り払った真剣ならぬ竹光で。その惨たらしい最期を知った義父は息子の敵の代官屋敷に乗り込んで血刀を振るって壮絶な復讐劇を繰り広げる。

幕府の重臣井伊家にあるまじき非人情な仕打ちに抗議するいわば自爆テロで、そのチャンバラの大迫力を求めるのにやぶさかではないが、冷静に考えると竹光での切腹を強要はたしかに非道の仕打ちであるが、そもそもいくら貧困の底に喘いでいるとはいえ、大名家の庭先を借りて自死すると称して金品をねだりに行く根性そのものが浅間しい。

その点をないがしろにして大名家の横暴や自己保身を難詰するという原作シナリオのほうが片手落ちなのである。竹光で腹を切る映画の音楽も武満徹。遠い親戚の五味龍太郎が悪役で出演していて嬉しかったが、それにしても実に後味の悪い映画であった。


ガガズミの赤は野薔薇の赤より紅くしてサネカズラ、ピラカンサ我が家は赤い 
蝶人

Monday, December 19, 2011

ハワード・ホークス監督の「コンドル」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.178


サン・テクジュペリの名作「南方郵便機」「夜間飛行」「人間の土地」「戦う操縦士」をただちに想起させる郵便飛行機をめぐる男の友情物語です。

ただしサンテックスの活動舞台が主にモロッコなど北アフリカの砂漠であったのに対して、これは南米エクアドルの港町。ここはコンドルが棲む高山の麓にあっていつも雨と霧に悩まされなぜか飛行場はいつでも水浸しなのですが、大根役者のケーリー・グラントや名脇役トーマス・ミッチエルなどのあらくれパイロットが活躍する小さな飛行場にNYの踊り子ジーン・アーサーや麗しのリタ・ヘイワースが紛れ込んで来てお馴染みの恋のさや当てがはじまります。

しかし本作の主題はそういうやわなラブロマンスではなく、命知らずのヒコーキ野郎の大冒険。高度1万フィートで操縦席にコンドルが飛び込んできたり、(その前に岩山に盤踞する彼らにニトログリセリンの爆薬を投下した報いか)、宿敵と思われた男との涙ぐましい和解があって、最後の最後にハッピエンドとなるのです。

粗にして野であるが卑ならざるハワード・ホークスの名品です。


世の中は粗にして野にして卑なる奴ばかり 蝶人

Sunday, December 18, 2011

ワルター指揮コロンビア響の「モーツアルト選集」を聞いて

♪音楽千夜一夜 第235回


超廉価CDの元祖ソニー・クラシカルGがまたまた贈ってくれたブルーノ・ワルター最晩年のモーツアルトの花束です。後期6大交響曲に加えてアイネクライネ、ドイツ舞曲、フランチエスカッチと組んだヴァイオリン協奏曲やニューヨークフィルと入れたレクイエムまで、たった1枚331円で6枚組のすべてステレオの名演奏が手に入るのですから、これは買わない方がどうかしています。

いずれもつとに定評のあるロマンチックなもので古き良き時代のモザールを堪能できますが問題は音質。この最新型24bitのCD録音はまたしても耳に痛い金属的なヒスを連発。手持ちのLPの優しさや豊かさなどはどこかに消し飛んでしまったようです。

ブダペストSQといいジュリアートSQといい、この会社の音響技術者の音楽性の無さには毎度のことながらウンザリさせられます。


WinWinの関係があたくしのコンセプトなどと抜かすこの女狐社長 蝶人

Saturday, December 17, 2011

ジョルジュ・プレートル指揮ウィーン響の「ブッルクナー交響曲第8番」を聞いて

♪音楽千夜一夜 第234回

いわずと知れたブッルクナーの代表的な破綻蝶作品をプレートル指揮ウィーン響がものの見事に僅瑕すらないライヴ演奏してのけまする。

マーラーの時とまったく同じ手口で、お客様はみなイワシ、ユアーン、ユヤーン口あんぐりと意味謎不明の拍手喝采で、おもわずこっちも手を叩きそうになりますが、どうにもこうにも似ても焼いても喰えない、いや飲めない真水のように透明な演奏。朝比奈やシューリヒトやクナやフルヴェンやヴェームやヴァントやチエリビダッケのような濁りやにがりが、いっさいありまへん。

朝比奈を除いて優れた西欧人の演奏では、ときどきまぎれもなき神、あるいは神のやうなもの、もののけ的にが顕現して、「ふむ。やはり神は存在するのだ」とおもわず頭を垂れてしまう奇跡的な瞬間が訪れることもままあるのですが、プレートルに限っては全然ない。てんで無い。金輪際無い。

おそらくこの合理主義者は我々日本人と同様にキリスト教の神なんて信じていないのでしょう。だから悪い演奏だと言うておるわけではないのですが。


マーラーに神は見えずブルックナーはバッハと同様神を見た人 蝶人

Friday, December 16, 2011

井上ひさし著「一分ノ一」下巻を読んで

照る日曇る日第473回

我らが主人公は、分断された日本の再統一を夢見るソヴィエトによって占領された北ニッポン国の地理学者サブロー・ニザエモーノヴィッチ・エンドーこと遠藤三郎。

彼は、少数の味方を敵の警察やスパイの魔手によって次々に失いながらも、入手した7枚の偽の身分証明書を使いながら、幾たびもの死地と窮地をあやうく逃れに逃れ、ついに中央ニッポン国六本木交差点付近のモスクワ芸術座付属トウキョウ俳優座劇場にたどりつき、名女優コマキーナ・カズートヴナ・クルハレンコの献身と劇場スタッフの協力によってテレビ出演を果たし、全国の隠れ統一熱望者たちの決起をうながす。

救国の英雄となった遠藤三郎の輝かしい存在を知ったニッポン人たちはようやく蜂起し、東京の各地でデモや武装闘争が開始されようとしていたが、肝心要の主人公は対日理事会からの死刑宣告を受け、執拗な敵スパイからの攻撃と追及、卑劣な脅迫の前にひとたびは転向を決意するのであった。

が、しかし、しかし、火山噴火口上の西郷隆盛の如く、203高地直下の乃木希典の如く、怒れる若者たちによって祭り上げられた神輿状態に陥った遠藤三郎は、再び戦場に返り咲き、世界最終戦争の渦中に飛び込むことを決意する。

さあこうなったら乗りかかった船、平成4(1992)年から足掛け7年41回の断続的連載を経たこの冒険ファンタジー超大作は、平成22(2010)年の著者の死去にもめげず、泉下の「小説未来」にて永久連載の栄光の道を辿ることとなったのであるうう……。

玉虫を尋ねて行かむ幾千里 蝶人

Thursday, December 15, 2011

奥富敬之著「吾妻鏡の謎」を読んで

照る日曇る日第472回$鎌倉ちょっと不思議な物語第254回


何の期待もなくたまたま手に取ってしまった一冊の本でしたが、長年に亘って吾妻鏡を読み込み独自の研究を続けてきた著者によるこの遺著は、予想外の収穫がありました。

鎌倉幕府の終わりが近づいたころに編まれたこの本は、もちろん「北条氏による北条氏のための北条氏の歴史書」なのですが著者は類書とはまったく別の視角からその問題点を次々に俎板に載せて筆鋒鋭く疑惑を解明してゆきます。

例えば富士川合戦など実在しなかったこと、平家よりももともと源氏のほうが水軍に強かったこと、鎌倉幕府の成立は頼朝ゆかりの御家人が自主的に一揆(決起して同盟の契りを結んだ)治承4年12月12日の亥の刻であること、その「一揆」組の統一と団結に逆らって自分勝手な「独歩」を敢行し、兄の乗馬を曳くのが武士として極めて名誉なことであることにすら無知で下賤の身であったからこそ、頼朝は義経を切り捨てたこと。

そしてこの「独歩」を粛清して「一揆」を守ることが鎌倉幕府の組織原理であったこと、「独歩」路線を強行する(北条氏を除く)あまりにも強大な御家人の長(下総介広常、梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛等)は、その組織原理からもたらされる「権力の平均化」政策によって粛清されるが、その場合でも一族を皆殺しにすることは頼朝以降もなかったこと、実朝暗殺の真相をもっとも正確に伝えているのは「吾妻鏡」ではなく「愚管抄」であり、暗殺の黒幕は意外にも北条義時ではなく三浦義村であり、暗殺者公暁の協力者がいた鶴岡二十五坊には多くの平家の残党が僧侶に姿を変えて潜んでいたこと、

などなどが、豊富な文献証拠と著者ならではの鋭い推理と直観できわめて大きな説得力をもって論証してあります。本書は、これから鎌倉幕府と「吾妻鏡」を研究しようとする人にとって必読の書といえるでしょう。

Wednesday, December 14, 2011

県立近代美術館で「シャルロット・ペリアンと日本」展を見て

茫洋物見遊山記第75

本邦では初、そしてニュヨーク近代美術館、巴里私立美術館に次いで世界で3番目に設立されたこの鎌倉の公立公共美術館であれやこれやの展示を見るのは、小生のこよなき喜びですが、小春日和の今日はシャルロット・ペリアン嬢のインテリア展を見物する機会に恵まれ、有り難く天に感謝を捧げたことでした。

シャルロット・ペリアン選手は1903年に巴里に生まれたのデザイナーで、ル・コルビジュのアトリエで、インテリアの苦手なこの大建築家のアシスタントを務めていたキュートな女性です。

同じアトリエでわが国の前川國男、坂倉準三とも同僚であった彼女は、1940年のヒトラーに因るパリ陥落のまさにその日に祖国を去って、客船白山丸で来日、わが国商工省の輸出工芸指導顧問として破格の高給で迎えられ、東洋と西洋を衝突・融合・再編集する、当時としては異色のデザイン世界を創造しました。

特に河井寛次朗郎、柳宗悦などわが国の「民藝」運動の推進者との出会いによって竹や木などの自然素材の特性を生かした机や長椅子や家具や調度品が次々に誕生し、それらは1941年に高島屋で開催された「日本創作品展覧会」を通じて全世界に発信され、住宅内部装備のデザイン革新に後々まで大きな影響を与えることになったようです。

46年の帰国後も彼女と日本デザイン界の密接な関係は坂倉準三との交友と共に長く続き、99年に死去するまで53年の「コルビジュ、レジェ、ペリアン3人展」や日仏のエールフランスのオフィスデザイン、在仏日本大使館のインテリアデザインなど数多くの優れた成果を残し続けましたが、そんなことはどうでもよろしい。

会場を入ってすぐ左手に陳列されている秋田の竹を使って精巧繊細に仕上げられたいくつかの小さな簾(すだれ)を見るだけで、当時弱冠38歳だったこのデザイナーの類まれなる才能が誰の眼にも明らかでありましょう。

おいらはイサムノグチの提灯なんて要らないけれど、あの簾だけは欲しい。欲しい。欲しい。蝶人

Tuesday, December 13, 2011

プラド美術館所蔵「ゴヤ展」を見て


茫洋物見遊山記第74

昔むかしスペインを訪ねてこの美術館の壮大さとその所蔵コレクションの膨大さに圧倒されたことを思い出しました。

もうすぐ会期が終わりそうなので駆けつけて一覧しましたが、ざっと半分がゴヤの闘牛や戦争の惨禍を主題とした画面の小さな素描だったので、見るのにひどく疲れてしまいました。これらは画家の私小説あるいは内面の極私的な独白のような趣があって丁寧に見て行くととても興味深いものがありますが、素描の過半数が西洋美術館の在庫品なのでちょっとガックリ。プラド美術館所蔵のなどと謳っていますが、総数123点のうち37点、その他の国内美術館のかき集め6点を加えると、およそ3割近くがプラド以外の収蔵品なんて、すこしく羊頭狗肉の展覧会ではないでしょうか?

プラド本体のゴヤはこんなものではなく、それこそ見飽きて腐るほどあるのです。しかもその作品をずるがしこいキューレーターたちが、やれ「創意と実践」だとか「嘘と無節操」、「不運なる祭典」「信心と断罪」などと小賢しい惹句をつけて、それでなくとも疲弊した我々観客の目をあらぬ方へ誘導しようとする。我等はあなた方の固定観念の押しつけなぞ必要としていない。それぞれの自分の目で勝手に見るだけのことです。どうかほおっておいてください。

と、罵詈雑言の限りを尽くしながらも、たった1500円でバルセロナに行かないで素晴らしいゴヤの「自画像」や「日傘」をこの眼で心ゆくまで眺めることができたのは望外のよろこび。有名な「着衣のマハ」はさして傑作とも思えませんが、「日傘」の色彩の美しさと取り合わせの妙は、見れば見るほど生理的な快感を覚え、人もまばらな雨の午後に時の経つのも忘れてしまいました。

ゴヤの油彩にはちょっとルノワールに似た浮遊感がかんじられ、(よく見ると人物像は下地からわずかに浮き上がるように描かれている)それが私たちを一瞬、このせちがらい現世を超脱した夢見心地に誘ってくれるのです。もしかするとこの画家は、戦争や殺戮や巨悪などの過酷な現実と地獄を見据える生活者の視線を素描の連作に、地上の楽園を夢想する幻視者の視線を初期・中期の油彩に定着しようとしていたのかもしれませんね。

お母さんと西友行きます!お母さんと西友行きます!と叫ぶ君 そうかいもうお父さんとは行かないのかね 行ってくれないのかね 僕の息子のくせに

蝶人

Monday, December 12, 2011

ブリジストン美術館で「野見山暁治展」を見て


茫洋物見遊山記第73

90歳になんなんとする、いや確かもっと年長組のはずの洋画家の一大回顧展覧会である。

画家は福岡の飯塚炭鉱の近辺で生まれた人らしく、幼時の記憶がボタ山とリンクしていて、その黒グロとした影像が、渡欧したベルギーの橙色の鉱山とオーバーラップしていく。

長い海外生活は彼に表層の自由と色彩の氾濫を与えたが、それはうわべだけの虚飾に過ぎず、帰国した画家は本邦の本来本然の実在と激しく格闘するようになる。

しかしそうやって悪戦苦闘しているうちに90年代にはそういう堅苦しい問題意識そのものがどうでもよくなって、というか無化されていき、ついに2000年代に突入すると武者小路実篤的ないわば無為にして化すとでもいう風な融通無下の心境に至りそうになるのだが、このいっけんよさげな行き方を、わたくし的には断固寸止めしてくれないと困る。

あなたのそのトレンドを、かの一休禅師や老子に比べると、たといおヌシが百歳になろうがまだまだ洟垂れ小僧の遊びの世界にとどまるに違いない。失礼ながら、貴君が戯れに描いた最新版の自画像に、その最高の到達点と遥かな未達点がともに明示されているではないか。

ああ、まことに芸術は長く、人世は短い。

病院では年齢と生年月日を言わせる。もひとつ「老若男女」と言わせてみなさい。蝶人

Sunday, December 11, 2011

国立新美術館の「モダン・アート、アメリカン展」を見て


茫洋物見遊山記第72

珠玉のフィリップ・モリス・コレクションと副題されたこの展覧会では、第1章「ロマン主義とリアリズム」とか第10章「抽象表現主義」というタイトルが付された全部で110点がずらずら並べられていたが、ちょっとカッコつけ過ぎ。こっちは要するに現代アメリカ美術を見に来ているのだから様々な意匠とこざかしい分類なんて無用の長物なのである。

それなりによく描かれ、それなりの絵画的意義を持ちながら、私の目と心から冷たく無視されて通り過ぎていった数多くの作品は今ではどこに消えていったのか今では誰にも分からないが、とどのつまりはジュージア・オキーフが小屋や葉を描いた作品と、エドワード・ホッパーによる「日曜日」と「都会に近づく」が、ただそれだけが私の存在に激しく呼応して白い壁から立ち上がった。

ホッパーの作品は、どれも現代人の孤独な精神の不安な様相を不気味に象徴しているが、とりわけ「都会に近づく」はその最たるもので、都会に近づきながらトンネルに吸い込まれている車道のその左端にあるトンネルの暗闇は、あの英国皇太子妃ダイアナをのみ込んだ穴よりも不気味で昏いのであった。

ダイアナ妃を恋人もろとものみ込みし巴里の暗虚はここにもありしか 蝶人

Saturday, December 10, 2011

エーファ・ヴァイスヴァイラー著「オットー・クレンペラー」を読んで


照る日曇る日第471回&♪音楽千夜一夜 233

その指揮者がやる音楽と政治的志操は無関係だと言い切ったあとでも、潔癖無比だった剛直なトスカニーニのように、出来ればカラヤンがナチ党員ではなく、フルトヴェングラーがヒトラーの誕生日に演奏なんかせずにいてほしかった、と思わずにはいられない。

では私がその音楽と人柄を偏愛するオットー・クレンペラーがどうだったかというと、なんと彼は1922年の12月にトスカニーニが蹴っぽったムッソリーニの臨席するスカラ座演奏会で「ファススト党讃歌」を嬉々として振ったというから、嫌になる。

どうもこの極度の躁うつ病を周期的に繰り返したこの指揮者は、つねに音楽と自分の病気と狂気と突発的な恋愛に激烈に囚われるあまり、時の政治的空気を読む能力が異常に弱かったように思われる。

けれどもクロール・オペラで彼の初期の音楽的黄金時代を築くことに成功していたクレンペラーは、1934年にはユダヤ人狩りがをきわめたオーストリアから家族ともどもちゃっかりロサンジェルスに亡命して当地の交響楽団を手兵にし、シェーンベルクやパウル・ベッカーなどの亡命者と激しい内紛を繰り返しながら、「第2の人生」のキャリアを築き直したわけだから、たいしたものだ。

しかし本書によればそこから彼の最悪の危機がはじまる。彼の生涯でたびたび繰り返された重度の障碍にまたしても陥ったクレンペラーは、脳腫瘍の手術のあとで髄膜炎に襲われてロスフィルを解雇され、糟糠の妻を裏切って若い美女に入れ上げて心中をはかり、その後も火傷や骨折や災難や事故を引き起こしながら世界中を放浪した挙句、ようやく1959年になって名プロデューサー、